平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

平惟仲と藤原在国 ー平安時代のライバルー

2005-01-30 00:21:45 | 歴史人物伝
 日本史上のライバルというと、みなさまはどなたとどなたを連想されるでしょうか?

上杉謙信と武田信玄とか、中大兄皇子と大海人皇子などというのが一般的だと思います。
 平安時代に限定した場合は、紫式部と清少納言というのが真っ先に思い浮かんでくるのではないでしょうか。私も以前はそうでした。
 でも、平惟仲(たいらのこれなか)と藤原在国(ふじわらのありくに)のことを知ってからは、平安時代のライバルといったら真っ先にこの方々が思い浮かんでくるようになりました。とにかく面白いライバルですので、しばらくおつき合い下さいね。

 まず、二人の簡単なプロフィールから紹介させていただきます。

 平惟仲(944~1005)
 彼は、先日ちらっと紹介した平高棟の子孫です。ちなみに、平時忠と時子・滋子は惟仲のいとこ、平親信の子孫になります。

 藤原在国 後に有国と改名(943~1011)
 彼は、摂関家の祖となる藤原冬嗣の兄、真夏の子孫です。この家も、時々公卿を出したこともありますが、実務官人として活躍する者を多く輩出する中級貴族という家格です。なお、彼の子孫は後世日野家となり、浄土真宗の開祖親鸞や、足利将軍の御台所を何人か出しています。

 このように、二人は年齢も家格もほとんど同じでした。
 二人がいつどこで出会ったのかは全くわかりませんが、村上天皇御代の文章生二十人の中に二人の名前があることから、文章生の同僚だったことは明らかです。つまり、今の感覚でいうと大学の同級生で、机を並べていたということでしょうか。

 やがて官界にデビューした二人は、同じようなコースで少しずつ出世していきました。そして、二人とも藤原兼家の家司になりました。つまり、兼家の側近になったわけです。この頃の二人は、お互いにお互いを意識していたとは思うのですが、まだライバル意識というものは芽生えていなかったと思います。それどころか、かなり親しい友人だったのではないでしょうか。私が二人についての小説を書くならそのような設定にします。

 その頃の藤原兼家は、兄である関白兼通によって出世の道が閉ざされているといった不遇の時代でした。兼通の死後も、関白の座はいとこの藤原頼忠に移ってしまいましたし…。
 しかし、兼家の娘で、円融天皇の女御になっていた詮子が産んだ懐仁親王は、円融天皇から花山天皇へ譲位されたことによって皇太子になりました。つまり、兼家は皇太子の祖父となり、権力の座に一歩近づいたわけです。
 「早く懐仁親王を帝位に……」と思った兼家は、策略を用いてそれを実行します。
 その頃の花山天皇は、寵愛していた女御に死なれ、世をはかなんでいました。兼家はそこにつけ込んだのです。幸い、兼家の息子の一人、道兼がその頃五位蔵人で、花山天皇の許に仕えていました。
 道兼は、世をはかなんでいた花山天皇に、「一緒に出家しましょう。私は帝にいつまでもついていきます。」とそそのかしました。花山天皇もすっかり信用して、道兼と一緒にこっそり内裏を抜け出したのでした。もちろん、道兼は出家する気など全くなかったのです。花山天皇が剃髪したのを確かめると、「私はこの姿を父上に見せてから出家します。」と言ってさっさと逃げ出してしまいます。花山天皇がだまされたことに気がついたときはもう遅く、三種の神器は懐仁親王の許に移っていました。すなわち一条天皇の誕生です。

 こうして兼家は孫の即位によって摂政となりました。彼の側近である惟仲と在国にも運が向いてきたわけです。そして、二人がお互いをライバルと意識し始めたのもこの頃からだったのではないかと思います。
 摂政就任当時すでに五十代半ばだった兼家は、自分が死んだあとの跡継ぎのことも考え始めていました。彼には、正妻時姫との間に道隆、道兼、道長、また、「蜻蛉日記」の作者藤原倫寧女との間に道綱と、多くの子息がいました。でも、その中で兼家が跡継ぎ候補として考えていたのは、時姫所生の年上の二人の息子、道隆と道兼だったようです。そこで兼家は、惟仲と在国の意見を聞くことにしたのでした。

 在国は、「花山天皇を退位させて今の帝を即位させ、さらに殿を摂政にした功績は道兼殿にあります。」なので、「跡継ぎは道兼殿にすべきです。」と進言しました。
 ところが、それを知ってか知らずか、惟仲は、「こういう事は長幼の順を守るべきです。よって、跡継ぎは道隆殿になさいませ。」と進言したのでした。兼家は、結局惟仲の意見を受け入れることになります。永祚二年(990)、兼家は摂政を道隆に譲り、間もなく世を去ることになります。

