平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

京都御所 ~京都1泊旅行2006年春10

2006-05-30 10:07:22 | 旅の記録
 私が初めて京都御所を訪れたのは11年前の春です。その時の目的地は御所の近くにある廬山寺(紫式部の邸宅跡に建っているお寺)だったのですが、「どうせなら御所の中を通って廬山寺に行こう」ということになり、御所の中に入ってみたのでした。

 しかし、御所の中は築地塀で閉ざされていて、私たちは築地塀に囲まれた通路を歩いていくことに…。おまけに雨は降り出すし、廬山寺は改修工事中で入れないし…、と、さんざんなことになってしまいました。

 そのようなわけで、京都御所は実質的には今日が初めてということになります。

 今日は一般公開の日なので、築地塀が開かれ、豪華な建物が姿を見せています。まず目に飛び込んできたのが「諸大夫の間」。四位や五位の殿上人が殿上したときに入る部屋です。これと同じように、大臣や大納言、中納言といった上級貴族が殿上する部屋もあるようです。やはり位階によって殿上するお部屋も違うのですね。

紫宸殿の前の庭には、有名な「左近の桜」と「右近の橘」がありました。私たちが見ている方向からは、右に桜が、左に橘が見えます。なので「右近の桜 左近の橘」と勘違いしてしまう人もいるようです。これはあくまでも天皇から見ての「左」と「右」なので、私たちから見ると逆の方向になってしまうのですよね。
 それにしても、「左近の桜」がきれいでした。

 あと、私にとっての収穫は、清涼殿にて、「手長、足長の絵」を見ることができたことです。視力の弱い私にははっきり見えませんでしたけれど、「ああ、あそこにあの恐ろしい生き物の絵が描いてあるのだわ!」という雰囲気を味わうことができたのは幸せでした。

 手長、足長の絵については、「枕草子」21段(本によっては20段となっているものもあります)「清涼殿の丑寅のすみ」に出てきます。
 「清涼殿の丑寅のすみにある「荒海の障子」には、手長、足長といった恐ろしい生き物の絵が描いてある。弘徽殿の上の御局の戸を開けると、いつもその恐ろしい生き物の絵が目に入ってくる。怖いと思いながら何となく面白く見ているときもある。」と清少納言は書いています。
 「枕草子」に出てくるこの「荒海の障子」に描かれている絵は巨勢金岡という絵師が描いたものだそうです。丑寅というと鬼門ですから、こういった恐ろしい生き物の絵を描くことによって、厄よけをしていたのでしょうね。
 ちなみに弘徽殿は清涼殿のすぐ北側に位置していたということです。

 それから少し歩いていくと、雅楽の雅やかな演奏が聞こえました。最近、雅楽に興味を持ち始めている私は心がはずみます。見ると人形が置いてあり、その人形が琵琶や笛などの楽器を持っています。どうやら雅楽演奏はテープだったようです。でもちょっと見ると雅楽演奏会のように見えなくもないですよね。
 そこで、この場面を撮影した写真を載せてみました。ちょっとわかりにくいですが、楽器を持った人形が映っています。

 このように京都御所を堪能した私です。「御所の中ってこんな風になっているんだ!」ということを大まかながらつかむことができたのは本当に幸せでした。どの建物も立派で感動しました。
 ただ、あまりにも人が多すぎてちょっと疲れてしまったのが残念でした。とにかくみんなとはぐれては大変……と思いながら歩いていましたので…。やっぱり私は人混みの中は苦手なようです。今度京都御所を訪れるときは、宮内庁に申し込んでゆっくりと見学したいな……と思いました。

 こうして御所の拝観を終え、宜秋門に戻ってきた私たちです。ここでなぎさんとお別れしました。なぎさん、二日間楽しい時間をありがとうございました。またいつか、京都を御一緒しましょうね。

 私たち夫婦と里江さんと穴瀬さんはタクシーにて、紫式部のお墓に向かいます。今回の旅行の大きな目的の一つが紫式部のお墓参りなので楽しみです。
  

旅行2日目の朝 ~京都1泊旅行2006年春9

2006-05-27 13:52:40 | 旅の記録
 お待たせいたしました。本日より、旅行記を再開することにしました。週に2回くらいのペースで更新していきます。京都旅行からもうすぐ2ヶ月、記憶もあやふやなところがありますが、思い出しながら書いていこうと思っています。何としてでも完結させますので、よろしければおつき合い下さい。

 久しぶりの更新ですので、すでにUPしてある1日目の日程を大まかに書いておきますね。

 4月6日、木曜日。

 携帯電話の充電機が壊れてしまうというハプニングはありましたが、何とか京都に到着。まず向かったのが風俗博物館です。ここでは、女三の宮の生涯を堪能。

 昼食後は下鴨神社へ。十二単を体験したあと壺装束に着替え、下鴨神社を参拝しました。そのあとは袿姿に。平安の姫君気分を存分に味わうことができた楽しい半日でした。

 駅前の地下街で夕食を食べたあとは今夜のお泊まりの宿に向かいました。とても疲れていたので夜は横になったり、テレビを観たりおつまみを食べたりしてゆっくり過ごしました。11時半頃電気を消して就寝したのですが、夜中にだんなさんの具合が悪くなってしまい救急病院へ…。幸い、治療をしてもらった結果すぐに良くなったので、明け方にホテルに戻りました。

