平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

洋食屋さんのショートケーキ

2005-02-26 18:01:56 | えりかの平安な日々 04~09
 今月初めて二日間更新を休んでしまいました~。
でも、サイトやブログを長く続ける秘訣は、「無理をしない。」「時々休む。」ということだと(←言い訳?)、私は思っています。なので、これからも2、3日更新がないこともあるかもしれませんが、どうか見捨てないでやって下さいませ…。

 さて、本日の写真は、私の誕生日にランチを食べに行った近所の洋食屋さんのショートケーキです。昨日、そこの店に久しぶりにランチを食べに行ったので、ついでにお持ち帰りとして、のイチゴショートケーキとチーズケーキを買ってきました。
 それで、昨日の夜遅く食べたのですが、おいしかったです。何か本当に「手作りケーキ」という感じがするのですよね。ケーキ作りは中学校の家庭科で経験したことがありますし、私が持っている料理の本にも作り方が載っているのですが、面倒なことが嫌いな性格なのでなかなか自分では手作りしないのです。なので、おいしいケーキを捜して買って来るというわけなのです。と言うわけで、近所の洋食屋さんにこんなおいしいケーキがあることがわかったときは感激でした。昨夜は、久しぶりにそんなおいしいケーキを食べることができて幸せでした。

 ところで、そのケーキが乗っているお皿についても、少しお話ししますね。御覧になってわかると思いますが、おそろいのお皿です。
 実はこのお皿、静岡市内の駿府城外堀内の一戸建て県営教員住宅に住んでいた頃に、スーパーの福引きで当てたものなのです。しかも、4本中2本が当たりだったので、お皿を2枚もらうことができたのでした。ものすごくラッキーでした。だって、私の前にくじを引いた人は、9本引いて1本も当たらなかったのですもの。お皿も、大きすぎず小さすぎず、今でもとても重宝しています。
 ところが、それ以来、私はスーパーの福引きが全く当たらなくなりました。このお皿を当てたことで運を使い果たしてしまったのかもしれませんね。
 でも、このお皿を当ててから、だいぶ時が経っています。そろそろ何か大きな物が当たるといいなあ。京都一泊旅行なんか当たったらすてき♪

大河ドラマ「義経」第7回&藤原基房

2005-02-23 21:03:42 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第7回の感想です。

 今回、一番印象に残ったのは北条時政と政子親子です。
 政子はすっかり頼朝に恋していますね。前回は頼朝のことを「殺してやる!!」なんて言っていたのに、嫌いは好きの裏返しだったのでしょうか。いずれにしてもとてもほほえましかったです。
 でも、頼朝の方は相変わらず亀の前といちゃいちゃしていましたね。「北条の姫をめとっても大切なのはそなただけじゃ。」と言ったりして…。そう言えば後年、頼朝の妻となった政子は、亀の前に嫉妬して彼女の家を壊してしまうのですよね。そのあたりも描かれるのでしょうか。男勝りの政子と、心底から頼朝に頼りきっている風情の亀の前。この二人の対決が、この後どのように描かれていくのか、期待しています。
 時政ですが、蛭ガ小島に乗り込んでいくところが面白かったです。ただ娘と世間体を心配している、田舎の親ばかのお父さんに見えてしまいました。頼朝に、「政子とはそのようなことにはならない。」と言われて単純に信じてしまうあたり、「このお父さん、大丈夫かな?」と思ってしまったのですが…。

 一方、主人公の遮那王は、清盛のことをずっと忘れていなかったのですね。ちょっと切なかったです。
 それにしても遮那王くん、金売吉次の野望に気がつかず、「新しい国を作るのだ!」と奥州に向かうことを決心するあたりは、とても純粋ですね。腹に一物ある頼朝とは正反対です。これから世の中の荒波にもまれていくのでしょうけれど、何か遮那王のことがとても心配になってしまいます。

 ただ、今回の放送はどのエピソードも中途半端で、物足りなく思いました。
徳子の入内についての話し合いの場面は、特に物足りなかったです。また、遮那王と弁慶の今後にしても、怒っている重盛にしても、みんな「来週に続く」という感じでしたよね。……と言うわけで、来週に期待します。

