平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

源氏物語 悲しみの皇子

2011-04-26 22:24:32 | 図書室3
 今回は、「源氏物語」を題材にした小説を紹介します。

☆源氏物語 悲しみの皇子
 著者=高山由紀子 発行=角川書店 価格=1785円

☆内容
 寛弘三(1006)年、左大臣の藤原道長は、一条天皇の中宮彰子の世話役として紫式部を御所に迎え入れた。我が娘の彰子に皇子を生ませたい道長は、式部によって紡ぎ出される大人の愛の物語が彼女に力を与えると信じて疑わなかった。式部が彰子に語り聞かせる魅惑の物語―。輝くばかりの美貌と才能を持つ光源氏と源氏に心を奪われる女性たち。だが、愛する女性を不幸にしてしまう自らの運命に傷ついた源氏は、魔道に墜ちて鬼と化し、作者・紫式部の前に立ち現れる。陰陽師・安倍晴明が怨霊と対峙するが…。新機軸で綴られた全く新しい源氏物語。

 本年公開の映画「源氏物語」の原作本です。なので、映画を楽しむために内容を知りたくないという方、このあとにかなりネタばれが書いてありますので、ご注意を…。

 まず書いておきますが、この小説、史実的にはかなり「あれ」と思う場面があります。

 小説の本編は、寛弘三年(1006)頃から始まりますが、この時点ですでに世を去っているはずの東三条院詮子や安倍晴明が登場します。
 最も晴明は、この前年に世を去っていると公表されているが、実は生きているという設定になっています。そして、年齢は不詳ということになっています。晴明さん自身が「不思議な人物」というイメージがありますし、この小説でも重要な役を演じているので、これはこれでいいのかもしれません。というか、この小説、最初から最後まで不思議な雰囲気が漂っているような気がしました。、

 この小説は、彰子の宮廷に使える紫式部の現実世界と、光源氏の物語が交互に展開するという構成になっています。

 紫式部の現実世界では、内容紹介にもありますように、娘の彰子に皇子を生ませたい権力者藤原道長は、紫式部が描く大人の物語が彼女に力を与える、つまり、道長は紫式部の書く物語を政治的に利用しようとしています。
 しかし紫式部は、そんな道長に抵抗します。彰子が藤原行成を慕っていることに気がついた紫式部は、ある日、2人を密会させます。「え、このまま彰子と行成が関係を持って、後一条天皇は実は行成の子だった…なんて描かれるのかしら?」とちょっと心配になりましたが、そこまで史実を曲げることはしていなかったのでほっとしました。もし、そんな風に描かれていたら、私はこちらでこの小説を紹介しなかったかも…。

 話が少し横道にそれてしまいましたが、彰子と行成の間には、結局何事もなく終わります。その直後、彰子が一条天皇との間の子を懐妊していることが発覚します。このことを知った紫式部は、「結局、女は悲しい生き物だ」と実感するのでした。

 一方、光源氏の物語は、源氏物語の現代語訳ではなく、著者独自の「源氏」の世界が展開されています。
 特に、原典ではあまり触れられていない、藤壷の宮と光源氏の出会いや密通の場面が、細やかに描かれています。最後に明かされる、桐壷更衣と似ているという理由で桐壷帝の妃となった藤壷がどのような想いを抱いていたのか、どのような想いで源氏に近づいたのかも、そのような解釈も出来るんだと、納得という感じでした。
 それから、1つ驚いたことは、夕顔と六条御息所の思わぬ関係です。でも、このことを書くとものすごいネタばれになるので、書くのを控えさせて頂きますね。1つ言えることは、もし、2人の関係がこの小説で描かれた通りだったら、六条御息所が嫉妬のあまり、源氏の愛した女性たちに生霊、死霊となってとりつく理由もよりはっきりとわかるような気がしました。

 こうして、2つの世界が交互に展開し、物語が進んでいくのですが、自分の愛した女性たちを次々と不幸にしていく光源氏は、自分の生まれた意味について悩み、ついに紫式部の前に鬼となって現れます。そして、鬼となった光源氏と安倍晴明が対決し、晴明は光源氏を封印します。

 しかしその後、源氏との間に不義の子を出産してしまった藤壷の本当の気持ちについて、どのように書こうかと悩む紫式部の前に、光源氏が再び現れ、現実世界と物語は不思議に融合します。小説のラストでは、光源氏の行く末を見届けようと決心する紫式部が描かれます。

