平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

twitterを始めました

2011-03-24 22:06:37 | お知らせ・ブログ更新情報
 遅ればせながら私も、twitterを始めましたのでお知らせします。

 パソコンからはこちらから。

 携帯からは、こちらから。

 前から少し興味を持っていたのですが、mixiにもボイスという似たような機能があり、「私はそれだけでいいかな?」と思っていました。実は、昨年11月の京都旅行の時も、ボイスで旅行先から何回かつぶやいていました。ただ、mixiに入っていらっしゃらない方に読んで頂けないのが心苦しかったですが…。

 それで今回、思い切って踏み切った理由の1つが、東日本大震災です。

 mixiの友人に、宮城県在住の方がいらっしゃいます。幸い、その方はご家族も含めて怪我もなく無事で、家も大丈夫だったそうで、本当に良かったと思っています。

 ところが、ライフラインが1週間も止まってしまったとか。そんな中、情報がほとんど入らない中、役に立ったのがtwitterだったそうです。多分、携帯電話から見ていたのだと思います。そのような話を聞き、私も、緊急時のためにtwitterを始めた方がいいと思ったのでした。

 それから、最近、ネット友達の中にも、twitterで精力的に活動されている方が増えてきたことも、始めた理由の1つです。

 と言うわけで、昨日、アカウントを作って私もtwitterにデビューしました。
 それで、携帯電話からなら何とか、閲覧やフォロー・返信が出来るようになりました。

 パソコンからは……、私のパソコンやブラウザが旧式のせいか、使えない機能もあってかなり苦戦しています。でも幸い、つぶやきは投稿出来るので、何とかなっているという感じです。

 と言うわけで、これから時々つぶやいていきたいと思いますし、色々なページをフォローして情報も仕入れていきたいです。もしよろしければ、私のtwitterのページ、時々のぞいてみて下さいね。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

福王子神社 ~京都3日物語12

2011-03-21 12:26:10 | 旅の記録
 法金剛院をあとにしてタクシーで約5分くらいだったでしょうか。次の目的地、班子女王ゆかりの福王子神社に到着です。

 福王子神社は、伝承によれば、前身は深川神社でしたが、応仁の乱で焼失し、その後寛永二十一年(1644)に社殿を造営し、班子女王の陵墓が付近にあったことから彼女を祀り、福王子神社となったそうです。また、この神社は、東の方角にある仁和寺をおまもりする神社とも言われています

 私は2006年に、班子女王の一人語りという形式で、「班子女王 ~宇多天皇の母」という、かなり妄想に走った人物伝を書きました。
 実はこの記事、あとで考えてみると、書いているうちに「何かの力で書かせて頂いている」という気持ちになり、すらすらと筆が運んだような気がしているのです。そのため、私にしては短期間で下書きを書くことができました。もしかすると記事を書いている間、班子女王さまが後押しをして下さっていたのかもしれません。
 なので福王子神社は、そのお礼をさせて頂こうと、いつか訪れてみたかった神社でした。やっと来ることができて嬉しかったです。

 まず、20段くらいの石段を登り、神社の中に入ってみました。

 そして、最初に飛び込んできたのがこちらの石碑。

 

 石碑には、「班子皇后」の文字が見えます。

 石碑から本殿を眺めてみました。

 

 そして本殿にて、班子女王さまに手を合わせました。充実した記事を書かせて下さって、本当にありがとうございました。

 

 福王子神社も法金剛院と同じく、私たちの貸し切り状態でした。でもなぜか、明るくて華やかな気分が漂っているように見えました。やはり、班子女王の明るくてユーモラスな性格が、今でもこの神社を華やかに彩っているのかもしれませんね。

 では、班子女王の略歴をまとめておきます。

班子女王 なかこじよおう(?~900) 
*生年には、833年説、853年説などがある。

 父は仲野親王(桓武天皇皇子。)、母は当麻氏)

後に光孝天皇となる時康親王の後宮に入り、源定省(後の宇多天皇)、是忠親王、是貞親王、綏子内親王、為子内親王など、多くの子女をもうけました。親王の邸宅は小松殿(大炊御門北、町東)と呼ばれ、女王は毎日のように買い物や仏詣でに出向いた逸話が伝えられています。

 仁和三年(887)正月従二位に叙され、同年十一月、当時臣籍に降下していた源定省が急遽宇多天皇として即位すると皇太夫人となります。

 寛平九年(897)七月、皇孫の醍醐天皇の即位に際して皇太后となりました。

 昌泰三年(900)四月一日、崩御。山城国葛野郡所在の頭陀寺辺(現鳴滝辺)に葬られました。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る


あれから1年

2011-03-18 10:38:47 | 猫のお部屋
 我が家の愛猫、エリカが旅立ってから、今日でちょうど1年になりました。
 今でも、エリカのかわいらしい姿は、はっきりと思い出すことができます。たくさんの思い出と愛情をいっぱいくれたエリカのことは、ずっと忘れないと思います。

