平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

道隆キッズのハロウィーン by葉つき みかんさん

2006-10-29 09:34:11 | 美術館
 先日の「光孝天皇」に続いて、葉つき みかんさんのサイト様「月桜」にてフリー配布されていたイラストを再び頂いてしまいました。

 今回のイラストは、「道隆キッズのハロウィーン」です。

 欧米ではハロウィーンという行事があることは何となく知っていたのですが、その詳細については、私は全くと言っていいほど知りませんでした。「月桜」内の「こちら」のページによると、

ハロウィーン(Halloween)とは、諸聖人の祝日の前夜(10月31日)の祭り。秋の収穫を祝い悪霊を追い出す古代ケルト人の祭りが起源。アメリカでは、カボチャの提灯(ちょうちん)などを飾り、仮装した子供たちが近所の家々からお菓子をもらう。

というお祭りなのだそうです。仮装してお菓子をもらいに行くなんて、楽しそうですね。

 それでこのイラストなのですが、藤原道隆の主要な4人の子供たちがそれぞれ仮装をしています。道隆さんはとってもユーモラスな方で、こういった「お祭り」が大好きだったと思われますし、妻の高階貴子さんは漢籍好き、よってその子供の伊周さんや定子さまも漢籍が得意だったようです。つまりこの一家は国際派一家なのです。平安時代にハロウィーンのようなお祭りがあったら真っ先に飛びついたかもしれませんよね。

 では、葉つきみかんさんの描かれた「道隆きっず」を向かって左側から紹介しますね。

☆大千代君(道頼) 13歳
 ドラキュラ男に仮装しています。うちのだんなさんが、「この子だけ顔が違う」と言っていましたが、実は彼だけ母親が違うのです。他の3人の母は高階貴子ですが、彼の母は藤原守仁女です。そのせいか、ちょっと控えめな感じを受けます。

☆小千代君(伊周) 10歳
 蜘蛛男に仮装しています。ちょっと生意気そうな感じがしますが、知的で格好良いですね。さすが、のちに内大臣になっただけのことはあります。

☆阿古君(隆家) 5歳
 魔法使いに仮装しています。個人的にはこの子が一番かわいくて好き♪もちろん、他の3人もかわいいですよ~。いたずらそうな表情と、三角の帽子が何とも言えないです。

☆大君(定子) 8歳
 かぼちゃ姫に仮装しています。美少女ですね。でもちょっといたずらっぽそう。「枕草子」でのユーモラスな定子中宮の雰囲気が、このイラストにもよく出ていると思います。

 このように、豊かな表情と楽しい雰囲気がしっかり表現されているところはさすがです。葉つき みかんさん、素敵なイラストをどうもありがとうございました。

*このイラストの著作権は葉つき みかんさんにあります。無断転載は絶対にしないで下さい。

☆葉つき みかんさんのサイト「月桜」はこちら


藤原魚名とその子孫たち

2006-10-26 14:38:34 | 系譜あれこれ
 当ブログの「系譜あれこれ」に収められている記事を通して拝見して下さった方がもしいらっしゃいましたら、ある一人の人物の名前があちらこちらの記事に書かれていることに気づいて下さるかもしれません。

 その人の名は藤原魚名……。「藤原魚名流」とか、「奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫」という言葉が、私の書いた記事のあちらこちらに出てきます。
 今回はその藤原魚名と、彼の数多くの子孫のうち、比較的知名度のある有名な方を何人かピックアップして紹介したいと思います。


 まず、藤原魚名とはいったいどのような人なのか、簡単に紹介させていただきます。

☆藤原魚名 (721?~783)

 藤原北家の祖、房前の五男。
 天平二十年(748)に叙爵し、神護景雲二年(768)に参議に任じられました。その後、光仁天皇の信任を得て順調に出世し、天応元年(781)には左大臣に任じられます。
 このように順調に出世し、平穏な人生を全うすると思われましたが、頼りにしていた光仁天皇が崩御すると、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。

 延暦元年(782)、氷上川継の乱が勃発します。川継は天武天皇の孫塩焼王と、聖武天皇の皇女不破内親王との間に生まれた男子です。つまり父方・母方ともに天武天皇の血を引いていたわけです。皇統は天武系から、天智系の光仁天皇を経てその皇子である桓武天皇に移っていましたが、川継はそんな中、帝位をねらって謀反を企てたのでした。
 しかし、このことは未然に露見し、事件に関与した多くの公卿、殿上人が流罪になります。そして魚名も、事件に連座して左大臣を罷免され、大宰府に流されることとなります。

