平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第31回&廊の御方

2005-08-11 16:13:56 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第31回の感想です。

 今回の見どころは、やはり義経と景時の対決だったと思います。

 できるだけ早く屋島に出発したいという義経と、水軍が来るまで出発は待った方が良いと思っている景時。二人の心情のすれ違いがよく描かれていたと思いました。

 結果的には義経の屋島への奇襲作戦が戦いに勝利する大きな要因となったのですけれど、嵐の中少人数で船をこぎ出すという義経の行為、私にはどう見てもスタンドプレイとしか思えませんでした。かえっつて義経をいさめた景時の方がよっぽど常識的に思えます。
 このドラマでは、「景時が総大将の義経に反対する。」→「景時が無理難題を言って義経をいじめる。」→「義経くん、かわいそうにと視聴者の同情を仰ぐ。」という展開にしたかったのかもしれませんが、意に反して結果的には逆効果になってしまったように思われます。私は、今回の義経にちっとも同情できませんでしたもの。
 でも考えてみると、このように言いだしたら聞かない自由奔放な義経こそ、本来の義経像なのかもしれませんよね。そう考えると、今回の義経の描き方は◎です。
 一方、景時に向かってため口で文句を言う弁慶には違和感を感じてしまいました。弁慶にしてみれば「御曹司に反対する者は許さない!」と思ったのでしょうけれど、景時に対してあのような失礼な態度を取ることが、かえって義経の不利になるということがわかっていなかったのでしょうか。実際の弁慶は、義経に不利になるような行為は絶対に慎んだと思うのですが…。

 ところで、景時の息子の景季はすっかり義経に心酔しきっていますよね。しかし景季は平家が滅んだあと、義経の動向を疑い始めた頼朝によって、彼を尋問するために派遣されるのです。その頃の義経は、頼朝と敵対していた行家と結ぼうとするなどの不審な行動を取っていたようです。
 尋問の結果、「義経には反旗の恐れあり。」と判断した景季は、義経の言動のすべてを頼朝に伝えたのでした。そこで頼朝は、義経討伐を最終的に決心したのでした。
こうしてみると頼朝と義経が決定的に対立する大きな原因を作ったのは景季とも言えそうですよね。
 今まで宇治川の先陣争いと重衡生け捕りといった見せ場をすべてカットされている景季ですので、義経を尋問する場面が果たしてこのドラマで描かれるかどうかは余り期待できませんが、注目してみていきたいです。そしてもしこの場面が描かれるとしたら、義経に心酔しきっているという設定の景季は、果たしてどのような態度を取るのでしょうか。心配でもあり楽しみでもあります。

 さて、今回の放送で気になったのは、梶原景時の名前の読み方です。放送では「かじわらのかげとき」と呼んでいましたけれど、「かじわらかげとき」と読むべきではないでしょうか。
 普通、姓と名前の間に「の」を入れるのは、「藤原」・「源」・「平」といった本姓だけだと思います。「梶原」や「三浦」、「足利」、「一条」、「九条」などの本姓から枝分かれした苗字の後には「の」はつけないのが普通です。
 例えば足利尊氏の場合、彼の本姓は「源」ですので、正式文書に署名するときには「源尊氏」ということになります。この場合読み方は「みなもとのたかうじ」になります。しかし、通常名乗るのは「足利尊氏」です。読み方は「あしかがたかうじ」であって、「あしかがのたかうじ」とは読まないと思います。
 なので平氏から枝分かれした梶原景時の場合も、これと同様だと思うのですが…。
 ちなみに手許にある「コンサイス日本人名事典」で調べてみても、梶原景時の読み方は「かじわらかげとき」になっていました。