 さて、その「怒っている重盛」に関してのことなのですが、重盛の息子・資盛の家来と摂政藤原基房の家来との路上での乱闘騒ぎが、今回の最後の方で描かれていました。藤原基房というと、その前にちょこっと登場していましたよね。平家に対する批判をぶつぶつ言っていた貴族たちの中に混じっていました。

 そこで、多分来週も登場すると思いますので、この藤原基房について少し調べてみました。

 藤原基房(松殿)、天養元年(1144)生まれ、寛喜二年(1230)没。87歳ですか。う~ん、意外に長生きしていたのですね。

 父は藤原忠通、兄は藤原基実、弟は藤原兼実です。永万二年(1166)、兄基実の死によって六条天皇の摂政を譲られました。その後、高倉天皇の摂政、そして関白を勤めました。
ところで、基房の前に摂政を勤めていた基実は、平清盛の女婿に当たります。
そのため、基実が亡くなるとそのばく大な所領は妻の盛子、つまり清盛の娘が相続することとなり、基房にはほんの少しの所領しか譲られませんでした。
 実はこれには、裏から清盛に知恵をつけた人がいたのでした。
清盛の側近の貴族、藤原邦綱です。彼は基実が亡くなったとき、清盛にこうささやいたのです。
「基実公の所領はみんな盛子さまの所領にしてしまいなさい。」
 清盛はそれを受け入れます。つまり、清盛は摂関家の所領を抱え込んでしまったわけです。
 兄の死によって摂政と一緒に、そのばく大な所領も譲られると思っていた基房にとって、これは大きな誤算でした。この時から基房は、平家に恨みを抱くようになったのだと思います。しかも政治の実験は後白河上皇と清盛に握られ、摂関とは名ばかりでしたから…。

 ところが、建春門院滋子の死によって、後白河上皇と清盛の関係にひびが入り始めると、基房にも運が向いてきます。彼は後白河上皇と結び、反平家政策を次々と打ち出すようになるのです。
 治承三年(1179)、盛子が24歳の若さで亡くなると、後白河上皇は摂関家の所領を没収してしまいました。それから間もなく、平重盛が世を去ります。そして、彼の息子維盛に譲られることになっていた知行国の越前国を、取り上げてしまうのです。
基房も上皇に協力していたことは言うまでもありません。盛子の産んだ子ではありませんが、早く父を失い、平家の庇護を受けていたとも言える基通(基実の子)を飛び越え、まだ8歳の自分の子・師家を権中納言に押し込んでしまったのがその例です。
 しかし、清盛も黙っていませんでした。治承三年十一月、清盛は福原より大軍を率いて上洛、クーデターを起こします。その結果、後白河上皇は鳥羽殿に幽閉されます。
 基房も関白を解官され、大宰権帥に左遷されました。彼は大宰府に赴く途中出家、備前国にとどまることになります。

 ところが、基房にはもう一度チャンスがやってくるのです。寿永二年(1183)七月、平家は源義仲に追われて都落ちします。そして義仲が都に侵入してくると、その頃都に戻っていた基房は早速、義仲に接近したのでした。義仲と結ぶため、基房は自分の娘伊子(当時17歳)を義仲の妻として差し出したのでした。
 その甲斐あってか、基房の子・師家はその年の11月に摂政になることができました。基房も太閤として、ようやく政界に実力を持つことが可能となったのです。
 しかし、義仲は翌治承三年一月二十一日(二十日とも)、源義経・範頼の率いる鎌倉軍に攻められ、あっけない最期をとげてしまいます。翌二十二日、師家は摂政を辞任することとなります。こうして基房の政界復帰計画はあえなく挫折したのでした。

しかし、基房はよほど政界に未練があったのでしょうね。それから約十五年後、その頃の内大臣源通親と、以前義仲に嫁がせた伊子を結婚させているのです。通親はその頃、関白藤原兼実を失脚させ、政界の実権を一手に握っていました。基房は通親と結ぶことによって三度、政界復帰を計りたかったのかもしれませんね。
しかしそれも、通親の急死によって挫折することとなるのですが…。

 摂政・関白と言っても名ばかりで、清盛によって関白の座を追われ、その後はその時その時の権力者と結ぶことでしか生きる道がなかった、基房の哀しいような人生です。それほど摂関家の力は衰退していたとも、言えるかもしれません。
また、兄の基実の子孫が近衛家、鷹司家、弟の兼実の子孫が一条家、二条家、九条家と、五摂家として栄えていくのですが、基房の子孫は、こうした摂関を出す家になることができませんでした。

