☆生没年 1178~1185
☆在位期間 1180~1185
☆両親
父・高倉天皇 母・平 徳子(建礼門院)
☆略歴
名は言仁。高倉天皇の第一皇子。
治承二年(1178)十二月十五日、生後一か月で立太子、一年三か月後の同四年二月二十一日には父の跡を承けて帝位につきました。天皇は平清盛待望の外孫で、平家一門の期待を一身に受けての即位でした。
しかしその頃より半平家運動が起こっており、即位して3年後の寿永二年(1183)七月、源義仲が軍を率いて入京する直前、平家一門とともに三種の神器を奉じて都落ち、文治元年(1185)三月二十四日、長門国壇ノ浦にて一門とともに入水しました。享年8歳。御陵は山口県下関市の阿弥陀寺陵。
なお、後述しますが祖父の後白河上皇は、安徳天皇が都を去ったあと新しい天皇を立てました。(後鳥羽天皇)そのため、安徳天皇崩御までの期間は2人の天皇が並立していたことになります。
何か、平家の栄華と滅亡のために生まれてきたような天皇さんですね。知名度はあるのに経歴がたったのこれだけなのか~という感じです。。
後世、安徳天皇を気の毒に思った人も多かったらしく、壇ノ浦で入水したのは替え玉で、安徳天皇は密かに生きていた…という伝説もあるようですが。残念ながら確かな根拠はないようです。
☆父方の親族
祖父母
祖父・後白河天皇 祖母・平滋子(建春門院
主なおじ
守仁親王(二条天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王
☆主なおば
亮子内親王(慇富門院) 式子内親王(賀茂斎王) 観子内親王(宣耀門院)
☆主ないとこ
順仁親王(六条天皇)*父は二条天皇
北陸宮*父は以仁王
☆母方の親族
祖父母
祖父・平 清盛 祖母・平 時子
主なおじ
平 重盛 平 基盛 平 宗盛 平 知盛 平 重衡
主なおば
藤原基実室 藤原基通室 藤原兼雅室 藤原隆房室 藤原信隆室
主ないとこ
平 維盛 平 資盛 平 清経 平 有盛 平 師盛 平 忠房*父は平 重盛
平 知章*父は平知盛
藤原忠経 藤原家経*以上、母は藤原兼雅室
藤原隆衡*母は藤原隆房室(当ブログ内の「平清盛の子孫」参照)
藤原隆清*母は藤原信隆室
☆兄弟姉妹と甥・姪
・主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*守貞親王 *惟明親王 *尊成親王(後鳥羽天皇)
・主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*潔子内親王(伊勢斎王) *範子内親王(坊門院) *功子内親王(伊勢斎王)
・主な甥と姪
茂仁王(後堀河天皇) 邦子内親王(安嘉門院)*父は守貞親王
為仁親王(土御門天皇) 守成親王(順徳天皇)*父は後鳥羽天皇
☆主な后妃と皇子・皇女
なし
☆末裔たち
安徳天皇は8歳で壇ノ浦の海に入水してしまったのでもちろん、子孫はいません。
そこで、その後の皇位継承、特に後鳥羽天皇が選ばれた経過について、当ブログのこちらの記事から転載させていただきます。
安徳天皇が平家や三種の神器と共に西国に去った後、後白河法皇はまず天皇と神器を平家から取り戻すことを考えたようです。そこで、平時忠(清盛の妻時子の弟)に使いを送り、その旨を申し渡しました。しかし時忠の返事は「都が平定されてからでないと、帝も神器も還御できない。」というものだったため、法皇は安徳天皇の廃位を決定したのでした。
安徳天皇のすぐ下の弟である二の宮守貞親王は、安徳天皇の皇太子として平家が西国に連れ去っていました。そこで、残った三の宮と四の宮から後嗣を決定することとなったのですが、その時横やりを入れた人物がいました。このことはドラマでも取り上げられていましたよね。そうです、義仲が「以仁王の遺児の北陸宮を天皇に。」と言い出したのです。