 魚名は大宰府に赴く途中、摂津国で病気になってしまいます。かなり重病だったらしく、摂津国から動くことができなくなったようです。欲延暦二年、入京を許されるのですが、帰郷することなく摂津国で薨じました。

 左大臣にまで出世したものの、最後には氷上川継の乱に連座して流罪…。奈良の都に帰ることなく病死してしまうとは、ご本人にとってもさぞ無念だったと思われます。


 魚名ご自身についてはこれくらいにして、子孫の話に移りますね。まず、当ブログの今までの記事に出てきた方々をざっと紹介させていただきます。

☆藤原隆房
 平清盛の娘婿。当ブログの「平清盛の子孫」を参照して下さい。

☆藤原総継
 魚名の三男末茂の子。藤原基経と光孝天皇の外祖父。「源博雅と源雅信 藤原基経と光孝天皇」「班子女王 ~宇多天皇の母」を参照して下さい。

☆藤原鮮子(藤原連永の女)
 醍醐天皇更衣。代明親王の母。「代明親王の子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原山蔭
 清和天皇側近の公卿。藤原定方の舅。「藤原定方とその子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原在衡
 村上・冷泉・円融天皇御代の公卿。「誕生日♪」(私の誕生日に歴史上で何が起こったかを書いています。)を参照して下さい。

 さて、藤原魚名の子孫には、有名な方々がまだたくさんいます。では、そのうちの何人かを紹介しますね。


☆藤原時姫 (?~980)

 摂津守藤原中正の女。藤原兼家の妻となり、道隆、道兼、道長、超子(冷泉女御・三条母)、詮子(円融女御・一条母)をもうけました。兼家の別の妻であった道綱母が著した「蜻蛉日記」にも、作者との車争いや、和歌の贈答など、時々顔を出していますよね。
 時姫は上で紹介した藤原山蔭の直系の子孫なので、れっきとした魚名流の女性です。道長さんの母である彼女が魚名流だと知ったときはわくわくしました。その上、彼女を通して道長の子供たち、中関白家の人々、一条天皇や三条天皇にも魚名の血が流れているということになります。系譜の面白いところです。


☆美福門院(藤原得子) (1117~1160)

 魚名の三男、末茂の子孫である藤原長実の女。
 長承三年(1134)頃、鳥羽上皇に入内。大変美しい女性だったため上皇の寵愛を一身に受け、保延五年(1139)に躰仁親王を出産します。躰仁親王は近衛天皇として踐祚し、彼女も大きな発言力を持つこととなります。
 近衛天皇崩御後は、藤原忠通と組んで、崇徳上皇、藤原頼長と対立。これが保元の乱の一因となりました。その後も、守仁親王(保元三年に踐祚して二条天皇)の養母として、朝廷内で発言力を持ち続けました。陰謀渦巻く貴族社会をしたたかに生き抜いた強い女性というイメージを受けます。


☆藤原成親 (1138~1177)

 魚名の三男、末茂の子孫である家成の子。
 平治の乱の際、叛乱に関与したとして解官されたり、平滋子の生んだ親王(のちの高倉天皇)を皇太子にしようとして流罪になったりと、若い頃はかなり苦労したようです。帰京後は後白河院側近として中将、蔵人頭、権中納言、権大納言と出世をしていきましたが、比叡山といざこざを起こして一時解官されたりもしています。

 安元三年(1177)、成親は、息子の成経、俊寛僧津、平康頼、西光らと平家妥当を計画(鹿ヶ谷事件)して捕らえられました。事件には後白河院も関わっていたと言われています。しかし事は未然に露見し、成親も捕らえられてしまいます。
 清盛は成親をすぐに処刑しようとしたのですが、妹婿の重盛の助命嘆願によって備前に配流されることとなります。しかし最後にはその地で斬首されました。野心家だったようですが、何か解官と流罪に明け暮れた人生という感じがします。末路も哀れですよね。

 なお、先に触れた藤原隆房は、成親の甥に当たります。隆房の子孫は四条家となり、鎌倉時代以降も京の貴族社会で活躍しています。


☆藤原秀郷 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。下野国の住人。9世紀末~10世紀半ばの人と言われています。近江三上山のむかで退治の伝説で有名です。天慶三年(940)に平将門を討ち、その功によって従四位下に叙され下野守に任じられています。これらのエピソードから、大変勇猛な武将だったことが想像されます。

 なお、彼の子孫からは鎌倉御家人の小山氏、平泉に栄華を築いた奥州藤原氏、戦国大名の大友氏など、多くの氏族を出しています。また、平安末期に活躍した歌人、西行法師も秀郷の子孫です。