 ところで最後にもう一つ、後日談をつけ加えさせていただきます。
基房の娘伊子が源通親との間にもうけた子は、その後出家し、曹洞宗の開祖となりました。つまり道元その人です。基房は、道元の外祖父ということになるのですよね。これも系譜の面白いところですね。

猫の日

2005-02-22 13:49:42 | 猫のお部屋
 今日は、2月22日。2が三つで「ニャンニャンニャン」ということで猫の日なのだそうです。と言うわけで、我が家の小さなエリカに感謝の気持ちを込めて、またまたこちらに登場させてみました。
いつも、私たちをいやしてくれてありがとう♪

 今回の写真は、エリカがうちのだんなさんの靴下で遊んでいるところです。
そうなのです、エリカは本当に変わったものが好きなのです。猫用おもちゃを与えても見向きもしません。小さい頃は、ポケットティッシュの包みが好きで、しょっちゅうそれで遊んでいました。もう少し大きくなると、電気コードを縛るエナメル線が気に入ってしまい、転がしたりかんだりして遊んでいました。

 そして最近のお気に入りは、私やだんなさんが脱いだ靴下や服です。特に靴下は大のお気に入りで、においをかいだり枕にして寝たりしています。きっと私たちのにおいがついているので安心なのでしょうね。時々なめたりかんだりして、靴下に穴を開けてしまうので困るのですが…。

 これを書いている現在、エリカはカーペットの上で横になっています。えりかちゃん、これからも元気で長生きして、私とだんなさんをいやしてね。

ハプニングと訂正

2005-02-20 11:58:12 | お知らせ・ブログ更新情報
 二日間降り続いていた雨もやみ、本日は久しぶりに晴天です。でも、相変わらず風が強いです…。風が強いと寒い、だから外に出たくないです。

 ところで、2月17日の夜、我が家の小さなエリカの写真つきの記事をUPしましたが、ちょっとハプニングがあったのです。投稿ボタンを押したあと、確認のために私のブログを見に行ったところ、エリカの写真はちゃんとUPされていたのですが、本文が……。なんと私のブログの1ページ目が長々とUPされているではありませんか。タイトルは「水が好きな猫」なのに、本文はカレンダーから始まり、タイトルやカテゴリー、さらには大河ドラマの感想、静岡の美容院に行ったこと、藤原道長…。いったいなぜこのようなことになったのか、未だにわかりません。とにかく、2月17日の夜9時から9時30分頃見にいらっしゃった方は、何が何だかわからなかったと思います。お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。

 それからもう一つお詫びです。

 大河ドラマ第6回の感想の中に、静岡県田方郡韮山町が伊豆市の一部になっていると書きましたが、これは誤りです。本文の方も訂正しておきましたが、こちらでも訂正させていただきますね。
 ちなみに伊豆市は、昨年の4月に、伊豆半島の真ん中あたりにある4つの町、田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町、土肥町が合併してできた市です。なので、韮山町は今でも韮山町のままですので…。
私、時々このような間違いをやるのですよね。気をつけなくては…。間違いを見つけられた方、遠慮なく指摘して下さいね。

☆カテゴリーに「雑記」を追加しました。
どのカテゴリーに入れるか迷う記事って時々あるのですよね。そのような記事、例えば昔の思い出話とか、旅行の写真とか、ちょっとした随想とかはこれからは「雑記」にしようと思っています。
 現在は「雑記」をクリックすると、「我が家のお雑煮」「髪が長い」「誕生日♪」「光源氏」の4記事を一括表示します。よろしければご覧下さいね。

☆写真はクリックすると大きくなります。また、タイトルをクリックすると投稿記事、写真、コメント、トラックバックが一括表示されます。

紫式部

2005-02-19 21:53:19 | 歴史人物伝
 私の好きな歴史上の人物ということで、先日は藤原道長を紹介させていただきました。他にも好きな人物はたくさんいますが、今日は紫式部についてお話ししますね。

