平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

陽成上皇、源融の別荘を襲う

2013-06-30 20:25:34 | 妄想ショートストーリー
 今日は、宇多天皇の行幸の日。晴れ渡った空のした、天皇を乗せた牛車が都大路を進んでゆく。

 牛車の中。

天皇の従者:こちらを曲がると陽成院の前です。上皇さまの宮の前を通るのは恐れ多いと存じますが…。
宇多天皇:上皇の宮だろうとかまわぬ。通れ、通れ。
天皇の従者:かしこまりました。

 こちらは陽成院。陽成上皇が庭から通りを眺めている。そこに宇多天皇の行幸の牛車。

陽成上皇:俺は認めないぞ。源定省はかつては俺の臣下だった。だから避けて通れ!
 しかし、牛車は堂々と陽成院の前を通り過ぎていく。

陽成上皇:定省め~。少しこらしめてやる。
上皇の従者: まさか、内裏を襲うのですか?

 この頃、陽成上皇は摂津国にあった備後守藤原氏助の邸を襲ったり、六条の家人の家に乱入したりしていた。

陽成上皇:その通り。明日にでも決行するぞ。
上皇の従者:それだけはおやめ下さいませ!
陽成上皇:なぜだ?俺は上皇だぞ。あいつは帝にあらず、俺の臣下だ。明日、内裏を襲う。よく覚えておけ。

 翌日。

上皇の従者:上皇さま、どうかお考え直し下さいませ。お気持ちはわかりますが、いくら昔は臣下だったとしても相手は帝です。備後守や六条の家人とは違います。これが明るみになったら、ここに住むことが出来なくなるかもしれません。
陽成上皇:(少し首をひねり)そうだなあ。俺も一晩頭を冷やしたら、内裏を襲うのはちょっとまずいなあと思った。しかし俺は馬を乗り回し、どこかの邸を襲いたくてたまらぬ。

 陽成上皇、ほおづえをつき、少し考えている様子。そしてぱっと手を打つ。

陽成上皇:宇治の左大臣源融の別荘が良い。俺が退位させられたあと、あいつめ、臣下のくせに天皇に立候補したそうだ。これは仕返しだ。それに、たとえ俺が左大臣の別荘を襲っても、気の弱い定省め、俺の上皇の称号を取り上げることも流罪にも出来まい。さあ、行くぞ!

 陽成上皇と五、六人の従者、馬で宇治の源融の別荘へ。

陽成上皇:さあ、やっちまえ!

 陽成上皇と従者たち、塀を壊し、中に乱入すると、留守番をしていた融の従者たちを縛り上げ、。建物の一部を壊す。

陽成上皇:融は金持ちだ。金銀財宝はないか?
従者:残念ながら見あたりません。
陽成上皇:それなら仕方がない。これで俺の気は済んだ。融の従者を解放してやれ。まだ馬には乗り足らないから帰りは遠回りして帰るぞ。

 陽成上皇の従者たち、融の従者たちを縛っていた縄を解く。そしてそれぞれ馬に乗り、別荘を去り、山野を駆け回る。


 河原院

 融、陸奥の塩竈の景色を映し出した庭を満足そうに眺めている。

融:私は幸せだ。こんな風流な庭を造り、都にいながら陸奥に行った気分を味わえるとは。これでこの国の帝になることが出来ていたら、言うことないのになあ。まあ、それは贅沢というものか。

 突然、従者が息を切らして駆け込んでくる。

融の従者:殿、大変です!う、宇治の別荘が……、宇治の別荘が上皇に襲われました。
融:(思わず立ち上がり)何と!

 融の従者、上皇が別荘を襲ったときの顛末を話す。

融の従者:幸い、塀と建物の一部が壊されただけで、盗まれた物もなく、けが人もいないそうでございます。
融:しかし、このことは捨てておけぬ。私は帝に訴えて出る。


 内裏。

 融と宇多天皇が向かい合っている。

融:上皇は悪行を重ね、人民を恐れさせております。悪の極みです。左大臣である私の別荘が襲われた以上、もう放ってはおけません。皇族の流罪は先例もございます。上皇の尊号を廃し、淡路国あたりに流罪にしてはどうかと存じます。

 宇多天皇、腕組みをして何か考えている。しばらくして口を開く。

宇多天皇:左大臣、私は正統な帝なのだろうか?
融:(びっくりして)な・何をおっしゃいます。あなたさまは光孝の帝のれっきとした皇子、誰が何と言おうと帝ではございませんか。
宇多天皇:(鋭い口調で)それはそなたの本心か?

