☆生没年 1103~1156
☆在位期間 1107~1123
☆両親
父・堀河天皇 母・藤原苡子(藤原実季女)
☆略歴
名は宗仁。堀河天皇の第一皇子。
康和五年(1103)正月、藤原顕隆の五条第にて誕生。その年の六月に親王宣下され、八月に皇太子に立てられました。
嘉承二年(1107)七月、父堀河天皇の崩御のあとを受けて践祚します。しかし、天皇はまだ五歳だったため、祖父の白河法皇が院政を執り行いました。
永久五年(1117)、藤原璋子が入内、翌年、立后します。璋子は元永二年(1119)、顕仁親王を出産しました。白河法皇は大変喜び、顕仁の1日も早い即位を熱望します。そして、顕仁が五歳になった保安四年(1123)、鳥羽天皇を退位させてこの皇子を位につけてしまいます。これが崇徳天皇です。
実は、白河法皇と璋子は以前からただならぬ関係だと噂されており、璋子が鳥羽天皇に入内したあとにもその関係は続いているとまことしやかに言われていました。そのため顕仁親王は白河法皇の子ではないかという説もあります。白河法皇が顕仁親王の1日も早い即位を願ったのはこのためではないかとも言われています。
さて、退位したことによって上皇となった鳥羽は「新院」と呼ばれましたが、そのようなわけで政治の実権は白河法皇が握っていました。
しかし、大治四年(1129)に白河法皇が崩御すると状況が一変、鳥羽はようやく院庁を開き、自ら院政を執り行うことができるようになります。
鳥羽上皇は、白河法皇と対立して宇治に隠居していた藤原忠実を朝廷に復帰させ、その愛児頼長を重く用いました。更に璋子を遠ざけ、藤原長実女の得子を非公式に入内させ寵愛しました。
そして保延五年(1139)、得子は待望の皇子を出産します。躰仁と名づけられたこの皇子は、間もなく皇太子に立てられました。鳥羽上皇は永治元年(1141)、崇徳天皇を退位させ、躰仁親王を位につけます。これが近衛天皇です。
しかし、近衛天皇は体が弱く、久寿二年(1155)、わずか17歳で崩御してしまいます。そこで鳥羽上皇は、璋子との間にもうけた第四皇子の雅仁親王を位につけました。これが後白河天皇です。崇徳上皇は自分の皇子、重仁親王の即位を願っていたのですが、かなえられませんでした。
こうした無理な皇位継承は、朝廷内で対立を呼ぶこととなります。特に、政治から完全に疎外されてしまった崇徳上皇の憤りは深かったようです。さらに、摂関家内でも、忠実・頼長父子と、頼長の兄忠通の対立が激化しつつあり、どちらもいつ内乱に発展してもおかしくない状態でした。
鳥羽上皇は近い将来、争乱が起こることを予測し、病が重くなった保元元年(1156)六月、源平の武士を召集して内裏と鳥羽殿の警護を厳重にします。しかし、その年の七月二日、安楽寿院御所において崩御しました。享年五十四。何か、火種をたくさん残して逝ってしまった上皇…、と言えそうですね。
☆父方の親族
祖父母
祖父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源 顕房)
主なおじ
敦文親王 覚行法親王 覚法法親王 聖恵法親王
主なおば
(女是)子内親王 令子内親王 禎子内親王 善子内親王 官子内親王 子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原実季 祖母・藤原経平女
主なおじ
藤原公実
主ないとこ
藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成 藤原璋子 女(源有仁室) 女(藤原経実室) *以上、父は藤原公実
なお、鳥羽天皇の母方については、閑院流藤原氏の系譜も参考になさって下さい。
☆兄弟姉妹とおい・めい
兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*寛暁 *最雲法親王
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*宗子内親王(「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) *喜子内親王 *懐子内親王
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原璋子(藤原公実女 待賢門院) → 顕仁親王(崇徳天皇)*白河天皇の子であるという説もある 通仁親王 君仁親王 雅仁親王(後白河天皇) 本仁親王(覚性法親王) 禧子内親王 統子内親王(上西門院 後白河天皇准母)
藤原泰子(藤原忠実女 高陽院)
藤原得子(藤原長実女 美福門院) → 躰仁親王(近衛天皇) 叡子内親王 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(二条天皇中宮 高松院)
三条局(藤原家政女) → 妍子内親王(近衛朝の伊勢斎王)
紀 家子(石清水八幡宮別当紀光清女) → 道恵法親王 覚快法親王 双林寺宮阿夜御前
春日局(藤原実能養女) → 頌子内親王(高倉朝の賀茂斎院)
☆末裔たち
鳥羽天皇のあとの皇位継承については、「略歴」の項でも述べましたが、崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇と、彼の皇子たちが皇位についています。その後は、後白河天皇の子や孫たちによって皇位が引き継がれていきます。
なお、鳥羽天皇の皇子のうち、子を残したのは崇徳天皇と後白河天皇だけです。
皇女も、二条天皇の中宮となった(女朱)子内親王を除いて全員、生涯独身を通しました。(女朱)子内親王は、二条天皇と離別してしまいますが、その後、藤原信西の子、澄憲との間に海恵をもうけたと、藤原兼実の日記「玉葉」に記述されています。詳しくは(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きてをご覧下さいませ。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る