 某歴史サイトのチャットに参加したとき、「ハンドルネームのあとに、歴史上の人物で一番好きな人の名前を書いて参加して下さい。」と言われました。そこで私はちょっと迷った末「えりか@紫式部」で参加したことがあります。そのくらい、紫式部に対する思い入れは強いです。

 紫式部は、『源氏物語』の作者と言われる女性です。
 天延元年(973)頃誕生しました。父は藤原為時、母は藤原為信女。長徳二年(996)、越前守に任じられた父とともに越前に下向。約1年間を越前で過ごしました。父を越前に残して一人で帰京後藤原宣孝と結婚し、娘の賢子(のちの後冷泉天皇乳母、大弐三位)をもうけますが、宣孝とは結婚後約3年で死別します。
 その後、『源氏物語』を少しずつ書き始め、寛弘二年(1005)頃、一条天皇中宮彰子の許に出仕しています。「源氏物語」は寛弘7年(1010)頃完成したと推定されます。没年は不明。寛仁三年(1019)正月五日の藤原実資の日記「小右記」の記事に、紫式部と推定される女房との会話が記述されているため、その頃まで彰子中宮の許に仕えており、「没年はそれ以降」という説が、現在では有力になっているようです。しかし、はっきりしたことはわかりません。

 さて、私と紫式部との最初の出会いは小学6年の時で、百科事典に載っていた簡単な略伝を読んだことでした。道長のことは最初は嫌いでしたが、紫式部のことはなぜか最初から好きでした。特に、紫式部が清少納言や同僚女房の悪口を日記に書いていたというところに、興味をひかれました。実は私も、友達や先生についてのあれこれをこっそり日記に書いていたような所がありましたので、単純に「自分に似てる!!」と思ってしまったのです。そこで、紫式部の伝記を図書館で借りて読んだのが中学1年生の時でした。その時受けた印象は、「かなり内向的で暗い人だったのね。」でした。

 その後私は、長い間紫式部のことを忘れていました。再び彼女に興味を持ったのは、平安時代に本格的に興味を持ち始めた、二十代前半の時でした。
歴史小説に夢中になっていた私は、「紫式部を主人公にした小説はないかしら…。」と思っていました。そんな頃出版されたのが、杉本苑子さんの『散華 ー紫式部の生涯ー』でした。
 この小説は、当時の時代背景や源氏物語の成立過程にも触れられていて、とても面白かったです。でも紫式部の印象は、中学生の時に読んだ伝記でのイメージとほとんど変わりませんでした。宣孝とは気が進まないまま結婚し、宮仕えにもなじめず、引っ込み思案で人とつき合うのがあまり好きではない人……。そうなのです、私は紫式部に関してはずっと「暗い人」と思っていたのです。

 ところが、最近私は徐々に紫式部に対する印象が変わってきました。多分『紫式部日記』を通して読んだからだと思うのですが…。そして彼女のことが、以前よりもっと好きになってきたのです。

 まず、紫式部は決して内向的な人ではないと思いました。というのも、彼女には女友達がとても多いのです。
 例えば、百人一首にも収められている、「めぐり逢ひて 見しはそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」という有名な歌は、久しぶりに会った女友達に向けられて詠まれた歌です。
 そして『紫式部日記』を読むと、彼女には親しくしていた同僚女房が多かったのがよくわかります。宰相の君(藤原道綱の娘・道長の姪)、大納言の君(源扶義の娘・道長の妻倫子の姪)、小少将の君(源時通の娘・道長の妻倫子の姪)といったところでしょうか。(但し、大納言の君が源時通の娘で、小少将の君が源扶義の娘という説もあるようです。)また、日記にはあまり登場しませんが、伊勢大輔(百人一首61番の歌の作者)とも親しかったようです。例の清少納言や、その他の女房についてのあれこれを書いた部分を読んでみても、決して悪口ばかりが書かれているわけではないのです。
 ただ、人の好き嫌いは激しかったようです。気の合わない同僚女房と同じ車に乗らなければならなくなったときなど、不快感をあらわにしています。でも、気の合わない人って誰にでもいるのではないでしょうか?気の合わない人がいる分、気の合う仲の良い人もたくさんいたのが紫式部だと、私は思っています。
 それから、紫式部は意外に華やかな雰囲気が好きだったようです。彼女は、選子内親王サロンや、定子中宮サロンの華やかな雰囲気がうらやましくてならなかったのではないかと思うのです。なので、中将の君や清少納言にコンプレックスを感じていたのではないでしょうか。
 そのようなこともあって、ふだん地味な彰子中宮の宮廷が華やいだ時……、彰子中宮に皇子が誕生したときの華やかな行事の一つ一つを、力を込めて日記に書きつづったのだと思います。

