平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

第59代 宇多天皇

2013-02-24 19:35:54 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  867~931
☆在位期間 887~897

☆両親

 父・ 光孝天皇 母・班子女王

☆略歴

 当ブログ内のこちらのページより転送しました。

 光孝天皇の第七皇子。名は定省。かなり早い時期に、尚侍藤原淑子(藤原長良女・基経妹)の融子となる。

 元慶年間(877~885) 元服。侍従に任じられ、陽成天皇に使えた。

 元慶八年(884) 父、時康親王、関白藤原基経の推挙によって即位(光孝天皇)。定省、他の光孝天皇の皇子皇女とともに臣籍に降下し、源姓を賜る。

 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。定め省、養母の淑子の尽力もあり、急遽即位。宇多天皇となる。一度臣籍に降下した物が即位するという初めての例となった。
 宇多天皇の治世は、阿衡事件という紛争もあったが、紛争の決着後は摂関家との融和を計った。また、先例にとらわれず様々な改革を執り行った。(清涼殿を天皇の常御殿に定めたり、賀茂臨時祭を始めたり、遣唐使の派遣を停止したりしたことなど。)

 寛平三年(991) 関白藤原基経が薨ずると、摂関を置かずに自ら政治を執り行った。その後、菅原道真を重く用いた。なお、道真は宇多天皇の引き立てで右大臣にまで昇進するが、天皇の退位後、昌泰四年(901)に太宰府に左遷された。

 寛平九年(897) 第一皇子敦仁親王に譲位(醍醐天皇)。

 昌泰二年(899) 十月、権大僧都益信を戒師として落飾。同じ年、念誦堂としての八角堂(円堂)を仁和寺内に建立した。

 延喜四年(904) 仁和寺の南西に御所を営み、常時の御在所とした。
 こうして宇多上皇は、仁和寺を御所としたが、他にも朱雀院、河原院、亭子院、宇多院などにも住んだ。後宮には多くの女性を侍らせ(歌人の伊勢や、藤原時平女の褒子など)、歌会や饗宴を催したりして、優雅な生活を楽しんだ。また各地の名所・仏閣に御幸したりした。その一方、醍醐天皇の治世への監視も怠らなかったようである。

 承平元年(931)七月十九日 仁和寺御室で崩御。遺骸は仁和寺奥の池尾山で荼毘に付され、のち大内山陵に改葬された。

 天皇在位中は政治に没頭し、退位してからは遊興三昧、なかなか興味深い生き方をなさった天皇さんだと思います。宇多さんを政治から遠ざけた(醍醐天皇への監視を怠らなかったと言っても、生活の中心はやはり遊興だったと思うので)原因は何だったのでしょうか。やはり、菅原道真の左遷を止められなかった自責の念があったのだと個人的には思います。


☆父方の親族

祖父・仁明天皇 祖母・藤原沢子(藤原総継女)

主なおじ

 道康親王(文徳天皇) 宗康親王 人康親王 本康親王
  常康親王 源多 源光

主なおば

 久子内親王(伊勢斎王) 時子内親王(賀茂斎王) 新子内親王

主ないとこ

 惟仁親王(清和天皇) 惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 恬子内親王(伊勢斎王) 
 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王) 源能有
  (以上、 父は文徳天皇)

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 (以上、父は人康親王)

 元子女王(伊勢斎王 父は本康親王)


☆母方の親族

 祖父・仲野親王(桓武天皇皇子) 祖母・当麻氏

おじ

 平茂世 輔世王 季世王 房世王 秀世王 当世王 基世王
 潔世王 実世王 十世王 在世王 康世王 則世王 惟世王

おば

 宜子女王(伊勢斎王)

主ないとこ

 平好風(父は平茂世 平貞文の父)


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)

 ○是貞親王 ○是忠親王 *源国紀

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)

 ○為子内親王(醍醐天皇妃) ○綏子内親王(陽成天皇妃) *源和子(醍醐天皇女御) *繁子内親王(伊勢斎王)

主な甥と姪

 興我王 源 宗于*百人一首28番目の歌の作者(以上、父は是忠親王)

