平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

第74代 鳥羽天皇

2009-04-28 09:46:46 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1103~1156
☆在位期間 1107~1123

☆両親
 父・堀河天皇 母・藤原苡子(藤原実季女)

☆略歴

 名は宗仁。堀河天皇の第一皇子。

 康和五年(1103)正月、藤原顕隆の五条第にて誕生。その年の六月に親王宣下され、八月に皇太子に立てられました。
 嘉承二年(1107)七月、父堀河天皇の崩御のあとを受けて践祚します。しかし、天皇はまだ五歳だったため、祖父の白河法皇が院政を執り行いました。

 永久五年(1117)、藤原璋子が入内、翌年、立后します。璋子は元永二年(1119)、顕仁親王を出産しました。白河法皇は大変喜び、顕仁の1日も早い即位を熱望します。そして、顕仁が五歳になった保安四年(1123)、鳥羽天皇を退位させてこの皇子を位につけてしまいます。これが崇徳天皇です。
 実は、白河法皇と璋子は以前からただならぬ関係だと噂されており、璋子が鳥羽天皇に入内したあとにもその関係は続いているとまことしやかに言われていました。そのため顕仁親王は白河法皇の子ではないかという説もあります。白河法皇が顕仁親王の1日も早い即位を願ったのはこのためではないかとも言われています。

 さて、退位したことによって上皇となった鳥羽は「新院」と呼ばれましたが、そのようなわけで政治の実権は白河法皇が握っていました。

 しかし、大治四年(1129)に白河法皇が崩御すると状況が一変、鳥羽はようやく院庁を開き、自ら院政を執り行うことができるようになります。
鳥羽上皇は、白河法皇と対立して宇治に隠居していた藤原忠実を朝廷に復帰させ、その愛児頼長を重く用いました。更に璋子を遠ざけ、藤原長実女の得子を非公式に入内させ寵愛しました。

 そして保延五年(1139)、得子は待望の皇子を出産します。躰仁と名づけられたこの皇子は、間もなく皇太子に立てられました。鳥羽上皇は永治元年(1141)、崇徳天皇を退位させ、躰仁親王を位につけます。これが近衛天皇です。

 しかし、近衛天皇は体が弱く、久寿二年(1155)、わずか17歳で崩御してしまいます。そこで鳥羽上皇は、璋子との間にもうけた第四皇子の雅仁親王を位につけました。これが後白河天皇です。崇徳上皇は自分の皇子、重仁親王の即位を願っていたのですが、かなえられませんでした。

 こうした無理な皇位継承は、朝廷内で対立を呼ぶこととなります。特に、政治から完全に疎外されてしまった崇徳上皇の憤りは深かったようです。さらに、摂関家内でも、忠実・頼長父子と、頼長の兄忠通の対立が激化しつつあり、どちらもいつ内乱に発展してもおかしくない状態でした。

 鳥羽上皇は近い将来、争乱が起こることを予測し、病が重くなった保元元年(1156)六月、源平の武士を召集して内裏と鳥羽殿の警護を厳重にします。しかし、その年の七月二日、安楽寿院御所において崩御しました。享年五十四。何か、火種をたくさん残して逝ってしまった上皇…、と言えそうですね。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源 顕房)

主なおじ
 敦文親王 覚行法親王 覚法法親王 聖恵法親王

主なおば
 (女是)子内親王 令子内親王 禎子内親王 善子内親王 官子内親王 子内親王


☆母方の親族

祖父母
 祖父・藤原実季 祖母・藤原経平女

主なおじ
 藤原公実

主ないとこ
 藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成 藤原璋子 女(源有仁室) 女(藤原経実室) *以上、父は藤原公実

 なお、鳥羽天皇の母方については、閑院流藤原氏の系譜も参考になさって下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *寛暁 *最雲法親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *宗子内親王(「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) *喜子内親王 *懐子内親王


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原璋子(藤原公実女 待賢門院) → 顕仁親王(崇徳天皇)*白河天皇の子であるという説もある 通仁親王 君仁親王 雅仁親王(後白河天皇) 本仁親王(覚性法親王) 禧子内親王 統子内親王(上西門院 後白河天皇准母)

 藤原泰子(藤原忠実女 高陽院)

 藤原得子(藤原長実女 美福門院) → 躰仁親王(近衛天皇) 叡子内親王 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(二条天皇中宮 高松院)

