大河ドラマ「義経」第11回の感想です。
泰衡を助けに行った義経ですが、崖を馬で駆け下りているところを見て、一ノ谷を連想したのは私だけではないと思います。義経のこの経験が、きっとのちの一ノ谷で、大いに活かされるわけですね。一ノ谷合戦がますます楽しみになってきました。
それにしても、義経に助けられて感謝している泰衡が、とても印象深かったです。
でも、控えめでいい人という感じの泰衡さん、どうして最後には義経を裏切ってしまうのでしょう…。やはり、奥州藤原氏を頼朝から守るために、仕方なく義経を討つという感じで、ストーリーを持っていくのかもしれませんね。
ところで、前回の放送ではやや影が薄かった佐藤兄弟が、今回の放送ではしっかり描かれていて良かったです。忠信が、「なぜ忍どのを断ったのですか?」と、義経に必死に詰め寄る姿も印象深かったです。忠信は、忍に片思いだったようですが……。忠信の片思いは実らずに終わってしまうのでしょうか。
佐藤兄弟というと「義経の忠臣」というイメージがあります。これから義経と絆を深めていくのでしょうけれど、このドラマでそのあたりがどのように描かれるか楽しみです。
さて、鹿ケ谷事件ですが予想通り、簡単にすまされてしまいましたね。オープニングの出演者のテロップに、「藤原成親」の名前があったので多少期待していたのですが、成親はちらっと映っただけでした。
でも、重盛の命乞いが見られたのでまあよしとしましょう。それに、重盛と成親の姻戚関係にも触れていましたし。それから、「後白河法皇も罰するべきです。」というせりふには、平家のためなら悪役になるという重盛の姿勢が、しっかり現れていたようにも思えます。怒っている重盛を見ることができたのは満足でした。
鹿ヶ谷事件ですが、簡単に説明すると俊寛僧都の鹿ヶ谷の山荘にて、後白河院をはじめ、西光、藤原成親・成経親子、平康頼、それから山荘の持ち主の俊寛が平家討伐の陰謀を企てた事件です。そして、成親から平家討伐軍の大将を望まれた源行綱が、「とても勝ち目がない。」と判断し、平家方に密告し、陰謀が露見したわけです。そのため、陰謀に関わった上記の僧や貴族たちは全員平家方に捕らえられました。清盛は、本当は後白河院も捕らえたかったのでしょうが、事件が未遂に終わっただけにそこまではできなかったのかもしれませんね。
そのなかで西光はすぐに処刑され、藤原成親は備前に配流されるものの彼も配所で処刑されます。なお「公卿補任」によると、成親は配所に赴く途中の難波で薨じたとなっています。いずれにしても、事件後すぐに薨じたことは明らかなのですが…。
成経、康頼、俊寛は薩摩の鬼界が島に流されます。密告者の行綱は安芸に流されたのではないかという説もあるようですが、はっきりしたことはわからないようです。処刑されなかったこの4人が、その後どのような人生を送ったのか気になったので、少し調べてみました。
まず、鬼界が島に流された3人について見てみますね。
この3人は治承元年(1177)に鬼界が島に流されたわけですが、そのうち成経と康頼は翌年赦免され、都に帰ることができました。
成経は、帰京後は官界に復帰し、のちに蔵人頭から参議にまで昇進しています。すでに平家は滅んでいましたし、父の成親は権大納言でしたので、このくらい昇進したのは当然のことのように思われます。成経は建仁二年(1202)に薨じました。
康頼は「平家物語」によると、信仰心の厚い人物ということになっています。流罪に当たって出家をしていますので、多分それは事実だったと思います。帰京後は説話集「宝物集」を著しました。
鬼界が島に一人取り残された俊寛はどうなったのでしょうか?
実は、私と「平家物語」の最初の出会いは、中学校の国語の教科書に載っていた、俊寛が鬼界が島に取り残される場面なのです。俊寛の「乗せてゆけ、具してゆけ」という悲痛な叫びと、白波のうち寄せる描写は目に浮かんでくるようで、子供心にもとても切ない気持ちになったのを思い出します。
それにしても、なぜ俊寛だけ赦免されなかったのでしょう?