 源 公忠*三十六歌仙の一人(父は源 国紀)

 勧子内親王(母は為子内親王)

 常明親王・式明親王・有明親王・慶子内親王・韶子内親王・斉子内親王(伊勢斎王)
  (以上、母は源和子)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原温子(藤原基経女) → 均子内親王

 藤原胤子(藤原高藤女) → 敦仁親王(醍醐天皇) 敦慶親王 敦固親王 敦実親王 柔子内親王(伊勢斎王)

 橘 義子(橘広相女) → 斉中親王 斉世親王 斉邦親王 君子内親王

 菅原衍子(菅原道真女) → 斤子内親王

 藤原褒子(藤原時平女) → 行明親王 雅明親王 載明親王

 伊勢(藤原継蔭女)*のち、敦慶親王との間に中務をもうける。


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 宇多天皇は、31歳で藤原胤子との間に生まれた敦仁親王に譲位します(後の醍醐天皇)。その後は、醍醐天皇の皇子たち、そして、その子孫に皇位が継承されていきます。

・宇多源氏
 宇多天皇の子や孫の何人かが臣籍降下し、源氏姓を賜りました。そのうち最も栄えたのは敦実親王(醍醐天皇の同母弟)流だと思います。そこで、敦実親王の子孫たちのうち、私が注目している方々を紹介したいと思います。

 敦実親王は有職に詳しく、また音曲を好み、笛・琵琶・和琴等をのちに伝えました。そんな親王の子には、源雅信、源重信、大僧正寛朝・雅慶がいました。

 そのうち、雅信と重信の子孫の何人かを記載してみます。

・源雅信の子孫
 左大臣にまで昇進した源雅信には、藤原朝忠女の穆子との間に時叙、時通、倫子、女子(藤原道綱室)、藤原公忠女との間に時中、藤原元方女との間に扶義、他に女子(致平親王室)などの子女をもうけました。雅信の子や孫には「え、この人も」という方が多いので、ややこしい話になりますが、紹介したいと思います。

源 時中の孫
 大納言にまで昇進した時中の子供の1人に済政がおり、その子供が源資通です。資通さんは、私の過去の記事にも登場していますので、名前を挙げさせていただきました。

 彼は、後一条天皇御代の伊勢斎王となっていた(女専)子女王の裳着の勅使として、伊勢に赴いています。
 また後に、「更級日記」の作者と春秋の歌の贈答をしています。その時の資通の役職は蔵人頭だったそうです。なので、祐子内親王に仕えていた孝標女と会う機会があったのでしょうね。

源 倫子の子供たち
 倫子は摂関家の栄華を極めた藤原道長と結ばれ、頼通、、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条天皇後朱雀天皇の母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇の東宮の時の妃・後冷泉天皇母)をもうけました。つまり、宇田天皇の血は天皇家に再び戻ってきたわけです。

 なお、倫子の同母妹は道長の異母兄、道綱の室となり、兼経をもうけました。

源 時通の子供たち
 時通は兄弟の時叙と共に若くして出家してしまったようですが、雅通、彰子の女房となった小少将といった子女を残しています。

源 扶義の子供たち
 扶義の子には、日記「左経記」を残した経頼(能書家藤原行成の娘婿)、彰子の女房となった大納言の君などがいます。

*小少将が扶義の女で、大納言の君が時通の女であるという説もあります。

致平親王室
 村上天皇の皇子致平親王の室となった女は、親王との間に成信をもうけました。成信も、若くして出家しています。雅信の子孫には若くして出家した方が多いようです。


・源 重信の子孫たち

 雅信の弟で、左大臣にまで昇進した重信には、致方、相方、道方などの子女がいます。

 そのうち、道方の子に百人一首71番の歌の作者、経信がいます。経信は大納言まで昇進しました。

 更にその子が、百人一首74番の歌の作者、俊頼、そして俊頼の子が百人一首85番の歌の作者、俊恵法師です。百人一首に三代で歌が採られているこの方々が、宇多源氏だと知ったときは驚きました。

