平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

近況&7年前の今日

2010-05-30 22:08:13 | えりかの平安な日々 10~18
 皆様お久しぶりです。またまた2週間以上、更新をお休みしてしまいました。

 掲示板にもたびたび書いていますが、3週間くらい前から風邪をひいてしまいました。ここ3年くらい、風邪をひいても、「少しのどが痛い」「咳がちょっと出る」くらいで治ってしまったのですが、今回はかなりひどい風邪をひいてしまったようです。

 最初、のどの痛みがそれほどではなかったので、「今回も軽くすむのでは」と思ったのですが、そのうち、痰がからんで咳が止まらなくなりました。咳があまり出ない日もあり、「治ってきた、良かった~」と思ったとたん、次の日にはまた咳がひどくなるの繰り返しでした。
 それでも病院の薬で痰がからんだ感じはだんだん薄れてきたのですが、1週間くらい前から、風邪のウイルスがおなかに入ってしまい、おなかが痛くなったり気持ちが悪くなったりして、24日の月曜日と、25日の火曜日は食欲がなく、起きていられませんでした。
 そのため、26日の水曜日に行く予定だった東京への日帰りバスツアー旅行をキャンセルしました。とても残念でしたが、ただでさえバスに弱い私です。体の調子が悪いときの往復7時間のバス旅行は無理だと思い、断念しました。東京にはまた、元気になったら行こうと思います。

 現在ではようやく、食欲もほぼいつも通りになり、おなかの調子も八割方良くなったように思えます。こんな風に、今回の風邪はしつこかったです。

 おまけに、お恥ずかしい話ですが、精神的にも不安定でテンションも上がらず、そのため、下書きの出来上がった本の紹介記事の仕上げが全く出来ていません。それでも明日は、amazonで注文した本とCDが届くのでとても楽しみ、テンションも上がり気味です。それで日記を更新する気にもなったのですが…。

 今後の更新予定ですが、本の紹介よりも、15日にUPしたエリカの記事の続編を先にUPしたい気持ちが強いので、明日から頑張って文章を書き始めようと思っています。次の記事の更新、もうしばらくお待ち下さいませ。

 さて、タイトルのもう一つの話題に移りますね。

 7年前の今日、私は生まれて初めて十二単を着ました。まるで平安時代の姫になったような気分で感激でした。

 以前にも書いたことがあるのですが、私は7年前の今日、京都の仁和寺で行われた、「日本文化フォーラム21 紫の心~源氏物語の世界」というフォーラムに参加しました。
 このフォーラムでは、午前中に当時花園大学教授の山田邦和先生(現・同志社女子大学教授)の平安京についての講演を拝聴させていただき、十二単の着つけの実演を拝見させていただきました。昼食には王朝料理を頂き、午後には十二単を着せていただいて仁和寺の中を回遊しました。つまり、平安時代の歴史と衣食住を堪能できた、とても有意義なフォーラムで、参加費は少し高めでしたが、参加して良かったです。

 特に、上にも書いたように十二単は感動でした。私はそれまで、平安時代の古典や歴史小説を読んだとき、登場人物の装束についてのイメージだけはどうしても出来ないでいました。それが、十二単を体験したあとは、装束を着た感覚が簡単にイメージできるようになり、古典や歴史小説を読むのがいっそう楽しくなりました。

 更に、ネットでお知り合いになった方々の幾人かと、この時にお会いでき、楽しいひとときを過ごすことができました。その頃は、ネットの掲示板に書き込みをはじめてまだ間もない頃で、当然、ネットで知り合った方と実際にお会いするのも初めてでしたが、何か初めてという気がしなくて、皆様の中にすーっと溶け込むことが出来ました。

 もし、この日のフォーラムに参加しなかったら、このブログを開設することもなかったかもしれません。そんな意味でも、7年前の今日は忘れられない日です。あれからもう7年だなんて…、時の経つのは早いですね。

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エリカ、15歳の誕生日に寄せて

2010-05-15 09:00:10 | 猫のお部屋
 本日5月15日で、我が家の愛猫、エリカは15歳になるはずでした。しかし、エリカは約2ヶ月前の3月18日に天国に行ってしまいました。

