平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

京都3日物語 もくじ

2011-04-20 10:04:37 | 旅の記録
 このページは、2010年11月17日~19日の京都旅行記、「京都3日物語」のもくじのページです。
 「旅行記の1回目を読む」→「ブラウザの戻るでこのページに戻る」→「旅行記の2回目を読む」というように、旅行記を順番に読むことが出来ます。

 また、他の旅行記のもくじへのリンクも貼ってありますので、そちらもぜひご覧下さいませ。

1.出発
2.京都1日目の夜
3.京都2日目の朝
4.京都御所
5.晴明神社
6.町屋カフェでランチ
7.風俗博物館 六条院春の御殿編
8.風俗博物館 実物大展示室編
9.京都2日目の夜
10.京都3日目の朝
11.法金剛院
12.福王子神社
13.仁和寺 前編
14.仁和寺 後編
15.旅の終わり



☆日帰り京都旅行2005年夏 もくじ

 2005年8月23日、当時京都文化博物館で開かれていた風俗博物館出張展示を観に行って十二単を体験し、その後、法住寺と三十三間堂を巡りました。


☆京都1泊旅行2006年春 もくじ

 2006年4月6日・7日の京都1泊旅行の旅行記です。1日目には風俗博物館に行き、そのあと下鴨神社で平安装束を体験しました。2日目は京都御所、紫式部の墓、雲林院などを巡りました。


☆掛川城散歩 もくじ

 2006年9月14日、当時放映されていたNHK大河ドラマ「功名が辻」の舞台ともなった掛川城を訪れました。

☆日帰り小旅行 三島編 もくじ
 2007年1月16日、当時三島市の佐野美術館で開かれていた「よみがえる源氏物語絵巻 ー平成復元絵巻のすべて」の展示を見に行き、三島大社を参拝しました。

☆晩秋の京都へ もくじ
 2007年11月24日、風俗博物館に行ったあと、枳殻邸(渉成園)で紅葉を堪能し、西陣・斎院御所跡を訪れました。

☆新緑の京都で装束体験 もくじ
 2008年5月16日、京都文化博物館にて「源氏物語千年紀展」を鑑賞、その後、十二単を体験し、博物館の周りにある平安邸宅の跡を巡りました。

☆秋の日帰り京都旅行 もくじ
 2008年10月24日、午前中に風俗博物館を堪能し、その後、平安神宮へ、そして、京料理のお店「六盛」さんで創作平安王朝料理をいただき、京都文化博物館やポルタで「源氏物語」関連の展示を見学しました。

 ☆盛夏の浜松へ もくじ
 2009年8月4日、浜松駅前のホテルで昼食を食べたあと、浜松市美術館で石山寺展を観賞、その後、浜松城に行きました。

☆斎王に逢う旅 もくじ
 2009年11月14日、念願の伊勢の斎宮に行きました。まず、斎宮歴史博物館で展覧会や斎王群れ行のビデオを堪能し、その後、斎王の森、斎宮の10分の1模型、竹神社、いつきのみや歴史体験館を巡りました。

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旅の終わり ~京都3日物語15

2011-04-19 20:27:32 | 旅の記録
 旧御室御所御殿の拝観を終えたあと、仁和寺をあとにし、京都駅に戻ることにしました。
 バスにしようかタクシーにしようかちょっと迷いましたが、結局タクシーに乗って駅まで行くことに。昼食時以外はずっと歩きっぱなしだったので少し疲れていたのか、タクシーの中でうとうとしてしまいました。そんなこんなで京都駅に到着。うとうとしたせいか疲れも取れ、頭もすっきりしていました。もし、バスに乗って座席に座れなかったら、もっと疲れてぐったりしてしまったかもしれません。タクシーに乗って正解でした。

 新幹線に乗るまでまだ時間があったので、買い物をすることにしました。

 まず向かったのは、京都タワーホテルの3階にある本屋さん、こちらは、静岡では売っていない京都の歴史や平安時代に関する本が多く売られているので、京都旅行の際はいつも立ち寄っています。でも今回は、収穫がありませんでした…。また今度来たときの楽しみにとっておきます。

 その次に行ったのは、伊勢丹デパートの地下の漬け物屋さん、こちらで売られている京漬け物は、私たちのお気に入りです。いつものように、千枚漬けとゆず大根を購入。それと、ゆず山芋という漬け物も買ってみました。

 そのあと、預かってもらっている荷物を取りにホテルに戻りました。そして新幹線の改札へ…。改札の中にあるお弁当屋さんで、今夜の夕食のお弁当を買います。
 こちらはいつも込んでいて、お弁当を買うのが一苦労です。この日もかなり込んでいました。私は鶏二段重ねのお弁当、だんなさんは野菜幕の内弁当を購入。

 こうして予定通り、5時5分発の上りのこだまに乗り、すでに陽が暮れかかっている京都の町をあとにしました。京都を離れるときにいつも思うことは、「今度はいつ、来られるのかしら?」です。うん、きっとまた来ることができますよね。

