平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

ひと安心

2009-02-27 20:53:29 | えりかの平安な日々 04~09
 14日の検査のことではご心配をおかけしました(私もやっぱり心配でした)が、結論から言うと異常なしでした。現在ほっとしています。

 …と言うわけで、今日は朝からどきどき。外は雨が降っています。雨の日はどうしてもマイナス思考になってしまいますので、出かける予定時間の12時半になるまでは家事をやったりネットサーフィンをしたり音楽を聞いたりして気持ちをリラックスさせていました。
 そして、12時半過ぎに家を出発、外はまだ雨が降っていたので駅まで歩くと少しぬれてしまいました。2時ちょっと前に静岡駅でだんなさんと待ち合わせ、駅前のホテルでランチ。検査の結果が心配でもランチは一人前、しっかり食べられるので不思議です。

 私の通っている病院は午後の診察が3時からなので、その時間に合わせてバスで病院に行きました。幸い、私が午後の1番目でした。「これなら待たされることもないし、良かった」と思ったのですが、10分経っても名前が呼ばれません。こういう時って、待っている時間がすごく長く感じるのよね。更に5分くらい経った頃、事務の方が出てきて、「先生は往診に行っていてまだ戻ってこないのでもうしばらくお待ち下さい」とのこと。と言うわけで、更に10分待ちました。その時間がまた長かったこと。

 そして、病院に入って25分後にやっと私の名前が呼ばれました。診察室に入ってから結果を聞くまでまたどきどき。多分、血圧も上がっていただろうなあ。何も異常がないし、心配もいらないと先生が言ったとき、思わずほっとして「良かった」と言ってしまいました。

 更に、私の胃の中にピロリ菌がなかったと聞いたときもほっとしました。ピロリ菌は胃潰瘍や胃ガンの原因になる細菌なので、心配だったのですよね。ただ、胃の出口の近くが少しはれているので、脂っこい物の食べ過ぎには気をつけるように言われました。それと、夜食もあまり良くないとのこと。夜はなるべく食べないようにしているのですが、おなかが空いたときなど、ついつい食べてしまうのでこれには気をつけなくてはね。

 それにしても、私の慢性胃炎の原因はいったい何だったのでしょうか。だんなさんに言わせると、「ただの食べ過ぎだ」とのことですが…。

☆新しい歴史人物伝、「源 師子」の下書きが終わりました。これから見直しに取りかかりますが、来週の頭くらいにはお披露目できそうです。

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第72代 白河天皇

2009-02-23 10:54:57 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1053~1129
☆在位期間 1072~1086
☆両親
 父・後三条天皇 母・藤原茂子(藤原公成女 藤原能信猶子)

☆略歴

 名は貞仁。後三条天皇の第一皇子。歴代天皇の仲で最も専制君主的な天皇だと言われています。また、院政を始めた天皇としても知られています。
 では、経歴を年表風に紹介しましょう。

 治暦四年(1068)八月、親王宣下。

 延久元年(1169)、父後三条天皇の皇太子に立てられる。ついで藤原道子を御息所に迎えたが、二人の仲はあまり睦まじくなかった。

 延久三年(1071)、藤原賢子が入内。貞仁は賢子を寵愛し、二人の間には二皇子三皇女が生まれた。

 延久四年(1072)、後三条天皇の退位に伴い践祚。後三条の意向により、異母弟の実仁親王が皇太弟に立てられた。

 承保元年(1074)、賢子は中宮に立てられる。

 応徳元年(1184)、賢子が世を去る。

 応徳二年(1085)、実仁親王が早逝。

 応徳三年(1086)、十一月、にわかに譲位、第二皇子善仁親王が践祚する(堀河天皇)これは、賢子を喪ったショックのためと、実仁親王の弟、輔仁親王の立太子を阻止するためであった。