 この小説の大まかなストーリーは以上の通りですが、上記に書いたように史実的にあれっと思うところ、例えば、既に亡くなっているはずの東三条院詮子が登場し、道長に反旗を翻すといった、あり得ない設定は気になりましたけれど、全体的にはよくまとまっていて、すらすらと読むことが出来ました。

 何よりも、ストーリーが変化に富んでいて面白いです。

 細かい歴史事項はともかく、寛弘三年当時の彰子に皇子が生まれることを待ちわびる道長の姿などはほぼ史実に忠実ですし、「源氏物語」の世界も、しっかりした解釈をもとに描かれているように思えました。安倍晴明と光源氏の対決の場面も迫力があり、映像化されたら見てみたいと思いました。

 また、登場人物1人1人も生き生きと動いています。

 紫式部は、自分の意見をしっかり持った頼もしい女性、道長がかなり傲慢ですが、権力者としては魅力的です。式神をあやつる晴明や、誠実な行成も素敵です。初めは人形のようだった彰子も、女性として少しずつ成長していき、好感が持てました。

 このように、この「源氏物語 悲しみの皇子」は、紫式部を巡る人々と「源氏物語」を題材にした、異色の時代小説というイメージを受けました。
 史実重視の物語や正統派の「源氏物語」を期待すると、少し裏切られるかもしれませんが、物語の醸し出す不思議な世界にぐんぐん引き込まれ、楽しむことが出来る1冊だと思います。

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京都3日物語 もくじ

2011-04-20 10:04:37 | 旅の記録
 このページは、2010年11月17日~19日の京都旅行記、「京都3日物語」のもくじのページです。
 「旅行記の1回目を読む」→「ブラウザの戻るでこのページに戻る」→「旅行記の2回目を読む」というように、旅行記を順番に読むことが出来ます。

 また、他の旅行記のもくじへのリンクも貼ってありますので、そちらもぜひご覧下さいませ。

1.出発
2.京都1日目の夜
3.京都2日目の朝
4.京都御所
5.晴明神社
6.町屋カフェでランチ
7.風俗博物館 六条院春の御殿編
8.風俗博物館 実物大展示室編
9.京都2日目の夜
10.京都3日目の朝
11.法金剛院
12.福王子神社
13.仁和寺 前編
14.仁和寺 後編
15.旅の終わり



☆日帰り京都旅行2005年夏 もくじ

 2005年8月23日、当時京都文化博物館で開かれていた風俗博物館出張展示を観に行って十二単を体験し、その後、法住寺と三十三間堂を巡りました。


☆京都1泊旅行2006年春 もくじ

 2006年4月6日・7日の京都1泊旅行の旅行記です。1日目には風俗博物館に行き、そのあと下鴨神社で平安装束を体験しました。2日目は京都御所、紫式部の墓、雲林院などを巡りました。


☆掛川城散歩 もくじ

 2006年9月14日、当時放映されていたNHK大河ドラマ「功名が辻」の舞台ともなった掛川城を訪れました。

☆日帰り小旅行 三島編 もくじ
 2007年1月16日、当時三島市の佐野美術館で開かれていた「よみがえる源氏物語絵巻 ー平成復元絵巻のすべて」の展示を見に行き、三島大社を参拝しました。

☆晩秋の京都へ もくじ
 2007年11月24日、風俗博物館に行ったあと、枳殻邸(渉成園)で紅葉を堪能し、西陣・斎院御所跡を訪れました。

☆新緑の京都で装束体験 もくじ
 2008年5月16日、京都文化博物館にて「源氏物語千年紀展」を鑑賞、その後、十二単を体験し、博物館の周りにある平安邸宅の跡を巡りました。

☆秋の日帰り京都旅行 もくじ
 2008年10月24日、午前中に風俗博物館を堪能し、その後、平安神宮へ、そして、京料理のお店「六盛」さんで創作平安王朝料理をいただき、京都文化博物館やポルタで「源氏物語」関連の展示を見学しました。

 ☆盛夏の浜松へ もくじ
 2009年8月4日、浜松駅前のホテルで昼食を食べたあと、浜松市美術館で石山寺展を観賞、その後、浜松城に行きました。

☆斎王に逢う旅 もくじ
 2009年11月14日、念願の伊勢の斎宮に行きました。まず、斎宮歴史博物館で展覧会や斎王群れ行のビデオを堪能し、その後、斎王の森、斎宮の10分の1模型、竹神社、いつきのみや歴史体験館を巡りました。