 あれから1年、寂しくないと言ったら嘘になります。「エリカがいてくれたらいいなあ」と思うこと、「もう少し早く、病院に連れて行ってあげていたら…」と思うことも多々あります。それでも、エリカという、頭が良くてかわいらしい猫ちゃんと、15年近く、一緒に暮らせたのは幸せだったと思いますし、エリカのことを考えていやされることもよくあります。

 それと今、私をいやしてくれるのは、エリカの遺灰がおいてある仏壇の横にあるキティちゃんのぬいぐるみです。エリカとキティちゃん、白くて目がくりくりしているところ、本当によく似ているのです。なので、キティちゃんのぬいぐるみがエリカに見えることがよくあり、そのたびになでなでしています。
きっとエリカは時々降りてきて、私たちを見守っていると同時に、こんなに自分と似たぬいぐるみの中に入るなど、お茶目なことをやってくれているのかな?なんて、思ったりします。

 さて、昨年のエリカの誕生日の日、私は、「エリカ、15歳の誕生日に寄せて」という記事をUPしました。
 そして、その記事の最後に、エリカが旅立った前後、私の周りでは不思議なことが起きた」と書きました。そのことについてはまた改めて記事を書きますと書いておきながら、ずっと書けないでいました。エリカが旅立ってちょうど1年になる今日、そのことを記したいと思います。

 昨年の3月18日、エリカは病院に行った頃からほとんど危篤状態でした。それでも、家に帰ったあと、必死に私たちにすり寄ろうとしていたのです。3回ほど痙攣も起こしました。見ていて辛かったです。

 エリカには、私とだんなさん、それにだんなさんのお母さんが付き添っていました。それで、亡くなる1時間半くらい前だったでしょうか。お母さんが突然、「あれ、エリカちゃん、涙を流しているよ」と言ったのです。だんなさんも、「本当だ」と驚いていました。私は視力が弱いので、そこまでは見えませんでしたが。

 だんなさんもお母さんも、「猫が涙を流すなんて見たことがない」と言っていました。私は、mixiの猫のコミュで、「うちの猫は、亡くなる前に涙を流しました。」という書き込みを見たことがあったのですが、まさかエリカが、涙を流すとは考えもしなかったので、やはり驚きました。
 だんなさんの話では、エリカの目は、涙でうるんでいたそうです。
 エリカのあの涙はいったい、何を訴えたかったのか、今でもよくわかりません。お母さんは、「きっとお別れとお礼が言いたかったんだね」と言っていましたが…。
 もしかしたら、「もっと生き体よ」と泣いていたのかもしれません。もしそうだったとしたら、もっと早く病院に連れて行かなくて、エリカに申し訳なかったと思いますが…。

 でも、よく考えると、あの涙は、エリカの色々な思いが込められていたかもしれません。「ありがとう、」「さようなら」「もっと一緒にいたい」という…。あの涙を思い出すたび、少し辛くなりますが、エリカは頭が良かったから、人間みたいに涙を流したのかな…と、今では思ったりしています。

 エリカが亡くなる前、不思議なことはまだありました。
 ただ、これは単なる偶然だったかもしれませんが…。エリカが旅立とうとしているそのとき、テレビでは巨人ー中日のオープン戦が放映されていたのです。地元、静岡球場でのオープン戦だったので、地元の放送局が中継をしていたのです。

 実は、エリカは巨人ファンでした。
 私はこちらにも何回も書いていますように中日ファン、だんなさんはヤクルトファンで、私たちは二人とも、巨人が負けると嬉しいというアンチ巨人。なので私たちはよくエリカに、「巨人ファンなんてやめな」と言っていたのですが、どうもエリカは、巨人の選手のバッターボックスを真剣に見ているような所がありました。しかも、エリカに見つめられた選手はよく、ヒットやホームランを打ったのです。信じられない話かもしれませんが…。

 エリカが6歳の2001年、だんなさんが応援しているヤクルトにマジックが出ました。マジック1まではすんなり行ったのですが、そのあと、ヤクルトはなかなか勝てませんでした。その勝てない時期の試合相手が巨人でした。

 そんな時、私たちは、2階のテレビでヤクルトー巨人を観戦していましたが、そこにエリカが「ニャー」と言って入ってきました。バッターボックスには巨人の選手が立っています。エリカはその選手をじっと見つめています。何かいやな予感…と思ったら、その選手はホームランを打ち、たちまちヤクルトを逆転してしまいました。

 そして次の日、私たちはやはり2階のテレビでヤクルトー巨人を観戦していました。そんなとき、昨日と同じようにエリカの鳴き声がしたので、「だめ、あんたが入ってくると巨人が逆転するから」と言って閉め出してしまいました。
 するとエリカは、入り口の戸をかじって鳴き始めました。あまり鳴くので、「まあ、二日連続はないよね」と思って入れてあげることにしました。
 そして、戸を開けてエリカを部屋に入れてあげたとたん、何と、バッターボックスに立っていた巨人の選手がホームランを打ったのです。記憶が定かではないのですが、このときは同点ホームランだったと思います。エリカは、まるで勝ち誇ったように大きな声で「ギャー!」と泣きました。だんなさんは「だめだこりゃ」とあきれていました。もちろん、この日もヤクルトの優勝はお預けでした。