 こうして新幹線と在来線を乗り継ぎ、夜8時頃に帰宅しました。そして早速、京都駅で買ったお弁当を頂きます。
 鶏二段重ねは、文字通り二段重ねのお弁当。1つの箱に鶏飯が入っていました。ほんのりと味がついていていい感じ。
 もう一つの箱は、4つに仕切られていて、天ぷら、煮物、魚などが入っています。高野豆腐の煮つけも入っていて嬉しかったです。

 それから、漬け物屋さんで買ってきたゆず山芋も頂きました。ほんのりと甘くておいしかったです。漬け物というより、お総菜のような感じでした。気に入ってしまいました。

 こうして、見て、感じて、楽しんで、そして、おいしい物をたくさん食べることが出来た京都への旅が終わりました。考えてみると、ものすごく充実した3日間だったように思えます。心配していた歯の痛みもほとんど大丈夫でしたし。

 それと、いつもは帰りの新幹線の中では疲れて爆睡してしまうし、家に帰るとぐったりして、更に眠くなってしまうのに、今回の旅行は不思議なことに、新幹線の中ではしっかり起きていましたし、帰宅後も、疲れたという感覚があまりありませんでした。2泊したことでかえって時間的に余裕が出来、体も楽だったのかもしれません。

 最後に、お世話になった皆様、改めまして、楽しい時間をありがとうございました。

 そして、また京都に行ける日を楽しみにしていようと思います。

             ー 京都3日物語 終わり ー


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仁和寺 後編 ~京都3日物語14

2011-04-13 21:03:32 | 旅の記録
 仁和寺の本堂にお参りをして戻ってきた私たち、時計を見たら午後1時を少し過ぎていました。
 朝食をたくさん食べた私ですが、この時間になるとさすがにおなかが空いてきていました。そこで、仁和寺の中にある御室会館の食堂で昼食を頂くことにしました。

 御室会館は2003年5月、私が初めて十二単を着せて頂、ネットでお知り合いになった方々とも初めてお会いしたイベント、「日本文化フォーム21 紫の心 ~源氏物語の世界」が行われた思い出の場所です。
 もっとも、十二単を着て歩き回ったり、平安時代の調度品に触れたり、お菓子を頂いたりしたのは旧御室御所御殿なので、こちら御室会館では、当時花園大学教授の山田邦和先生の平安京についての講演や十二単の着つけの実演を堪能し、王朝料理を頂きました。講演も着つけも王朝料理もとても充実した内容で、わくわくしたのを思い出します。そんなわけで、御室会館に足を踏み入れると、あの日の楽しかった思い出がよみがえってきました。
 でも、本日は、あの日には足を踏み入れなかった食堂に行きます。食堂はとても明るい雰囲気で、従業員の方々も感じが良く、ほっとさせられました。

 私は、天ぷらそばを注文しました。京都に来るとなぜかおそばを食べたくなってしまう私ですが、考えてみると、今回の旅行ではまだ食べていませんでした。エビの天ぷらが少し脂っこかったことをのぞけば、私好みの薄味でなかなか美味。満足です。
 だんなさんは湯豆腐定食を注文。少しもらってしまいましたが、お豆腐がなめらかでおいしかったです。

 食事が終わったあと、せっかくなので旧御室御所御殿を拝観することにしました。

 入り口で靴を脱ぎ、御所の中に入ると、お香の良い香りがします。廊下を歩いていくと、上品なたたずまいのお部屋がいくつも目に入ってきます。

 実は仁和寺は、「源氏物語」とも縁があるのです。

 光源氏の兄、朱雀院は、「若菜上」の巻で出家をし、西山の寺に入るのですが、この西山の寺のモデルが、仁和寺なのだそうです。
 朱雀院もきっとこんな上品な畳敷きのお部屋で、光源氏に降嫁させた愛娘、女三の宮のことを思いながらお経を読んでいたのでしょうね。「源氏物語」には、出家後の朱雀院の日常について、多くは語られていませんが、きっと宇多天皇とは対照的に、遊興とも女性とも縁のない、仏教ひとすじの毎日を送っていたと思います。

 ところで、御室御所の廊下から見える庭園も、とっても素敵でした。では、そんな庭園の様子をご覧下さい。

 

 

 池が光っていてきれいです。

 

 

 こちらは、左近の桜、右近の橘がある庭です。今頃(この記事を書いている2011年4月上旬)は、桜がきれいでしょうね。

 廊下を歩いていると、「あ、ここを十二単を着て歩いたっけ」という、見覚えのある場所もちらほら目に入り、楽しかったです。

 仁和寺には、7年前のこのイベントの他、1992年と2000年にも訪れていますが、訪れるたびに新しい発見があります。そしていつも、宇多天皇や朱雀院の面影を感じることが出来ます。大好きなお寺です。

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仁和寺 前編 ~京都3日物語13

2011-04-02 22:16:55 | 旅の記録
 福王子神社をあとにし、東の方向に7~8分くらい歩いたでしょうか。大きな門が見えてきました。次の目的地、仁和寺に到着です。