 エリカがいなくなってからの2ヶ月間、ペットロスになってしまったり、色々なことがあり、感情のコントロールが大変でした。でも最近は、突然寂しくなったり哀しくなったりすることはたまにあるものの、エリカの姿を思い出すと心がほのぼのすることも増えてきました。ようやく気持ちも落ち着いて、「猫のお部屋」を更新できる状態になりましたし、何よりも、今日はエリカの誕生日なので、エリカの思い出を色々と書いてみようと思います。少し長くなると思いますが、しばらくの間、おつき合いいただけますと幸いです。

 エリカは15年前の7月、生後2ヶ月の時に、だんなさんの職場の同僚の家から我が家にもらわれてきました。なぜ、私たちが猫をもらうことになったのかについては、こちらの記事にも書いたのですが、だんなさんが通勤の途中にティナという、弱々しい子猫を拾ってきたことがきっかけでした。

 私たちはティナに水を飲ませたり、体を温めたりして介抱したのですが、拾ってきた次の日の夕方にぐったりしてしまったので、タクシーで動物病院に連れて行きました。病院では全力を尽くしてくれたのですが、1週間後に天国に行ってしまいました。

 私たち、特にだんなさんは、ティナの世話がほとんど出来なかったことを後悔していました。そしてだんなさんは、「ティナの替わりに生後2ヶ月くらいの女の子の猫が欲しい」と言いだし、猫探しを始めてしまいました。ティナが生後2ヶ月くらいの女の子だったからです。私は猫を飼うことには気が進まなかったのですが、だんなさんは職場の同僚とどんどん話を進めてしまい、ついに猫を家に連れてくることになってしまいました。

 しかし、ちょこんと座っているその子猫を見たとたん、私は魔法にかけられてしまいました。小さくて白くて、目がくりくりしていて、まるでぬいぐるみみたい。そして、かわいらしい仕草と声。「この猫はエリカだ」と思いました。

 こうしてエリカは私たちの家族の一員になったわけですが、かわいらしいと同時にかなりのいたずら者で、私の手足をかじったり電話中に電話機の上に乗って電話を切ってしまったりなど、まあすごかったです。イヤホンのコードをかむのが好きで、いくつイヤホンを壊されたか…。

 それでもかわいらしい顔でにこっとされると、かわいそうであまり怒ることも出来ませんでした。

 猫は1年で大人になるので、エリカは、連れてきた次の年の初めくらいから、発情するようになってしまいました。最初、子猫を生ませることも考えたのですが、猫は一度に5~6匹生むこともあるとか。そんなにたくさん子猫が生まれたらとても世話が出来ないし、そうかといって生まれた猫を捨てるのはかわいそうなので、避妊手術を受けさせることにしました。エリカが1歳の誕生日を迎えて1ヶ月くらい経った頃だと思います。
 避妊手術をすると性格もおとなしくなり、飼いやすくなると猫の飼い方の本に書いてあったとおり、手術のあと、確かにエリカはおとなしくなり、私の手足をかじることも少なくなりました。でも、かわいらしさは以前と全く同じでした。

 次にエリカに起きた大きな出来事は、その翌年の家の引っ越しだったと思います。家を引っ越すと、いなくなってしまうこともあるとか、トイレのしつけが大変だとか、色々話を聞いていたのですが、エリカに限ってはその心配は全くなく、すぐに新しい家に慣れ、トイレの場所も一発で覚えました。

 考えてみると、エリカはとても頭の良い猫でした。

 エリカが5歳くらいの時、図書館から毎月もらっていた目録に、『あなたの猫の偏差値は?(加藤由子 須藤真澄・ワニグックス)』という本があったので、面白そうだと思って借りたことがありました。

 この本は、「猫の頭の良さ」「猫の社会性(甘える力など)」「猫の野生度」、それぞれ20個くらいの質問と、解凍の選択肢があり、選択肢には5段階の点数がつけられていました。そして、自分の猫ちゃんに一番近い解答の選択肢の点数を加算していき、総合点によって3つの項目の偏差値を出す…という本でした。

