平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

「かぼちゃのプリン」を食べました♪

2007-03-30 22:41:25 | えりかの平安な日々 04~09
 15年間使っていた目覚まし時計が壊れてしまったので、本日、静岡に行って新しいものを買ってきました。私は目覚まし時計がないと起きられませんので。(汗)

 そのついでと言っては何なんですが、静岡駅の駅ビルの6階にあるイタリアンレストラン、「ペリーチェ」でランチを食べ、デザートをテイクアウトしました。上の写真がテイクアウトしてきた「かぼちゃのプリン」です。

 このお店、パスタ類もおいしいですがデザートもとってもおいしいのです。特に気に入っているのがいちごショートとこのかぼちゃのプリンです。

 先ほど、かぼちゃのプリンを食べました。プリンの上には生クリームとイチゴがのっています。味は甘すぎず、ほんのりとかぼちゃの味がします。
 実は私、かぼちゃそのものはちょっと苦手で、かぼちゃの煮物や天ぷらはあまり食べないのですが、ペースト状にするとおいしく食べられるのですよね。なのでかぼちゃポタージュなどは大好きです。もちろんかぼちゃのプリンもおいしく食べられます。

 そのようなわけで、プリンも上にのっていた生クリームもとてもおいしかったです。幸せです♪また買ってこようっと。

<かぼちゃのプリントは関係ないのですが…>
 統一地方選挙戦が始まっていますね。私の住んでいるところでも県議会選挙が行われる…はずだったのですが、何と無投票になりました。
 考えてみると選挙当日の4月8日は、だんなさんが勤めている専門学校の入学式なので、1日忙しいのですよね。なので選挙もその間を縫って行ってこなければならないと思っていたので、ちょうど良いと言えばちょうど良かったのですが…。やっぱり選挙という、絶好の政治への参加のチャンスを失ったのは残念です。

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京都観光名所・名跡 分析

2007-03-26 10:36:25 | 歴史雑記帳
 なぎさんのブログ「晴れのち平安」で紹介されていた、「京都観光名所・名跡 分析」をやってみました。行ったことのある思い出の場所、まだ行ったことのないあこがれの場所が次々に出てきて楽しかったです。

 最初に、いつものようにHNのえりかでやってみました。

えりかの62%は「相国寺」の五山文学の威厳さで出来ています
えりかの23%は「平等院」の阿弥陀如来座像等の神秘さで出来ています
えりかの9%は「銀閣寺(慈照寺)」の渋さで出来ています
えりかの5%は「上賀茂神社」の皇女(斎王)さで出来ています
えりかの1%は「永観堂(禅林寺)」の紅葉名所さで出来ています

 わ~い、大好きな平等院が出てきました。それから、「上賀茂神社の皇女(斎王)さ」というのも良いですね。たとえ5%でも、尊子内親王・選子内親王・式子内親王といった斎王の素質を、私も持っているとしたら嬉しい限りです。


 では、次に本名でやってみました。

<えりかの本名>の56%は「化野念仏寺」の8,000体に及ぶ無縁石仏で出来ています
<えりかの本名>の27%は「伏見稲荷大社」の朱色一色と商売繁盛さで出来ています
<えりかの本名>の9%は「金閣寺(鹿苑寺)」の絢爛さで出来ています
<えりかの本名>の7%は「清水寺」の四神相応さで出来ています
<えりかの本名>の1%は「貴船神社」の水占みくじに代表される水分で出来ています

 化野念仏寺と伏見稲荷大社にはまだ行ったことがありません。でも、この二つで私の本名の8割を占めているとのことなので、ぜひ行ってみなくては…。あの美しい金閣寺が少し入っているのも嬉しい。金閣寺には4回程行ったことがありますが、そのつど輝きが違って見えておもむきがありました。


 では、次にブログのタイトルでやってみました。

平安夢柔話の82%は「法界寺」の阿弥陀堂と薬師堂で出来ています
平安夢柔話の8%は「三十三間堂」の1,001体の千手観音像で出来ています
平安夢柔話の6%は「銀閣寺(慈照寺)」の渋さで出来ています
平安夢柔話の4%は「北野天満宮」の修学さで出来ています

 82%の法界寺にはまだ行ったことがないのでこちらにもぜひ行ってみなくては。三十三間堂の大仏にはいつも感動させられますし、銀閣寺の庭も素晴らしかったので、分析結果に入っているのが嬉しいですね。


 では、最後に我が家の愛猫の名前でやってみました。

エリカの54%は「壬生寺」の壬生狂言と新選組で出来ています
エリカの30%は「修学院離宮」の天下の三棚の一つ霞棚で出来ています
エリカの7%は「清水寺」の四神相応さで出来ています
エリカの5%は「京都御苑(御所)」のロイヤリティさで出来ています
エリカの4%は「北野天満宮」の修学さで出来ています

