平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

サイン本プレゼントに当選

2009-07-28 09:54:43 | 読書日記
 久しぶりに「読書日記」の記事を書きます。

 「光源氏になった皇子たち」を読み終わったあと、角川ソフィア文庫の「うつほ物語 ービギナーズクラシックス 日本の古典」を読み始めました。
 日本最古の長編小説と言われ、伝奇的要素と世俗的要素を兼ね備えた「うつほ物語」の大まかなストーリーがわかるようになっている本で、とても面白かったのですが、読んでいる途中で体調を崩したりしてなかなか気持ちが本に向かわず、読み終わるまでかなり日にちがかかってしまいました。でも、面白かったので後日、「図書室2」で紹介したいです。早速下書きに取りかからなくては。

 さて、前置きはこのくらいにして、タイトルの話題に移りますね。

集英社文庫の新完訳「赤毛のアンシリーズ」の訳者で、作家の松本侑子さんのホームページにて、毎月、松本さんの著書や訳書のサイン本を読者にプレゼントするという企画が行われています。
 松本侑子さんというと、こちらの記事でも書きましたが、昨年12月13日に講演会を拝聴させていただきました。そして、ご本人とも直接お話しでき、舞い上がってしまったこと、「誰も知らない赤毛のアン」の本にサインをしていただいたことは、今でも昨日のように思い出されます。

 それで、ホームページで行われているサイン本プレゼント企画についても、ずっと以前から知っていましたが、私はくじ運も悪いし、当たるわけがない…と思って応募したことはありませんでした。

 ところが、今年6月のプレゼントが「アメリカ・カナダ物語紀行(amazonでの紹介ページはこちら)」だと知り、心が動いてしまったのでした。

 この「アメリカ・カナダ物語紀行」は、最近、幻冬社文庫から出版された松本侑子さんの新刊本で、「赤毛のアンシリーズ」や「若草物語」、「大草原の小さな家シリーズ」の舞台を紹介した本とのこと、ぜひ読んでみたいと思っていました。なぜなら私は、「赤毛のアンシリーズ」は以前から何回も書いていますようにもちろん大好きですが、「若草物語」や「大草原の小さな家」も好きなのです。

 特に「若草物語」は、「赤毛のアン」と並んで、中学・高校時代の私の愛読書でした。しかも最近、角川文庫からシリーズ全4巻が復刊されたことを知り、5月にamazonから購入し、読んだばかりだったのです。

 「若草物語」というと、南北戦争に行った父親が留守の間の1年間の出来事と、四人姉妹の成長を綴った第一部が有名だと思いますが、実は姉妹が成長して結婚し、その子供達が大きくなるまで物語が続き、第4部で完結しているのです。
 しかし私は、第一部は完訳版を読んだことがありますが、第2部と第3部は児童向けの抄訳版しか読んだことがなかったのです。第四部に至っては読んだことがありません。それが角川文庫から復刊されたことを聞き、飛びついてしまったのです。角川文庫なら、省略はほとんどないでしょうから…。5月の終わりから6月にかけて、平安関係の更新が少なかったのはこんなところにも理由があったのでした。

 それで「若草物語シリーズ」全四巻を読んだ感想は、「完訳が読めて大感激」でした。今まで知らなかった四姉妹のエピソード、特に長女メグの結婚生活の様子や、姉妹の子供たちや次女ジョーの開いた学校の生徒たちのエピソード、更に彼らが大人になってからどうなったかも知ることができて嬉しかったです。

 …と、ちょっと話が横道にそれてしまいましたが…、「大草原の小さな家シリーズ」は、中学生の時に全巻読了しました。それ以来、読み返したことはないのですが、とてもなつかしいです。

 こんな風に、大好きな物語、なつかしい物語の舞台を紹介した「アメリカ・カナダ物語紀行」が読者プレゼントになっているなんてすごい。これは応募するしかない…と思い、早速応募フォームから応募してみたのでした。

 そして7月の始め、「アメリカ・カナダ物語紀行のプレゼントに当選されました」というメールを受け取りました。嬉しかったです。そこで、松本さんのホームページの「サイン本プレゼント」をクリックし、当選者25人の中に自分の名前を確認してさらにわくわく…。

 プレゼントの品が手元に届いたのは7月21日、本のオビには、「アン、ローラの故郷へようこそ!」と書かれていてわくわく。更にとびらには松本侑子さんのサインがアルファベットで書かれています。本当にプレゼントに当選したのだなと実感しました。そして、現在、読んでいるところなのですが、舞台になった土地の紹介はもちろん、物語の解説も書かれていて面白いです。

 ところで、私は先日、サマージャンボ宝くじを買ったのですが、この夏はサイン本プレゼントに当選したことでくじ運を使い果たしてしまったかもしれませんね。3000円でもいいから当たるといいのですが、ちょっと欲張りかな。

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部分日食の空

2009-07-23 21:18:27 | えりかの平安な日々 04~09
 *昨日、UPしようと思ったのですが、時間がなくて記事作成ができず、今日になってしまいました。

