平安夢柔話

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待賢門院璋子 保元の乱前夜

2010-09-29 12:42:08 | 図書室3
 今回は、最近読み終わった平安末期を扱った歴史小説を紹介します。

☆待賢門院璋子 保元の乱前夜
 著者=安永明子 発行=日本図書刊行会 価格=1575円

内容(「BOOK」データベースより)
雅な宮廷生活の蔭の歴史の真実とは…。血脈の相剋、女人たちの闘い、皇位をめぐる権謀術数…。待賢門院璋子の生涯をとおし、戦乱へと流されてゆく時代を描く。


 タイトル通り、鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母、待賢門院璋子の生涯を中心に、院政期という激動の時代を描いた歴史小説です。

 読み始めて間もなく、藤原忠実と、その妻の源師子が出てきたのでわくわくしました。忠実さんや師子さんが出てきて、しかもせりふまである歴史小説なんて初めてです。(^^)
 それで、2人の間の娘、泰子を白河上皇の許に入内させる話が持ち上がるのですが、まず師子さんが反対する場面が出てきたとき、「そうだよね、当たり前だよね」と思いました。すると次のページで、師子は元々白河上皇の寵愛を受けていたが、忠実が美しい師子を見そめて、上皇から譲り受けた事情が説明されていて、「そうそう、そうなんだよね」とうなずきながら読みました。親子二代で白河上皇の寵愛を受けるなんて、師子さんは絶対に許せなかったはずですものね。

 こんな風に、小説なので、登場人物の会話の部分が多く、心の動きや行動がすーっと頭に入ってきて、わかりやすく感じました。
 白河上皇を時には親のように、時には恋人のように頼りにする璋子や、2人の関係に気づいていながら、璋子の美しさや可憐さに心引かれていく鳥羽天皇の微妙な心情もしっかり描かれていました。璋子は少しわがままですが、物怖じしない、自分の気持ちに素直で正直な女性に描かれていて、「璋子って本当にこんな性格の女性だったのでは」と思ったりもしました。

 しかし、物語は次第に不吉な蔭を帯びていきます。

 璋子にとっての不幸は、頼りにしていた白河上皇が崩御したことでした。それに続くわが子の死、鳥羽上皇に泰子が入内、璋子の立場は微妙なものとなります。
 更に追い打ちをかけるように、藤原得子が鳥羽上皇の寵愛を独占するようになり、次第に発言力を増していきます。得子は藤原忠通と結び、璋子に呪詛の罪を着せ、側近を流罪にしてしまいます。そのことが、崇徳天皇の力を弱める一因にもなります。
 そんなこともあり、璋子は法金剛院にこもることが多くなり、坂を転げ落ちるように、朝廷内での力を失っていきます。
 そうです、この小説の中での得子のキャラクターはかなり強烈です。璋子は得子の勢力に押されるような形で出家、やがて世を去ります。

 小説なので作者の誇張もあるかもしれませんが、私は、璋子の後半生がこれほど悲惨で寂しいものであったことを初めて知りました。彼女は、激動のこの時代を生き抜くにはあまりにも正直で、世間知らずだったかもしれません。白河上皇に守られ、栄華の極みを尽くした前半生とは天と地との差です。
 読みながら私はふと、フランス革命で断頭台に消えたマリー・アントアネットを思い出しました。もちろん、宮廷から孤立し、最後には出家した璋子と、死刑になってしまったマリー・アントアネットでは次元が違うかもしれませんが、心情は似たようなものだったかもしれません。

 この小説は、璋子が亡くなったあとも話が続き、鳥羽上皇の崩御、つまり保元の乱の直前で終わります。ラストの、鳥羽上皇の夢の中で交わされる、璋子との会話が印象的でした。
 ネタばれになってしまうのですが2人の会話がどのようなものだったかを紹介しますと、保元の乱は、鳥羽上皇の得子への偏愛が原因で起こったと璋子が言ったのに対し、鳥羽上皇は、そなたにも原因がある、それに、白河上皇の璋子への盲目的な愛が原因だったのではと返答します。2人の立場の違いがこの会話から感じられて、何か切なかったです。もちろん、鳥羽上皇が得子を寵愛するあまり、得子が生んだ近衛天皇を位につけて、その結果、崇徳を無視するような形を作ってしまったことも原因ですが、やはり元をただせば白河上皇が原因なのでは…。白河上皇はやっぱり罪な御方…、というのが、読後の第一の感想でした。
 つまり、白河上皇にしてみれば、璋子への愛情から鳥羽天皇に入内させ、后の位を与えてあげたのかもしれませんが、そのあとも璋子と関係を持って崇徳天皇をもうけ(この小説では、崇徳の父は白河ということになっていましたので)、皇室内での対立の原因を作ってしまったのだと思いました。崇徳の父が白河だったか、鳥羽だったかは私には判断できませんが、白河上皇は璋子を入内させたあとも、彼女を寵愛していた形跡がありますから…。