 ほう、我が家の小さなエリカの半分は新撰組なんだ~。壬生寺にも行ったことがないので、こちらにもいつかぜひ訪れてみたいですね。それにしても、5%の「京都御苑(御所)」のロイヤリティさというのが面白いです。エリカは高貴な生まれなのかしら。

 …というように、色々なキーワードを入れて遊んでみました。京都好きのみなさま、ぜひいかがでしょうか。

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久しぶりに近況

2007-03-21 21:06:10 | えりかの平安な日々 04~09
 上の写真は、私がいつも利用している駅の駅前の広場(と言っても狭いのですが)で昨日、撮影した鳩です。私、なぜか鳩が大好き♪旅行先の城跡や京都のお寺・神社で鳩を見ると嬉しくなります。あちらこちらに歩き回って遊んでいるのを見るのはほほえましいし、「ポポポ」とか、「ボーボーポポ」とか「グググ」と言った鳴き声も面白い。早く言えばかわいくてたまりません♪そこで、ついついこちらに写真を載せてしまいました。

 それでは、タイトルの通り久しぶりに近況を綴ってみたいと思います。

1.メインパソコンを替えようかな?

 掲示板へも書きましたが、3週間ほど前、私のメインパソコンが壊れてしまいました。私のパソコンは、昨年の8月に買ったまだ新しいパソコンなのですが、昨年の大晦日に突然立ち上がらなくなったり、ウインドウズが終了できないことが多いなど、結構不具合もありました。そして3週間ほど前、立ち上げてから15分くらいで突然消えてしまう…と言った困った不具合が出るようになってしまったのです。

 そこで、購入したお店に持ち込んでみました。すると、「マザーボードが壊れている可能性が強いので修理した方がいい」と言われたので、修理に出すことにしました。その際、パソコンの中に入っていたバックアップを取っていなかったデータは一時あきらめたのですが、何とかぎりぎりでCDーROMに移すことができて一安心。例によって、CDーROMにバックアップを取るとき、だんなさんにものすごく世話になりました。感謝!

 そこで、私のパソコンが修理に出されている間は、昨年の夏にそうしたように、「だんなさんのパソコンを借りるしかないのかな?」と思っていました。ところが、私が本を読むときなどにちょこっと使っていた予備のノートパソコンに、だんなさんがいつの間にかインターネットができるようにソフトを入れてあり、「これを使うといいよ。」と言ってくれたのです。幸い、インターネットにもすぐにつながり、ノートパソコンで文書作成・読書・インターネットができるようになりました。

 ただ文書作成の際、キーボードの位置が微妙に違うこと、ノートパソコンはキーが小さいので打っているとかなり違和感を感じることが戸惑いました。
 ところが面白いもので、1週間もするとノートパソコンのキーボードに慣れてきてしまったのです。それに、私のパソコンに比べるとスピードがものすごく速いこと、速いこと…。例えばインターネットのホームページで書き込みをするとき、あるいは、目的の項目を探すとき、私は視力が弱いのでマウスを使わず、タブキーで目的の位置にカーソルを合わせるのですが、パソコンのスピードが速いと目的の場所に素早くカーソルを移動することができるのです。ウインドウズが終了できないこともほとんどありません。これは私にとっては快適でした。
 それはそのはず、このノートパソコン、だんなさんに言わせると「ものすごく性能がよい」のだそうです。しかも、ノートパソコンのお値段は私のパソコンの6倍くらいだと言うのですから…。

 実はこのノートパソコン、元々は、3年前に他界しただんなさんのいとこのTさんが購入したものでした。ところがTさんは、ノートパソコンを買って間もなく病気が見つかり、そのまま帰らぬ人となってしまいました…。
 だんなさんも、Tさんが亡くなったことにはかなりショックを受けていました。だんなさんとTさんは仲が良かったらしく、高校時代くらいまで毎年、だんなさんは夏休みにTさんの家に1週間くらい、泊まりがけで遊びに行っていたそうです。最近は、遠方に住んでいる上にお互いに忙しくて、連絡を取っていなかったようですが…。
 それで、どういう事情かは私もよくわからないのですが、だんなさんがTさんのパソコンを譲り受けることになったのでした。Tさんは独身でしたので、譲り渡す子供さんもいませんので、パソコンが使いこなせるだんなさんに…ということだったのかもしれません。
 そのようなわけで、私も、このパソコンを残して下さっただんなさんのいとこのTさんにとても感謝しています。大切に使おうと思っています…。

 使い慣れてきたことと、性能がよいことが重なり、だんだんこちらのノートパソコンが使いやすくなり、愛着が生まれている私です。なので、私のパソコンが戻ってきても、こちらのノートパソコンをメインパソコンにしようかなと、今は思っています。そして、戻ってきたパソコンは寝室に置き、時々本を読んだり、文章を作成するときに使おうかなと…。
 そうそう、私の机が置いてある場所はエアコンから遠いので、夏はものすごく暑くなります。そんな時、エアコンから近い寝室にもう1台パソコンがあると便利なのですよね~。涼しい寝室で文章を作成して、居間の机の上にあるパソコンから記事をUPすることもできますし。何よりも、インターネットにつなぐパソコンは性能がよい方が絶対にいいような気がします。