☆藤原利仁 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。9世紀後半~10世紀前半の人と言われています。
 最初、藤原基経に仕え、のちに敦賀の豪族、有仁の婿となり、越前国に住みました。「今昔物語集」にあるいもがゆの話(五位の官人にいもがゆを食べさせる話)に、越前国の裕福な長者として登場しています。


 以上のように、魚名の子孫は、中央はもちろん、全国各地にも拡大し、日本史上の色々なところで活躍しています。左大臣にまで昇進しながら最後には不遇だった魚名の子孫がこれだけ繁栄する…、歴史の面白いところですね。

 また、秀郷の系統からは波多野・後藤・尾藤・伊藤・佐藤・首藤・山内・近藤・武藤・大友・田村・小山・結城・大田など、利仁の系統からは斎藤・加藤・富樫・林・豊田・後藤・吉原など、多くの苗字が派生しました。
 そこで最後に余談ですが…、実は私の旧姓も、秀郷流の苗字なのです。以前、「こちら」で紹介したことがあるのですが、私の実家には真偽はともかく、信濃の豪族高遠家の一族で、武田信玄に追われて駿河に逃げてきた…という伝説があります。
 自分が諏訪ご寮人や武田勝頼の親戚(高遠家は諏訪家の分家と言われています)と考えるのも夢がありますが、魚名や秀郷の子孫であり、上で紹介した多くの有名な方々とつながっているかもしれないと考えるともっと夢が膨らみます。

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やっぱりわがままかも…

2006-10-24 12:27:29 | 猫のお部屋
 2ヶ月ぶりに我が家の小さなエリカの登場です。

 10月も終わりだというのに、今年はなかなか涼しくならないですよね。でも、エアコンをするほどの暑さではないので、特にお昼から夕方にかけて、部屋の中は真夏の時期よりも少し暑いかも(私たちの部屋は西側に窓があるので、西日が差すのですよね)。
 なのでエリカもその時間帯はほとんど押し入れで寝ています。そして夜になるとのこのこ起きてきて、私たちに甘えてきます。夜中は布団で横になったり食べ物を食べたり、母屋に遊びに行ったりしているようです。

 そこで本日の写真は、「エリカ、今から母屋に行くニャン」という場面の写真です。エリカの後ろに写っているのが、私たちの部屋の入り口のドアです。このあと、エリカはドアを開けて出て行ってしまいました。でも、5分ほどで戻ってきましたが…。


 さて、今回はエリカがわがままだというお話を…。

 以前も「こちら」の記事に書いたのですが、エリカはとてもグルメな猫です。しらすが好きなのですが、スーパーで買ったしらすは見向きもせず、魚屋で買った大井川沖で取れた新鮮なしらすしか食べません。煮干しも、人間が食べる少し小振りな煮干ししか食べないです。(なお、リンク先の記事にはエリカのお食事風景の写真もありますので、ぜひご覧になってみて下さいね。)

 このように贅沢な物が大好きなエリカですが、主食はあくまでもキャットフードです。静岡市内に住んでいた頃は、動物病院から買ったキャットフードを食べさせていました。このキャットフード、エリカはなかなか気に入っていました。
 ところが、今の家に引っ越してからは、購入先の動物病院があまりにも遠くなってしまったので、仕方がないので市販のキャットフードを食べさせることにしました。「胃腸をお掃除する栄養素が入っているみたいなのでこれが良いのでは…」と適当に見つくろって買ってきたキャットフードを幸い、エリカはおいしそうに食べてくれました。

 でも、1種類のキャットフードだけでは少し心配になったので、1ヶ月ほど前、発売されたばかりの「ねこ元気 銀のスプーン7歳以上用」というのを買ってきて食べさせることにしたのです。袋には、「お魚、お肉、野菜入りのグルメなキャットフード」と書かれていましたので、「これならエリカも気に入ってくれる」と思ったのです。

 ところがエリカは、この新しいキャットフードを全然食べてくれません。そこで、いつものキャットフードと混ぜてみたところ、何とエリカは、新しいキャットフードを避けて食べたのです。「私、このキャットフードは嫌!!いつものがいいわ。」とでも言いたそうな雰囲気でした。

 そう言えばエリカは、子猫の頃から好き嫌いの激しい猫でした。口に合わないものや嫌いなものは絶対に食べません。においをかいてぺろっとなめるものの結局は食べない…ということもありました。その代わり好きなものは喜んで食べるのですが…。やっぱりわがままですね。そこがかわいいところなのかもしれませんが。

 

浄土の帝

2006-10-21 10:20:58 | 図書室3
 今回は、保元の乱・平治の乱を描いた歴史小説を紹介します。

☆浄土の帝
 著者・安部龍太郎 発行・角川書店 価格・1890円(税込み)

本の紹介文
後白河院は、大天狗だったのか!?末法の世、平安末期。皇位継承をめぐる不協和音は頂点に達し、貴族たちの抗争は容赦なく帝をも巻き込んだ。権力を失ってゆく現実の中、帝王としての自らの存在理由、民の心の王たるには、どうあるべきなのか?権謀術数に長けたとされる後世の評価に挑み、理想の帝王像に苦悩する後白河院の前半生を描く!