 以上が、1日目の大まかな内容です。
  
 4月7日、金曜日。

 時計が朝7時を回った頃、私はなぎさんと里江さんに電話をかけようと思って携帯電話を取り出しました。今日の日程をキャンセルしようと思ったのです。

 ところがだんなさんは、「もう治ったから大丈夫だ。」と言い出したのです。心配ではありましたが、以前、低血糖を起こした次の日に普通に歩き回っていたのを思い出し、何とかなると判断した私は電話をかけるのをやめました。やはり、京都御所と紫式部のお墓には行きたいなと思ったので…。

 朝食は和食の定食でした。私はホテルの洋食の朝食が好きなので一瞬がっかりしましたが、内容盛りだくさんでとてもおいしかったので満足でした。
 ご飯、みそ汁、納豆、のり、卵焼き、サラダ、焼き魚、ふきのお浸し……。私は納豆だけは食べられないのでだんなさんにあげてしまいました。だんなさんは私とは逆に納豆が大好きなので嬉しそうでした。その代わり卵焼きとお浸しをもらってしまいました。

 どれもとてもおいしかったですが、特にみそ汁がおいしくて、私もだんなさんもお代わりをしてしまいました。だんなさんは普段、みそ汁をあまり飲まないのでこれにはびっくりでした。どうやらこのみそ汁、赤みそと白みそを混ぜたみそを使ってあるようでした。あとで知ったのですが、このようなみそを「西京みそ」というそうです。

 こうしておなか一杯になって満足した私たちは、昨日と同じようにフロントで大きな荷物を預かってもらい、ホテルの前からタクシーに乗りました。まず、病院の治療代を払いに行くことにしました。タクシーは三十三間堂の前を通り、少し行ったところで止まりました。やはり、看護士さんがおっしゃっていたように、病院と三十三間堂は至近距離のようです。昨年の夏に京都に来たときは、このあたりを歩き回ったのでなつかしくなりました。

 病院での用事が済んだあと、そのまま京都御所の宜秋門に向かってもらうことにしました。
 道路はかなり混んでいて、タクシーもなかなか前に進みません。「9時の待ち合わせに間に合わないのでは…」と不安になり始めていたとき、携帯電話からkiroroの「ベストフレンド」のメロディーが流れました。メールが届くとこの曲が流れるようになっているので、私は急いでメールの画面を開いてみました。

 メールはなぎさんからでした。宜秋門の前にはもう人が一杯で列ができているとのこと。時計を見るとまだ8時40分、開門は9時なのでまだ時間があるのに、もう行列ができているとは…。さすが京都御所の一般公開は人気があるのだなと、改めて思い知らされました。

 タクシーが宜秋門に着いたのは9時ぴったりでした。きれいな桜が私たちを迎えてくれました。そして今日は雲一つない晴天なので、桜もいっそうきれいに見えます。
 
 宜秋門をくぐると人が一杯でした。無事に皆様を見つけられるか心配でしたが、幸いなことにすぐに落ち合うことができました。穴瀬さん、なぎさん、里江さんの晴れやかなお顔を見たとき、「今日も無事に京都の史跡巡りができるなんて幸せ!」と思いました。
 わくわくしながら、皆様と一緒に私も京都御所の中に入って行きます。

 写真は、宜秋門の前の桜です。

私の前世をチェックしてみました♪

2006-05-27 13:01:40 | 歴史雑記帳
 いつも楽しみに拝見させていただいている手鞠さんのブログ「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」で、「あなたの前世チェック」というものが紹介されていました。10個の質問に答えて結果を診断するものなのですが、私も早速やってみました。さて、その結果は?

>あなたの前世チェック>結果
あなたの前世が何者であるかを診断してみました。


あなたの前世はこんな感じ!

あなたの前世は【平安の世に蝶よ花よと面白おかしく遊び暮らした貴族】のようです。

あなたの前世は平安貴族。
裕福な家庭に生まれ育ち、あまり苦労しないで宮廷で出世した運の良さの持ち主だったようです。
特に和歌を得意として、帝から篤い信任を受けていました。
生涯のうち、ほとんど苦労をすることを知らず、その一生をまっとうしたのです。
数百年のときを経て、現代世界に転生したあなたですが、前世の生き様のためか、あまりこだわりのない性格のようです。
友達や遊びを愛して、毎日面白く暮らせればいいや、という思いが心のどこかにあるでしょう。
頭脳労働をしているときに、あなたの心に眠る貴族の血が騒ぐことがありそうです。

