「義経」の第2回の感想です。
渡さんの清盛はやっぱりいいですね~。幼い牛若と、まるで実の親子のように睦み合っている所など、何かほのぼのと心が温まるのを感じました。そこでだんなさんが一言、「俺が清盛なら源氏の残党への融和対策の意味も含めて、牛若を鞍馬寺にやらず、養子にして抱え込む。」と言っていました。
それはともかくとして、今回、重盛が「牛若を早く何とかしてしまわなければ危険です。」と清盛に進言している場面がありましたね。それを聞いて清盛は迷っているようでしたが…。「平家物語」の清盛像と重盛像を考えると、「牛若を何とかしなければ危険だ。」と真っ先に言うのは清盛で、重盛はそれをなだめていると考えられますよね。けれど、史実の清盛と重盛は、今回の放送のような感じだったと思います。
重盛というのは現実的で理を重んじる人です。「平家物語」に描かれているような、聖人というイメージの人では絶対にないと、私は思っています。
また、宗盛の描き方(陰陽師の占いを気にするような貴族的な所など)も、史実に近いような気がしました。こうしてみると、今回の「義経」は、清盛、重盛、宗盛の描き方はかなり的を射ているように思えます。
でも、清盛の妻、時子の描き方はちょっと不満です。時子はのちに、安徳天皇を抱いて壇之浦で覚悟の入水をする女性です。また、清盛の栄華を陰で支え続けたのは、彼女と言ってもいいです。なので、あんなに意地悪でヒステリックな女性ではなかったと思うのですが…。まあ、美しい常磐御前と対比させるために、あのようなキャラクターにしてしまったのでしょうね。何か、時子さんがお気の毒なように思えます。
それから、常磐が藤原長成と再婚したのが、牛若7歳の時というのはかなり疑問を感じました。常磐が長成との間にもうけた藤原能成と、牛若との年齢差は、4歳(史料によっては3歳とも5歳とも。どちらにしても、常磐と長成の結婚が牛若7歳の時というのはおかしいのですが…)のはずですので。また、常磐が清盛との間に娘をもうけたかどうかは確証がないようです。このように「あれ?」と思った場面もいくつかありました。
さて、感想はこのくらいにして、このあとは少し私の妄想を書かせていただきます。よろしければおつき合い下さいね。
今回の放送では、幼い牛若が平家の公達と会っていたのは平盛国の邸宅ということになっていましたね。そこで、牛若が平盛国の邸宅にどのようにして行ったのかを考えてみました。
今回の放送によると、牛若が住んでいたのは七条朱雀ということになっていたようです。仮に、北に七条大路、西に朱雀大路に面した左京八条一坊一町に住んでいたことにして、話を進めさせていただきますね。
平盛国の邸宅は、左京九条四坊十三町でした。ここは、桓武天皇が造った南北約5、3㎞、東西約4、6㎞の平安京の東南のすみに当たります。
左京八条一坊一町に住んでいた牛若がここまで行くのには、何通りかの道順がありますが、仮に七条大路を東に行ったとします。大宮大路、西洞院大路、東洞院大路を横切って東へ……、すると東京極大路に出ます。ここまでは約2㎞です。そして、東京極大路を右折し南へ……、八条大路を過ぎ、やっと盛国の邸宅にたどり着くまで、さらに約1㎞です。つまり、牛若が住んでいたと思われるところから盛国の邸宅まで、約3㎞の道のりということになります。
と言うことは、子供の足で歩いていくのはちょっときついでしょうね。「従者と一緒に牛車に乗って行ったのかな」などと考えてしまいました。
☆本日メールを下さった方へ☆
メールありがとうございました。常磐御前と長成、能成について少し興味を持ったので調べてみますね。データのバックアップ方法についても、教えて下さりありがとうございました。メールの返信は週末になってしまうと思いますが、どうか気長に待っていて下さいね。
渡さんの清盛はやっぱりいいですね~。幼い牛若と、まるで実の親子のように睦み合っている所など、何かほのぼのと心が温まるのを感じました。そこでだんなさんが一言、「俺が清盛なら源氏の残党への融和対策の意味も含めて、牛若を鞍馬寺にやらず、養子にして抱え込む。」と言っていました。
それはともかくとして、今回、重盛が「牛若を早く何とかしてしまわなければ危険です。」と清盛に進言している場面がありましたね。それを聞いて清盛は迷っているようでしたが…。「平家物語」の清盛像と重盛像を考えると、「牛若を何とかしなければ危険だ。」と真っ先に言うのは清盛で、重盛はそれをなだめていると考えられますよね。けれど、史実の清盛と重盛は、今回の放送のような感じだったと思います。
重盛というのは現実的で理を重んじる人です。「平家物語」に描かれているような、聖人というイメージの人では絶対にないと、私は思っています。
