大河ドラマ「義経」第38回の感想です。
今回は久しぶりに重衡が出てきました。重衡ファンの私にとってはとても嬉しかったです。
でも今回のように、彼が伊豆で頼盛と会っていたり、道中で宗盛と偶然会うということは、絶対にあり得ないことなのですよね。このことに関してはのちに述べることとして、まず感想を書きますね。
景時が頼朝宛に送った書状の内容を詳しく知っているおとくばあさん。
「あなたはいったい何者なの?」と言いたくなってしまいます。おとくばあさんは京都ばかりか、鎌倉にも情報網を持っているのでしょうか?それとも神通力でもあるのでしょうか?
景時の書状の内容を義経に知らせに来たおとくばあさんは、それだけ義経のことを心配していたのでしょうけれど、このような絶対にあり得ないエピソードを入れられるとかえってしらけてしまいそうです。
義経に絶縁宣言をする景季くん。
景季の存在意義とはいったい何だったのか考えてしまいます。宇治川の先陣争いや重衡生け捕りといった見せ場をカットされ、ひたすら義経に心酔しきっていたのに、今回は「鎌倉からおふれが出ているから」と、義経に絶縁宣言ですか?!…。と言うことは、今度は敵方として義経を尋問するために、上洛してくるのかもしれませんね。
でも、あれほど義経に心酔しきっていた彼に、果たして尋問なんてできるのか、やはり不安です。
そして義経は相変わらず、自分の立場が全然わかっていないようです。
「京を離れる時に法皇さまに官位をお返しする。」と言っていたのに、宗盛親子を護送するために京を発つ時に、官位を返した様子もなかったですよね。
また頼朝からは「勝手に任官した者は墨俣川を超えてはならぬ。」と言われていたのに、「あの書状には私の名前はなかったから関係ない。」と考えているあたり、かなり脳天気です。と言うか、義経には「私は鎌倉殿の弟だ。他の御家人とは違う。」「自分は特別だ。」という、思い上がった気持ちがあったように感じられてならないのです。
そして腰越にて、時政から「九郎殿は腰越で待たれよ。鎌倉に入ることはならぬ。」と言われた時、「宗盛親子を護送してきたのに鎌倉に入れぬとは、法皇さまをないがしろにする行為である!」と騒ぎ立てる弁慶をはじめとする義経の郎党達…。「こんな所で法皇さまの名前を出すことは、義経は法皇さまの家来であると公言していると一緒なのに…。この郎党達、まるで物事がわかってない!」と思いました。忠義心は強いかもしれないけれど、こんな風に物事がわかっていない郎党にしか恵まれなかったことが、義経にとって大きな不幸だった……と、強く思わずにはいられません。勿論このドラマにはかなりのフィクションがあちらこちらに散りばめられているので、このドラマを観ただけで義経主従のことを判断することは出来ないと思っています。それはわかっているのですが、どうしても怒りやあきらめ感が湧き起こってしまうのですよね。
さて、最初の方で書いた重衡登場の話をさせていただきますね。
とにかく、「重衡はかっこいい!」の一言に尽きます。自ら南都に赴き、死に臨もうとするいさぎよさ、裏切り者の頼盛に対しても、捕虜になってしまった宗盛にも心づかいを忘れないところを観ていてほれぼれしました。
しかし、最初にも書いたように、頼盛や宗盛との対面は完全にドラマのフィクションなのです。では、そのあたりをお話しさせていただきますね。
話は前後しますが、まず宗盛との対面の話から書かせていただきます。
「南都の僧に引き渡されるために奈良に向かう重衡は、鎌倉に向かう義経一行と道中で出会い、宗盛と涙の再会をした……」ということに、ドラマではなっていました。「平家が滅んだのはわしのせいだ。」と言う宗盛を重衡が慰めていましたよね。
しかし、私はこの場面を観てかなり不自然に感じました。囚人同士がこのように会話などできるわけがないということもそうですが、「鎌倉に護送された宗盛が再び京に向けて出発した日と、重衡が南都に向かうために鎌倉を発った日は同日だったのではないだろうか?」と思ったからです。色々調べてみたところ、やっぱり同日のようでした(六月九日)。つまり、重衡が南都に送られたのはこの時期よりもう少し後のことになります。
