平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
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何かおかしい… ~「功名が辻」感想

2006-09-27 09:26:28 | 歴史雑記帳
 約4ヶ月ぶりに「功名が辻」の感想を書くことにしました。とにかく前回・今回と、あり得ない設定や原作と違う描き方をしている所がたくさんありましたので、一言言いたくなってしまったのですよね。何かこのドラマ、だんだんおかしなことになっているような気がします。

 では、感想に移りますね。…と言っても、ドラマと司馬さんの小説の比較のようになってしまうと思いますが…。

 前回の「功名が辻」の放送を観て私は、「一豊夫婦があそこまで秀次べったりはおかしい。何よりも、世の中の動きを冷静に判断し、一豊のために身の処し方を冷静に判断する能力を持っているはずの千代が、あれほどうろたえるはずがない!」と思ったのです。
 そこで思ったことは、「司馬さんの原作には、この場面はどのように描かれていたかしら?」ということでした。10年くらい前に読んだきりなので、はっきり覚えていなかったのです。そこで、小説を引っ張り出し、該当箇所を読んでみることにしました。

 するとびっくり。ドラマとは正反対だったのです。

 まず、一豊も千代も秀次を嫌っていました。
 秀次の宿老となった一豊が、「秀次さまは嫌な男だ」と千代に言うのです。千代は最初、「そんなに嫌わなくてもいいのに…」と言っていたのですが、千代自身も秀次と目通りすると、「私も嫌い」ということになってしまったのでした。「わしは学問が好きじゃ」という秀次の言葉に、「この人が学問ですって?似合わない…」と思う始末です。

 そんな考えですから、秀頼が生まれて秀次の立場が微妙になると一豊は、
「わしが秀次さまなら、さっさと関白の座をお返しする」と千代に言い、秀吉が伏見に城を築き始めると、一豊も伏見に屋敷を造り始めます。

 秀次御乱行の噂が流れ、さらに、「秀次さまは謀反を企てているらしい」ということがささやかれ始めると、千代は一豊に向かい、
「伏見の屋敷の完成を急がせて。私は1日も早く、伏見に移りたい。」と頼むのでした。これは、「私が伏見に移れば、関白さまと太閤さまが合戦になった場合、一豊さまは安心して太閤さまに味方できる」という、千代の計算が働いた結果の言動だと思います。こちらの描き方の方が、よほど自然だ…と、私は読みながら思いました。
 もっとも小説では、一豊夫婦が幼い頃の秀次の世話をした…という伏線はありませんので、こういった突き放した描き方ができたのだと思いますが…。

 さて、屋敷の完成を急がせるため、一豊は伏見に行ってしまいます。やがて、「諸侯の妻子は、秀次方の人質として聚楽第に収監されるらしい」という噂が流れ始めます。その噂を耳にした千代は、夜陰に紛れて京の屋敷を抜け出し、伏見に向かったのでした。

 ところが伏見に向かう途中、千代たちの乗った車は秀次方の役人に見つかってしまいます。役人は車を止め、「山内対馬守の車と見た。どちらに参られる?」と、車の横を歩いていた侍女に詰問します。侍女は質問に答えず、「急いでいるので通して下さい!」と詰め寄ったので、役人は再度、名を尋ねました。すると侍女は、
「山内対馬守の妻にて、千代と申します。」と言ったのでした。

 つまり千代は危険を覚悟し、秀次方の役人の目をごまかすために侍女に変装して車の横を歩いていたのです。役人は千代の気迫に押され、そのまま車を通してしまいました。

 無事に伏見にたどり着いた千代と、一豊は再会を喜び合います。太閤秀吉もこの千代の脱出劇のことを聞き、「さすが対馬守の妻は賢夫人じゃ」と言います。つまりこの時点で一豊は、完全に秀次を見限り、太閤方についたということになります。

 さて、ドラマで一豊は、聚楽第の秀次を秀吉の許に連れてくる…という使者に立っていましたが、史実では一豊1人ではなく、堀尾吉晴や中村一氏らとともに使者に立っています。司馬さんの小説でもそのようになっていました。そうですよね、一豊1人ではあまりにも頼りありませんし、単独で乗り込んだりしたらたちまち、聚楽第の秀次方の武将たちに首をはねられてしまいますよね。
 まして、千代が忍者のように聚楽第に乗り込んでくる…なんて絶対にあり得ないことだと思いました。多分千代が、幼いときに世話をした秀次を説得して秀吉の許に連れて行き、結果的に夫の窮地を救う…という描き方をしたかったのでしょうけれど、あまりにもあり得ない設定なのでかえってしらけてしまったというのが正直なところです。

 そこで、この場面が小説でどのように描かれているか…。それが、なかなか面白い描き方をしていますのでここに書かせていただきますね。

 この時の使者は一豊を含めて5人でしたが、団長格は堀尾吉晴でした。なので、秀次は、5人の使者と対面すると堀尾の口から、
「即刻太閤の許に参られるように」と告げられます。
 秀次は、「即刻か…」と何回も繰り返してつぶやき(ここはドラマにもありましたね)、ようやく秀吉の許に行く決心をします。
 それを見た一豊は、急に秀次が気の毒になってしまったのでした。「この若者は、太閤の甥になど生まれず、尾張で百姓をやっていれば平穏な人生が送れたのに…」と急に感傷的になった一豊は思わず、「殿下」と口走ってしまいます。そして、
「われわれがご同行しますので、支度はごゆるりと…」などと言ってしまったのでした。