 摂政を譲られた道隆は、自分を跡継ぎに推薦しなかった在国に対して、ものすごい復讐をすることになるのです。
 その頃の在国の官職は、蔵人頭兼右大弁兼勘解由長官でした。まず、道隆は在国の位階を従三位に昇進させます。しかし、従三位に叙された時点で蔵人頭は辞めるというのがその頃の決まりとなっていました。当然在国は、決まりに従って蔵人頭を辞めることになります。そして、彼の後任の蔵人頭は道隆の子息、伊周でした。つまり道隆は、自分の息子を蔵人頭にするために、在国を従三位に叙したわけです。
 次に道隆のやったことは、在国の残った官職のうち、右大弁を解任することでした。まだ勘解由長官が残っていましたが、この勘解由長官という官職は、当時すでに有名無実の名ばかりの官職になっていたのでした。つまり、在国は無職にも等しい身の上になってしまったのです。
 そして、替わりに右大弁を譲られたのは……、何と、道隆を跡継ぎに推薦してくれた惟仲だったのでした。実は、惟仲は在国より一歩遅れるような感じで弁官コースを昇進していたので、順送りと言えばそれまでなのですが、このような状態になってみると、在国を押しのけて昇進したと言ってもいいわけです。
 そのうえ在国は、唯一の官職であった勘解由長官も、位階の従三位も、一時的にではありますがその後剥奪されてしまいます。道隆が自分を推薦しなかった在国に対して、かなりの憎悪を持っていたことがわかります。

こうしてみてくると、惟仲と在国は、兼家が摂政になってからはお互いにものすごいライバル意識を持っていたと思ってしまいます。二人は、兼家の邸などでも顔を合わせることが多かったでしょうし、当然話をすることも多かったと思います。なので、お互いの意向は分かり切っていて、その上で別々の子息を兼家に推薦したのではないでしょうか。特に、一歩遅れて昇進していた惟仲の、在国に対する屈折した気持ちは手に取るようにわかるような気がします。しかし、このような結果、在国がほとんど無職の状態になるなどは夢にも思わなかったでしょうけれど…。

さて、在国がやっと復帰をするのは、道隆の死後(道兼もすでに亡くなっているのですが、ここでは詳しくは触れないことにします。)、道長が内覧(実質的には関白とほとんど変わりません。)となったあとでした。大宰大弐として大宰府に赴任することになったのです。この官職は、大宰府の長官にも等しいおいしい官職であり、今まで無職同然だった在国は大喜びで大宰府に赴任していったと思います。

 一方の惟仲も、順調に出世して中納言になりました。そして在国が大宰大弐の任期を終えて帰京したのと入れかわるように、惟仲は大宰帥(公卿補任では大宰権帥)として大宰府に赴任することになります。
 しかし惟仲は、大宰帥の任期途中に宇佐八幡宮と問題を起こして、大宰帥を解官されてしまいます。そして解官された翌年、寛弘二年(1005)に、京に帰ることなく大宰府で薨じました。

 京で盟友の死を聞いた在国は、いったいどのように思ったのでしょうか…。若い頃からの二人の思い出を静かに回想していたのか、「出世競争もこれで終わった」と何となくほっとしたのか……。いずれにしても、思うことは多かったはずです。
彼はすでに有国と改名し、参議になっていましたが、その後6年ほど生き、寛弘八年(1011)に薨じます。晩年に宇佐八幡宮と問題を起こし、大宰府で薨じた惟仲に比べると、在国の晩年は平穏なものだったと思います。

 こうして二人の生涯を見てみると、本当に共通点が多いのに気がつきます。文章生の同僚だったこと、藤原兼家の家司を勤めたこと、大宰府に赴任していること、最終的に位階が従二位(但し、官職に関しては惟仲が中納言、在国が参議なので、惟仲の方が上席)などです。
 また、惟仲の妻は藤三位と言って一条天皇の乳母でした。そして、在国の妻は橘三位と言って、やはり一条天皇の乳母でした。ということは、妻たちもかなりのライバル意識を持っていたのではないかと、詮索したくなってしまいます。
 いずれにしても、これだけ共通点が多く、兼家に対してはっきり別々の意見を言い、同じようなコースで出世をして、常に相手を意識していた二人です。平安時代、いや、日本史の中でも、これだけ面白いライバルは、めったにいないのではないでしょうか。
 私は惟仲と在国を思うとき、いつもつくづくこのような感じを抱きます。
 

誕生日の過ごし方

2005-01-28 18:53:52 | えりかの平安な日々 04~09
 今日になっても誕生日気分が抜けなくて、まだお祭りモードのえりかです。

 と言うか、私の母方のいとこで、今日28日が誕生日の人がいます。それで、母方の祖母がそのあたりをよく間違えていたのですよね…。28日になって祖母から、○○ちゃん、お誕生日おめでとう」と言われたことがよくありました。それでいつも、「おばあちゃん、今日は●●ちゃんが誕生日で、私は昨日だよ。」と毎年言っていたような…。

 それはともかくとして、お誕生日のお祝いのコメントを下さったみなさま、どうもありがとうございました。ついでに、4人の方からお祝いメールを頂いてしまいました。これだけ多くの方にお祝いをして頂けるなんて、私は本当に幸せ者です。改めまして、みなさま、どうもありがとうございました。