そして重衡と頼盛の対面ですが、こちらもドラマの話自体はかなり感動的でした。「わしは平家を裏切った。すまぬ、すまぬ。」と言っておきながら、暗に南都行きを重衡にすすめているという、何を考えているかよくわからない頼盛に対して、「私は南都へ行きましょう。」ときっぱり言う重衡。人間の大きさが違うなと感じました。
重衡にとっては南都へ行くということは死を意味します。彼の心中を思うと私も切なさでいっぱいになりました。
しかし……、元暦二年五月のこの時期、頼盛が東国にいるということは絶対にあり得ないのです。
ではここで、頼盛の生涯を簡単に紹介しますね。
平 頼盛(1132?~1186年)
父・平忠盛 母・藤原宗子(池禅尼)、 つまり、清盛の異母弟です。
久安二年(1146)に皇后宮権少進に任じられ、以後右兵衛佐・大皇太后宮亮・大宰大弐、数カ国の受領などを歴任し、仁安元年(1166)に従三位に叙されました。
最終的には正二位権大納言に昇進しています。
頼盛は忠盛の正妻の子でしたのでかなり優遇されていたと思われます。そのためか、早くから清盛と一線を画すような所もありました。
また、彼の妻が平家と対立する八条院璋子内親王の女房であったところから、八条院の許にも出入りしていました。後白河法皇の側近のような立場であったことも考えられます。
というのも、治承のクーデター(治承三年十一月)の時、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉すると同時に、法皇側近の公卿や殿上人の官位を剥奪したり解官したりしていますが、その中に頼盛も入っていたからなのです。頼盛はその時権中納言兼右衛門督でしたが、そのうちの右衛門督を解官されました。つまり頼盛は、この時点では完全に法皇側近の公卿として行動していたということになります。
寿永二年七月、平家一門は都落ちをして西国に向かうこととなるのですが、頼盛は途中まで一門と一緒に行動するように見せかけておいて、そのまま都に引き返してしまいました。そしてその年の十月、頼朝を頼って鎌倉に下向しました。
頼朝にとって頼盛の母池禅尼は命の恩人でした。平治の乱のあと平家方に捕らえられた頼朝の命乞いをしたのが池禅尼だったからです。そのことが、頼盛を平家一門から孤立させる原因にもなったのですが……。頼朝にとっては命の恩人の子息ですから、鎌倉に下向した頼盛は、客人として大切に遇されていたと考えられます。
翌元暦元年四月、頼朝から没官領(もっかんりょう)を返還され、六月に帰洛しています。元暦二年五月二十九日、病のため東大寺にて出家、翌文治二年六月二日に薨じました。
頼盛は平家滅亡後、次第に気鬱の病のようになっていったと言われています。彼が出家した原因は、一門を裏切ったことへの自責の念だったのでしょうね。きっと…
そのようなわけで、ドラマで描かれていた元暦二年五月初め当時の頼盛は、次第に気鬱の病が重くなり、出家を考えていた時期だったのです。何よりも頼盛はその前年六月には帰洛しているのですから、そもそも鎌倉や伊豆にいるわけがありません。
でも、安徳天皇と守貞親王のすり替えといった歴史の大捏造を観たあとでは、このような時間の矛盾が何か可愛く思えてしまいます。
さて、義経が腰越状をしたためるのはどうやら次回のようですね。腰越状の宛名は大江広元(その頃は中原家の養子だったので正確には中原広元と名乗っていたのですが…)なのですけれど、そのあたりを正確に描いてくれるかがとても心配です。
そしてもっと心配なのが重衡処刑の場面です。予告の画面には、感情むき出しの輔子が映っていましたが…。何かとんでもないことになりそうな予感がします。
とにかく次回もしっかり観ようと思っています。
今回は久しぶりに重衡が出てきました。重衡ファンの私にとってはとても嬉しかったです。
でも今回のように、彼が伊豆で頼盛と会っていたり、道中で宗盛と偶然会うということは、絶対にあり得ないことなのですよね。このことに関してはのちに述べることとして、まず感想を書きますね。
景時が頼朝宛に送った書状の内容を詳しく知っているおとくばあさん。
「あなたはいったい何者なの?」と言いたくなってしまいます。おとくばあさんは京都ばかりか、鎌倉にも情報網を持っているのでしょうか?それとも神通力でもあるのでしょうか?