 三条局(藤原家政女) → 妍子内親王(近衛朝の伊勢斎王)

 紀 家子(石清水八幡宮別当紀光清女) → 道恵法親王 覚快法親王 双林寺宮阿夜御前

 春日局(藤原実能養女) → 頌子内親王(高倉朝の賀茂斎院)


☆末裔たち

 鳥羽天皇のあとの皇位継承については、「略歴」の項でも述べましたが、崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇と、彼の皇子たちが皇位についています。その後は、後白河天皇の子や孫たちによって皇位が引き継がれていきます。

 なお、鳥羽天皇の皇子のうち、子を残したのは崇徳天皇と後白河天皇だけです。

 皇女も、二条天皇の中宮となった(女朱)子内親王を除いて全員、生涯独身を通しました。(女朱)子内親王は、二条天皇と離別してしまいますが、その後、藤原信西の子、澄憲との間に海恵をもうけたと、藤原兼実の日記「玉葉」に記述されています。詳しくは(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きてをご覧下さいませ。


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近況報告

2009-04-25 15:03:02 | えりかの平安な日々 04~09
 皆様お久しぶりです。またまた更新間隔が開いてしまいました…。

 現在、「系譜から見た平安時代の天皇」の新しい記事、「第74代 鳥羽天皇」を作成中です。

 それで、今週初めには下書きがほぼ終わっていたのですが、経歴などがはっきりしない人物が3人ほどいて、「平安時代史事典」で調べようと思ったのですが、私が持っているCD-ROM板はマウスで色々なところをクリックしなければ使えません。私の視力ではマウスを使うのがかなりきついので、いつもだんなさんに手伝ってもらっています。
 ところが、だんなさんは今週、仕事が忙しく、申し訳なくてとても手伝ってもらうことが出来ませんでした。それでも、本日は仕事がお休みで少し暇になったので、ようやく手伝ってもらって調べることができたので、下書きがようやく完成しました。これから見直しと手直しを行いますが、多分、2~3日中にはお披露目できると思います。

 ところで、「鳥羽天皇」を書いていて、「閑院流藤原氏の系譜」「第77代 後白河天皇」の記事に不十分なところがあったことに気がつきました。

 「閑院流藤原氏」の方は、待賢門院璋子以外の藤原公実の娘たちについての記述が抜けていたのに気がついたので、「閑院流藤原氏の系譜 第2回」に「璋子以外の公実の娘たち」の項を追加しておきました。
 また、「第77代 後白河天皇」の方は、おじとおば、兄弟姉妹に抜けている人物がかなりたくさんいたので、それらの人物を追加しておきました。こうしておけば、次に予定している崇徳天皇を書くのが楽になります。後白河天皇と崇徳天皇は系譜が一緒ですので…。崇徳天皇は白河天皇の子だという説もありますが、今回は通説通り、鳥羽天皇の子として、話を進めさせていただきます。それで、注として白河天皇の子という説もあることを追記しておけばいいかなと…。

 では、このあとは私の近況を。

 昨日24日は、4週間に一度の病院診察の日でした。そうです、まだ通院しております…。

 それで、ここ2週間ほど、久しぶりに体調を崩したり、疲れやすかったりすることが多かったのですが、血圧は正常でひと安心。ただ、体重が2キロ増えていました。まずいです…。体調が悪かった原因は体重が増えてしまったからかもしれません。そう言えば最近、脂っこい物や甘い物を食べすぎていたような。そこで、脂っこい物や甘い物は控えめにして、夜遅くは食べないことを心がけなくては…と改めて決心しました。

 それから、前回の血液検査から3ヶ月が経過したので、検査をすることになり、血を取られました。多分、肝臓と中性脂肪の数値が悪くなっているんだろうなあ。結果は次の診察日に知らせてもらうことになっています。ちょっと覚悟していなくては。

 ちなみに私は現在、5種類の薬を飲んでいます。5種類とも1日1回なので、それほどたくさんの薬を飲んでいるという気がしないのですが、一つでも減らせるように頑張らなくてはね。


 そして話はがらりと変わって…、先週の木曜日に髪の毛を25センチ切ってきました。

 実は私の髪の毛、毛先が痛んでしまい、細くなったり色が薄くなったりしていたので、思い切って切ることにしました。それに、当分、京都で十二単を着る予定もないし、たとえ着ることになってもウィックを買えばいいかなと思ったのです。

