大河ドラマ「義経」第48回の感想です。
エンディングの義経紀行で、私が前回紹介した珠洲神社の伝説について取り上げられていたのでびっくりするやら嬉しいやら…。でも、その解説の中にはつっこみ所もありました。それについては後半に述べることにして、まず感想を書かせて頂きますね。
さまざまな苦難を乗り越え、ようやく平泉に到着した義経一行を秀衡が暖かく迎えていましたね。「九郎殿のすべてを受け入れる。」なんて、このご時世、普通だったらこんな事を言ってくれる人なんて、まずいませんよね。それだけ秀衡は器が大きいということなのでしょうね。
でも、「争いもなく、家族が仲良く暮らせる理想の国を造りたい。」という今の時代でも夢のような、本当に「非現実的ではないの?」と聞きたいようなことを言う義経に対して、「そなたは成長した。」と感心する秀衡の気持ちがよくわかりませんでした。このドラマの中で義経は昔からこのようなことを言っていた様な気がしますが?
世の中が古代から中世へと音を立てて移り変わっている激動の時代をしっかり見ているはずの秀衡が、「そんなバカな!」と思われる義経のこの考えを、受け入れる。う~ん?…ちょっと理解に苦しむところです。
それはともかくとして、今回、秀衡と泰衡の度量の違いの対比がなかなか面白かったです。
『鎌倉に貢ぎ物を差し出せ。』という頼朝の命令に対して、「それでは鎌倉の言う通り、貢ぎ物を差し出して相手をいい気持ちにさせればいい。」と、悠々とした風情で構えている秀衡はさすが人物が大きいです。歴史に「もし」は禁物ですが、彼があと1年でも良いから長く生きていたら、義経の運命はだいぶ違ったものになったかもしれません。
それに対して、頼りになる父親が亡くなり、平泉の新しい主になった泰衡、「わしはどうすれば良いのじゃ。」とは…。そう嘆きたいほど苦しい状況はわかりますが……、何か頼りなくてため息が出てしまいます。そのうえ、頼朝には泰衡の度量をすっかり見抜かれてしまったようですし…。
泰衡はかつて、義経に命を助けられたことがあります。(第11回)そんな泰衡がどうして義経を裏切ることになるのか?、次回の最終回ではしっかりそこの?の理由を~説明して欲しいです。間違っても回想シーンをたくさん入れるといった手抜き(ごまかし)はして欲しくないです。
ところで、ドラマを観ていると泰衡、国衡、忠衡の3人は仲が良いように見えますが、実際の彼らは大変仲が悪かったようなのですよね。
泰衡は秀衡の正室藤原基成女の所生ですが、国衡は身分の低い側室の産んだ子供でした。しかも、国衡の方が年上であったと言われています。
その結果2人には、「長幼の順か正妻腹を重視するか」ということで家督相続争いがあったと思われます。奥州藤原氏の場合は正妻腹が重視されて泰衡が跡を継ぐことになったのですが(それに泰衡には外祖父基成がついていますし…)、年長の国衡は少なからず泰衡が当主になることに不満を持っていたのではないでしょうか。
そこに割り込んできたのが義経の存在です。元々泰衡は、義経を平泉に入れることに反対だったようです。当然、義経と泰衡の二人の関係はあまりうまくいっていなかったと考えられます。
しかし、泰衡の同母弟の忠衡は親義経派でした。
そして、ドラマでは国衡、泰衡、忠衡の3人しか登場していませんが、秀衡には他に少なくても3人の息子がいたようです。これらの息子達が、親義経と反義経、あるいは親泰衡と反泰衡に別れて複雑に争っていたのではないかと想われます。
それでも秀衡が生きていた頃は兄弟争いが表面化することはあまりなかったようですが、彼の死後はもうどうしようもない状態に陥っていたと思われます。
ドラマでも、こうした兄弟争いをもっとしっかり描いて欲しかったと思います。
なぜならば、このことが義経自刃の要因になっていると私には思えるからです。
さて、初めの方で少し触れた、エンディングの「義経紀行」ですが、珠洲神社を取り上げてもらえたことは個人的には嬉しかったです。義経は笛の他に刀も奉納していたなんて興味深かったですもの。
ところが、解説を聞いていて一箇所とても疑問に思えるところがありました。『義経の妻は一説によると平時忠の娘』というところです。
「一説によると」ではなく、私の知っている説に因ると、実際に時忠女は義経の妻だったのですが…。
ただ、時忠が能登国に配流され、義経も都を去ったあとの彼女の消息については、こちらも全く不明なようです。
平泉で義経と最期を共にしたのが時忠女であったという説もあるようですが……。もしそうだとすると、今回のエンディングで紹介されていたように、「時忠女は義経一行と一緒に平泉に向かう途中、義経の計らいによって晴れて父と対面した……」ということも充分考えられそうですね。