 これを聞いた堀尾は「これ、対州!」とたしなめます。堀尾が「即刻参るように」と言っている以上、「支度はごゆるりと」なんて言われては困るわけですよね。

 この場面は、良く言えば人の良い、悪く言えば間抜けで昼行灯な一豊の性格がよく表れていて、小説「功名が辻」の中では最も好きな場面の一つです。ついでに、先に書いた千代の脱出劇の場面も好きです。こちらは、千代の賢くて冷静な部分がよく表れていると思います。個人的に、この二つの場面は、ぜひ映像で見てみたかったです。

 一豊は、秀次が切腹した時、8000石の加増を受けています。ドラマのようにぎりぎりまで秀次べったりだったら、加増なんてされるわけがありませんよね。司馬さんの小説が史実をどの程度ふまえているかはよくわかりませんが、ドラマより小説の方が史実に近いように思えました。

 ところでこのドラマ、来週もとんでも設定が満載とか…。手鞠さんのブログ「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」によると、千代が秀吉の看病をするようです。あれだけ秀次べったりだったのに、これはどうしたことでしょうか…。それに、秀吉のそばには正室の北政所、側室の淀殿や松ノ丸殿などがいますし、他にも多数の侍女がいたと思うので、妻でも侍女でもない千代が看病をするなんてあり得ませんよね。

 何よりも、「もう秀吉が亡くなってしまうの?」という感じです。
 実は、小説は秀次が切腹したあたりで全体のちょうど半分くらいなのです。なのに、ドラマの放映期間はあと3ヶ月しかありませんよね。当然、これからの場面はかなり端折られると覚悟はしていたのですが、千代が伏見に移ってから秀吉の死までの場面はカットですか…。この部分は本当に面白いのに…。

 小説のこの部分についてちょっと書いておきますと、まず、六平太が再登場します(ドラマではすでに登場していますが…)。次に、一豊が掛川に行っている留守に、秀吉がお忍びで千代を訪ねてきます。何しろ秀吉は女好きですからね。千代は秀吉に抱かれそうになるのですが、六平太の機転で難を逃れます。その時の千代のせりふが好きなんですよね。
 秀吉を拒もうとする千代に向かって秀吉は、
「そんなに対馬守が好きか?」と尋ねるのです。それに対して千代は
「好きなのではなく、愛しいのです。」と言うのですが、その気持ちわかるなあ。

 次に発生するのは、今回のドラマでも触れられていた山内家の跡継ぎ問題です。千代は何とか、一豊に実子が産まれないかと臨んでいます。千代も一豊も、拾のことをかわいく思いながら、家臣たちの心情を考えて、山内家の跡継ぎにとは考えなかったようです。
 そこで千代は、一豊に側室を薦めます。しかし一豊は、「実子がいなければ康豊の子を養子にすれば良い。」と考え、全く取り合いません。
 千代は、お気に入りの侍女に一豊の世話を頼み、自分は1ヶ月間、旅行に出てしまいます。「彼女が一豊の側室になってくれたら良い。」と考えたわけです。しかし、この試みは失敗に終わります。そこで、千代は一豊に側室をすすめることをあきらめ、康豊の子が一豊夫婦の養子になるわけです。

 また、千代は淀殿から、「小袖のことを色々話して欲しい」と召し出される…という場面もあります。もちろん、千代が淀殿に会うのはこれが初めてです。その際、千代は淀殿の乳母の大蔵卿局と口争いをしてしまいます。そして、ついに「鬼ばばあ…」とまで言ってしまうのですが…。この場面は笑えました。

 こんな面白いエピソード満載の原作をどうして無視するのか…と少し首をかしげてしまいます。最近はどうも、脚本家の大石さんのオリジナルの色が強くなっているように思えてなりません。それはそれでいい面もあるのでしょうけれど、原作の愛読者としてはちょっと違和感を感じてしまいますね。どうやらこのドラマは、司馬遼太郎さんの「功名が辻」を原作としたドラマではなく、脚本家の大石さんのオリジナル色の強い、「改訂版功名が辻」と思った方が良いのかもしれません。

 一豊や千代を必要以上に「いい人」に描いたり、登場人物の誰とでもを千代と絡ませるなど、首をかしげる部分がたくさんあるこのドラマですが、今後も見どころはありそうです。関ヶ原での一豊と家康の絡み合いとか、千代の活躍とか…。掛川城も出てきそうなので楽しみです。
 このように、原作や史実と比較しなければ、結構楽しめるかもしれません。と言っても、今回の秀次事件のように裏切られるかもしれませんが…。楽しみ半分、心配半分と言ったところでしょうか。…と、この言葉、どこかで聞いたことがありますよね。そうです、昨年の大河「義経」の感想でしょっちゅう書いていました。と言うことは、「功名が辻」もあの「義経」と似てきてしまったのでしょうか…。

 それでも何だかんだ言いながら、最終回まで観てしまうのだろうな…と思います。

天守閣の中へ ~掛川城散歩3

2006-09-24 16:13:17 | 旅の記録
 石段を昇りきったときは、正直言って息が切れていました。やはり運動不足ですね~。

 さて、天守閣の入り口で靴を脱ぎ、渡されたビニールに脱いだ靴を入れます。中に入ると10段くらいの急な階段が目に入りました。その階段を昇りきった所が天守閣の1階です。ここでは、馬に乗った一豊の像が出迎えてくれます。うーん、なかなか格好良いです。



 このフロアーには、一豊の鎧が展示されているのですが、帰りにゆっくり見ることにして、先を急ぎました。

 2階では、掛川城の歴史についての説明アナウンスが流れています。最初は今川家の出城だったこと、天正十八年に一豊が城主となったことなどを説明しています。3階にはアナウンスも流れていませんし、特に見るものはないのですが、それだけに当時の天守閣の内部の様子を堪能できます。とにかく薄暗かったです。曇っているのでよけいにそう感じたのかもしれませんが…。

