平安夢柔話

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最近のこと(台風の日のことなど)

2011-09-29 09:21:01 | えりかの平安な日々 10~18
 日記はおろか、掲示板の書き込みも1週間以上、ご無沙汰してしまい、すみません。やっと日記を書こうという気持ちになったので、ここに記したいと思います。

 この1週間、人工衛星のかけらが落ちてきたり、中日ドラゴンズの落合監督の今シーズン限りでの退任が発表されたりと、大きなニュースがたくさんありました。
 まあ、監督の退任が決まったとたん、ドラゴンズの調子が良くなっていますが、ファンとしては複雑な気持ちです。やはり、落合さんが監督になって、ドラゴンズは優勝できるチームになったようなものですから…。何もシーズン途中で発表しなくても良いのにという気持ちです。
 とにかく、ドラゴンズには落合監督の退任を日本一で飾れるよう、頑張ってもらいましょう。

 さて、掲示板にもそうなるのではないかと書きましたが、台風15号、静岡を直撃でした。その台風の日の私の行動をちょっと書いてみたいと思います。

 9月21日、この日はだんなさんは病院の日、私は友人とカラオケの約束をしていて、電車で30分かけて静岡市内に行くことになっていました。
 しかし、その前の日から、台風は静岡を目指して一直線という感じでしたので、果たして静岡に行けるのか、心配していたのですが、当日の朝は雨も風もほとんどなく、電車も動いていたので、行くことにしました。ただ、帰ってこられなくなると困るので、泊まれるように着替えや飲み薬などは荷物の中に入れたのですが…。

 それで、朝八時半に友人と喫茶店で待ち合わせ、しばらくおしゃべり。彼女は静岡市内在住なので、簡単に出てこられたようです。

 そして11時頃、歩いて10分ほどの所にあるカラオケボックスに向かって出発。雨は降っていましたが、風はそれほど強くなく、私たちはレインコートを着ていたので服も濡れずにすみました。

 カラオケボックスではもう1人の友人(彼女も静岡市内在住)と待ち合わせていたので、3人で約3時間、歌いまくりました。そして午後3時前にカラオケボックスを出たら、ものすごい雨と風の音がしてびっくりしました。
 私は朝からつき合ってくれた友人と一緒にカラオケボックスを出て駅に向かったのですが、高い建物が建ち並んでいる道を歩いていたせいか、雨も風もそれほど強く感じませんでした。それに、少し歩くと地下道があるので、早々と階段を下りて地下にもぐってしまったので、あまり影響はなかったです。
 ただ、あとで知ったのですが…、その頃台風はすでに浜松あたりに上陸し、静岡にまっすぐ向かっていたようです。
 それと、もう一人の友人から聞いた話ですが、ちょうど私たちが駅に向かっている頃、ものすごい雷が鳴ったとか。また、夜のニュースで知ったのですが、県庁の近くにある木が倒れたとか、色々話を聞きました。多分、雷が鳴ったのは私たちが地下にもぐったあとだと思います。考えてみるとかなり危なかったかもしれません。もしかすると、一歩間違えば怪我をしていたかも…、そんなことを考えるとちょっと怖くなります。

 さてそんなわけで、無事に静岡駅に到着。このあとちょっと用事があるという友人とお別れしました。そして、駅でだんなさんと落ち合ったのですが、交通機関は電車もバスもすでに止まってしまっていました。
 だんなさんは家に帰るつもりだったようで、ホテルを予約してありませんでした。というのは、実は、この日の20日くらい前の台風12号がやってきた日、やはり用事で静岡に行くことになっていたので、これは大変だと言うことでホテルを予約したのですが、台風は四国の方に行ってしまい、結局無駄になってしまったことがあったからでした。

 そこで、駅のドトールコーヒーに入って交通機関が動くのを待つことにしたのですが、電車は多分、夜まで動かないだろうし、バスはわりと早く動くかもしれないけれど、私たちが乗り込む藤枝行きは距離も長いし、乗る人も多いだろうし、果たして乗れるだろうか…、そんなことを色々考えているうちにだんだん体の具合が悪くなってきてしまいました。それに、明日は私の病院の日で、また朝早く、こちらに出てこなければならないし。どうやら、静岡駅周辺のホテルはどこもすでにいっぱいになっているようでした。なのでやっぱり、無理を言っても、だんなさんにあらかじめホテルの予約を取ってもらえば良かったかもしれないと思いました。