まず第一に、自分の山荘を密談の場所に提供したからということが考えられると思います。また鹿ヶ谷事件以前、俊寛は清盛にかなり目をかけてもらっていたようなのです。なので、清盛にしてみれば、「裏切り者め!!許せん!」という気持ちが強かったのかもしれませんね。
俊寛はついに都に帰ることができず、治承三年(1179)に鬼界が島にて寂しくその生涯を閉じました。かつて面倒を見てやっていた有王という童から、妻と娘の死を知らされ、悲しみのあまり食を断っての自殺だったとも言われています。
一方、密告者の源行綱は、かなり波乱に富んだ人生を送ることになります。
彼は、大江山の鬼退治伝説で有名な源頼光の子孫に当たります。この一族は「摂津源氏」と言われ、代々摂津の多田荘を所有してきました。つまり、多田荘は摂津源氏の象徴だったわけです。そして行綱は摂津源氏の嫡流であったため、この多田荘を相続していたのです。
鹿ヶ谷の陰謀を平家方に密告した行綱は、その後数年間は一貫して、平家方の人物として行動していたようです。親戚筋に当たる源頼政の平家討伐(1180年)にも加わった形跡がありません。
しかし、源義仲によって平家が次第に追いつめられるようになると、彼は平家に反旗をひるがえします。義仲と連動し、彼は平家討伐の行動を起こしています。それが、平家都落ちの一因になったことは言うまでもありません。
しかし、都に侵入した義仲が、後白河院と対立するようになると、今度は後白河院に味方し、都で義仲軍に敗れて多田荘に逃げ帰っています。
寿永三年(1184)1月、義仲が義経軍に敗れて敗死すると、今度は一転して義経に味方し、一ノ谷合戦に義経軍の一翼として参加、大活躍をしています。
ところが平家が壇ノ浦で滅んだあと、多田荘は突然頼朝によって没収されてしまいます。
なぜこのようなことになったかと言いますと、頼朝と義経の対立が考えられると思います。義経に従って平家追討に協力した行綱は、頼朝からは義経派と見られていたようなのです。なので、頼朝の怒りに触れてしまったのかもしれません。
多田荘を没収されたことに驚いた行綱は、義経追討の行動を起こし、何とか頼朝の怒りを抑えようとしたようでしたが、結局多田荘を取り戻すことはできませんでした。一説によると、武家の棟梁となった頼朝は、摂津源氏の象徴であった多田荘をどうしても自分のものにしたかったのだとも言われています。
なお、行綱のその後の消息については不明です。
その時その時の強い者に味方し、最後には一族の象徴とも言うべき多田荘を失ってしまった行綱の人生は、2月23日に紹介した藤原基房の人生を連想させられるような気がしました。乱世のこの時代、権力を持たない者はこのような生き方をするしかなかったのでしょうか。
さて来週は、平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という有名なせりふが聞けるようです。そして、義仲と巴がついに登場するようですね。
でも、いよいよ重盛が亡くなってしまうようです。このドラマでは、平家の人物の中では清盛の次に重盛が個性的に描かれていると思うのですよね。
私も、重盛に対する見方がかなり変わりました。実際の彼は本当に、「平家のためには鬼にでもなる。」という人物だったのかもしれません。彼の退場はちょっと残念です。でも、ドラマからはやっぱり目が離せません。
泰衡を助けに行った義経ですが、崖を馬で駆け下りているところを見て、一ノ谷を連想したのは私だけではないと思います。義経のこの経験が、きっとのちの一ノ谷で、大いに活かされるわけですね。一ノ谷合戦がますます楽しみになってきました。