 う~ん、当たっているかも…。平安好きとしてはちょっと嬉しかったりします。苦労をせずに出世したということは、摂関家のお坊ちゃんだったのでしょうね。和歌が得意だったということは、私の前世は道長さんの六男の長家さん(俊成や定家の祖先)だったのかも?それにしては私、五七五七七の和歌を全くひねり出せないのですよね~。和歌鑑賞は好きなのですけれど…。

 でも、前世が平安貴族というと、今の世を生きるにはちょっと弱すぎるかもしれませんね。

 ついでに「魂の数値」というものも出ていましたのでその結果も書いておきます。

強者の魂  59%
道楽の魂  100%
苦境の魂  50%
妖魔の魂  55%

 早く言えば「軟弱で遊び好き」ということでしょうか。

☆関連リンク
あなたの前世チェック
徒然独白 ~手鞠のつぶやき



源博雅と源雅信 藤原基経と光孝天皇

2006-05-25 19:53:36 | 系譜あれこれ
 「尊卑分脈」などの歴史上の人物たちの系図類は、主に男系中心で書かれています。しかし、系譜というものは男系ばかりではありません。女系もあります。そして、女系から歴史上の人物たちの系譜を眺めてみると、色々な面白い発見ができるものです。今回はそんなお話をさせていただきますね。

 源博雅(918~980)と言うと、小説や映画「陰陽師」で安倍晴明とコンビを組んでいる人物ですね。史実的には、実際に博雅が晴明とコンビを組んで活躍していたかどうかは定かではありませんが…。いずれにしても、平安時代の人物の中では知名度のある人物だと思います。博雅は最終的には従三位皇太后宮権大夫になっています。

 一方、博雅と同じ時代を生きた人の中に、彼よりも2歳年下の源雅信(920~993)という人物がいます。この方は道長の妻倫子の父親で、最終的には左大臣にまで昇進した人物です。この方も、平安時代の人物の中ではわりに知名度のある方だと思います。

 この二人の系譜ですが、博雅は醍醐天皇の皇子克明親王の子になります。つまり醍醐天皇の孫ということですね。
 一方の雅信は、宇多天皇(醍醐天皇の父)の皇子敦実親王の子です。つまり宇多天皇の孫ということになります。
 そこで二人の血縁関係は、博雅の父親のいとこが雅信ということになります。
 しかし、二人の関係を女系から見ると、もっと近い関係になるのです。というのは、二人の母親は供に藤原時平の娘で姉妹だったからです。つまり、博雅と雅信は母方のいとこ同士ということになります。私は講談社学術文庫版の「大鏡」を読んでいて二人がいとこ同士だという事実を見つけました。そしてとてもわくわくしました。

 この時代はまだ、母親を通してのつながりが非常に強い時代だと思われます。となると、博雅と雅信も親しい交流があったのではないかと、推察したくなってきます。二人とも笛の名手なので、一緒に合奏をすることもあったかもしれません。
 実際、康保三年(966)に村上天皇の御前で行われた殿上侍臣楽舞御覧では、博雅が横笛を、雅信が笙を吹いています。二人の笛の才能は、近い血縁のおかげなのでしょうか。


 さて、歴史をたどればこのような女系からの血縁が政治を動かした……という出来事もありました。

 元慶八年(884)、陽成天皇は、内裏で殺人事件を起こし、関白藤原基経(836~891)によって退位させられます。陽成天皇は普段から問題行動が多く、基経と意見が対立することも多かったため、基経にとっては殺人事件が渡りに船だったかもしれません。

 しかし、問題となったのは次の天皇です。陽成天皇の皇太子は定まっていませんでしたので…。そこで公卿たちは会議を開き、次の天皇を決めることになりました。

 誰も意見を言う者がない中、一人だけ口を開いたのが左大臣源融でした。融は、
「近い皇統をたどればこの融もいますぞ。」
 と言ったのです。確かにもともと融は嵯峨天皇(陽成天皇の高祖父)の皇子で、臣籍に下った人でした。しかし融はかなり権力欲が強い人で、「うまく行けば私が天皇になれるかもしれない」と思ったのかもしれませんね。

 しかし基経は、
「一度臣籍に下った者が再び皇族となり、位についた先例はござらぬ。」とはねつけました。

 この時、基経の心はすでに決まっていたのでした。人望もあり、性格も温厚な時康親王(830~887)を位につけようと…。時康親王は仁明天皇の皇子で、退位させられた陽成天皇から見ると祖父の弟に当たる人物でした。

 時康親王はこの時踐祚して光孝天皇となったのですが、彼が踐祚できた理由は人望があったことと温厚な性格だったことはもちろんなのですが、その他に大きな理由がありました。つまり、光孝天皇と藤原基経は母方のいとこ同士だったのです。

、 光孝天皇の母は藤原沢子、藤原基経の母は藤原乙春、二人は藤原総継(奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫)の娘で姉妹でした。そのようなわけで、基経と光孝天皇は若い頃から行き来があり、親しい交流があったのかもしれません。基経も、「気心の知れたいとこの時康親王とならうまくやっていけるかも知れない」という考えが全くなかったとは言えないと思います。