 それからもう一つ…、この小説でも触れられていますが、実は白河上皇は最初、璋子を藤原忠通に嫁がせようとしたのです。
 しかし、忠通の父、忠実に断られます。忠実は、白河上皇を初め、色々な男との関係が噂される璋子を忌み嫌い、この話を断ったのですが…。
 もし、璋子が忠通に嫁いでいれば、あれほど惨めな後半生を送ることもなく、摂関家の妻として、それなりの生涯を全うしていたかもしれません。もちろん、忠通・頼長兄弟の対立はあったでしょうけれど、崇徳は産まれていないので、少なくても皇室内での対立はなかったはずです。
 そうなると、保元の乱のような大乱も起こらなかったかも…。となると、保元の乱へと続く歴史の流れの一つを作ったのは、璋子と忠通との結婚を阻止した忠実ということにもなります。そうでした、忠通と頼長の対立の原因を作ったのも忠実でしたね。忠実さん、責任重大ですね。

 そして、歴史の流れは皇室内での対立を生み、同時に摂関家内の対立を生み、保元の乱へと突き進んでいきました。保元の乱は起こるべくして起こったと言えそうです。そんな歴史の動乱の中で波瀾の生涯を送った璋子、何か運命に押し流されてしまったような印象を受け、小説の読後はしんみりした気持ちになってしまいました。

 同時に、璋子に強く興味を引かれました。角田文衞先生に、「待賢門院璋子の生涯」という著書がありますが、そちらもぜひ読んでみたいと思いました。璋子が後半生を過ごした法金剛院にも、いつかぜひ訪れてみたいです。

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あれから半年

2010-09-18 18:23:23 | えりかの平安な日々 10~18
 我が家の愛猫、エリカが天国に旅立って、今日でちょうど半年になりました。

 そこで今日は、久しぶりにお墓参りに行ってきました。夏の間、暑かったこと、だんなさんが忙しかったことなどで、2ヶ月ほど行っていなかったのですが、家で時々お線香をあげたり、お水やキャットフードをお供えしていたので、エリカちゃん、許してね。

 というわけで、今日もエリカの写真とお札をお供えしてあるスペースを掃除し、写真立てもきれいにして、供養塔にお線香をあげてきました。あちらに行ってもう半年になるので、エリカちゃん、お友達もたくさん出来ているかもと、だんなさんと話していました。

 エリカとお別れして半年になるのに、エリカのかわいらしい姿や、しぐさは、今でもはっきりと思い出すことができます。もちろん、とても寂しくなることもあります。そんな私の心を慰め、一歩踏み出せそうな気持ちにさせられるような歌と最近、再会しました。

 ちょうど1年くらい前、ネットサーフィンをしていたら、今井優子さんの「ボクが傍にいるから・・」という歌を見つけました。今井優子さんの歌は好きで、アルバムCDも持っているのですが、この歌は知らなかったので、早速聞いてみました。

 この歌は、天国に行ってしまった猫ちゃんが、飼い主への思いを綴った歌で、聞いていて涙があふれそうになりました。そして、「エリカもいずれ、こうなってしまうのかもしれない、それまで、精一杯、愛情を注いでかわいがってあげなくては」と思いました。しかし、それから半年後、エリカは天国に行ってしまったわけですが…。

 そして1ヶ月くらい前、急にこの歌のことを思い出して検索で探し出し、再び聞いてみました。涙があふれて止まりませんでした。
 でも、何となく心がほっとしたのです。エリカもきっと、こんな気持ちでいつも私のことを見守ってくれているのかもしれないと思いました。そして、私が寂しいとき、哀しいときにはそっと天国(もしかすると虹の橋かもしれませんね)から降りてきて、傍にいてくれているのかもしれません。だから私も前向きに生きなくては…と、また一歩、踏み出せそうな気がしました。まだまだ寂しいですが、エリカはきっと傍にいるから、私も明るく歩いていきます。

☆今井優子さんの「ボクが傍にいるから・・」は、こちらから聞くことができます。you tubeの動画です。

☆今週の私

 久しぶりにブログを更新したり、友人とカラオケに行ったりと、忙しいけれど楽しい1週間でした。

 そして、昨日は月一度の病院診察の日。血圧の薬が中止になって2ヶ月になりますが、131/76で正常でした。
 でも、体重はしっかり増えていました。それから、時々眠れない日もあるので薬を出してもらいました。来月は血液検査を行うそうです。肘から血液を採ってもらえるよう、少しでもやせなくては。

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第76代 近衛天皇

2010-09-13 16:59:39 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1139~1155
☆在位期間 1141~1155

☆両親

 父・鳥羽天皇 母・藤原得子(美福門院)