 昨日7月22日は、待ちに待った日食の日。鹿児島県奄美地方では皆既日食が見られ、私が住む静岡でも太陽が8割近く欠けるということで、どのくらい暗くなるのか、空の色はどうなるのか、温度は下がるのか、できたら三日月の木漏れ日を見てみたいなど、以前からとても楽しみにしていました。

 しかし…、結論から言うと、昨日は日食の間ずっと曇っていて、お日さまの姿は拝めませんでした。雲の切れ目から、顔を出しそうで出さない…という、何とも微妙な感じだったのですよね…。

 そのため、テレビで中継を見ながら、時々外に出て空を見上げたり、空気を体感したりしていました。我が家のベランダから見上げた空の写真も撮りましたので、何枚か載せたいと思います。

 ではまず、太陽が欠け始める1時間くらい前、8時45分の空の様子をどうぞ。アングルが悪くて少し見にくいですが、すみません。


          


 このあと、9時頃になると雲が少し切れ始め、お日さまも少し顔を出し始めたのですが、30分ほど経つと再び曇ってしまいました。

 それでは、太陽が一番欠けていたと思われる11時7分と、11時11分の空の写真です。


          


          


 何か不思議な色です。この頃になると空気はひんやりし、少し肌寒くも感じましたし、蝉もぴたっと泣きやみました。自然の力ってすごいですね。

 ところで、NHKが硫黄島と太平洋上の船の上から、皆既日食を中継していました。真っ暗な空と黒い太陽、水平線に拡がった不思議な光…。何とも幻想的でした。そして、ダイヤモンドリングがきれい!どこかのプラネタリウムで、この様子を360度のパノラマで再現してくれるといいなあ…と思いながら見ていました。

 さて、次の日食ですが…、3年後の2012年5月21日の朝、日本の太平洋側の地域で金環食が見られるそうです。つまり、私の住む静岡でもばっちり見られます!月の影が中心部を隠し、リング状になった太陽、ぜひ見たいです。どうか今度こそ天気が良くなりますように。

☆先週から少し体調を崩していたのですが、薬が効いたようでだいぶ良くなりました。一昨日の診察でもほとんど異常なしでしたし。良かったです。蒸し暑い季節の折り、体調を崩しがちです。皆様もお気をつけ下さいませ。

 そのようなわけで、「系譜から見た平安時代の天皇」の「平城天皇」の下書き、2週間くらい前から全く進んでいません。一応、「末裔たち」を残すだけなのですが、平城天皇の子孫には有名な方が多いので書くのがちょっと大変そうです。何とか今月中に下書きを書き上げ、来月の初めにUPできるといいのですが…。マイペースで頑張ります。

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同窓会

2009-07-21 21:29:35 | えりかの平安な日々 04~09
 遅くなりましたが、同窓会の報告を…。

 先週末、18日と19日は、同窓会に参加するため、一泊二日で熱海に行って来ました。一泊旅行なんて1年ぶりくらいではないかしら。

 そんなわけで、お昼過ぎに家を出て最寄りの駅へ、そして、静岡から新幹線に乗り換えてわくわく…。新幹線に乗るのも、昨年秋の京都日帰り旅行以来です。
 ちなみに、私の最寄りの駅から熱海までは普通電車でも2時間くらいで行けるのですが、私はまだ体調が本調子ではないし、だんなさんも普通電車で2時間はきついので、新幹線で行くことにしたのでした。あ、これは前にも書きましたが、私とだんなさんは年齢が一回りちょっと離れていますが、専門学校の同級生です。なので今回もだんなさんと一緒に参加することにしました。

 と言うわけで、4時半頃にホテルの部屋に入りました。お部屋はとても広くて快適。窓からは海が見えます。そこで思わず、携帯電話のカメラのシャッターを押してしまいました。上の写真はその時に撮った写真です。

 6時からは一次会の宴会、参加者は13人で、おいしい食事を頂きながら話がはずみました。特に、大きな梅干しの入ったお吸い物がおいしかったです。熱海は梅園が有名なので、こういったお料理が出るのでしょうね。

 そのあと、幹事さんが作ってきたクイズで盛り上がりました。私は2問正解し、タオルとシャンプーを景品に頂きました。
 ところが、最後に大ハプニングが…。最後の問題があまりにも面白かったので、私はまるで笑いキノコにとりつかれてしまったように笑いが止まらず、ちょうどその時に口に入れていた杏仁豆腐をのどに詰まらせてむせてしまったのでした。仲居さんはとんでくるし、だんなさんには叱られるし…。それに何より、盛り上がっているみんなに申し訳なくて、涙が出てきそうになりました。でも、食い意地がはってデザートを夢中で食べていた私が悪いのですから、仕方がないですよね。

 宴会終了後、1時間ほど休憩し、そのあとは二次会のカラオケに行きました。私たちの同期はカラオケが好きな人が多いので、ここでも盛り上がりました。私も3曲歌いましたが、宴会の時にむせたのが響き、高い音が全く出ませんでした。まあ、こんな時もあるさということで。