宣孝との結婚についても、気が進まないまま結婚したのでは決してないと、今では思っています。紫式部と宣孝の歌のやりとりを見ると、紫式部がすねているのを、宣孝が「よしよし」となだめているという雰囲気なのです。紫式部は、口では反抗していたとしても、心の中では宣孝を頼りにし、甘えていたのだと思うのです。また、宣孝から聞いた宮中の色々な事情が、のちに『源氏物語』を書く上での参考になったような気がします。

 以上は、私が『紫式部日記』やその他色々な本を読んで最近感じた紫式部像です。
 早く言えば、「紫式部って、本当はすごく明るい人だったのではないかしら。」ということでしょうか。華やかな雰囲気と、女友達と話したり騒いだりするのが大好き。でも、根がまじめで理想を追い求めてしまうところがあるので、心から楽しむことがあまりできないといった二面性を持っていたようにも思えます。複雑な性格の人なのかもしれませんね。
 紫式部についてはまだまだ知りたいことも多いので、これからも色々な本を読んで研
究してみようと思っています。

 最後にもう一つ、紫式部の最高の功績は『源氏物語』を書いたことですよね。あの意外性のあるストーリーと、登場人物一人一人の個性的な性格を書き上げたというのは、素晴らしいと思います。尊敬してしまいます。
私はやっぱり、紫式部が大好きです!!
 

水が好きな猫

2005-02-17 21:10:16 | 猫のお部屋
本日は、我が家の小さなエリカの登場です。

 エリカは、実はとても変わった猫なのです。普通猫というのは水を嫌がりますよね。なのでお風呂は大嫌いなのですが、エリカはお風呂やお風呂場が大好きなのです。体を洗ってあげると嬉しそうにしていますし、私がお風呂の掃除をしているとお風呂場に入って来て、水が流れていくのをじっと見ています。
エリカがこんなに水が好きな理由は、先祖の血にターキッシュバーンの血が入っているからなのだと思っています。雑種なので本当のことはよくわかりませんが、カナリターキッシュバーンの特徴を持っています。

 ターキッシュバーン(トルコバーンともいうようです)は、トルコの東部にあるバーン湖という湖周辺に生息している猫です。あまりにもかわいらしかったので、旅行に来ていたフランス人が母国に持ち帰ったのが、世界に広まるきっかけになったとか。特徴は、全体が白、頭と背中としっぽが茶色、長毛種です。これはエリカと完全に一致します。そして、性格もエリカと同じく、神経質でわがままなのだそうです。

 さらに一番の特徴は水が大好きで、湖で泳ぐということです。数年前、「世界の珍しい猫特集」というのをテレビで放映していて、その中でターキッシュバーンが紹介されていました。エリカと似た猫が湖で泳いでいて、とてもかわいらしかったです。「そうか、だからエリカは水が好きなのね!」と納得してしまいました。エリカはお風呂に入ったときと、お風呂場で流れている水を見ているときにはご先祖さまの血が騒ぐのでしょう。

 でも、最初の方にも書きましたがエリカは純粋なターキッシュバーンではありません。エリカは、生後二ヶ月の時主人の職場の同僚の人から譲ってもらったのですが、お母さん猫は黒のミケ猫なのだそうです。黒い猫からエリカのような白い猫が飛び出してきたということは、お父さんがターキッシュバーンだったのか、それとも祖父母がターキッシュバーンだったのか……。いずれにしても、エリカはミケ猫の血も入っているのですよね。確かに顔はミケの顔……。でも、そこがまたかわいいのです。
 と言うわけで、やっぱり最後は親ばかになってしまいました。

 写真は、座椅子の上で座っているエリカです。体全体の特徴がわかると思い、この写真を載せることにしました。

大河ドラマ「義経」第6回&蛭ガ小島の頼朝

2005-02-16 00:05:56 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」、第6回の感想です。