2.行きつけの書店の移転

 5年くらい前から、私は静岡駅前の大きな書店で本を買うことが多かったです。そこの書店は、地下1階・地上4階で、建物全体が書店になっています。なので本の種類もとても充実しています。

 何よりも、大好きな歴史関連の本がたくさんあるのが嬉しかったです。平安時代のかなりマニアックな本も置いてありますし…。私がここ5年くらいの間に買った平安時代関連の本は、古書店から買ったものをのぞけばほとんどがこちらの書店から買ったものです。

 ところが、静岡駅前の区画整理のため、こちらの書店は先月の上旬で閉店し、今月からは駅から歩いて15分くらいの場所に移転してしまいました。今度の店舗は2階建てなので、規模もかなり縮小してしまっただろうな…と思ったのですが。思った通り、行ってみると歴史関連の棚が少なくなっていました。平安時代関連の本も数冊しかありません。繁田信一先生の「殴り合う貴族たち」(いつか図書室で紹介したいと思っています)など、前の店には目立つところに5冊くらい置いてあったのに、こちらの店には1冊しかありませんでした。これからは、マニアックな本はこちらの書店には入ってこないかもしれません。何かがっかりです…。

 それで、書店で本を買うというのは、今の時代では時代遅れなのかもしれないなと思ったりしました。確かにネット書店なら、欲しい本もすぐに見つかりますし、書店を通して注文するよりも早く手元に届きますものね。私も、これからはネット書店を利用しようかな。


3.新しい人物伝作成中です

 新しい人物伝、「小式部内侍」を少しずつ作成中です。母の和泉式部のイメージが強烈なので、その陰にかくれてしまっている娘の小式部にスポットを当ててみたい…と思ったのが、小式部のことを書こうと思ったきっかけです。

 ところが小式部は、藤原定頼との大江山の歌のエピソードのイメージが強すぎて、他のエピソードに関してはなかなか筆が進みません。母の和泉式部のことも重ね合わせ、ようやく、彰子中宮に出仕した頃まで(小式部が12歳くらい)の伝記の下書きを書き終えました。まだまだ先は長いですが、無理をせずに頑張ります。

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新とはずがたり

2007-03-17 10:59:37 | 図書室3
 今回は、いつもの平安~源平時代からちょっと時代が下った鎌倉中期の宮廷を舞台にした、歴史小説を紹介します。

☆新とはずがたり
 著者=杉本苑子 発行=講談社

内容(「BOOK」データベースより)
華やかな宮廷で、院や高僧、西園寺実兼ら貴族たちと交わした愛の日々。一転、出家し、諸国を遍歴した日々。稀有の女流日記「とはずがたり」の小説化、ついに実現。後深草院の女房二条の愛と哀しみの生涯。

*なお、写真は私が所持している平成2年発行の単行本ですが、現在では単行本・文庫本ともに絶版のようです。本記事を読んで興味を持たれた方、古書店か図書館を当たってみて下さい。


 この本を読むのは今回が4回目でした。そのくらい、気に入っている本です。とにかく面白く、哀しく、感動的(ちょっと変な表現ですが)です。絶版なのが本当に惜しいです。

 この小説のタイトルのもととなった『とはずがたり』という古典は、鎌倉時代の天皇、後深草院(1243~1304)の女房だった後深草院二条(1258~1306以降)という女性が表した回想記です。

 二条は大変、波乱に富んだ人生を送った人でした。彼女の母が後深草院の乳母で、しかも初恋の人だったため、院は忘れ形見の二条を幼いうちから宮廷に引き取り、自ら育てていました。そして、二条が14歳になった正月、まるで『源氏物語』の光源氏と紫の上のように、二人は新枕を交わしたのでした。
 しかし、院は二条と他の男の橋渡しをして楽しむ…といった、ちょっと異常ともとれるところがありました。そして二条も、美しいゆえに、後深草院の弟の性如法親王や亀山院、前関白の鷹司兼平といった男たちと交渉を持ちます。また、二条は院と新枕を交わした頃から西園寺実兼(1249~1322)という恋人もいました。その後も色々なこと(母方の祖父の四条隆親に辱められて宮廷を出奔するなど)がありましたが結局、後深草院の中宮、東二条院に憎まれて宮廷を追われ、出家して尼になって諸国を行脚します。こうした華やかな宮廷生活での男性遍歴と、出家してからの諸国行脚の記録を綴ったのが『とはずがたり』です。