 三次会は深夜の飲み会。パスしようと思っていたのですが、体調が思ったより良いし、まだ全然眠くなかったので参加することにしました。その代わり、アルコールは病院の先生に止められているので飲まないことにしようと思っていたのですが…。「カクテルならアルコール分もほとんどないし、大丈夫だよ」と幹事さんに言われ、飲むことにしました。ちょうど炭酸飲料のジュースのような味でおいしかったです。そして、みんなと色々な話をして楽しかったです。いつの間にか夜中の3時になっていました。

 そして、布団に入ったのが3時半頃。でも、なかなか眠れません。やっと眠れたと思ったら5時頃目が覚めてしまいました。あ、ちょうど日が出た頃の時刻、海がきれいだろうなあと思い、そっとカーテンを開けてみましたが、外は曇っていてお日さまが見えません。ちょっとがっかりしました。

 結局、その日の睡眠時間は2時間くらいだったと思います。それでもわりと元気なので、「体調が回復したのかしら」と嬉しくなりました。
 朝食はバイキング。ご飯、みそ汁、卵焼き、ひじき、サケの焼いたもの、昆布の佃煮、ポテトサラダなどを食べました。おいしかったです。

 こうして、たくさん飲んで食べて、笑って騒いで…、楽しかった同窓会が終わりました。仲間との時間は楽しくてあっという間です。ご一緒したみなさん、ありがとう。来年も参加したいです。

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光源氏になった皇子たち

2009-07-14 14:19:53 | 図書室3
 今回は、「済子女王」で検索をかけて偶然見つけたこの本を紹介します。

☆光源氏になった皇子たち ー源高明と章明親王の場合
 著者=西穂 梓 発行=郁朋社 価格=1575円

☆本の内容
 大和絵三大秘戯図のひとつ、偃息図「小柴垣草子」のヒロインに貶められた廃斎王済子女王。煌びやかに繰り広げられる王朝絵巻の背後で蠢く権力欲のどす黒い罠に絡め取られた章明親王一族の貴種流離の様を鎮魂の思いを込めて描き出す藤原為時の娘香子がそこにいた。

[目次]
神泉苑/異母兄/崩御/安和の変/中川の辺り/花山王朝誕生/麗ノ女御/斎王卜定/野宮の笛/落飾出離/再会/そして物語は始まった

 済子女王とか、源高明とか章明親王を中心に描かれた歴史小説などめったにないので、内容と目次を見てぜひ読んでみたいと思いました。
 それに、章明親王の母方の祖父は藤原兼輔、つまり紫式部の曾祖父に当たる人物です。しかも、角田文衞先生の『紫式部伝 ーその生涯と源氏物語』によると、式部の家と親王の家は隣同士だったそうです。なのでこの小説はそのあたりにも注目し、為時・式部親子と章明親王・済子女王親子との親しい交際にも触れているかもしれない…と、わくわくしました。そのようなわけで、この本の存在を知ってから10分後には、amazonのページで購入ボタンを押していました。

 さて、そんなわけで、本が手元に届いたその日から早速読み始めました。そして、期待以上に面白く、ストーリーにぐんぐん引き込まれてしまいました。

 物語は、延長元年(923)のある日の神泉苑から始まります。そしてそこで、ともに醍醐天皇の皇子である源高明と章明親王が出会い、何となく気が合い、同時に相手を意識するのですが、その後、全く対照的な人生を歩むこととなるのです。
 つまり高明は、藤原摂関家の娘を次々と妻に迎え、ついには左大臣にまで出世します。それに対して章明親王は出世に背を向け、一親王として趣味と風流の道に生きることとなります。「そのようにしていれば、政争に巻き込まれることもなく、平穏な人生を送ることができる」と考えたからです。そのため章明親王の目からは、高明は、次第に摂関家に挑戦していくようで危うく見えたのでした。

 『光源氏になった皇子たち』の前半部分は、この2人の心の動きを中心に、安和の変に至るまでの政治状況が語られていきます。
 小説の前半部分で圧巻なのは、「崩御」の章です。

 この章の前半は、天徳内裏歌合わせについて描かれています。そして、優雅な歌合わせの裏には、源高明を中心とした源氏グループと、藤原実頼を中心とした藤原氏グループとの対立があったと描かれているのです。そのため、歌合わせの描写は緊迫感があり、読んでいてわくわくしました。

 後半は、村上天皇崩御の直前、藤原師尹と、彼の甥に当たる伊尹・兼通・兼家兄弟の密談が描かれています。密談の内容は、源高明の娘を妻にしている為平親王ではなく、まだ幼い守平親王を時期東宮にしようというものでした。会話からは4人の性格の違いがよく表現されていて、こちらも読みながらわくわくしました。特に、兼家の策謀家ぶりが光っています。

