平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

近況をつれづれなるままに

2005-03-30 22:31:52 | えりかの平安な日々 04~09
 「えりかの談話室」へのたくさんの書き込み、どうもありがとうございました。
やっぱり掲示板の方が書きやすいという声が多いようです。思い切って方針を変えて良かったです。

 ここ数日、風邪のような花粉症のような症状で苦しかったのですが、薬が効いたようでだいぶ良くなりました。そして、用事なども少しずつ片づいていますので、再びこちらの更新もできると思います。そこで、本日は近況などをつれづれなるままに書いてみますね。

1.ステレオとラジカセが壊れました
 寝室にあるCD・MDステレオのMDが調子が悪くなりました(何度も何度もボタンを押さないとMDが動きません。おまけにMDを取り出そうとしても出てこなかったり……)。そこで、普段あまり使っていなかった小型のCD・MDラジカセの方でMDを聞こうとしたのですが……、何と、いくらMDを入れても出てきてしまうのです。
つまり、こちらも壊れていたのでした。がっかりです…。そこで、小型のCD・MDラジカセの方は修理に出し、CD・MDステレオは新しく買おうと(購入して5年以上になるので)思っています。
とにかく、MD十数枚に私が特に好きな音楽を編集してあるので、ものすごく聞きたいのです。一応、ウォークマンでMDが聞けるのですが、やっぱりスピーカーで聞いてみたいです。でも、二つとも壊れてしまうなんて…。
電気製品が壊れる時って続くものなのですね。

2.最近買った本
☆井上皇后悲歌 (平城京の終焉) 安永明子著 新人物往来社
 光仁天皇の皇后・井上内親王の生涯を小説風に書いた本のようです。井上内親王というと、聖武天皇の皇女として産まれ、幼い頃齋宮に僕定されて伊勢に下向き、齋宮退下後は天智天皇の孫である白壁王と結婚します。白壁王が天皇になどならなかったら、彼女も平穏な人生を送れたかもしれませんが、彼が即位して光仁天皇になったことから、井上内親王の生涯は一変します。光仁天皇が別の妃に産ませた山部親王の皇太子冊立をもくろむ藤原百川らにはめられ、彼女は非業の最期をとげることになるのです。
 齋宮から皇后、そして非業の最期と、浮き沈みの多い人生を送った彼女には、前から興味を持っていました。この本は、出来るだけ早い内に読むつもりです。

☆平家物語の旅(源平時代を歩く) 志村有弘著 勉誠出版
 「平家物語」に登場する人物や土地が多数の写真とともに紹介されています。大河ドラマの感想を書く上でも参考になると思って購入しました。
 私は「平家物語」の主人公は以前から清盛、義仲、義経の3人だと思っていました。この本は「『平家物語』には、三人の主人公がいる。」と言う書き出しから始まります。そして「前半の平清盛、中間の木曽義仲、後半の源義経である。」と続きます。
何とこの本には、私の考えと同じことが書いてあってびっくりしました。

 他にも、ここ2ヶ月間に買った未読の本が3、4冊あります。こうしてまた未読の本が増えていきます…。本当に自制のきかない私です。

3.大河ドラマの感想の下書きを書き終えました
 と言うわけで、あとは問題のある箇所や間違いなどを確認するだけですので、遅くても明後日の午前中にはUPできると思います。今回は、源義仲の生い立ちについて調べてみました。また皆さんにご覧いただけると嬉しいです。
 

大河ドラマ「義経」第11回&鹿ヶ谷事件に関わった人たちのその後

2005-03-23 22:31:30 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第11回の感想です。

 泰衡を助けに行った義経ですが、崖を馬で駆け下りているところを見て、一ノ谷を連想したのは私だけではないと思います。義経のこの経験が、きっとのちの一ノ谷で、大いに活かされるわけですね。一ノ谷合戦がますます楽しみになってきました。
 それにしても、義経に助けられて感謝している泰衡が、とても印象深かったです。
でも、控えめでいい人という感じの泰衡さん、どうして最後には義経を裏切ってしまうのでしょう…。やはり、奥州藤原氏を頼朝から守るために、仕方なく義経を討つという感じで、ストーリーを持っていくのかもしれませんね。

 ところで、前回の放送ではやや影が薄かった佐藤兄弟が、今回の放送ではしっかり描かれていて良かったです。忠信が、「なぜ忍どのを断ったのですか?」と、義経に必死に詰め寄る姿も印象深かったです。忠信は、忍に片思いだったようですが……。忠信の片思いは実らずに終わってしまうのでしょうか。
 佐藤兄弟というと「義経の忠臣」というイメージがあります。これから義経と絆を深めていくのでしょうけれど、このドラマでそのあたりがどのように描かれるか楽しみです。

 さて、鹿ケ谷事件ですが予想通り、簡単にすまされてしまいましたね。オープニングの出演者のテロップに、「藤原成親」の名前があったので多少期待していたのですが、成親はちらっと映っただけでした。
 でも、重盛の命乞いが見られたのでまあよしとしましょう。それに、重盛と成親の姻戚関係にも触れていましたし。それから、「後白河法皇も罰するべきです。」というせりふには、平家のためなら悪役になるという重盛の姿勢が、しっかり現れていたようにも思えます。怒っている重盛を見ることができたのは満足でした。