 昨日は主人と二人で、近くの洋食のレストランでランチを食べてきました。主人は自営業なので、ランチをつき合ってもらえるのです。
 そのお店は、「こんな田舎の町にこんなにもしゃれた店があるのね!!」とわくわくしてしまうくらい、感じの良いしゃれた店なのです。お食事も飲み物もデザートも、とってもおいしいです。
 ちなみに、昨日私は野菜カレーを食べました。ひき肉と、なすやピーマンやキノコがたくさん入っています。程良い辛さでとてもおいしかったです。主人はハンバーグを食べました。こちらも、本当に手作りという感じがしておいしいです
 夜は、その店でおみやげ用に買ってきたいちごショートのケーキと、1週間ほど前に主人が静岡で買ってきた、お気に入りのドイツ製ワインで乾杯しました。そのようなわけで、とてもいい誕生日を過ごすことができました。

 1月19日にこちらで紹介した「波のかたみ ー清盛の妻ー」を読み始めました。
平家がどうしてあのように権力を持つことができたのかを理解するには、やはり保元の乱にさかのぼって考えなくては…、と改めて思いました。
 今のところ、平治の乱が終わったあたりまで読んだのですが、どうしても池禅尼に注目してしまいます。
 池禅尼は、崇徳上皇の皇子、重仁親王の乳母であったため、天皇家が崇徳上皇側と後白河天皇側に別れて争った保元の乱では、本来なら上皇側に加担しなくてはいけないわけですよね。しかし池禅尼は、「今回の戦では上皇側に勝ち目がない。」と判断し、自分の息子頼盛を天皇側に加担させたのでした。頼盛は清盛の異母弟ですから、言ってみれば池禅尼は、平家が兄弟で争うことを防いだわけです。
 そのようなわけで池禅尼は、清盛に頼朝の命乞いをしたときも、「清盛殿、私が保元の乱で頼盛を天皇側に加担させたため、平家は兄弟で争うことをしなくてすんだのですよ。なので、私の言うことを聞いておくれ。」と言ったということに、「波のかたみ」ではなっていました。そこで、清盛は仕方なく承知したわけです。
なるほど、そういうこともあったかもしれないなと思いました。
 それにしても池禅尼という女性は、すごい政治手腕の持ち主だなと改めて感心させられました。魅力的な人に思えます。それに、何と言っても私の大好きな隆家さんの子孫ですもの。
 

誕生日♪

2005-01-27 11:12:03 | 歴史雑記帳
 3日も更新をさぼってしまいました。サーバーのメンテナンス工事もあったので、つい休んでしまったのですよね。
 これからも、時々さぼりながら長く続けていきたいと思いますので、よろしければおつき合い下さいね。

 さて、本日1月27日は私の誕生日なのです。なので、この記事、午前0時にUPしたかったのですよね。でも、工事中では仕方がなかったです。そのうえ、昨日用意したこの文章、最後のチェックをしていたらなぜか消えてしまったのです。……というわけで、書き直しをしなければならなくなり、結局こんな時間になってしまいました。
 それにしても、もうお祝いをしてもらえる年齢ではないのですが、いくつになっても誕生日は嬉しいものです。今年1年が、えりかにとっていい1年になりますように♪

 さて、そのようなわけで、私と同じ誕生日の有名人をあげてみますね。

 オーストリアの作曲家モーツァルトと、「不思議の国のアリス」を書いたルイス・キャロルが今日1月27日生まれです。う~ん、才能にあやかりたいです。
 あと、清水ミチコさん、三田寛子さん、雛形あきこさんが1月27日生まれです。何か、個性的な方ばかりですね。

 日本史上、私が生まれた日に何が起こったかも、気になるところです。ただ、江戸時代までの太陰暦正月二十七日と、現在の太陽暦1月27日は厳密には違うのですが、そこは目をつぶって話を進めさせていただきますね。

 建保七年(1219)正月二十七日、鎌倉三代将軍源実朝が右大臣に任じられたための拝賀の礼が、鎌倉鶴岡八幡宮で行われました。京から下向してきた公卿や殿上人が居並ぶ中を、側近でもあり学問の師でもあった源仲章と一緒に歩いていた実朝は、甥に当たる公暁によって暗殺されました。その日の鎌倉は雪が降っていたそうです。
 自分の誕生日に、こんな恐ろしいことが起こったのだと知ったのは中学生の時でした。ちょっとショックでした。

 平安時代好きとしては、平安時代の正月二十七日にも、何か重大なことが起こっていないか、気になるところです。幸い、正月二十七日というと春の除目の時期なので、任官の記事は捜せばいくらでも出てくるようです。でも、それを全部書くととても長くなりますし、私も全部把握しているわけではないので、安和三年(970)正月二十七日の除目について、お話ししますね。
この安和三年は、左大臣源高明が大宰権帥に左遷された事件、安和の変が起こった翌年になります。

 まず、右大臣藤原在衡が左大臣になっています。そして、大納言藤原伊尹が右大臣に、権大納言藤原師氏が大納言になっています。また、参議源雅信と藤原朝成が、それぞれ権中納言に昇進しています。