しかし「吾妻鏡」の記述などから、最後まで義経と行動を共にしていたのは河越重頼女でほぼ間違いなさそうです。時忠女はおそらく、義経が都を離れる際に実家に戻されたのではないかと思います。
ところで、「義兄記」その他色々な伝説によると、義経と関わった女性は十人くらいいると言われています。「義経って、かなり女好きだったのでは……」という気がします。
しかも義経には、平家を滅ぼした文治元年当時、すでに結婚適齢期を迎えた娘がいたようなのです。その娘は、源頼政の孫に当たる源有綱の妻となっていたようです。「吾妻鏡」の文治元年五月十九日條に、「有綱は義経の婿」といった記述があるそうです。
当時は10歳くらいになると結婚適齢期になります。そこで彼女が当時10歳くらいだとすると、義経は一回目の平泉滞在中に、すでに父親になっていたということになります。
現在京都女子大学教授の野口実先生の著書、「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」によると、この義経の最初の妻は、佐藤継信・忠信の縁者ではないかと推論されています。
ついでに義経の婿と言われる源有綱についても少し調べてみました。
祖父頼政が平家に反旗をひるがえして敗れたとき、有綱は伊豆国にいたため難を逃れました。
有綱はやがて頼朝の配下に入り、寿永元年(1182)に頼朝の命令によって土佐国に出陣しています。頼朝の同母弟源希義を討った平家方勢力を討伐するためでした。
土佐国において首尾良く平家方を討った有綱は、これと前後して義経の与力に加えられました。その後は義経の忠実な武将として行動していたようです。義経と頼朝が不和になったときも、迷わず義経方に身を投じました。
文治元年十一月、義経の西国下向に同行、船が難破し義経が吉野に逃れたときも、彼は義経の身辺にあったようです。
しかし、どのような経緯かははっきりしませんが、有綱はその後義経と別れ、伊賀国名張に単独で潜伏していたようです。文治二年、義経の残党を探索していた鎌倉方の配下に見つけだされ、合戦の末に討ち死にしています。なお、終焉の土地は下野国とも言われていますが、はっきりしたことはわからないとのことです。
ただ、「有綱が義経の婿」という説には年齢的なことを考えると異論もあるようです。はっきりした史料がないため、当時義経に結婚適齢期の娘がいたかどうかは判断しかねるのかもしれません。
それか、有綱と義経女は婚約していただけで、生活を共にしてはいなかったのかもしれませんね。
でももし、「吾妻鏡」に書かれていた「有綱は義経の婿」が真実だとしたら……、
父親は謀反人として指名手配中、夫も鎌倉方と合戦の末戦死…。残された有綱室となっていた義経の娘は世間から隠れて生きるしか道がなかったと考えられます。彼女は一体どのような思いで、どのような後半生を送ったのでしょうか。
しかし、彼女についての史料は全くないので、想像するしかありません。
そして義経の娘と同じく、父や夫を合戦で失い、運命を変えられてしまった女達がこの時代には数え切れないほどいたはずです。先に書いた義経の最初の妻や平時忠の娘もその一人と言えますよね。史料も何も残されていないそんな女達のことに想いをはせるとき、私はとても切ない気持ちになります。歴史の影にはこうした名もない女性が数多くいたことも、忘れてはならないと想います。
さて、次回はいよいよ最終回ですね。
義経の最期がどのように描かれるか、期待半分、心配半分で見守りたいと思っていま す。旦那さんは、『年齢からしてそんなことはまずあり得ないのだが、願望として(ドラマの中で勝手な歴史歪曲をしてきたのだから)……』としながら、『義経は生き延びて大陸に渡り、蒼きオオカミとなった…。なんてならないかな』と、テレながらこんなことを言っています。
それにしても、色々つっこみを入れつつ観てきたこのドラマがいよいよ終わるとなると、ちょっと寂しいですね…。
エンディングの義経紀行で、私が前回紹介した珠洲神社の伝説について取り上げられていたのでびっくりするやら嬉しいやら…。でも、その解説の中にはつっこみ所もありました。それについては後半に述べることにして、まず感想を書かせて頂きますね。
さまざまな苦難を乗り越え、ようやく平泉に到着した義経一行を秀衡が暖かく迎えていましたね。「九郎殿のすべてを受け入れる。」なんて、このご時世、普通だったらこんな事を言ってくれる人なんて、まずいませんよね。それだけ秀衡は器が大きいということなのでしょうね。
でも、「争いもなく、家族が仲良く暮らせる理想の国を造りたい。」という今の時代でも夢のような、本当に「非現実的ではないの?」と聞きたいようなことを言う義経に対して、「そなたは成長した。」と感心する秀衡の気持ちがよくわかりませんでした。このドラマの中で義経は昔からこのようなことを言っていた様な気がしますが?