景時の書状の内容を義経に知らせに来たおとくばあさんは、それだけ義経のことを心配していたのでしょうけれど、このような絶対にあり得ないエピソードを入れられるとかえってしらけてしまいそうです。
義経に絶縁宣言をする景季くん。
景季の存在意義とはいったい何だったのか考えてしまいます。宇治川の先陣争いや重衡生け捕りといった見せ場をカットされ、ひたすら義経に心酔しきっていたのに、今回は「鎌倉からおふれが出ているから」と、義経に絶縁宣言ですか?!…。と言うことは、今度は敵方として義経を尋問するために、上洛してくるのかもしれませんね。
でも、あれほど義経に心酔しきっていた彼に、果たして尋問なんてできるのか、やはり不安です。
そして義経は相変わらず、自分の立場が全然わかっていないようです。
「京を離れる時に法皇さまに官位をお返しする。」と言っていたのに、宗盛親子を護送するために京を発つ時に、官位を返した様子もなかったですよね。
また頼朝からは「勝手に任官した者は墨俣川を超えてはならぬ。」と言われていたのに、「あの書状には私の名前はなかったから関係ない。」と考えているあたり、かなり脳天気です。と言うか、義経には「私は鎌倉殿の弟だ。他の御家人とは違う。」「自分は特別だ。」という、思い上がった気持ちがあったように感じられてならないのです。
そして腰越にて、時政から「九郎殿は腰越で待たれよ。鎌倉に入ることはならぬ。」と言われた時、「宗盛親子を護送してきたのに鎌倉に入れぬとは、法皇さまをないがしろにする行為である!」と騒ぎ立てる弁慶をはじめとする義経の郎党達…。「こんな所で法皇さまの名前を出すことは、義経は法皇さまの家来であると公言していると一緒なのに…。この郎党達、まるで物事がわかってない!」と思いました。忠義心は強いかもしれないけれど、こんな風に物事がわかっていない郎党にしか恵まれなかったことが、義経にとって大きな不幸だった……と、強く思わずにはいられません。勿論このドラマにはかなりのフィクションがあちらこちらに散りばめられているので、このドラマを観ただけで義経主従のことを判断することは出来ないと思っています。それはわかっているのですが、どうしても怒りやあきらめ感が湧き起こってしまうのですよね。
さて、最初の方で書いた重衡登場の話をさせていただきますね。
とにかく、「重衡はかっこいい!」の一言に尽きます。自ら南都に赴き、死に臨もうとするいさぎよさ、裏切り者の頼盛に対しても、捕虜になってしまった宗盛にも心づかいを忘れないところを観ていてほれぼれしました。
しかし、最初にも書いたように、頼盛や宗盛との対面は完全にドラマのフィクションなのです。では、そのあたりをお話しさせていただきますね。
話は前後しますが、まず宗盛との対面の話から書かせていただきます。
「南都の僧に引き渡されるために奈良に向かう重衡は、鎌倉に向かう義経一行と道中で出会い、宗盛と涙の再会をした……」ということに、ドラマではなっていました。「平家が滅んだのはわしのせいだ。」と言う宗盛を重衡が慰めていましたよね。
しかし、私はこの場面を観てかなり不自然に感じました。囚人同士がこのように会話などできるわけがないということもそうですが、「鎌倉に護送された宗盛が再び京に向けて出発した日と、重衡が南都に向かうために鎌倉を発った日は同日だったのではないだろうか?」と思ったからです。色々調べてみたところ、やっぱり同日のようでした(六月九日)。つまり、重衡が南都に送られたのはこの時期よりもう少し後のことになります。