 除目に登場したこの5人についても、簡単に説明しますね。

 藤原在衡は、奈良時代に左大臣にまで昇進した藤原魚名の数多い子孫の一人です。在衡の祖父山蔭は、清和天皇の側近で中納言にまで昇進しました。在衡自身は、文章生・対策及第した学者・少内記・蔵人を経て叙爵し、その後少しずつ昇進していきました。安和の変で源高明が左遷されたことによって大臣に欠員ができたため、筆頭大納言だった在衡は、この前年に右大臣に任じられたのですが、高明の左遷を喜ばず、大臣就任のお祝いをしなかったそうです。
藤原伊尹は、九条流の祖藤原師輔の長男です。三蹟の一人、藤原行成の祖父に当たります。
 藤原師氏は、藤原忠平の子息です。小野宮流の祖実頼、九条流の祖師輔、小一条流の祖師尹とは兄弟になります。桃園に邸宅を持っていたので、「桃園大納言」と呼ばれました。
 源雅信は、宇多天皇の孫に当たります。藤原朝忠の娘穆子との間に、藤原道長の妻となった倫子ほか数人の子供をもうけました。雅信自身は、従一位左大臣にまで昇進しています。
 藤原朝成は、源雅信の妻穆子の父朝忠の弟です。藤原伊尹と蔵人頭を争って敗れたために怨霊になったという伝説のある人です。史実的にはかなり疑問なのですが…。でも、伊尹の子孫には、若死にしたり出家をした人がとても多いのです。伊尹の子孫についてはとても興味深いので、いつかまとめて記事にしますね。

 というわけで、私の誕生日に歴史上で何が起こったかを書いてみました。

大河ドラマ「義経」第3回&源希義

2005-01-24 09:11:57 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」、第3回の感想です。

 「母の言う事が聞けなければこれで母を刺しなさい。」と言った常磐さん。美しさの中にりんとした強さを感じました。従来の、運命にもてあそばれるだけの常磐さんのイメージとは、一線を画すような描き方ですね。
 でも、自分の産んだ子はすべて手許からいなくなってしまった彼女の気持ちを考えると、切なくなってしまいます。せめて、ドラマでも史実通り、長成さんとの間に子供が産まれたことにして欲しいです。そうしなければ、常磐さんがあまりにもかわいそうです。

 本日の放送で面白いキャラクターだと思ったのは後白河上皇です。何を考えているかわからない、まったりしたところ、本当に後白河上皇らしくていいですね。何しろ、源平合戦を陰であやつっていたのは、他ならぬ後白河上皇なのですから…。それから、今様を踊っているところも良かったです。実際、後白河上皇は今様を歌ったり踊ったりするのが大好きだったとか。現代で言うと大のカラオケ好きといったところでしょうか。これからの彼の活躍が楽しみです。
ついでに、のちに出て来るという上皇の寵姫、丹後局も楽しみです。

 ところで、牛若はしょっちゅう夜、鞍馬寺を抜け出していましたけれど、あんなに簡単に抜け出せたのか、ちょっと疑問に感じました。それに、経を読んでいる様子も修行をしている様子もありませんし…。ひょっとしたら鞍馬寺側は、最初から牛若を出家させるつもりはなかったのでは?と思ってしまいます。寺に義朝の弟の十郎を入れていることでも、「鞍馬寺って、本当はこっそり源氏に加担していたのではないの?」と思ってしまいました。

 さて、今回オープニングに流れた系図に、源希義の名前があったのはとても感激してしまいました。そこで、今回はこの希義について簡単に述べてみますね。

 源希義は頼朝と同じく、源義朝を父に、藤原季範女を母として産まれました。つまり、頼朝の同母弟です。当然、頼朝と同じ邸宅で子供時代を送っていたのではないかと考えられます。
 平治の乱で義朝が敗れると、頼朝は命を助けられて伊豆に流されました。当然、弟だけ打ち首にするわけにはいきませんので、希義は土佐に流されることになります。つまり、同母兄弟で連絡を取ることがないよう、遠く東と西に兄弟を分けたわけです。
 希義が土佐で、どのような生活を送っていたのかは不明です。
その後治承四年(1180)、頼朝が挙兵したことを聞いた希義は、密かに挙兵の準備を始めたようです。あるいは土佐を抜け出して、頼朝の許にはせ参じようとしたのかもしれません。
 しかし、挙兵の準備は平家の知るところとなり、治承四年十一月、希義は平家方によって攻め殺されてしまいました。

 歴史に「もし?」は禁物ですが……、もしも希義が頼朝の許にはせ参じることができていたならば、同母弟ということで、案外頼朝の良き相談相手になっていたのではないかと思います。子供時代を一緒に過ごしたことは、大きいと思うのですよね。それだけに、希義が早々に討たれてしまったことは、頼朝にとっても、残念なことだったと私は感じています。

お知らせ・その他

2005-01-23 10:42:02 | お知らせ・ブログ更新情報
 今週、gooさんのサーバー増強のためのメンテナンス工事があるそうです。
日程は下記の通りです。

