平安夢柔話

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万葉の華 ー小説 坂上郎女

2013-01-28 11:47:14 | 図書室3
 今回も、最近読んだ奈良時代を扱った歴史小説を紹介します。

☆万葉の華 ー小説 坂上郎女
 著者=三枝和子 発行=読売新聞社

☆内容
 朝廷の権力争いの渦中で、家刀自(女あるじ)として大伴家を支えた旅人の異母妹。万葉集の編集に情熱を燃やした美貌の歌姫の波乱の物語。書き下ろし歴史長編小説。

*すでに絶版のようです。興味を持たれた方図書館か古書店を当たってみて下さい。

 文字通り、女性では万葉集に一番多くの歌を残した歌人、大伴坂上郎女の生涯を描いた小説です。著者によるあとがきによると、万葉集の編集に坂上郎女が深く関わっていたのではないかという仮説に基づいて書かれたのだそうです。

 この小説は、五つの章に分かれています。

 第一章では、若い頃の郎女の姿が描かれます。

 物語は和銅六年(713)、郎女が14歳の時、穂積皇子に見初められて入内するところから始まります。
 そして、2年後に皇子が亡くなり、その後、藤原麻呂の恋人になるが、母の薦めで異母兄の宿奈麻呂と結婚、2人の娘をもうけますが、数年後に死別します。第一章で早くも宿奈麻呂まで亡くなってしまってびっくりしましたが、先を読み進めてみました。

 第二章は、主に太宰府が舞台になっていました。太宰府に赴任した異母兄の旅人の妻が亡くなり、主婦替わりとして郎女が太宰府に下るのですが、そこで起こった出来事が描かれます。

 第三章は、旅人の死、大伴家の家刀自として、娘たちの将来について計画を立てる郎女の姿が描かれます。

 第四章では、藤原四兄弟の死、広嗣の乱、それに続く聖武天皇の都移りを背景に、結婚した甥の家持と娘の大嬢の様子、母と娘の心のすれ違いなどが描かれています。

 第五章は、家持の越中守る在任時から始まり、藤原仲麻呂の乱の直後くらいまでが、郎女の視点で描かれています。

 読んだ感想は、不幸にも負けず、大伴家の家刀自として、家を守ろうと努力する郎女の姿に頼もしさを感じました。

 でも、家刀自としての郎女の姿が強すぎて、ちょっとついて行けない部分もありました。大伴家くらいの家格では自由恋愛は皆無の時代ですが、娘たちの将来をすべて決め、支配してしまうというのはどうなのでしょうか?(これは現代的な視点かもしれませんが)

 なので大嬢と心がすれ違ったり、乙嬢の結婚が不幸な結果を招いたりしたのでしょう。娘たちから「大伴、家のためという考えは古い」と言われても、郎女は果たしてどのくらい、そのような考えを理解していたのでしょうか。この小説、もう少し、郎女の恋愛の部分、ことに穂積皇子、麻呂、宿奈麻呂との恋愛にスペースを割いても良かったように思えました。

 そんな意味でも、私が持っている郎女について書かれた他の本、『裸足の皇女(永井路子著 文藝春秋 「恋の奴 以下四編)』『人物日本の女性史1(円地文子監修 大伴坂上郎女の部分)』なども読んでみたいと思いました。

 すみません、ちょっと批判的なことを書いてしまいましたが、この小説、時代考証もきちんとしていますし、人物の性格の書き分けもわりとはっきりしています。特に、ほんのちょっとしか登場場面がないのですが、穂積皇子と大伴池主が印象的でした。

 穂積皇子は、かなりの好人物に描かれていますし、彼に『古事記』や『日本書紀』の歌を教えてもらったことが、後に郎女が『万葉集』を編集するきっかけとなったと描かれています。なのでこの小説では、穂積皇子は重要人物だと思います。

 池主は、家持の越中守時代の部下で、弟の書持を見舞うために家持から奈良の都に遣わされるのですが、そのとき、郎女と歌について色々と会話します。郎女は、池主のことを好ましく思うのですが、私は、「ああ、郎女はこういう頭が良くて、歌について色々会話が出来る人を求めていたのか。こういう人に会えて良かったね」と思いました。

 それと、最後に光を放っているのが郎女の次女、乙嬢です。以下、ネタばれ注意です。

 乙嬢も姉と同じく、母の決めた大伴一族の男性と結婚するのですが、夫は橘奈良麻呂の変に連座してしまいます。夫は死んでしまったという知らせを受け、乙嬢は尼になって寺に入ってしまうのですが、実は生きていて、他の女性と逃げていたことが最後にわかるのです。何かすごく切なかったです。この時代の女性は、こうした哀しい運命を背負った人が多かったのでしょうね。

 それに比べると郎女は、夫と早く死別したけれど、大伴一族の家刀自として権力を振るうことも出来たし、歌の才能も発揮できたし、編集に関わったとされる万葉集を後世に残すことも出来たのですから、幸せな人と言えるかもしれませんね。