 そして次の4階が最上階になります。昇りきったときはほっとしました。とにかく階段が急でしたので。お城の天守閣というのは、下から敵が簡単に昇ってこられないように、急な階段を造ってあるのでしょうね。以前訪れたことのある彦根城、姫路城、松江城(いずれも現存天守閣だそうです)も、階段が急でした。

 では、最上階の南側から見た外の景色をどうぞ。掛川駅やホテルが見えます。写真には写っていませんが、このはるか向こうが遠州灘です。



 12年前に来たときは、素晴らしい晴天だったので、景色ももう少しきれいに見えたのを思い出します。そして、観光客も私たちの他には一組しかいませんでした。その一組というのがなかなか印象的だったので、今でもよく覚えています。大相撲の力士さんと、そのご両親らしい方だったのです。力士さんはまだ若く、入門したばかりのようで、髷もまだ短かったです。でも、しっかり着物を着ていました。「お相撲さんって、どこに行くにも着物を着ているんだ~」と感心したものです。
 するとお母様らしい人が、うちのだんなさんに向かって、「3人で写真を撮りたいのでシャッターを押していただけませんか?」と頼んできたのでした。それで、だんなさんがお相撲さん一家の写真を撮ったのです。

 お相撲さんの名前を聞き忘れてしまったことを、今ではとても後悔しています。だんなさんは、「入門した年や年齢、お母さんの顔かたちから考えて、静岡市出身で、現在十両(秋場所に十両上位で9勝したので、来場所には幕内に上がれるかもしれませんが)の潮丸関では…」と言っていますが、はっきりしたことはわからないので残念です。

 ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、今回は「功名が辻」の影響か、畳十畳ほどの広さのフロアーに15人くらいの観光客がいて、外の景色を楽しんでいました。
 ガイドさんらしい人が、5、6人ほどの観光客の団体さんに向かって、色々と説明をしています。掛川城のあるあたりは海から12㎞離れているなど、私の知らなかったことも話しておられました。

 さて、最上階からの景色を堪能したあとは、来たときとは逆に急な階段を降りていきます。私は元々下りの階段が苦手なので、手すりにつかまって一段一段ゆっくりと降りていきました。

 そしてようやく1階まで降りてきました。ここには、掛川城ゆかりの色々なものが展示されています。さて、お目当ての一豊の鎧は……。12年前と同じく、しっかり展示されていました。と言うわけで、ようやく再会できた一豊の鎧をどうぞ。



 この鎧は、掛川城天守閣が復元・公開されたとき、土佐山内家の子孫の方が寄贈なさったものなのだそうです。その当時、鎧を寄贈した山内家の子孫の方がインタビューをされているのを私もニュースで観たのですが、実直そうな方で一豊の面影があるように思えました。

 考えてみるとこの天守閣は、一豊が初めて築いた天守閣なのですよね。その大切な天守閣を手放すのはさぞ残念だっただろうな…と天守閣の中を歩きながら思いました。しかしそれ以上に、掛川城を手放すことは一豊にとっては、自分の領地を大きくするか、それとも一文無しになるかの大きな賭だったのです。「手放すのは残念だ」などと考えている余裕はなかったかもしれません。

 慶長五年(1600)、徳川家康は、会津の上杉景勝討伐のために兵を率いて出陣します。その際、一豊も家康に従いました。
 ところがその途上、「石田三成が大阪で兵を挙げた」という情報が家康の許に届きます。この情報を密使に託して伝えたのは、一説には千代だったとも言われています。

 家康は従軍してきた諸侯たちに向かい、
「大阪にいる妻子が心配であろう。かえってもよいぞ。」と言います。しかし諸侯たちは口をそろえて、「私たちは家康殿のために戦います」と言いました。それでも家康は、諸侯たちのことが信用できません。なぜならば彼らは、みな豊臣恩顧の大名だったからです。
 すると、
「私は掛川城を家康殿に差し上げます。」
と言った者がいました。言うまでもなく山内一豊です。すると他の諸侯たちも、「それがしも」「それがしも」と、みんな城と領地を家康に指しだしたのでした。

 つまり、関ヶ原合戦当時の一豊は、実は領地も城もなかったのでした。もし家康が関ヶ原で負けていたら、一豊はそのまま浪人になっていたのです。掛川城を家康に差し出すということは、一豊にとってはそれだけ大きな賭だったわけです。
 そしてその蔭には、千代のアドバイスがあったのではないかな…という気がします。賢くて、世の中の動きを的確に判断する能力を持った千代は、「次に天下を取るのは家康殿」と判断し、自分たちの運命を家康に賭けたのでしょうね。そして、その賭は成功したと言えます。一豊は、家康が関ヶ原で勝利した後、土佐一国を与えられ、二十四万石の大大名になったのでした。

 そんなことを考えながら、掛川城の天守閣をじっと見てみました。どこからか一豊と千代が現れてきそうな錯覚を覚えました。

 

掛川城天守閣へ ~掛川城散歩2

2006-09-19 12:25:15 | 旅の記録
 掛川駅の改札口を出てまず目に入ったのは、「千代と一豊の掛川館」の宣伝の看板です。それを見てだんなさんが一言。
「一豊と千代ではなく、千代と一豊なんだな。」

 確かに……、普通はだんなさんの名前の方が先ですよね。でも、山内夫婦の場合は奥さんの方が先…。面白いですね。

 「功名が辻」の原作は、千代が夫の一豊を土佐二十四万石の大名に育て上げる…というストーリーです。ドラマを観ていると、いったい誰が主役なのか時々わからなくなりますが、原作では明らかに千代が主人公です。なので「千代と一豊」なのでしょうね。