また、宗盛の描き方(陰陽師の占いを気にするような貴族的な所など)も、史実に近いような気がしました。こうしてみると、今回の「義経」は、清盛、重盛、宗盛の描き方はかなり的を射ているように思えます。
でも、清盛の妻、時子の描き方はちょっと不満です。時子はのちに、安徳天皇を抱いて壇之浦で覚悟の入水をする女性です。また、清盛の栄華を陰で支え続けたのは、彼女と言ってもいいです。なので、あんなに意地悪でヒステリックな女性ではなかったと思うのですが…。まあ、美しい常磐御前と対比させるために、あのようなキャラクターにしてしまったのでしょうね。何か、時子さんがお気の毒なように思えます。
それから、常磐が藤原長成と再婚したのが、牛若7歳の時というのはかなり疑問を感じました。常磐が長成との間にもうけた藤原能成と、牛若との年齢差は、4歳(史料によっては3歳とも5歳とも。どちらにしても、常磐と長成の結婚が牛若7歳の時というのはおかしいのですが…)のはずですので。また、常磐が清盛との間に娘をもうけたかどうかは確証がないようです。このように「あれ?」と思った場面もいくつかありました。
さて、感想はこのくらいにして、このあとは少し私の妄想を書かせていただきます。よろしければおつき合い下さいね。
今回の放送では、幼い牛若が平家の公達と会っていたのは平盛国の邸宅ということになっていましたね。そこで、牛若が平盛国の邸宅にどのようにして行ったのかを考えてみました。
今回の放送によると、牛若が住んでいたのは七条朱雀ということになっていたようです。仮に、北に七条大路、西に朱雀大路に面した左京八条一坊一町に住んでいたことにして、話を進めさせていただきますね。
平盛国の邸宅は、左京九条四坊十三町でした。ここは、桓武天皇が造った南北約5、3㎞、東西約4、6㎞の平安京の東南のすみに当たります。
左京八条一坊一町に住んでいた牛若がここまで行くのには、何通りかの道順がありますが、仮に七条大路を東に行ったとします。大宮大路、西洞院大路、東洞院大路を横切って東へ……、すると東京極大路に出ます。ここまでは約2㎞です。そして、東京極大路を右折し南へ……、八条大路を過ぎ、やっと盛国の邸宅にたどり着くまで、さらに約1㎞です。つまり、牛若が住んでいたと思われるところから盛国の邸宅まで、約3㎞の道のりということになります。
と言うことは、子供の足で歩いていくのはちょっときついでしょうね。「従者と一緒に牛車に乗って行ったのかな」などと考えてしまいました。
☆本日メールを下さった方へ☆
メールありがとうございました。常磐御前と長成、能成について少し興味を持ったので調べてみますね。データのバックアップ方法についても、教えて下さりありがとうございました。メールの返信は週末になってしまうと思いますが、どうか気長に待っていて下さいね。
渡さんの清盛、素敵ですよね♪
だんな様のご意見、私も賛成です。
私も清盛だったら、牛若を養子にするなどして、抱え込んでしままうのが得策な気がします・・・。
今回の時子は、常盤の処世術をイヤラシイと思う視聴者の意見と宗盛の心情を代弁するという役割を担っていたように思います。
平盛国の邸宅へ行くのは、確かに子どもの足では大変な距離ですね~。
ご考察、興味深く拝見しました。
「義経」、来週も楽しみですね!!
特に、牛若がどのようにして平盛国の邸宅に行ったのかという「私の妄想」につき合って下さってありがとうございました。
時子さんに関しては、敵の武将に身を任せてしまった常磐を嫌らしいと思っていた部分は確かにあったかもしれませんよね。また、実の子ではない重盛より、実の子の宗盛をかわいく思うところなどは母親として当然のように思います。時子さんのイメージは、やっぱり壇之浦でのいさぎよさなのですが、こうした「女らしい部分」も確かにあったかもしれませんね。これから時子さんがどのようなキャラクターに描かれていくのかも楽しみです。来週からはいよいよタッキーが出てくるようですし、これもまた楽しみですよね。
また、時子さんに関しては、近いうちにある本を紹介しようと思っていますので、よろしければ見に来て下さいね。
牛若が7歳・・・
この先の物語への何かの伏線なのでしょうか?
牛若は3kmも離れたお屋敷に
遊びに出かけていたのですね~(^_^;)
それだけでヘトヘトになりそうですね。
当時の環境がよくわかります!!
そうですよね、往復6㎞もの道のりを歩いたら、それだけで疲れてしまいますよね~。なので、やっぱり牛車を使ったのではないかと思ってしまいます。
ただこれは、牛若が七条朱雀に住んでいたというドラマの設定から、私が勝手に妄想したにすぎません。ドラマを観てこのような妄想を展開するのも結構楽しかったです。その妄想につき合って下さり、本当にありがとうございました。これからも、このようなことを書いていくと思いますが、よろしければまた見て下さいね。では、では。