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(女是)子内親王 ~専制君主に愛された皇女

2013-01-19 10:44:21 | 歴史人物伝
 以前私は、「白河天皇というお方は罪なお方だ」と書いたことがあります。
 白河天皇(その頃は退位して上皇)が、養女である藤原璋子を寵愛し、彼女が鳥羽天皇との間にもうけたとされる崇徳天皇は実は白河上皇の子だと噂されたことが、後に保元の乱を引き起こすきっかけになったのですから。

 白河天皇は専制君主として知られていますが、どうやら自分の気に入った女性を異常とも言えるくらい寵愛するところもあったようで、中宮の藤原賢子が重病になっても里第に返さず、内裏で彼女を抱きしめて離さなかったそうです。ケガレを嫌う内裏において、このような天皇の行動は異例でした。そして賢子が世を去ると天皇は、ショックのあまり悶絶し、宮中は大混乱に陥ったと伝えられています。。

 そしてもう一人、白河天皇が異常に愛した女性がいました。その女性こそ、これからお話しする(女是)子内親王です。
 では、彼女のプロフィールからご紹介します。

☆(女是)子内親王(やすこないしんのう)
 1076~1096、父は白河天皇、母は藤原賢子(源顕房女・藤原師実養女)

 彼女に変化が起きたのは承暦二年(1078)八月、数え3歳の時でした。伊勢の斎王に卜定されたのです。そして2年後、(女是)子は伊勢に下向することとなるのです。
 伊勢で彼女はどのような生活を送っていたのでしょうか。後年、彼女は田楽(庶民の田植え神事に由来するもので、太鼓を打ち鳴らしながら集団で踊り興じる芸能)見物が好きになることを考えると、好奇心旺盛だったことが想像されるので、伊勢でも案外楽しく暮らしていたのではないかと、個人的に思ったりします。

 応徳元年(1084)、上の方でも書きましたが、白河天皇の中宮で(女是)子の母である藤原賢子が崩御します。(女是)子は母の喪によって斎王を退下し、帰郷します。帰京後は外祖父源顕房所有の六条殿を御所としました。また、すぐには父と対面せず、同母弟の善仁親王(後の堀河天皇)と同居していたようです。

 (女是)子内親王が父と帰京後に初めて対面したのは、寛治元年(1087)のことでした。
 すでに12歳になっていた(女是)子と、白河上皇(この頃は退位していましたのでこのように呼ぶことにします。)はどのような気持ちで対面したのでしょうか。
 おそらく(女是)子は、母の賢子に生き写しではなかったかと推察されます。賢子を異常に愛していた上皇は、賢子が生き返ったようだ、美しく成長したこの娘を絶対に幸せにしてあげようという気持ちになったのではないでしょうか。その後彼女は、父と行動をともにすることが多くなります。

 同年、(女是)子内親王は、堀河天皇の准母として入内します。母と行っても、(女是)子と堀河天皇の年齢差はたったの三歳でした。
 寛治五年(1091)、(女是)子は中宮に立てられます。これは、寛平九年(897)、醍醐天皇の養母として立后した藤原温子の例に倣うものですが、未婚の皇女が中宮になった先例はありません。白河上皇がいかに(女是)子を寵愛していたかがわかる出来事だと思います。更に二年後、(女是)子は郁芳門院の院号を賜りました。

 中宮、女院となった(女是)子はあいかわらず白河上皇とともに暮らし、その御所では歌合せなどが催されて、多くの女房や廷臣に囲まれる華やかな日常が繰り広げられていました。
 しかし、(女是)子内親王は体が弱く、心配した白河上皇は彼女を伴い、寺社参りに出かけていたようですし、しばしば祈祷も行われていました。

 長久元年(1096)、夏から初秋にかけて、世の中は「長久の大田楽」がブームになっていました。この田楽ブームは庶民にとどまらず、内裏や院の御所でも殿上人が太鼓を演奏したり、踊ったりしていたそうです。(女是)子はこの田楽が気に入り、見物に熱中していました。

 ところがそのさなかの7月下旬、(女是)子は発熱を伴った病にかかってしまいます。八月二日には非常赦が行われますが、六日には重体となり、加持祈祷もむなしく、翌日、六条殿にて世を去りました。まだ21歳の若さでした。
 最愛の娘を失った白河上皇は悲しみのあまり、周りが止めるのも聞かず、その二日後に出家をしてしまいます。

 白河上皇がそれほど愛した(女是)子内親王とは、どのような女性だったのでしょうか。

 藤原宗忠は日記「中右記」の中で、「伝え聞くところによれば、立ちふるまいが優美で、顔立ちもたいへん美しく、生れつき心が寛くてひたすら施しを好んだ」と書いています。美しく、心の優しい女性だったと思われます。
 白河上皇は、そんな最愛の娘に、先例を無視してまでも中宮・女院といった、女性としての最高の位を与えてあげたかったのだと思います。

 しかし私は、(女是)子内親王がもっと長生きしていたら…と、考えずにはいられません。もしそうなったら、白河上皇の行きすぎた愛情がかえって彼女の負担になり、不幸な結果になってしまったのではと…。父と娘の対立も起こっていたかもしれませんし。その意味では(女是)子内親王は、幸せのまっただ中で世を去っていったと言えるかもしれませんね。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROm版」 角田文衞 観衆 角川学芸出版
 「歴史のなかの皇女たち」 服藤早苗 観衆 小学館

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災い転じて福となる?