 ところで、上の方で敦実親王について、「音曲を好んだ」と書きましたが、子孫の方々には笛や琵琶など、管弦に才能を発揮した方が多いです。雅信、重信をはじめ、時中、資通、経信など…。敦実親王の血を強く受けたのでしょうね。

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近況

2013-02-14 10:59:03 | えりかの平安な日々 10~18
 久しぶりに日記を書きます。

☆系譜から見た平安時代の天皇
 約1年ぶりに更新しようと思い、現在、「宇多天皇」を下書き中です。

 宇多天皇の略歴に関しては、以前、こちらのページで書いたものをそのまま使うことにしました。
それで、 父方の親族、母方の親族、兄弟姉妹と甥と姪の下書きが終わったので、あとは后妃と皇子・皇女、それと末裔たちを残すのみです。末裔たちに関しては、敦実親王の子孫たちを中心に書いてみようと思っています。

 それにしても、親族の多さにはびっくり~。なので私の判断で、有名な方のみを記載しました。光孝天皇を作成するときはもっと人数が多そう。誰を書いて誰を外すかに関しては宇多天皇以上に悩みそうです。

☆足の運動
 昨年の暮れ、重いタンスをパソコンの部屋に運び入れたら疲れてしまい、その日はぐったりしていました。
 また、石油の缶を玄関から洗面所まで(それほど距離はない)運んだら息が切れましたし、毎日の布団の上げ下ろしのあとも、疲れて胸がどきどきしていました。
 それと、4週間に1回、電車に乗って病院に行くのですが、いつも血圧は150くらいになるし、脈拍も100近くになってしまっていました。先生に言わせると、「急に動き回るからではないか」とのことでした。

 それで、「これではいけない」と思い、3週間くらい前から足の運動を始めました。毎日約15~20分くらい、軽いストレッチと駆け足をやっています。そうしたら、少しずつ効果が出てきました。

 まず、足の力が強くなったという感じがしてきました。布団の上げ下ろしをやってもそれほど疲れません。

 そして先週金曜日の病院診察の時、血圧を測ったら126/76とばっちり正常値でした。脈拍は80とやや速いものの、これまでの100近くに比べればだいぶ遅くなっていました。
 それで先生に、足の運動をやっていることを話したら、良いことだから続けるように言われました。

 この日は病院が終わったあと、友人と待ち合わせてお買い物。まず私の買い物につき合ってもらったあと、友人の買い物におつき合いしたので、たくさん歩きました。携帯電話の万歩計は8000歩近くになっていました。
 これだけ歩いた翌日は必ず、足が筋肉痛になっていたのですが、土曜日の朝、布団から出て立ち上がってみたら痛くない。これも足の運動の効果なのかなと嬉しくなりました。

 そんなわけで、体調が悪くて出来ない日もあるとは思いますが、なるべく毎日、足の運動を続けていきたいと思っています。

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兼明親王 ~皇族から臣下へ、そして、再び皇族へ

2013-02-06 09:23:37 | 小説風歴史人物伝
 今回は、私が以前から気になっていた、「源氏物語」にも影響を与えた兼明親王を紹介したいと思います。天皇の皇子に生まれ、臣籍降下して左大臣にまで昇進するものの、突然、再び皇族の身分に戻されてしまうといった、波瀾の生涯を送った方です。

 では、彼の生涯を年代を負って書いてみます。そのあとに、関係者へのインタビューも載せてみました。相変わらず妄想炸裂です。

☆兼明親王(かねあきらしんのう) 914~987

 父は醍醐天皇 母は藤原菅根(藤原南家)女の淑姫(醍醐天皇更衣)

☆延喜十四年(914)

 誕生。成年は同じく醍醐天皇の皇子で、後に安和の変で失脚する源高明(母は源唱女周子)と同年。
 なお、外祖父の菅根は文章博士出身で、蔵人頭も勤めていたので醍醐天皇と親しかったのではないか。

☆延喜二十年(920)

 源姓を賜り臣籍降下。源兼明となる。

☆承平二年(932)

 従四位上に叙せられる。

☆天慶七年(944)

 参議に任じられる。

☆天暦七年(953)