 紹介文にもありますように、若き日の後白河上皇を、おもに保元の乱、平治の乱を背景に描いた小説です。

 この著者の作品は、以前、室町もの1編と戦国もの2編を読んだことがあり、いずれも読み応えがあって面白い小説でした。しかも、後白河上皇には興味があるので、「これは読むしかない!」と思って手に取ってみた…というわけです。

 さて、この小説の前半で描かれているのは、後世、側近の貴族や武士たちを思うままに操り、権力を欲しいままにした帝王、後白河院ではありません。今様とお忍び歩きが好きな型破りな帝ですが、「「帝王とはどうあるべきか」と悩み、何とか貴族同士の争いをやめさせたい」と願う、苦悩する若者です。

 そして、保元の乱の際、後白河は兄崇徳上皇と争う気は全くなかったのですが、藤原信西や藤原忠通、美福門院らの陰謀に巻き込まれ、知らず知らずのうちに彼らに担ぎ出されてしまう…というように描かれています。
 そうです、この小説では信西と忠通、美福門院は悪役です。特に信西が悪く描かれているので、彼を好きな方には読むのが辛いかもしれません。それに信西は後白河の乳母夫なので後白河側近だと私は思うのですが、鳥羽院側近として登場し、最初から後白河と敵対しています。小説ですので著者の創作も多いと思いますし、時々「あれ?」と思う部分はありますが、そのあたりは目を瞑って先を読んでみました。

 すると、保元の乱が終わり、帝位を降りて上皇になった頃から、後白河は「言い出したら聞かない。」「自分の思ったことはとことんやる」という本領を発揮し始めます。第二皇子守覚王(後に出家して守覚法親王となる人です)を東宮にしようと画策したり、藤原信頼と組んで信西を謀殺しようとしたり…。信西謀殺には成功したものの、味方についていたと思っていた閑院流藤原氏の公卿たちに裏切られ守覚王の東宮冊立をあきらめざるを得なくなります。さらに、平家の軍勢が御所を攻めるらしいと聞くと、側近の信頼を見捨ててさっさと逃げ出してしまいます。平治の乱における後白河は非情な帝王です。「やっぱり後白河はこうでなくちゃ…」と私は読みながら思いました。

 この小説は、長寛二年(1164)の蓮華王院の落慶供養の場面で終わっています。平治の乱後、後白河上皇と二条天皇の対立が激化、その結果、後白河側近の公卿・殿上人は官位を剥奪されたり流罪になったりして、後白河上皇も朝廷での発言力を失ってしまいます。そこで後白河は権力に執着しようとするのをやめ、庶民に尊崇される「心の王」になろうと決心します。そうしていればおのずと自分に運が向いてくる…と考えたわけです。 蓮華王院は保元・平治の乱で犠牲になった物たちへの供養として建てられたという一面もありますが、庶民の「心の王」としての後白河の象徴として建てられた…と、この小説では描かれていました。小説のラストはあまりにもきれいすぎてちょっと説得力に欠ける部分もありますが、昨年訪れた蓮華王院の仏像の素晴らしさを思い出し、すっかり感情移入してしまったことも事実です。
 そしてこの落慶供養の4年後、後白河が平滋子との間にもうけた憲仁親王が高倉天皇として即位し、後白河も発言力を回復することを考えると、小説のラストは彼の輝かしい未来を象徴しているようにも思えました。

 この小説には、今まで歴史小説にほとんど登場しなかったこの時代の公卿や殿上人がたくさん登場します。藤原氏閑院流の公能や公教をはじめ、成親、信隆、惟方など…。平信範まで登場してきたときは驚きました。もちろん、義朝や清盛も登場します。特に清盛はなかなか好人物に描かれています。。個性的なオリキャラも登場しますので、彼らの動きを追うのも面白いです。
 何よりも、保元・平治の乱前後の貴族社会をこれほど真正面から取り上げた小説も珍しいと思いますので、一読の価値はあると思います。