 それで現在、肩よりちょっと長いくらいの長さになりました。もっと切ろうかなと思ったのですが、美容師さんに、「これ以上切ると髪の毛がはねたりしてあまり良くない」と言われてしまったのでやめにしました。でも、何か軽くなったような気分です。髪を洗うとき、ついついシャンプーをつけすぎてしまったりしますが、洗うのも乾かすのもとても楽になりました。

 ただ、私は髪の毛が伸びるのが早いので、またすぐに長くなってしまいそうですが、しばらくはこの長さで色々髪型を変えて 楽しみたいと思います。


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陽成院 ー乱行の帝

2009-04-16 09:53:08 | 図書室1
 今回は、2009年3月16日に紹介した「泥(こひ)ぞつもりて」の巻末に参考文献として挙げられていたこの本を紹介いたします。

☆陽成院 ー乱行の帝
 著者=山下道代 発行=新典社・新典社選書17 価格=1470円

☆本の内容紹介
 9歳で天皇となり、17歳で自らの乱行により退位させられ、82歳で崩御するまで歴史の外側を生きた帝、陽成院。その数奇な生き様を、在位時だけでなく退位後にも眼を向け、余す所なく描く。

☆目次
 皇太子貞明親王
 在位時代
 退位
 正系交替
 父権なき上皇
 妃たち
 高子廃后
 醍醐朝の陽成院
 朱雀朝の陽成院
 村上朝の陽成院
 崩御
 和歌と陽成院
 いくつかの挿話
 生涯余生
 (付)水尾


 陽成院(第57代天皇 868~949)に関しては、「物狂いの君」などと言われ、その乱行がクローズアップされるなど、あまり評判が良くないようです。
 しかし、「陽成院はなぜ若くして退位させられたのか?」「退位後の陽成院と、光孝、宇多、醍醐天皇との関係、更に、摂関家との関係はどうだったのか?」「陽成院の退位後の立場は?」など、私にとっては以前から興味が尽きない方でした。

 この、「陽成院 ー乱行の帝」は、「三代実録」などの史料、「大和物語」「大鏡」などの古典に描かれている陽成院についての記事を紹介し、彼の生涯をまとめたものです。特に、私が最も知りたかった退位後の陽成院に多くのスペースが割かれていて嬉しかったです。

 それで、退位後の陽成院ですが、やはり、同世代の宇多天皇にはかなりの対抗心と反感を持っていたようです。そのため、退位して数年間は、馬を乗り回したり、源融の宇治の別荘を占拠したりするなど、乱行も多かったようですね。更に、光孝・宇多天皇に天皇家の正系が移ってしまったため、陽成院には上皇としての発言力も権力も与えられていなかったようなのです。

 しかし、時が経つと共に状況も変化し、醍醐天皇から朱雀天皇へと御代が移る頃の陽成院は、自分に変わって帝位についたこれらの光孝・宇多系の天皇たちとの融和を計っていったようです。陽成天皇が所持していた代々の天皇に伝えられていた御物を、朱雀天皇に進呈したことなどがその一例です。
 また、陽成院はれっきとした摂関家の血を引く上皇だったため、摂関家からはかなり大切にされていたようです。つまり、陽成院は決して、宮廷社会から疎外されていたわけではなかったようなのですよね。何となくほっとした気持ちになりました。

 またこの本では、陽成院に関する逸話や人となり、妃たちや皇子皇女、周りの人々にも触れられていて、とても興味深かったです。

 そして圧巻なのは、最後に収められていた陽成院の父、清和天皇の御陵への紀行文です。清和天皇は退位後出家し、水尾の里で荒行を送ったと伝えられ、御陵も水尾の山の中にあるそうです。水尾の里の人々が千年の間、御陵を守り続けていたことが紀行文からひしひしと伝わってきて感動的でした。


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平安京散策

2009-04-07 10:13:24 | 図書室1
 久しぶりに、角田文衞先生の御著書を紹介します。

☆平安京散策
 著者=角田文衞 発行=京都新聞社 価格=1680円

☆本の内容紹介
 「源氏物語」「平家物語」など、王朝文学を追想しながら往時の遺跡60を訪ね分かりやすく解説した平安京探訪記。

☆目次
平安の都
大内裏
 豊楽院ほか
左京
 枇杷殿 堀川院 三条西殿 源経基の墳墓ほか
右京
 左獄と右獄 学館院ほか
洛東
 東北院 中川のわたりほか
洛北
 紫野の斎院 大雲寺ほか
洛西
 嵯峨院 定家の小倉山荘ほか
洛南
 安楽寿院ほか
 平安京と私 ーあとがきに代えて


