平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第24回&無視されてしまった猫間中納言

2005-06-22 00:00:00 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第24回の感想です。

今回は後白河法皇が光っていましたね。義仲を平家討伐に出陣させ、その留守中に行家と結び、裏では頼朝に書状を送り…。また、西国に落ち延びた平家には「三種の神器を返せ!」と書状を送っているようです。
さすが、政治というものをよく心得ています。信西入道、藤原信頼、平家の公達、義仲、行家、義経らを陰であやつり、それらの人々に勝利したという点で、彼がある意味ではこの時代の主役だったのかもしれません。
ちなみに後白河法皇は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた人なので、本来なら皇位が回ってくる可能性は非常に低かったと思われます。本人も政治には興味がなく、今様などの趣味の世界を楽しんでいたような所がありました。それが、異母弟近衛天皇の若死にと当時の政治状況によって思いがけず皇位に就くことになり、政治というものに夢中になってしまったようです。特に院政を行うようになってからは、臣下をあやつるのが楽しくてたまらなかったのかもしれませんよね。今回のドラマ中で、丹後局と二人で謀略を巡らしているところなどは本当に怖いですね。

さて、義経と頼盛の対面……。近江に陣をしいている義経と、鎌倉に下る頼盛が会うという設定にしたのですね。
でもやっぱり、頼盛の登場は唐突すぎるような気がしました。今まで頼盛と平家一門の微妙な関係や、都落ちからの脱落にさえ触れていなかったからでしょうね。そして、もっと唐突だったのが手古奈の登場です。いつの間にか頼盛の侍女になっていたとは…。なぜ時子が手古奈に暇を出したのか気になります。頼盛や手古奈の説明を聞いていると、どうやら頼盛は初めから平家の都落ちに参加しなかった……という設定のようですね(実際は参加したように見せかけて途中で引き返しています。)。

ところで、予想はしていたものの法住寺合戦は、おとくばあさんのナレーションだけであっさりすまされてしまいましたね。今度こそは、迫力のある合戦の映像を観てみたかったのですけれど…。楽しみは一ノ谷にとっておくように……ということなのでしょうか。
その法住寺合戦のあと、義仲は藤原基房の娘を強引に妻にしたとありましたけれど、義仲と基房の娘との結婚は、法住寺合戦より前だと思うのですが…。
それに第7回の感想にも書いたのですが、どちらかと言うと基房の方から義仲に接近したと思うのです。
治承のクーデターで失脚した基房は、密かに政界復帰をねらっていました。 そこで、平家に代わって都に入ってきた義仲に接近し、義仲との結びつきをより強固にするために娘を差し出したのではないかと私は思っています。
義仲は法住寺合戦のあと、摂政だった藤原基通(妻は清盛の娘)を辞めさせ、その代わりに基房の息子でわずか12歳の師家を摂政にしています。これによって基房はやっと政界復帰ができたのでした。
 しかしドラマでは、そんな義仲と基房の関係を無視していますよね。
まあ先週、「北陸宮を天皇に。」と言った義仲に対して、「田舎武士ごときが天皇家に口出しするなどけしからん!」というようなことを基房に言わせていますから、今さら義仲と基房が手を結んでいた……という設定にはできなかったのでしょうね。

さて今回、鼓判官こと平知康が義仲に愚弄されていましたよね。都の作法も知らない義仲に愚弄された知康の無念が伝わってくるようでした。
そしてその場面を観ているうちに私は、「平家物語」の中でやはり義仲に愚弄されていたある公卿のことを思い出しました。

その公卿の名は猫間中納言こと藤原光隆……。十数年前、年末やお正月に義経や源平をあつかったドラマが何本か放映されたことがあるのですが、その中のどのドラマか忘れてしまいましたけれど、彼が登場していたものもありました。なので今回もひょっとして登場するかも……と、期待していたのですがやっぱり無視されていました。
ところでこの藤原光隆という人、彼の人となりも興味深いですが、家系もなかなか面白いのです。そこで今回は、彼の家系と「平家物語」に描かれている義仲との関わりなどについて書かせていただきます。

まず初めに、藤原光隆の家系についてお話しさせていただきます。

彼は系譜上は藤原伊祐(紫式部のいとこ)の子孫ということになっています。しかし実際は村上天皇の皇子、具平親王の子孫なのです。
具平親王は正妻との間に源師房や隆姫女王(藤原頼通の妻)などの子供をもうけていますが、身分の低い家女房との間にも男の子を一人もうけました。その男の子は、双方の家の了解のもと藤原伊祐の養子となり、藤原頼成と名乗ることとなったのです。
ちなみに具平親王の母と、藤原為頼(伊祐の父)・藤原為時(紫式部の父)兄弟はいとこ同士でした。このような関係もあり、具平親王はこの一家と大変親しかったようです。そこで、養子縁組もスムーズに行ったのかもしれませんよね。
光隆は、この頼成の玄孫に当たります。