☆略歴

 名は躰仁。鳥羽天皇の第九皇子。

 生後三ヶ月で異母兄崇徳天皇の皇太子となり、三歳で即位。崇徳天皇は実は白河上皇の子だという噂があり、鳥羽上皇から「叔父子)と言われてうとまれていたため、寵愛する得子から躰仁が生まれると喜んで、彼を皇太子に立て、天皇に即位させたのでした。
 そのようなわけで近衛天皇は、鳥羽上皇と得子のただ一人の男子でもあったため、父母の愛情を一身に受けて成長したと思われます。そして鳥羽上皇は、近衛天皇の即位に伴い、思うままの院政を執り行うこととなります。

 その頃、摂関家の藤原忠通と頼長兄弟の対立が激化(詳しくは当ブログ内の「藤原多子」の項をご覧下さい)、近衛天皇もその渦の中に巻き込まれていきます。
 近衛天皇が元服すると、頼長は養女の多子を入内させて皇后とし、ついで忠通も養女の呈子を入内させて中宮としました。天皇はそんな二人の対立を、なすすべもなくただ眺めているよりほかありませんでした。元々病弱だった天皇は眼病にかかり、久寿二年(1155)に十七歳の若さで崩御してしまいます。
 その後間もなく、「近衛天皇が崩御したのは、頼長の呪詛のせいだ」という噂が広まります。この噂は忠通が流したと思われますが、鳥羽天皇と得子はこの噂を信じ、頼長を深く恨むようになります。これが保元の乱の一因となったのでした。自分が崩御したことがきっかけで、保元の乱のような大乱が起こるなど、近衛天皇は想像もしていなかったと思います。

 このように周辺人物によって翻弄されてしまったような近衛天皇の人生ですが、彼は容姿端麗で頭も良く儀礼を学び、和歌にも優れ、多くの勅撰集に作が見えるそうです。もっと長生きしていたら、色々と業績を残した優れた天皇になれたかもしれませんね。


☆父方の親族

祖父・堀河天皇 祖母・藤原苡子(藤原実季女)

主なおじ
 寛暁 最雲法親王

主なおば
 宗子内親王(賀茂斎王 「宗」は実際はりっしんべんに宗という字) 喜子内親王(伊勢斎王) 


☆母方の親族

 祖父・藤原長実 祖母・源方子(源俊房女)

主なおじ
 藤原顕経 藤原顕盛 藤原長輔
その他、こんな方も!
 曾祖父・藤原顕季(白河院近臣)
 母の叔父・藤原家保
母の叔父・藤原顕輔(百人一首の歌人)
 母のいとこ・藤原家成(家保の子、鳥羽院近臣 盛親の父)
 母のいとこ・藤原清輔(顕輔の子 百人一首の歌人)

 藤原得子は藤原魚名の子孫、末茂流の女性です。魚名の子孫たちについては、当ブログ内の藤原魚名とその子孫たちもご覧下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *顕仁親王(崇徳天皇) *雅仁親王(後白河天皇) *通仁親王 *君仁親王 *本仁親王(覚性法親王)

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○子内親王(八条院) ○(女朱)子内親王(高松院) ○叡子内親王 *統子内親王(上西門院) *禧子内親王 *妍子内親王(伊勢斎王) *頌子内親王(賀茂斎王)

主なおいとめい

 重仁親王(父は崇徳天皇)
 守仁親王(二条天皇) 憲仁親王(高倉天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王 観子内親王(宣陽門院) 以上 父は後白河天皇
 海恵(母は(女朱)子内親王)

☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原多子(藤原公能女・藤原頼長養女)

 藤原呈子(藤原伊通女・藤原忠通養女)


☆末裔たち

 近衛天皇は皇子や皇女を残さずに崩御しました。そのあとは、異母兄の雅仁親王が即位(後白河天皇)、その後はその皇子である二条天皇、更にはその皇子の六条天皇、、そして、後白河の皇子の高倉天皇へと、後白河の子孫たちが皇統を継いでいきます。

 そのようなわけで、近衛天皇には末裔たちはいませんが、何も書かないのは寂しいので、彼の后たちについて、書きたいと思います。
 多子についてはこちらにまとめてありますので、ここではもう一人の后、呈子について、「平安時代史事典」の記述をもとにまとめてみます。

☆藤原呈子(1131~1176)

 父は藤原伊通(太政大臣)。母は藤原顕隆女の立子。

 久安四年(1148) 美福門院の養女となる。
 久安六年(1150) 摂政藤原忠通の養女となり、二月従三位に叙される。四月に近衛天皇の後宮に入内、六月に立后して中宮となる。忠通、頼長兄弟の対立の渦中に身を置くことになったわけですが、美福門院のうしろだてもあり、立場は安定していたと言われています。