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餃子作り&本日の出来事

2006-10-16 20:47:22 | えりかの平安な日々 04~09
 UPするのが遅くなってしまいましたが、上の写真は一昨日に作った餃子です。きれいにできたのが嬉しくて写真に撮ってしまいました。

 では、えりか風餃子の作り方を…。と言っても、特に工夫はしていないのですが。

 まず、キャベツ300グラムとにら100グラム、にんにく2かけをみじん切りにします。そのうちキャベツは塩をふってしんなりさせ、そのあと水をかけて塩気を抜きました。
 次に、合い挽肉150グラムに塩小さじ2分の1、しょうゆ・酒各小さじ1(私には目分量が難しいので計量スプーンを使うことが多いです。)、すり下ろしたしょうがの汁少々をふってねり、水を切った野菜と混ぜてさらにねりました。最後にこしょうをひとふりしてもう一度ざっとねり、、餃子のたねの出来上がりです。

 そして、出来上がった餃子のたねを26枚の餃子の皮で包み、26個の餃子のもとが出来上がりました。
 これを13個ずつ、2回に分けて焼きました。この時にくずれてしまうことが多いのですが、今回はほとんど失敗なく、きれいに出来上がりました。餃子を包むのに時間をかけたのが良かったのかもしれません。

 出来上がった餃子は、しょうゆ、酢、ラー油で作ったたれでいただきました。ほぼ半日がかりで作った甲斐があって、とてもおいしかったです。また餃子作りに挑戦したいです。

☆本日の出来事

 本日は、久しぶりに静岡に出かけ、友人とカラオケに行って来ました。カラオケは同窓会で行って以来2ヶ月ぶりなのですが、その時は人数が多いこともあって3曲しか歌えず、ちょっと消化不良でした。でも本日は友人と2人で、しかも3時間もカラオケボックスにいたので、20曲近くを歌ってきました。良い気分転換になりました。

 帰りには静岡市内の大きな本屋さんに行き(こちらも久しぶりです)、「草の庵」のモモさんから教えていただいた「平安妖異伝」と「道長の冒険」(いずれも平岩弓枝著、新潮文庫)を購入してきました。この本を先週、自宅から一番近い本屋さん(徒歩20分)で探してみたのですが、置いてありませんでした。やはり県都の大きな本屋さんは違います。
 それでこの本、道長さんがものすごく格好良く描かれているのだそうです。道長ファンの私としては、「これは読むしかない」と思いました。藤原公任さんもちょこっと登場するようなので楽しみです。

光孝天皇 by葉つき みかんさん

2006-10-14 10:33:33 | 美術館
 葉つき みかんさんのサイト「月桜」様に、10000HIT記念イラストがフリー配布されていたのを発見!気に入ったので頂いてしまいました。そのイラストが上の「光孝天皇」です。光孝天皇については当ブログの「こちら」「こちら」の記事に少し登場しますし、何よりも、大好きな宇多天皇のお父様ですものね。

 それでこのイラストなのですが、「百人一首15番目の光孝天皇の歌、「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ」をイメージして描いたもので、カルタ風で良い感じに仕上がっています。
 この歌は、光孝天皇がまだ親王だった時期に詠まれたもので、歌の意味は、「あなたのために早春の野で若菜を摘んでいる私の衣に、雪が降り積もっています」ということでしょうか。若菜というのは春の七草のことで、これを食べることによって若菜の持つエネルギーを体内に入れる、つまり長寿を願うという縁起の良いものなのです。愛する人の長寿を願い、若菜を摘んでいる若き日の天皇のお優しい姿が目に浮かんでくるような歌です。

 そしてこのイラストも、天皇のお優しい姿がよく表現されていると思います。以前頂いた藤原兼輔のイラスト同様、装束が時代考証に基づいてしっかり描き込まれているところはさすがです。葉つき みかんさん、素敵なイラストをどうもありがとうございました。

 光孝天皇についても、簡単に記しておきますね。

☆光孝天皇 (830~887) (在位884~887)
名は時康、父・仁明天皇 母・藤原沢子(藤原総継女)
 常陸守、中務卿、上野守、大宰帥、式部卿を歴任し、親王の最高位である一品に叙されるなど、親王として順調な道を歩んでいました。政治的な野心もなく、帝位からも遠かった時康親王は、このまま一親王として、平凡な一生を送ると思われましたが、思いがけない運命が彼を待っていました。元慶八年(884)、陽成天皇が太政大臣藤原基経と対立して退位させられると、親王は母方のいとこに当たるその基経の後押しによって思いがけず踐祚することになります。つまり光孝天皇の誕生です。