では、「平家物語」に猫間中納言として登場するこの藤原光隆とは、どのような人だったのでしょうか。

藤原光隆 1127年(28年とも)~1201年
 壬生に邸宅があったため「壬生中納言」と称していたともいわれています。真偽のほどはわかりませんが、壬生のことを別名「猫間」といったということから「猫間中納言」と呼ばれていた……ということを聞いたことがあります。

父は藤原清隆、母は藤原家政女家子です。
光隆の母方の祖父藤原家政は、関白藤原忠実の異母弟に当たります。つまり光隆は、摂関家とも一応つながっていたのですよね。
なお、父の清隆は鳥羽院近臣、母の家子は近衛天皇の乳母でした。
 近衛天皇の乳母子であったことも影響していたようで、光隆は長承二年(1133)わずか七歳で叙爵します。そして順調に出世していきました。
平治の乱で藤原信頼が誅殺されると、その時治部卿を勤めていた光隆は藤原成親と共に信頼の縁坐によって解官されました(平治元年十二月二十七日)。これが彼の人生でのただ一つの挫折といってもいいかもしれません。
 しかし、この不遇な時代はほんの一時のことでした。翌永暦元年(1160)四月、彼は治部卿に返り咲き、八月には従三位に叙されています。
 そして長寛二年(1164)に正三位に加階します。更に二年後の永万二年(1166)に参議に任じられます。。
仁安二年(1167)、任権中納言。翌三年従二位に叙されますが、なぜか光隆は従二位に叙された数日後に権中納言を辞してしまいました。その後は後白河院の近臣として、院の庁に出仕していたと思われます。こうして光隆は、後白河院の近臣としての道を歩み始めたのでした。なので、光隆が義仲に愚弄された寿永二年(1183)には、彼は中納言ではなく前権中納言だったということになります。
 なお、彼は実際は具平親王の子孫ですが、あくまでも藤原伊祐の子孫としてあつかわれていました。つまり、彼の家格は受領階級です。なので、彼が従二位権中納言にまで昇進したのは異例中の異例と言えるかもしれません。

では、「平家物語」の巻八、「猫間」の項に出ている光隆と義仲の話を要約させていただきます。ただしこの話は「平家物語」だけに載っている話なので、必ずしも史実とは言えないようですが…。

ある日、猫間中納言藤原光隆が、相談したいことがあるということで、義仲の館にやって来ました。
「猫間中納言のお出ましです。」という郎党の言葉に義仲は、「なに?猫が来たと?」と聞き返します。その言葉にあわてた郎党は「猫ではありません。ちゃんとした人間です。猫間中納言というれっきとした公卿です。」と言ったのでした。
しかし義仲は「猫どの」で通したようです。「猫どのに食事を差し上げよ。」と郎等に命令し、自分の分と一緒に食事を持ってこさせます。それは、田舎風の深いお皿に山盛りに盛った飯と菜が二品、それとひらたけの汁といった献立でした。
光隆は田舎風の皿が汚く思えて食べるのを躊躇し、少し箸をつけただけで下に置いてしまいます。それを見た義仲は笑いながら、「猫どのは少食じゃのう。猫というものは食い散らかしで有名だと言うのに。さあ、食べよ食べよ。」とはやし立てました。
猫呼ばわりされた光隆は興ざめしてしまい、義仲と相談することも忘れて帰っていってしまいました。

最初この話を読んだとき私は、「猫呼ばわりされてしまった光隆さん、お気の毒に…。」と単純に思っただけでした。
しかしこの話は、色々裏がありそうです。あくまでもこの話が史実だと仮定した場合ですが…。光隆は、「相談することがあって義仲の館を訪れた」ということになっていますが、案外後白河法皇から「義仲というのはどんな男なのか、観察してこい。」という密命を受けていたのかもしれません。そして、義仲の館から後白河法皇の許に直行し、「田舎者の取るに足らない男です。早々に見限った方が賢明だと存じます。」というくらいに言ったと私は思います。義仲に愚弄されているように見えながら、光隆は光隆なりに色々計算していたのでしょうね。
どうやら光隆という人は、まるで猫のように、世の中の動きをしっかり観察していたようなところがあったようです。そして、「最後に生き残るのは後白河院だ。」ということを察し、早々に官を辞してしまい、院の近臣に専念したのかもしれません。
鼓判官こと平知康は、最後には後白河法皇に見捨てられてしまいますが、光隆は最後まで院の近臣として後白河法皇に仕え、院の崩御後は平穏な余生を送ったものと思われます。後白河法皇に世の中の動きをこまごまと伝えていたのは、案外この光隆だったかもしれません。なので、やっぱり光隆はドラマに出演させて欲しかったです。

 余談ながら彼の息子には、百人一首98番目の歌、「風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける」で知られる歌人の藤原家隆がいます。

さて来週は義仲の最期が描かれるようですね。今井四郎兼平と主従二騎となり、壮絶な最期をとげる場面をどう描くのか、楽しみでもあり不安でもあります。
 それから、どうやら常磐御前が再登場するようです。と言うことは、義経との親子の涙の再会が観られるかも?
来週もやっぱり楽しみです。

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