 この『新とはずがたり』は、この『とはずがたり』の世界を小説化した作品ですが、後書きの著者、杉本苑子さんの言葉を借りれば、内容はだいぶ違っています。

 この小説の主人公は二条ではなく、二条の恋人の一人、西園寺実兼です。彼は最終的には太政大臣にまで昇り、関東申次として朝廷と鎌倉幕府の間を取り持ったり、朝廷内部の抗争を仲介するなど、政治的に色々と活躍をした人物でした。『新とはずがたり』は、実兼の目を通して見た鎌倉時代中期の朝廷と幕府、そして二条の生涯を描いたものなのです。

 二条は16歳の時に後深草院の皇子を生むのですが、その頃から実兼とも恋仲になり、間もなく彼との子を身ごもってしまいます。このことが露見すると大変なことになりますから、二条が実兼との間に身ごもった子は表向きは院の子とし、院には「流産しました」と届け出て、子供は実兼の腹心の従者の縁者に養子に出されます。
 その後間もなく、二条が院との間にもうけた皇子も亡くなってしまいます。二条は十代後半で、子供との生別死別という大きな悲しみを背負ったわけですが、ちょうど二条が悲しみに暮れている頃、九州では大変なことが起こっていました。蒙古襲来…、つまり「文永の役」と言われた戦乱です。
 二条の描いた「とはずがたり」には、蒙古襲来については一言も触れられていません。宮廷の女房たちにとっては、「九州の方で何かあったらしい」という意識しかなかったのでしょう。

 『新とはずがたり』では、蒙古襲来のいきさつや朝廷と鎌倉幕府の対応について、実兼の目を通してかなり詳細に描かれています。蒙古襲来だけでなく、二月騒動・霜月騒動といった鎌倉幕府側の事件、後深草院と亀山院の対立、その後、天皇家が持明院統と大覚寺等に分かれていく経過などにも触れられていて、大変興味深かったです。

 しかし、この小説を読んで一番強烈だったのは、やはり二条という女性の生涯の波瀾万丈さでした。

 二条は多くの男性と交渉を持ったのですが、そのうち後深草院、西園寺実兼との間に一人ずつ、性如法親王との間に二人、合計四人の子供をもうけました。しかし、どの子供とも生後間もなく性別あるいは死別し、母親としての喜びをほとんど味わうことができませんでした。おまけに母の大納言典侍(後深草院の乳母)とは2歳の時に死別、父親の久我雅忠とも、十代半ばで死別しています。つまり、肉親との縁が非常に薄い女性だったわけです。

 しかも、幼い頃から育ててくれた後深草院は多情で、二条一人に愛情を注いでくれるという男性ではありませんでした。二条を病的に一途に愛し、二条もその激しい愛情を受け入れた性如法親王とも、二十代半ばに死別してしまいます。
 そのうえ、宮廷の女あるじとも言うべき東二条院に嫉妬され、いじめ抜かれ、その結果憎まれて、宮廷を追放されてしまいます。そして、11歳も年上の東二条院に頭が上がらない後深草院は、二条を見捨ててしまいます。そんな中、彼女に温かい手をさしのべていたのが実兼だったのでした。

 実兼は何とか、二条を宮廷に復帰させようと力を尽くすのですが、結局は失敗に終わります。そこで実兼は、「私の北山の別荘に住んで、私一人を待つという身になりませんか?」と二条を誘うのです。本当に優しい人なのですよね、実兼って…。
 私は、この小説ですっかり実兼のファンになってしまいました。物事をてきぱきと進めていくところは格好良いし、情にもろいところがあるのもなかなか素敵です。何よりも、二条をいつでも温かく見守っているところがいいですね。
 私が二条だったら多分、「はい、実兼さま、そうさせていただきます。」と言ったと思いますが…。二条はそうしませんでした。

 二条はすべてを捨てて出家し、諸国を行脚します。二条が放浪の歌人、西行の書を愛読しており、出家遁世に影響を与えたというのは通説のようで、この小説でも二条が西行の書を読んでいる場面があります。しかし、この小説では二条は当時踊り念仏で庶民から圧倒的な支持を集めていた一遍上人に浸水しており、「すべてを捨て去る」という一遍の教えが二条の出家に大きな影響を与えたと描かれていました。諸国行脚のおかげで二条は身も心もたくましくなり、人間としても成長していきます。

 しかし、どうしても捨てきれなかったのは幼いときから育ててくれ、その後夫となった後深草院の面影でした。この小説のラストシーンでは、後深草院の葬送の行列を遠くから見送る二条と、その二条をやはり遠くから暖かいまなざしで見守る実兼の姿が描かれていますが、読む者の心に深く迫ってきて感動的です。

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『なんて素敵にジャパネスク』 読了

2007-03-13 09:15:30 | 読書日記
 先週水曜日に、再読していた「なんて素敵にジャパネスク」全十冊を読み終わりました。風邪をひいてしまったために一時中断してしまったので、結局4週間かかってしまったのですが(ちなみに4年前に初めて読んだときは20日間で全十冊を読了しました)、それでも私にしては速い方です。それだけ夢中になってしまったということでしょうね。