 仁和寺は、大内山の南麓に建てられたお寺で、真言宗御室派の総本山なのだそうです。

 創建については、通説によると、光孝天皇は仁和二年(886)、大内山のふもとに勅願寺を建立しようと発願し、着工したのですが、寺の完成を見ずに翌年八月に崩じます。
 帝位を継いだ宇多天皇は、父帝の遺願を継いで造営に努め、仁和四年(888)八月十七日、権大僧都真然を導師として金堂の落慶供養と、光孝天皇の周忌斎会を執り行い、寺は年号に因んで仁和寺と定められました。

 しかしこの所伝は、同時代史料に見えず、あいまいな点が多いところから、仁和寺は、宇多天皇が父帝の霊に回向するために光孝天皇の御陵の兆域内に建立した御願寺であったという新説も出されているそうです。いずれにしても、創建には宇多天皇が大きく関わっていたことは間違いないと思います。

 では、宇多天皇について、「平安時代史事典」をもとに紹介します。

 貞観九年(867) 誕生。名は定省。父は時康親王(後の光孝天皇) 母は班子女王。
 かなり早い時期に、尚侍藤原淑子(藤原長良女・基経妹)の融子となる。

 元慶年間(877~885) 元服。侍従に任じられ、陽成天皇に使えた。

 元慶八年(884) 父、時康親王、関白藤原基経の推挙によって即位(光孝天皇)。定省、他の光孝天皇の皇子皇女とともに臣籍に降下し、源姓を賜る。

 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。定め省、養母の淑子の尽力もあり、急遽即位。宇多天皇となる。一度臣籍に降下した物が即位するという初めての例となった。
 宇多天皇の治世は、阿衡事件という紛争もあったが、紛争の決着後は摂関家との融和を計った。また、先例にとらわれず様々な改革を執り行った。(清涼殿を天皇の常御殿に定めたり、賀茂臨時祭を始めたり、遣唐使の派遣を停止したりしたことなど。)

 寛平三年(991) 関白藤原基経が薨ずると、摂関を置かずに自ら政治を執り行った。その後、菅原道真を重く用いた。なお、道真は宇多天皇の引き立てで右大臣にまで昇進するが、天皇の退位後、昌泰四年(901)に太宰府に左遷された。

 寛平九年(897) 第一皇子敦仁親王に譲位(醍醐天皇)。

 昌泰二年(899) 十月、権大僧都益信を戒師として落飾。同じ年、念誦堂としての八角堂(円堂)を仁和寺内に建立した。

 延喜四年(904) 仁和寺の南西に御所を営み、常時の御在所とした。
 こうして宇多上皇は、仁和寺を御所としたが、他にも朱雀院、河原院、亭子院、宇多院などにも住んだ。後宮には多くの女性を侍らせ(歌人の伊勢や、藤原時平女の褒子など)、歌会や饗宴を催したりして、優雅な生活を楽しんだ。また各地の名所・仏閣に御幸したりした。その一方、醍醐天皇の治世への監視も怠らなかったようである。

 承平元年(931)七月十九日 仁和寺御室で崩御。遺骸は仁和寺奥の池尾山で荼毘に付され、のち大内山陵に改葬された。

 一度源氏に降下してから即位、在位中は政治に没頭し、退位してからは遊興三昧、やっぱり興味深い天皇さんです。そんな宇多天皇ゆかりの仁和寺を私も拝観してみます。

 ではまず、仁和寺の全景をご覧下さい。

 

 仁和寺は、この記事の最初の方でも触れたように、大内山の麓に造られたお寺なので、本堂への道は上り坂になっています。所々に階段も造られています。なのでかなり体力を消耗します。運動不足を痛感させられました。

 法金剛院と福王子神社は、私たちの貸し切り状態でひっそりとしていましたが、こちら仁和寺は観光客も多く、本堂への道を昇っている途中も何人かの人とすれ違いました。途中、学生さんでしょうか、若い方々の集団が大きな声でおしゃべりをしながら、私たちを追い越していきました。お寺なのだからもう少し静かに拝観して欲しい……と、個人的に思ってしまった私、やはり年を取ったのでしょうか。

 本堂へ行く上り坂からは、五重塔も見えます。

 

 と言うわけで、ようやく本堂に到着しました。しっかりお参りをして、お賽銭も入れて、手を合わせてお辞儀をして、本堂をあとにしました。そして、来たときとは反対に、道を下っていきます。

 再び、この寺で後半生を過ごした宇多天皇のことを考えてみました。
 上皇となった宇多さんは、醍醐天皇の治世への監視を怠らなかったと言っても、直接政治に関わることはあまりなかったのでは…という気がします。ここ、仁和寺を住まいとした宇多さんは、遊興と趣味の世界に生きていたのではないでしょうか。若い頃、様々な改革を行い、政治に没頭した天皇時代の彼とはどう考えてもギャップが大きすぎます。

 宇多さんを政治から遠ざけた原因はいったい何だったのでしょうか。
 やはり、天皇時代に重用していた菅原道真の左遷を止められなかったことが、自責の念となっていたのでしょうか。タイムスリップして、そのあたりのことを宇多さんに尋ねてみたいような気がしましたが、彼は本心を見せないかもしれませんね。