 結論からいうと、エリカは頭の良さの偏差値55、社会性の偏差値68、低いのではないかと思っていた野生度も43と、かなり優秀でした。

 例えば頭の良さには、「猫の言語力は?」という質問があり、エリカに該当するのは「時と場合によって鳴き方や鳴き声を変える」で、これは文句なしに5点満点でした。
 エリカはおなかの空いたときはかすれた声で鳴き、甘えるときはかわいい声で鳴き、怒ったときや怖がっているときは大声で泣きました。時々「ワン」とも鳴きましたし。
 また、私たちが外出するときはしばしば「イヤーン」と鳴きました。
 ある時、遊びに来た友人を駅まで送っていこうと思って、食器戸棚の上にいたエリカに、「行ってくるね」と声をかけたところ、「イヤーン」と鳴いたので、その友人は「人間の言葉までしゃべるのね」と感心していました。

 しかし、一番びっくりしたのは「工夫する力」です。

 「コップに水が入っています。でも、水が少なすぎて猫ちゃんの舌べらが水に届きません。さて、猫ちゃんはどうするでしょう?」という質問があったので早速実験してみることに。

 この質問の5点満点は、「前足で水をすくって飲む」でしたが、このような行動を取る猫はまずいないのだそうです。もちろん、エリカもここまではやりませんでした。
 4点は、「コップを倒してこぼれた水を飲む」でした。エリカはこれに該当しました。
 そして、実は、こういう行動を取る猫もめったにいないのだそうです。たいていのねこは、コップを倒すことはするのですが、水がこぼれると逃げていくのだそうです。エリカのように飲んでしまう猫は、「あ、飲めるじゃん」という知恵が働いているのだそうで、これはかなりすごいことなのだそうです。つまり、「工夫する力」があるということなのですよね。ただ、床が水びだしになってしまうのは困りましたが…。

 あ、「頭の良さ」より「社会性」の偏差値が高かった理由は簡単、甘えん坊だからです。あと、「心に余裕がある」という結果も出ました。

 そんなわけで、トイレも一発で覚えたのでしょうね。このことは、更に数年後、今の家に引っ越してきたときも同様でした。本当に利口な猫でした。

 その他、エリカがどんなにかわいくて面白い猫だったかは、猫のお部屋のカテゴリにUPした記事を読んでいただければと思います。かなり親ばかなことも書いています。

 さて、エリカの病気のことについて、亡くなる前後のことについて、私はどうしても書けないでいました。でも、最初の方にも書きましたが、心に余裕が出来たせいか、今なら書けるような気がします。

 エリカは12歳の時、腎臓が弱っていると宣告されていました。病院の先生の話によると、12歳の猫の9割が腎臓病とのこと、つまり、腎臓病は猫の老化現象の一つなので仕方がないようです。

 なので私とだんなさんも、「老猫だから仕方がないよね」と、エリカの病気を一応受け止めることが出来ました。ちなみに、猫の12歳は人間の60代半ばくらいに当たります。

 そこで、病院から買った腎臓病用の療法食を与えてみたのですが、エリカは嫌がって食べてくれませんでした。なので、前に住んでいたところで通っていた動物病院から7歳以上用キャットフード(市販の物よりは良いかと思いましたので)を買い、その中に腎臓病の猫の介護経験のある友人から紹介していただいたネフガードという薬を混ぜて与えたところ、エリカは残さず食べてくれました。病気を宣告されてから2年以上、元気でいられたのは、薬が効いていたからだと思います。

 エリカは昨年の夏、食欲がなくなり、少しやせてしまったのですが、秋になる頃にはまた食欲が戻ってきました。エリカが夏が苦手なのはいつものことなので、それほど気にしませんでした。

 ところが、年が明けたくらいから明らかに食欲が落ち始めました。でも、あまり食べなかった次の日は食欲が戻り、残さず食べてしまう…という状態でしたので、「老猫だからこうなるのは仕方がないよね」とだんなさんと話していました。もし、この時に病院に連れて行っていたら…と、私は何度も何度も後悔しました。

 エリカの食欲がすっかりなくなったのは1月24日のことでした。それでも時々、部屋中を歩き回ってはいましたが…。ちょうど日曜日でしたし、次の日はだんなさんの通院日でしたので、「明後日に病院に連れて行こう」とやっとその日になって腰を上げました。本当に、エリカにはかわいそうなことをしました…。