 そうこうしているうちに村上天皇は崩御され、東宮憲平親王が即位します(冷泉天皇)。高明は当然、次の東宮はすぐ下の弟で自分の娘婿にも当たる為平親王が立てられるものと確信していました。しかし、師尹・伊尹・兼通・兼家によって公卿たちに根回しがされ、時期東宮は守平親王に決まってしまいます。そして、その二年後の安和二年(969)に起こった安和の変によって、「守平親王を廃し、為平親王を東宮に立てようとした」というぬれぎぬを着せられた高明は失脚、太宰府に左遷されてしまいました。章明親王は、ここでも政争に巻き込まれることを恐れ、高明の左遷を傍観していました。

 ここまでが、安和の変に至るまでのストーリーです。では、その先のストーリーも紹介しますね。いよいよ済子女王も登場してきます。

 安和の変の年、冷泉天皇は退位、守平親王が即位します(円融天皇)。円融天皇の治世は15年、次に即位したのが冷泉天皇が伊尹の娘、懐子との間にもうけた師貞親王、つまり花山天皇です。東宮には、藤原兼家の娘、詮子が産んだ懐仁親王が立てられました。

 ところで、天皇の御代が代わると、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王または女王が選ばれます。これを斎王というのですが、花山天皇御代の斎王に選ばれたのが、章明親王の娘、済子女王でした。

 私はこの記事の最初の方で、「済子女王」で検索をかけてこの本を見つけたと書きました。済子女王については、拙ブログの醍醐天皇の系譜の記事でも簡単に触れているのですが、ここでも『平安時代史事典』をもとにもう一度紹介させていただきます。

☆済子女王(生没年不詳)。章明親王の女。花山天皇御代の伊勢斎王。永観二年(984)、斎王卜定。翌寛和元年(985)九月、野宮に入る。翌年、滝口武士平致光との密通が露見し、斎王を退下する。密通は、女房の宰相君の手引きであったという。女王のその後の消息は不明。

 多分、斎王に卜定されたのは二十歳くらいだったのだろうし、それまで大切に育てられ恋することも知らなかった女王の目から見て、護衛の滝口武士は男らしく、勇ましく見え、恋に落ちてしまったのだろうなあ。滝口の武士という、身分の低い男性が相手だったから噂が立ってしまったのだろうけれど、在原業平と恬子内親王のように、周りがひた隠しにするということもできただろうに、ちょっとお気の毒…。済子女王のことを知ったとき、私はそう思いました。同時にこの女性になぜか心を引かれ、もっと詳しく知りたいとも思いました。なので時折、「済子女王」でネット検索をかけて色々調べていたのです。

 さて、『光源氏になった皇子たち』の中でももちろん、済子女王の密通事件が取り上げられています。しかしその内容は、密通とは名ばかりのものでした。小説で描かれている内容を簡単にご紹介すると…。

 平致光は桓武平氏高望流の人物で、藤原道隆(兼家の子)によって野宮の警備を命じられます。そんな致光は笛の名手でした。そのことを知った女王は、「致光の笛を聞いてみたい」と女房の宰相君にねだります。女王は音楽が好きで琴の演奏が得意でした。「致光の笛を聞いてみたい」という願いは、ごく自然なことだったと思います。

 こうして致光は、済子女王のために笛を演奏するようになり、時には女王の琴と合奏することもありました。そうこうしているうちに、女王は致光のことを好ましく思うようになります。このように彼女は、とても純粋な心を持った女性に描かれているのです。致光も、知らず知らずのうちに女王に気持ちが向いていたのかもしれません。

 ある時、済子女王の御簾の仲に獣が進入し、女王は気を失ってしまいます。そばには致光の他、誰もいませんでした。致光は御簾の中に入り、女王を介抱します。そして、そこを女房に見とがめられ、「斎王さま密通」と大騒ぎになり、済子女王は斎王を退下させられてしまった…、ただそれだけのことなのです。

 実は、2人が相手を意識するような関係になるように仕向け、「斎王さま密通」の噂を立てること、それはあらかじめ仕組まれたわなだった…と、この小説では描かれていました。それが誰によってどのように仕組まれたかはネタばれになってしまうので書くのは控えますが、この事件は花山天皇退位の大きな原因を作ったことは確かなのではないでしょうか。

 すなわち、斎王密通が発覚したのが寛和二年六月十九日、花山天皇が出家したのがその四日後の六月二十三日です。花山天皇は寵愛していたのにもかかわらず、妊娠中に亡くなってしまった女御、藤原(女氏)子のことが忘れられず、それにつけ込んだ藤原道兼(兼家の子)が天皇をだまし、内裏から連れ出して出家させたと言われています。道兼は言うまでもなく、父兼家の密命を帯びていたと考えられます。

 そして、その四日前に、自分の名代として伊勢神宮に奉仕することになっていた斎王がこともあろうに野宮で密通し、斎王を退下させられたという、前代未聞の事件が起こり、その事件が神経質で感じやすい花山天皇の心にショックを与えた。そして、「これは私が天皇であることを神が怒っているのではないか?」と考え込んで悩み苦しんだとしてもおかしくないと思うのですよね。そんな悩みが出家の一つの引き金になったことも、充分考えられると思います。