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福王子神社 ~京都3日物語12

2011-03-21 12:26:10 | 旅の記録
 法金剛院をあとにしてタクシーで約5分くらいだったでしょうか。次の目的地、班子女王ゆかりの福王子神社に到着です。

 福王子神社は、伝承によれば、前身は深川神社でしたが、応仁の乱で焼失し、その後寛永二十一年(1644)に社殿を造営し、班子女王の陵墓が付近にあったことから彼女を祀り、福王子神社となったそうです。また、この神社は、東の方角にある仁和寺をおまもりする神社とも言われています

 私は2006年に、班子女王の一人語りという形式で、「班子女王 ~宇多天皇の母」という、かなり妄想に走った人物伝を書きました。
 実はこの記事、あとで考えてみると、書いているうちに「何かの力で書かせて頂いている」という気持ちになり、すらすらと筆が運んだような気がしているのです。そのため、私にしては短期間で下書きを書くことができました。もしかすると記事を書いている間、班子女王さまが後押しをして下さっていたのかもしれません。
 なので福王子神社は、そのお礼をさせて頂こうと、いつか訪れてみたかった神社でした。やっと来ることができて嬉しかったです。

 まず、20段くらいの石段を登り、神社の中に入ってみました。

 そして、最初に飛び込んできたのがこちらの石碑。

 

 石碑には、「班子皇后」の文字が見えます。

 石碑から本殿を眺めてみました。

 

 そして本殿にて、班子女王さまに手を合わせました。充実した記事を書かせて下さって、本当にありがとうございました。

 

 福王子神社も法金剛院と同じく、私たちの貸し切り状態でした。でもなぜか、明るくて華やかな気分が漂っているように見えました。やはり、班子女王の明るくてユーモラスな性格が、今でもこの神社を華やかに彩っているのかもしれませんね。

 では、班子女王の略歴をまとめておきます。

班子女王 なかこじよおう(?~900) 
*生年には、833年説、853年説などがある。

 父は仲野親王(桓武天皇皇子。)、母は当麻氏)

後に光孝天皇となる時康親王の後宮に入り、源定省(後の宇多天皇)、是忠親王、是貞親王、綏子内親王、為子内親王など、多くの子女をもうけました。親王の邸宅は小松殿(大炊御門北、町東)と呼ばれ、女王は毎日のように買い物や仏詣でに出向いた逸話が伝えられています。

 仁和三年(887)正月従二位に叙され、同年十一月、当時臣籍に降下していた源定省が急遽宇多天皇として即位すると皇太夫人となります。

 寛平九年(897)七月、皇孫の醍醐天皇の即位に際して皇太后となりました。

 昌泰三年(900)四月一日、崩御。山城国葛野郡所在の頭陀寺辺(現鳴滝辺)に葬られました。

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法金剛院 ~京都3日物語11

2011-03-09 22:32:10 | 旅の記録
 法金剛院のある場所は平安時代初期には清原夏野(782~837)の山荘があったのだそうです。

 清原夏野は舎人親王(天武天皇の皇子)の曾孫で右大臣にまで昇り、淳和天皇に重く用いられた人物です。その山荘は、当時としては大変立派なものであったと伝えられています。
 でも私は、法金剛院にいる間じゅう、待賢門院のことで頭がいっぱいで、清原夏野のことをすっかり忘れていました。夏野さん、ごめんなさい…。

 では、法金剛院とはどんなお寺なのか、少し書いてみますね。

 大治四年(1129)、待賢門院の養父であり恋人であり、師でもあった白河法皇が崩御します。待賢門院はその服喪中、法皇の菩提を弔うと同時に、晩年の自分の住まいを兼ねた寺院の建立を発願しました。そして、間もなくこの地に建立を始め、翌大治五年の十月には、広い池を中心にした西の阿弥陀堂と東岸の御所とが竣工し、新寺院は法金剛院と命名されました。その後も、庭園や滝などが造られ、広大な寺院になっていきます。

 そんな法金剛院を、私も拝観してみます。

 

 法金剛院は、単なる寺院ではなく、阿弥陀堂、御所、苑池を三要素とした当時流行の山荘を兼ねた寺院でした。上の写真の庭園や池は、当時の面影を残しているかもしれませんね。

 待賢門院ゆかりの物が何か残っていないかと、お寺の方に訪ねたところ、本堂の中に、彼女が拝んだと伝えられる仏像があると教えて下さいました。
 私が、待賢門院に興味を持って、静岡から訪ねてきたと話したら、とても喜んで下さいました。歴史にも詳しい方で、しばし待賢門院や、次に訪ねる予定の福王子神社の祭神となっている班子女王についての話もしました。旅先でこういう話ができる人と逢うと、嬉しくなります。

 というわけで、本堂を拝観させて頂きました。

 

 上の写真は、本堂の入り口を撮ったものです。

 私は、待賢門院のことを色々考えながら、境内を歩きました。

 待賢門院については彼女を主人公にした小説「待賢門院璋子 保元の乱前夜」の紹介をはじめ、今までも当ブログで色々書いてきましたが、今回はこちらの記事に書いた彼女の略歴を一部加筆して転載させて頂きます。