 融、びっくりして少し後ずさりする。

宇多天皇:私は一度臣籍に下っておる。しかも、上皇が位についていたときの侍従をやっていたこともあるのだ。年齢も一つ違いだ。はっきり言って私は上皇には対抗意識がある。だから先日の行幸の際も、陽成院の前を堂々と通った。しかし上皇はきっと、臣下から帝になった私に私が思っている以上の敵対心を持っているに違いないのだ。

融:(黙っている)

宇多天皇:左大臣も元々嵯峨の帝の皇子、上皇が譲位したとき、天皇に立候補したそうだな。本心ではここに座っているのは自分なのにと思っているのではないのか?

融:そ・そんな…。

宇多天皇:上皇は先日の私の行幸の態度が気に入らなかったのであろう。本当は内裏を襲おうと計画していた、でもそれは差し支えあるからと誰かに止められたのであろう。その代わり、左大臣の別荘が襲われてしまったのだろうな。すまないことだ。

融:もったいないことで…。

宇多天皇:上皇の尊号を廃し、流罪にすることは簡単だが、それでは角が立つ。そなたの別荘の修理は上皇方に命ずるが、他にはおとがめはないものとする。行幸の時、陽成院の前を堂々と通ったのは私の失敗だった。これからは、もう少し上皇に気を遣うことにしよう。

融:しかし、それではまた、上皇は悪行を重ねます。

宇多天皇:そなたの別荘を襲ったことで、上皇も少しは気がすんだのではないかな。大丈夫だ。私も色々考えていることがあるのだ。

 融が退出したあと。

宇多天皇:(心の中で)上皇の尊号を廃したりするのではなく、上皇の取り巻きの勢力を縮小した方がよさそうだ。上皇の母后が、東光寺の僧と密通している噂があるらしい。これを利用して、母后の皇太后の称号を奪ってしまうというのが一番賢明なやり方かもしれない。このままだと皇太后のもう一人の皇子、貞保親王を担ぎ出す勢力も出てくるかもしれないのだ。それを阻止し、我が子にこの玉座を伝えるためにも…。
 でも今はそれはやるまい。しかし時期が来たらきっと…。

*この文章は一部史実と逸話をもとにしていますが、ほとんど私のフィクションです。ご了承下さい。

☆登場人物紹介

 陽成上皇
 第57代天皇。藤原基経によって17歳で退位させられ、82歳で崩御するまで上皇として過ごす。宇多天皇に対抗意識を持つ。

 宇多天皇
 第59代天皇。光孝天皇の皇子。一度臣籍に降下し「源定省」と名乗っていたがその後即位する。陽成上皇より一つ年上。

源融
 嵯峨天皇の皇子。臣籍に降下し最終的には左大臣となる。六条に広大な河原院を築き、「河原左大臣」と称される。*「晩秋の京都へ」枳殻邸(渉成園)河原院のおもかげを伝える京都の庭園の旅行記。源融を簡単に紹介してあります。

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第57代 陽成天皇

2013-06-15 19:40:07 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  868~949
☆在位期間 876~884

☆両親
 父・清和天皇 母・藤原高子(藤原長良女・藤原良房養女)

☆略歴

 名は貞明。清和天皇の第一皇子。

貞観十年(868)十二月、染殿において誕生。翌年二月立太子。同十八年十一月、九歳で践祚。翌元慶元年(八七七)正月、豊楽殿において即位。おじの藤原基経が事実上、政務を執り行った。
 同三年読書始(『御註孝経』)。同六年元服。加冠は太政大臣藤原基経が、理髪は大納言源多がそれぞれ奉仕した。

 元慶八年(884)、十七歳で退位。
 退位の理由については、乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねるなど乱行が多く藤原基経の不興を買ったためだとも言われているが、真相は不明。

 譲位後は陽成院を後院とする。歌合を主催するなど、和歌に対する素養も深く、「つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける」は『百人一首』13番目の歌として有名。
 天暦三年(949)九月二十日、病により出家。同二十九日、冷泉院において崩御。神楽岡東陵(現在、京都市左京区浄土寺に所在)に葬られる。

 十七歳で譲位して約60年間、上皇として過ごした陽成さん、若い頃は源融の別荘を襲うなど乱行も多かったようですが、次第に落ち着いて、天皇家や摂関家との融和を計っていったようです。でも、どのような心情で上皇としての生活を送っていたのか、気になるところです。


☆父方の親族

祖父母

 祖父・文徳天皇 祖母・藤原明子

主なおじ

 惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 源能有

主なおば
 恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王) 

主ないとこ

 源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃  )*以上 父は源能有
 直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王


☆母方の親族

祖父母

 祖父・藤原長良 母・藤原乙春(藤原総継女)