 掛川城に向かう前に、駅前の喫茶店で昼食を取ることにしました。それで、せっかくなので掛川在住の友人(掛川城散歩の第1回に出てきた、天気を電話で尋ねた友人です)とも食事をご一緒することにしていました。掛川城にも誘ったのですが、あいにく用事があるとのことで残念でしたが。

 私はシーフードピラフ、だんなさんはカレーピラフ、友人はチキンピラフを注文しました。彼女は25年近くの長いつきあいのある友人なので、会話もはずみます。
 そう言えば私がまだ静岡に住んでいた頃、よく電車で掛川まで来て、この喫茶店で何時間も彼女とおしゃべりしたことがあります。そして帰りは、15分間の旅行気分を味わいたくて、新幹線に乗って静岡まで帰ったものです(掛川・静岡間は新幹線で約15分です)。そんなことをなつかしく思い出しました。

 さて、2時少し前に喫茶店を出て、掛川城に向かうことにしました。掛川城は、友人の家への通り道なので、お言葉に甘えて車で送ってもらいました。助かりました。

 掛川城は、駅から歩いて約5分くらいの所にあります。そのため、車ではあっという間に到着しました。
 車を降りると立派な門があり、そこをくぐると20段くらいの急な石段が目に入りました。石段を上がると広場のようになっている場所に出ます。ここに受付があるので、天守閣と「千代と一豊の掛川館」への入場券を購入します。どうやら掛川館や二ノ丸美術館、二ノ丸茶室などは、この受付のすぐ近くにあるようです。

 入場券を購入し、私たちは再び急な石段を昇りました。天守閣はこの小高い丘の頂上にあるので、急な石段をずっと昇っていかなければなりません。かなりきつかったです。12年前にここに来たときも、こんなにきつかったかしら…と思うと、「私も年を取ったんだ~」と思わずにはいられません。そうですよね、考えてみるとあの頃の私はまだ二十代で、毎週のようにスポーツサークルに通っていたのですから…。

 こうして石段を昇っていくうちに、天守閣がどんどん大きく見えるようになってきました。では、丘の中腹あたりから見た天守閣をどうぞ。



 掛川城は、文明年間(1469~1485)、今川家の出城として現在の掛川城の東側に築かれ、その後約100年の間、徐々に城郭を広げていきました。今川家が武田信玄によって滅ぼされると武田家の城となり、武田家の勢力が衰えると徳川家康のものとなります。

 天正十年(1590)、小田原の北条氏が滅亡すると、家康は秀吉の命で関東に移ることとなります。そのため、家康の旧領は、秀吉の部下たちに分け与えられました。その時に掛川五万石を与えられたのが山内一豊だったわけです。
 掛川城はそれまで天守閣のない城でしたが、一豊は天正十九年~慶長元年(1591~1596)にかけて、三層四階建ての天守閣を築きました。しかし一豊は、主君の豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて自害させられる文禄四年(1595)までは、ほとんど京や大坂にいたようなので、実際に天守閣を築くときの指揮を執ったのは弟の康豊か、留守を守る家臣だったかもしれませんが…。

 一豊は慶長五年(1600)、関ヶ原に勝利した家康から土佐二十四万石を与えられ、掛川を去ります。その後掛川は徳川家の直轄領となり、11家26代の大名が城主となって幕末を迎えます。しかし、天守閣は嘉永七年(1854)の大地震で倒壊してしまいました。
 そして今から12年前の平成六年(1994)四月、掛川城天守閣は当時の史料に基づき、木造建築によって忠実に復元されました。なので現代に生きる私たちも、一豊が築いた当時の天守閣にかなり近い形のものを見ることができるわけです。

 では、すぐ近くから見た天守閣をご覧下さい。



 さあ、あともうちょっとで天守閣の中に入ることができます。一豊の鎧との再会が楽しみです。

 

出発 ~掛川城散歩1

2006-09-16 17:00:01 | 旅の記録
 大河ドラマ「功名が辻」では小田原攻めの放映が終了し、主人公山内一豊は掛川五万石の領主となりました。

 五万石の領主となった一豊が入ることになった掛川城は、私の住んでいる町から電車で約20分の所にあります。しかも、掛川城の天守閣を造ったのは一豊ですし、9月10日放映の「功名が辻」のエンディングでも紹介されましたし…。これは行くしかない…と思いました。

 と言うわけで、9月14日(木)に行くことに決め、準備に取りかかったのでした。実は私、掛川城を初めて訪れるのではなく、天守閣が復元されてから3ヶ月後の平成6年7月にすでに訪れているのですが…。それでも、天守閣の中に展示されていた一豊の鎧と再会したい、新しくできたという「千代と一豊の掛川館」にも行ってみたい…と思い、わくわくしてこの日を迎えたのでした。

 ところが、当日の朝はしとしとと雨が降っていました。雨だとお城の石段を昇るのがきついと思い、やめようかとも思ったのですが、やはり「行きたい」という思いが強く、掛川の友人に電話をして向こうの天候を聞いたり、静岡県西部地方の天気をチェックしたりしていました。友人の話では、掛川の天気はだんだん回復しているとのこと、天気予報でも「雨は昼前に上がる」となっていました。その通り、午前10時頃には雨もだんだん弱くなってきたようなので、「これなら大丈夫だ」と思い、行くことにしたのでした。

 私は、本日のカメラマン役のだんなさんと一緒に、11時前に家を出発しました。雨はまだぽつぽつ降っていましたが、ぬれるほどではないので一安心。

 さて、浜松方面行きのJRの普通電車に乗ると、間もなく、江戸時代に「超すに超されぬ」と言われていた大井川を渡ります。江戸時代には大井川には橋がかかっておらず、雨が降るとすぐに「河止め」になってしまい、旅人たちは島田の宿で足止めになってしまっていたのですよね。
 今では電車で1分ちょっとで川を渡ることができてしまいます。江戸時代の旅人たちがこの光景を見たら、さぞびっくりすることでしょうね…。