 読み終わった感想を一言で言うと、とにかく「面白かった」です。最後の最後まではらはらどきどき、そして、泣かせてくれました~。それで、せっかくなので読みながら思ったことや考えたことを少し書かせていただきますね。

 2月13日の日記でも書きましたが、初めて読んだとき、私、読む順番を間違えてしまったのですよね。それで今回は正しい順番(『2巻』→『ジャパネスク・アンコール!』→『続ジャパネスク・アンコール!』→『3巻』)というように読んでみました。すると、4年前とは全く違ったおもしろさを味わうことができました。特に、守弥に心ひかれる瑠璃姫にすっかり感情移入してしまいました。

 吉野で記憶をなくして迷い込んできた峯男と、高彬の従者の守弥が同一人物かもしれないとわかったときの瑠璃姫の驚き、そして、白梅院で再会したときのどきどき感…。それら一つ一つが心に迫ってくるように思えて、私もどきどきしてしまいました。どうしても忘れられない吉野君とそっくりの声で、「もうお帰りなさい」と言われ、それで心が救われた瑠璃姫ですから、守弥にどきどきする気持ちわかるなあ。
 
 4年前に3巻や4巻の守弥に関する場面を読んだときは、『続ジャパネスク・アンコール!』をまだ読んでいなかったので、いまいちぴんと来ませんでした。今回は正しい順番で読んだので、この場面を堪能できました。これから『なんて素敵にジャパネスク』を読まれる方、くれぐれも読む順番を間違えないで下さいね。

 煌姫に関しても、4年前とは全く違うイメージを持ちました。4年前はいきなり、新三条邸に居候することになった煌姫と巡り会わされたので、彼女が何者なのかいまいちわからなくてとまどってしまい、どうもぴんと来なかったのですよね。煌姫が守弥と組んで、瑠璃姫と高彬の仲を引き裂こうとした…ということを瑠璃姫に打ち明けたときも、「これって煌姫の作り話では?」という、とんちんかんなことを思ってしまったのでした。

 でも今回は、煌姫と守弥の陰謀の場面を『ジャパネスク・アンコール!』ですでに読んでいますから、「そうそう、そうだったのよね~」という感じでうなずきながら読んでいました。そして、「私はまだ、高彬さまと契ることをあきらめていませんのよ。」と言いたげな煌姫のリアリストぶりがひしひしと伝わってきました。

 それにしても登場人物が個性的ですよね~。そこが、この小説の魅力なのでしょう。まず、主人公の瑠璃姫が風変わりですし…。でも明るくてまっすぐで、曲がったことが大嫌いなところはやっぱり大好きです。あんな風にまっすぐに生きられたら本当に良いでしょうね。瑠璃姫の腹心の侍女の小萩の忠誠ぶりには感動しますし、煌姫はリアリストだけど本当はすごく優しい性格の女性だということもしっかりと書かれていてすっかり感情移入してしまいました。

 あ、そうそう、4年前にはほとんど注目しなかったのですが、今回再読してみて印象に残ったのは由良姫です。あのまじめな高彬の妹かと思うくらい、情熱的な姫ですね~。入内を嫌がって家出したり、突然髪を切ってしまったり…。由良姫が傷心したままで物語は終わってしまいましたけれど、瑠璃姫の弟の融と結ばれると良いなと、個人的に思ったりしました。

 それと、「源氏物語」を連想する登場人物も何人かいました。落ちぶれた宮家の姫、煌姫は、末摘花を連想してしまいます。でも、性格や行動は末摘花とは全く違いますが…。
 また、後見のない桐壷女御は、光源氏の母、桐壷更衣を連想してしまいます。そういえば桐壷という殿舎は、帝が還御している清涼殿から一番離れているとか…。なので、あまり実家の権勢が強くない后妃が入る殿舎だったのかもしれません。そのあたり、調べてないのではっきりわからないのですが…。機会があったら調べてみますね。

 …というように、今まで女性の登場人物のことばかり書いていたのですが、男性の登場人物も負けず劣らず魅力的です。

 危うく殺されそうになった瑠璃姫の前に、馬に乗って白馬の王子様さながらにグッドタイミングで現れた鷹男、頭が良く、策略を巡らそうとするけれどなぜか抜けている守弥、何事にも動じず、愛する人のためなら命を賭けてくれそうな帥の宮、みんな素敵ですけれど、やっぱり高彬が一番好きです。というか、今回再読してみて、ほれ直しました。

  吉野君を逃がそうとして馬に乗って飛び出したものの落馬をしてしまった瑠璃姫に向かって、「もう気はすんだかい?」と言ってみたり、吉野君のことを忘れられない瑠璃姫を責めるのではなく、優しく包み込むところなどは本当に「いい男だなあ」と思いました。「僕で我慢しなよ。」にはしびれます。