 番組の最初の方で、うつぼのお兄さんから逃げる遮那王が描かれていましたが、あの飛び上がり方、やっぱり人間わざとは思えませんね。これも鬼一法眼から教わったのでしょうか。

 今回の一番の見どころは、頼朝だったと思います。
まず登場は、亀の前といちゃいちゃしている場面でしたね。でも、一目見て「何か魅力的!!」と思ってしまった私、変でしょうか…。
主人は「この頼朝、何か不気味な感じを受けて、怖いな。」と言っていました。
 確かに今回の頼朝、何を考えているかわからない部分がありますよね。三善康信からの書状を読んでいるところなどは、戦国時代の高名な武将のように真剣そのものでした。やはり頼朝は流人で終わるつもりなど、毛頭なかったのでしょうか。
 書状を送ってきた三善康信は、頼朝の乳母子に当たります。もしかして、康信によってもたらされていた都の情報を色々考察して、頼朝は再起を図る準備をしていたのかもしれませんね。
 それにしても、蛭ガ小島の監視は随分ゆるいですよね。都からの使者が出入りしていることに、監視役の北条氏は気がつかなかったのでしょうか。それに、実際の頼朝も、時々蛭ガ小島を抜け出して三島や伊東に遊びに行ったりもしていたみたいです。北条氏は、それを全く見て見ぬふりをしていたのでしょうか?そうなると北条氏は、「いつか頼朝を旗頭にして、都に反旗をひるがえしてやろう。」という野心を持っていたのかもしれないと、詮索したくなってきます。その頃の東国は、まるで都や西国の植民地のような状態だったのですから…。

 ところで、史跡にはあまり行ったことのない私ですが、蛭ガ小島には行ったことがあります。  
 私は、蛭ガ小島のある静岡県田方郡韮山町の西隣、静岡県沼津市の出身で、中学時代までをそこで過ごしました。中学校の社会科見学で伊豆の史跡巡りをしたことがあり、蛭ガ小島にも行ったことがあるわけなのです。もう25年くらい前のことです。
 蛭ガ小島周辺は今ではだいぶ開けているようですが、当時は周囲に家もなく寂しい場所でした。しかも、周りには小川が流れていて、本当に離れ小島のようになっていたと記憶しています(記憶違いかもしれませんが…ウーン…なにぶん古い記憶なので)。
蛭ガ小島の中には、頼朝が住んでいた小屋と言われる、まるで弥生時代の竪穴式住居を思わせるような建物もありました。本当に狭くて汚いところで、「こんな所に20年も閉じ込められていた頼朝さん、お気の毒に…。」と当時は同情したものです。なので、たまにはこっそり抜け出して、遊びに行きたくもなりますよね。
頼朝の猜疑心の強い性格は、この蛭ガ小島で形成されたのだと、私は子供心にもそう思いました。中学時代、日本史が好きなわけではなかったのですが、なぜか源平時代と万葉集の時代には興味があったえりかです。

それはともかくとして、頼朝の二面性をうまく演じているところは、「さすが中井貴一さん!」だと思いました。また、北条時政・政子親子もなかなか魅力的ですね。
腹に一物あるような感じの時政と、男勝りの政子の、これからの活躍が楽しみです。
特に、頼朝と政子がこれからどのように親しくなっていくか、どんな夫婦に描かれるのかも楽しみですね。何かこれからは、舞台が伊豆に移るたびに、わくわくするかもしれないです。
 今後のドラマ「義経」に、期待を覚えます。

美容院に行きました♪

2005-02-14 21:44:43 | えりかの平安な日々 04~09
 今日は、こちらは風もなくわりと暖かかったです。外出もハーフコートで充分でした。春が近いかもしれません。

 さて、今日は、お昼前に家を出て静岡へ行って来ました。電車に乗るのは久しぶりでちょっとわくわく。駅で、小さな女の子を連れたおばあさん二人と一緒になり、ホームへの階段を降りていきました。女の子は、階段が珍しいらしく大はしゃぎ。でも、電車の中ではとてもおとなしくてお利口さんで、感心してしまいました。
 一緒にいたおばあさんの一人が、「いくつ?」と尋ねると、「二つ」とはっきり答えていました。するともう一人のおばあさんが、「もうすぐお姉ちゃんになるんだものね。」と言っていました。どうも、女の子は、こちらのおばあさんの孫のようでした。とにかくかわいい子でした。