 光孝天皇は踐祚すると、自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させてしまいます。これは、基経の血を引いていない自分の皇子を皇太子にすることを避けるためだったとも言われています。このように光孝天皇は基経にはとかく気を使っていたようです。なので光孝天皇の御代は大きなもめ事もなく、平和だったということです。基経の判断は正しかったと言えるでしょうね。

官兵衛と松寿丸をめぐる出来事について ~「功名が辻」感想

2006-05-23 00:12:34 | 歴史雑記帳
 大河ドラマ「功名が辻」第19回と20回の感想です。

 今年の大河ドラマに関しては、歴史的なつっこみがあまりできない私でも、19回(前回)と20回(今回)はつっこみ所満載でした。大好きな官兵衛さんに関わる出来事を描いていたので、よけいつっこんでしまったのかもしれませんが…。と言うか、5月20日の記事にも書きましたように、官兵衛さんに関わる出来事を大きく変えられてしまう……ということに納得できないのですよね…。

 では、感想を書く前に19回と20回のあらすじをざっと書いてみますね。

 19回。荒木村重が毛利方に寝返ったらしいという情報を得た秀吉は、一豊を伴に連れ、有岡城に村重の説得に向かいました。しかし、説得にはあえなく失敗。そこで「私が参りましょう」と言ったのが官兵衛でした。しかし官兵衛は、有岡城に行ったまま行方不明になってしまいます。

官兵衛の消息を心配した竹中半兵衛は、六平太に頼んで官兵衛の行方を探らせます。そして半兵衛は、「私が愛した女性は千代どのだった」という遺言を残して亡くなってしまいます。

 第20回。なぜか千代の家に官兵衛の息子松寿丸がいるではありませんか。そして突然、「松寿丸を殺せ」と命令する信長。秀吉は一豊に向かい、「松寿丸を預かっていたのはそちだったな。即刻松寿丸を消せ」と命じます。

 しかし、一足先に六平太から「官兵衛は裏切っておらず、有岡城の牢屋に幽閉されている」という情報を得た千代は、松寿丸をこっそり隠してしまいます。この事実を知った一豊はそれを秀吉に報告。秀吉は、「松寿丸はそなたが殺したということにせよ。」と言い、一豊に芝居を打たせます。でもあの嘘泣き、私には笑っているように見えてしまったのですが…。

 やがて有岡城は落ち、官兵衛は牢屋から助け出されます。信長はこの事実を知ってびっくりし、「松寿丸を生かしておけば良かった」と後悔します。それを見た一豊が松寿丸が生きているという事実を告げ、信長も納得して一件落着……というのが官兵衛と松寿丸をめぐる一連の出来事のドラマでのあらすじです。

 このストーリーには、歴史的に大きなつっこみがたくさんあるのですが、まず、「官兵衛はなぜ有岡城の牢屋に幽閉されたのか」というお話から、書かせていただきたいと思います。


 官兵衛は元々、西播州の御着を本拠とする小寺正職の重臣でした。播州というのはちょうど、毛利方の勢力と織田方の勢力の境界線になります。足利幕府を滅ぼした信長は、摂津から播州にかけて、勢力を伸ばし始めていました。

 そこで小寺家も、織田方につくか毛利方につくか、去就をはっきりさせなければならない時がやってきます。正職は家臣を集め、「さてどうしたものか。」と、意見を聞くことにしたのでした。
 そこで官兵衛は、「これからは織田の時代です。」という熱弁をふるい、重臣達の意見を「織田方につく」という方向に持っていってしまいます。そして官兵衛が信長の許に使者に立ったのが天正3年(1575)のことでした。その時官兵衛は30歳になっていました。

  つまり官兵衛は、信長によって播州平定のために派遣された秀吉の参謀になったと同時に、小寺家の重臣でもあったわけです。実は当時官兵衛は、本姓の黒田ではなく、主家の姓である小寺を名乗っていたのです。重臣に主家の姓を名乗らせるということは、よほど主君に重要視されていたという証拠だと思います。

 播州平定に乗り出した秀吉ですが、一時は大多数の領主たちを織田方に帰属させることに成功したものの、その道のりは決して生やさしいものではありませんでした。まず、東播州の豪族で三木城主だった別所長治が毛利方に寝返ります。別所氏は小寺氏と供に、「播州の二大勢力」と言われた家でしたので、播州の小領主たちは動揺し、次々と毛利方に寝返ってしまいます。
 そこで信長は、秀吉に援軍を送り、播州の小領主たちが守る城を攻めさせます。小領主たちは、ある者は降伏し、ある者は切腹し、結局残るは三木城だけとなります。そんなとき起こったのが、摂津有岡城の荒木村重の毛利方への寝返りでした。