 そして物語の最後の方での見事な活躍…。このことに関しては、山内直実さんのコミック版がまだ別冊「花とゆめ」にて連載中なので、原作小説を読んでいない方のために詳しいことは書きませんが、本当に瑠璃姫のことが好きなのだなと思いました。瑠璃姫が都にいてはまた、いろいろなことに首をつっこんでややこしいことに巻き込まれてしまうので、さりげなく鳥羽の鴛鴦殿に逃がしてしまうあたりにも、瑠璃姫に対する愛情を感じます。瑠璃姫が、「私はやっぱり高彬が好き!」と実感するところも感動的でした。

 さて、『なんて素敵にジャパネスク』は、帥の宮事件が決着するところで終わっています。でも、吉野君がどうなったのかとか、融の恋野行方とか、まだかたがついていないことも結構あるのですよね。それで、続きを読んでみたいなあという気持ちはあります。しかし、今回再読してみて、「やっぱりこの小説はここで完結しているのでは?」という印象を受けました。そして、あとは自由に想像すればいいかなと…。上でもちょっと書いたように、融と由良姫が結ばれるとか、高彬と瑠璃の娘が鷹男と承香殿女御との間に生まれた皇子に入内するとか…。そんなことを考えると楽しくなってきます。

 とにかく、少女小説だからといって馬鹿にできないくらい、恋愛あり、ミステリーあり、陰謀ありの変化に富んだ、はらはらどきどきの物語でした。楽しませて下さった、作者の氷室冴子さんに感謝です。

 ところで、こういった面白い小説を読んだあとに読む本って、何を読もうかすごく迷うのですが…、幸い、「なんて素敵にジャパネスク」のあとに読み始めた本もなかなか面白くて、読書に夢中になっています。鎌倉時代の休廷を舞台にした杉本苑子さん著の『新とはずがたり』という小説なのですが、こちらは読み終わりましたら「図書室3」の方で紹介したいと思っています。

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藤原高光とその子孫たち

2007-03-08 01:26:31 | 系譜あれこれ
 今回は、以前「こちら」の記事で少し紹介したことのある藤原為光の同母兄に当たる藤原高光と、その子孫のお話です。この高光、ちょっと異色の人生を歩んだ人でもあり、子孫も思いがけないところとつながっていますので、私なりにまとめてみることにしました。

 では最初に、藤原高光の生涯について紹介しますね。

☆藤原高光(939~994)
 右大臣藤原師輔の八男。母は雅子内親王(醍醐天皇皇女)。同母弟妹に為光、天台座主尋禅、源高明室となった愛宮、異母兄弟姉妹に伊尹・兼通・兼家・公季・村上天皇皇后の安子などがいます。

 高光は、童名を「まちおさ君」といい、父師輔に大変可愛がられたと伝えられています。(『栄花物語』)。

 天暦九年(955)に叙爵。侍従、左衛門佐、右近衛少将、備後権介等を歴任します。また、文才・歌才に優れ、村上天皇を感嘆させたり、天徳内裏歌合わせに出詠したりしています。

 このように順調に出世していたのですが、高光は応和元年(961)十二月に突然、出家をしてしまいます。(出家当時の官位は従五位上右近衛少将)
 彼の出家の原因については、その前年に、かわいがってくれた父師輔が薨去したためであるとか、藤原氏の政治姿勢、特に長兄伊尹のふるまいに飽き足らなかったなど、色々諸説があるようですが、はっきりした理由はよくわかりません。しかし高光は、紅葉が散るのが哀しいといった歌を詠むなど、早くから世の無常を感じ、出家願望もあったようです。

 高光は比叡山横川において出家をし、法名を「如覚」と号したのですが、翌年多武峯に移ります。これは、世俗化した叡山を離れ、俗化されていない天台の新天地を求めてのことであり、しかも、祖廟が祀られる地であったとの理由によると考えられます。彼が本気になって仏教を極めようとした意気込みが感じられます。彼は多武峯にて厳しい修行を行い、承暦五年に世を去りました。

 高光は歌人としても知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。家集に「高光集」もあり、『拾遺』以下の勅撰集に二十数首入集しています。

 ところで、高光について書かれたものに「多武峯少将物語」があるのですが、これは、出家をして比叡山に入った彼が多武峯に移るまでと、その周囲の人たちの心情を綴ったものです。
 高光は、叔父である藤原師氏の女、つまりいとこに当たる女性を妻にしていました。師氏は、他の兄弟(実頼・師輔・師尹)と違ってあまり政治的な野心がなく、従って娘を入内させるのではなく、「気心の知れた高光殿と幸せな人生を送って欲しい」と願い、愛娘と高光を結婚させたのかもしれません。しかし、高光の出家でその願いは打ち砕かれてしまったのですが…。

 「多武峯少将物語」によると、高光が出家したことによって妻が嘆き悲しみ、「私も出家したい」と思うものの、高光殿と同じ山に入れるわけではないので泣く泣く断念する様子や、高光と妻の長歌の贈答なども綴られています。
 また、二人の間には、当時2、3歳くらいのかわいい盛りの娘もいました。高光と妻の贈答歌には、幼い娘を思いやる心情も綴られています。
 このように、「私が出家をしてしまったら、一人残されたこの子はどうなるのかしら?」と思ったことも、妻が出家を断念した理由だったのかもしれません。

 それでは、この高光の娘はその後どうなったのでしょうか?