 そして次の日、エリカがとても辛そうなので、だんなさんの病院の予約時間を遅らせ、朝一番に動物病院に駆け込んだ…というわけです。もし、予定通り、病院に連れて行くのをもう1日延ばしていたら、エリカとのお別れがもっと早くなったかもしれません。それだけは救いです。

 エリカは、すぐに入院になりました。そしてその日の午後、だんなさんの携帯電話に病院から連絡がありました。その時に、腎臓病がかなり進んでいたことを知らされました。
 腎臓がどのくらい悪いかという事を知るには、血中クレアチニンを調べるのが一つの方法なのですが、エリカの場合、クレアチニンが11もあったそうです。正常値は1以下なので、かなりの重傷です。ちなみに、人間の場合、クレアチニンが5になると緊急透析だそうです。
 更に、先生の話では、腎臓の細胞が少しでも生き残っていれば、血液点滴によってクレアチニンが下がってくるとのことでしたが、エリカのように重傷な場合はほとんど期待できない…とのことでした。
 そして、明日の夕方になれば血液点滴の効果がどうだったかわかるので、その頃に病院に来て欲しいと言われました。この時点で、私は一応、覚悟を決めていました。

 次の日の夕方、だんなさんと一緒に病院に向かったのですが、病院への道があれだけ長く、辛く思えたことはありません。
 しかし、先生から聞かされたことは、「エリカちゃんのクレアチニンは8、8まで下がりました。このまましばらく、点滴を続けます。」とのことだったのです。何か信じられなくて、体から力が抜けていくのを感じました。
 更に、エリカに面会したところ、わりに元気な声で鳴いていました。これだけ元気になったエリカを見るのは久しぶりのような気がしました。ただ、私たちが帰ろうとすると「ギャー」と鳴いて怒りましたが。

 それからエリカが退院するまでの4日間、私は毎日、夕方にエリカに会いに行きました。27日に会いに行ったときは、ケージの中から飛び出しそうな勢いで立ち上がったので、先生が驚いていました。
 次の28日は、私たちが病室に入っていくと、隣のケージにいた猫がうらやましがって鳴きだしたので、エリカは、「うらやましいでしょう!?」とでもいうように、ニャーニャー泣き始めました。隣の猫も負けずに鳴くので、エリカもさらに大きな声で鳴きました。まるで猫の口げんかです。「他の猫と喧嘩できるくらいの元気があるならもう大丈夫ね」と、私はだんなさんと話していました。そして、「あの猫ちゃん、絶対に女の子よ。だからライバル意識を燃やしてしまったのよ」とも言いました。

 入院してから6日目の30日、エリカのクレアチニンが6まで下がったので、エリカは退院することになりました。まだまだ健康な猫ちゃんのようには行きませんが、「家族と一緒の方がエリカちゃんのためにもいい」という病院の判断で退院することになったのです。そして、その次の週から、週3回の通院しての皮下点滴(猫の場合、透析はできないので、皮下点滴が透析の替わりのようなものです)が始まりました。

 退院した次の週、エリカはあまり元気がなく、「退院させるのが早すぎたかな?」とも思いましたが、その次の週から元気が出たので安心しました。お皿に入れた食事もほぼ全部食べられるようになりました。

 また、以前のように椅子の上にぴょんと飛び乗ったり、朝には私たちを起こしに来るようにもなりました。ニャーニャー鳴きながら歩き回ったり、面白い仕草をして私たちをいやしてくれました。特に、点滴を受けた日は元気が良いようでした。

 でも、血液検査の結果は少しずつ悪くなっていたのです。また元気がなくなってしまうのでは…という心配はありましたが、まだまだ大丈夫、5月の誕生日までは大丈夫よねと思っていました。

 しかし、その日は意外と早く来てしまいました。ちょうどその頃、真冬のように寒い日が続いたかと思ったら、夏日になったような日もあり、寒暖の差が激しかったことが、エリカに影響してしまったのかもしれません。