 平成17年1月26日(水)午後9時~1月27日(木)午前6時

 この間、gooのブログは閲覧、投稿ができなくなります。ご了承下さいませ。

 ……というわけで、う~ん、私にとっては痛いです。
「どうして26~27日なのよ!……」という感じです。実は、27日の午前0時過ぎに、UPしたい記事があったのです。でも、ちょうどその時はメンテナンス中なのですよね。なのでその記事は、メンテナンスが終わって、サーバーが復旧し次第、UPさせていただきますね。まあ、27日中ならいいかなと…。
 でも、「メンテナンス工事が手間取って、27日中にサーバーが復旧しなかったらどうしよう!!」と考えてしまう私、典型的なA型です。初対面の方からは、「O型に見える。」と言われるのですが、つき合っていくうちに「やっぱりA型ね。」と、いうことになってしまいます。かなり神経質で、細かいことを気にします。それでいて結構適当で、いい加減なところもあります。更新を時々さぼるのがその例かも…。複雑な性格です。
 何はともあれ、最近、goo のサーバーが混み合っているようで、時々つながらなくなることも多かったのですよね。サーバー増強によってそれが解消されるなら、こんなに嬉しいことはないわけで、たとえその記事が27日中にUPできなくても、喜ばなくてはいけないですよね。それに、よく考えてみると、27日いっぱいかかるということは、まずあり得ないと思っていいでしょうしね。

 ここ2、3日、私はなぜか気分が充実しています。年が明けてからちょっと気分がブルーで、「何もやる気がしない!」ということが多かったのです…。でも、一昨日あたりから、「何かやってみよう」という気分になってきました。
 そこで一昨日は、こちらにUPする投稿記事の下書きを、一気に書き上げました。
平安時代の中期に、年齢も家格も同じくらい、しかも同じようなコースで昇進し、相手を好敵手と見ていた二人の人物がいるのです。早く言えば「ライバル」ですよね。その、「平安中期のライバル」についてのお話しです。まだ下書きの段階なので、これから、間違いはないかなどを確認します。今月中にはUPしますので、楽しみにしていて下さいね。
 そして昨日は、久しぶりに読書をしました。読書って、意外に気分が乗っていないとできないのですよね…。このまま、この気持ちでいられるといいのですが…。

 さて、今夜は「義経」の3回目、今回からいよいよタッキーが登場とのことで、楽しみです。感想もこちらに書かせていただきますので、よろしければご覧下さい。

開設1ヶ月

2005-01-21 08:52:48 | お知らせ・ブログ更新情報
 おかげさまで、「えりかの平安な日々」も、本日で開設1ヶ月を迎えました。

 まだ1ヶ月なのですが、この1ヶ月はネットをはじめて以来、一番忙しい1ヶ月だったように思えます。何しろブログ作成でほとんど手一杯でしたので……。

 ネットで情報を発進していくことの難しさと楽しさも実感しました。
特に歴史の話題については、間違った情報を発進するわけにはいきませんので、それ相当の準備が必要です。そして、それを文章にするのもなかなか大変でした。でも、それを書きあげてUPし終わったときの充実感は、何とも言えないものなのですよね。やっぱり辞められそうもないです。これからも、あまり更新頻度の高いブログにはなれないかもしれませんが、時々休みながらも、長く続けていけるように頑張りますので、よろしくお願いします。

 歴史に関しては、私はただ好きというだけで、専門的に勉強をしたことは全くありません。なので、お気づきの点がございましたら、色々コメントして下さいね。私ももっとたくさんのことを知りたいと思っていますので。

 それから、この1ヶ月間でサイトの管理人さんのお気持ちが。少しわかったような気がしています。掲示板に書き込みをしてからレスが来なかったりすると、今までは「私、何かお気にさわるようなことを書いて、ここの管理人さんのお気持ちを損ねてしまったのかしら……。」と、とても気になってしまったことが多かったのです。
でも、そうではないのですよね。管理人さんもお忙しかったり、気分が乗らなかったりして、レスが書けないことがあるのですよね。実は私もそういうこと、この1ヶ月の間に何度かありました。
 でも、私は掲示板への書き込みは基本的に大好きなので、これからも遠慮なくコメントして下さいね。たとえ短いコメントであっても、とっても励みになるのです。
 この1ヶ月間にコメントを下さった方、ここを見て下さった方、本当にどうもありがとうございます。私は多くの方に支えられているのだなと、改めて思います。
そして、いつも色々教えて下さったり、間違いを指摘してくださる某友人と、いつも私の文章をチェックしてくれたり、色々お手伝いをしてくれるうちのだんなさんに感謝です。

☆お知らせ☆
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ご了承下さいませ。

波のかたみ ー清盛の妻ー

2005-01-19 23:31:52 | 図書室3
 本日は本の紹介です。

 ☆波のかたみ ー清盛の妻ー
  著者・永井路子 発行・中央公論新社
  定価・永井路子歴史小説全集七=3466円
     文庫=940円(文庫版は限定復刊だそうですのでお早めに。)

題名の通り、清盛の妻、時子さんを主人公にした小説です。

 内容と感想を述べる前に、清盛と時子の系譜について簡単にお話ししますね。

 平安遷都を行った桓武天皇には、多くの皇子皇女がいました。そのうちのひとり、葛原親王の子息や孫達が「平」の姓を賜姓されて、臣籍に下ったわけです。このうち、平高棟(葛原親王男)は都で大納言にまで昇進しました。その子孫も公卿になったり、有能な実務官人を輩出して中級貴族になって活躍しています。平時子はこの高棟の子孫です。また、平高望(葛原親王孫 平高棟甥 高見王男)は関東に土着し、その子孫は武士として活躍することになります。平清盛はこの高望の子孫です。