 だんなさんも、私の具合が悪いのを見かねて、静岡駅からは少し離れているので、ここならあいているかもしれないということで、職場の学校近くにあるホテルを聞いてくれました。幸い、あいているということで早速タクシーで直行。まだ雨と風はかなり強かったです。

 案内された部屋は8階。窓には雨がたたきつけるような音がし、強い風のためゆらゆらと揺れていました。それでもやっと休めるということで、私はベッドに横になりました。やっと気持ちも落ち着き、体もほぐれていくようでした。ここがあいていて、本当に良かった…。

 バスは、5時半頃に動き出したようでした。友人たちも無事に帰ることが出来たようで一安心。朝からつき合ってくれた友人からのメールによると、バスに乗ろうとして市役所前の停留所で待っていたところ、藤枝行きのバスが来たそうです。そうしたらすし詰め状態で、「もしえりかちゃん達が乗っていたら大変だなあ」と思ったそうです。そんな状態では多分、私の体力が持たなかっただろうなあと思い、こうして泊まることが出来たことを幸せに感じました。

 夕食はホテル内の洋食レストランへ。私はペスカトーレのパスタとシーフードマリネを頂きました。おいしくて幸せ。だんなさんは煮込みハンバーグ、こちらもおいしかったそうです。

 夜はテレビを見てゆっくり過ごしました。今回の台風、かなり被害が出たようで、驚くと同時に、これから東日本大震災の被災地に向かうようで、被害がないことを祈るばかりでした。

 翌朝は7時頃起きて8時前に和食のバイキングの朝食を頂きました。ご飯、みそ汁、里芋の煮物、卵焼き、ほうれん草のごま和えなどをチョイス。おいしかったです。

 そしてホテルを出て、10分ほど歩いたところにある、私が通院している病院とだんなさんの職場である学校が入った建物へ。食後1時間ということで血糖値を測ってもらいました。前々回の診察で、私の血糖値がかなり高いことが判明していたので…。
 昨日の夜から普段よりもたくさん食べているので、ちょっと心配だったのですが、血糖値は正常値をまだ少し外れていたものの、だいぶ下がっていました。実はこの10日間、食事を減らして頑張っていたので、その成果が出たのかな?と思ったりしました。

 と言うわけで、思いがけないお泊まりが出来たのですが、家に帰ってくるとテンションが下がってしまいました。おまけにまた体調を崩してしまい、病院に行ったりしていたのですが、以前から書いていますように、長い目で見ると少しずつ良くなっています。何より、これだけ長い文章を一気に書けるようになったのですから…。これからも、肉体的にも精神的にもまだまだ波のある状態が続くかもしれないけれど、無理をせず、前向きに頑張っていこうと思います。

 最後に、台風15号、そして先日の台風12号で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。1日も早く復旧され、普通の生活に戻れますことをお祈りいたします。

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第53代 淳和天皇

2011-09-17 21:24:18 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  786~840
☆在位期間 823~833

☆両親
 父・桓武天皇 母・藤原旅子

☆略歴

 名は大伴。桓武天皇の第三皇子。

 延暦十七年(798)、元服。
 延暦二十二年(803)、三品に叙せられる。その後、兵部卿、治部卿、中務卿など歴任。
 弘仁元年(810)、薬子の乱で高岳親王(平城天皇皇子)が廃太子されたことにより、嵯峨天皇の皇太弟となる。
 弘仁十四年(823)、即位、嵯峨天皇の皇子正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子とする。
 天長十年(833)、皇太子に譲位。太上天皇となって淳和院に移り、淳和院または西院と称した。
 承和七年(840)、崩御。陵は大原野西嶺上陵。

 淳和天皇の業績としては、「検非違使を独立させ、左右検非違使庁を置く。」「巡察使を諸国に派遣した」「皇室の経済の不足を考え、上総・常陸・上野三国を親王任国とした。」ことなどが挙げられます。皇室や国のことを考え、新しい政策を取り入れていたようですね。

