平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第1回&池禅尼

2005-01-14 19:51:36 | 2005年大河ドラマ「義経」
 すっかり遅くなってしまいましたが、大河ドラマ「義経」第1回の感想です。

 冒頭の一ノ谷のシーン、かなりの迫力を感じました。平家の番兵達は皆、海に向かって警備をしていましたし、それを見下ろす義経の馬隊。空を飛ぶ鳥・・・
その静けさを破って、鬨の声をあげて一斉に急な崖を駆け下りる源氏の一群。期待感いっぱいの義経になりそうな予感がしました。
 そんな冒頭の期待あふれるシーンも、幕が開いて話が進む内に、私の心の中にまた不満が湧いてくるシーンが続きました。この点は残念でした。否定するのではなく、こうなって欲しいという私の気持ちとしてお話しさせてくださいね。
まず、「平治の乱」の描写があっけなさすぎました。義朝があんなに早く死んでしまうとは思いませんでした。
 それと、ナレーションが不親切ですね。「源氏と平家が対立した」というだけでは、歴史に詳しくない人たちには、何がなんだかわからないのではないでしょうか。保元の乱にしても平治の乱にしても、ただ単純に源氏と平家の争いと言うだけではないですよね。当時の貴族社会が大きく影響して起こった乱ですので、時代背景などを明らかにするためにも、できれば保元の乱、少なくても義経誕生あたりから物語をはじめて欲しかったです。
 また、貴族が一人も出てこないのは気になりました。平治の乱の主役とも言える、信西入道と藤原信頼は登場させて欲しかったです。

 またまたつっこんでしまったような気もしますが……、お許し下さいね。もう少し感想を書かせてもらいますね。

 常磐御前が清盛に召されたことによって、義経と平家の公達が兄弟のように過ごすという設定のようですが、のちに敵と味方に別れてしまうということでちょっと切ないお話になりそうですね。でも、こういうストーリー展開はとても期待が持てそうです。来週も楽しみに観ま~す。失望だけではなく、このように期待できることもいくつかはあったのです。

 ところで、今回登場した人物で私が気になったのは、池禅尼です。そうです、今回の義経の中で、「頼朝は亡き我が子家盛に生き写し。どうか命を助けてやっておくれ。」と食を断って清盛に懇願したあの尼さんです。

 そこでまず、池禅尼の系譜について調べてみました。わたしって、本当に系譜が好きなんですよね。・・・

 池禅尼藤原宗子は、中関白藤原道隆(道長の兄)の子息、隆家の子孫です。隆家には、一条天皇の中宮(のちに皇后)定子や、内大臣伊周など多くの兄弟姉妹がありますが、子孫が繁栄したのはこの隆家の系統だけなのです。(これって意外と知られていないのですよね。)
 隆家は、中納言にまで昇進し、二度も大宰権帥に任じられて大宰府に赴任したという、異色の経歴の持ち主です。若い頃は花山院に矢を射かけたりと、ずいぶん過激なことをしていますが、中年になってからはみんなから慕われる立派な公卿になりました。

 隆家には、良頼、経輔という二人の息子がいました。そのうち弟の経輔の子孫からは、後鳥羽天皇の生母藤原殖子、平治の乱の主役藤原信頼、奥州藤原氏の藤原秀衡の補佐役として活躍した藤原基成、のちに常磐御前の夫となる藤原長成など、源平時代に活躍した人物が多く出ています。

 池禅尼は、経輔の兄良頼の子孫になります。そして、1120年代の始め頃、平忠盛の後妻になったのではないかと推定されています。

 さて、池禅尼が頼朝の命乞いをした理由は、本当に亡きわが子に似ているという理由だけだったのでしょうか?
この話は、「平治物語」に出ている話なのだそうですが、当時の状況から考えて、池禅尼が頼朝の顔を直接見るということは、なかったような気がするのです。人から、「家盛さまに似ていますよ。」と聞いたということは充分考えられますが、それでは源氏嫡流の頼朝の命乞いをした理由としては、少し弱いような気がします。

 そこで、私も色々調べてみたのですが、どうやら頼朝の母方から「命を助けて欲しい。」という嘆願が、池禅尼の許に来ていたというような事が浮かび上がってきました。そして、それを陰で画策していたのが、上西門院統子内親王(鳥羽天皇の皇女で後白河上皇の同母姉妹)だと私は思っています。
 というのは、頼朝の母(平治の乱の年に死去)は、上西門院の女房だったという可能性が強く、頼朝も上西門院の許に出入りしていた。そして、池禅尼は上西門院の甥に当たる重仁親王の乳母であった事実。重仁親王の父が後白河や上西門院と母を同じくする崇徳院であったこと。当時は母を通しての結びつきがとても強い時代でした。
このようなことから、頼朝の母方が上西門院に頼朝の命乞いをし、上西門院から清盛の継母に当たる池禅尼に頼み込んできた。そして、池禅尼の必死の頼みを、元々情にもろい性格の清盛が、受け入れてしまったというのが真相ではないかと思います。

 一言つけ加えさせておきますが、清盛は「平家物語」に描かれているような、分からず屋のおじさんではありません。情にもろく、家族にも家臣にも優しい人間的な人物だったと私は思っています。そうでなければ、あのように平家を栄華に導くことはできなかったのではないでしょうか。権力者にも、人間的な面は必ずあるものです。今回渡哲也さんの演じる清盛は、そのあたりをしっかり演じてくれるのではないかと期待しています。

 ところで、主人が言っていました。「清盛は、頼朝の命を助けたのはいいとして、伊豆に流したのは失敗だな。俺が清盛なら、頼朝を自分の目の届くところに置いておく。平安京のどこかに閉じ込めて、二十四時間監視をつけておくな。もし、頼朝が脱走しようとしたら、すぐに打ち首にすればいい。」

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7 コメント

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こんばんは~ (持田新右ヱ門)
2005-01-14 21:53:34
こんばんは~。

さすがは、えりかさん!!