系譜の説明はこのくらいにして、本の紹介に移らせていただきますね。

 この小説では、平家の栄華と没落を、時子の目を通して描かれています。つまり、清盛が保元の乱に出陣するところから始まり、時子が安徳天皇を抱いて壇之浦で入水するところで終わります。
 この小説での清盛は、貴族に気を遣い、後白河上皇に気を遣い……と、とにかく気配りのある人物に描かれています。そして、意外に思われるかもしれませんが、なかなかの愛妻家です。そんな清盛を陰で支えているのが時子です。
 しかし、時子が主役になるのは清盛の没後だと思いました。特に都落ちしてからは、平家の中心となって冷静に事を進めていきます。人間は、逆境になるとここまで強くなれるのだ……ということを感じさせられます。

 また、この小説で私が面白いなと思った人物は、時子の弟の時忠です。時子と時忠の妹滋子が、後白河上皇との間にもうけた皇子(のちの高倉天皇)を皇太子にしようとした時忠なのですが、失敗して出雲に流されていきます。その時、まるで物見遊山にでも出かけるようにして流されていくのです。都に返り咲いたあとは、「平家にあらずんば人にあらず」などという軽口をたたきますし…。野心家なのですが、ちょっとおっちょこちょいなところが人間味あっていいなと思います。
 それから、都落ちした平家の公達は寿永二年八月六日に官位を剥奪されてしまうのですが、唯一時忠だけは剥奪されませんでした。これは、どうしても安徳天皇と三種の神器を平氏の陣から取り戻したかった後白河上皇の意向のようです。時忠は高棟流平氏で、清盛の兄弟や子供達とは別系統だったので、後白河天皇も説得する相手としては適切だと考えたのでしょう。しかし時忠は、「都が平定されてからでないと、帝も神器も還御できない」という旨を書状に書き、後白河上皇の許に送ったので、同年八月十六日に官位を剥奪されてしまいます。しかし、説得の相手として後白河天皇に選ばれたことは血筋もあったのでしょうけれど、やはり一目置かれていたのかな……と思ってしまいます。

 この小説は、藤原兼実の日記「玉葉」や、藤原経房の日記「吉記」を参考にして書かれたのだそうです。なので、史実にかなり忠実だと思います。興味がございましたら、ぜひどうぞ♪私も久しぶりに再読してみようと思っています。

大河ドラマ「義経」第2回&ちょっと妄想

2005-01-17 21:34:26 | 2005年大河ドラマ「義経」
 「義経」の第2回の感想です。

 渡さんの清盛はやっぱりいいですね~。幼い牛若と、まるで実の親子のように睦み合っている所など、何かほのぼのと心が温まるのを感じました。そこでだんなさんが一言、「俺が清盛なら源氏の残党への融和対策の意味も含めて、牛若を鞍馬寺にやらず、養子にして抱え込む。」と言っていました。
 それはともかくとして、今回、重盛が「牛若を早く何とかしてしまわなければ危険です。」と清盛に進言している場面がありましたね。それを聞いて清盛は迷っているようでしたが…。「平家物語」の清盛像と重盛像を考えると、「牛若を何とかしなければ危険だ。」と真っ先に言うのは清盛で、重盛はそれをなだめていると考えられますよね。けれど、史実の清盛と重盛は、今回の放送のような感じだったと思います。
重盛というのは現実的で理を重んじる人です。「平家物語」に描かれているような、聖人というイメージの人では絶対にないと、私は思っています。
 また、宗盛の描き方(陰陽師の占いを気にするような貴族的な所など)も、史実に近いような気がしました。こうしてみると、今回の「義経」は、清盛、重盛、宗盛の描き方はかなり的を射ているように思えます。

 でも、清盛の妻、時子の描き方はちょっと不満です。時子はのちに、安徳天皇を抱いて壇之浦で覚悟の入水をする女性です。また、清盛の栄華を陰で支え続けたのは、彼女と言ってもいいです。なので、あんなに意地悪でヒステリックな女性ではなかったと思うのですが…。まあ、美しい常磐御前と対比させるために、あのようなキャラクターにしてしまったのでしょうね。何か、時子さんがお気の毒なように思えます。
 それから、常磐が藤原長成と再婚したのが、牛若7歳の時というのはかなり疑問を感じました。常磐が長成との間にもうけた藤原能成と、牛若との年齢差は、4歳(史料によっては3歳とも5歳とも。どちらにしても、常磐と長成の結婚が牛若7歳の時というのはおかしいのですが…)のはずですので。また、常磐が清盛との間に娘をもうけたかどうかは確証がないようです。このように「あれ?」と思った場面もいくつかありました。

 さて、感想はこのくらいにして、このあとは少し私の妄想を書かせていただきます。よろしければおつき合い下さいね。

 今回の放送では、幼い牛若が平家の公達と会っていたのは平盛国の邸宅ということになっていましたね。そこで、牛若が平盛国の邸宅にどのようにして行ったのかを考えてみました。