 続いて官兵衛の耳に飛び込んできたのが、「小寺正職も毛利方と気脈を通じているらしい。」という噂でした。官兵衛は噂の真偽を確かめるため、秀吉の許可を得て御着城に向かったのでした。
 「毛利と気脈を通じているという噂がございますが…」という官兵衛の問いかけに対し、小寺正職は次のように答えました。
「わしは荒木に誘われたが、毛利に加担するつもりは全くない。そこで官兵衛、荒木を説得してくれぬか。」
 そのようなわけで官兵衛は村重を説得すべく、有岡城に向かったのでした。
 しかし、これは正職や他の重臣たちが仕掛けたわなだったのです。

 次々と織田に反旗をひるがえす別所長治や荒木村重を見て、正職は織田方についていることにすっかり不安になってしまっていたのです。しかも小寺家の家臣たちの中には根強い「毛利びいき」がありました。
 「このまま織田についていたら家が滅びる」と、正職や家臣たちは判断したのです。そして、小寺家が毛利に加担する上で邪魔なのは、秀吉の参謀となって活躍している官兵衛です。

 「では、官兵衛を殺してしまおう。でも、御着城で殺してしまっては、官兵衛の父親がうるさい。では、荒木に頼むとしよう。」
 …というわけで、正職の「官兵衛がそちらに行くので始末して欲しい。」という書状はすでに村重のもとに渡っていたのでした。果たせるかな、有岡城に到着した官兵衛はたちまち捕らえられ、牢屋に入れられてしまったのでした。

 この時の官兵衛は、多少なりとも油断があったと思います。「荒木は友人だから、絶対に説得できる!」と思っていたのかもしれませんね。
 なお、村重がなぜすぐに官兵衛を殺さなかったかについては、ドラマで述べられていたように、村重・官兵衛供にキリシタンだったから……というのも一つの説ですが、はっきりした理由は不明のようです。いずれにしても村重は、官兵衛を極悪な環境の牢に閉じ込め、衰弱死をするのを待っていたのかもしれませんが…。

 さて、官兵衛が有岡城に向かったまま戻らないことを知った信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、「官兵衛の息子の松寿丸を殺してしまえ!」と秀吉に命令します。松寿丸(のちの黒田長政)は、人質として長浜城に預けられていたのでした。
 官兵衛が有岡城に向かったのは天正6年(1578)の10月か11月ですので、その年のうちに信長は、この命令を下したものと思われます。気の短い信長が、ドラマで描かれていたように、官兵衛が行方不明になってから半年以上も経ってから松寿丸殺害を命令する……ということは考えにくいと思います。
 それはともかくとして、信長から松寿丸殺害を命じられた秀吉は迷っていました。秀吉は官兵衛に、「そなたはわしの弟と同じじゃ。」という書状を書いているところからみても、官兵衛のことを頼りにし、信頼していたと思われます。

 そんな秀吉の気持ちを察し、「私が引き受けましょう」と進み出た人物がいました。その人物こそ竹中半兵衛です。
 半兵衛はまず、松寿丸を長浜城から連れ出し、美濃国内の自分の領地に隠してしまいます。そして、その頃流行病で死んだ同じ年頃の子供の首を信長に差し出したのでした。

 官兵衛が有岡城の牢屋から救い出されたのは翌天正7年11月のことでした。官兵衛はすっかり身体が弱り、おまけに足が不自由になっていたといいます。彼は三木城の戦線に復帰する前、しばらく有馬温泉にて療養したのですが、半兵衛のこの処置を聞いて大変感謝し、半兵衛がすでに亡くなっている(半兵衛はこの年の6月に病死していました。)ことを聞いて号泣したと言われています。

 以上、長々と述べて参りましたが、今回のドラマのストーリーと史実の大きな相違点、それは松寿丸の命を助け、信長の目の届かないところに隠してしまったのは一豊と千代ではなく、半兵衛なのです。

 私は松寿丸と一豊・千代夫婦が関わるという話を事前に聞いていたのですが、「多分千代が半兵衛の支持を受け、六平太あたりの力を借りて長浜城から松寿丸を連れ出し、半兵衛の領地に隠してしまう。そして、官兵衛が助け出されたあと、一豊と千代が、実は松寿丸は生きているということを告げ(半兵衛はすでに亡くなっていますから)親子を対面させる。」というような感じで描かれるのかなと思ったのです。つまり、実行役は千代でも、考案者はあくまでも半兵衛だという史実は曲げることがないだろうなと思っていました。

 しかしふたを開けてみると、半兵衛の手柄は丸々千代と一豊が横取りしているではありませんか!しかも時系列はめちゃくちゃ…。ここまで来るとちょっとしらけてしまいそうです。
 そして、唐突に千代の家でよね姫と一緒にいる松寿丸…。何かご都合主義ですよね。こういうストーリーにするなら、事前に松寿丸を登場させていてくれていたら(ねねから松寿丸を預かるところを放映するとか)、まだこの話を少しは受け入れられたと思います。でも、あのような唐突な登場のしかたでは、頭の中が?で一杯になってしまいます。

 官兵衛と松寿丸を巡る話の他にも、19回と20回はつっこみ所満載でした。
 信長に向かって「松寿丸は生きております。」と話しかける一豊。一豊あたりの身分で、信長に直接口を利くなんてことができるのでしょうか?