 権中納言に任じられる。

☆康保四年(967)

 大納言に任じられる。

☆安和二年(969)

 安和の変により、源高明が失脚。兼明も、高明と兄弟という縁から、一時昇殿を止められる。

☆天禄元年(970)

 藤原道綱(父は藤原兼家、母は蜻蛉日記作者)の元服に際し、加冠役をつとめる。
 兼明は交際嫌いだったようですが、藤原兼家とはある程度親しかったのではないかと思います。

☆天禄二年(971)

 左大臣に任じられる。
 このように、兼明はわりと順調に出世をしていました。ところが…、

☆貞元二年(977)

 藤原兼通の謀略によって親王となり、政権より遠ざけられた。中務卿に任じられるが、これは親王の名誉職とも言える官職で、実権はない。

 「え、どうして?」って感じです。

 そこで、兼通さんの堀河第を訪ね、直接事情をうかがうことにしました。

「ああ、その通り、まろが兼明さまを追い落としたのだよ。」と、兼通さんはあっさりと認めました。

「それってもしかして、兼通さんと兼家さんの兄弟の仲が悪かったのが原因なのですか?」

「元々兼家のやつ、弟のくせにこざかしいやつだった」。
と、兼通さんは忌々しそうに言いました。

「あいつは、父上(藤原師輔)ばかりではなく、先々帝村上の帝や実頼おじ、師尹おじ、さらに伊尹兄上に要領よく取り入っていた。このままだとあいつに追い越されてしまう。まあ、本当に追い越されてしまったのだが。あとのことになるが、公卿になったのもあいつの方が先立ったし。弟に追い越された兄は惨めなものだ。」

「それで兼通さん、策を練ったのですよね。」

「その通り。そこでまろは考えた。そうだ、村上の帝の后、安子さま(藤原師輔女・つまり兼通の姉妹)を味方につけようと…。
 まろは安子さまのところに行き、一筆書いて下さるように頼んだ。摂関の職は兄弟の順にせよと…。そうすればあいつに追い越されても、兄上のあとはまろが関白になれる。安子さまはそなたの言うことは筋が通っているとおっしゃって下さり、ありがたく起請文を書いて下さった。まろはその起請文を首にかけ、片時も離すまいと決心した。

 やがて安子さまは崩御され、数年後、伊尹兄上も亡くなられた。そこで次の関白を誰にするかが問題になった。兼家のやつは、自分が関白になれると大はしゃぎしていたようだが、そうはさせぬ。

 まろは今上帝のもとに行き、安子さまの書かれた起請文をお見せした。帝は確かに母上の文字であるとおっしゃられ、まろを関白にして下さった。

 しかし、まろが政務を執るのに邪魔になるのは兼家だ。そこでまろは考えた。人が良くておとなしく、まろとも仲の良いいとこ、頼忠どのを引き立て、左大臣にしてあげようと…。しかし、それには左大臣の兼明さまにやめてもらわなくてはならぬ。それで左大臣は病気だという噂を流し、やめさせようという雰囲気に持って行ったのだよ。この試みは大成功だった。さらに兼明さまは兼家めと仲が良い。兼家派の有力者が1人減ったわけだから、一石二鳥だ。
 そんなわけで、まろにもしものことがあったとき、関白職をお譲りするのは頼忠どのだ。兼家めには絶対に譲らぬ。」

 兼通さんは語り終えると満足そうに口元を撫でました。

 それにしてもお気の毒なのは左大臣から中務宮となってしまった兼明さまです。いえ、後続に復帰されたのでお名前をお呼びするのは恐れ多い。「親王さま」とお呼びした方がいいかもしれませんね。