 と言うわけで、約30分で静岡に着きました。そして、駅ビルの5階へ……。
今日静岡に来た目的は、久しぶりに美容院に行くためだったのです。

 この、駅ビルの5階にある美容院には、私はもう10年通い続けています。なので、何となく気が楽なのですよね。それに、とっても丁寧にやってくれるのです。

 受け付けでシャンプーとカットをお願いすると、すぐにやっていただけました。美容院で髪の毛を洗ってもらうなんて、本当に久しぶりで気持ちよかったです。私の髪の毛は長いので、ちょっと時間がかかりましたが…。でも、それだけ丁寧に洗ってくれたということで満足でした。
 そのあと、髪の毛を切ってもらいました。毛先が傷んでいたのが自分でもわかっていたので、思い切って10センチ切りました。その間、美容師さんに我が家の猫のことや、なぜ私が髪の毛を伸ばしているかについて話をしていました。(なぜ私が髪の毛を伸ばしているかについては、1月16日の日記「髪が長い」をご覧下さいね。)
 傷んでいた毛先を切ってもらったおかげで、髪の毛はつやつやしているし、頭が軽くなったような気がして、本当にすっきりしました。
髪の毛が傷まないためには、たびたび毛先を切ってもらうことは必要なのですね。

 午後2時に主人と合流して、駅ビルの中のイタリアンレストランで、日替わりランチを食べてきました。デザートにはチョコレートムースがついていて、「さすがバレンタインデー!!」と思いましたね。おいしくて満足でした。
今日は、贅沢ないい1日でした。こんな日もたまにはあってもいいですよね。

藤原道長

2005-02-12 10:22:16 | 歴史人物伝
 コノブログのブックマークに登録してある、他のブログ様やサイト様を観ておわかりだと思いますが、私は藤原道長同盟に参加しています。この同盟の活動内容は「道長が好きだということをアピールする。」ということですので、今日は私が道長を好きだということをアピールしたいと思います。

 そうなのです、私は道長さんの大ファンなのです…。ファン歴は15年以上……といったところでしょうか。

 でも、私は最初は道長さんが嫌いだったのです。理由は、小学校の社会科の教科書に載っていた「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を観たことでした。「この世がすべて自分の世ですって?! 何ておごり高ぶった人!」と、思いましたね。

 ところが、そんな私を道長さんのファンにしたのが、永井路子さんの小説『この世をば』でした。その少し前、私は永井路子さんの平安時代に関するエッセイを読み、ほんの少しだけ、平安時代に関心を持ち始めていたのでした。なので、何気なくこの小説を手に取ったわけです。そして、すっかり夢中になってしまいました。

 とにかく道長さんという人が血の通った人間として描かれていたのです。迷ったり悩んだり……。とにかくおっとりとした平凡な人に描かれていました。でも、世の中を冷静に観察しているなというイメージはありました。特に一上の左大臣になってからの道長さんは、徐々に政治手腕に優れた人物に成長していきます。読み終わったあとの感想は、「やはり道長さんはただ者ではない。」でした。
 そして、道長さんの周辺人物、奥様の倫子さんやお姉さまの詮子さん、お兄様の道隆さんや道兼さん、みんな生き生きと描かれていました。この小説を読んで、平安時代に本格的に興味を持ったのは言うまでもありません。
この永井さんの『この世をば』がなかったら、今の私はなかった……、と言っても過言ではないと思います。なので、私は永井さんの本が大好きなのです。