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旅の終わり ~京都3日物語15

2011-04-19 20:27:32 | 旅の記録
 旧御室御所御殿の拝観を終えたあと、仁和寺をあとにし、京都駅に戻ることにしました。
 バスにしようかタクシーにしようかちょっと迷いましたが、結局タクシーに乗って駅まで行くことに。昼食時以外はずっと歩きっぱなしだったので少し疲れていたのか、タクシーの中でうとうとしてしまいました。そんなこんなで京都駅に到着。うとうとしたせいか疲れも取れ、頭もすっきりしていました。もし、バスに乗って座席に座れなかったら、もっと疲れてぐったりしてしまったかもしれません。タクシーに乗って正解でした。

 新幹線に乗るまでまだ時間があったので、買い物をすることにしました。

 まず向かったのは、京都タワーホテルの3階にある本屋さん、こちらは、静岡では売っていない京都の歴史や平安時代に関する本が多く売られているので、京都旅行の際はいつも立ち寄っています。でも今回は、収穫がありませんでした…。また今度来たときの楽しみにとっておきます。

 その次に行ったのは、伊勢丹デパートの地下の漬け物屋さん、こちらで売られている京漬け物は、私たちのお気に入りです。いつものように、千枚漬けとゆず大根を購入。それと、ゆず山芋という漬け物も買ってみました。

 そのあと、預かってもらっている荷物を取りにホテルに戻りました。そして新幹線の改札へ…。改札の中にあるお弁当屋さんで、今夜の夕食のお弁当を買います。
 こちらはいつも込んでいて、お弁当を買うのが一苦労です。この日もかなり込んでいました。私は鶏二段重ねのお弁当、だんなさんは野菜幕の内弁当を購入。

 こうして予定通り、5時5分発の上りのこだまに乗り、すでに陽が暮れかかっている京都の町をあとにしました。京都を離れるときにいつも思うことは、「今度はいつ、来られるのかしら?」です。うん、きっとまた来ることができますよね。

 こうして新幹線と在来線を乗り継ぎ、夜8時頃に帰宅しました。そして早速、京都駅で買ったお弁当を頂きます。
 鶏二段重ねは、文字通り二段重ねのお弁当。1つの箱に鶏飯が入っていました。ほんのりと味がついていていい感じ。
 もう一つの箱は、4つに仕切られていて、天ぷら、煮物、魚などが入っています。高野豆腐の煮つけも入っていて嬉しかったです。

 それから、漬け物屋さんで買ってきたゆず山芋も頂きました。ほんのりと甘くておいしかったです。漬け物というより、お総菜のような感じでした。気に入ってしまいました。

 こうして、見て、感じて、楽しんで、そして、おいしい物をたくさん食べることが出来た京都への旅が終わりました。考えてみると、ものすごく充実した3日間だったように思えます。心配していた歯の痛みもほとんど大丈夫でしたし。

 それと、いつもは帰りの新幹線の中では疲れて爆睡してしまうし、家に帰るとぐったりして、更に眠くなってしまうのに、今回の旅行は不思議なことに、新幹線の中ではしっかり起きていましたし、帰宅後も、疲れたという感覚があまりありませんでした。2泊したことでかえって時間的に余裕が出来、体も楽だったのかもしれません。

 最後に、お世話になった皆様、改めまして、楽しい時間をありがとうございました。

 そして、また京都に行ける日を楽しみにしていようと思います。

             ー 京都3日物語 終わり ー


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仁和寺 後編 ~京都3日物語14

2011-04-13 21:03:32 | 旅の記録
 仁和寺の本堂にお参りをして戻ってきた私たち、時計を見たら午後1時を少し過ぎていました。
 朝食をたくさん食べた私ですが、この時間になるとさすがにおなかが空いてきていました。そこで、仁和寺の中にある御室会館の食堂で昼食を頂くことにしました。

 御室会館は2003年5月、私が初めて十二単を着せて頂、ネットでお知り合いになった方々とも初めてお会いしたイベント、「日本文化フォーム21 紫の心 ~源氏物語の世界」が行われた思い出の場所です。
 もっとも、十二単を着て歩き回ったり、平安時代の調度品に触れたり、お菓子を頂いたりしたのは旧御室御所御殿なので、こちら御室会館では、当時花園大学教授の山田邦和先生の平安京についての講演や十二単の着つけの実演を堪能し、王朝料理を頂きました。講演も着つけも王朝料理もとても充実した内容で、わくわくしたのを思い出します。そんなわけで、御室会館に足を踏み入れると、あの日の楽しかった思い出がよみがえってきました。
 でも、本日は、あの日には足を踏み入れなかった食堂に行きます。食堂はとても明るい雰囲気で、従業員の方々も感じが良く、ほっとさせられました。