そして重衡と頼盛の対面ですが、こちらもドラマの話自体はかなり感動的でした。「わしは平家を裏切った。すまぬ、すまぬ。」と言っておきながら、暗に南都行きを重衡にすすめているという、何を考えているかよくわからない頼盛に対して、「私は南都へ行きましょう。」ときっぱり言う重衡。人間の大きさが違うなと感じました。
重衡にとっては南都へ行くということは死を意味します。彼の心中を思うと私も切なさでいっぱいになりました。
しかし……、元暦二年五月のこの時期、頼盛が東国にいるということは絶対にあり得ないのです。
ではここで、頼盛の生涯を簡単に紹介しますね。
平 頼盛(1132?~1186年)
父・平忠盛 母・藤原宗子(池禅尼)、 つまり、清盛の異母弟です。
久安二年(1146)に皇后宮権少進に任じられ、以後右兵衛佐・大皇太后宮亮・大宰大弐、数カ国の受領などを歴任し、仁安元年(1166)に従三位に叙されました。
最終的には正二位権大納言に昇進しています。
頼盛は忠盛の正妻の子でしたのでかなり優遇されていたと思われます。そのためか、早くから清盛と一線を画すような所もありました。
また、彼の妻が平家と対立する八条院璋子内親王の女房であったところから、八条院の許にも出入りしていました。後白河法皇の側近のような立場であったことも考えられます。
というのも、治承のクーデター(治承三年十一月)の時、清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉すると同時に、法皇側近の公卿や殿上人の官位を剥奪したり解官したりしていますが、その中に頼盛も入っていたからなのです。頼盛はその時権中納言兼右衛門督でしたが、そのうちの右衛門督を解官されました。つまり頼盛は、この時点では完全に法皇側近の公卿として行動していたということになります。
寿永二年七月、平家一門は都落ちをして西国に向かうこととなるのですが、頼盛は途中まで一門と一緒に行動するように見せかけておいて、そのまま都に引き返してしまいました。そしてその年の十月、頼朝を頼って鎌倉に下向しました。
頼朝にとって頼盛の母池禅尼は命の恩人でした。平治の乱のあと平家方に捕らえられた頼朝の命乞いをしたのが池禅尼だったからです。そのことが、頼盛を平家一門から孤立させる原因にもなったのですが……。頼朝にとっては命の恩人の子息ですから、鎌倉に下向した頼盛は、客人として大切に遇されていたと考えられます。
翌元暦元年四月、頼朝から没官領(もっかんりょう)を返還され、六月に帰洛しています。元暦二年五月二十九日、病のため東大寺にて出家、翌文治二年六月二日に薨じました。
頼盛は平家滅亡後、次第に気鬱の病のようになっていったと言われています。彼が出家した原因は、一門を裏切ったことへの自責の念だったのでしょうね。きっと…
そのようなわけで、ドラマで描かれていた元暦二年五月初め当時の頼盛は、次第に気鬱の病が重くなり、出家を考えていた時期だったのです。何よりも頼盛はその前年六月には帰洛しているのですから、そもそも鎌倉や伊豆にいるわけがありません。
でも、安徳天皇と守貞親王のすり替えといった歴史の大捏造を観たあとでは、このような時間の矛盾が何か可愛く思えてしまいます。
さて、義経が腰越状をしたためるのはどうやら次回のようですね。腰越状の宛名は大江広元(その頃は中原家の養子だったので正確には中原広元と名乗っていたのですが…)なのですけれど、そのあたりを正確に描いてくれるかがとても心配です。
そしてもっと心配なのが重衡処刑の場面です。予告の画面には、感情むき出しの輔子が映っていましたが…。何かとんでもないことになりそうな予感がします。
とにかく次回もしっかり観ようと思っています。