 それはともかくとして、「この世をば……」の歌が詠まれた経緯と、なぜこの歌が後世に伝わったかの事情についても、この小説で詳しく知ることができました。

この歌が詠まれたのは、寛仁二年(1018)十月十六日、道長さんの三女威子が後一条天皇の中宮となったお祝いの酒宴でのことです。
 道長さんは、まさに人生最高の時を迎えていたとも言っていいです。
この時の帝は後一条天皇、つまり道長さんの長女彰子が一条天皇との間にもうけた方でした。そして、皇太子は敦良親王、この方は後一条天皇の同母弟ですからやはり道長さんの孫です。
 また、当時の太皇太后は道長さんの長女彰子、皇太后は次女妍子、中宮は三女威子でした。
さらに、天皇の代行とも言える摂政は道長さんの長男頼通でした。道長さんは、すでに摂政を辞していたのですが時々参内して、政界ににらみを利かせていたのです。
 このように、天皇家も政界もほとんど道長ファミリーで固められていたというのがこの頃です。なのである意味においては、「この世をわが世」と思ったことも、自然であったかもしれませんね。
 「この世をば……」の歌は、そんな頃の酒宴の席での座興として詠まれた即興の歌だったのです。つまり、酔っぱらったおじさんが「気持ちよかったから、つい大きなことを言っちゃったなあ。」というごく軽い気持ちで詠んだ歌なのです。決しておごり高ぶって詠んだ歌ではありません。そのようなわけで、この歌は、彼の一代記を描いたとも言える『大鏡』にも、『栄花物語』にも載っていません。

 それでは、誰がこの歌を後世に伝えたのでしょうか?

 その人は、藤原実資さんという方です。当時大納言兼右大将でした。彼の日記『小右記』は現在でも当時の貴重な史料となっています。
この実資さんという方は、小野宮流の祖、藤原実頼の孫に当たります。実頼は、藤原忠平の長男になります。実資さんは、この実頼に早くからその才気を買われて、彼の養子になっていました。つまり、小野宮流の人たち、特に実資さんの頭の中では、「藤原氏の本流は我が家だ。」という考えがものすごくあったと思うのです。
 実資さんは有職故実に明るく、何かと先例を無視したがる道長さんに対して、かなりのライバル意識を持っていたようです。『小右記』には、道長さんへの批判が数多く書かれているそうです。その『小右記』に、この「この世をば……」の歌が書き残されてしまったのでした。実資さんにしてみれば、「この世を我が世だって?あきれるにも程がある!」と思ったのでしょうね。その結果、「道長」=「おごり高ぶった人」というイメージが後世作られてしまったわけです。

 道長さんが、実際にどのような人だったかは想像するしかありませんが、私は、彼は優れた政治家で文化人だったと思っています。道長さんが一上の左大臣、摂政であった時代は特に大きな政変も戦乱もなく、世の中は比較的安定していました。そして、華やかな王朝文化が花開いたのもこの時期です。『源氏物語』が書かれたのもこの頃ですし…。道長さん自身も、漢詩を作るのが得意だったようです。

 もちろん道長さんにも「ちょっと……」というところはあります。兄道隆の死後、その遺児達に対してはかなり強引なことをしています。また、三条天皇に対しては、「早く自分の孫を即位させたい。」と思う余り、陰湿な嫌がらせをしました。「何もそこまでしなくても……」と思ってしまう点もあります。しかし、道長さんでなくても、権力者ならそのくらいやったと思うのですよね。

 結論。
やはり道長さんはすごい人です。大好きです。私の筆力では、やはり道長さんの魅力のすべてを書くことができないです…。
 でも、これからも道長さんのことは時折書くかもしれません。なのでみなさんも、よろしければおつき合い下さいね。

☆永井路子さんの小説『この世をば』は以下の本が出版されています。
 『この世をば』(上) 700円 新潮社・新潮文庫
 『この世をば』(下) 660円 新潮社 新潮文庫
永井路子歴史小説全集五 『この世をば』 4983円 中央公論新社

予定のない日

2005-02-10 11:15:11 | えりかの平安な日々 04~09
 今日は、予定が何もありません。本日の昼食と夕食の買い物は、昨日すませてしまいましたので、買い物に行く必要もありません…。

 と言うわけで、今日はのんびり過ごしています。午前中はあちらこちらのサイト様やブログ様をネットサーフィン、午後は洗髪をしたり本を読んだりするつもりです。このように、1日気ままに好きなことをするというのもいいものです。

 一昨日、鼻がむずむずして何となくのどが痛くて、「もしかして風邪のひき始め……?」と思ったのですが、風邪薬を飲んだせいかひどくならずにすみました。良かった~!!とにかく30歳を過ぎてから、風邪をひくと必ず熱が出て寝込むようになってしまいました。なので、風邪をひいたら読書もブログの更新もできなくなってしまいますもの。でも、油断は禁物。うがいや手洗いをしっかりして、充分急用を取って、風邪をひかないように気をつけますね。みなさまも、風邪にはお気をつけ下さいね。