 つまり逆に言うと、自分の孫である東宮懐仁親王の1日も早い即位と、自分の摂政就任を熱望する藤原兼家やその息子たちが、斎王密通事件をでっち上げたとも考えられるわけです。

 以上のことから、この小説で描かれた済子女王と平致光の密通事件の描写やその背景は、非常に納得できるものでした。

それにしてもお気の毒なのは、政争の犠牲者になってしまった済子女王と致光です。特に済子女王は200年後、偃息図「小柴垣草子」で、身分の低い男と密通するみだらな姿の女性として描かれてしまいました。廃斎王、ふしだらな女と更に烙印を押されてしまったことになります。考えれば考えるほどお気の毒になります。

 しかし、『光源氏になった皇子たち』では、史料には記載されていない済子女王の思いがけぬ後半生が描かれていました。その内容も核心部分なので書くのを控えますが、著者の心意気というか、済子女王に対する優しいまなざしが感じられ、読んでいて心が暖かくなりました。斎王退下後の彼女の消息は不明のようですが、この小説で描かれたような後半生であって欲しい、私は心からそう思いました。

 ところで、私がこの小説に期待していたこと、紫式部一家と章明親王一家との親しい交際についても、しっかりと取り上げられていました。
 幼い紫式部(この小説では香子となっていたので、以下はこの名前で通します)が、父為時に連れられて章明親王の家を訪ねる場面もあります。また、済子女王の斎王退下後、その裏にあるどす黒い陰謀に気づいた章明親王は、宮廷社会との交際を絶ってしまうのですが、為時一家とは相変わらず親しく交際していました。
 更に小説のラストは、香子が、源高明や章明親王を映し出した理想の人物の物語を書いてみよう」と決心し、墨をする場面です。二つの家庭の心の交流が伝わってきて、すがすがしい終わり方だと感じました。また、その時に香子が書こうとしている物語こそ、言うまでもなく「源氏物語」です。

 それともう一つ…、この小説で、私は花山天皇のイメージが変わりました。花山天皇はこの国を良くしようと、革新的な政治を行ったようなのです。彼は多趣味で、芸術に優れた人物ですが、政治力はなかったのでは…と今まで思っていたのですが、どうしてどうして、政治的にもなかなか優れた天皇だったのかもしれませんね。花山天皇についてはもっと色々調べてみたいと思いました。

 以上、時々脱線もしながら、長々とこの『光源氏になった皇子たち』について述べて参りましたが、読み終わった感想は、「久しぶりにわくわくする歴史小説を読むことが出来た」です。二十数年前、私が歴史に興味を持ち始めた頃、歴史小説を夢中になって読んでいた新鮮な気持ちを思い出すこともできました。

 そして、登場人物の性格の書き分けが面白かったです。高明、章明親王、済子女王、致光、香子はもちろんですが、敵役の兼家が魅力的でした。何となく憎めないキャラクターなのですよね、彼…。
 それと、登場人物の会話の部分がとても多いので、劇画を見ているような感覚でさくさくと読めます。何よりも、今まであまり小説に登場しなかった平安人物がたくさん出てきますし、安和の変や花山天皇御代をこれだけ真正面から描いた歴史小説は初めてではないでしょうか。お薦めです。

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婉子女王 ~花山天皇女御、そして、実資の妻へ

2009-07-08 11:14:09 | 歴史人物伝
 私は、最初、天皇の女御となり、天皇の崩御後や退位後に臣下の妻となった女性になぜか心を引かれます。2005年6月5日に紹介した藤原元子もその一人です。
 今回はそんな女性、元子のいとこにも当たり、彼女よりも少し年上になる婉子女王を紹介したいと思います。

 ではまず、彼女のプロフィールと両親についてから、書かせていただきますね。

☆婉子女王(えんしじょおう又はつやこじょおう)
 生没年 972~998
 父・為平親王(952~1010) 母・源 高明女

 婉子女王の父、為平親王は村上天皇と、皇后藤原安子との間に産まれた皇子でした。そして、村上天皇の東宮に立てられていたのが、為平親王の同母兄の憲平親王です。生まれつき心身が弱かった憲平親王に対し、為平親王は大変聡明で才気のある人物だったようです。つまり彼は、次の東宮に立てられてもおかしくない人物だったのです。

 ところが、康保四年(967)、憲平親王が即位して冷泉天皇となったものの、東宮に立てられたのは為平親王ではなく、その弟の守平親王だったのです。これには、藤原伊尹・兼通・兼家兄弟の思わくがありました。為平親王は右大臣源 高明(同年十二月に任左大臣)の娘を妃にしていたため、「為平親王が東宮になったら、舅の高明が権力を持ってしまうかもしれない。それでは都合が悪い」と考えたからでした。
 更に安和二年(969)に起こった安和の変によって高明は太宰府に左遷、為平親王も昇殿を止められ、その前途はふさがれてしまったのでした。