 鹿ヶ谷事件ですが、簡単に説明すると俊寛僧都の鹿ヶ谷の山荘にて、後白河院をはじめ、西光、藤原成親・成経親子、平康頼、それから山荘の持ち主の俊寛が平家討伐の陰謀を企てた事件です。そして、成親から平家討伐軍の大将を望まれた源行綱が、「とても勝ち目がない。」と判断し、平家方に密告し、陰謀が露見したわけです。そのため、陰謀に関わった上記の僧や貴族たちは全員平家方に捕らえられました。清盛は、本当は後白河院も捕らえたかったのでしょうが、事件が未遂に終わっただけにそこまではできなかったのかもしれませんね。
 そのなかで西光はすぐに処刑され、藤原成親は備前に配流されるものの彼も配所で処刑されます。なお「公卿補任」によると、成親は配所に赴く途中の難波で薨じたとなっています。いずれにしても、事件後すぐに薨じたことは明らかなのですが…。
 成経、康頼、俊寛は薩摩の鬼界が島に流されます。密告者の行綱は安芸に流されたのではないかという説もあるようですが、はっきりしたことはわからないようです。処刑されなかったこの4人が、その後どのような人生を送ったのか気になったので、少し調べてみました。

まず、鬼界が島に流された3人について見てみますね。

 この3人は治承元年(1177)に鬼界が島に流されたわけですが、そのうち成経と康頼は翌年赦免され、都に帰ることができました。
 成経は、帰京後は官界に復帰し、のちに蔵人頭から参議にまで昇進しています。すでに平家は滅んでいましたし、父の成親は権大納言でしたので、このくらい昇進したのは当然のことのように思われます。成経は建仁二年(1202)に薨じました。
 康頼は「平家物語」によると、信仰心の厚い人物ということになっています。流罪に当たって出家をしていますので、多分それは事実だったと思います。帰京後は説話集「宝物集」を著しました。

 鬼界が島に一人取り残された俊寛はどうなったのでしょうか?
 実は、私と「平家物語」の最初の出会いは、中学校の国語の教科書に載っていた、俊寛が鬼界が島に取り残される場面なのです。俊寛の「乗せてゆけ、具してゆけ」という悲痛な叫びと、白波のうち寄せる描写は目に浮かんでくるようで、子供心にもとても切ない気持ちになったのを思い出します。
 それにしても、なぜ俊寛だけ赦免されなかったのでしょう?
まず第一に、自分の山荘を密談の場所に提供したからということが考えられると思います。また鹿ヶ谷事件以前、俊寛は清盛にかなり目をかけてもらっていたようなのです。なので、清盛にしてみれば、「裏切り者め!!許せん!」という気持ちが強かったのかもしれませんね。
 俊寛はついに都に帰ることができず、治承三年(1179)に鬼界が島にて寂しくその生涯を閉じました。かつて面倒を見てやっていた有王という童から、妻と娘の死を知らされ、悲しみのあまり食を断っての自殺だったとも言われています。

 一方、密告者の源行綱は、かなり波乱に富んだ人生を送ることになります。

 彼は、大江山の鬼退治伝説で有名な源頼光の子孫に当たります。この一族は「摂津源氏」と言われ、代々摂津の多田荘を所有してきました。つまり、多田荘は摂津源氏の象徴だったわけです。そして行綱は摂津源氏の嫡流であったため、この多田荘を相続していたのです。

 鹿ヶ谷の陰謀を平家方に密告した行綱は、その後数年間は一貫して、平家方の人物として行動していたようです。親戚筋に当たる源頼政の平家討伐(1180年)にも加わった形跡がありません。
 しかし、源義仲によって平家が次第に追いつめられるようになると、彼は平家に反旗をひるがえします。義仲と連動し、彼は平家討伐の行動を起こしています。それが、平家都落ちの一因になったことは言うまでもありません。
 しかし、都に侵入した義仲が、後白河院と対立するようになると、今度は後白河院に味方し、都で義仲軍に敗れて多田荘に逃げ帰っています。
寿永三年(1184)1月、義仲が義経軍に敗れて敗死すると、今度は一転して義経に味方し、一ノ谷合戦に義経軍の一翼として参加、大活躍をしています。
 ところが平家が壇ノ浦で滅んだあと、多田荘は突然頼朝によって没収されてしまいます。
なぜこのようなことになったかと言いますと、頼朝と義経の対立が考えられると思います。義経に従って平家追討に協力した行綱は、頼朝からは義経派と見られていたようなのです。なので、頼朝の怒りに触れてしまったのかもしれません。
 多田荘を没収されたことに驚いた行綱は、義経追討の行動を起こし、何とか頼朝の怒りを抑えようとしたようでしたが、結局多田荘を取り戻すことはできませんでした。一説によると、武家の棟梁となった頼朝は、摂津源氏の象徴であった多田荘をどうしても自分のものにしたかったのだとも言われています。
なお、行綱のその後の消息については不明です。
 その時その時の強い者に味方し、最後には一族の象徴とも言うべき多田荘を失ってしまった行綱の人生は、2月23日に紹介した藤原基房の人生を連想させられるような気がしました。乱世のこの時代、権力を持たない者はこのような生き方をするしかなかったのでしょうか。

 さて来週は、平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という有名なせりふが聞けるようです。そして、義仲と巴がついに登場するようですね。
 でも、いよいよ重盛が亡くなってしまうようです。このドラマでは、平家の人物の中では清盛の次に重盛が個性的に描かれていると思うのですよね。
私も、重盛に対する見方がかなり変わりました。実際の彼は本当に、「平家のためには鬼にでもなる。」という人物だったのかもしれません。彼の退場はちょっと残念です。でも、ドラマからはやっぱり目が離せません。