 彼女は長じて村上天皇の皇子、昭平親王と結婚します。

 昭平親王(954~1013)村上天皇第九皇子。母は左大臣藤原在衡女。
 彼は天徳四年(960)、七歳の時に臣籍に降下し、源姓を賜ります。しかし、右兵衛督を勤めていた貞元二年(977)、左大臣源兼明(醍醐天皇皇子)とともに親王に復帰するのです。親王復帰というと一見優遇措置に見えますが、ある程度出世した右兵衛督から実権のない四品の親王へ……、これは官界追放に等しいものでした。
 昭平親王と高光女がいつ結婚したかは不明ですが、多分、彼が親王に復帰する以前のことだったのではないかと思います。
 その後、昭平親王は常陸太守を勤めるのですが、永観二年(984)に三井寺に入って出家をしてしまいます。そして、彼が出家したとき、高光女はまだ二十代半ばであり彼女の手許には娘が一人残されました。まるで、かつての母と全く同じ運命を歩むことになってしまった事実を、高光女はどのように受け止めていたのでしょうか。

 こうなってみると、昭平親王と高光女の間に生まれた娘のことも気になります。

 この娘はその後、どういう事情かは定かではないのですが藤原道兼の養女となり、承暦元年(990)十二月二十五日に藤原公任と結婚することとなるのです。(『小右記』)

 藤原公任(966~1041) 父は関白太政大臣藤原頼忠、母は代明親王女厳子女王。四納言の一人。有能で多才な官人でした。歌人・歌学者としても有名です。

 昭平親王女は、公任との間に藤原定頼(995~1045)・後に藤原道長の子息教通室となる女・他、数人の子をもうけました。

 つまり、今まで長々と述べてきた系譜を簡単に書きますと、
高光→高光女(昭平親王の妻)→昭平親王女(藤原公任の妻)→定頼 となります。
 そうです、和泉式部の娘小式部の「大江山」の歌でやりこめられてしまった歌人の定頼さん、高光さんの曾孫だったのですね。このようなところが、女系の系譜の面白いところです。。
 定頼は父の公任さんから和歌の才能を受け継いだと思っていたのですが、母方の高光さんを通じてもしっかり、歌才のDNAを受け継いでいるわけです。実際、昭平親王女も歌の才があったらしく、勅撰集に四首入集しているそうです。

 一方、藤原教通に嫁いだ定頼の娘は、教通との間に信長(後の太政大臣)・歓子(後冷泉天皇皇后 小野皇太后)・生子(後朱雀天皇女御)といった子女をもうけています。これら教通の子供たちも、高光の子孫というわけです。

 さて、こうして高光の血を公任の子供たちに伝えた昭平親王女の晩年ですが…。
 彼女がいつ亡くなったかについてははっきりしないのですが、晩年は子供たちの何人かに先立たれ、尼になってしまったようです。万寿三年(1026)、夫の公任が解脱寺にて出家していますので、彼女もそれに殉じたのかもしれません。
 彼女は多分、先立たれた子供たちや、不遇だった父、若くして夫に出家されてしまった母や祖母、そして、右近衛少将という将来を保証されている身分を捨てて多武峯に入ってしまった祖父の菩提を弔うことも日課にしていたのでしょう。出家後の彼女が心安らかであったことを祈りたいです。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『王朝千年記  ー王朝日誌九九〇年代』 槙野廣造 思文閣出版

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その時歴史が動いた 黒田如水特集

2007-03-02 16:08:53 | 歴史雑記帳
 2月28日午後10時からのNHK「その時歴史が動いた」は、私の大好きな武将、黒田如水が特集されました。「これは見るしかない!」と思い、テレビの前に座って 43分間、しっかり観ました。せっかくなのでちょこっとレポートしますね。

 番組のタイトルは、「天下は我が掌中にあり~黒田如水・もうひとつの関ヶ原~」 関ヶ原第三の男の秘策[というもので、主に関ヶ原合戦当時の如水の動向が取り上げられていました。そして、「その時」は慶長五年十一月十二日、この日は家康から如水に停戦命令が出た日…とのことでした。