 婉子女王はそんな為平親王と高明女との間の皇女として生を受けました。彼女の少女時代については全くわかりませんが、昇殿を許されない父と、権力を失ってしまった高明の娘である母との間であまり陽の当たらない生活を送っていたのだろうと推察できると思います。ただ、「栄花物語」によると婉子女王は「いみじううつくしうおはします」と記述されており、その美貌は早くから世間の評判になっていたのかもしれません。

 そんな婉子女王に転機が訪れたのは、彼女が14歳の寛和元年(985)のことでした。彼女の美貌の噂を聞きつけた花山天皇に望まれ、その後宮に入内することとなったのです。
 実は花山天皇は、同じ年の七月十八日、寵愛していた女御、藤原(女氏)子(藤原為光女)を妊娠中に亡くして大変悲しんでいました。そんな中、婉子女王の美貌の噂を聞き、「もしかしたら婉子女王は、(女氏)子を失った辛い気持ちを忘れさせてくれるかもしれない。」と考えたのかもしれません。

 こうして婉子女王は十二月十八日に入内し、花山天皇の女御となりました。2人の仲はわりとうまくいったようですが、残念ながら花山天皇の心から、(女氏)子の面影や彼女を失った心の傷を忘れさせるほどの寵愛とまでは行かなかったようです。花山天皇の心の傷をいやすのには、まだ14歳の婉子女王はあまりにも幼すぎたのかもしれません。
 ただ、彼女が入内し、女御となったおかげで、長い間昇殿を許されなかった父、為平親王の昇殿が許されたことは、娘である婉子女王にとっては大きな喜びだったと思います。

 しかし、婉子女王が入内してわずか半年後、自分の孫である東宮、懐仁親王の世が1日も早く来ることを望んでいた藤原兼家は、(女氏)子を忘れることができない花山天皇の心につけ込み、息子の道兼を使って天皇をだまし、内裏から連れ出して出家、退位させてしまいます。寛和二年六月二十三日のことでした。
 これは、婉子女王にとっては思いも寄らぬ出来事で、ただまごまごするしかなかったと思います。花山天皇の出家、退位と共に彼女は内裏を下がり、実家に戻ったようです。

 ところが、彼女の生涯はこれで終わったのではありません。やがて彼女の前に2人の男性が現れることとなるのです。

 一人は藤原道信(972?~994)…。藤原為光の子で、藤原兼家の養子になった人物です。若くして亡くなったため、最終官職は左近衛中将。歌才に優れ、中古三十六歌仙の一人にも選ばれています。彼は婉子女王とはほとんど同年代でした。

 そしてもう一人は藤原実資(957~1046)…。藤原済敏の子で、藤原実頼の養子になった人物です。村上天皇から後冷泉天皇まで、九代の天皇に仕え、最終的には右大臣に昇りました。日記「小右記」を書き残したことでも有名です。彼は、婉子女王よりも15歳年上でした。

 同年代の男性と、ずっと年上の男性に同時に愛され、どちらにも心引かれる…ということは、現代でもありそうな話です。そして、婉子女王が選んだのは、同年代の道信くんではなく、年上の頼りになる男性、実資さんの方でした。
 彼女は上でも少し書いたように、あまり陽の当たらない両親に育てられたためか、ちょっと控えめでおとなしく、「私は年上の頼りになる方が好きだわ~」という考えだったと思うのですよね。
 そんなわけで婉子女王は正式に実資と結婚し、父為平親王が所有する染殿と呼ばれる邸宅にて実資と暮らし始めたのでした。繁田信一氏の「かぐや姫の結婚」によると、2人の結婚は正暦四年(993)の秋頃ではないかと推定しておられます。なお、婉子女王は実資にとっては二人目の正式な妻だったこともつけ加えておきます。

 さて、失恋した道信くんは、実資さんに対して嫉妬と羨望の思いを抱き、こんな歌を詠んだと『大鏡』に記述されています。

 嬉しきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身に染む ものにぞありける

 「あなたは恋がかなって嬉しく思われていることでしょう。それに比べて、恋を失った私の哀しみは深くなるばかりです」という意味でしょうか。

 さて、実資と婉子女王の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

 実は実資さん、なかなか女好きだったらしく、婉子女王と結婚するまで、最初の妻とだけでなく、他の何人かの女たちとの間に娘を数人もうけていますが、すべて夭折してしまいました。娘が欲しいと熱望していた実資は当然、婉子女王にも期待していたと思います。
 ところが、2人の間には子は生まれませんでした。これは私の推察なのですが、婉子女王は短命だったこともあって元々体が弱く、実資も彼女を妊娠させることをあきらめたのではないでしょうか。そして、子供がいなかったことでかえって2人の間には強い愛情が結ばれたのではないかと思うのです。実資は頼りになる優しい夫で、婉子女王は満ち足りた幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか。