友人の結婚祝賀会に行って来ました♪

2005-03-21 16:26:08 | えりかの平安な日々 04~09
 昨日は友人の結婚祝賀会に出席するため、静岡に行って来ました。その友人は、昨年の夏、家族だけで簡単に式を挙げただけだったと聞いたので、「それなら改めてみんなでお祝いをしてあげようよ。」といううちのだんなさんの発案に皆が賛同し、友人達による祝賀会開催ということになったのです。
 私自身、新郎・新婦とも本当に長いおつきあいです。特に新婦とは小学校の時からの友人ですので感無量でした。どうか末永く、お幸せにね♪

 それでお祝いの歌を頼まれていた私、歌詞を覚えてしっかり準備していた歌が、会場に設置してあったカラオケのエントリーになかったため、急遽歌を変えました。まず、ドリカムの「未来予想図Ⅱ」を一人で歌い、そのあと、だんなさんの歌の番を譲ってもらい、隣にいた親友を巻き込んで杏里の「サマーキャンドルズ」を歌いました。
いやあ、やっぱりカラオケを歌うのは気持ちいいです~。
 食事もおいしかったですし、会場も一体となっていて。とても楽しいパーティーでした。

 祝賀会が終わったあとは、そのまま二次会へ…。こちらの会場はカラオケボックスだったので、またまたたくさん歌いました~。
気持ちよかったです。そして楽しかったです!!ちなみに歌った曲目は、「あなたの愛になりたい(辛島美登里)「キャン・ユウ・セレブレイト?(安室奈美恵)」「ライド・オン・タイム(MAX)」「シンデレラエクスプレス(松任谷由実)」の4曲です。(英語のスペルが思い出せなくて一部カタカナで書いてしまいすみません!)

 それはともかくとして、仲むつまじい新郎新婦を見ていたら、こちらまで幸せな気分になりました。そして、私ももっとだんなさんを大切にしてあげなくてはと、改めて思い直した1日でした。

 写真は、ケーキ入刀の瞬間です。なかなかいいところを撮ることができました。

☆手鞠さんのブログ「徒然独白~手鞠のつぶやき」と、ぱいんさんのサイト「古代史ロマン紀行」をブックマークに追加させていただきました。リンクを許可してくださった手鞠さん、ぱいんさん、どうもありがとうございました。
 また、ブックマークに登録してあるブログ様やサイト様、どれもとても充実していますし、管理人さんも素敵な方ばかりです。
よろしければぜひ皆さんも、一度訪れてみて下さいね。

今週のエリカ

2005-03-19 10:56:25 | 猫のお部屋
 昨日は、風は強かったもののそれほど寒さを感じませんでした。今までのような冷たい風ではなく、ちょっと暖かい風になっているような……。
良かったです。春はもうすぐですね。

 でも、ここ2週間ほど、寒暖の差がとても激しいように思えます。そのせいか、我が家の小さなエリカは今週、一時的に食欲がなくなってしまいました。元気もなくなり、自分のキャリーバックの中に閉じこもってしまったこともあります。それでちょっと心配だったのですが、おかげさまで現在では食欲も戻り、元気に鳴きながら飛び回っています。

 写真は、今週初め、食欲がなくなる前に撮影したものです。本当にすごい格好をしていますよね~。外でこんな格好をしていたら、たちまち敵に襲われてしまいます。なので、猫はほとんどこんな格好をしません。
 こうしておなかを出して仰向けに横になっているということは、よっぽど安心しているということなのです。それだけ私たちはエリカから信用されているということなのかなと、嬉しくなってしまいます。こんな事を考えてしまうのも親ばかの証拠ですね。
 それと、前足をまるでガッツポーズでもするように曲げているところが、私にはとてもかわいいです♪

☆過去ログを見る方法☆
 カレンダーの下にある項目をクリックすると、過去ログが見られます。
 例えば、「2004年12月」をクリックすると、2004年の12月の記事を一括表示します。他の月も同様です。ぜひ御覧になってみて下さいね。

大河ドラマ「義経」第10回&無視されてしまった藤原基成

2005-03-16 09:43:34 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第10回の感想です。

 先週のラストが「平泉の一歩手前」ということでしたので、平泉に入る前に何か一悶着起きるのかなと思っていたのですが……。何も起こらなかったようで、義経主従は無事に平泉に入ることができたようですね。

 それはともかくとして、高橋英樹さんの藤原秀衡は期待通り素敵でした。みちのくの王としての貫禄はもちろんですが、やはり人間が大きいです。初対面の秀衡の前で居眠りをしている義経を見て、「こいつはただ者ではない。」と思うあたり、人間の大きさが出ていますよね。その秀衡に、清盛や義朝を重ね合わせてしまう義経。父親の顔を知らない義経にとって、「父」という存在はとてつもなく大きくて、重いものなのかもしれませんね。人間的にも大きくて、どこか清盛を思わせるところがある秀衡に「父」という感情を抱いたのも、私は本当に自然なことだと思いました。

 ところで、頼朝と政子はすっかり恋仲になっていますね。政子さんがとても女らしくなっていてびっくりしました。でも、時政父さんの許しは出ていないのでは?
確か前回、「政子を一歩も家の外に出すな!」とお怒りだったはずなのに。こうして頼朝と会うことができるとは、どういうわけなのでしょうね……。
 頼朝は、遮那王という弟のことを「庶流」と言っていました。頼朝にとっては、「自分は正室の子」という意識がものすごくあったのでしょうね。そして、顔も見たことのない弟は家来、いや他人と一緒だと思っていたのでしょう。
私にはそんな頼朝の思いが、のちに義経と対立する一因のようにも思えます。