 半兵衛の「私は千代が好きだった」という遺言。だんなさまのいる前でこんな事、普通言いませんよね。せめて、「千代殿を妹のようにかわいく思っておりました。」程度にして欲しかったです。

 三木城開城前に一豊と中村一氏、堀尾吉晴が使者に立っていましたが、実際に使者に立ったのは官兵衛だったと思うのですが…。

 あくまでも千代と一豊の物語なので、他の人物達についての描き方が簡略になること、そして、他の登場人物達と一豊・千代を関わらせる場面が多くなることはある程度仕方がないと思っています。でも、今回のように、明らかに他の人が行った手柄を、丸々一豊と千代のものにしてしまうのは果たしてどうなのでしょうか。一豊・千代と松寿丸を関わらせたければ、上の方で書いたような(半兵衛の支持を受けた千代が松寿丸を隠してしまう)という感じでも良かったのでは……と思います。 そして、これは私の個人的な想いなのですが、最初の方で書いたように、大好きな官兵衛さんの関わっている出来事を大きく変えられてしまうのが、ちょっと納得できないのですよね…。

 時系列がおかしなところ、めちゃくちゃな設定、登場のしかたが唐突、ご都合主義……、何か、昨年の「義経」を思い出してしまいます。
 ただこのドラマが「義経」と違うところは、登場人物一人一人の性格がはっきりしているところ、その登場人物達が常に動き回っているところでしょうか。なのでドラマ自体は大変面白いです。「歴史ドラマ」として観るのではなく、「フィクション」として観ていれば、とても楽しめるドラマですよね。今回のように、歴史的なつっこみをするのもそれなりに楽しいですが…。
 今後も、登場人物が生き生きしているところとストーリー面で楽しめるところを大切にしつつ、ドラマを制作して欲しいなと思っています。

 さて来週はいよいよ、あの有名な「馬を買う話」のようですね。果たしてドラマではどう描かれるのか、注目です。
    

2005年大河ドラマ「義経」のもくじを作成しました

2006-05-20 11:41:05 | お知らせ・ブログ更新情報
 京都旅行記のもくじに引き続き、2005年大河ドラマ「義経」のもくじのページを作成しました。カテゴリ欄の『2005年大河ドラマ「義経」』をクリックすると、もくじのページが一番上に表示されるように設定してあります。各項目をクリックするとその記事に飛べるようになっていますので、ぜひご利用になってみて下さい。一応、この記事の下の方にもリンクを貼っておきますね。

 実は「義経」の感想は、記事数が多いこともあり、どこに何が書いてあるかわからなくなっていたのですよね…。そこで、第何回に何を書いたのか一目でわかるようにするためにもくじを作ったというわけです。ほとんど自分のために作ったようなものなのですが、こちらを御覧の皆様にも、少しでもお役に立てるようなものでしたらとっても嬉しく思います。

 それにしても、50以上の記事にリンクを貼るのはさすがに疲れました~。


☆今後の更新予定
1.「功名が辻」の感想
 前回の「功名が辻」は史実と異なる点が多く、つっこみ所満載でした。多分、明日の放送もつっこみ所満載だと思います。とにかく、大好きな官兵衛さんの関わっている出来事を大きく変えられてしまう……というのがちょっと納得できないのですよね。
 そこで、来週の水曜日頃までに、前回と明日放映分の「功名が辻」の感想をUPする予定です。

2.管理人ご挨拶のリニューアル
 現在、「管理人ご挨拶」の記事のリニューアルを実行中です。「はじめに ー管理人からのご挨拶」のページはすでに訂正、加筆をしてUPしてありますので、お時間のあるときにでものぞいてみて下さい。カテゴリ欄の「管理人ご挨拶 最初に必ずお読み下さい」をクリックすると記事が表示されます。
 また、5月14日にUPした「カテゴリについて」を、近く「このブログの内容について」というタイトルに変更し、カテゴリも「管理人ご挨拶 最初に必ずお読み下さい」に移動させてUPし直す予定です。

3.「系譜あれこれ」と「京都1泊旅行」
 現在、歴史上の人物の系譜についての記事を1本準備中です。こちらも来週中にUPする予定です。

 そこで、「京都1泊旅行」の再開は来週末になってしまうと思います。旅行記は時間がかかっても完結させますので、どうか気長におつき合い下さいね。
  
大河ドラマ「義経」のもくじはこちら

えりか流冷凍エビピラフのおいしい食べ方

2006-05-19 17:26:34 | えりかの平安な日々 04~09
 時間がないとき、疲れてあまり料理をしたくないときにお世話になっているのが「冷凍エビピラフ」です。最近の冷凍食品全般に言えることですが、冷凍エビピラフも結構おいしいですよね。