*2試合とも、私の記憶だけで書いていますので、実際はホームランではなく、ヒットだったかもしれません。でも、エリカが2試合とも巨人を応援し、ヤクルトの優勝を引き延ばしたことは確かなことです。

 結局ヤクルトは、エリカが階下の押入に入ったまま、出てこなかった日に優勝しました。

 このようなことは1度や二度ではありません。

 その上、私にとってはちょっと都合が悪いことに…、エリカは優勝を引き延ばしたくせに、ヤクルトをそんなに嫌っている様子がなかったのですが、中日は本当に嫌いなようでした。なので、中日ーヤクルトの時は明らかにヤクルトを応援していました。

 エリカが中日を嫌っていたということがわかる例をいくつか挙げてみますと…。

 1999年に中日がリーグ優勝したとき、私は嬉しくてたまらず、そばにいたエリカを膝の上に載せて、一緒に喜ぼうと思ったのですが、エリカはものすごく嫌がったので、びっくりしました。

 2000年だったと思いますが、巨人が中日戦でサヨナラ勝ちをし、リーグ優勝を決めたことがありましたが、確かエリカはその時、部屋で私たちと一緒にテレビを見ていました。私は悔しくてたまらなかったのに、エリカは嬉しそうにしっぽを振りながらニャーニャー鳴いていました。
 また、私が、「えりか、中日ファンになって」と言うと、怒ったような声を出すことが多かったです。

 なのでこの日に、エリカが最も巨人を応援したくなる巨人ー中日のオープン戦が放映されていたことが、私には偶然とは思えないのです。エリカにとっては大好きな巨人の試合を見ながら、旅立っていけるなんて…。これは功徳としか思えませんでした。

 不思議なことは次の日にも起こりました。
 朝、エリカを寝かせてある布団の前を通ったとき、私にはエリカの声が聞こえたのです。「ニャー」という、かわいらしい声でした。

 エリカは、亡くなる1時間くらい前に痙攣を起こしたのですが、それ以後は痙攣を起こしませんでした。私も座っているのが辛くなったので、「エリカちゃん、ちょっと休ませてね」と言い、エリカを撫で撫でし、そばで横になったのです。エリカはまだ、かすかに息をしていました。その時、だんなさんもお母さんも用事で部屋にいませんでした。
 間もなく、だんなさんが部屋に戻ってきました。そして、10分くらい経ったでしょうか。エリカがあまりにも静かなので、だんなさんがエリカのそばに寄ってみたところ、息をしていないことに気がついたのです。本当に、静かな最期でした。

 なので私の耳に聞こえたエリカの声も、静かで優しい声だったのかもしれません。「心配しないで」と言ってくれているようでした。苦しんでいるような声でなくて本当に良かった…。

 不思議なことは、その次の日、つまり20日にもありました。その話をするには、時間をエリカが旅立った日の午前中の動物病院に戻さなくてはなりません。

 この記事の最初の方でも触れた「エリカ、15歳の誕生日に寄せて」でも書きましたが、その日、病院での治療の時、「この子は、週を越せるかわかりません」と先生から言われました。覚悟はしていましたが、辛かったです。

 私たちはキャリーバックに入ったエリカを連れて待合室に戻ったのですが、いつ、何があってもいいように、食料を買っておこうということになりました。それでだんなさんに、病院から歩いて2~3分くらいの所にあるスーパーでの買い物をお願いしたのです。その間、私はエリカと一緒に、待合室で待つことにしました。

 だんなさんがスーパーに行ったあと、それと入れ違いに、年配の女性の方が猫用キャリーバックを持って入ってきました。そして、私の横に座ったのです。
 こんな時、いつもなら猫好き同士、会話がはずみます。その方も普通に、私に話しかけてきました。そしてキャリーバックの中のエリカを見て、「かわいい猫ちゃんだね」と言って下さったのです。

 実はエリカは、みんなから「かわいい」と言われるのが大好きでした。

 エリカがまだほんの子猫の頃から、動物病院に連れて行くと、誰かが必ず、「かわいい猫」と言って下さいました。そうするとエリカは、「ニャー」と言って愛嬌を振りまきました。するとみんな、「本当にかわいいね」と言って下さいます。飼い主にとっては、こんなに嬉しいことはありませんでした。

 そういえばつい1ヶ月前も、そんなことがあったのを思いだしました。暖かい日だったので、病院から家まで、エリカをキャリーバッグに入れて歩いて帰ったのです。そうしたら、道ですれ違った人に、「かわいい猫ちゃんがいる~」と言われました。
 するとエリカは、キャリーバッグの中で嬉しそうに「ニャー」と泣いて動き回っていました。キャリーバッグの中からでも愛嬌を振りまくなんて、本当に不思議な猫です。