 さて、うつぼをはじめ、今回の大河ドラマは架空の人物が何人か登場しています。
しかしそれに反して、実在の人物で無視されている人が、とても多いような気がします。平清盛の腹心藤原邦綱、平教盛、経盛とその子供達などです。
 そして今回も、私が重要と考える人物が無視されていました。藤原秀衡の参謀であり、舅でもあった藤原基成です。
そして、基成が常磐御前のだんなさま、藤原長成と親戚であったことにも全く触れられていません。義経が平泉に来たことに、この二人が大きく関わっていると私は思うのですが、ドラマでは当然そのことにも触れられていないです。では、今回はそのあたりを少しお話ししますね。

 まず基成と長成の血縁関係から、書かせていただきます。
 中関白藤原道隆の息子、隆家には良頼、経輔という二人の息子がいました。
最初に、経輔から基成と長成の二人に至るまでの、簡単な系譜を系図にしてみますね。
        師信 → 経忠 → 忠能 → 長成
       霑
 藤原経輔
       霎
        師家 → 家範 → 基隆 → 忠隆 → 基成

おわかりのように、二人とも経輔の子孫ということになります。つまり、清少納言の雇い主であった中関白藤原道隆の子孫でもあるわけで、このあたりが系譜の面白いところです。
 でも、これだけでは基成と長成の血縁はかなり遠いですよね。しかし、母系を見ると二人の血縁はぐっと近くなるのです。なんと長成の母と、基成の父方の祖母は姉妹なのです。
 では、そのあたりを再び系図にしてみます。
          女(藤原忠能室)→ 長成
         霑
  藤原長忠
         霎
          女(藤原基隆室)→ 忠隆 → 基成

おわかりのように、長成と、基成の父忠隆はいとこ同士ということになります。しかも、母方のいとこ……。母系のつながりが強かったこの時代、二人には交流があったと考えられるような気がするのですが…。
ちなみに、藤原長忠という人物は藤原能長(藤原能信養子、実父は能信の同母兄頼宗)です。藤原頼宗は道長と源明子(源高明女)との間に生まれた子ですので、基成も長成も道長とつながっているわけです。これも系譜の面白いところです。

系譜の話はこのくらいにして、本題に行きますね。

 藤原基成は、康治二年(1143)に陸奥守に任じられ、任地に赴任します。そして、任期が終わっても陸奥に留まり、平泉に住みついてしまうのです。さらに、藤原秀衡の絶大の信頼を得て、彼の参謀のようになっていたと考えられます。
ちなみに、基成の娘は秀衡の正室となり、泰衡ほか数人の子供をもうけています。

 一方の長成は、大河ドラマ「義経」第8回&常磐御前の後半生(3月1日)でも書きましたが、応保元年(1161)の終わり頃には常磐御前を妻に迎えていたのではないかと思われます。当然、牛若も常磐御前と一緒に長成の邸に迎えられ、清盛の命によって鞍馬寺にあずけられるまでの3~4年間を、長成の邸で過ごしたと推定されます。
 ドラマでは、牛若は清盛のことを実の父と思って成長していますが、史実から推測すると、牛若は長成を父と思っていたのではないでしょうか。
ドラマを楽しんでいるみなさま、夢のないことを書いてしまいごめんなさい。

 鞍馬寺にあずけられ、遮那王と名を変えた牛若は、実際お経を読むのが嫌いで時々都に遊びに行ったりしていたのではないかと、私は思います。遮那王が10歳を過ぎても出家しなかった理由は、そんなところにもあったのではないでしょうか。
義経の義父に当たる長成は、だんだん遮那王の処遇に頭を悩ますようになり、そこで思いついたのが平泉の親戚、基成のことではなかったかと私は思っています。
 「このまま都にいては、遮那王はいつ平家に命をねらわれるかわからない。いっそのこと、平家の目の届かない平泉に遮那王を逃がしてしまおう。」と考えたのかもしれません。そして、長成と基成は相談の上、遮那王を奥州と京の都を往復していた金売吉次という商人に託し、平泉に逃がしたのではないかと私は思っています。
 その頃の平泉は、独自に貿易や政治を行い、一種の独立国のようになっていました。秀衡は、そんな独立国の王だったとも考えられます。なので秀衡は、源氏派でも平家派でもないと思われます。
 一方、秀衡の参謀基成は源氏派だったと私は思っています。というのも、平治の乱で敗死した藤原信頼は、基成の弟だからです。
信頼は平治の乱が起こる前の1~2年間、後白河上皇の側近で、源義朝とも親しかったと考えられます。上皇の側近として頭角を現していた信頼のことを風の便りに聞き、基成はどう思っていたのでしょうか?「今都に帰れば、弟の縁によって出世できるかもしれない。」と気持ちが揺らいだかもしれませんね。
 しかし、平治の乱によって信頼は敗死し、義朝も討たれてしまいました。基成は、逆賊の兄ということになり、平泉で生きるしか道がなくなってしまいます。。そんな基成にとって、弟と親しかった義朝の子供達のことは、ある程度気になっていたと思うのですよね。なので、「義朝の遺児遮那王をあずかって欲しい。」と長成から言われ、喜んで引き受けたように私には思えるのです。
 このように、義経が平泉に下った背景には、長成と基成が大きく関わっていたと私は思うのですが…。
基成は、このままドラマには登場しないのでしょうか?それとも、義経が頼朝に追われ、平泉に落ち延びたときに登場してくるのでしょうか?いずれにしても、基成抜きにして秀衡時代の平泉は語れないような気がするのですが…。