☆待賢門院藤原璋子(1101~1145)

 藤原公実女。母は藤原光子(堀河・鳥羽両天皇乳母)

 幼い頃、祇園女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で育てられました。
 15歳頃から、白河法皇とのただならぬ仲が噂されますが、永久五年(1117)、17歳の時に鳥羽天皇に入内、女御から中宮に立てられます。

 元永二年(1119)、第一皇子顕仁親王を生みますが、(「顕仁親王は白河法皇の子供だ」と噂されました。顕仁親王は5歳で踐祚、崇徳天皇となります。崇徳天皇踐祚には、白河法皇の力が働いていたと言われます。

その後、璋子は禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(のちの後白河天皇)・本仁親王(のちの覚性法親王)の6人の子女をもうけます。天治元年(1124)、女院号「待賢門院」が授けられます。この頃はまだ、鳥羽上皇とも仲むつまじかったようですし、何よりも白河法皇の強い庇護がありました。

 しかし、大治四年(1129)の白河法皇の崩御とともに、璋子の人生も暗転します。
 さらに長承三年(1134)、藤原得子(後の美福門院)が入内すると、鳥羽上皇の寵愛は得子に移り、璋子はすっかり目立たない存在となってしまいます。その上、愛する皇子皇女の何人かに先立たれたり、得子を呪詛したという疑いをかけられたりと、璋子の身の上には不幸が続きます。璋子は双丘の東麓に法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなったようです。

 康治元年(1142)、落飾。久安元年(1145)八月二十二日、兄の藤原実行の三条第(三条南、高倉東)において鳥羽法皇臨御のもとに崩じ、法金剛院の北に接した五位山の花園西陵に葬られました。

 境内は私たちの貸し切り状態でとても静かでした。そして、境内の中にも、そこから見える庭園にも、何となく寂しい雰囲気が漂っているような気がしました。やはり、晩年の待賢門院が、ここで寂しい生活を送っていたからでしょうか。

 待賢門院が拝んだと伝えられる仏像は、本堂の奥の方にありました。立派な仏像で圧倒されます。この仏像を拝むことによって、待賢門院の心が少しでも救われていたことを祈らずにはいられませんでした。

 仏像が安置されている部屋には、法金剛院に関する本が何冊か置かれていました。その中には、角田文衞先生の「待賢門院璋子の生涯」の朝日選書版がありました。私はこの本を、何年か前に古書店から箱入りの単行本で購入したのですが、この時点ではまだ未読でした。せっかく法金剛院に来たことですし、なるべく早く読まなくては…と思いながら、本堂をあとにしました。

 そして帰宅後、「待賢門院璋子の生涯」を読んでみました。
 待賢門院璋子の生涯を、当時の史料を駆使して再現した、すばらしい本でした。
 待賢門院の晩年は、確かに寂しいものでしたが、彼女は堀河・兵衛など、忠実な女房たちに囲まれ、決して一人ではなかったことがわかり、何かほっとさせられました。また、待賢門院の息子である雅仁親王(のちの後白河天皇)も母親思いで、上皇となってからも彼女の供養を行っているそうです。

 待賢門院は終生、白河法皇への尊敬と愛情を忘れなかったのでしょうね。そして、ある意味では自分を不幸に陥れた張本人かもしれませんが、彼女は法皇を愛したことに悔いがなかったのではないか…、そんな気がしました。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 『平安京散策』 角田文衞著 京都新聞社

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京都3日目の朝 ~京都3日物語10

2011-03-08 14:23:53 | 旅の記録
 京都での最後の1日が始まりました。

 この日は7時頃起床、前日に比べるとゆっくりと支度をし、ゆっくりと朝食を食べました。朝食は、またまた洋食レストラン。私、よっぽど気に入っているのですね、こちらのホテルの洋食レストラン…。

 今朝は、付け合わせをベーコンにし、パンをロールパンにしました。ハムよりもベーコンの方がしっかり味がついていて、おいしかったです。ロールパンも良い感じ。そして、ふわふわのスクランブルエッグと甘みと酸味のほどよいトマトジュースで幸せ気分。ごちそうさまでした。

 朝食が終わると部屋に戻り、荷物の整理をしました。朝のうちにチェックアウトをしてしまうので、忘れ物がないかと、荷物を何度も確認。それから、朝食の時に少し歯が痛んだので、痛み止めもしっかり飲んで準備万端。
 こうして、二晩過ごした、1053号室ともお別れです。「白河天皇が生まれた年と同じ番号」と頭の中にたたき込んだせいか、部屋番号も忘れずにすみました。

 そして、無事にホテルをチェックアウト。でも、大きな荷物はフロントで預かってもらい、小さなショルダーバックだけ肩にかけて出発。こういうところが、駅の近くのホテルの便利なところです。