2013-01-17 11:42:44 | えりかの平安な日々 10~18
 現在、人物伝を作成中なのですが、更新間隔が開いてしまったので日記を書きます。

 前回の日記にも書きましたが、今月5日に中学時代の友人4人と女子会をしました。みんな優しくて、私の愚痴をたくさん聞いてもらいました。

 食事もおいしく頂きました。特にミックスピザがおいしかったです。

 最後に、デザートを注文しようということになりました。
 それで、1人がパフェを、1人がアイスクリームを、2人がチョコレートとバニラののったホットケーキを注文しました。私は何となくケーキ類が食べたかったのですが、おなかいっぱいになっていたので、同じホットケーキでもバニラだけがのったホットケーキを注文しました。

 ところが、他の人のところにはすぐに注文した物が運ばれてきたのですが、私の注文した物が運ばれてきません。
 どうしたのかなと思っていたところ、従業員の人が来て、「すみません、ホットケーキの材料が2人分しかありませんでした。申し訳ありませんが他の物を注文して下さい」と言われてしまったのですよね。そこで私は仕方なく、アイスクリームを注文し直しました。アイスクリームも決して嫌いではないし、何よりも早く運ばれてきそうな気がしたからです。注文をしながら、「私ってやっぱり運がないのね」と思いました。

 そして思った通り、アイスクリームはすぐに運ばれてきました。甘さもほどよくて歯触りも良く、結構おいしかったです。

 でも、ホットケーキを食べた2人の友人の話によると、「おいしくなかった」のだそうです。何か、生地がぱさぱさで水分が足りない感じだったとか。なので、「えりかちゃんは運がないのではなくて、運が良かったのよ」と言われました。これが、「災い転じて福となる」ということでしょうか。私のこれからの人生もそうなるといいのですが。

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やれば出来る

2013-01-05 16:52:32 | えりかの平安な日々 10~18
 皆様、今年もよろしくお願いします。喪中ですが、このくらいの挨拶はいいですよね。

 さて、今年のお正月ですが、体調がいまいちだったので、ゆっくりとテレビを見て過ごしました。箱根駅伝、だんなさんの母校は今年は2位でした。柏原選手が抜けてしまったので今年はどうなのかなと思っていたのですが、よくやったと思います。

 そうそう、駅伝と言えば、年末に京都で行われた全国高校駅伝男子の部に、だんなさんの出身高校が出場していて驚きました。ちょっとぼーっとしながら見ていたのですが、だんなさんの出身高校の名前がアナウンスされたのでびっくりして、目が覚めてしまいましたよ。
 思えばだんなさんの高校、部活の全国大会出場は、私の知っている限りでは放送部のNHK放送コンテスト出場くらいだったのです。25年くらい前、野球部が県大会の決勝まで進んだのですが、決勝で負けてしまったことがありました。勝っていれば甲子園だったのに…と、だんなさんがとても残念がっていたのを思い出します。
 なので全国高校駅伝に出場しているところを見たら、涙を流して喜んだだろうに…と思いました。だんなさんの写真にはちゃんと報告したので、父も言っていましたがきっと伝わっていると思います。

 さて、タイトルの話題に移りますね。

 先月、妹の協力でパソコンからネットが出来るようになり、とてもありがたいです。
 ただ、たまにですが、一時的につながらなくなることがあります。でも、パソコンを再起動すればすぐにつながっていました。

 ところが昨日、メールチェックをしようと思ってパソコンを起ち上げたのですが、メールの送受信が出来なくなっていました。もちろんネットにもつながりません。そこでいつものように再起動をして、再びメールチェックをしようと思ったのですが、どうしてもつながらないのです。

 そこで2時間くらい間をおいて、もう一度チャレンジしたのですが、つながりません。
 それで、表示されている対策方法を色々やってみました。そうしたら一時的につながるのですが、すぐにまたつながらなくなります。
 そんなとき見つけたのが「システムの復元」でした。これは私のパソコンがおかしくなると、だんなさんがよくやってくれた対処方法だったことを思い出し、一か八かでチャレンジすることに。そうしたらやっとつながりました。やれば出来るものですね。

 ただ、12月24日以降にワープロソフトに保存した文章、「法体の女帝 道鏡伝説異聞」の紹介や、図書室記事索引などが消えてしまいました。なのでこれらは、ブログの編集ページからコピペしました。それでも、無事にシステムの復元作業が出来てありがたいです。また一つ、出来ることが増えました。

 そして今日は、楽しみにしていた女子会に行ってきました。楽しかったです。おいしいパスタやピザやデザートを食べ、たくさん愚痴を聞いてもらいました。皆さんありがとう。

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