 しかし、この日のエリカはもちろん、愛嬌を振りまく元気はありませんでした。そうしたら、急に悲しくなって、涙があふれてきました。
 隣に座られた女性は、これには驚いたらしく、「どうしたの」と尋ねてきました。
「病気で…、もう…、週を越せるかどうかも…わからないそうなのです。」
 私はしゃくり上げながら、それだけやっと言いました。そして、あとから、あとから涙があふれてきました。
「わかるよ。私も猫と別れたからね。でも、誰もが通る道だから、そんなに哀しまないで」
 その方はそう言って、私の背中を撫でて下さいました。そのうちにやっと私も落ち着いて、色々話せるようになりました。

 その方の連れていた猫ちゃんは、前の猫ちゃんが21歳で旅立ってから1年後に、家に迷い込んできたのだそうです。でも、猫エイズにかかっていて、この先、どうなるかわからないとか。ペットを飼っている以上、病気や死は、避けられないのだと思いました。

 エリカは、その日の午後に旅立ちました。そして、2日後に、私たちはエリカを市の斎場に連れて行きました。その時のことは、こちらの日記に書いてあります。

 それで、斎場に行ったあと、その足で動物病院に向かいました。お世話になった獣医の先生に一言、お礼を言いたかったのです。その後、近くのスーパーに買い物に行きました。
 スーパーの入り口で、誰かから声をかけられました。なんと、エリカが旅だった日の動物病院で、私を慰めて下さった女性だったのです。これも、エリカが引き合わせてくれたとしか思えませんでした。それで私は、あの日にエリカが旅立ってしまったこと、エリカはいなくなってしまったけれど、元気に頑張るからと話して、お別れしました。

 エリカがいなくなってしまって1年、私は元気で頑張れたのかな?と考えると、やはりちょっと首を傾げてしまいます。ペットロスにもなりましたし、エリカのことを考えて寂しくなり、涙を流したこともたびたびです。
 でも最近、エリカのことをだんなさんと笑って話せるようになってきました。そして会話の最後に言う言葉は、「本当にかわいくて、頭が良くて、面白くて、不思議な猫だったね」です。

 向こうに行って1年、エリカもきっと友達ができて、楽しくやっているだろうなあと思います。エリカはかわいいから、きっとみんなにかわいがられているだろうなとも…。

 いつか私も、エリカの所に行ったとき、「ママは精一杯生きたんだよ」と、エリカに話せるように、頑張っていこうと思います。
 そして最後に一言。ありがとう、エリカちゃん!

☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

無事でいます

2011-03-16 10:34:35 | えりかの平安な日々 10~18
 毎日、地震の話ばかりで恐縮なのですが…。

 私の住む静岡県内でも夕べ、地震が起こってしまいました。震源地近くの県東部地方では怪我をされた方がいらっしゃるとのことですが、中部地方に住む私は怪我もなく、無事です。

 私の住んでいる市は、最初、震度4と発表されたようですが、実際は震度3くらいだったそうです。確かに、11日の地震(震度4だったそうです)に比べたら、揺れも小さく、時間も短かったです。でも、やっぱり怖かったです。

 それで、今日はだんなさんの病院の日なので、一人で家にいるのは怖いから、最初、ついて行こうと思っていたのです。
 でも、夕べの本震以来、こちらでは余震もないし、気象庁の発表では、東海地震との関連はないとのこと。
 確かに、このあたりは観測網もしっかりしていますし、一昨年のあの大きな地震も、その時の気象庁の発表通り、余震は5日くらいでおさまりましたし、あのあと、特に何ともなかったのですから、今回も大丈夫そうだと判断し、家にいることにしました。やらなければならない家事もありますからね…。でも、何かあったときのために、大きな鍋に水を入れてあります。

 そんなわけで、夕べは不安であまりよく眠れませんでした。今日も、まだまだ不安はあります。それでも昨日、日記に書いたように、こちらは東京電力の計画停電のエリア外ということもあり、ネットをやったり本を読んだりと、普通に生活しています。どうかこれ以上、地震が起こりませんように。そして、被災地の皆様が早く安心して、生活できますように…。

☆追記1

 昨日、リンク先のKuchaさんのブログ、「すいーと☆くっきー」にて、自分のブログを一度でも見て下さった方がもしかすると被災されたかもしれない。心が痛みます」というような文章を拝見し、はっとしました。

 確かに、掲示板への書き込みはなくても、こちらを一度でもご覧下さった方が、被災されたかもしれません。
 更に言えば、広いネットの世界、過去にやりとりしたことがある方が、被災されているかもしれないと思い、心が痛みました。常連さんだけでなく、それらの方々のご無事も、心よりお祈りしています。

☆追記2

 旅行記や歴史関連ではないのですが、かなり長文の記事を1本、下書きしました。アクシデントがない限り、18日にUPする予定です。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