 今日もすばらしい晴天、しかも、昨日に比べると暖かくてありがたく感じました。
 ホテルを出た私たちは京都駅の山陰本線のホームに向かいました。今日は、法金剛院と福王子神社、仁和寺を訪れようと思っています。昨日ご一緒したくたくたさんに、このことをお話ししたところ、山陰本線で花園駅まで行って、まず法金剛院に行き、そのあと、福王子神社や仁和寺に行くのが楽なのではと教えて頂いたので、まず山陰本線で花園駅に向かうことにしました。

 私たちがホームに着いてから10分後に、亀岡行きの各駅停車の電車が出るところだったのでちょうど良かったです。電車の中に入ってびっくり、なんと、特急型の電車です。座席がゆったりしていて、思わずうとうとしてしまいそうでした。
 こうして電車は出発。窓から外の景色を見たりして、楽しい旅行気分を味わいました。途中、二条駅に止まったとき、そうだ、この駅の近くに、平安宮内裏の朱雀門址の石碑があるのだった…と、思い出しました。今日はちょっと無理ですが、いつか見に行ってみたいと思いました。

 間もなく電車は花園駅に到着。目的の法金剛院は駅のすぐそばと聞いていたのですが、どちらの方向に行っていいかわからなかったので、駅で道を聞いてみたところ、右の方に百メートルくらい行ったところにあると教えて頂きました。。

 それで、教えて頂いたとおり、右の方に向かって歩き出しました。でも、いくら歩いてもそれらしいものが見えてきません。そこで通りかかった人を捕まえてもう一度道を聞いてみたところ、右ではなく、左に行かなくてはいけなかったことがわかりました。

駅の人が間違ったのか、私たちが右と左を聞き間違えたのか、定かではありませんが、来た道を戻って駅前を通り過ぎ、しばらく歩くと、それらしい築地塀が見えてきました。そして、「法金剛院」と彫られた石碑を見てほっとしました。

 法金剛院は、待賢門院藤原璋子(1101~1145)ゆかりのお寺です。彼女のことは、歴史評論や小説を読んで興味を持っていたので、ずっと訪れてみたかったお寺でした。こちらで色々妄想できそうでわくわくします。
 では次回は、法金剛院を紹介することにします。


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京都2日目の夜 ~京都3日物語9

2011-03-02 14:00:19 | 旅の記録
 風俗博物館をあとにした私たちは、細い裏通りを通って京都駅へと向かいました。風俗博物館→京都駅は何回か歩いたことがあるのですが、このような町屋風の静かな通りを歩くのは初めてでしたので新鮮でした。
 そして駅前で、ご一緒した皆様とお別れ、楽しい時間をありがとうございました。

 私とだんなさんはいったんホテルに戻り、少しくつろいでから再び外出。
 だんなさんが、「夜食にお菓子が欲しい」と言ったので、まず昨日と同じく、「紡き歌」を購入。そして、隣にあった「つばらつばら」も一緒に購入しました。
 続いてコンビニでスナック菓子を探していたら、本日、夕食をご一緒することになっているヨウダさんから、「もうすぐホテルに着きます」というメールが、私の携帯電話に入ってきたので、急いで会計をすませ、ホテルに向かいました。ヨウダさん、わざわざホテルまで迎えに来て下さることになっていたので、お待たせしては申し訳ない…と思って急いだのですが、結局お待たせしてしまうことになってしまいました。遅くなって本当に申し訳ありませんでした…。

 こうしてヨウダさんが連れて行って下さったのが、京料理のお店 かじさんです。本格的な京料理が頂けるお店だということで、楽しみにしていました。

 お店に入ると、お香の良い香りがして、気持ちが落ち着きます。階段を上がると、畳敷きの広いお部屋に、いくつかテーブルが並んでいます。私たちが案内されたのは、奥の方のテーブル、さてさて、どんなお料理が出てくるか、わくわくです。

*と、書いておきながら、こちらでも写真を撮り忘れました。こちらも、私の文章のみでの説明となります。

 まず最初に出てきたのは食前酒。甘いような苦いような味でおいしいです。何か、2008年秋の京都旅行の時に頂いた、創作平安王朝料理で出された食前酒と味が似ているような気がしました。でも私は、お酒にはとても弱いので、半分以上、残してしまいましたが…。

 続いて出されたのは前菜。野菜や魚を使った6種類ほどのお料理が、1種類ずつ小さなお皿に盛られています。昨日の夜から肉料理が続いていたので、久しぶりの魚が嬉しかったです。味付けも上品で美味。

 次に、おつくりと天ぷらが出されました。

 おつくりは、マグロやイカが盛りつけられていました。口に入れるとすべすべした感触で、とても新鮮な感じがします。
 天ぷらは、特性のたれにつけて頂きました。エビの天ぷらがすごくおいしかったです。からっと揚がっていていい感じ。だんなさんはエビが苦手なのですが、全部食べてしまったようです。よほどおいしいエビだったのでしょうね。

 続いて出された野菜の炊き合わせもとてもおいしかったです。ちょっと変わっていたのは小鉢、山芋のすり下ろしたものと豆腐が混ぜてあって、薄く味がついていました。具に、少しイクラが入っていたようです。私はイクラは苦手なのですが、おいしくてほとんど気になりませんでした。