 さて、来週はどうやら鹿ケ谷事件が描かれるみたいですね。藤原成親をはじめ、事件に関わった貴族たちをしっかり登場させて欲しいです。重盛が、清盛に対して成親たちの命乞いをする場面も観てみたいです。行方不明になってしまった泰衡さんのことも気になります。
 来週も、やっぱり見逃せないです。

カレーライスを作りました♪

2005-03-13 21:43:55 | えりかの平安な日々 04~09
 日本列島に強い寒波がやってきているようですね。ニュースで見たのですが、日本海側では大雪だそうです。東京や名古屋でも日中、雪がちらついたとか。また、甲子園球場では、オープン戦の阪神×巨人が雪で一時中断したそうですね。

 私の住む地方は、雪は7、8年に1回くらいしか降りません(日中に降ることは20年に1回くらいです)ので、今日も雪が降るということはありませんでしたが、私にはとても寒い1日でした。買い物のため外出をしたのですが、とにかく風が強い……。おまけに薄いコートを着ていったので、ふるえていました。
確定申告のため市役所に行った3日前は、春のような陽気で、セーター1枚で充分だったのに、また季節は冬に逆戻りです。でも、夕方5時半過ぎに窓の外を眺めてみると、まだ西日が明るく輝いていました。日一日と、確実に陽が長くなっています。春は近いのですよね。

 さて、今日は久しぶりにカレーライスを作りました。私のカレーは、かなりシンプルです。豚肉、にんじん、ジャガイモ、玉ねぎを切って炒め、水と市販のカレールー(中辛のものを2種類使います。)を入れてコトコト煮ます。そして、約1時間煮込み、味をととのえてできあがりです。このように長く煮込むので、とろーりとおいしく仕上がるのだと、私はかってに思っているのですが…。
 写真は、本日作ったカレーライスです。おいしかったです♪
だんなさんも好きなので、これからは2週間に1回くらいカレーライスにしようかな。

☆メールを下さったみなさまへ☆
 メール、どうもありがとうございました。全部読ませていただいていますが、返信メールを書く時間がなかなか取れなくて申し訳ありません。少し遅くなるかもしれませんが、順番に返信していきますので気長にお待ち頂けますと嬉しく思います。
  

大河ドラマ「義経」第9回&遮那王の元服 追記

2005-03-11 09:01:59 | 2005年大河ドラマ「義経」
 3月10日にUPした、「義経」第9回の感想の中で、「義経は八男のはずなのになぜ九郎なのか?」と書きましたが、これについて、「三位さまって誰のこと?」でトラックバックをして下さった手鞠さんから情報を頂きました。コメントを下さいました手鞠さん、どうもありがとうございました。

 義朝の四男か五男に「義門」という人物がいるということなのだそうです。尊卑分脈にそのことが載っているとのことでした。
 「尊卑分脈」は私の手許にないため、ネットで検索して色々調べてみました。確かに「尊卑分脈」には、私が「義経」第9回の感想で挙げた義朝の息子達8人の他に、「義門」という人物の名が掲載されているということが、検索サイトの情報に記述されていました。
 お恥ずかしながら、義門については名前も聞いたことがなく、当然全く知らなかったのでこちらも色々検索して調べてみました。この義門は、どうやら頼朝の同母弟のようなのです。ただ、頼朝のすぐ下の弟という説と、希義の下の弟という説があるようです。となると、義朝の四男か五男ということになるのですが、はっきりしたことはどうもよくはわからないように思われます。
 また、義門は生まれてすぐに亡くなってしまったという説や、10歳くらいまで生きていたという説など、その生存期間に関しても色々あるようです。
 それから、義平・朝長・頼朝について多くの記録がある平治の乱についての史料には、義門の名前は一切出てこないのだそうです。つまり、義門については色々な史料を見ても、記録がほとんど残っておらず、詳しいことは全くわからないとのことでした。
 また、「尊卑分脈」は後世(室町時代)に編纂されたものなので、人物が抜けていたり、逆に存在が認められない人物が書き加えられている部分もあるようなのです。なので、文献を当たってみると、義門の存在に一切触れないこの時代の専門家の先生も見受けられます。そして義朝の息子は8人であり、義経は八男と書かれた本もあるようです。

 それからこれは余談ですが、義朝の長子義平の母について、前回私が記述した「三浦義明の女」ではなく、「橋本遊女」とする説もあるとのことです。

 結局、義朝の子が何人だったかについてや、子供達の生母については色々な説があり、はっきりわからないのかもしれません。
 今回の大河ドラマ「義経」は、義朝の四男あるいは五男として義門が存在したという説を採用し、「義経は九男」としたのだと思います。

 とにかく、特に古代~源平・鎌倉初期までの日本史については、絶対に誤りがないと言う基準の文献は少なく、これこそ真実だという決定的な史料も少なく、真偽の判定が付かないままでいる謎も多いというのが現状なのでしょうね。