私が今できること

2011-03-15 10:29:57 | えりかの平安な日々 10~18
 今回の地震、時間が経つにつれ、被害の状況が明らかになり、その大きさにただ驚くばかりです。そのたびに、自分に今、何ができるのかを考えてしまいます。

 私の住む静岡県中部地方は、幸い余震もなく、東京電力の計画停電のエリア外(静岡県の東部は東京電力の管轄ですが、中部・西部は中部電力)なので、いつも通りの生活ができます。ただ、たまに携帯電話の緊急地震速報のベルが鳴り、びっくりしてしまいますが…。どうやら長野県で地震が発生したとき、こちらにも速報が送られてくるようです。でも、こんな事は、被害に遭われた方や不便な生活を強いられている方に比べたら、何でもないことですよね。

 私は最初、節電をして協力しようかなと思いました。しかし、東京電力と中部電力では、電気の周波数が違うので、こちらが節電しても、ほとんど役に立たないのだそうです。
 なので、他の方法で協力しようと思いました。早速、mixiの募金システムを通じて、300円、寄付させて頂きました。地元の市役所に寄付のコーナーができたら、もっと多く、寄付しようと思っています。本当に微々たる募金しかできませんが、ほんの少しでも復興の役に立って欲しいです。

 あとは、普通に生活しようと思っています。西日本在住のmixiのお友達も日記に、「普通に生活できる人は普通に生活した方がいい。そして、何かあったときのためのパワーを貯めておこう」と書いていました。なので私も毎日を楽しみます。そろそろ旅行記の下書きの12回目も準備しなくては。


☆コメントを下さる方は掲示板へお願いします。
トップページに戻る

地震

2011-03-12 15:48:07 | えりかの平安な日々 10~18
 今回の地震、被害の大きさにただ驚くばかりです。何かしてあげたいと思っても、私には募金くらいしかできなくて、心苦しいです。被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。
 そして、関東と東北にお住まいのここの常連さんが心配です。ご無事をお祈りしています。

 昨日、地震が起こった時刻、私は静岡市内のホテルの1階にあるレストランにいました。だんなさんの病院の日だったので、2時に静岡駅で待ち合わせて、こちらでランチを食べていたのです。
 それで、ランチが終わってそろそろ出ようかと思って立ち上がったとき、立ちくらみのような感覚を覚えたのです。私、こういう事が時々あるので、急いでテーブルに捕まって、おさまるのを待とうと思ったのですが、どうもおかしい。そのうちぐらっと大きく揺れ始めたので、地震だと気がついたのでした。思わず座り込んで、「怖い!!」と叫んでいました。大きく長く揺れた分、一昨年夏の地震より怖かったです。

 それで、とにかく急いで家に帰った方がいいということになり、買い物を済ませて駅に行ったところ、電車は止まっていました。仕方がないので藤枝行きのバスに乗ることにしました。藤枝は、私の住んでいる島田の隣町なので、そこまで行けば何とかなります。

 幸い、前の方に並ぶことができたので、バスの中では座席に座ることができました。でも、バスはものすごい込んでいましたし、道路も渋滞していて、普通なら藤枝まで1時間なのですが、1時間半くらいかかりました。
 藤枝からは半額のタクシー券が使えるので、タクシーで家まで帰りました。幸い、ここでもすぐにタクシーに乗ることができてラッキーでした。家に着いたときはもう真っ暗で、寒くてたまりませんでした。

 帰宅してテレビをつけたところ、震源地の東北地方だけでなく、東京でも被害が出ていることを知り、驚きました。
 また、静岡県内の海岸には大津波警報が出たとのこと、電車だけでなく、海岸線の道路も通行止めになっていることも知りました。
 私が住んでいる島田は藤枝の西隣で、海からは少し離れていますが、藤枝の東隣には焼津という市があります。ここは、海に面している上、土地も低いので、津波が心配される地域です。
 そういえば、藤枝行きのバスの運転手さんが、焼津方面に行くバスは道路が通行止めで、すべて運休していると行っていたのを思い出しました。私たちはこうして家に帰ってこられましたが、家に帰れない人たちがこの近くにもまだまだたくさんいるのだろうなと思いました。東京でも、帰宅困難者がたくさん出たとニュースで言っていましたが。

 また、津波に遭われた方、家を失った方の多さにも、言葉が出ません。これ以上、強い余震がないことを祈るばかりです。

追記
 静岡県内の海岸にはまだ、大津波警報が出されていて、今日も電車が止まっているそうです。
 また、度重なる地震で緊急地震速報のシステムがおかしくなったらしく、今朝、私の住む地域にも緊急地震警報が出たのですが、地震は起こりませんでした。今回の地震の規模の大きさを、改めて痛感しました。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

法金剛院 ~京都3日物語11

2011-03-09 22:32:10 | 旅の記録
 法金剛院のある場所は平安時代初期には清原夏野(782~837)の山荘があったのだそうです。

 清原夏野は舎人親王(天武天皇の皇子)の曾孫で右大臣にまで昇り、淳和天皇に重く用いられた人物です。その山荘は、当時としては大変立派なものであったと伝えられています。
 でも私は、法金剛院にいる間じゅう、待賢門院のことで頭がいっぱいで、清原夏野のことをすっかり忘れていました。夏野さん、ごめんなさい…。