 そして、ご飯とお吸い物と漬け物でお食事はおしまい。京都のお吸い物は、いつ食べても美味です。

 最後に食後のデザート。3種類のデザートから1つ、選ぶことになっていました。私はマスカットのシャーベットを選びました。緑色で見た目もきれいです。さっぱりと冷たくて、ほんのりと甘酸っぱくて良い感じ。ごちそうさまでした。お忙しい中、お時間を作って下さったヨウダさんにも感謝。楽しいひとときをありがとうございました。

 さて、ホテルのお部屋に戻った私たち。せっかくなので、ルームサービスを頼むことにしました。夕食にあれだけたくさん食べて、また食べるのかと、つっこまないで下さいね(笑)。と言うわけで、10時に、飲み物とミックスサンドイッチを部屋に持ってきて欲しいと頼んだのでした。それまで時間があったので、お風呂に入ったあと、携帯電話のGPSで遊んでみました。

 せっかく京都に来たので、現在地を確認してみました。その結果、私がいる京都センチュリーホテルは、東洞院通沿いにあることがわかりました。平安京の地名で言うと、左京八条三坊の東のはずれか、四坊の西のはずれということになります。
 私は今まで、京都センチュリーホテルは、平清盛の西八条第の近くだと、勝手に思っていましたが、三坊か四坊となると、八条院子内親王(1137~1211)の八条院御所に近いのでは…と思いました。

 帰宅してそのあたりのことを調べたところ、やはり八条院御所、近かったです。更に、八条院領も近くにあったことがわかりました。子内親王は、両親である鳥羽天皇と美福門院藤原得子から広大な所領を相続したのですが、京都センチュリーホテルの近くには、彼女の御所だけでなく、領地もたくさんあったのですね。新しい発見。
 子内親王は、近衛天皇が崩御したあと、女帝として皇位につくという話も出たそうですし、こちらにも書いたのですが、反平家派で、以仁王と源頼政を結びつけた女性だと、私は思っています。色々妄想できそうな人物です。今度こちらに泊まることがあったら、子内親王について、事前に色々調べておこうと思いました。

 そうこうしているうちに、私のオレンジジュース、だんなさんのコーヒー、そして、ミックスサンドイッチが部屋に運ばれてきました。
 こちらのミックスサンドイッチは、3年くらい前に食べたことがあって、とってもおいしかったのを覚えていたので、楽しみでした。ハムとチーズが挟まれたもの、野菜が挟まれた物、ツナが挟まれたものなどが載っています。おいしくて幸せ。
 サンドイッチの他、紡き歌や、コンビニで買ったスナック菓子も食べました。本当に、「こんなに食べていいのか」と思うくらい、食べてしまいました。でも、旅行中で特別な日なので、いいですよね。
 こうして、京都での2日目の夜は終わったのでした。


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風俗博物館 実物大展示室編 ~京都3日物語8

2011-02-20 10:42:38 | 旅の記録
 4分の1サイズの六条院春の御殿での展示を堪能したあとは、実物大展示室で遊びました。

 こちらは、平安時代の調度品や、装束を着た貴公子や姫君の人形などが実物大で展示されているお部屋です。袿や狩衣を着ることもできます。

 早速、紫色の袿を羽織ってみました。気分はすっかり平安の姫君です。(^^)

 あ、光源氏さまがいらっしゃいました~。

 

 光君さま、姫は、おそばを離れませんわ。

 光源氏は、夏の直衣をお召しになっています。衣替えをし忘れたのかしら。
 あ、言うまでもなく、光源氏にもたれかかって扇で顔を隠している姫は私です。

 それから、こちらの姫さまの人形も、写真に撮ってみました。

 

 右側の立ち姿の姫さまは、細長をお召しになっています。

 細長というのは、平安時代の若い女性の准正装で、袿や表着の上に重ねる、身幅が細く、裾が長い装束のことだそうです。ただ、資料が少なく、実際にどんな装束だったかははっきりわからないようですが…。
 それでも、こちらの姫さまの装束、十二単の裳と同じくらい、長かったです。
 なのでこの姫さま、ほっそりとした体格に見えます。太い人が細長を着たら、体の線が目立ってしまいそう…。私は、もう少しやせないと着られないかも。

 そして、左側の座っている姫さまは、十二単をお召しになっています。

 十二単というのは、女房が、目上の方の前に出る時に着た正装、長袴をはき、単、五衣、打衣 表着、唐衣、を着て、裳をつけます。つまり、こちらの姫さまは右側の姫さまの女房ということになります。でも、どちらの姫さまもすてき♪

 それから今回も、御帳台の中に入って、平安時代の姫さまの気分を味わい尽くしました。残念ながら、こちらでは、顔を隠した写真を撮らなかったので、御帳台の写真のみ、載せておきますね。

 

 こうして、皆様とおしゃべりしながら楽しく遊びました。ご一緒した皆様、ありがとうございました。

 と言うわけで、いよいよ風俗博物館ともお別れです。これから1年半余り、休館されてしまうのは残念ですが、再開された際には、さらにパワーアップされた展示を期待していようと思います。その時を楽しみに待っています。