 そして最近、冷凍エビピラフをさらにおいしく食べる方法を発見しました。「レンジでチン」よりずっとおいしいですので、ぜひお試しを。

☆えりか流冷凍エビピラフ2人分の作り方
 まず、フライパンに油を敷いて熱します。その中にミニバター1個を入れて溶かします。
 バターが溶けたら冷凍エビピラフ2人分をフライパンに流し入れます。中火で炒めながら、あじ塩を一振り、こしょうを二振りします。5分ほど炒めて、エビピラフが熱くなったらできあがりです。

 写真は、本日の昼食に頂いたエビピラフです。エビがたくさん入っていて、とてもおいしかったです。私はエビが大好きなのですが、だんなさんはエビが苦手です。なのでだんなさんのエビを全部もらってしまいました。ラッキー!!
 ちなみにだんなさん、エビは苦手でもエビピラフの味はなぜか好きみたいなので、エビ抜きのエビピラフを全部食べてくれました。

*このエビピラフ、やっぱり冷凍だけあってしょっちゅう食べると飽きます。1週間に1~2回にしておいた方が良いかもしれません。

今日は、エリカのお誕生日♪

2006-05-15 08:29:57 | 猫のお部屋
 わ~い!!今日は私の誕生日なのニャン!

 え?いくつになったのって…。年だから恥ずかしいニャン~。でも、やっぱり誕生日は嬉しいニャン。さっき、パパとママから大好きな煮干しをもらったのニャン!夕食にはおいしいしらすももらえるのニャン!!嬉しいニャン!

 ……と、エリカが言っていますように、本日5月15日は我が家の小さなエリカの11歳の誕生日です。人間の年に換算すると50代後半くらいということになります。でも、やっていることは相変わらず子猫のようで、私やだんなさんに体をすり寄せてしょっちゅう甘えてきます。でもとってもかわいい♪

 エリカには元気で長生きしてもらいたい……というのが私たちの願いです。エリカちゃん、これからもパパとママをいやしてね。そして、お誕生日おめでとう!!

 本日のエリカの写真は、最近だんなさんが新しく購入したデジカメで撮ったものです。新しいカメラはまだ完全に使いこなせないとのことで、取りあえず初心者モードにして撮影したそうです。でも、さすがに600万画素はきれいで、今までのエリカよりもくっきりと撮れているように思えます。目がくりくりしてかわいいですし、顔と足が違う方向を向いているところが何とも面白いです。


☆カテゴリ欄の「猫のお部屋」の部分をクリックすると、我が家の小さなエリカの写真や記事、私が近所で出会った猫、今年の1月に里江さんから頂いた猫ちゃんの写真や記事を一括表示します。昨年のエリカの誕生日の記事もあります。ぜひ御覧になってみて下さいませ。
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 昨年のエリカの誕生日の記事をすぐに御覧になりたい方はこちらをクリックして下さい

平安の都

2006-05-13 15:35:21 | 図書室1
 本日は、平安京と平安時代に関する本を紹介します。

☆平安の都 (朝日選書 515)
角田文衞/編著
発行・朝日新聞社 定価・1631円


[要旨]
独創的文化を生んだ理想郷の風土と人と歴史。平安京ハンドブック。

 では、目次と内容を紹介いたします。なお、各項目の☆以降はえりかによる紹介文です。

 冒頭に「平安京への誘い」という文章が掲載されています。桓武天皇が平安遷都を行った延暦十三年(794)から約400年にわたる平安京の変遷を解説しています。

平安宮中
☆平安京の北部を占めていた大内裏とはどのような場所だったのでしょうか?清涼殿、大極殿などについて、大内裏にまつわる興味深いエピソードも掲載されています。

平安京の内と外
☆土御門殿、河原院、などの貴族の邸宅、大学寮、施薬院などの施設、、さらには法住寺殿や鳥羽殿などの平安京外の御所の様子やエピソードが書かれています。

平安京の寺と社と祭り
☆東寺と西寺、賀茂祭(葵祭)についてなど、文字通り京都の寺や神社、お祭りについて書かれています。

平安人の暮らし
☆千年前の平安京の人たちは、どのような暮らしをしていたのでしょうか?貴族から庶民に至るまで、今では考えられないような風習が数多くありました。平安人の暮らしについて興味深く解説されています。

平安京人物志
☆桓武天皇、淳和天皇、、花山天皇、小一条院、在原業平、菅原道真、清少納言、、紫式部、和泉式部、源成信、中関白家の人々、兼通と兼家など、平安京を彩った魅力的な人物について解説されています。

用語解説
あとがき
皇室関係系図/藤原氏系図/平安京条坊図/平安京大内裏図/平安宮内裏図


 平成六年(1994)に、平安遷都1200年を記念して「平安時代史事典」と「平安京提要」の2冊の本が企画、出版されました。しかしこの2冊の本は主として研究者を対象としたもので、一般読者の「平安京や平安時代について平易に知りたい」という要求をあまり満たしていないとのことです。そこで、上の2冊の本を編集なさった角田文衞先生をはじめとする十数人の先生方が一般の人向けに共同で執筆されたのがこの本です。