 私は、天ぷらそばを注文しました。京都に来るとなぜかおそばを食べたくなってしまう私ですが、考えてみると、今回の旅行ではまだ食べていませんでした。エビの天ぷらが少し脂っこかったことをのぞけば、私好みの薄味でなかなか美味。満足です。
 だんなさんは湯豆腐定食を注文。少しもらってしまいましたが、お豆腐がなめらかでおいしかったです。

 食事が終わったあと、せっかくなので旧御室御所御殿を拝観することにしました。

 入り口で靴を脱ぎ、御所の中に入ると、お香の良い香りがします。廊下を歩いていくと、上品なたたずまいのお部屋がいくつも目に入ってきます。

 実は仁和寺は、「源氏物語」とも縁があるのです。

 光源氏の兄、朱雀院は、「若菜上」の巻で出家をし、西山の寺に入るのですが、この西山の寺のモデルが、仁和寺なのだそうです。
 朱雀院もきっとこんな上品な畳敷きのお部屋で、光源氏に降嫁させた愛娘、女三の宮のことを思いながらお経を読んでいたのでしょうね。「源氏物語」には、出家後の朱雀院の日常について、多くは語られていませんが、きっと宇多天皇とは対照的に、遊興とも女性とも縁のない、仏教ひとすじの毎日を送っていたと思います。

 ところで、御室御所の廊下から見える庭園も、とっても素敵でした。では、そんな庭園の様子をご覧下さい。

 

 

 池が光っていてきれいです。

 

 

 こちらは、左近の桜、右近の橘がある庭です。今頃(この記事を書いている2011年4月上旬)は、桜がきれいでしょうね。

 廊下を歩いていると、「あ、ここを十二単を着て歩いたっけ」という、見覚えのある場所もちらほら目に入り、楽しかったです。

 仁和寺には、7年前のこのイベントの他、1992年と2000年にも訪れていますが、訪れるたびに新しい発見があります。そしていつも、宇多天皇や朱雀院の面影を感じることが出来ます。大好きなお寺です。

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駿府城外堀の桜2011

2011-04-09 11:30:18 | 静岡大好き
 今年はなかなか暖かくならず、東日本大震災という大きな災害もあったりして、お花見どころではないという「自粛ムード」もあり、桜の開花のニュースを聞けなくて、少し寂しく思っていました。
 それでも今週になってやっと暖かくなり、「駿府城の桜が満開」というニュースも入ってきましたので、一昨日(4月7日)に静岡に出たついでに写真を撮ってきましたので載せてみます。

 駿府城外堀の桜はほぼ満開でした。中には、もう散りかけている桜の木もあり、地面には花びらがちらほらと落ちていました。

 

 

 

 ピンクの桜の花、とてもきれいです。お天気も良かったので、その点でもラッキーでした。最近、少し暗い気持ちになりがちでしたが、桜を見て元気が出ました。やっぱり、日本人と桜は切っても切れないものなのですね。

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仁和寺 前編 ~京都3日物語13

2011-04-02 22:16:55 | 旅の記録
 福王子神社をあとにし、東の方向に7~8分くらい歩いたでしょうか。大きな門が見えてきました。次の目的地、仁和寺に到着です。

 仁和寺は、大内山の南麓に建てられたお寺で、真言宗御室派の総本山なのだそうです。

 創建については、通説によると、光孝天皇は仁和二年(886)、大内山のふもとに勅願寺を建立しようと発願し、着工したのですが、寺の完成を見ずに翌年八月に崩じます。
 帝位を継いだ宇多天皇は、父帝の遺願を継いで造営に努め、仁和四年(888)八月十七日、権大僧都真然を導師として金堂の落慶供養と、光孝天皇の周忌斎会を執り行い、寺は年号に因んで仁和寺と定められました。

 しかしこの所伝は、同時代史料に見えず、あいまいな点が多いところから、仁和寺は、宇多天皇が父帝の霊に回向するために光孝天皇の御陵の兆域内に建立した御願寺であったという新説も出されているそうです。いずれにしても、創建には宇多天皇が大きく関わっていたことは間違いないと思います。