 また、淳和天皇は温雅な人物で、風雅・文物をこよなく愛し、宮廷詩人の代表者でもありました。個性の強い兄たち、平城天皇や嵯峨天皇に比べると一見目立たないように見えますが、政治的にも文化的にも優れた天皇だったと思います。ただ、皇位にはあまり執着していなかったようです。


☆父方の親族

祖父・光仁天皇 祖母・高野新笠

主なおじ

 多戸親王 早良親王

主なおば

 酒人内親王


☆母方の親族

 祖父・藤原百川 祖母・藤原諸姉(藤原良継女)

主なおじ

 藤原緒嗣

主ないとこ

 藤原家緒 藤原春津(以上・父は藤原緒嗣


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*安殿親王(平城天皇) *神野親王(嵯峨天皇) *伊予親王 *葛原親王 *賀陽親王 *万多親王 *仲野親王 *良岑安世

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *高志内親王(淳和天皇妃) *高津内親王(嵯峨天皇妃 *朝原内親王(平城天皇妃) *大宅内親王(平城天皇妃) *伊都内親王(阿保親王妃)
*甘南備内親王 *布勢内親王

主な甥・姪

 高岳親王・阿保親王・大原内親王(以上、父は平城天皇)
 仁明天皇・源 融・源 信 正子内親王(淳和天皇皇后)・有智子内親王(初代賀茂斎院)・源 潔姫(藤原良房室) (以上、父は嵯峨天皇)
 高棟王・高見王(高望王の父) (以上、父は葛原親王)
 平 茂世(平 貞文の祖父)・班子女王(光孝天皇妃 宇多天皇母)(以上、父は仲野親王)
 僧正遍昭(父は良岑安世)


☆主な后妃と皇子・皇女

 正子内親王(嵯峨天皇皇女) → 恒貞親王 恒統親王 基貞親王

 高志内親王(桓武天皇皇女) → 恒世親王 氏子内親王(伊勢斎王)

  橘氏子(橘 永名女)

 永原原姫


☆末裔たち

 淳和天皇の皇子のうち、恒世親王は淳和天皇の皇太子に、恒貞親王は淳和のあとを継いだ仁明天皇の皇太子に立てられましたが、恒世親王はすぐに皇太子を辞退し、二十代半ばの若さで世を去りました。
 また恒貞親王も、淳和天皇の崩御の翌々年に起こった承和の変で廃太子となり、淳和の皇子たちは皇位につくことはありませんでした。皇位は仁明天皇から文徳天皇へと、嵯峨天皇の血統が継いでいくこととなります。

 そこで淳和天皇の末裔たちの項では、承和の変で廃太子となった恒貞親王を「平安時代史事典」をもとに紹介いたします。

○恒貞親王(825~884)

 淳和天皇の第二皇子。母は、嵯峨天皇皇女の正子内親王。

天長十年(833) 仁明天皇の皇太子となる。
承和五年(838) 元服。
承和九年(842) 七月十五日嵯峨上皇の崩御ののちに起こった承和の変により皇太子を廃される。

 その後、淳和院の東の亭に住み、世に亭子親王といわれた。深く仏教に帰依した。

 嘉祥二年(849) 落飾、恒寂と号する。
 貞観十八年(876) 母太皇太后(正子内親王)が嵯峨上皇の故宮を改めて大覚寺となすと同時に初代門跡となる。
 元慶八年九月夜、衣服を浄め仏前に香華を供え、西に向かって結跏趺坐のまま入寂したといわれる。

 なお、同じ元慶八年、陽成天皇が藤原基経によって退位させられたあと、次期天皇の候補の1人にもなっています。性寛雅にして容姿端麗、挙止閑麗といわれました。

 承和の変によって運命を変えられてしまったようにも思えますが、本人は案外、父の淳和天皇に似て皇位に執着はそれほどなく、仏教に帰依する生活に安らぎを感じていたのではないかと思います。また、私の大好きな寺、大覚寺ゆかりの人物でもあるので、何となく親しみを感じます。

☆淳和天皇に関するお薦めのページの紹介

 ヨウダさんのサイト「平安京探偵団」の「こちらのページ
 平安京探偵団の団長先生、山田邦和教授の文章です。
 うちのだんなさんはこの文章を読み、淳和天皇のことが好きになったそうです。淳和天皇の人となりについて熱く語った文章ですので、ぜひご覧になって下さい。


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