 3月13日の検査で、エリカのクレアチニンが入院した当時と同じくらいになっていることがわかりました。
 先生の話によると、この前のようにエリカを1週間入院させれば、クレアチニンの値が少し下がるかもしれないが、この前のように6まで下がることはまずない。それよりも、家族と一緒にいて、週3回くらい病院に通い、エリカの苦しみを少しでも和らげるという治療方法を採った方がエリカのためにもいい。私たちも精一杯力を尽くします」とのことでした。
 辛い決断でしたが、弱っているエリカをひとりぼっちで入院させるのはかわいそうだし、何よりもエリカはとても臆病な猫なので、たくさんの人や動物が出入りする病院に置いておくのは精神的にきついだろうからということで、そのようにすることにしました。

 実際その頃から、エリカは食欲も元気もなくなっていました。でも、トイレには一人で行っていましたし、椅子の上に飛び乗ることもありましたし、夜は私たちの布団で眠りました。
 しかし、17日の水曜日の夕方くらいから、手足が痙攣する症状が出始め、歩くこともおぼつかなくなったので、トイレには抱き上げて連れて行ってあげました。それでも、私とだんなさんのそばに行って甘えようとして、必死に歩こうとしていました。何か、かわいそうで見ていられませんでした。

 次の日は通院日でしたので、「点滴をすれば少しは元気になるかもしれない」という期待を込めて、エリカを病院に連れて行きました。
 しかし、そこで先生から言われたことは、「この子はもう、ほとんど意識がありません。週を越せるかどうかわからない状態です。覚悟だけはしておいて下さい」でした。

 エリカはその日の午後3時35分に亡くなったのですが、まるで、「明日はパパの仕事の日だから、ママ一人では大変だから、パパが家にいる今日、行ってしまおう」というように、さっさと天国に行ってしまいました。結局、完全介護が必要だったのもたった1日だけでしたし…。
 そして、エリカが天国に行った前後、私の周りでは不思議なことが色々と起こりました。この記事がとても長くなってしまったので、そのことについては日を改めて、書かせていただきたいと思っています。

 記事の上の方に載せた写真は、3月9日に撮影したもの、エリカが私の椅子の上で丸くなっているところです。このころはまだ元気で、椅子の上に飛び乗ったりしていました。
 この写真が、私の携帯電話のカメラでエリカを撮影した最後の写真になってしまいました。


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第61代 朱雀天皇

2010-05-04 22:14:20 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  923~952
☆在位期間 930~946

☆両親
 父・醍醐天皇 母・藤原穏子(藤原基経女)


☆略歴

 名は寛明。醍醐天皇の第十一皇子。

 延長元年(923)七月二十四日、藤原忠平の東五条第において誕生。同年十一月十七日親王宣下。同三年十月二十一日、三歳で東宮に立てられました。

 実は、醍醐天皇の最初の皇太子は第一皇子の保明親王でしたが位につくことなく二十一歳で世を去り、続いて皇太子に立てられた親王の子、慶頼王も五歳で亡くなりました。皇太子が相次いで世を去ったことは、太宰府に左遷されてその地で世を去った菅原道真の怨霊だとささやかれました。

 寛明親王は幼少時、母、藤原穏子のふところに抱かれて育ち、外に出ることもなかったようです。穏子は、「道真の怨霊にとりつかれては大変」と考え、親王を大切に育てていたのでしょう。そのためか、寛明親王は優しくて温順な性格であったと伝えられます。

 延長八年(930)十一月、醍醐天皇の譲位に伴い、大極殿において八歳で即位しました。摂政には醍醐天皇の遺詔により、藤原忠平が就任します。

 天慶九年(946)、同母弟の成明親王(村上天皇)に譲位。退位の理由は不明だそうです。
 退位後は朱雀院を御所とし、天暦六年(952)三月十四日、病により落飾。法名を仏陀寿と称しました。同年四月十五日、仁和寺に移り、八月十五日に至り崩御。享年三十。

 朱雀天皇の御代は、天変地異が相次ぎ、東国では平将門が、西国では藤原純友が叛乱を起こすといった、不安定な時代でした。優しい性質の朱雀天皇は、このような不祥事や天変地異が起こるのは自分のような者が天皇であるからかもしれないと悩み、早々と退位してしまったのかもしれません。

 和歌に優れ、「朱雀天皇御集」も遺しているそうです。


☆父方の親族

祖父・宇多天皇 祖母・藤原胤子(藤原高藤女)