 久寿二年(1155) 七月、近衛天皇の崩御にあい翌八月落飾、法名を清浄観と称する。
 保元元年(1156) 十月、皇后となる。
 保元三年(1158) 二月、皇太后となる。
 仁安三年(1168) 院号宣下を受け九条院と号す。藤原兼実は、「皇太后宮が院号宣下を受けるとは未曾有のことだ」と批判しています。
 安元二年(1176) 九月十九日、病により四十六歳で崩じた。

 院号宣下を受け、恵まれた晩年だったと思われますが、若くして近衛天皇と死に別れ、様々な政争を目にした彼女の心中はどうだったのでしょうか。多子同様、時代の波に翻弄された人生とも言えそうです。

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色々と近況

2010-09-12 10:47:38 | えりかの平安な日々 10~18
 先週の台風が去ったあと、急に涼しくなり、やっと体も楽になってきて、文章を書いてみたいという気になり、↓でも書きますが、記事の下書きを1本、完成させることが出来ました。今日は久しぶりの更新記事、しかも日記なので、近況を色々と綴ってみたいと思います。

☆更新予定

 「系譜から見た平安時代の天皇」の新しい記事、「近衛天皇」の下書きが昨日の午後、完成しました。今、見直しと手直しを行っていますが、こちらも半分くらい終了したので、明日か明後日にはお披露目できると思います。

 ところで、近衛天皇の母方の親族を書いていて気がついたこと。

 近衛天皇の母、美福門院の兄弟って、有名な方がいないのですね。それよりも、母の祖父とか、母の叔父とか、母のいとこに面白い人がたくさんいることに気がつきました。そこで、母方の親族の中に、「その他、こんな方も!」という項目をもうけて、それらの人物の名前を記してみました。

☆読書

 読書日記に書いても良かったのですがこちらに…。

 実はこのところ、平安ものから少し離れていました。
 どんな本を読んでいたかというと、人類の進化とか、母から子にしか伝わらないミトコンドリアDNAについてとか、アフリカで生まれた人類がどのようにして日本にたどり着いたかということとかについて書かれた本を読んでいました。自分のルーツって、すごく気になりますよね。そのようなわけでこのような本にはまっていました。色々と面白い情報も得たので、機会がありましたら「徒然なるままに」の方に書いてみたいです。

 そんなわけで、1週間くらい前になってようやく、平安時代に戻ってきました。
 そして、2、3ヶ月くらい前に発行された倉本一宏先生の「三条天皇(ミネルヴァ日本評伝選)」を昨日の夜に読了しました。三条天皇の皇位に対する執着はすさまじいと、改めて思いました。登場人物も個性的で面白かったです。通雅、当子内親王、敦明親王など、人物伝に書けそうだと思った方もちらほら…。
 特に、東宮を辞退してしまった敦明親王の心の内に迫ってみたいと思いました。敦明親王については、繁田信一先生の「殴り合う貴族たち」でも触れられていましたし、永井路子さんにも「噂の皇子」という短編小説があるので、そちらも読み返してみたくなりました。

☆今年の夏

 暑かったですよね…。

 実は、日記に書き損ねていたのですが、6月の病院診察の時、血圧が安定しているということで、3年近く飲んできた血圧を下げる薬が中止になりました。
 薬が減るのは嬉しかったのですが、やはりちょっと不安でした。それでも血圧が上がってしまうことはなくて、7月の診察でも138/78だったので、もう1ヶ月、薬なしで様子を見ることになりました。血液検査の結果もわりと良かったので、体調はいいはずなのに、このひどい暑さのためか、すっかりまいってしまったのです。

 まず、昼間が暑くて、何も手につきません。私たちの部屋は2階建ての建物の2階にあり、南と西と北に窓があるため、特に午後3時から5時半頃まで、ものすごい暑さになり、エアコンをしていても全然涼しくありません。なので、夕方、外出から帰ってくると、暑さのため、ぐったりしてしまうのです。

 そんなわけで、昼間は頭が働かない→ついついうとうとと寝てしまう→夜になるとようやく涼しくなって頭が冴えてくる→夜眠れない→昼間眠くなる→暑いのでうとうとする…の繰り返しで、昼と夜が逆になってしまった日もありました。3年前、体調を崩した原因の一つが、昼と夜が逆になってしまったからだったので、これではいけないと思っても、この暑さのため、どうしようもなかったのですよね…。

 なので先日、台風が去ったあと外を歩いていたら天然クーラーの中にいるような気がして、「涼しいってこんなに体が楽なんだ~」とありがたく、嬉しくなりました。
 ここ数日は昼間でも頭が働きますし、文章もすらすらと書けるようになってきました。これからも色々と書きたいことはあるので、ゆっくりとこのブログを続けていこうと思います。頻繁な更新は出来ませんが、今回のように4週間近くもお休みすることは、よほどのことがない限りないと思います。よろしくお願いします。

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