 では、電車の中から撮影した大井川をご覧下さい。



 ところでこの大井川、菅原孝標女が著した「更級日記」にも出てくるのです。
 13歳の孝標女は、上総介の任期を終えた父や家族とともに東海道を京へ向けて上っていくのですが、その途中に大井川を渡っています。
 では、「更級日記」の大井川について書かれた部分を引用しますね。

大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉 などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

 意味は、「大井川という川を渡りました。まるですり粉を流したように白い水が流れています。おまけに水の流れもとても速いのです。びっくりしました。」という感じでしょうか。当時の大井川は今よりもずっと水量も多く、流れも速かったのでしょうね。そんな水の流れを珍しそうに眺めている孝標女の好奇心いっぱいの顔が目に浮かぶようです。

 だんなさんの話によると、大井川の上流にダムができるまでは、この川の水量は今よりも多かったとのことです。
大井川ダムは1936(昭和11)にできたそうです。そしてこのダムは、大井川流域だけではなく、山梨県の方にもかなりの水を供給しているということです。その分、大井川に流れる水は昔より少し少なくなっているようなのですよね。

 ただ今日は、雨が降ったせいか水の量はいつもより少し多いようです。(写真では少なく見えますが、大井川はいく筋かに分かれて水が流れています。なので、もっと多く水が流れている部分もありました。)「更級日記」を思い出したせいか、水も何となく白く見えます。孝標女が見た風景と近いものを、私も見ることができたのかもしれません。

  

掛川城に行って来ました♪

2006-09-14 20:03:49 | えりかの平安な日々 04~09
 以前、掲示板にて「今年中に掛川城(山内一豊が10年間、城主をつとめたお城です)に行き、写真を撮ってきます)とお話ししたことがありましたが、本日ようやく、それを実行してきました。

 掛川城を訪れたのは12年ぶり2回目だったのですが、まず感じたことは「石段や天守閣の中の階段がこんなに急だったかしら?」ということでした。それもかなりの数の石段や階段を昇ったので、かなり疲れてしまった…というのが正直なところです。やはりお城というのは、敵の侵入を防ぐために階段も急になっているのでしょうね。

 でも、普通電車でわずか20分くらいの所に、現実を忘れさせてくれるような素敵な場所があったことに感動もしました。天守閣の中では戦国時代にタイムスリップをすることができましたし、大河ドラマに便乗して建てられた「千代と一豊の掛川館」では、「功名が辻」の世界を堪能しました。お茶室でお茶を飲み、落ち着いた雰囲気を味わうこともできました。曇っていたせいで気温も高くなく、その点でも快適でした。少し疲れたけれど楽しいプチ旅行だったなと、とても満足です。

 そこで、本日の掛川へのプチ旅行記を、今週末くらいからこちらで連載することにいたしました。多分4~5回の連載になると思います。1週間に1~2回程度のゆっくりの更新ですが、おつき合い頂けますと嬉しいです。

 掛川城の天守閣は小高い丘の上に建っているのですが、写真は丘のふもとから見上げた天守閣です。

 

噂の皇子

2006-09-12 21:40:30 | 図書室3
 本日は、永井路子さんの平安小説を集めた短編集を紹介いたします。

☆噂の皇子
著者・永井路子 発行・文藝春秋 価格・407円

*上の写真は私が所持しているハードカバーの単行本の表紙ですが、現在は文庫版のみ入手可能となっているようです。

■内容紹介■
三条帝の第一皇子・敦明にはかねてより奇妙な噂が。王朝時代の華やかさとその裏に潜む暗闇を描いた短編8編。

 では、収録作品を紹介いたします。なお、各項目の☆以降はえりかによる紹介文、*以降はえりかの感想コメントです。


噂の皇子

☆長和四年(1015)、藤原道長と三条天皇は激しく対立していました。そのさなか、
三条天皇の第一皇子で次期東宮候補でもある敦明親王には色々な奇妙な噂が流れていました。「こんな噂が流れていたら東宮にはなれませんよ。」と母の(女成)子にたしなめられるのですが、敦明親王はあまりまじめに聞いていないようです。
 しかし、ある日父三条天皇の本心を知った敦明親王は、「どうしても東宮になろう!」と決心をするのです。道長と三条天皇の対立を描きながら、敦明親王にもスポットを当てた歴史短編です。

*やはり敦明親王がとても魅力的に描かれています。一見何も考えていないように見えながら、しっかりと世の中を監察しているところがすごいなと思いました。
 また、三条天皇が道長に対して行った抵抗の裏に、敦明親王が関わっていたという、永井さんの視点も面白いです。


桜子日記

☆和泉守橘道貞の妻でありながら為尊親王と情熱的な恋愛をし、親王の死後はその弟の敦道親王と恋をした情熱の歌人和泉式部の姿を、彼女に仕える女童の目を通して描きます。

*この小説には、「和泉式部日記」の冒頭部分で登場する、元は為尊親王に仕えていた少年が、「桂丸」という名前で登場し、語り手である桜子と恋仲ということになっています。このことは、この小説の大きな鍵となっています。
 もちろんこの小説には、有名な和泉式部と敦道親王の車の中でのしのび逢いの部分も出てきます。色々異論はありますけれど、やはり和泉式部は魅力的な女性だなと思いました。


王朝無頼

 美濃守が不当にくすね取った財を都に運ぶ役目を仰せつかった百姓の一団の一人として、鈴鹿丸は都にやってきます。しかし鈴鹿丸は、近衛府の役人の目にとまり、相撲人として召し出されてしまいます。体が大きいわりには力もなく、意気地もない鈴鹿丸は「ここにいたら殺される」と思い、ある日相撲人の宿舎から逃げ出してしまいます。そして、そんな彼が道ばたで出会った相手は…。庶民から見た平安貴族を描いた異色作。