世の中が古代から中世へと音を立てて移り変わっている激動の時代をしっかり見ているはずの秀衡が、「そんなバカな!」と思われる義経のこの考えを、受け入れる。う~ん?…ちょっと理解に苦しむところです。
それはともかくとして、今回、秀衡と泰衡の度量の違いの対比がなかなか面白かったです。
『鎌倉に貢ぎ物を差し出せ。』という頼朝の命令に対して、「それでは鎌倉の言う通り、貢ぎ物を差し出して相手をいい気持ちにさせればいい。」と、悠々とした風情で構えている秀衡はさすが人物が大きいです。歴史に「もし」は禁物ですが、彼があと1年でも良いから長く生きていたら、義経の運命はだいぶ違ったものになったかもしれません。
それに対して、頼りになる父親が亡くなり、平泉の新しい主になった泰衡、「わしはどうすれば良いのじゃ。」とは…。そう嘆きたいほど苦しい状況はわかりますが……、何か頼りなくてため息が出てしまいます。そのうえ、頼朝には泰衡の度量をすっかり見抜かれてしまったようですし…。
泰衡はかつて、義経に命を助けられたことがあります。(第11回)そんな泰衡がどうして義経を裏切ることになるのか?、次回の最終回ではしっかりそこの?の理由を~説明して欲しいです。間違っても回想シーンをたくさん入れるといった手抜き(ごまかし)はして欲しくないです。
ところで、ドラマを観ていると泰衡、国衡、忠衡の3人は仲が良いように見えますが、実際の彼らは大変仲が悪かったようなのですよね。
泰衡は秀衡の正室藤原基成女の所生ですが、国衡は身分の低い側室の産んだ子供でした。しかも、国衡の方が年上であったと言われています。
その結果2人には、「長幼の順か正妻腹を重視するか」ということで家督相続争いがあったと思われます。奥州藤原氏の場合は正妻腹が重視されて泰衡が跡を継ぐことになったのですが(それに泰衡には外祖父基成がついていますし…)、年長の国衡は少なからず泰衡が当主になることに不満を持っていたのではないでしょうか。
そこに割り込んできたのが義経の存在です。元々泰衡は、義経を平泉に入れることに反対だったようです。当然、義経と泰衡の二人の関係はあまりうまくいっていなかったと考えられます。
しかし、泰衡の同母弟の忠衡は親義経派でした。
そして、ドラマでは国衡、泰衡、忠衡の3人しか登場していませんが、秀衡には他に少なくても3人の息子がいたようです。これらの息子達が、親義経と反義経、あるいは親泰衡と反泰衡に別れて複雑に争っていたのではないかと想われます。
それでも秀衡が生きていた頃は兄弟争いが表面化することはあまりなかったようですが、彼の死後はもうどうしようもない状態に陥っていたと思われます。
ドラマでも、こうした兄弟争いをもっとしっかり描いて欲しかったと思います。
なぜならば、このことが義経自刃の要因になっていると私には思えるからです。
さて、初めの方で少し触れた、エンディングの「義経紀行」ですが、珠洲神社を取り上げてもらえたことは個人的には嬉しかったです。義経は笛の他に刀も奉納していたなんて興味深かったですもの。
ところが、解説を聞いていて一箇所とても疑問に思えるところがありました。『義経の妻は一説によると平時忠の娘』というところです。
「一説によると」ではなく、私の知っている説に因ると、実際に時忠女は義経の妻だったのですが…。
ただ、時忠が能登国に配流され、義経も都を去ったあとの彼女の消息については、こちらも全く不明なようです。
平泉で義経と最期を共にしたのが時忠女であったという説もあるようですが……。もしそうだとすると、今回のエンディングで紹介されていたように、「時忠女は義経一行と一緒に平泉に向かう途中、義経の計らいによって晴れて父と対面した……」ということも充分考えられそうですね。