 どうもこのドラマでは、歴史用語の読み方に疑問を感じる部分がちらほらあります。後白河法皇が幽閉された鳥羽殿のことを「とばでん」と読んでいましたが、「とばどの」が正式な読み方です。またその他にも、生け捕りにされた重衡が名を尋ねられたとき、「さんみちゅうじょう」と名乗っていましたよね。でもこの「三位中将」は「さんみのちゅうじょう」とするべきだと思います。
 製作スタッフの皆様には、こうした歴史上の人物、邸宅名、官職名の読み方をもっとしっかり勉強して欲しいものです。

 さて、今回は平家のみなさまの登場があってとても嬉しかったです。ただ、この時期には長門の彦島にいたはずの知盛が屋島にいたのには戸惑ってしまいましたが…。
それにしても、相変わらず平家の皆様はのどかですよね。戦いを前にしているこの時期の屋島は、もっと緊迫していたはずなのに、その緊迫感がさっぱり伝わってきません。
相変わらずの宗盛の直衣姿は、全く戦場には合いませんものね…

 その中で、清盛を父に常磐御前を母に生まれた廊の御方……。ドラマでは「能子」となっていますが……、彼女の立場の微妙さは胸に迫ってくるものがありました。彼女は「自分は平家の一員」と本心から思っていたでしょうけれど、屋島を攻めてくる源氏の総大将は母を同じくする兄です。彼女にとっては多少なりとも複雑な思いがあったはずです。
 ドラマで描かれていたように、「廊の御方は義経と連絡を取っているのでは……。」と疑いをかけられたことも実際にあったかもしれませんね。

 では今回は、この廊の御方について書かせていただきますね。

 廊の御方は永暦二年=応保元年(1161)頃、先にも書いたように清盛を父に、常磐御前を母に生まれています。ドラマでは長寛三年=永万元年(1165)頃の出生となっていましたが、史実では常磐と清盛との関係は平治の乱後1、2年くらいしか続いていませんので、このように判断させていただきました。なお「能子」という名前はドラマ独自につけられた名前だと思います。

 彼女がどこで育ったのかは不明のようです。私の調べではいつの頃からか、清盛の娘の一人が嫁いでいた藤原兼雅の家に女房として仕えるようになりました。兼雅室が彼女の境遇に同情して自分の許に引き取ったとも言われています。
 こうしてみると幼い頃の彼女の頭の中には、自分には源氏の血を引く兄がいるという意識は全くなかったように思えます。

 寿永二年(1183)、平家都落ちに同行し、2年後の3月の壇ノ浦の戦いにて建礼門院や大納言典侍などとともに源氏方の捕虜となり、都に戻ることとなります。
 その翌年六月、義経の行方を尋問されるために母の常磐御前とともに鎌倉方に捕らえられました。しかし、常磐とともに捕らえられた娘は廊の御方ではなく、常磐が藤原長成との間にもうけた娘だったという説もあるようです。
 その後廊の御方は、再び藤原兼雅夫妻の許に女房として仕えているようです。そしていつの頃からか兼雅と関係を持ち、女の子を一人もうけました。しかし、廊の御方がそのあとどのような生活を送り、いつ亡くなったかなどについては一切不明です。

 なお彼女は琴の名手であり、優れた能書家であったと伝えられています。
 おそらく常磐御前の血を受け、美しく気丈な女性だったのではないでしょうか。成長するにつれ、自分には源氏の血を引いた兄がいたことを知り、それとともに自分の立場の微妙さを意識するようになったとも考えられます。なので、「自分は平家の一員なのだ」ということを強調するために平家の都落ちにも自ら進んで同行した……とも考えられるのではないでしょうか。ドラマで描かれている能子(廊の御方)は、案外、かなり史実に近いのかもしれませんね。

 さて来週は屋島の戦いが描かれるようですね。佐藤継信が義経をかばって討ち死にする場面も描かれるようです。この佐藤継信を弓で打つ平家の公達については言いたいことがたくさんありますが、このことは来週の放送の後書かせていただきますね。
 とにかく屋島の戦いがどう描かれるか楽しみです。
  
  

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