 光孝天皇は、踐祚後は藤原基経との融和策を図ったため、天皇の御代は政争もなく、平穏だったようです。また天皇は、若い頃から学問に親しみ、性格は温厚で気品があり誰からも慕われていました。きっと、上で紹介した若菜の歌のような優しい人だったのでしょうね。

 ちょうど光孝天皇の御代は唐風文化から国風文化に変わっていく時代であり、天皇が和歌をよく詠んだこともあって、宮廷では和歌が流行したようです。この時期の和歌の流行が、後の「古今集」につながっていったのかもしれません。

*このイラストの著作権は葉つき みかんさんにあります。無断転載は絶対にしないで下さい。

葉つき みかんさんのサイト「月桜」はこちら
  

藤原定方とその子孫たち

2006-10-11 10:34:38 | 系譜あれこれ
 2006年8月30日にUPした「代明親王の子孫たち(この記事の一番下にリンクを貼っておきます)を書いているとき、藤原定方の家と代明親王の家・紫式部の家が密接に結びついていることを知り、大変驚きました。
 そこで今回は、藤原定方とその子孫たちについてまとめてみることにしました。こちらも代明親王の子孫同様、有名な方が出てきますので、ご覧いただけますと嬉しく思います。

 系譜を書く前に、まず藤原定方とはどんな人なのか、簡単に書いておきます。

☆藤原定方 (873~932)
父・藤原高藤(左大臣冬嗣の孫) 母・宮道列子(宮道弥益の女) 醍醐天皇の母、藤原胤子は彼の同母姉です。

 彼は醍醐天皇の側近・外戚として右大臣にまで出世し、三条に邸宅があったので「三条右大臣」と呼ばれました。
 それと同時に、藤原兼輔とともに紀貫之ら「古今集」の編者たちのパトロンのような人でもありました。兼輔や貫之を自分の邸宅に泊め、歌の贈答もしたことがあったようです。有能な政治家であると同時に、和歌や文化を愛する風流な面も持ち合わせていた貴族だったと思われます。


 では、彼の子孫たちの話に移りますね。

 彼は、藤原山蔭女ほか、多くの女性にたくさんの子供を産ませたようです。しかし、山蔭女の所生以外の子供たちについてはほとんど記録がなく、従ってあまりしっかりと調べることができませんでした。その中でも2人の娘については、1人は配偶者の素性と子供たち、もう1人も配偶者の素性がわかりましたので、まず紹介させていただきますね。

 まず一人目です。

 彼女は、定方と親しかった藤原兼輔(堤中納言)の妻となり、藤原雅正(紫式部の祖父)、藤原清正、藤原庶正、藤原桑子(醍醐天皇更衣)などの子女をもうけています。

 もう1人の女子は、上で挙げた兼輔と定方女の子の一人、藤原庶正の妻となっています。この結婚を仲介したのは多分、兼輔・定方女(庶正室の姉か?)夫婦だったのでしょうね。

 では次に、藤原山蔭女所生の子供たちと、その子孫たちについてまとめてみます。

 藤原山蔭は、奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫で、清和天皇の側近として中納言にまで昇進した人物です。そこで山蔭女は多分、定方の正室として遇されていたと考えられます。
 彼女は定方との間に、朝忠、朝成、朝頼、そして四人の女子をもうけました。ではこの7人の子女について1人1人見ていきますね。

☆藤原朝忠 (910~966) 中納言

 朝忠は歌人として知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。和歌を詠むことが好きなのは父親譲りだったのでしょうか。また、笙や笛を演奏することも得意だったそうです。

 彼の子女としては、藤原理兼、藤原穆子、女子(源重信室)が知られています。

 このうち藤原穆子の血統が、平安時代の超有名人の家と結びついているので、少し書かせていただきますね。

 穆子は敦実親王(宇多天皇皇子)の子で、のちに左大臣に昇進する源雅信の妻となり、2人の女子をもうけました。

 このうちの1人が、藤原道長の妻となる倫子です。倫子は道長との間に、頼通、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条・後朱雀母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇が東宮の時の妃 後冷泉母)の6人の子女をもうけました。すなわち、倫子が道長との間にもうけた6人の子供たちは、定方の玄孫ということになります。
 つまり穆子の血統は、道長の御堂関白家、さらに天皇家につながっていくのです。すごいですよね~。

 一方、穆子のもう1人の娘は、道長の異母兄で「蜻蛉日記」の著者の息子さん、つまり藤原道綱の妻となっています。


☆藤原朝成 (917~974) 中納言
 
 朝成は、様々な逸話のある人物です。肥満大食で、やせるために医師が湯漬け、水漬けをすすめたが、量が多くて効果がなかったとか。多分、食べ過ぎから糖尿病になったか、太りすぎて心臓病になって亡くなったのではないかと、私は思います。