 では、宇多天皇について、「平安時代史事典」をもとに紹介します。

 貞観九年(867) 誕生。名は定省。父は時康親王(後の光孝天皇) 母は班子女王。
 かなり早い時期に、尚侍藤原淑子(藤原長良女・基経妹)の融子となる。

 元慶年間(877~885) 元服。侍従に任じられ、陽成天皇に使えた。

 元慶八年(884) 父、時康親王、関白藤原基経の推挙によって即位(光孝天皇)。定省、他の光孝天皇の皇子皇女とともに臣籍に降下し、源姓を賜る。

 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。定め省、養母の淑子の尽力もあり、急遽即位。宇多天皇となる。一度臣籍に降下した物が即位するという初めての例となった。
 宇多天皇の治世は、阿衡事件という紛争もあったが、紛争の決着後は摂関家との融和を計った。また、先例にとらわれず様々な改革を執り行った。(清涼殿を天皇の常御殿に定めたり、賀茂臨時祭を始めたり、遣唐使の派遣を停止したりしたことなど。)

 寛平三年(991) 関白藤原基経が薨ずると、摂関を置かずに自ら政治を執り行った。その後、菅原道真を重く用いた。なお、道真は宇多天皇の引き立てで右大臣にまで昇進するが、天皇の退位後、昌泰四年(901)に太宰府に左遷された。

 寛平九年(897) 第一皇子敦仁親王に譲位(醍醐天皇)。

 昌泰二年(899) 十月、権大僧都益信を戒師として落飾。同じ年、念誦堂としての八角堂(円堂)を仁和寺内に建立した。

 延喜四年(904) 仁和寺の南西に御所を営み、常時の御在所とした。
 こうして宇多上皇は、仁和寺を御所としたが、他にも朱雀院、河原院、亭子院、宇多院などにも住んだ。後宮には多くの女性を侍らせ(歌人の伊勢や、藤原時平女の褒子など)、歌会や饗宴を催したりして、優雅な生活を楽しんだ。また各地の名所・仏閣に御幸したりした。その一方、醍醐天皇の治世への監視も怠らなかったようである。

 承平元年(931)七月十九日 仁和寺御室で崩御。遺骸は仁和寺奥の池尾山で荼毘に付され、のち大内山陵に改葬された。

 一度源氏に降下してから即位、在位中は政治に没頭し、退位してからは遊興三昧、やっぱり興味深い天皇さんです。そんな宇多天皇ゆかりの仁和寺を私も拝観してみます。

 ではまず、仁和寺の全景をご覧下さい。

 

 仁和寺は、この記事の最初の方でも触れたように、大内山の麓に造られたお寺なので、本堂への道は上り坂になっています。所々に階段も造られています。なのでかなり体力を消耗します。運動不足を痛感させられました。

 法金剛院と福王子神社は、私たちの貸し切り状態でひっそりとしていましたが、こちら仁和寺は観光客も多く、本堂への道を昇っている途中も何人かの人とすれ違いました。途中、学生さんでしょうか、若い方々の集団が大きな声でおしゃべりをしながら、私たちを追い越していきました。お寺なのだからもう少し静かに拝観して欲しい……と、個人的に思ってしまった私、やはり年を取ったのでしょうか。

 本堂へ行く上り坂からは、五重塔も見えます。

 

 と言うわけで、ようやく本堂に到着しました。しっかりお参りをして、お賽銭も入れて、手を合わせてお辞儀をして、本堂をあとにしました。そして、来たときとは反対に、道を下っていきます。

 再び、この寺で後半生を過ごした宇多天皇のことを考えてみました。
 上皇となった宇多さんは、醍醐天皇の治世への監視を怠らなかったと言っても、直接政治に関わることはあまりなかったのでは…という気がします。ここ、仁和寺を住まいとした宇多さんは、遊興と趣味の世界に生きていたのではないでしょうか。若い頃、様々な改革を行い、政治に没頭した天皇時代の彼とはどう考えてもギャップが大きすぎます。

 宇多さんを政治から遠ざけた原因はいったい何だったのでしょうか。
 やはり、天皇時代に重用していた菅原道真の左遷を止められなかったことが、自責の念となっていたのでしょうか。タイムスリップして、そのあたりのことを宇多さんに尋ねてみたいような気がしましたが、彼は本心を見せないかもしれませんね。


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