それにしても、義経に助けられて感謝している泰衡が、とても印象深かったです。
でも、控えめでいい人という感じの泰衡さん、どうして最後には義経を裏切ってしまうのでしょう…。やはり、奥州藤原氏を頼朝から守るために、仕方なく義経を討つという感じで、ストーリーを持っていくのかもしれませんね。
ところで、前回の放送ではやや影が薄かった佐藤兄弟が、今回の放送ではしっかり描かれていて良かったです。忠信が、「なぜ忍どのを断ったのですか?」と、義経に必死に詰め寄る姿も印象深かったです。忠信は、忍に片思いだったようですが……。忠信の片思いは実らずに終わってしまうのでしょうか。
佐藤兄弟というと「義経の忠臣」というイメージがあります。これから義経と絆を深めていくのでしょうけれど、このドラマでそのあたりがどのように描かれるか楽しみです。
さて、鹿ケ谷事件ですが予想通り、簡単にすまされてしまいましたね。オープニングの出演者のテロップに、「藤原成親」の名前があったので多少期待していたのですが、成親はちらっと映っただけでした。
でも、重盛の命乞いが見られたのでまあよしとしましょう。それに、重盛と成親の姻戚関係にも触れていましたし。それから、「後白河法皇も罰するべきです。」というせりふには、平家のためなら悪役になるという重盛の姿勢が、しっかり現れていたようにも思えます。怒っている重盛を見ることができたのは満足でした。
鹿ヶ谷事件ですが、簡単に説明すると俊寛僧都の鹿ヶ谷の山荘にて、後白河院をはじめ、西光、藤原成親・成経親子、平康頼、それから山荘の持ち主の俊寛が平家討伐の陰謀を企てた事件です。そして、成親から平家討伐軍の大将を望まれた源行綱が、「とても勝ち目がない。」と判断し、平家方に密告し、陰謀が露見したわけです。そのため、陰謀に関わった上記の僧や貴族たちは全員平家方に捕らえられました。清盛は、本当は後白河院も捕らえたかったのでしょうが、事件が未遂に終わっただけにそこまではできなかったのかもしれませんね。
そのなかで西光はすぐに処刑され、藤原成親は備前に配流されるものの彼も配所で処刑されます。なお「公卿補任」によると、成親は配所に赴く途中の難波で薨じたとなっています。いずれにしても、事件後すぐに薨じたことは明らかなのですが…。
成経、康頼、俊寛は薩摩の鬼界が島に流されます。密告者の行綱は安芸に流されたのではないかという説もあるようですが、はっきりしたことはわからないようです。処刑されなかったこの4人が、その後どのような人生を送ったのか気になったので、少し調べてみました。
まず、鬼界が島に流された3人について見てみますね。
この3人は治承元年(1177)に鬼界が島に流されたわけですが、そのうち成経と康頼は翌年赦免され、都に帰ることができました。
成経は、帰京後は官界に復帰し、のちに蔵人頭から参議にまで昇進しています。すでに平家は滅んでいましたし、父の成親は権大納言でしたので、このくらい昇進したのは当然のことのように思われます。成経は建仁二年(1202)に薨じました。
康頼は「平家物語」によると、信仰心の厚い人物ということになっています。流罪に当たって出家をしていますので、多分それは事実だったと思います。帰京後は説話集「宝物集」を著しました。
鬼界が島に一人取り残された俊寛はどうなったのでしょうか?
実は、私と「平家物語」の最初の出会いは、中学校の国語の教科書に載っていた、俊寛が鬼界が島に取り残される場面なのです。俊寛の「乗せてゆけ、具してゆけ」という悲痛な叫びと、白波のうち寄せる描写は目に浮かんでくるようで、子供心にもとても切ない気持ちになったのを思い出します。
それにしても、なぜ俊寛だけ赦免されなかったのでしょう?