 今回の放送によると、牛若が住んでいたのは七条朱雀ということになっていたようです。仮に、北に七条大路、西に朱雀大路に面した左京八条一坊一町に住んでいたことにして、話を進めさせていただきますね。
 平盛国の邸宅は、左京九条四坊十三町でした。ここは、桓武天皇が造った南北約5、3㎞、東西約4、6㎞の平安京の東南のすみに当たります。
 左京八条一坊一町に住んでいた牛若がここまで行くのには、何通りかの道順がありますが、仮に七条大路を東に行ったとします。大宮大路、西洞院大路、東洞院大路を横切って東へ……、すると東京極大路に出ます。ここまでは約2㎞です。そして、東京極大路を右折し南へ……、八条大路を過ぎ、やっと盛国の邸宅にたどり着くまで、さらに約1㎞です。つまり、牛若が住んでいたと思われるところから盛国の邸宅まで、約3㎞の道のりということになります。
 と言うことは、子供の足で歩いていくのはちょっときついでしょうね。「従者と一緒に牛車に乗って行ったのかな」などと考えてしまいました。

☆本日メールを下さった方へ☆
 メールありがとうございました。常磐御前と長成、能成について少し興味を持ったので調べてみますね。データのバックアップ方法についても、教えて下さりありがとうございました。メールの返信は週末になってしまうと思いますが、どうか気長に待っていて下さいね。
 

髪が長い

2005-01-16 12:59:08 | えりかの徒然なるままに
 今回は私の髪の毛に関する話をさせていただきますね。

 私はこれまでに3回、髪を伸ばしたことがあります。
1回目は小学生の時でした。幼稚園時代の私は超ショートヘアーだったので、髪の長い友達がうらやましくてなりませんでした。それで、「小学生になったら絶対に髪の毛を長くしよう。」と密かに決心していたのでした。
 そして、その決心を貫いて(?)、小学生になった私は髪の毛を伸ばし始めました。明確かな記憶というわけではありませんが、小学校4年の1学期くらいまで伸ばしていたと思います。一番長いときは腰の下まであったので、私は三つ編みをして学校に通っていました。

 2回目に髪を伸ばしたのは、高校1年から約4年間です。高校に進学した当時、私の友人たちはみんなカレシを作って、デートだ何だとはしゃいでいたのに、私にはカレシができませんでした。それで、「私はどうしてカレシができないのかな。」と思っていたところへ、「うちの高校の男の子達は髪の長い女の子が好きだから、髪を伸ばすといいかもよ。」と、同じ演劇同好会にいた先輩に言われたので、髪を伸ばすことにしたのでした。でも、結局高校時代にカレシはできませんでしたが…。
 高校卒業と同時に髪を切ろうかと考えたのですが、なぜかもったいなくなって切れなくなってしまいました。でも、だんだん洗うのも手入れも面倒になり……、しかも私は医療関係の専門学校に通っていましたので「長い髪はちょっとまずいかも。」と思うようになりました。それで、二十歳の誕生日の一週間前にばっさり切りました。美容院の人に「もったいない。」と言われたのですが、切ってしまうととてもすっきりしました。そして、「もう二度と髪の毛なんか伸ばさない!!」と決心したのでした。

 ところが、二十歳の時にそんな風に思っていた私、現在髪を伸ばしているのです。
 どうしてそんなことになったのかといいますと、一昨年の5月に京都仁和寺で行われた「日本文化フォーラム21 紫の心~源氏物語の世界」というフォーラムに参加したことがきっかけでした。
そのフォーラムは、平安時代についての講演が聴け、王朝料理が食べられ、十二単が着られるという、平安時代好きの私にとっては夢のような内容でした。
 特に十二単の着用は15年来の夢でしたので、思い切って参加させていただいたのです。でも、当時の私の髪の毛は肩よりちょっと長いといった程度でした。なので、十二単を着て幸せ気分でしたが、短い髪はどうも衣装に映えないのですよね…。
 それで、フォーラムに参加なさっている方々を見渡したところ、髪の毛を膝のあたりまで伸ばしていた方がいらっしゃいました。私よりずっと若い方でしたのでうらやましかったです。でも、四十代の方できれいなストレートの黒髪を腰のあたりまで伸ばしていた方がいらっしゃったのを見て、「私も髪を伸ばすのはまだおそくないかもしれない!!」と思ってしまったのでした。
「髪を伸ばして、もう一度十二単を着よう。」と決心したのです。

 そのようなわけで、現在髪の毛を伸ばしています。正確に長さは測っていませんが、現在70センチ弱といったところでしょうか。

 昨年の秋、平安時代の姫君の普段着でもある袿を、京都の風俗博物館で着せていただきました。すでに髪の毛は腰のあたりまでありましたので、とてもいい感じで写真を撮ることができました。風俗博物館には、きれいな長い髪の毛の姫君のお人形がたくさん展示されていますので、いつもわくわくさせられます。
私も、これからも平安時代の姫君のようなきれいな髪の毛を目指して頑張ります。いつか十二単を着られる日のために……。