 以前から気になっていて、「読んでみたい」と思っていた本でしたが、絶版のため古書店を探してもなかなか見つかりませんでした。
 しかし嬉しいことに今年の1月に復刊されたという情報を知り、こちらからネット購入しました。送料はかかりましたが、それでも買って全然損ではなかったです。

 この本は、内容紹介や目次からもわかりますように、平安京とその周りに点在する古典や平安時代史に登場する史跡を紹介したものです。内容も、貴族の邸宅はもちろん、寺社、墓所、官庁など、とても多彩です。なので、平安京への案内書として最適だと思います。それぞれの史跡が現在の京都市内のどのあたりにあるかも解説されているので、この本を片手に、京都を歩いてみるのも楽しいと思います。

 更に嬉しいことに、単なる史跡案内にとどまらず、その史跡にまつわる歴史や人物についても丁寧にわかりやすく紹介して下さっているのです。これは歴史好きにとってはたまりません。

 ちなみに「左京」の項に収められている竹三条宮の内容を少し紹介してみます。

 冒頭には、「枕草子」第六段のエピソードが紹介されています。この第六段の舞台がまさに竹三条宮なのです。

 そのあと、この邸宅は元々平生昌(桓武平氏高棟流)の邸宅であったこと、長保元年(999)、一条天皇の中宮藤原定子のお産のために邸宅を提供したこと(この時、生昌は定子の中宮大進でした)、中宮はここで敦康親王を生んだこと、翌年、定子は再び懐妊して竹三条宮にて(女美)子内親王を生んだが、翌日、その薄幸の生涯を閉じたことが述べられています。

 …と、ここまではよく知っていたのですが、その後の竹三条宮について、私はあまりよく知りませんでした。でも、この本に詳しく載っていたのです。嬉しかったです。

 すなわち、寛弘五年(1008)、生昌は竹三条宮を定子所生の皇子皇女たちに献上し、その功で播磨守に任じられます。
 一条天皇の崩御後、竹三条宮は脩子内親王(一条天皇第一皇女、母は藤原定子)の御所と定められて修築され、内親王は長和二年(1013)にこちらに移られました。その時、清少納言も脩子内親王のお供をしていたのではないかと書かれていました。

 さらに時が流れ、脩子内親王は永承四年(1049)にこの御所で亡くなり、竹三条宮は、宮の養女、藤原延子(後朱雀天皇女御、実父は藤原頼宗、母は定子の兄藤原伊周の女、そのため、脩子内親王と延子の母はいとこ同士ということになります))に、そして延子が嘉保二年(1095)に亡くなった後には、延子が産んだ正子内親王に伝えられます。

 ところが承徳二年(1098)二月二十二日に起こった大火によって竹三条宮は焼けてしまいます。これに目をつけた関白藤原師通は、代替えの御所を正子内親王に献上し、竹三条宮の故地を摂関家領とし、北に隣接する小二条殿と合併してしまいます。こうして南北二町に及ぶ二条東洞院殿が造成されたのでした。そして、
この大邸宅は、白河法皇以来、院御所ないし里内裏として大きな歴史的役割を演ずるこ
ととなったのだそうです。

 最初は受領階級の平生昌の邸宅だったのが、定子中宮の産所に提供され、やがて脩子内親王の御所となり、内親王の養女とその娘に伝領され、火事で焼けてしまったために摂関家の領地となる、何か波乱に富んだ邸宅ですね。でも、その変遷の面白さにはちょっとわくわくします。

 このように、この本では史跡一つ一つの歴史や、関わった人物について興味深く解説されています。そして、角田先生の平安京や平安時代に対する深い愛情も感じられます。何度も読み返してみたい本だと思いました。お薦めです。

*私は2008年5月、竹三条宮址の向かいにある、在原業平の邸宅址を訪れました。その時のレポートを、新緑の京都で装束体験こちらに載せてあります。竹三条宮についても少し触れてありますし、近隣にある邸宅址についても紹介してありますので、ご興味のある方はご覧になってみて下さい。


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第73代 堀河天皇

2009-04-01 09:42:56 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1079~1107
☆在位期間 1086~1107
☆両親
 父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源顕房)