 では、法金剛院とはどんなお寺なのか、少し書いてみますね。

 大治四年(1129)、待賢門院の養父であり恋人であり、師でもあった白河法皇が崩御します。待賢門院はその服喪中、法皇の菩提を弔うと同時に、晩年の自分の住まいを兼ねた寺院の建立を発願しました。そして、間もなくこの地に建立を始め、翌大治五年の十月には、広い池を中心にした西の阿弥陀堂と東岸の御所とが竣工し、新寺院は法金剛院と命名されました。その後も、庭園や滝などが造られ、広大な寺院になっていきます。

 そんな法金剛院を、私も拝観してみます。

 

 法金剛院は、単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、苑池を三要素とした当時流行の山荘を兼ねた寺院でした。上の写真の庭園や池は、当時の面影を残しているかもしれませんね。

 待賢門院ゆかりの物が何か残っていないかと、お寺の方に訪ねたところ、本堂の中に、彼女が拝んだと伝えられる仏像があると教えて下さいました。
 私が、待賢門院に興味を持って、静岡から訪ねてきたと話したら、とても喜んで下さいました。歴史にも詳しい方で、しばし待賢門院や、次に訪ねる予定の福王子神社の祭神となっている班子女王についての話もしました。旅先でこういう話ができる人と逢うと、嬉しくなります。

 というわけで、本堂を拝観させて頂きました。

 

 上の写真は、本堂の入り口を撮ったものです。

 私は、待賢門院のことを色々考えながら、境内を歩きました。

 待賢門院については彼女を主人公にした小説「待賢門院璋子 保元の乱前夜」の紹介をはじめ、今までも当ブログで色々書いてきましたが、今回はこちらの記事に書いた彼女の略歴を一部加筆して転載させて頂きます。

☆待賢門院藤原璋子(1101~1145)

 藤原公実女。母は藤原光子(堀河・鳥羽両天皇乳母)

 幼い頃、祇園女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で育てられました。
 15歳頃から、白河法皇とのただならぬ仲が噂されますが、永久五年(1117)、17歳の時に鳥羽天皇に入内、女御から中宮に立てられます。

 元永二年(1119)、第一皇子顕仁親王を生みますが、(「顕仁親王は白河法皇の子供だ」と噂されました。顕仁親王は5歳で踐祚、崇徳天皇となります。崇徳天皇踐祚には、白河法皇の力が働いていたと言われます。

その後、璋子は禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(のちの後白河天皇)・本仁親王(のちの覚性法親王)の6人の子女をもうけます。天治元年(1124)、女院号「待賢門院」が授けられます。この頃はまだ、鳥羽上皇とも仲むつまじかったようですし、何よりも白河法皇の強い庇護がありました。

 しかし、大治四年(1129)の白河法皇の崩御とともに、璋子の人生も暗転します。
 さらに長承三年(1134)、藤原得子(後の美福門院)が入内すると、鳥羽上皇の寵愛は得子に移り、璋子はすっかり目立たない存在となってしまいます。その上、愛する皇子皇女の何人かに先立たれたり、得子を呪詛したという疑いをかけられたりと、璋子の身の上には不幸が続きます。璋子は双丘の東麓に法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなったようです。

 康治元年(1142)、落飾。久安元年(1145)八月二十二日、兄の藤原実行の三条第(三条南、高倉東)において鳥羽法皇臨御のもとに崩じ、法金剛院の北に接した五位山の花園西陵に葬られました。

 境内は私たちの貸し切り状態でとても静かでした。そして、境内の中にも、そこから見える庭園にも、何となく寂しい雰囲気が漂っているような気がしました。やはり、晩年の待賢門院が、ここで寂しい生活を送っていたからでしょうか。

 待賢門院が拝んだと伝えられる仏像は、本堂の奥の方にありました。立派な仏像で圧倒されます。この仏像を拝むことによって、待賢門院の心が少しでも救われていたことを祈らずにはいられませんでした。

 仏像が安置されている部屋には、法金剛院に関する本が何冊か置かれていました。その中には、角田文衞先生の「待賢門院璋子の生涯」の朝日選書版がありました。私はこの本を、何年か前に古書店から箱入りの単行本で購入したのですが、この時点ではまだ未読でした。せっかく法金剛院に来たことですし、なるべく早く読まなくては…と思いながら、本堂をあとにしました。

 そして帰宅後、「待賢門院璋子の生涯」を読んでみました。
 待賢門院璋子の生涯を、当時の史料を駆使して再現した、すばらしい本でした。
 待賢門院の晩年は、確かに寂しいものでしたが、彼女は堀河・兵衛など、忠実な女房たちに囲まれ、決して一人ではなかったことがわかり、何かほっとさせられました。また、待賢門院の息子である雅仁親王(のちの後白河天皇)も母親思いで、上皇となってからも彼女の供養を行っているそうです。