主なおじ

 藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経

☆主なおば

 藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)

主ないとこ

 藤原時平 藤原仲平 藤原忠平 藤原温子(宇多天皇女御) 藤原佳珠子(清和天皇女御) 藤原佳美子(光孝天皇女御) 藤原穏子(醍醐天皇皇后)*父は藤原基経
 藤原良範(藤原純友の父)*父は藤原遠経)
 藤原惟岳(藤原倫寧の父=蜻蛉日記作者の祖父)*父は藤原高経
 藤原元名(紫式部の母の曾祖父)*父は藤原清経


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○貞保親王 *貞辰親王 *貞固親王 *貞数親王
 *貞信親王 *貞頼親王 *貞純親王 *貞元親王

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○敦子内親王 *識子内親王(伊勢斎王) *包子内親王

主な甥と姪
 源経基*父は貞純親王(異説があるので後述します。)
 源兼忠 源兼信(父は貞元親王)

☆主な后妃と皇子・皇女

 綏子内親王(光孝天皇皇女)

 紀君(紀氏) → 源清蔭

 藤原遠長女 → 元良親王 元平親王

 姉子女王 → 元長親王 元利親王 長子内親王 厳子内親王

 佐伯氏 → 源 清遠

 伴氏 → 源 清鑒


☆末裔たち

○その後の皇位継承について

 陽成天皇は上でも書きましたように、17歳で譲位しました。そのあとを継いだのは陽成天皇の曾祖父に当たる仁明天皇の第三皇子、時康親王でした。これが光孝天皇です。
 光孝天皇のあとは、その皇子である宇多天皇が皇位につきました。
 そのため陽成天皇の子孫は、皇位につくことはありませんでした。陽成天皇の皇子たちは臣籍に下った者、一親王として生涯を送った者など様々ですが、中でも元良親王は恋多き親王、「百人一首」20番目の歌の作者としても有名です。

○清和源氏は実は陽成源氏?

 清和天皇の「末裔たち」でも少し触れましたが、清和天皇の皇子貞純親王の子、源経基は実は、陽成天皇皇子の元平親王の子という説があるのです。

 経基が貞純親王の子であるということは、南北朝時代に編纂された「尊卑分脈」に記述されているものなのですが、実は貞純親王の没年、経基とその子、源満仲の生年には大きな矛盾があるそうです。

 「尊卑分脈」によると、経基の生年は921年、しかし、その父であるはずの貞純親王の没年は916年、子である満仲の生年は912年と記述されています。つまり、父は経基が生まれる数年前に世を去り、子供は本人より早く生まれたことになってしまうのです。

 この矛盾を解決するものとして、近代に編纂され、同じ清和源氏説を採用している「系図纂要」があります。こちらによると、経基の生年は寛平年間とのこと。しかしこの説に従うと、一世源氏でしかも文徳天皇皇子源能有の女を母とする経基が、50歳くらいになるまで叙爵されず、武蔵介で据え置かれていたことになり、どう考えても不自然です。そもそも「系図纂要」は信憑性にも乏しいとのこと。

 そこでいよいよ清和源氏は実は陽成源氏だったという話に移ります。

 この説には、河内源氏の祖となった源頼信が八幡大菩薩に対する帰依を告白した文書に、自分の祖先についての記述が書かれていることが根拠になっているそうです。この文書には、頼信の祖父、源経基の父は貞純親王ではなく元平親王、そしてその父は陽成天皇、そこから清和天皇につながっているとあるのだそうです。

 ではどうして系図を改変したのか?
 それは、陽成天皇が藤原基経によって退位させられた不名誉な天皇だから、そして、ライバルの桓武平氏の祖、桓武天皇は平安遷都を成し遂げた英明な帝だから、こちらも不名誉な陽成天皇ではなく、その父である清和天皇が祖というように、系図を改変しようという、源頼朝の考えだったようです。

 そこで私なりに少し調べてみたのですが、元平親王の同母兄、元良親王の生年は890年なので、弟である元平親王の生年はおそらく895年前後ということになると思います。すると、「尊卑分脈」によると921年生まれとされる経基との矛盾はなくなるわけですよね。
 しかし、これでも満仲との矛盾は解決しないし、仮に「系図纂要」に記述されているように経基が寛平年間の生まれとすると、父である元平親王とほぼ同世代になってしまいます。