 私は専門家ではなく、歴史好きの一主婦に過ぎません。趣味で歴史に関する本を読んでいるだけですし、参照できる史料や資料も少ないです。なので、こちらに書いていることはあくまでも、私が手にすることの出来る史料から推察したことや推論(妄想?)したことです。間違っていることや勘違いなこと、見当違いなこともたくさんあると思います。なので、気がついたことがありましたら、どんどんおっしゃって頂けますととても嬉しく思います。そして、今回のように色々なお話が聞けるということを想像するとワクワクしてきます。
 このようにお互いに知っている情報を交換し合い、知識を増やしていくって楽しいことだと思うのですよね。そして、それができるのがネットの素晴らしいところだと思います。歴史サイトの掲示板に書き込むようになって約2年と3ヶ月、ブログを始めて約3ヶ月ですが、これまで私は、ネット上で色々な方から歴史に関するたくさんのことを教えていただきました。それで、ネットを始める前に比べると、少しは知識が増えたかなと思っています。
 でも、まだまだ知らないこともたくさんあると思っています。もっと色々なことを知りたいです。
 至らない点も多いと思いますが、これからもみなさまに色々教えて頂きながらこのブログを続けていくことができましたら、とても嬉しく思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

大河ドラマ「義経」第9回&遮那王の元服

2005-03-10 14:06:50 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第9回の感想です。

 ついに、弁慶が遮那王の家来になりました!!ずいぶん、待たされましたけれど…。
 それにしても「ご助勢つかまつる!!」とどこからともなく風のように現れるとは、やっぱりマツケンさんの弁慶はかっこいいです。遮那王さまのためならたとえ火の中、水の中でも…」という忠義心も素敵です。実際、弁慶はこのあと、終生遮那王につき従うのですから…。
 それからもう一人、「どうしても遮那王さまの家来になりたい」と、船の中まで追いかけてきた人がいましたよね。「カニ」こと、伊勢三郎です。空腹で倒れそうになるあたり、なかなか面白いキャラクターですね。彼のこれからの活躍も楽しみです。

 『遮那王』、自分を斬り殺そうとした盗賊の命を助けるあたり、本当に「いい人」という感じです。(だんなさんは「それが生まれの良さだろうな。」と言っていました。)このあたりが、献身的な家来が多かった理由なのでしょうか?
やはり、「義経」=「いい人」、「頼朝や梶原影時」=「悪い人」というような視点で、これから描かれるのかもしれませんね。

『駿河次郎』、彼の駿河弁、「こんな言葉は駿河では使わないんだけど…」という言葉をたくさんしゃべっていました。駿河といってもとても広いのですが、駿河次郎の住んでいたところは多分、今の焼津市付近(静岡県中部地方・大井川から安倍川の間)だと考えられると思います。彼が焼津港から船に乗っていたので、そのように判断しました。駿河次郎は、「~だに」としきりにしゃべっていましたが、この「~だに」は遠州地方(今の浜松市とその周辺)の方言であり、駿河次郎の住んでいたと思われる焼津市付近では、ほとんど使われることは無いと思います。この付近では「~だら」とか「~じゃん」、「~だけんね」、「~ずら」等という言い方をします。
この地方に住んでいますので、なぜかそんなところが気になって仕方がなかったです。

 ところで『清盛』さんに一言。「遮那王がどこに行ったのか、知っているのではないですか、清盛さん……」とつっこみたくなってしまいました。遮那王が奥州平泉に行ったことを知っているのに、家族会議でそのことを何も言わないなんて、平家の棟梁としてどうなのでしょう…。遮那王を自分の息子のように思う気持ちはわかりますが、やはり神経を疑ってしまいます。遮那王と清盛が実の親子のような感情を持っていたというのが、このドラマのテーマなのでしょうけれど、当時の情勢を考えると、ちょっと無理があるのかなと思ってしまいました。
でも、渡哲也さんの清盛はやっぱり存在感があります。これからも、清盛さんの登場はとても楽しみです。

 さて、遮那王は今回、元服をして「源九郎義経」となりましたね。「九郎義経」は彼が自ら考えた名前のようですが、「九番目の子だから九郎」というせりふを聞いたとき、「あれ?、義経は義朝の八男だったのでは?」と、とても疑問に思いました。
そこで、義朝の子供達について少し調べてみました。
 以下、源義朝の息子たちの名前とその母を挙げさせていただきますね。

1.源 義平     母・相模国在庁官人三浦義明の女
2.源 朝長     母・相模国大住郡波多野荘の在地領主波多野遠義の女
3.源 頼朝     母・熱田神宮大宮司藤原季範の女
4.源 希義     母・熱田神宮大宮司藤原季範の女
5.源 範頼     母・遠江国池田宿遊女
6.今若(後の全成) 母・九条院雑仕女常磐
7.乙若(後の義円) 母・九条院雑仕女常磐
8.源 義経     母・九条院雑仕女常磐

義朝の息子たち、つまり義経の異母兄弟たちの生年については調べられませんでしたので、年齢順ではなく生母別に並べてみました。しかし、いずれにしても義経は義朝の末子なので、八男だったというのは間違いなさそうです。義経は実際系図を見て、自分が義朝の子だと知ったという説もあるようです。ドラマの中でも行家叔父さんに系図を見せてもらっていましたよね。なので、義経は自分が義朝の八男だというのはわかっていたと思うのです。
 では、なぜ八男なのに「九郎」と名乗ったのか?はっきりした答えはわかりませんが、一説によると義経は、叔父に当たる鎮西八郎為朝をとても尊敬していたようなのです。為朝は大変力が強く、若い頃は九州で大暴れをします。保元の乱では父の為義と共に、崇徳上皇側について大活躍をしました。しかし、上皇方は敗北、為朝も伊豆大島に流されますが、そこで反乱を起こすものの鎮圧され、結局自決してしまいます。自決せずに伊豆大島を抜け出し、琉球に渡ったという伝説もあるようですが…。
 そんな為朝を尊敬していた義経は、「鎮西八郎」にあやかって「九郎」としたというのです。でも「鎮西八郎」にあやかるとしたら、「八郎」と名乗るのが自然だと私は思うのですよね。そこで私はこう考えました。「鎮西八郎叔父さんと同じ八郎と名乗るのは恐れ多い。なので、私は鎮西八郎叔父さんの弟分ということで、九郎と名乗ることにしよう」と思ったのではないかと…。