 しかし、2人の結婚生活は5年しか続きませんでした。長徳四年(998)、婉子女王はまだ27歳という若さで亡くなってしまいます。

 実資は婉子女王を失ったことを大変悲しみ、その後は正式な結婚をしませんでした。寛仁元年(1017)、実資に故関白藤原道兼の娘との結婚話が持ち上がりますが、彼はこれをきっぱりと断ってしまいます。(小右記)
 また、小右記には、亡き婉子女王を偲ぶ歌も書き残しているようです。

 しかし、元々女好きの実資さん、実姉の女房に手をつけて子供を作ったりもしたようですが、多くは行きずりだったようです。その中でただ一人、婉子女王に仕えていた女房の一人を長く大切にしたようです。彼女は婉子女王の弟、源頼定の乳母の娘だったようですが、早くから女王に仕え、彼女の腹心のようになっていたのでしょう。実資はこの女性を女王の形見のように思っていたのかもしれません。
 そして婉子女王の女房は、寛弘八年(1011)に女の子を出産しました。この娘こそ、実資が蝶よ花よと猫かわいがりし、ついには「自分の財産はすべて譲る」と遺言状にしたためさせることとなる千古(かぐや姫)その人なのです。

 さて、こうして婉子女王の生涯をたどってきましたが、彼女がどんな性格の女性だったかについては記録がなく、今となっては想像するしかありません。でも、ちょっとひねくれたところのある実資さんを夢中にさせたのですから、ただ美しいだけでなく、素直でやさしく、魅力のある女性だったのではないでしょうか。有職故実に詳しく、教養の高い彼の話し相手も充分勤められるくらいの機知や教養もあったと思います。もう少し、実資さんと一緒にいさせてあげたかったとも思いますが…。でも、短いながらも幸福な結婚生活を送り、満足のうちにこの世を去っていった…、私はそう思いたいです。


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『かぐや姫の結婚』 繁田信一 PHP研究所
 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫


☆当ブログ内の関連ページ

実資さんって…
 藤原実資について、私の妄想や推察も交えて覚え書き的に綴った記事です。

平惟仲と藤原在国 ー平安時代のライバル
藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ
 花山天皇の退位と出家の経過に触れています。

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藤原歓子 ~仏道に帰依した皇后

2009-07-01 11:38:06 | 歴史人物伝
 後冷泉天皇の崩御直前に皇后に立てられ、その後出家をした藤原歓子について、私は以前から関心を持っていました。彼女がなぜ、小野に隠遁したのか、小野での生活は…など、色々と興味を引かれるところがあります。そこで、彼女の生涯について、私の妄想や推察も入れてまとめてみることにしました。

☆藤原歓子(1021~1102)
 父は藤原道長の息子教通。母は藤原公任の女。同母の兄弟姉妹には、信家、信長、生子(後朱雀天皇女御)など、母方のおじには定頼がいました。なお、彼女の母方については当ブログ内の、「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さい。

 歓子は物心つくかつかないうちに母を亡くしますが、父教通を始め、母方の祖父母の公任夫妻にもかわいがられ、当時の貴族女性として最高の教育を受けて成長したものと思われます。幼いときから容姿美麗で、枇杷や絵に巧みだったと伝えられています。そんな彼女は姉の生子と共に一家の希望の星で、将来は入内することを運命づけられていたのでしょう。

 そのようなわけで、まず姉の生子が後朱雀天皇に入内します。しかし、生子は天皇との間に子をもうけることができませんでした。やがて後朱雀天皇は寛徳二年(1045)に崩御し、第一皇子親仁親王が即位します(後冷泉天皇)。

 そしてその2年後の永承二年(1047)十月、26歳になった歓子は後冷泉天皇の後宮に入内することとなります。皇子を期待する教通の希望を一身に受けた入内でした。その翌年七月、歓子は女御の宣旨を受けます。

 聡明な歓子は後冷泉天皇に気に入られたようで2人の仲は睦まじく、彼女はやがて懐妊し、永承四年(1049)に皇子を出産しました。父の教通はもちろん、大役を終えた歓子もどんなに嬉しかったことでしょう。

 しかし、皇子は間もなく世を去ってしまいます。(一説には死産だったとも言われています)
 さらに追い打ちをかけるように翌永承五年(1050)、教通の兄、関白頼通の娘で15歳の寛子が後冷泉天皇の許に入内します。寛子の入内は大変華やかで、有力貴族の娘たちをも女房に従えての入内だったとか。

 そのようなこともあり、歓子はこの頃から里邸の二条東洞院第に引きこもるようになります。せっかく産まれた皇子を失ったことですっかり気落ちをした歓子は、自分よりずっと年下の寛子と天皇の寵愛を争うことが絶えられなかったのかもしれません。歓子は永承六年頃から、異母兄、長谷の法印静円(1016~1074)が住む小野に籠居するようになり、その年に准三宮に叙されましたが、この頃には完全に後宮生活を離れたものと思われます。