 いずれのことから私にも、源経基が清和天皇の孫なのか、陽成天皇の孫なのか、判断がつかないです。

 ただ以前、twitterでフォロアーさんと、「満仲や頼光は暴れん坊だから、おとなしそうな清和天皇より、暴れん坊の陽成天皇の子孫だと考えた方がふさわしいよね」というようなことを話したことがあります。それに、清和天皇が実は陽成源氏だったとしても、清和天皇の血を引いていることには変わりないわけですし、それほど気にしなくていい問題なのかもしれません。タイムスリップをして貞純親王、元平親王、源経基のDNA鑑定をするという、夢のまた夢のような話が実現しない限り、この問題は永遠に謎のままなのかもしれませんよね。

(以上、参考「源満仲・頼光 元木泰雄著 ミネルヴァ書房)

○元平親王の子孫がこんな所に…

 さらにそれとは別に、元平親王の血統はもう一つ、思いがけないところとつながっていました。

 元平親王には、昭子女王という娘がいました。この昭子女王は長じて藤原兼通の室となり、(女皇)子と顕光を生みました。

 (女皇)子は円融天皇に入内し、皇后となりました。
 顕光は村上天皇の皇女、盛子内親王との間に重家元子、延子をもうけました。つまり権力欲は強かったけれどちょっとおっちょこちょいの顕光さんは陽成天皇の曾孫ということになります。系譜の面白いところですね。

☆陽成天皇に関するお薦めの本
 陽成院 ー乱行の帝 山下道代著 新典社


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6月6日の日記への追記

2013-06-10 11:25:12 | えりかの平安な日々 10~18
 タイトル通り、6月6日の日記で書き忘れてしまったことを書きます。T病院での思い出はまだ記憶が新しいし、何よりも書いていて楽しいのです。

☆実は私、患者になっていました

 入院して10日くらい経った頃でしょうか。
 それまで入院していたK病院への支払いが全部済んでいなかったので、1日外出許可をもらい、T病院の車いすを借りてバスでK病院に行ってきました。
 同じ静岡市内と言っても二つの病院はかなり離れているので、まずT病院から駅へ約30分、そしてバスを乗り換え駅からK病院まで約25分、無事に支払いを済ませ、再びバスへ乗って駅へ、久しぶりに駅ビルのレストランに入ってランチを楽しみました。

 そのあと、T病院行きのバスに乗り込んだのですが…、これまでに乗った3台のバスはいずれも床が低いバスで、車いすでも乗りやすかったのです。ところが、最後に乗ることになったこのバスは、前の3台に較べて床が高く、従って乗せて下さった運転手さんもかなり苦労していました。

 そんなわけで、「降りるときも大変かも…」と、バスに乗っている間じゅう、色々考えてしまいました。おまけに雨が降ってきたらしく、遠くで雷の音まで聞こえます。さて、バス停から病院の玄関まで約50メートル、どのように歩いていこうかなとも考えました。

 そんなことを考えているうち、バスはT病院に到着しました。私は前のドアから料金を払ってバスを降り、だんなさんは後ろのドアから運転手さんに手伝ってもらってバスを降ります。
 バスを降りると、雨はそれほど降っていない。でも、だんなさんが心配で後ろのドアに駆け寄ろうとしたとき、視力の弱い私は目の前に生け垣があったのに気がつかず、つっこんで転んでしまったのでした。

 そんなわけで、転んだ衝撃でめがねで顔の右側を切ってしまい、出血してしまった私、すぐにT病院の外科に担ぎ込まれました。診察して下さったのは優しそうな若い先生。検査の結果、骨には異常がなく、ただの打撲だということがわかりました。そこで顔に薬を塗られ、大きな絆創膏を貼られてしまいました。とてもとても、人には見せられない姿になってしまったわけです。

 その日は顔がずきずきと痛んだので、食事の時以外はずっと横になっていました。おまけに、口の中も切れてしまっていたので、左側の歯でしか食べ物をかめません。時間をかけてゆっくり食べるしかありませんでした。それでも、こうして付き添いという形で病院に泊まれることをありがたく、幸せに思いました。

 幸い、痛みは1週間ほどで完全に取れたので不幸中の幸いでした。こんな失敗も今となってはいい思い出です。

☆病院の食事

 K病院では売店でお弁当を買って食べていました。お弁当もおいしかったのですが、どうしても同じようなメニューになってしまいますし、さめているのがちょっと辛かったです。だんなさんはさめた食事を食べるのが大嫌いなので、私のお弁当を見ていつも、「かわいそうになあ」と言っていました。

 でも、先日の日記に書いたように、T病院では私の食事も出してもらうことが出来ました。だんなさんがすごく喜んでいたのを思い出します。
 確かに、転院した当日から食事が出たのですが、暖かい食事ってこんなにおいしいのか~、それをだんなさんと2人で食べられるなんて幸せ…と、嬉しく思ったものです。