 また、彼には、藤原伊尹と蔵人頭を争って破れたため、伊尹を恨み「伊尹の子孫は根絶やし滅ぼしてやる!」と執念を燃やしたという話でも知られています。
 しかしこの話は年代的に合わないようです。

 朝成と伊尹は同じ天慶四年(941)に昇殿を許され、同じ天暦九年(955)に蔵人頭になっています。その後、朝成の方が早く参議に任じられるなど、しばらくはどちらかというと朝成の方が昇進が早かったようです。しかし、次第に伊尹の方が昇進速度が速くなり、彼が摂政太政大臣に任じられた天禄二年(971)、朝成はまだ中納言でした。朝成は、七つも年下の伊尹に官位を追い越され、大変悔しい想いをしていたことが想像できます。

 そして実際、伊尹の子供たちのほとんどが若死に、または出家をしてしまいます。これは、朝成の怨霊のしわざだと噂されたようです。さらに、伊尹の孫に当たる花山天皇が若くして出家をしてしまったのも、朝成の怨霊のしわざだと言われています。そのため、伊尹の子孫たちは朝成の邸跡には絶対に近づかなかったそうです。

 こんな話が伝わるくらいですから、朝成と伊尹は実際、仲が悪かったのかもしれませんね。

 そんな朝成の子供たちですが、藤原惟賢、藤原脩子、藤原宣孝室となった女子が知られています。このうち藤原宣孝(後述)と結婚した女子の子に、藤原隆佐がいます。藤原賢子(大弐三位)の異母兄に当たる方ということになりますね。


☆藤原朝頼 (生没年未詳) 左兵衞督

 山蔭女所生の3人の男子のうち、朝頼が一番官位が低いのですが、実は「藤原氏勧修寺流」として後世まで家系が続くのは彼の子孫なのです。

 朝頼の子に為輔がおり、為輔の子が惟孝、説孝、宣孝です。
 このうち、宣孝の妻の1人が紫式部で、2人の間に産まれたのが賢子(大弐三位)です。また、妻の1人には前述した藤原朝成女もいます。
 しかし、後世まで続くのは、宣孝が別の妻との間にもうけた隆光の血統です。この血統からは、白河天皇の側近として有名な藤原為房など、院政期に活躍した公卿が多く出ています。源平時代に日記「吉記」を著した藤原経房は、為房の曾孫に当たります。


☆女子(代明親王室) (生没年未詳)

 醍醐天皇皇子代明親王との間に、重光、保光、延光(?)(以上3人の男子は臣籍に下って源姓を賜ります)、荘子女王(村上天皇女御)、厳子女王(藤原頼忠室)、恵子女王(藤原伊尹室)をもうけます。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」をご覧下さい。最初の方でも書きましたが、この記事のラストにリンクが貼ってあります。


☆藤原能子(仁善子) (?~964)  醍醐天皇女御 三条御息所 衛門御息所

 能子は、延喜十四年(914)に醍醐天皇に入内し、その後女御となったものの、いつの頃からか天皇の弟の敦慶親王と密通するようになります。それを感づいた天皇は能子をうとんじ、彼女を上御の局に呼びつけておきながら、待ちぼうけを食わせた…ということもしたようです。敦慶親王は延長八年(930)に薨じ、天皇もその年に崩御します。
 その後、能子のもとには、醍醐天皇の別の弟、敦実親王が通ってきていたようです。そして、敦実親王との仲が途絶えると、今度は藤原実頼(藤原忠平の子で、小野宮流藤原氏の祖)が通ってくるようになります。

 「大和物語」には、能子は天皇の崩御後に実頼の妻となって頼忠を産んだ…と、記述されているようです。しかし、頼忠の生年は延長二年(924)で、醍醐天皇崩御の6年前なので、計算が合いません。能子が実頼の室になったのは間違いないようですが、頼忠の母に関しては「公卿補任」の記述の通り、藤原時平女と考えた方が自然のようです。


☆女子(藤原師尹室) (生没年未詳)
 
 彼女は藤原忠平の子師尹(藤原実頼の弟で小一条流藤原氏の祖)と結婚し、定時、済時、芳子などをもうけます。

 このうち、定時の子が歌人として有名な藤原実方です。清少納言の恋人の1人としても知られた人物ですよね。

 済時は、源延光(代明親王の子)の女との間に通任、、(女成)子(三条天皇皇后)などをもうけました。

 芳子は村上天皇に入内して「宣耀殿女御」と呼ばれ、昌平親王と永平親王をもうけています。髪が長くて大変美しい女性だったので、村上天皇の寵愛をを最も強く受けたようです。「枕草子」に記載されている、「古今集」の歌を全部暗唱できたというエピソードでも有名です。