 ところで、この静円、教通が和泉式部の娘、小式部内侍に産ませた子で、若くして出家をした人です。しかも母を早く亡くしています。歓子もごく幼くして母を失っていますので母のない者同士、子供の頃から心が通じ合っていたのでしょう。天皇との間に生まれた子を亡くし、傷ついた心を慰めてくれたのはこの異母兄だったのかもしれません。また、その頃から出家願望があったと思われる歓子とこの静円は、仏教の教えについて色々話していたとも考えられます。

 さて、時は流れ、治暦四年(1068)四月、後冷泉天皇が崩御しますが、その直前、歓子は皇后に立てられました。すでに寛子が皇后となっており、章子内親王(後一条天皇皇女)が中宮となっていたのにもかかわらず、後冷泉天皇は自らの意志により、歓子を皇后に立てたのです。同じ時期に一人の帝に3人の后が立つというのは大変異例なことでした。後冷泉天皇は、自分の子供を産んでくれた歓子のことを忘れておらず、同時に感謝の気持ちを表したかったのかもしれませんね。
 このような後冷泉天皇の行為に対して歓子がどのように感じたのか、今では想像するしかありませんが、複雑な気持ちはあるもののやはり嬉しく思ったのではないでしょうか。

 さらに延久六年(八月に改元して承保元年)(1074)六月、歓子は皇太后となります。皇后から皇太后へ…、宮廷社会に戻って華やかな生活を送るという選択肢も、彼女には残されていたはずです。しかし、彼女はそうしませんでした。
 その年の八月、歓子は出家しました。実は皇太后となる少し前、同じ年の五月に、彼女の良き理解者であった静円が亡くなっているので、それが彼女が出家に踏み切る大きな原因になったとも考えられると思います。でも、長年の出家願望をようやく果たすことが出来てほっとした気持ちも大きかったのではないでしょうか。彼女は引き続き小野に住み小野皇太后と称されました。

 歓子は深く仏教に帰依し、小野亭を常寿院と改め仏教三昧の静かな生活を送っていましたが、71歳になったある日、彼女にとっては久しぶりとなる華やかな日が訪れます。有名な白河上皇の小野雪見行幸です。

 寛治五年(1091)10月27日、珍しく大雪が降った朝、白河上皇は小野に雪を見に行くことを口実に、歓子の小野の山荘を訪ねてみようと思い立ちました。そして牛車に乗り、殿上人や随身を従え、突然、歓子の許を訪ねたのです。

 注進によって訪問を告げられた歓子は、女房たちを寝殿の簀子に座らせ、鮮やかな紅の衣で御殿を華麗に装飾しました。やがて白河上皇が訪れると、歓子はすかさず女童に玉盃と銚子を持たせて車中の上皇に捧げ、ついで唐衣を着た正装の女房に錦で包んだ松が枝をたてまつらせられましたが、銀世界の中でこれらの行事は、まことに趣の深い光景であったと伝えられています。考えてみると白河上皇は歓子のかつての背の君、後冷泉天皇の甥に当たります。歓子は白河上皇を通して後冷泉天皇の面影を見ていたのでしょうか。そして、短かったけれど幸せだった後冷泉天皇との日々を思い出し、華やいだ気持ちになっていたのかもしれませんね。

 さて、上皇は雪見行幸の常として御殿にはお入りにならず、そのままお帰りになりましたが、歓子の心のこもった奥ゆかしいもてなしに感激したようです。後に上皇は、美濃国の荘園を歓子に贈られたと言うことです。

 こうして歓子はその後も仏教三昧の静かな生活を送り、康和四年(1102)八月十七日、八十二歳で崩御しました。そして、藤原氏の他の女性たち同様、宇治木幡に墓所が定められました。

 以上、歓子の生涯について書いてみましたが、書きながらふと後朱雀天皇の皇后、禎子内親王のことを思い出しました。彼女も歓子同様、天皇との間に皇子をもうけていますが、権力者の娘の入内により後宮を去ります。しかし、彼女は歓子と全く違う後半生を送ることとなるのです。すなわち、皇子が成長して後三条天皇となり、彼の子孫たちが皇位につくこととなったため、彼女は宮廷社会で大きな権力を握ることとなるのです。
 しかし歓子の場合は、皇子が夭折してしまったため、完全に宮廷から離れ、仏教に帰依する後半生を送ることになってしまったのでした。もし彼女が産んだ皇子が成長し、皇位についたとしたら、歓子が宮廷社会で権力を握ることになったかもしれません。人間の運命は紙一重のところで違ったものになってしまうのだなと、少し暗澹とした気持ちになってしまいました。

 でも歓子は、良き理解者の兄、静円がいたことや、彼女が生まれながらに持っていた聡明さ(白河上皇への心のこもったもてなしの様子を見ても、彼女の聡明さがよくわかるような気がします)など、幸運なところもあったと思います。仏教に帰依する静かな生活が、意外と彼女の性に合っていたのではないでしょうか。歓子の後半生が心静かなものであったことを祈りたいと思います。


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版 角田文衞監修 角川学芸出版
 『平安京散策』 角田文衞 京都新聞社


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