そこで陰陽師に占わせたところ、第一位が四の宮、第二位が三の宮、第三位が北陸宮ということになったようです。しかし、この結果は義仲にとっては面白くないものでした。
このように後嗣問題でもめているとき、「ぜひ四の宮を!!… 私の夢にお告げがあったのですから…。」と言った女性がいました。言うまでもなく丹後局(後白河法皇の晩年の寵姫)でした。
丹後局の夢の中において、四の宮がまるで行幸をするように、松の枝を杖にして歩いていた……というのです。そこで法皇は四の宮を後嗣に決定したと言われています。
またこんな話もあります。法皇が三の宮と四の宮に対面したとき、三の宮は恥ずかしがってむずがっていたのに対し、四の宮はなつかしそうに法皇を見つめ「おじいさま」と言ったといいます。法皇は「なんてかわいい子じゃ。」と言い、そばで見ていた丹後局も大いに喜び、「この子は帝王の相がおありです。」と言ったというようです。
以上に挙げた話は色々誇張はあるでしょうが、丹後局が後嗣決定に関与していたことは、ほぼ間違いないような気がします。
なお、念のために書いておきますが、この時即位した四の宮は、後年承久の乱を起こすこととなる後鳥羽天皇その人です。
*リンク先の記事は昔、書いた物なので、今読むと「大河ドラマに対してこんなうるさいことやつっこみをたくさん書いて…」という感じでちょっと恥ずかしいのですが。
さて、 後鳥羽天皇が退位したあとはその皇子土御門天皇、順徳天皇、さらに順徳天皇の皇子仲恭天皇が即位しますが、承久の乱によって朝廷方が幕府方に破れたため後鳥羽・順徳天皇系の仲恭天皇は廃されました。
その後、安徳天皇とともに都落ちした異母弟、守貞親王の皇子後堀河天皇が即位し、その皇子四条天皇が皇位を継承するのですが、四条天皇の急死により、土御門天皇の皇子後嵯峨天皇が即位、皇位は再び後鳥羽天皇系に戻り、現在に至っています。
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☆在位期間 1180~1185
☆両親
父・高倉天皇 母・平 徳子(建礼門院)
☆略歴
名は言仁。高倉天皇の第一皇子。
治承二年(1178)十二月十五日、生後一か月で立太子、一年三か月後の同四年二月二十一日には父の跡を承けて帝位につきました。天皇は平清盛待望の外孫で、平家一門の期待を一身に受けての即位でした。
しかしその頃より半平家運動が起こっており、即位して3年後の寿永二年(1183)七月、源義仲が軍を率いて入京する直前、平家一門とともに三種の神器を奉じて都落ち、文治元年(1185)三月二十四日、長門国壇ノ浦にて一門とともに入水しました。享年8歳。御陵は山口県下関市の阿弥陀寺陵。
なお、後述しますが祖父の後白河上皇は、安徳天皇が都を去ったあと新しい天皇を立てました。(後鳥羽天皇)そのため、安徳天皇崩御までの期間は2人の天皇が並立していたことになります。
何か、平家の栄華と滅亡のために生まれてきたような天皇さんですね。知名度はあるのに経歴がたったのこれだけなのか~という感じです。。
後世、安徳天皇を気の毒に思った人も多かったらしく、壇ノ浦で入水したのは替え玉で、安徳天皇は密かに生きていた…という伝説もあるようですが。残念ながら確かな根拠はないようです。
☆父方の親族
祖父母
祖父・後白河天皇 祖母・平滋子(建春門院
主なおじ
守仁親王(二条天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王
☆主なおば
亮子内親王(慇富門院) 式子内親王(賀茂斎王) 観子内親王(宣耀門院)
☆主ないとこ
順仁親王(六条天皇)*父は二条天皇
北陸宮*父は以仁王
☆母方の親族
祖父母
祖父・平 清盛 祖母・平 時子
主なおじ
平 重盛 平 基盛 平 宗盛 平 知盛 平 重衡
主なおば
藤原基実室 藤原基通室 藤原兼雅室 藤原隆房室 藤原信隆室
主ないとこ