☆女子(藤原雅正室) (生没年未詳)

 生没年は未詳ですが、かなり長寿だったと伝えられています。
 彼女は、雅正との間に為頼、為長、為時をもうけます。そして、為時の娘が紫式部です。

 また、紫式部の弟(一説には兄とも)の惟規の子孫には、平清盛の盟友として有名な藤原邦綱(大納言典侍の父)がいます。


 こうして定方の子孫をざっと見てみましたが、代明親王の子孫同様、色々な所とつながっていますし、有名人も多いです。
 しかも、藤原頼通以降の摂関家の人々と、後一条天皇以降の天皇は、すべて定方の子孫なのですよね。
 さらに、定方の子孫は勧修寺流や小一条流、世尊寺流の藤原氏、村上源氏につながっていることを考えると、院政期~源平時代に活躍した方々の中には、定方の子孫は意外に多かったのではないでしょうか。


「代明親王の子孫たち」はこちら

 

創作菓子「源氏双柿」

2006-10-09 16:53:05 | 静岡大好き
 友人から、沼津にある老舗の菓子店、光来堂」さんから発売されている「源氏双柿」という創作菓子を頂きました。とてもおいしいお菓子でしたし、名前にも引かれましたので、写真に撮ってみました。

 発売元の光来堂さんは、住所から推察したところ、源頼朝と源義経が初めて対面した黄瀬川の近くにあるようです。なのでこの「源氏」というのは源氏物語の源氏ではなく、頼朝や義経の「源氏」だと思われます。

 写真は、左上が表から見たところ、右下が裏から見たところです。表側に清和源氏のシンボル「笹竜胆」の焼き印があります。裏側のデザインは対面石をイメージしたのかもしれません。こってますね。

食べた感じでは、白あんのようなあん(説明書きを見たところ、寒天が入っているようですが)を、小麦粉とバターと卵で作った布地と、ホワイトチョコレートとあめで作った布地ではさんだもののようです。見た感じもかわいく、何よりも甘くてとてもおいしかったです。

「光来堂」さんについて、詳しくはこちらでどうぞ

 

通勤途中に出会った猫 by里江さん

2006-10-07 10:37:46 | 美術館
 「平安奏華」の里江さんから、猫ちゃんの写真を頂きました。

 タイトル通り、里江さんが通勤の途中でいつも出会う猫だそうです。背中をなでると「ニャー」とかわいい声で鳴くとか…。こんな話を聞くと猫好きにはたまらないですね~。私もそうですが、かわいい猫をなでている時って心がほのぼのと温かくなるのです。そして「ニャー」というかわいい声を聞くともうたまりません。思わず抱きしめたくなります。

 ちなみにこの猫ちゃん、飼い猫だそうです。確かに人なつっこそうな感じが漂っていますよね。観ているだけで暖かい気持ちになっていやされました。里江さん、素敵なお写真をどうもありがとうございました。

*この写真の著作権は里江さんにあります。無断転載は絶対にしないで下さい。

里江さんのサイト「平安奏華」はこちら


掛川城散歩 もくじ

2006-10-05 14:31:01 | 旅の記録
 このページは、「掛川城散歩(2006年9月14日)」のもくじのページです。

 各項目に直接ジャンプできますのでご利用下さい。「旅行記の1回目を読む」→「ブラウザのもどるでこのページにもどる」→「旅行記の2回目を読む」…というように、旅行記を順番に読むこともできます。

 また、他の旅行記の「もくじ」のページにもジャンプできますので、ぜひご覧になってみて下さい。


1.出発
2.掛川城天守閣へ
3.天守閣の中へ
4.千代と一豊の掛川館
5.二ノ丸茶室


☆「日帰り京都旅行2005年夏」のもくじのページ

 2005年8月23日の日帰り京都旅行の旅行記です。
 当時開かれていた京都文化博物館での風俗博物館の出張展示を観てきました。博物館本館では十二単を体験し、別館では「源氏物語」内の六條院行幸の場面の展示を堪能。昼食後はタクシーで東山方面に向かい、法住寺や三十三間堂に行って来ました。


☆「京都1泊旅行2006年春」のもくじのページ

 2006年4月6日・7日の京都1泊旅行の旅行記です。
 1日目は風俗博物館、下鴨神社へ行きました。下鴨神社では十二単と壺装束を体験。
 2日目は以前から行きたかった京都御所や紫式部の墓、雲林院、千本閻魔堂を巡ってきました。