拝見させて頂いてとっても勉強になりました~。

これからも楽しみにしております!!



そして旦那様のおっしゃる通りですよね。

私なら平氏の娘と結婚させて婿として

一門衆に加えてしまうかも(^_^;)

姑は菅●きんさんのような人で

年がら年中「婿殿!」と責めるのも

厳しいものがありますよね。
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平清盛 (日光山)
2005-01-14 22:44:49
えりかさん、こんばんは。

平清盛はえりかさんが仰るとおりの人ですね。

十訓抄(じつきんしょう)には次の通り出ています。

「福原の大相国禅門(清盛のこと)はいみじき性質の人であった。人が自分のきげんをとるためにしたことは、おりにあわないにがにがしいことであっても、又おもしろくないことであっても、きげんよく笑った。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなことも無かった。寒い季節には小侍共に自分のきものの裾に寝させた。こんな時、早く目覚めると、彼らを十分に寝させる為にそっと起きた。家来といえないほどの下々の者でも、他人のいる前では一人前の家来として扱ってやったので、その者共は面目として、心にしみてありたがった」

清盛も老人になってから気短くなったようですが・・・。

平家物語にある「殿下乗合の事」や「鹿ヶ谷事件」は清盛にとって冤罪のようです。

前者は、重盛のしたことです。このことは当時の「玉葉」や「愚管抄」に出ています。

後者は「玉葉」に6月3日の日記に「京都中騒動し、上下諸人皆恐怖して、法皇の御所には参候する人も無いとの由を、清盛禅門は聞いて、大いにその軽薄を怒ったので、昨日今日あたりには少々院の御所へ参候するものも出てきたという」

以上は、海音寺潮五郎著「武将列伝」1の「平清盛」より引用しました。



旦那さんの言うことは最もですね。

関東というか、伊豆に流したのは、確かに失敗だったかも。

京周辺とか、西国に流したほうがよかったかも。

秀吉が家康公を関東に移したように。

これも結果的に失敗ですね、関東移封は。
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さすがです!! (なぎ)
2005-01-14 22:47:40
えりかさん こんばんは!

義朝の出番があまりにも呆気ないというのは、私も同感です。



池禅尼の頼朝の命乞い、なるほど~!!と感心いたしました。勉強になりました。

ありがとうございます!

当時の母方の力や肉親関係を見落としてはいけませんよね。



来週の放送も楽しみです♪
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TBさせていただきました♪ (なぎ)
2005-01-14 22:53:56
大河ドラマ「義経」の感想一回目ということで、トラックバックをさせていただきました。

ご了承くださいませ。
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平家の婿 (えりか)
2005-01-15 17:33:19
 持田新右ヱ門さん、こんにちは♪



 「義経」の感想と池禅尼について、読んで下さってありがとうございます。持田さんに「勉強になります」とおっしゃっていただいてとっても励みになりました。



 そうですね、頼朝を平家の婿に……、なかなか良い考えですよね。ついでに源氏の武士団もみんな抱え込んでしまえますものね。清盛は、摂関家の基実・基通父子を娘婿にして、摂関家の所領を抱え込んでいますが、源氏を抱え込んでしまうことは考えていなかったようですね。

 ところで、清盛の娘婿というと、姑さんは松坂慶子さんの時子さんということになりますね。う~ん、ちょっと怖いかも。では、では。
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「平家物語」の清盛と重盛 (えりか)
2005-01-15 17:47:02
 日光山さん、こんにちは♪



 「十訓抄」と「玉葉」の清盛についてのお話、教えて下さってどうもありがとうございました。特に、家臣とも言えない下々の者にまで心配りをしていたとは、やっぱり清盛は大した人物ですよね。



 ところで、「平家物語」では本当に清盛は損をしていますよね。重盛のやった悪いことをみんな清盛のせいにしているような所が「平家物語」のあちらこちらにあります。そうなると、「平家」の作者は重盛に近い人物かその関係者だったのかなとか、「平家」が琵琶法師によって語り継がれるうちに「悪の清盛と善の重盛」というスタイルができたのかなとか、色々妄想してしまいます。



 頼朝の配流先、やっぱり伊豆ではまずかったですよね。あのあたりには、源氏の武士団がたくさん住んでいることを清盛は気がつかなかったのでしょうか。では、では。
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トラックバックありがとうございました♪ (えりか)
2005-01-15 18:03:17
 なぎさん、こんにちは♪



 「義経」の感想と池禅尼について、読んで下さってありがとうございました。ドラマを観ていて、「確か頼朝の母方から池禅尼の許に頼朝の助命嘆願が来ていたということ、何かの本に書いてあったんだけど…。」ということをふと思い出したのです。

 その本、すぐにわかりました。角田文衞先生の「二条の后 藤原高子 ー業平との恋」の中の「池禅尼の本心」という項に書かれていました。それと野口実先生の「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」の「源義朝の妻」も参考にさせていただきました。どちらの本もお薦めです。それで、これらの本を読んで自分が思ったことを書いてみたのですが、「勉強になります」と言っていただいて嬉しく思いました。これからもこのように妄想気味なことを書いていくと思いますが、何かお気づきの点がありましたらどんどんおっしゃって下さいね。



 それから、なぎさんのブログにも書いておいたのですがトラックバックどうもありがとうございました。では、では。
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