大河ドラマ「義経」第1回&池禅尼

2005-01-14 19:51:36 | 2005年大河ドラマ「義経」
 すっかり遅くなってしまいましたが、大河ドラマ「義経」第1回の感想です。

 冒頭の一ノ谷のシーン、かなりの迫力を感じました。平家の番兵達は皆、海に向かって警備をしていましたし、それを見下ろす義経の馬隊。空を飛ぶ鳥・・・
その静けさを破って、鬨の声をあげて一斉に急な崖を駆け下りる源氏の一群。期待感いっぱいの義経になりそうな予感がしました。
 そんな冒頭の期待あふれるシーンも、幕が開いて話が進む内に、私の心の中にまた不満が湧いてくるシーンが続きました。この点は残念でした。否定するのではなく、こうなって欲しいという私の気持ちとしてお話しさせてくださいね。
まず、「平治の乱」の描写があっけなさすぎました。義朝があんなに早く死んでしまうとは思いませんでした。
 それと、ナレーションが不親切ですね。「源氏と平家が対立した」というだけでは、歴史に詳しくない人たちには、何がなんだかわからないのではないでしょうか。保元の乱にしても平治の乱にしても、ただ単純に源氏と平家の争いと言うだけではないですよね。当時の貴族社会が大きく影響して起こった乱ですので、時代背景などを明らかにするためにも、できれば保元の乱、少なくても義経誕生あたりから物語をはじめて欲しかったです。
 また、貴族が一人も出てこないのは気になりました。平治の乱の主役とも言える、信西入道と藤原信頼は登場させて欲しかったです。

 またまたつっこんでしまったような気もしますが……、お許し下さいね。もう少し感想を書かせてもらいますね。

 常磐御前が清盛に召されたことによって、義経と平家の公達が兄弟のように過ごすという設定のようですが、のちに敵と味方に別れてしまうということでちょっと切ないお話になりそうですね。でも、こういうストーリー展開はとても期待が持てそうです。来週も楽しみに観ま~す。失望だけではなく、このように期待できることもいくつかはあったのです。

 ところで、今回登場した人物で私が気になったのは、池禅尼です。そうです、今回の義経の中で、「頼朝は亡き我が子家盛に生き写し。どうか命を助けてやっておくれ。」と食を断って清盛に懇願したあの尼さんです。

 そこでまず、池禅尼の系譜について調べてみました。わたしって、本当に系譜が好きなんですよね。・・・

 池禅尼藤原宗子は、中関白藤原道隆(道長の兄)の子息、隆家の子孫です。隆家には、一条天皇の中宮(のちに皇后)定子や、内大臣伊周など多くの兄弟姉妹がありますが、子孫が繁栄したのはこの隆家の系統だけなのです。(これって意外と知られていないのですよね。)
 隆家は、中納言にまで昇進し、二度も大宰権帥に任じられて大宰府に赴任したという、異色の経歴の持ち主です。若い頃は花山院に矢を射かけたりと、ずいぶん過激なことをしていますが、中年になってからはみんなから慕われる立派な公卿になりました。

 隆家には、良頼、経輔という二人の息子がいました。そのうち弟の経輔の子孫からは、後鳥羽天皇の生母藤原殖子、平治の乱の主役藤原信頼、奥州藤原氏の藤原秀衡の補佐役として活躍した藤原基成、のちに常磐御前の夫となる藤原長成など、源平時代に活躍した人物が多く出ています。

 池禅尼は、経輔の兄良頼の子孫になります。そして、1120年代の始め頃、平忠盛の後妻になったのではないかと推定されています。

 さて、池禅尼が頼朝の命乞いをした理由は、本当に亡きわが子に似ているという理由だけだったのでしょうか?
この話は、「平治物語」に出ている話なのだそうですが、当時の状況から考えて、池禅尼が頼朝の顔を直接見るということは、なかったような気がするのです。人から、「家盛さまに似ていますよ。」と聞いたということは充分考えられますが、それでは源氏嫡流の頼朝の命乞いをした理由としては、少し弱いような気がします。

 そこで、私も色々調べてみたのですが、どうやら頼朝の母方から「命を助けて欲しい。」という嘆願が、池禅尼の許に来ていたというような事が浮かび上がってきました。そして、それを陰で画策していたのが、上西門院統子内親王(鳥羽天皇の皇女で後白河上皇の同母姉妹)だと私は思っています。
 というのは、頼朝の母(平治の乱の年に死去)は、上西門院の女房だったという可能性が強く、頼朝も上西門院の許に出入りしていた。そして、池禅尼は上西門院の甥に当たる重仁親王の乳母であった事実。重仁親王の父が後白河や上西門院と母を同じくする崇徳院であったこと。当時は母を通しての結びつきがとても強い時代でした。
このようなことから、頼朝の母方が上西門院に頼朝の命乞いをし、上西門院から清盛の継母に当たる池禅尼に頼み込んできた。そして、池禅尼の必死の頼みを、元々情にもろい性格の清盛が、受け入れてしまったというのが真相ではないかと思います。

 一言つけ加えさせておきますが、清盛は「平家物語」に描かれているような、分からず屋のおじさんではありません。情にもろく、家族にも家臣にも優しい人間的な人物だったと私は思っています。そうでなければ、あのように平家を栄華に導くことはできなかったのではないでしょうか。権力者にも、人間的な面は必ずあるものです。今回渡哲也さんの演じる清盛は、そのあたりをしっかり演じてくれるのではないかと期待しています。

 ところで、主人が言っていました。「清盛は、頼朝の命を助けたのはいいとして、伊豆に流したのは失敗だな。俺が清盛なら、頼朝を自分の目の届くところに置いておく。平安京のどこかに閉じ込めて、二十四時間監視をつけておくな。もし、頼朝が脱走しようとしたら、すぐに打ち首にすればいい。」