*この小説には、盗賊として有名な藤原保輔、その兄の保昌、学者として有名な大江匡衡も登場します。しかし、庶民の鈴鹿丸は最後まで、彼らが何者かわかりません。考えてみると、平安京に住んでいた貴族たちはほんの一握りであり、平安時代を生きていた大多数は、学問もなく、ただ働くことでしか生きていくすべのなかった庶民なのですよね。この小説は、そんな庶民にスポットを当てている点で面白かったです。

 またこの小説では、高官に賄賂を送り、再任を頼むという受領のしたたかさもかいま見ることができます。


風の僧

☆元平将門のお気に入りだったという女祈祷師、その祈祷師の口からささやかれる将門生存説…。将門生存説を巡って祈祷所で繰り広げられる不思議な物語。

*女祈祷師、旅の僧、夜盗風の若者…。この小説に登場する人物はみんな謎に満ちています。そして、全国に伝わっている将門にまつわる伝説を考えると、ますます謎が深まります。藤原秀郷に打たれたのが本物の将門であったかどうかは、実際のところ確証がないのですものね。
 国司に反旗をひるがえし、庶民たちから「英雄」と呼ばれた将門の姿が、この小説からかいま見えるような気がしました。


双頭の【ぬえ】

 治承四年(1180)、平家討伐に立ち上がった源頼政。しかし、計画は未然に露見し、頼政は敗死してしまいます。彼の生き様を、二条院讃岐(頼政の娘)三井寺の葉上房、建寿御前(藤原定家の姉)、郎党藤七の四人の人物が語ります。

*和歌を愛し、「政治など無関係」という顔をしながら、実は平家にも後白河院にも、さらには九条家にもすり寄っていた源頼政とはいったいどんな人だったのか、とても気になります。そんな要領のいい生き方をした頼政が、最後にはどうして以仁王とともに勝ち目のない戦に臨んだのかも謎です。しかも、四人の語る頼政像は語り部によってかなり食い違っています。二つの頭を持ったぬえのように、色々な面を持っていた人だったのかもしれませんね。


二人の義経

 寿永二年(1183)、源頼朝の命令で馬を伊勢神宮に奉納するために鎌倉を出発した源義経。ところが、途中で賊に襲われてしまいます。しかし、賊に「源義経」と名乗ったとたん、賊は恐れをなして逃げ出してしまいます。義経が歴史の舞台に登場する前に、近江に源義経と名乗っていた武将がいたという史実を下敷きに描いた義経像。

*近江の源義経は、新羅三郎義光の五代の孫の山本義経だと言われています。大変勇猛な武将で、平家も手を焼いていたようです。この小説での義経は、近江の山本義経に対抗心を燃やし、義仲や平家攻めに闘志を燃やしていた…という風に描かれています。現在ではすっかり忘れられてしまったもう1人の義経とはどんな人物だったのか、とても気になります。


六条の夜霧

 色好みで有名な関白の子息藤原道明が現在夢中になっているのは、六条の荒れ果てた家に住む女でした。しかし、その女の家には夜ごとに幽霊が…。王朝の闇の部分を描いた短編。

*道明の恋人はひとりぼっちの哀れではかない女だと思っていたのですが、何と、とんでもないしたたか女だったのですね…。それにしても、この時代は盗賊がかなり幅をきかせていたようです。怖いですね…。
 そして、この小説に出てくる盗賊風の男、六条の女、道明の従者の少年…、それぞれが策略を巡らし、知らぬは道明1人だけというのも面白いです。この時代の関白の御曹司って意外と世間知らずだったのかもしれませんね。


離洛の人

☆小野道風、藤原行成とともに「三跡」と呼ばれた名筆家の藤原佐理。しかし彼は、「如泥人」と言われるほどだらしのない所がありました。そのためか、名門の家に生まれながらも官人としては不遇だったようです。そんな彼の生涯を描いた短編。

*参議という華やかな官職と引き替えに大宰大弐となったものの、失敗して解任され、無職同然に…。何か少しお気の毒なように思えます。そして、名筆家であったため、自分の失敗を弁解する文書ばかり残ってしまい、後世「如泥人」と言われるようになってしまったことも不運ですよね。でも、そのおかげで現代に生きる私たちは、彼の見事な筆跡を見ることができる…。これも歴史の不思議な巡り合わせでしょうか。


 以上のように、この短編集に収められた小説は、主人公が皇族、貴族から武士、庶民に至るまでとバラエティーに富んでいます。また、短編ながらいずれも読み応えがあると思います。ぜひ、永井路子さんの描かれる平安の光と闇の世界を堪能してみて下さい。

注文してしまいました~

2006-09-09 20:53:15 | 読書日記
 「絶版本を投票によって復刊しよう」という、「復刊ドットコム(この記事の一番下にリンクを貼っておきます)」というサイトがあるのですが、このサイトに3年くらい前から、「平安時代史事典(角田文衞監修)」という事典がエントリーされていました。

 この事典は、

平安建都1200年を記念として刊行した平安時代の総合大事典。
あらゆる分野を網羅し、平安時代400年間の歴史を約21,000項目と多数の図版資料で解明する。

という事典だそうで、私も「ぜひ読んでみたい!」と思い、復刊を願って一昨年の3月に投票をさせていただきました。

 このたびこの「平安時代史事典」がCDロムで復刊することとなりました。こんなに早く復刊するとは思っていませんでしたので、嬉しさより驚いたというのが正直な感想です。もちろん「欲しい!」とは思いましたが、私には越えなければならないハードルがいくつかありました。