 待賢門院は終生、白河法皇への尊敬と愛情を忘れなかったのでしょうね。そして、ある意味では自分を不幸に陥れた張本人かもしれませんが、彼女は法皇を愛したことに悔いがなかったのではないか…、そんな気がしました。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 『平安京散策』 角田文衞著 京都新聞社

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

京都3日目の朝 ~京都3日物語10

2011-03-08 14:23:53 | 旅の記録
 京都での最後の1日が始まりました。

 この日は7時頃起床、前日に比べるとゆっくりと支度をし、ゆっくりと朝食を食べました。朝食は、またまた洋食レストラン。私、よっぽど気に入っているのですね、こちらのホテルの洋食レストラン…。

 今朝は、付け合わせをベーコンにし、パンをロールパンにしました。ハムよりもベーコンの方がしっかり味がついていて、おいしかったです。ロールパンも良い感じ。そして、ふわふわのスクランブルエッグと甘みと酸味のほどよいトマトジュースで幸せ気分。ごちそうさまでした。

 朝食が終わると部屋に戻り、荷物の整理をしました。朝のうちにチェックアウトをしてしまうので、忘れ物がないかと、荷物を何度も確認。それから、朝食の時に少し歯が痛んだので、痛み止めもしっかり飲んで準備万端。
 こうして、二晩過ごした、1053号室ともお別れです。「白河天皇が生まれた年と同じ番号」と頭の中にたたき込んだせいか、部屋番号も忘れずにすみました。

 そして、無事にホテルをチェックアウト。でも、大きな荷物はフロントで預かってもらい、小さなショルダーバックだけ肩にかけて出発。こういうところが、駅の近くのホテルの便利なところです。

 今日もすばらしい晴天、しかも、昨日に比べると暖かくてありがたく感じました。
 ホテルを出た私たちは京都駅の山陰本線のホームに向かいました。今日は、法金剛院と福王子神社、仁和寺を訪れようと思っています。昨日ご一緒したくたくたさんに、このことをお話ししたところ、山陰本線で花園駅まで行って、まず法金剛院に行き、そのあと、福王子神社や仁和寺に行くのが楽なのではと教えて頂いたので、まず山陰本線で花園駅に向かうことにしました。

 私たちがホームに着いてから10分後に、亀岡行きの各駅停車の電車が出るところだったのでちょうど良かったです。電車の中に入ってびっくり、なんと、特急型の電車です。座席がゆったりしていて、思わずうとうとしてしまいそうでした。
 こうして電車は出発。窓から外の景色を見たりして、楽しい旅行気分を味わいました。途中、二条駅に止まったとき、そうだ、この駅の近くに、平安宮内裏の朱雀門址の石碑があるのだった…と、思い出しました。今日はちょっと無理ですが、いつか見に行ってみたいと思いました。

 間もなく電車は花園駅に到着。目的の法金剛院は駅のすぐそばと聞いていたのですが、どちらの方向に行っていいかわからなかったので、駅で道を聞いてみたところ、右の方に百メートルくらい行ったところにあると教えて頂きました。。

 それで、教えて頂いたとおり、右の方に向かって歩き出しました。でも、いくら歩いてもそれらしいものが見えてきません。そこで通りかかった人を捕まえてもう一度道を聞いてみたところ、右ではなく、左に行かなくてはいけなかったことがわかりました。

駅の人が間違ったのか、私たちが右と左を聞き間違えたのか、定かではありませんが、来た道を戻って駅前を通り過ぎ、しばらく歩くと、それらしい築地塀が見えてきました。そして、「法金剛院」と彫られた石碑を見てほっとしました。

 法金剛院は、待賢門院藤原璋子(1101~1145)ゆかりのお寺です。彼女のことは、歴史評論や小説を読んで興味を持っていたので、ずっと訪れてみたかったお寺でした。こちらで色々妄想できそうでわくわくします。
 では次回は、法金剛院を紹介することにします。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る

京都2日目の夜 ~京都3日物語9

2011-03-02 14:00:19 | 旅の記録
 風俗博物館をあとにした私たちは、細い裏通りを通って京都駅へと向かいました。風俗博物館→京都駅は何回か歩いたことがあるのですが、このような町屋風の静かな通りを歩くのは初めてでしたので新鮮でした。
 そして駅前で、ご一緒した皆様とお別れ、楽しい時間をありがとうございました。

 私とだんなさんはいったんホテルに戻り、少しくつろいでから再び外出。
 だんなさんが、「夜食にお菓子が欲しい」と言ったので、まず昨日と同じく、「紡き歌」を購入。そして、隣にあった「つばらつばら」も一緒に購入しました。
 続いてコンビニでスナック菓子を探していたら、本日、夕食をご一緒することになっているヨウダさんから、「もうすぐホテルに着きます」というメールが、私の携帯電話に入ってきたので、急いで会計をすませ、ホテルに向かいました。ヨウダさん、わざわざホテルまで迎えに来て下さることになっていたので、お待たせしては申し訳ない…と思って急いだのですが、結局お待たせしてしまうことになってしまいました。遅くなって本当に申し訳ありませんでした…。