主なおじ
 敦慶親王 敦実親王 斉世親王 行明親王

主なおば
 均子内親王 柔子内親王(伊勢斎王)

主ないとこ
 中務(父は敦慶親王)
 源 雅信 源 重信(父は敦実親王)
 源 庶明(父は斉世親王)


☆母方の親族

祖父・藤原基経 祖母・操子女王(人康親王女)

主なおじ
 藤原時平 藤原仲平 藤原忠平

主なおば
 藤原温子(宇多天皇中宮)

主ないとこ
 藤原保忠 藤原顕忠 藤原敦忠 藤原褒子(宇多上皇妃・京極御息所) 藤原仁善子(保明親王妃) 女子(克明親王妃) 女子(敦実親王妃) 女子(藤原実頼室)(以上、父は藤原時平)
 藤原暁子(有明親王妃)(父は藤原仲平)
 藤原実頼 藤原師輔 藤原師尹 藤原師氏 藤原寛子(重明親王妃・徽子女王の母)(以上、父は藤原忠平)
 均子内親王(母は藤原温子)


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *克明親王 ○保明親王 *重明親王 *有明親王 ○成明親王(村上天皇) *代明親王 *章明親王 *盛明親王 *源 高明 *兼明親王(源 兼明)

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *勤子内親王 *雅子内親王 ○康子内親王 *勧子内親王 *英子内親王

主なおい・めい

 憲平親王(冷泉天皇) 守平親王(円融天皇) 為平親王 輔子内親王 資子内親王 選子内親王 規子内親王(伊勢斎王) 具平親王 楽子内親王(伊勢斎王) 昌平親王 永平親王 盛子内親王(藤原顕光室) 広平親王 昭平親王(以上、父は村上天皇)
 源 博雅(父は克明親王)
 慶頼王・煕子女王(以上、父は保明親王)
徽子女王(伊勢斎王・村上天皇女御)(父は重明親王)
 源 重光・源 保光・源 延光・荘子女王(村上天皇女御)・厳子女王(藤原頼忠室)・恵子女王(藤原伊尹室)(父は代明親王)
 源 忠清・源 泰清・女子(藤原公季室)(父は有明親王)
 源 伊陟(父は兼明親王)
 源 俊賢・源 経房・女子(為平親王室)・源 明子(藤原道長室)(父は源 高明)
 藤原高光・藤原為光・尋禅・愛宮(藤原師輔室)(母は雅子内親王)
 深覚・藤原公季(母は康子内親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 煕子女王(保明親王皇女) → 昌子内親王

 藤原慶子(藤原実頼女)


☆末裔たち

 朱雀天皇には皇子がいませんでしたので、皇位は同母弟の成明親王が継承しました(村上天皇)。

 皇子はいませんでしたが、朱雀天皇は煕子女王との間に皇女を一人もうけました。では、朱雀天皇のただ一人の皇女である昌子内親王について、「平安時代史事典」の記述をもとに簡単に記すことにします。

昌子内親王(950~999)

 朱雀天皇の第一皇女。母は女御煕子女王。

 天暦四年(950)八月、内親王となる。
 応和元年(961)十二月、着裳、三品に叙される。
 応和三年(963)二月、東宮憲平親王の妃となる。
 康保四年(967)、憲平親王即位(冷泉天皇)。九月、冷泉天皇の皇后となる。しかし、天皇の病のためほとんど同居せず、里第に下がっていることが多かったと伝えられます。
 天延元年(973)七月、皇太后となる。
 寛和元年(985)二月、北岩倉山の大雲寺内に観音院を創立し、自ら行啓して供養した。仏心の篤い后だったようです。
 寛和二年(986)七月、太皇太后となる。
 長保元年(999)十二月一日、権大進橘道貞(和泉式部の最初の夫)の三条第において崩御。三条太皇太后、観音院太后と称される。歌人としても有名。

 紫式部の伯父、藤原為頼や、和泉式部の父、大江雅致が仕えていたことでも有名です。和泉式部も、その母も、女房として昌子内親王に仕えていました。

 幼くして父に先立たれ、夫となった冷泉天皇とも疎遠で、家庭的には少し寂しい生涯だったのでは…と思います。それでも、献身的に仕えていた多数の役人や女房に囲まれていたことは救いだったような気がします。


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