 T病院の食事は病院食にしてはかなりおいしく、バラエティに富んでいました。最も私の食事は、健康な人用の食事だったからかもしれませんが。
 朝はご飯と味噌汁とおかず1~2品、それにふりかけや佃煮がつきました。牛乳とバナナがついてくることもありました。お昼はピラフやカレー、そばやうどんというのが多かったように思えます。夕食はご飯と汁物に、おかずのお皿が3皿くらいついていました。特に、サラダや和え物がおいしかったのを思い出します。

 だんなさんに対しては不謹慎かもしれませんが、私は1ヶ月間、ホテルか別荘に滞在していたような気分を味わっていたのかもしれません。
 お風呂に入る時間も自由(自宅は2世帯住宅でしたが、お風呂とトイレは共同だったので、好きな時間に入るってわけにはいかなかったのですよね)、3度の食事を出してもらい、好きな本を読み、だんなさんとおしゃべりしました。
 ただ、パソコンがないことだけが不自由でしたが。でも、携帯電話はあったので、SNSで友人の近況をチェックすることは出来ました。現在のように、携帯でも文章がすらすら打てるようになっていれば、病院での生活を頻繁につぶやくことも出来たかもしれないのですが。それだけがちょっと残念です。

 と言うわけで、T病院での思い出を思いつくまま書いてみました。3回続けて日記の更新になってしまい、すみません。次の更新は歴史記事を予定しています。「系譜から見た平安時代の天皇」と「妄想ショートストーリー」の新しい記事、見直しと手直しを急がなくては。

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ほんの少し、前に進めたような気がします

2013-06-08 20:36:23 | えりかの平安な日々 10~18
 昨日は、いつもの病院で診察を受けたあと、友人と会ってランチと買い物をしてきました。ランチはイタリアンのコース、前菜とアサリのパスタとステーキ、それにデザートをおいしく頂きました。楽しかったです。

 で、今日の日記なのですが、今回は病院の話が中心になります。…て、最近の日記は病院の話が多いとつっこまれそうですが、すみません。

 実は昨日は、私、あることを決心し、そのことを先生に相談しようと心に決め、病院に向かったのです。電車の中では大好きな杏里のCDを聞いていったのですが、どのように切り出そうか、もし、相談に乗ってもらえなかったらどうしよう、ううん、そんなことないよね、とずっと思っていました。最寄りの駅に到着するといつものように駅から病院までの道を歩きました。

 そして病院に到着し、15分ほど待って私の名前が呼ばれました。
 まずこの前の血液検査の結果から。これも気になっていたのよね。結果は、鉄欠乏性貧血は改善されていました。良かったです。(^^)
 そのため鉄材は中止になりました。ついでに2月からもらっていた花粉症の薬、この前の診察の時、もういらないと言うのを忘れてしまったのですが、今回、先生の方から、「これももういいね」と言って下さいました。
 そして最後に血圧を測りました。今回の最高血圧は137。まあまあです。でも、脈拍が96もあったので、「どうしたの?」と言われてしまいました。あ、絶妙なタイミング。
「先生、ちょっと相談したいことがあるのですが、2~3分よろしいですか?」
「いいですよ。どうぞ。」
「あの、私、主人と同じ透析患者さんの役に立ちたいので、臓器移植のドナーになりたいのです。どうすればドナー登録できますか?」

 私がこの決心をするまで、長い時間がかかりました。少々長くなりますが、お話ししますね。

 前にも書きましたように、だんなさんは2002年夏に透析が必要だと言われ、9年半、静岡市内の大きな透析病院で透析を受けていました。透析導入の翌年、電車で約30分の島田市に引っ越したのですが、透析はそのまま、この病院に通い続けました。とにかくいい病院でしたので。頻繁に色々な検査をして下さり、悪いところが見つかればぱっと対処して下さいました。
 だんなさんもそのおかげで9年半、時々少し体調を崩すことはありましたが、全体的には元気で本当に普通に生活していました。時折外食や旅行を楽しみ、仕事もしていたことは以前にも日記に書いたとおりです。
 あ、1回だけ、「私、腎臓を一つ、あげてもいいよ」と言ったことがあります。そうしたら、「そんなことをしたらおまえの体の状態が悪くなってしまう。それに俺は透析がうまく行っているから、移植はリスクが高いと言われたことがある。だからこのままでいい。」と言っていました。