 こうしてヨウダさんが連れて行って下さったのが、京料理のお店 かじさんです。本格的な京料理が頂けるお店だということで、楽しみにしていました。

 お店に入ると、お香の良い香りがして、気持ちが落ち着きます。階段を上がると、畳敷きの広いお部屋に、いくつかテーブルが並んでいます。私たちが案内されたのは、奥の方のテーブル、さてさて、どんなお料理が出てくるか、わくわくです。

*と、書いておきながら、こちらでも写真を撮り忘れました。こちらも、私の文章のみでの説明となります。

 まず最初に出てきたのは食前酒。甘いような苦いような味でおいしいです。何か、2008年秋の京都旅行の時に頂いた、創作平安王朝料理で出された食前酒と味が似ているような気がしました。でも私は、お酒にはとても弱いので、半分以上、残してしまいましたが…。

 続いて出されたのは前菜。野菜や魚を使った6種類ほどのお料理が、1種類ずつ小さなお皿に盛られています。昨日の夜から肉料理が続いていたので、久しぶりの魚が嬉しかったです。味付けも上品で美味。

 次に、おつくりと天ぷらが出されました。

 おつくりは、マグロやイカが盛りつけられていました。口に入れるとすべすべした感触で、とても新鮮な感じがします。
 天ぷらは、特性のたれにつけて頂きました。エビの天ぷらがすごくおいしかったです。からっと揚がっていていい感じ。だんなさんはエビが苦手なのですが、全部食べてしまったようです。よほどおいしいエビだったのでしょうね。

 続いて出された野菜の炊き合わせもとてもおいしかったです。ちょっと変わっていたのは小鉢、山芋のすり下ろしたものと豆腐が混ぜてあって、薄く味がついていました。具に、少しイクラが入っていたようです。私はイクラは苦手なのですが、おいしくてほとんど気になりませんでした。

 そして、ご飯とお吸い物と漬け物でお食事はおしまい。京都のお吸い物は、いつ食べても美味です。

 最後に食後のデザート。3種類のデザートから1つ、選ぶことになっていました。私はマスカットのシャーベットを選びました。緑色で見た目もきれいです。さっぱりと冷たくて、ほんのりと甘酸っぱくて良い感じ。ごちそうさまでした。お忙しい中、お時間を作って下さったヨウダさんにも感謝。楽しいひとときをありがとうございました。

 さて、ホテルのお部屋に戻った私たち。せっかくなので、ルームサービスを頼むことにしました。夕食にあれだけたくさん食べて、また食べるのかと、つっこまないで下さいね(笑)。と言うわけで、10時に、飲み物とミックスサンドイッチを部屋に持ってきて欲しいと頼んだのでした。それまで時間があったので、お風呂に入ったあと、携帯電話のGPSで遊んでみました。

 せっかく京都に来たので、現在地を確認してみました。その結果、私がいる京都センチュリーホテルは、東洞院通沿いにあることがわかりました。平安京の地名で言うと、左京八条三坊の東のはずれか、四坊の西のはずれということになります。
 私は今まで、京都センチュリーホテルは、平清盛の西八条第の近くだと、勝手に思っていましたが、三坊か四坊となると、八条院子内親王(1137~1211)の八条院御所に近いのでは…と思いました。

 帰宅してそのあたりのことを調べたところ、やはり八条院御所、近かったです。更に、八条院領も近くにあったことがわかりました。子内親王は、両親である鳥羽天皇と美福門院藤原得子から広大な所領を相続したのですが、京都センチュリーホテルの近くには、彼女の御所だけでなく、領地もたくさんあったのですね。新しい発見。
 子内親王は、近衛天皇が崩御したあと、女帝として皇位につくという話も出たそうですし、こちらにも書いたのですが、反平家派で、以仁王と源頼政を結びつけた女性だと、私は思っています。色々妄想できそうな人物です。今度こちらに泊まることがあったら、子内親王について、事前に色々調べておこうと思いました。

 そうこうしているうちに、私のオレンジジュース、だんなさんのコーヒー、そして、ミックスサンドイッチが部屋に運ばれてきました。
 こちらのミックスサンドイッチは、3年くらい前に食べたことがあって、とってもおいしかったのを覚えていたので、楽しみでした。ハムとチーズが挟まれたもの、野菜が挟まれた物、ツナが挟まれたものなどが載っています。おいしくて幸せ。
 サンドイッチの他、紡き歌や、コンビニで買ったスナック菓子も食べました。本当に、「こんなに食べていいのか」と思うくらい、食べてしまいました。でも、旅行中で特別な日なので、いいですよね。
 こうして、京都での2日目の夜は終わったのでした。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。
トップページに戻る