 義朝には3人の娘がいたことが確認できるようです。ちなみに、平治の乱の折の娘達の年齢はそれぞれ、15歳・14歳・10歳と言われています。なので、義朝の子供達全体を考えても、義経は11番目の子になるわけです。いずれにしても「九番目の子だから九郎」というのは、全く理屈に合わないわけです。

 「義経」にいつもつっこみを入れたがる私のことを、「うるさい、ドラマなのだから史実は関係ない!」といつもたしなめるうちのだんなさんも、『九番目の子だから九郎』はおかしい。」と憤慨していました。だんなさんは、武士にとって元服時の命名は一番大切だ。だからこのような大事な場面に、誤っていると思われることばを発していたのが我慢できなかったようなのです。
 それから、「義経」の「経」が「お経」の「経」だったというのは始めて聞きました。ドラマの中では遮那王は確か、お経を読むのが嫌いだったのではと、ここもつっこんでしまいました。

 さて、来週にはいよいよ藤原秀衡が登場するようですね。高橋英樹さんの秀衡はとても楽しみなのです。平泉での義経の活躍も楽しみです。つっこんではいますが、結局は楽しみなのですよね。

 

「三位さま」って誰のこと?

2005-03-07 17:44:26 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第7回の最後の方で描かれていた乱闘騒ぎですが、第8回の感想で書いたようにどうやらドラマの創作だったようです。
 ドラマの中でのこの乱闘騒ぎは、平重盛の子息・維盛と資盛が、「三位さま」と呼ばれる公卿と争ったことになっていました。でも、承安元年にこのような事件が起こったという記録が全くないため、私も「三位さま」と重盛の子息たちの事件は、ドラマの創作だと思っています。
でも、もし仮に承安元年にこのような事件が起こっていたとしたら、「三位さま」とはいったい誰なのか、私なりに考察してみることにしました。NHKは「三位さま」を架空の人物として描いたのかもしれませんので、考察することにどれほどの意味があるかわかりませんし、学術的にもほとんど意味がないのだろうとは思いますが…。
私の妄想と思っておつき合い頂ければ嬉しいです。

 では、最初に「三位さま」に当てはまりそうな人の条件を考えてみますね。

 第1の条件は、ドラマの中で「基房殿の息がかかっている」と述べられていたことから、『摂政藤原基房に近い人物』ということが考えられると思います。
 第2の条件は、『平家にいい感情を持っていなかった人』ということになるでしょうか。後に平家討伐の陰謀に加わる人などは、この条件に当てはまりそうです。
 そこで、「公卿補任 第一編」で、承安元年当時の正三位、あるいは従三位の公卿を調べてみたところ、「これは怪しい」と思われる人物が三人見つかりました。
 では、その三人について簡単に述べてみますね。

 藤原成親 正三位 権中納言 左衛門督 検非違使別当 34歳
藤原家成の子。後白河上皇側近の公卿。のちに鹿ヶ谷事件の中心人物となり、事件の後に備前に配流。配所で斬首されました。

 藤原兼雅  正三位 権中納言 24歳
藤原忠雅の子。兼雅の姉妹は摂政(後に関白)藤原基房の正室です。つまり、兼雅と基房は義兄弟ということになります。

 藤原兼房 正三位 左近衛中将 19歳
藤原忠通の四男。摂政藤原基房の異母弟に当たります。 

 さて、この三人の中で誰がより怪しいかを考えた場合、後に平家討伐の陰謀に加わることになる成親が、一番怪しいと考えた方が本来は、最も自然かもしれません。
でも、実は成親は重盛一家とは親しい間柄なのです。
 というのは、重盛の妻は成親の妹なのです。また、重盛の子息の維盛の妻は成親の娘です。
「平家物語」では、鹿ヶ谷事件のあと重盛は成親の助命を清盛に進言していますが、これには上で挙げたような事情があったからだと思われます。
 成親は、清盛にはあまりいい感情を持っていなかったかもしれませんが、以上に挙げた理由から、重盛の子息たちと乱闘騒ぎを起こすことは、ちょっと考えにくいです。

 では、兼雅はどうでしょう?
ドラマでは、「三位さま」は基房の息がかかった公卿ということになっていました。ということは、基房の義兄弟であった兼雅は、その条件に当てはまりますよね。そして、基房とは公私ともに親しかったようにも思えます。
 でも、彼にも当該「三位さま」だと推断するには、おおきな難点があるのです。
なんと、兼雅の妻は清盛の娘なのです。なので、基房にも近かったけれど、それに勝るとも劣らぬほどに、平家にも近かったと言えることができると思います。治承三年11月、清盛はクーデターを起こし、多数の公卿、殿上人の官位を剥奪しました。その頃、兼雅は権中納言兼春宮大夫でした。その頃の春宮(皇太子)は清盛の孫、言仁親王(後の安徳天皇)です。兼雅は基房の義兄弟という理由から春宮大夫は解官されますが、権中納言はそのままで、失脚することはありませんでした。このこと一つ取っても、清盛からは娘婿として、ある程度大切にされていたことがわかると思います。なので、やはり平家の公達と路上で騒ぎを起こすことは、考えにくいと思われます。