☆略歴

 名は善仁。白河天皇の第二皇子。

承暦三年(1079)七月九日誕生。二宮と称され、十一月三日親王宣下されました。

 応徳三年(1086)十一月二十六日立太子、即日父帝のゆずりを受けて践祚します(一宮敦文親王はすでに世を去っていました)。この時、関白師実を摂政としましたが、上皇の院中における聴政が慣例化し、のちに院政といわれた政治形態がここに始められたと言えます。

 次いで天皇は寛治三年(1089)正月、紫宸殿において元服、翌四年師実の摂政を関白に改め、更に嘉保元年(1094)師実の辞表を納れて、その男師通を関白に任じました。成人した天皇は政務に精励し、剛直な師通の補佐もあって、必ずしも上皇の聴政に拘束されなかったそうです。

 また、政治だけでなく文化面も熱心でした。詩歌管弦にも優れ、特に笛が得意だったようです。

 長治二年(1105)以降、しばしば病を得、その度に譲位の議も起きましたが、嘉承二年(1107)七月十九日、堀河院にて崩御しました。享年29歳。この時、天皇のそばにいた乳母子たち、側近たち、女房たちがそろって号泣したと伝えられています。天皇が周囲の人々からどれほど慕われていたかがわかるような話ですね。

*堀河天皇は、堀河院(左京三条二坊九・十町)を祖父の師実から譲り受けていました。天皇は堀川院を愛し、在位期間の大半をここで過ごしました。
 また、女流文学として知られる「讃岐典侍日記」は、典侍として天皇の側近に仕えていた藤原長子が、天皇の発病から崩御までの一ヶ月間、献身的に看護した様子を哀切につづったもので、天皇への細やかな愛情が感じられる感動的な日記です。
  (参考) 「平安時代史事典」「平安京散策」


☆父方の親族

祖父母
 祖父・後三条天皇 祖母・藤原茂子(藤原能信養女 実父は藤原公成)

おじ
 実仁親王 輔仁親王

おば
 聡子内親王 俊子内親王 佳子内親王 篤子内親王

いとこ
 源 有仁・守子内親王・怡子内親王・信証・行恵(以上、父は輔仁親王)


☆母方の親族

祖父母
 祖父・源 顕房 祖母・源 隆子(源 隆俊女) 養祖父・藤原師実

主なおじ
 源雅実 源 顕仲 源 国信 源 雅兼

おば
 源 師子

主ないとこ
 源 顕通 源 雅定(以上、父は源 雅実)
 覚法法親王 藤原泰子 藤原忠実(以上、母は源 師子)
 待賢門院堀河*百人一首80番の作者(父は源 顕仲)


☆主な兄弟姉妹

兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
 ○敦文親王 *覚行法親王 *覚法法親王 *聖恵法親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○(女是)子内親王 ○令子内親王 ○禎子内親王 *善子内親王 *官子内親王 *子内親王


☆后妃と皇子・皇女

 篤子内親王(後三条天皇皇女)

 藤原苡子(藤原実季女) → 宗仁親王(鳥羽天皇)

 大夫典侍(康資王女) → 宗子内親王(崇徳朝の賀茂斎院) *「宗」は実際はりっしんべんに宗という字

 藤原宗子(藤原隆宗女)*のち、藤原家保の妻となる → 寛暁

 藤原時綱女 → 最雲法親王

 母不詳 →喜子内親王(近衛朝の伊勢斎王)

 母不詳 → 懐子内親王


☆末裔たち

 堀河天皇のあとは、皇子宗仁親王が五歳で践祚しました。これが鳥羽天皇です。以下、皇位は鳥羽天皇の子孫たちによって受け継がれていくこととなります。

 ついでに堀河天皇の他の皇子・皇女たちについても簡単に触れておきます。

 宗仁親王以外の皇子二人はそれぞれ出家、寛暁、最雲法親王と称しました。寛暁(1102~1159*平安時代史事典による。生年に関しては1103年説もある)は真言僧となり、のちに大僧正に昇りました。最雲法親王(1105~1162)は天台僧となり、のちに第49代天台座主になりました。

 一方、3人の内親王のうち、宗子内親王は崇徳朝の賀茂斎院、喜子内親王は近衛朝の伊勢斎王です。懐子内親王に関しては、その実在が「紹運録」から確認できるだけで、他の史料には一切記録がないため、内親王宣下の年月日など、経歴は不明だそうです。


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