 まず一つ目はお値段です。何と80000円!見ただけで「手が出ない」と思いました。でもそれは、だんなさんが「貯金を切り崩してもいいよ」と言ってくれたのですぐ解決しました。

 2つ目……、私にとってはこの方が問題でした。

 「管理人ご挨拶」でも書いていますが、私は視力の障害があり、音声ソフトを使ってパソコンやインターネットを利用しています。なので、このCDロムが音声対応になっているか、画面を印刷できるようになっていないと(画面をプリンターで印刷した物をマイリードというソフトで音声に変えて読むことができるのです)使用することができないのです。そうなった場合は、だんなさんに画面の文字を読んでもらうしかないのですが、大きな負担をかけることになってしまいます。

 そのことで私が迷っていると、だんなさんの言うことには、彼が使用している医学大事典、データは平安時代史事典とほぼ同じくらいで画面の印刷ができ、値段は18000円なのだそうです。なので、80000円の平安時代史事典は、まず画面の印刷ができるのではないか…と。
 それに、「買えるときにどんどん買ってしまわないと、こういったものはすぐになくなってしまうよ。」とも言っていました。
 
 と言うわけで、さんざん迷ったあげく、本日の夕方に注文をしました。画面の印刷ができるかどうかはっきりわからないので、早く言えば大きな賭に出たようなものです。
 でも、このCDロムが、私1人の力で使うことができるものであれば、80000円は安い買い物かもしれません。「平安時代史事典」は、平安時代の人物、文学、建築と、あらゆる分野が網羅された事典なのだそうです。この事典があれば、平安時代の細かいことをもっともっと知ることができますし、こちらの記事を書く時も大いに役立てることができるのではないかと思います。
 とにかく、平安時代についてはもっともっと深く勉強したいです。そのためには、まずこのCDロムを購入することが先決ですものね。

 そう言えば本日の明け方、なので注文をする前ですが…、私はこのCDロムを使って藤原行成さんのことを調べている夢を見ました。夢の中では、印刷はもちろんできましたし、それどころか画面の文字を直接、音声で読ませることができていました。どうかこの夢が正夢になりますように…。
 
     
復刊ドットコム
平安時代史事典

源氏物語 ー古典の旅4

2006-09-06 09:00:00 | 図書室2
 「百人一首」「更級日記」に引き続き、今回も「古典の旅」シリーズからの紹介です。こちらもかなり気に入っている本です。

☆源氏物語(古典の旅4 瀬戸内寂聴著)
*文庫版は「源氏物語を旅しよう」というタイトルになっています。

 では、最初に目次を紹介しますね。

物語という旅への誘い
廬山寺 紫式部邸宅址
琵琶湖
高島三尾里
塩津
逢坂関跡
石山寺
武生

京都
 東寺/羅城門址/西寺址/朱雀門址/朱雀門址碑/大極殿址/神泉苑/平安神宮/京都 御所/夕顔 の宿跡/鳥辺野/河原院址/三条宮址/京都文化博物館別館/東三条院址 、閑院内裏址/二条院址/鞍馬寺/ 大学寮址
嵯峨野
 仁和寺/野宮神社/大堰川畔/清涼寺
小野の里
初瀬
 椿市/長谷寺 
宇治
 宇治神社/宇治上神社/平等院/宇治川
八瀬

解説・虚構としての「源氏物語」          鈴木日出夫
「源氏物語」の梗概 清水 好子


 平成四年五月、結婚5周年を迎えた私たちは、2泊3日の京都旅行に出かけました。その際、この「源氏物語 古典の旅4」を片手に京都や嵯峨野を歩きました。

 京都の町並みを見ながら、「このあたりに紫の上が住んでいたんた!」と想いをはせたり、嵯峨野の竹林を見たときはこの本の口絵の竹林の写真と見比べ、「わ~、同じだ!」と感動したものです。
 また清涼寺では、「ここが出家をした光源氏が晩年を過ごしたお寺のモデルなのね。」と感動し、平等院では夕霧に想いをはせました。あの時の旅は「源氏物語に想いをはせる旅」だったような気がします。

 …と、前置きが長くなってしまいました。では、この本の内容を紹介しますね。

 この本の前半では、主に紫式部ゆかりの史跡を紹介しています。紫式部が住んでいた邸宅のあった場所と推定される廬山寺、紫式部が「源氏物語」を書き始めたという伝説の残る石山寺はもちろん、父為時とともに下った紫式部が見たであろう風景も紹介されています。

 後半では、「源氏物語」の主な舞台となった京都(平安京)から、出家をした浮舟が住んでいた八瀬まで、様々な土地や旧跡、史跡、寺社が紹介されています。その土地が舞台になった各場面も、時には原文を交えて紹介されています。須磨や明石、大宰府が紹介されていないのが残念ですが、これだけでも充分「源氏物語」の舞台を楽しむことができると思います。

 また巻末には、「源氏物語の梗概」と題して、物語の各巻のあらすじも紹介されています。これを読んだあとに「源氏物語」の現代語訳を読んでみるというのも、この長大な物語に親しむ一つの方法ではないかと思います。

 この本を読むと、紫式部ゆかりの土地や「源氏物語」の舞台となった土地のことがよくわかると思います。特に、「源氏物語」の舞台となった土地のことがわかれば、より「源氏物語」に親しみが増すように思えます。その意味でこの本は、「源氏物語」のガイドブックと言えそうです。この本を片手に京都やその周辺、琵琶湖畔や武生を歩いてみるのも楽しいのではないでしょうか。
  