 それでは藤原兼房はどうでしょうか?
 彼は上にも書いたように、摂政藤原基房の異母弟に当たります。つまり、摂関家の立派な公達なのですよね。母が違うと言っても、基房には目をかけてもらっていたことは十分考えられると思います。それだけではなく、平家には決して良い感情を持っていなかったと推察できそうです。
 でも、彼にも多少難点はあるのです。彼の同母兄は藤原兼実です。兼実は、平家とも兄の基房とも距離を持ち、独自の道を歩いていた人です。母を同じくする兄弟のつながりがより強かったこの時代、兼房は、同母兄の兼実と親しく、基房とは少し距離があったとも考えられるのです。

 ところで、当時の貴族たちは本名で呼ばれることはめったになく、官職名などで呼ばれていたことが多かったと考えられると思います。特に、大臣、大納言、中納言、参議にまで昇進している現任公卿は、ほとんど官職名で呼ばれていたと考えられます。
 つまり、権中納言にまで昇進している成親と兼雅は、「三位さま」と位階で呼ばれることはまずないと考えた方がいいと思われます。成親は多分、「左衛門督さま」、兼雅は「権中納言さま」などと呼ばれていたのではないかと思われます。
以上のことから、成親と兼雅は「三位さま」の対象から除外されると思います。
 
 では、非参議三位の方々はどうでしょうか?
 参考までに、ドラマでの乱闘騒ぎがあったと思われる承安元年秋の、非参議三位の公卿たちを挙げてみますね。


1.藤原俊盛 正三位 太皇太后宮権大夫
2.藤原兼房 正三位 左近衛中将
3.藤原俊成 正三位 皇后宮大夫 右京大夫 備前権守
4.藤原成範 正三位 左兵衛督
5.藤原朝方 正三位 皇后宮権大夫
6.藤原実家 正三位 右近衛中将 但馬権守
7.藤原永範 従三位 宮内卿 式部大輔
8.藤原信隆 従三位 大宰大弐
9.藤原重家 従三位 備中権守
10.平経盛 従三位 太皇太后宮亮 讃岐権守
11.平信範 従三位 (前蔵人頭権右中弁)
12.大中臣親隆 従三位 祭主 神祇権大副

 現任公卿が「三位さま」と呼ばれる可能性がないとすると、以上の12人の非参議三位の方々の中に、「三位さま」と呼ばれていた方がいるのではないかと思われます。
 しかし非参議三位の方々も、一般的には、官職名で呼ばれることが多かったと考えられます。例えば、歌人として有名な藤原俊成は「皇后宮大夫さま」。
後に後鳥羽天皇の生母となる藤原殖子の父・藤原信隆は、「大弐さま」でしょうか。
純粋に「三位さま」と呼ばれていそうなのは散位の平信範ですが、彼は清盛の妻・時子や平時忠の叔父に当たります。なので、平家の公達と騒ぎを起こすなどということは、普通に考えれば絶対にあり得ないと思われます。
 そのようなわけで、ドラマの中の事件での「三位さま」は、はっきり特定できないというのが、素直な解答なのでしょうね。

 ただし、上に挙げたこれら非参議三位の人物達の中にも、平家の公達と乱闘騒ぎを起こしそうな人はいると思うのです。つまりドラマの中での「三位さま」に、限りなく近い人と言うことでしょうか。
そうです。その人物こそ、初めの方でも挙げた『左近衛中将藤原兼房』です。

 では、兼房が「三位さま」に限りなく近い理由を、いくつか挙げてみますね。
1.藤原基房の異母弟ということで、基房に近い人物であること。基房とは異母兄弟と言っても、摂関家の一員であるため、基房には目をかけてもらっていたことも十分考えられる。
2.平家との親しい関係(血縁関係や姻戚関係)が認められないこと。
3.賢房の官職は左近衛中将なので、普通は「三位中将さま」と呼ばれていたと考えられること。しかし、これはあくまでも私の説であるが時と場合によっては「三位さま」と略して呼ばれることもあったのではないか?
4.十九歳という血気盛んな年齢であること。

 以上のことから私は、ドラマの中での「三位さま」は、藤原兼房の可能性が強いと考えました。 こうして、判断材料の少ない今回の架空事件から色々考察するのは、案外に難しいことでしたが、なかなか楽しい時間を持つことも出来ました。。
 なお、藤原兼房は後に太政大臣にまで昇り詰めています。

☆大河ドラマ「義経」第9回の感想は木曜日頃までにUPしたいと思っています。もうしばらくお待ち下さいませ。

本日のエリカ

2005-03-06 18:16:45 | 猫のお部屋
 今日は、外出もせず一日家でゆっくりしていました。

 我が家の小さなエリカは、朝から私のそばを離れません。こうして甘えてこられると嬉しくて、つい甘やかしてしまいます。それにしてもかわいい♪

 琵琶湖マラソンでのブラジルのデリマ選手の途中棄権が、とても残念でした。
また今度のレースで頑張って欲しいです。

 ☆現在、大河ドラマ関係の記事を1本、平安時代関係の記事を2本、同時に執筆しているため、歴史関係の更新が滞っております。これらの記事は、できあがり次第UPしますので、気長にお待ち頂けると嬉しいです。