まず第一に、自分の山荘を密談の場所に提供したからということが考えられると思います。また鹿ヶ谷事件以前、俊寛は清盛にかなり目をかけてもらっていたようなのです。なので、清盛にしてみれば、「裏切り者め!!許せん!」という気持ちが強かったのかもしれませんね。
俊寛はついに都に帰ることができず、治承三年(1179)に鬼界が島にて寂しくその生涯を閉じました。かつて面倒を見てやっていた有王という童から、妻と娘の死を知らされ、悲しみのあまり食を断っての自殺だったとも言われています。
一方、密告者の源行綱は、かなり波乱に富んだ人生を送ることになります。
彼は、大江山の鬼退治伝説で有名な源頼光の子孫に当たります。この一族は「摂津源氏」と言われ、代々摂津の多田荘を所有してきました。つまり、多田荘は摂津源氏の象徴だったわけです。そして行綱は摂津源氏の嫡流であったため、この多田荘を相続していたのです。
鹿ヶ谷の陰謀を平家方に密告した行綱は、その後数年間は一貫して、平家方の人物として行動していたようです。親戚筋に当たる源頼政の平家討伐(1180年)にも加わった形跡がありません。
しかし、源義仲によって平家が次第に追いつめられるようになると、彼は平家に反旗をひるがえします。義仲と連動し、彼は平家討伐の行動を起こしています。それが、平家都落ちの一因になったことは言うまでもありません。
しかし、都に侵入した義仲が、後白河院と対立するようになると、今度は後白河院に味方し、都で義仲軍に敗れて多田荘に逃げ帰っています。
寿永三年(1184)1月、義仲が義経軍に敗れて敗死すると、今度は一転して義経に味方し、一ノ谷合戦に義経軍の一翼として参加、大活躍をしています。
ところが平家が壇ノ浦で滅んだあと、多田荘は突然頼朝によって没収されてしまいます。
なぜこのようなことになったかと言いますと、頼朝と義経の対立が考えられると思います。義経に従って平家追討に協力した行綱は、頼朝からは義経派と見られていたようなのです。なので、頼朝の怒りに触れてしまったのかもしれません。
多田荘を没収されたことに驚いた行綱は、義経追討の行動を起こし、何とか頼朝の怒りを抑えようとしたようでしたが、結局多田荘を取り戻すことはできませんでした。一説によると、武家の棟梁となった頼朝は、摂津源氏の象徴であった多田荘をどうしても自分のものにしたかったのだとも言われています。
なお、行綱のその後の消息については不明です。
その時その時の強い者に味方し、最後には一族の象徴とも言うべき多田荘を失ってしまった行綱の人生は、2月23日に紹介した藤原基房の人生を連想させられるような気がしました。乱世のこの時代、権力を持たない者はこのような生き方をするしかなかったのでしょうか。
さて来週は、平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という有名なせりふが聞けるようです。そして、義仲と巴がついに登場するようですね。
でも、いよいよ重盛が亡くなってしまうようです。このドラマでは、平家の人物の中では清盛の次に重盛が個性的に描かれていると思うのですよね。
私も、重盛に対する見方がかなり変わりました。実際の彼は本当に、「平家のためには鬼にでもなる。」という人物だったのかもしれません。彼の退場はちょっと残念です。でも、ドラマからはやっぱり目が離せません。
えりかさんがお書きになったおいでなのを拝見して
俊寛が教科書に載っていたことを、
(どこかのお芝居の写真入りでした)
「そうそう!」と思い出しました。
教科書界ではメジャーな人物なのでしょうか?