☆在位期間 1107~1123
☆両親
父・堀河天皇 母・藤原苡子(藤原実季女)
☆略歴
名は宗仁。堀河天皇の第一皇子。
康和五年(1103)正月、藤原顕隆の五条第にて誕生。その年の六月に親王宣下され、八月に皇太子に立てられました。
嘉承二年(1107)七月、父堀河天皇の崩御のあとを受けて践祚します。しかし、天皇はまだ五歳だったため、祖父の白河法皇が院政を執り行いました。
永久五年(1117)、藤原璋子が入内、翌年、立后します。璋子は元永二年(1119)、顕仁親王を出産しました。白河法皇は大変喜び、顕仁の1日も早い即位を熱望します。そして、顕仁が五歳になった保安四年(1123)、鳥羽天皇を退位させてこの皇子を位につけてしまいます。これが崇徳天皇です。
実は、白河法皇と璋子は以前からただならぬ関係だと噂されており、璋子が鳥羽天皇に入内したあとにもその関係は続いているとまことしやかに言われていました。そのため顕仁親王は白河法皇の子ではないかという説もあります。白河法皇が顕仁親王の1日も早い即位を願ったのはこのためではないかとも言われています。
さて、退位したことによって上皇となった鳥羽は「新院」と呼ばれましたが、そのようなわけで政治の実権は白河法皇が握っていました。
しかし、大治四年(1129)に白河法皇が崩御すると状況が一変、鳥羽はようやく院庁を開き、自ら院政を執り行うことができるようになります。
鳥羽上皇は、白河法皇と対立して宇治に隠居していた藤原忠実を朝廷に復帰させ、その愛児頼長を重く用いました。更に璋子を遠ざけ、藤原長実女の得子を非公式に入内させ寵愛しました。
そして保延五年(1139)、得子は待望の皇子を出産します。躰仁と名づけられたこの皇子は、間もなく皇太子に立てられました。鳥羽上皇は永治元年(1141)、崇徳天皇を退位させ、躰仁親王を位につけます。これが近衛天皇です。
しかし、近衛天皇は体が弱く、久寿二年(1155)、わずか17歳で崩御してしまいます。そこで鳥羽上皇は、璋子との間にもうけた第四皇子の雅仁親王を位につけました。これが後白河天皇です。崇徳上皇は自分の皇子、重仁親王の即位を願っていたのですが、かなえられませんでした。
こうした無理な皇位継承は、朝廷内で対立を呼ぶこととなります。特に、政治から完全に疎外されてしまった崇徳上皇の憤りは深かったようです。さらに、摂関家内でも、忠実・頼長父子と、頼長の兄忠通の対立が激化しつつあり、どちらもいつ内乱に発展してもおかしくない状態でした。
鳥羽上皇は近い将来、争乱が起こることを予測し、病が重くなった保元元年(1156)六月、源平の武士を召集して内裏と鳥羽殿の警護を厳重にします。しかし、その年の七月二日、安楽寿院御所において崩御しました。享年五十四。何か、火種をたくさん残して逝ってしまった上皇…、と言えそうですね。
☆父方の親族
祖父母
祖父・白河天皇 母・藤原賢子(藤原師実養女 実父は源 顕房)
主なおじ
敦文親王 覚行法親王 覚法法親王 聖恵法親王
主なおば
(女是)子内親王 令子内親王 禎子内親王 善子内親王 官子内親王 子内親王
☆母方の親族
祖父母
祖父・藤原実季 祖母・藤原経平女
主なおじ
藤原公実
主ないとこ
藤原実隆 藤原実行 藤原通季 藤原実能 藤原季成 藤原璋子 女(源有仁室) 女(藤原経実室) *以上、父は藤原公実
なお、鳥羽天皇の母方については、閑院流藤原氏の系譜も参考になさって下さい。
☆兄弟姉妹とおい・めい
兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*寛暁 *最雲法親王
姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
*宗子内親王(「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) *喜子内親王 *懐子内親王
☆主な后妃と皇子・皇女
藤原璋子(藤原公実女 待賢門院) → 顕仁親王(崇徳天皇)*白河天皇の子であるという説もある 通仁親王 君仁親王 雅仁親王(後白河天皇) 本仁親王(覚性法親王) 禧子内親王 統子内親王(上西門院 後白河天皇准母)
藤原泰子(藤原忠実女 高陽院)
藤原得子(藤原長実女 美福門院) → 躰仁親王(近衛天皇) 叡子内親王 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(二条天皇中宮 高松院)
三条局(藤原家政女) → 妍子内親王(近衛朝の伊勢斎王)
紀 家子(石清水八幡宮別当紀光清女) → 道恵法親王 覚快法親王 双林寺宮阿夜御前
春日局(藤原実能養女) → 頌子内親王(高倉朝の賀茂斎院)
☆末裔たち
鳥羽天皇のあとの皇位継承については、「略歴」の項でも述べましたが、崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇と、彼の皇子たちが皇位についています。その後は、後白河天皇の子や孫たちによって皇位が引き継がれていきます。
なお、鳥羽天皇の皇子のうち、子を残したのは崇徳天皇と後白河天皇だけです。
皇女も、二条天皇の中宮となった(女朱)子内親王を除いて全員、生涯独身を通しました。(女朱)子内親王は、二条天皇と離別してしまいますが、その後、藤原信西の子、澄憲との間に海恵をもうけたと、藤原兼実の日記「玉葉」に記述されています。詳しくは(女朱)子内親王 ~激動の時代を愛に生きてをご覧下さいませ。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る