 この本には、平安京や平安時代についての百余りの興味深いお話が、「平安宮中」以下五つの章に分けられて掲載されています。一つのお話が見開き2ページで掲載されているので、自分の興味の赴くままに好きなところから読むことができます。
 そして何よりも良いところは、専門の先生が書かれているので内容が信頼できますし、それでいて大変わかりやすいところです。

 私が一番興味を引かれたのは「平安京の内と外」の章に収められているエピソードです。土御門殿、高陽院、河原院などの貴族の邸宅はもちろん、羅城門や朱雀門、施薬院や大学寮など、巻末の「平安京条坊図」を参照しながら読むと、まるで平安京を散歩しているような気分になることができました。平安京の外にある御所や施設の話も面白かったです。これらの邸宅や施設の跡をぜひ訪れてみたいです。

 その他の章にも、興味深いエピソードが満載です。平安京について知りたい方にはもちろん、平安時代への入門書としてもお薦めの1冊です。

愛しのあの御方の初登場 ~「功名が辻」感想

2006-05-10 10:22:05 | 歴史雑記帳
 久しぶりの「功名が辻」の感想です。楽しみにして下さっていらっしゃる方、長い間さぼってしまってごめんなさい…。と言っても、今後も大河感想は不定期更新になると思いますが、よろしければおつき合い下さいね。

 登場人物の誰とでもを一豊と千代に絡ませるという展開が非常に多いですが、いかがなものでしょうか?何か安易なように思えてなりません。
 と言っても、昨年の「義経」のように史実をつっこむということはあまりなく、ドラマとして毎週楽しんでいるというのが本当のところです。戦国時代は好きなのですが、この時代に関してはあまり知識もなく、つっこめないというのも事実なのですが…。

 ところで、「京都旅行記」の第8回で、うちのだんなさんは信長が大好きで、その信長に助けてもらった……と書きました。だんなさんに言わせると、今回の館ひろしさん演じる信長は今までの大河ドラマの信長の中で一番信長らしい」とのことです。確かにちょっと怖いですけれど、あれだけ自信たっぷりに命令を下すところは頼もしいです。まさに「俺についてこい!」という感じですよね。私も館さんの信長、結構好きです。

 では、いつものように「原作とドラマの違い」の話を…。

 一豊・千代夫婦を秀吉の妹の旭や浅井長政の息子万福丸、松永久秀と絡ませているところはもちろんドラマの創作です。一豊と六平太との絡みはだいたい原作通りです。今回の最後の方に出てきた六平太のせりふ「織田家を見限りませんか」も原作にありました。

 それと小谷城落城あたりまでは「国盗り物語」からの借用が多かったですが、最近は同じ司馬さんの小説「新史太閤記」からの借用が多くなってきたように思えます。
 この「新史太閤記」は、関白になるまでの秀吉を描いた小説で、秀吉やその周りの人々が生き生きと描かれていてとても面白いです。登場人物の名前や舞台となる土地の名前がそのまま各章のタイトルになっていることが多く、章が変わるたびに「次はどんな面白い人物が登場してくるのか」「この土地でどのような出来事が起こるのか」という期待を抱かせ、その期待を裏切ることがありません。なかなかお薦めの小説です。

 それで、今回の秀吉謀反と蟄居の話はほとんどこの「新史太閤記」からの借用です。信長や秀吉や勝家のせりふも、ほとんど「新史太閤記」からの引用だと思います。長浜城に猿楽師を招いてどんちゃん騒ぎをやる……という作戦を考えたのも、「新史太閤記」でも半兵衛ということになっていました。
 「功名が辻」の原作では、信長はほとんど登場せず、本能寺の変以前の天下の動きについてはあまり描かれていないので、信長や秀吉を主人公にした「国盗り物語」や「新史太閤記」から題材を取ってくるということなのでしょうね。

 さて、今回の最後の方で、秀吉はいよいよ播磨攻めに乗り出しましたが……、やっと、やっと出てきました。そうです、愛しの官兵衛さま……。私が戦国武将の中で一番好きな黒田官兵衛、本名は孝高、後に出家して「如水」と名乗るあの御方です。
 でも、何かさえない官兵衛でがっかりしてしまいました。それに、登場の仕方も唐突でした。官兵衛さまの初登場は、できれば長浜城に秀吉を訪ねてくる場面にして欲しかった(「新史太閤記」ではそうなっていました)と思うのは、ちょっと贅沢でしょうか?

 でも、たとえ脇役でも、さえないキャラでも、大好きな官兵衛さまを出してくれたN○Kさんには感謝です。小説「功名が辻」にも脇役でほんのちょっとしか登場しないので、「今回のドラマにも出てこないかも…」と心配だったのですよね。(「利家とまつ」には出てきませんでしたから)今後の官兵衛さまの活躍、楽しみです。