 ところが昨年の4月に足を骨折して手術し、退院したあとも充分に治っておらず、電車とバスを乗り継いでの週3回の通院が困難になり、家から歩いて10分ほどの所にあった透析病院に移ることになりました。
 もちろんその病院でも透析はしっかりやっていただけました。しかし、今まで通院していた静岡市の透析病院に較べると規模がずっと小さな(ベッド数20くらいだったでしょうか)病院でした。こちらの病院を頼りにしている患者さんもたくさんいらっしゃると思うので詳しくは書けないのですが、だんなさん、この病院との相性があまり良くなかったようなのです。通い始めて2ヶ月くらい経った頃から、行くのを怖がっていました。

 だんなさんは骨折後遺症もありましたし、30年以上前から若年性糖尿病も患っていたので、大きな病院で総合的に診てもらった方が良いのではないかと知り合いの方からも言われ、市民病院の透析室に移りたいことも頼んでみました。だんなさんは一度、市民病院に4日ほど入院して透析を受けたことがあったのですが、こちらとは相性が良かったようなのです。
 しかし、「市民病院の透析室はベッド数も少ないので入院患者だけしか受けられません」と言われ、断られてしまいました。そしてだんなさんが通っていた透析病院は市で1軒しかない透析病院だったので、だんなさんは最後まで転院することもできませんでした。

 この半年間私は、人口10万の市に普通に通える透析病院1軒というのはあまりにも少なすぎるとずっと思っていました。しかもそこは規模が小さいので、大多数の透析患者さんは近隣の町に行かなければならないのです。そして、透析病院によって検査や治療に格差があることもひしひしと感じていました。このことを何とか市に伝えなくてはという思いは次第に大きくなっていました。

 そして先月の中頃だったでしょうか。twitterにアクセスしたら、「島田市長への要望・ご意見募集」というツイートが一番上に目に入ったのです。私はtwitterでは60人以上をフォローしているので、全員のツイートを見るのは不可能です。本当に、目に入ったツイートだけを見るという感じです。
 なのでだんなさんがこのツイートを見せてくれたような気がしました。書くしかないと思いました。人口十万の市に普通に通える透析病院1軒というのは少なすぎる、設備のしっかりした、新しい透析病院を作って欲しいと…。

 その日の夜、ツイート先の静岡新聞島田支局さんと2回ほど、twitterでやりとりしました。私の要望を真剣に受けとめて下さり、市長さんや議員の方に伝わるよう、尽力するとおっしゃって下さいました。
 さらに1週間後、要望があればまだまだ受け付けていますのでとおっしゃって下さったので、「新しい病院を作るのは時間がかかると思うので、市民病院の透析室を大きくし、外来でも通院できるようにして欲しい」とも書きました。

 それで昨日の病院に話が戻りますが、私は以上のことを簡単にお話ししました。
 そのあとの私と先生の会話を少し再現しますね。

「隣町(人口20万)には4軒、その隣町(人口12万)には2軒の透析病院があります。(いずれも総合病院は除く)それなのに10万の町で1軒というのは少ないと思いませんか?」
「おっしゃるとおりですね)」
「私、島田市の透析事情が良くなることが、主人への供養だと思っているのです。このままでは気がすまないのです。でも、新しい病院を作るのには時間がかかりますよね?
 それで、他に私に何かできることはないかと思い、透析患者さんたちのツイートを色々読ませていただいたのです。そうしたらある方がこんな事を書いていました。腎臓は、心停止しても臓器を取り出せます。透析には限界がありますから出来るだけ多くの移植を、ぜひドナー登録をお願いしますと」

 先生はうなずきながら話を聞いて下さっていました。

 もちろん私がこの決心をするまでには色々葛藤がありました。何しろ亡くなってからメスを入れられ、臓器が取り出されるのですから…。でも私がドナー登録することでだんなさんと同じ透析患者さんのお役に立ちたい、大切な人とこんな風な別れ方をした私だからこそドナー登録をしたい、それではまず、信頼している主治医の先生に相談しようと心に決めたのでした。

 先生は看護師さんと小声で話していましたが、そこに事務の方が私の保険証を持ってきました。
「先生、保険証の裏に臓器提供の意志を表明できる欄があります。」

  そうでした、私も数年前、だんなさんからそんな話を聞いたことがあったのを思い出しました。

 私の場合、今はそれまでの覚悟もないし家族の心情も考え、脳死状態ではなく、完全に心停止してからの臓器提供を希望しています。心停止してからは確か、眼球と腎臓だけだと思うのですが、私は視力障害があるので眼球は無理、よって腎臓だけということになります。腎臓を提供できれば透析患者さんのお役に立てるので、今の私はそれで充分です。将来はどうなるかわかりませんが…。