源行綱は多田荘を取り上げられてしまうのですね。
頼朝の策士ぶりも伺えますね。
持田さんのお使いになっていた教科書にも、俊寛が載っていたのですね。あの場面はやはり名場面なのかもしれませんね。俊寛は知名度が高いかもしれないです。
行綱もそうですが、成経や康頼のその後については私もほとんど知りませんでしたので、今回色々調べてみて色々な発見があって楽しかったです。特に行綱については、こんなに色々な人に味方し、波乱に富んだ人生を送った人なのかとびっくりしました。そして、おっしゃる通り頼朝は策士ですよね。多田荘を失った行綱がその後どのような気持ちで余生を送ったのかも、ちょっと気になったりします。
では、では。
こういう行綱のようにパッと歴史上に現れて、後は人知れず消えて行ったような人物って興味深いですよね。
どうしても『平家物語』の影響が強くて、密告者のイメージしか浮かびませんが、平家の時代にはひたすら従順に、そして、その後は義経についたり、頼朝におもねったりと、風見鶏状態ですが(笑)、それでも、彼なりにこの波乱含みの人生を懸命に生きたのだろうと想像すると、何だかちょっと微笑ましい気もしたりします。
レスは早めにを心がけているのですが、昨日の夜から体調を崩してしまいました。今日はどうしても出かけなければならない用事があるので頑張って行ってきますが、そのあとどうなることやら…。とにかく、風邪のような花粉症のような症状でかなり辛いです。
「行綱」、本当に手鞠さんのおっしゃる通りですよね。鹿ヶ谷の陰謀を密告したあとは、まさに風見鶏のような生き方をしていますが、本人は一生懸命生きていたのだと思います。今回色々調べてみて、行綱さんにも興味を持ってしまいました。
では、では、元気になりましたら手鞠さんの所にも遊びに行かせていただきますね。
大河「義経」のご感想と鹿ケ谷事件にかかわった人々のその後について、楽しくそして興味深く拝見しました♪
行綱の動向については全く知りませんでしたので、記事にとりあげてくださりありがとうございました。
今回のドラマでは、義経と佐藤兄弟との親睦が描かれていてほほえましかったですね!
反面、鹿ケ谷事件については、あまりにもあっさりとしていましたが…。
平康頼については、私のサイト「花橘亭」の
以下のページでもご紹介しております。
http://hanatatibana-na-gi.hp.infoseek.co.jp/east_west/miyajima/miyajima7.html
ご興味をお持ちの方はご覧くださいませ。
えりかさん お体の調子がお悪いようですがその後いかがでいらっしゃいますか。
どうぞお大事になさってくださいね!
当方へのお気遣いなど全くの御無用に。どうせ、今週は大したことも書いておりませんし(やはり、あの鹿谷の扱いには脱力…)、ともかくは、ゆっくり御養生なさって下さいませ。
赦免状を何度も見て私の名前はないかと何度も叫ぶ場面が記憶に残っています。
記憶なので曖昧で正確ではありませんが、こういう感じでした。
>源行綱
摂津源氏またはその在所から多田源氏とも呼ばれていましたね。
裏切り者はいつも終わりは悲惨ですね。
源頼朝は同族を滅ぼすのに容赦しない人間でしたので、源行綱もその辺から疎んじたのかも。
源頼朝は後世からは源氏嫡流と思われていますが、その当時はそうでもなかったみたいで・・・。
その為、他の源氏を滅ぼしたり、自分の兄弟を殺さねばならなかったようです。
大河に限らず、この場面は出てくる度に勾配が違います。それ程でもないものから、結構なものまで。今度のは、どんなでしょうね。泰衡は小心者なのです。父上様が最初は義経をかばいきれないと言った時の泰衡の父上を見た目付が今でも印象的です。その状況に陥ったと判断したのでしょう。佐藤氏の奥様や忍殿の事については知りません。それから、源行綱ですが、それらにもあまり知りません。多田源氏の存在くらいは判りますが。俊寛は有名ですから、都から来た文を一度は開いて読んだのを又、閉じなおして再度開いても自分の名前は無かったという、あまりにも可哀想なくだりですね。
重盛ですが、彼が無くなってから清盛が落胆するということになるではないでしょうか。そのぐらい頼りにしていたという事になるのですが。