平安の春

2006-09-03 13:11:03 | 図書室1
 本日は、平安~鎌倉前期の人間模様を描いた学術エッセーを紹介いたします。

☆平安の春 (講談社学術文庫 1360)
 著者・角田文衞 発行・講談社 価格・1008円(本体960円)

本の紹介文
 藤原氏栄華の礎を築き、数々の美徳をそなえた好人物とされる師輔の真の姿を浮彫りにし、専制君主白河法皇の激しくも淋しい生涯に迫る…。後宮の栄光に溢れた優麗典雅の生活あり、争いに敗れ鄙に隠栖する悲しき女性も垣間見える。平安の都を舞台に繰り広げられる人間模様を、多くの文献の読み込みと深い洞察で語る学術エッセイ。

[目次]
第1部 春にかすめる
 平安の春
 師輔なる人物
 花山天皇と熊野 
 紫女と清女
 「源氏物語」と北山
 清少納言と平安京
 王朝貴族の恋
 王朝貴族の婚姻圏
 心やさしき宇治殿 ー藤原頼通

第2部 花の散るのみ
 四条宮下野
 白河法皇
 院宮の女房たち
 三人の野心家 ー忠通 頼長 信西
 沙弥・西念の悲願
 弥陀の浄土
 信夫荘司季春の死

第3部 春し暮れなば
 薄倖の后
 義経と平泉
 実朝の首
 寂蓮の愚息
 恨めしい応仁の乱
 清十郎
 女のいのち

あとがき

面白くてやめられない名著      瀬戸内寂聴


 私とこの本との出会いは今から3年半ほど前のことでした。当時よく出入りしていたあるサイトの書籍紹介コーナーでこの本が紹介されていたのです。そこで、「なかなか面白そう。読んでみたい。」と思って購入しました。
 そして、この本には清少納言が定子皇后崩御後、彼女所生の脩子内親王や(女美)子内親王に仕えていたこと、紫式部の没年が1031年であることなど、あっと驚くようなことが書いてあってびっくりしたのを思い出します。平安~鎌倉初期に活躍した人物たちのことが生き生きと描かれており、学術エッセーながら小説のように楽しく読むことができました。

 今回、この項を書くために再読をしたのですが、初めて読んだとき以上に堪能できたように思えます。

 特に心引かれたのは、この本の中でも最も紙数を費やして書かれていた藤原師輔(908~960)と白河法皇(1053~1129)についての項です。

 有能な政治家でありながらも、実は兄実頼に対して対抗意識を持っており、その証として3人の内親王を次々と妻に迎えた師輔。その師輔の子孫たちが、藤原摂関家の栄華を極めることを考えると興味深く感じます。
 また、専制君主というイメージが強い白河法皇ですが、中宮賢子、、祇園女御、藤原璋子などの女性たちに対する愛情が尋常なものではなかったこと、特に璋子への愛情は、のちの歴史を変えてしまったことなども書かれていました。さらに白川法王は信仰心に厚く、学問にも優れていたという一面もあったようです。白河法皇の一代記を小説やドラマにしたら面白いだろうな…と読みながらふと思いました。

 その他、義経の忠実な家臣であった佐藤兄弟の祖父に当たる佐藤季春が藤原基衡に対して忠義を尽くした話、義経の義父藤原長成と秀衡の舅藤原基成の関係など、義経や平泉に関する話も書かれています。四条宮下野や建礼門院など、後宮の女性たちに関する項目もとても読み応えがありました。愛憎あり、陰謀あり……、巻末で瀬戸内寂聴さんも書いておられますが、面白くてやめられない本です。

 この本は、一つ一つの項目が独立していますので、自分の興味の赴くままにどこから読んでも楽しむことができます。何よりも、登場人物が生き生きしているので、その人物が私たちの身近にいるような感覚を味わうことができると思います。どうかこの本で、角田先生の描かれる平安~鎌倉前期の人間模様を堪能してみて下さい。

なすとベーコンのトマトスパゲッティ

2006-09-01 21:07:39 | えりかの平安な日々 04~09
 おいしいイタリアンレストランのスパゲッティを我が家でも味わいたくて、ここ1ヶ月くらいスパゲッティ作りにこっています。本日は「なすとベーコンのトマトスパゲッティ」に挑戦しました。

 でも、作り方はほとんど適当です。

 まず、フライパンにオリーブオイルを敷き、みじん切りにしたにんにく一かけと、輪切りにした赤唐辛子(市販のものです)少々を炒めます。この時、いい香りがするのですよね~。
 この中に、ベーコン1枚を小さく刻んだものと縦半分に切ったあと斜めにスライスをしたなす1本、ピーマン1個とにんじん3センチほどをせん切りにしたものを入れてさらに炒めます。野菜がしんなりしたら、しゃもじなどでつぶしたホールトマトの缶詰1缶を汁ごと入れ、アジ塩を3ふりして5分ほど弱火でことことと煮込みました。こうしてトマトソースが出来上がりました。

 このトマトソースと、堅めにゆでたスパゲッティ2人分を混ぜ合わせて、「なすとベーコンのトマトスパゲッティ」の出来上がりです。

 おいしいイタリアンレストランの味にはまだちょっと及びませんが、それでもおいしかったです。塩味が足りないような気もしたので、ベーコンをもう1枚入れてもいいかもしれません。また作ってみたいです。そして、今度はペペロンチーノにも挑戦してみようかな。


☆ついでにお知らせです。
 8月末日にて、旧掲示板「旧・えりかの談話室」を削除しようと思っていたのですが、せっかく投稿して下さいました皆様の発言が消えてしまうのはとても残念なので、もうしばらく残しておくことにいたしました。
 ただ、旧掲示板はあくまでも閲覧用ですので、投稿はブックマークの一番上にある「えりかの談話室」の方にお願いいたします。