 意思表示は番号を丸で囲んだりするだけなので比較的簡単なようです。
 しかし~、最後に家族の署名という、大きなハードルが待っていました。
「やっぱり家族の承諾がいるのですね」と私は思わず言ってしまいました。

 私の住んでいる地域は田舎なので風習もうるさく、また、心情的にも、家族の理解を得るのはなかなか難しそうです。少しずつ話し合って、長い時間をかけて理解してもらうしかないかもしれません。

 最後に先生が励まして下さいました。
「島田市に透析病院のことをはたらきかけていくことも、臓器提供の意志を示すこともとてもいいことだと思います。私も力になりますから、また相談して下さいね。」

 実はお恥ずかしながら、私、話をしながら泣いてしまっていました。なので診察室を出るとき、「ありがとうございました」と同時に「すみません」とも言ってしまいました。

  と言うわけで、まだ臓器提供の登録はしていないので、実際は何も進んでいないのかもしれません。でも、信頼できる先生に色々話せたこと、臓器提供の登録の仕方がわかったことだけでも収穫でした。ほんの一歩、踏み出せたような気がします。

 それにしても…、私の実家が東海道線沿線で助かりました。これが沿線から外れている伊豆や御殿場だったら、こちらの病院に通うことをあきらめなければならなかったと思います。それだけでも神さまに感謝です。

 そして、重い内容の長い日記を最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。

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昨年の今頃 幸せな時間

2013-06-06 11:11:04 | えりかの平安な日々 10~18
 今日は、タイトル通り、去年の今頃、私が何をしていたかを書きます。

 何度も書いていますように、だんなさんは昨年の4月、通勤途中に足を骨折し、静岡市内のK病院に緊急入院をしました。
 透析をやっている関係上、すぐには手術できず、と言うか、手術がいっぱいでなかなか順番が回ってこなかったということもありますが、手術をしたのは入院後10日後のことでした。

 その後、透析をするための腕の血管(シャントというのですが)が詰まったり、熱を出したりしてリハビリの開始が遅れてしまったのでした。K病院には決まりで40日しかいられないことになっていたので、リハビリのために転院する病院を探さなければなりません。病院探しはかなり手間取りました。透析をやっているので、普通のリハビリ病院では引き受けてくれなかったのですよね。
 そしてやっと引き受けてくれたのが、同じ静岡市内のT病院でした。そこは、透析でも有名な病院と聞いていたので安心して転院手続きをしました。

 T病院に転院したのは5月16日だったのですが、その日は快晴で、空がとてもきれいだったのを思い出します。

 幸いだんなさんは個室にはいることが出来、私の付き添いも許していただきました。T病院は静岡駅からバスで30分以上の距離、家から電車とバスを乗り継いで約1時間半かかることになるので通うのは大変だと思っていたので助かりました。
 部屋には洗面所とトイレの他、お風呂まであってびっくりしました。
 K病院でも3週間ほど個室に入っていたのですが、お風呂はなかったのですよね。それに洗濯機のある場所も教えてもらえませんでしたので、泊まり込みで付き添っていても、3日に1回くらい、お風呂と洗濯のために家に帰っていました。そして用事が済むととんぼ返りで病院に…という日々でした。
 でも、T病院では、洗濯機のある場所と洗濯機の使い方を入院したその日に親切に教えて下さいました。「お金はかかりますが」という条件で、私の食事を出してもらう手続きもすぐにやって下さいました。看護師さんや事務の方の親切に涙が出て止まりませんでした。

 院長先生もとても素敵な方でした。出張でいらっしゃらない日の他は毎朝、回診に来て下さり、「おはよう。今日も元気、元気。」といつも言って下さったことがどんなに励みになったか、言葉では言い表せません。

 こうしてT病院での日々が始まりました。透析もリハビリも順調で、私も「絶対に治る」と信じていました。早く治るようにと私は毎日、だんなさんの足をマッサージしてあげました。一応、マッサージの免許は持っていましたので…。
 病院にいる1ヶ月の間に9冊の本を読了しました。だんなさんと一緒に読んで、読みながら2人で大笑いしたこともあります。今考えると、T病院での1ヶ月は、神さまが私に与えてくれただんなさんとの最後の幸せな時間でした。

 しかし、T病院で過ごすうち、だんなさんはしきりに家に帰りたがるようになりました。無理もありませんよね、2ヶ月以上、家に帰れないでいるのですから…。
 でもまだリハビリも完全に終わっていないし、家のバリアフリー化のめども立っていないし、何より今のだんなさんの状態では私の視力では介護は無理…と思ったので、「もう少し、ここにいようよ」と説得したのですが、だんなさんの「家に帰りたい」という気持ちを変えることは出来ませんでした。そして6月中旬に家に帰ったあとはもう、私にとっては修羅場の連続でした。