 しかし、黒田如水に関しては、やはり秀吉の軍師として天下統一に貢献した話をなくして語れませんので、番組でもまず、如水の若い頃の話から始められていました。播磨平定、中国大変えし、九州平定、そして、その才気ゆえに秀吉からうとまれ、自ら隠居する話など、私も、うんうんとうなずきながら観ていました。

 やがて秀吉が薨去し、天下は再び乱れ始めます。大名たちは、石田三成を中心とする派閥と、徳川家康を中心とする派閥に分かれて対立するようになります。そんな中、如水は大いなる野望を抱くことになるのです。如水は今まで、自分の才能を他人のために使って「きました。でも、三成と家康が対立するこの時期に及んで、「今まで他人のために使ってきた才能を自分のために使ってみよう。」つまり、「三成と家康が争っている間に謀略を用いて天下を取ってしまおう」と考えたわけです。

 このことについては当ブログ内の「こちら」の記事でも触れましたので詳しいことは省略しますが、結果的には失敗に終わります。如水は、三成と家康の合戦は半年以上続く…と思っていたようですが、その意に反し、関ヶ原合戦は一日で終結してしまいます。

 ところで、私は今まで、「如水は関ヶ原合戦での家康勝利の知らせを受け取った時点で軍を解散し、天下を取ることをあきらめた」と思っていました。でも、今回の番組を観たところ、そうではなかったようですね。
 如水は関ヶ原合戦のあとも、「家康に味方する」という名目で、九州の石田方の城を攻略していたのだそうです。如水の息子、長政は家康軍に従って出陣していましたので、「家康に味方して石田方の城を攻略する」という、如水の名目は成り立つわけですよね。如水はわずか2ヶ月足らずで九州の大半を切り取り、残るは島津だけとなります。そして、島津攻略に出発しようとしたとき届いたのが、最初の方で書いた、家康からの停戦命令だったのでした。そこで、如水は仕方なく軍を解散したのでした。

 つまり家康は、如水の計画に気がついていたと言えそうです。しかし如水は、家康に「野心のない」ことを示したため、黒田家は筑前五十二万石をもらうことができたのでした。

 それにしてもわずか2ヶ月で九州の大半を切り取ってしまった如水はやっぱりすごい。もし、三成と家康の戦いが半年以上続いていたら、如水は大軍を率いて山陽道を上り、本当に天下を取ってしまったかもしれません。でも実際はそのようにならず、小早川秀秋の裏切りによって、関ヶ原合戦はあっけなく決着がついてしまいました。しかも秀秋を諜略したのは如水の息子の長政だったというのですから皮肉なものです。

 番組でも、「家康殿から握手をしてもらった」と喜んで話す長政に向かい、如水は「その時家康殿と握手した手は右手か、左手か」と聞き、「右手でした」と答えた長政に対して、
「その時、そちの左手は何をしていたのじゃ。」
と言ったという、有名なエピソードも紹介されていました。天下はきっぱりとあきらめて隠居に戻った如水でしたが、絶好のチャンスを逃してしまったことは、やはり悔しかったのでしょうね。

 その他、色々なエピソードが紹介されていましたが、「さすが如水」と思ったのはラストの方で紹介されていた次のエピソードです。

 最晩年、病の床についた如水は家臣たちのことを口汚くののしるようになります。「そんなにののしらなくても…」と言う長政に対し如水は、
「早くそちの時代になるよう、わしは嫌われた方がよいのじゃ」
と、こっそり言ったそうです。自分が死んだあとの次の代の黒田家のことをしっかり考えているあたり、やっぱりすごい。

 というわけで、番組を観て、如水のことがもっと好きになりました。「播磨灘物語(司馬遼太郎)」「小説 黒田如水(童門冬二)」などの如水の生涯を描いた小説、それから番組のゲストで出演されていた安部龍太郎さんの、関ヶ原前後の如水を描いた「風の如く 水の如く」もまた読み返してみたいです。

 ところで、「いつか如水を大河ドラマで取り上げて欲しいなあ。」と言う私に対してだんなさんは、
「黒田如水は有名ではないし、戦国時代に中心になって活躍していたわけではないから無理だ。」
と言いました。それで私は、
「そんなことを言ったら山本勘助だって同じじゃないかな。あの人だって武田家の軍師だから、天下の表に出て活躍はしていないでしょう?それなのに大河ドラマになったじゃないの。」
「勘助は武田家と一体だ。だから信玄というとすぐに勘助が連想される。でも、秀吉と言って黒田如水を連想する人はあまりいないんじゃないかな。それに、最後に天下を取ろうとしたようだけど結局は失敗している。こういう武将はドラマの主人公としてはあまり魅力がないな。

 言われてみればそうかも…。でも、如水を主人公にした小説はわりと多いし、何よりも彼が生きた戦国時代後期は人気のある時代だし…。平安大河よりは可能性があるかもしれません。気長に待っていようと思います。

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