平 維盛 平 資盛 平 清経 平 有盛 平 師盛 平 忠房*父は平 重盛
平 知章*父は平知盛
藤原忠経 藤原家経*以上、母は藤原兼雅室
藤原隆衡*母は藤原隆房室(当ブログ内の「平清盛の子孫」参照)
藤原隆清*母は藤原信隆室
☆兄弟姉妹と甥・姪
・主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
*守貞親王 *惟明親王 *尊成親王(後鳥羽天皇)
・主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
*潔子内親王(伊勢斎王) *範子内親王(坊門院) *功子内親王(伊勢斎王)
・主な甥と姪
茂仁王(後堀河天皇) 邦子内親王(安嘉門院)*父は守貞親王
為仁親王(土御門天皇) 守成親王(順徳天皇)*父は後鳥羽天皇
☆主な后妃と皇子・皇女
なし
☆末裔たち
安徳天皇は8歳で壇ノ浦の海に入水してしまったのでもちろん、子孫はいません。
そこで、その後の皇位継承、特に後鳥羽天皇が選ばれた経過について、当ブログのこちらの記事から転載させていただきます。
安徳天皇が平家や三種の神器と共に西国に去った後、後白河法皇はまず天皇と神器を平家から取り戻すことを考えたようです。そこで、平時忠(清盛の妻時子の弟)に使いを送り、その旨を申し渡しました。しかし時忠の返事は「都が平定されてからでないと、帝も神器も還御できない。」というものだったため、法皇は安徳天皇の廃位を決定したのでした。
安徳天皇のすぐ下の弟である二の宮守貞親王は、安徳天皇の皇太子として平家が西国に連れ去っていました。そこで、残った三の宮と四の宮から後嗣を決定することとなったのですが、その時横やりを入れた人物がいました。このことはドラマでも取り上げられていましたよね。そうです、義仲が「以仁王の遺児の北陸宮を天皇に。」と言い出したのです。
そこで陰陽師に占わせたところ、第一位が四の宮、第二位が三の宮、第三位が北陸宮ということになったようです。しかし、この結果は義仲にとっては面白くないものでした。
このように後嗣問題でもめているとき、「ぜひ四の宮を!!… 私の夢にお告げがあったのですから…。」と言った女性がいました。言うまでもなく丹後局(後白河法皇の晩年の寵姫)でした。
丹後局の夢の中において、四の宮がまるで行幸をするように、松の枝を杖にして歩いていた……というのです。そこで法皇は四の宮を後嗣に決定したと言われています。
またこんな話もあります。法皇が三の宮と四の宮に対面したとき、三の宮は恥ずかしがってむずがっていたのに対し、四の宮はなつかしそうに法皇を見つめ「おじいさま」と言ったといいます。法皇は「なんてかわいい子じゃ。」と言い、そばで見ていた丹後局も大いに喜び、「この子は帝王の相がおありです。」と言ったというようです。
以上に挙げた話は色々誇張はあるでしょうが、丹後局が後嗣決定に関与していたことは、ほぼ間違いないような気がします。
なお、念のために書いておきますが、この時即位した四の宮は、後年承久の乱を起こすこととなる後鳥羽天皇その人です。
*リンク先の記事は昔、書いた物なので、今読むと「大河ドラマに対してこんなうるさいことやつっこみをたくさん書いて…」という感じでちょっと恥ずかしいのですが。
さて、 後鳥羽天皇が退位したあとはその皇子土御門天皇、順徳天皇、さらに順徳天皇の皇子仲恭天皇が即位しますが、承久の乱によって朝廷方が幕府方に破れたため後鳥羽・順徳天皇系の仲恭天皇は廃されました。
その後、安徳天皇とともに都落ちした異母弟、守貞親王の皇子後堀河天皇が即位し、その皇子四条天皇が皇位を継承するのですが、四条天皇の急死により、土御門天皇の皇子後嵯峨天皇が即位、皇位は再び後鳥羽天皇系に戻り、現在に至っています。
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