しかし「吾妻鏡」の記述などから、最後まで義経と行動を共にしていたのは河越重頼女でほぼ間違いなさそうです。時忠女はおそらく、義経が都を離れる際に実家に戻されたのではないかと思います。
ところで、「義兄記」その他色々な伝説によると、義経と関わった女性は十人くらいいると言われています。「義経って、かなり女好きだったのでは……」という気がします。
しかも義経には、平家を滅ぼした文治元年当時、すでに結婚適齢期を迎えた娘がいたようなのです。その娘は、源頼政の孫に当たる源有綱の妻となっていたようです。「吾妻鏡」の文治元年五月十九日條に、「有綱は義経の婿」といった記述があるそうです。
当時は10歳くらいになると結婚適齢期になります。そこで彼女が当時10歳くらいだとすると、義経は一回目の平泉滞在中に、すでに父親になっていたということになります。
現在京都女子大学教授の野口実先生の著書、「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」によると、この義経の最初の妻は、佐藤継信・忠信の縁者ではないかと推論されています。
ついでに義経の婿と言われる源有綱についても少し調べてみました。
祖父頼政が平家に反旗をひるがえして敗れたとき、有綱は伊豆国にいたため難を逃れました。
有綱はやがて頼朝の配下に入り、寿永元年(1182)に頼朝の命令によって土佐国に出陣しています。頼朝の同母弟源希義を討った平家方勢力を討伐するためでした。
土佐国において首尾良く平家方を討った有綱は、これと前後して義経の与力に加えられました。その後は義経の忠実な武将として行動していたようです。義経と頼朝が不和になったときも、迷わず義経方に身を投じました。
文治元年十一月、義経の西国下向に同行、船が難破し義経が吉野に逃れたときも、彼は義経の身辺にあったようです。
しかし、どのような経緯かははっきりしませんが、有綱はその後義経と別れ、伊賀国名張に単独で潜伏していたようです。文治二年、義経の残党を探索していた鎌倉方の配下に見つけだされ、合戦の末に討ち死にしています。なお、終焉の土地は下野国とも言われていますが、はっきりしたことはわからないとのことです。
ただ、「有綱が義経の婿」という説には年齢的なことを考えると異論もあるようです。はっきりした史料がないため、当時義経に結婚適齢期の娘がいたかどうかは判断しかねるのかもしれません。
それか、有綱と義経女は婚約していただけで、生活を共にしてはいなかったのかもしれませんね。
でももし、「吾妻鏡」に書かれていた「有綱は義経の婿」が真実だとしたら……、
父親は謀反人として指名手配中、夫も鎌倉方と合戦の末戦死…。残された有綱室となっていた義経の娘は世間から隠れて生きるしか道がなかったと考えられます。彼女は一体どのような思いで、どのような後半生を送ったのでしょうか。
しかし、彼女についての史料は全くないので、想像するしかありません。
そして義経の娘と同じく、父や夫を合戦で失い、運命を変えられてしまった女達がこの時代には数え切れないほどいたはずです。先に書いた義経の最初の妻や平時忠の娘もその一人と言えますよね。史料も何も残されていないそんな女達のことに想いをはせるとき、私はとても切ない気持ちになります。歴史の影にはこうした名もない女性が数多くいたことも、忘れてはならないと想います。
さて、次回はいよいよ最終回ですね。
義経の最期がどのように描かれるか、期待半分、心配半分で見守りたいと思っていま す。旦那さんは、『年齢からしてそんなことはまずあり得ないのだが、願望として(ドラマの中で勝手な歴史歪曲をしてきたのだから)……』としながら、『義経は生き延びて大陸に渡り、蒼きオオカミとなった…。なんてならないかな』と、テレながらこんなことを言っています。
それにしても、色々つっこみを入れつつ観てきたこのドラマがいよいよ終わるとなると、ちょっと寂しいですね…。