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風俗博物館 六条院春の御殿編 ~京都3日物語7

2011-02-16 14:37:02 | 旅の記録
  昼食後、少し歩いて堀川通に出てタクシーに乗り、風俗博物館に向かいます。10分くらいで井筒さんのビルに到着、エレベーターで5階に上がり、ドアが開くとお香の良い香りがして、そこは王朝絵巻の世界です。

 さて、風俗博物館は、2010年下半期)の展示が終わる12月から約1年半、休館されるということで、今回の京都旅行では絶対に訪れてみたかった場所の一つでした。こうして訪れることが出来て大感激です。
*というわけで、この記事を執筆している2011年現在、風俗博物館は休館しております。詳しくは、風俗博物館のホームページをご覧下さいませ。

 今回も、六条院春の御殿を4分の1に縮小した模型の中に華やかな王朝絵巻の展示が繰り広げられていました。
 では、今回の展示内容を列挙しますと、

法華八講 ~貴族女性最大の娯楽・法会聴聞~『枕草子』「小白河といふ所は」より
平安四季絵巻~裁縫上達祈願、文月・七夕~『源氏物語』「幻」より
四季のかさねの色目に見る平安王朝の美意識
あざれたる袿姿~平安貴公子くつろぎの美~『源氏物語』「紅葉賀」より
局(つぼね)~女房の日常~
「老いを拭って長命祈願、年中行事長月・重陽」「偏つぎ」「身嗜み、髪の手入れ・化粧」
歳暮の衣配り『源氏物語』「玉鬘」より
女房のお勤め 御格子(みこうし)参る『枕草子』『紫式部日記』『源氏物語』より

と盛りだくさんです。全部の展示内容を写真に撮ることは出来ませんでしたので、2カ所のみの紹介となります。すみません。

 博物館に入ってすぐ目に飛び込んできたのは、牛車でした。

 

 上の写真は、「法華八講 ~貴族女性最大の娯楽・法会聴聞~『枕草子』「小白河といふ所は」より」の場面の一部です。

 今回の展示は、「源氏物語」だけでなく、「枕草子」からも紹介されていました。

 「小白河といふ所は」は、寛和二年(986)6月18日から21日までの4日間、小白河第で行われた法華八講の様子を描いた章段で、当時の帝、花山天皇の叔父に当たり、ときめいていた藤原義懐などの貴族たちの様子が清少納言の鋭い感性で生き生きと描かれています。

 法華八講とは、法華経八巻を八座に分け、ふつう1日に朝夕二座講じて4日間で完了する法会のことです。
 平安時代、法会は人々の精神的な心の疲れをいやす娯楽でした。
 特に女性にとっては、外出できるという点でも大きな楽しみだったと思います。女性が男性と顔を合わせることが慎まれていた時代、女性はこのような法会も、牛車の中から見物していました。上の写真は、そんな牛車の様子を再現しています。


 さて次は、「あざれたる袿姿~平安貴公子くつろぎの美~『源氏物語』「紅葉賀」より」の場面です。

 袿姿でくつろぎ、笛を吹く十九歳の光源氏↓

 

 幼い頃に母を亡くした光源氏は、亡き母に生き写しの父帝、桐壷帝の后、藤壷の宮に母の面影を求め、やがてそれは恋へと変わっていきます。そして、ついに思いを遂げ、藤壷の宮は源氏との間に子を宿してしまいます。その子は表向きは桐壷帝の子とされました。後の冷泉帝です。

 十九歳の秋のある日、光源氏は、藤壷の宮と密通し、不義の子をもうけてしまったことへの罪深さ、そして、藤壷の宮がますます遠い存在になってしまったことへの寂しさに思い悩んでいます。
 この日は、 うち解けられない年上の正妻、葵の上の許を訪れることになっていましたが、その前に心を慰めるため、昨年、理想の女性に育て上げようと引き取った11歳の紫の君を訪れようと、西の対へと向かいます。

 紫の君に箏の琴を教える光源氏↓

 

 西の対を訪れた光源氏は、笛を吹きながら、幼い紫の上に箏の琴を教授します。紫の君は理髪で飲み込みが早く、源氏は彼女の将来に期待を抱きます。やがて、源氏がよその女性を訪ねることを察知した紫の君は、光源氏の膝ですねて寝てしまい、彼女をいとおしく思った源氏は正妻を訪れるのを取りやめます。

 実は紫の君は、思いがかなわぬ藤壷の宮の姪に当たる女性でした。紫の君はやがて美しく成長し、光源氏の心を慰める存在となっていくのでした。

*男性の袿姿は一番くつろいだ姿で、客人はもとより、目上の家族にもその姿を見せることが憚られる、つまり限られた人にしか見せない服装でした。私は、袿は女性の装束だと思っていたので、この展示には驚きました。

*平安時代、長い胴に水平に弦を張った弦楽器を「琴」と称していて、七弦の琴(きん)、ろく弦の和琴、果物の琵琶の形をした琵琶などがありました。箏は十三弦で、現代まで伝わる一般的な琴です。

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