 聞くところによると親王さまは、嵯峨の小倉山と峰続きの亀山の山荘に引きこもっておられるとか、早速そちらをお訪ねし、親王さまに直接お話しを伺うことにしました。

「こんな遠方まで、ようこそお越し下さいました。」と、親王さまは丁寧にご挨拶して下さいました。そして、静かに語り始めました。

「安和の変で失脚した高明どのに比べると、私は運が良いと思っておりました。藤原北家が実権を握る調停で、左大臣まで昇進できたのですから。しかし、今度のことは突然で、私もなぜ自分が左大臣を辞めさせられて中務卿に任じられたのか、なぜ皇族の身分に戻されたのか、よくわからなかったのです。でも、時が経つうちに、その理由が何となくわかってきました。藤原北家による源氏排斥と、兼通どのと兼家どのの不和のため、私が犠牲になったということなのでしょう。」

 そう言って、親王さまは一枚の紙を取り出しました。達筆な文字で、何か書かれています。

「『菟裘賦(ときゅうのふ)』です。正しい道が衰え、讒言が横行している世が、いつまた清らかな姿になるか、老いた身はその日を待つあてもなく、あきらめねばなるまい。今は亀山の僧堂に隠れるばかりであるというような趣旨を詩にしてみたのです。この世は無常です。
 これからは好きな本を読み、詩を作ったり学問に没頭したりして、悠々自適に暮らそうと思っております。」

 確かに親王さまのお部屋には、『史記』や『論語』などの中国の古典から、最近わが国で流行している『竹取物語』や『伊勢物語』まで、多くの書物が置いてあります。

「親王さまは本当に学問がお好きなのですね。」

「私の学問好きは、菅根おじいさまに似たのであろうと、母がよく申しておりました。そして母は、そなたはおじいさまに生き写しだとも言っておりました。
 祖父は、私が生まれる前に他界してしまいましたので、会ったことがありません。長生きしていたら、色々なことを教えて下さっただろうにと、とても残念に思います。

 そう言えば、私の母方の一族は不遇です。
 私の母方のいとこ、祐姫どの(藤原元方女・元方は兼明親王の母、淑姫の兄弟)は、村上の帝の寵愛を得て、第一皇子広平親王をお生みになったのに、藤原師輔どのの娘御、安子どのが憲平親王をもうけられたため、広平親王は皇太子になれず、将来を閉ざされてしまいました。
 元方おじは悲嘆にくれて、早く亡くなってしまわれました。その怨霊が、憲平親王、つまり先帝、冷泉の帝にとりつき、先帝は狂気だと噂されております。一族の者がそのように言われるのはとても辛いです。

 まあ、これも私の母方が、同じ藤原氏でも今栄えている北家とは別系統の南家だからでしょう。だから私も実権のない一親王に戻されてしまったのです。」

 語りながら、親王さまは穏やかな微笑を浮かべられていました。でもその影には、どうしようもない寂しさと暗さが感じられました。
 ともあれ、これからの親王さまの生活がどうか平穏でありますように…、そんな思いを抱きながら、私は山荘をあとにしました。

(追記) 兼明親王が「源氏物語」に与えた影響

 まず、皇族から臣下へ、そして再び皇族へという身分の変遷が、光源氏の親王から臣下へ、そして准太上天皇へという身分の変遷と似通っているように思えます。
 ただ、左大臣から皇族に戻されてしまった兼明親王は完全に左遷ですが、太政大臣から准太上天皇の待遇を受けた光源氏は優遇措置ですよね。

 でもそれとは別に、兼明親王の厭世的な生き方は、『源氏物語』に影響を与えたように思えます。

 あと忘れてはならないのは、明石一族と兼明親王の関係です。

 実は、明石の上の母、明石の尼君の祖父は中務宮で、嵯峨に山荘を持っていたのです。
 光源氏が須磨・明石を流浪していたときに知り合った明石の上は、光源氏から上洛するように言われても、なかなか上洛しなかったのですが、ついに決心して数年後に上洛します。ただ、源氏の他の妻たちに遠慮して本邸には入らず、まず母が中務宮から譲り受けた嵯峨の山荘に落ち着きます。「中務宮」や「嵯峨の山荘」というキーワードから、紫式部は兼明親王を思い浮かべながら明石の上の物語を書いたのではないかと思います。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『紫式部の恋 ー「源氏物語」誕生の謎を解く』 近藤富枝 河出文庫
『大鏡 全現代語訳』 保佐か弘司 講談社学術文庫

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