 でも考えてみると、病院にいればいるほど個室代もかかったわけですし、「家に帰りたい」というだんなさんの強い願いをかなえてあげられただけでも良かったのかもしれません。

 退院してからの介護に追われる日々が辛かっただけ、T病院での思い出は私にとって宝物です。昨年の今頃のことを思い出すと心がほのぼのと暖かくなります。
 なのでT病院にお礼に行きたいと思うのですが、先生も看護師さんも忙しく働いている中、患者でもない私がのこのこ出かけていってもご迷惑になるので、今は控えています。でもいつかひょっとして、T病院とのご縁が出来るかもしれないし、そうしたら「こちらで昔、幸せな1ヶ月を過ごさせていただきました。」と言えたらいいなあと思っています。
 せめてものお礼に、T病院さんのHPへのリンクを最後に貼らせていただこうと思います。こちらです。ありがとうございました。

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春の夜の夢の如く ~新平家公達草紙~

2013-06-02 20:23:43 | 図書室3
 今回は、源平時代を扱った小説を紹介いたします。

☆春の夜の夢の如く ~新平家公達草紙~
著者=篠 綾子 発行=健友館

内容(「MARC」データベースより)
 うたかたの如く消えた平家一門の栄華と悲哀と平家公達の恋を織りまぜて描く。「平家公達草紙」の作者と想定されている藤原隆房を軸にした小説。

*すでに絶版になっています。ご興味を持たれた方、図書館か古書店を当たってみて下さい。

 藤原隆房というと、20代の頃に読んだ吉屋信子さんの「女人平家」(とても面白い小説でした、念のため)での悪役イメージが強く、長いこと、あまり良い印象を持っていませんでした。
 でも、平家の公達の華やかな様子を描いた「平家公達草紙」の作者と想定され、出家後の建礼門院徳子にも援助をするなど、実際は親平家派の人物であったことを知り、彼を主人公にしたこの小説を読んでみたいとずっと思っていました。そしてようやく、図書館から借りて読むことが出来ましたので、こちらで紹介させていただきたいと思います。

 この小説は、藤原隆房と、平家の公達の交流を、激動の源平時代を背景に描いたものです。
 「婿入りするなら平家」とずっと思っていた隆房は、清盛の娘、典子と結婚します。ところがその直後、隆房は典子の姉の美しい姿をかいま見て、たちまち恋に落ちてしまいます。その女性こそ、高倉天皇への入内が決まっていた徳子だったのでした。物語は、隆房の徳子へのかなわぬ恋を軸に展開していきます。

 上の方でも述べたように、隆房は平家の様々な人々と交流するのですが、その中でも特に心を通わすのが重衡です。2人の出会いの場面からドラマティックでしたし、重衡が一ノ谷で捕らえられたあと、隆房と再会するシーンも感動的でした。。
 ネタバレになるので詳しくは書けませんが、隆房の徳子へのかなわぬ思いが、この小説では彼女と双子ということになっている重衡に向かっていくのです。そして隆房の徳子への思いが小督の事件へとつながっていくストーリー展開、なるほど、こういうとらえ方も出来るのねと納得でした。

 もちろん、「平家公達草紙」の中のエピソードも小説の中に盛り込まれていますので、平家の貴族としての姿を充分堪能することが出来ます。ラストシーンも、目の前に情景がぱっと広がっていくようでとてもきれいでした。楽しくしみじみと読むことが出来た1冊でした。


☆主な登場人物紹介

藤原隆房
 主人公。平凡な好青年だが、時と場合によっては感情が抑えられなくなるときがある。*「私はこの草紙を書くために生まれてきた」というせりふが印象的でした。

平 典子
 清盛の娘で隆房の妻。おとなしい性格だが、自分をはっきり主張するところもある。家族思い。

平 徳子
 高倉天皇の中宮。典子の姉。美しく優しい性格。

平 重衡
 徳子の双子の弟。ユーモラスで人を楽しませる明るいところと、平家のためには手段を選ばない冷徹なところを併せ持つ。隆房とちょっと怪しい関係にも…。*この小説での重衡さん、とても魅力的で、登場するたびにわくわくしました。隆房とのBLっぽいシーンにもどきどき。

平 維盛
 重盛の嫡男。美しくて心の優しい貴公子。気が小さく、政略や戦が苦手。

小督
 隆房の恋人だったが別れ、内裏で女房勤めをするうちに高倉天皇に見初められるが…。

☆舞台となっている年代
 嘉応二年(1170)~文治二年(1186)

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