頼朝と義経の仲たがいについては、一番の原因は後白河院です。院の義経への検非違使の丞の任官の件、これがとどめとも言うべきなのです。頼朝に無断でこれを受けてしまうのです。義経は頼朝の描いている武士団の形を知らないのです。早い話がピラミッド型なのです。まずは、頼朝を通じて何事も所領も任官も行うという事、これが鎌倉では挙兵以来のやり方でした。義経はこんな元々のやり方を知らないばかりに追われる身の上に成り果てます。そしてそんな頼朝のやり方を知っていたのは、誰あろう、他ならぬ院だったのです。当然義経が鎌倉のピラミッドを知らないのも知っておられたのです。だから、院にとってはとても好都合な義経への任官でした。まだ、他には梶原の景時の義経の事を頼朝に讒言する所も有名です。景時は頼朝の命の恩人でしたしね。石橋山の時の。でも頼朝亡き後景時は鎌倉を追われています。
北条か誰かに謀反人呼ばわりされて。
話は戻りますが、後白河院といわれるお方、様々な政権の間をくぐり抜けてこられた為、頼朝と義経の仲たがいなど朝御飯前、かもしれません。そんな要素のある院を清盛公が間接的に
泥人形を作らせる所をみて、これは凄い!!と思わざるを得ませんでした。頼朝と清盛の決定的な違いは、まさにここにあり、ともいうべきでしょうね。鎌倉を動かなかった頼朝にそんなことは出来はしません。頼朝も長女の大姫入内が
果たせずしてあの世の人となりますが、頼朝には悪いですが、無理ですよ、そんな事。私は
その場面を見ながらそんなことを考えてしまいました。
でも、私も歴史が好きです。特に院の場合は
遊びをせむとや生まれけむ、戯れせんとやうまれけむ、遊ぶ子供の声聞けばわが身さえこそ、ゆるがるれ、ああ、ゆるがるれ・・・と節を付けて踊る所が面白いと思います。もう、その場面はでてきましたか? よく覚えていませんが。
昔、私も歴史をよく研究していました。今ではもう、しなくなりました。新たに知るところがなくなりつつありましたので。でも、それは昔の話、今では忘れている所も多くあります。
昔に戻り読み直す気にはなりませんが、所々の
重要なところは頭に残っている所もあります。
こうして、歴史についての感想などを述べたりして、結構おもしろいです。
なぎさん、今晩は♪読んで下さってありがとうございます。
佐藤兄弟のこれからはとても楽しみですよね。私は、継信のやったことと忠信のやったことが頭の中でごちゃごちゃになっているので、ドラマを観ながら少し勉強したいと思っています。「花橘亭」の素敵なページのご紹介もどうもありがとうございました。
手鞠さん、今晩は♪ご心配をかけてしまい申し訳ありません。ブログの記事はしっかり拝見しています。余裕ができましたらコメントにうかがいますね。
鹿谷事件は、欲を言えばもう少ししっかり描いて欲しかったですよね。成親や俊寛が何かしゃべるのを期待していたので残念でした。「瓶子(へいし)が倒れた」という、有名なせりふもカットされていましたものね。
有名なのは義家・義朝・頼朝の源氏ですが、都の人たちが「清和源氏の本流」と考えていたのは源頼光の子孫である摂津源氏だと思うのです。都で官職を得て、官界で活躍していたのは彼らでしたので…。都生まれの頼朝は、そのあたりをよくわかっていたのではないかと思われます。それもあって、多田荘を行綱から奪ってしまったのかもしれないなと、日光山さんのコメントを読んで思いました。
赦免状に自分の名前がないことを知った俊寛の気持ちを考えると何か切ないですよね。
たまこさん、今晩は♪俊寛のこと、泰衡のこと、梶原影時のことなど、色々教えて下さりありがとうございました。特に、義経と頼朝が仲の悪くなった原因については、とても興味深く読ませていただきました。
この二人の仲違いには、やはり後白河院が関係していたのでしょうね。そのあたりが、今回のドラマ「義経」でどのように描かれるか楽しみです。
ドラマの第2回か第3回に、後白河院が今様を歌いながら舞いを舞っている場面が出てきました。なかなか良かったですよ。源平時代のある意味での主役は、後白河院かもしれないですよね。
では、では、失礼します…。