 永長元年(1096)、最愛の皇女、(女是)子内親王が21歳で世を去ったため、悲嘆のあまり出家。しかし、受戒はしなかった。

 嘉承二年(1107)、堀河天皇が崩御したため、堀河の第一皇子、宗仁親王を皇位につける(鳥羽天皇)
 なお白河上皇は、堀河天皇即位と同時に後見役として政治に発言するようになったが、剛直な関白、藤原師通の発言力も大きかったため、政界を完全には掌握できなかった。師通の死後は徐々に発言力を強めたが、その頃には堀河天皇が成人しており、まだ完全な院政を行うまでには至らなかった。しかし、鳥羽天皇は即位時にまだ5歳であり、摂政も白河より25歳年少、しかも温厚で政治力を欠いていた藤原忠実であったため、白河は完全に政界の実権を握ったようである。(本格的に院政を始める)

 永久元年(1113)、策を用いて輔仁親王を失脚させる。

 保安元年(1120)、関白藤原忠実を罷免。

 大治四年(1129)、七月六日、三条西殿において発病し、翌日崩御した。享年、七十七。


☆父方の親族

☆祖父母
 祖父・後朱雀天皇 祖母・禎子内親王

おじ
 後冷泉天皇

おば
 娟子内親王 良子内親王 祐子内親王 (示某)子内親王 正子内親王


☆母方の親族

☆祖父母
 祖父・藤原公成 祖母・藤原知光女(『春記』による) 養祖父・藤原能信

☆主なおじ
 藤原実季

☆主ないとこ
 藤原公実 藤原苡子(堀河天皇女御・鳥羽天皇母)

*なお、白河天皇の母方、閑院流藤原氏について詳しくはこちらからご覧下さい。


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *実仁親王 *輔仁親王 *藤原有佐(藤原顕綱養子)

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○聡子内親王 ○俊子内親王○佳子内親王○篤子内親王(堀河天皇中宮)

おい・めい
 源 有仁・守子内親王・怡子内親王・信証・行恵(以上、父は輔仁親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原賢子(藤原師実養女・実父は源顕房) → 敦文親王 善仁親王(堀河天皇) (女是)子内親王(白河朝の伊勢斎王 郁芳門院 堀河天皇准母) 令子内親王(堀河朝の賀茂斎院 鳥羽天皇准母) 禎子内親王(堀河朝・鳥羽朝の賀茂斎院)

 藤原道子(藤原能長女) → 善子内親王(堀河朝の伊勢斎王)

 藤原経子(藤原経平女 のち、藤原公定の妻となる) → 覚行法親王

 源 師子(源 顕房女 藤原賢子の妹 のち、藤原忠実の妻となる) → 覚法法親王

 源 頼子(源頼綱女) → 官子内親王(鳥羽朝の賀茂斎院)

 藤原師兼女 → 聖恵法親王

藤原季実女 → 子内親王(鳥羽朝の伊勢斎王)

 祇園女御(源仲宗の妻、その子惟清の妻、宮廷仕えの女房と諸説あるが氏素性は未詳)


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 後三条天皇は、「白河天皇のあとは異母弟の実仁親王を、そのあとはその弟の輔仁親王を皇位につけるように」と遺言していました。
 ところが、略歴でも触れたように、実仁親王は応徳二年(1085)に皇位につくことなく亡くなります。すると白河天皇は父の遺言を無視し、翌年に自分の皇子善仁親王に譲位してしまいます。これが堀河天皇です。以後、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇と、白河天皇の血を受けた子孫たちによって皇位が継承されていきました。

・白河天皇の子ではないかと噂された二人の人物

 白河は晩年、祇園女御(後述)の猶子になっていた藤原公実女の璋子を自分の猶子として異常なほど慈しんでいました。璋子は長じて鳥羽天皇の後宮に入ります。自分がかわいがっていた璋子と愛孫を結びつけたのでしょうね。
 しかし、鳥羽天皇の後宮に入った璋子はその後も白河とただならぬ関係だと噂され、元永二年(1119)に生まれた鳥羽天皇と璋子の皇子、顕仁親王は白河の子だと噂され、鳥羽天皇も「あれは叔父子だ」と言っていたようです。この噂を裏づけるかのように、白河は保安四年(1123)に鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王を即位させます。これが崇徳天皇です。このような鳥羽天皇と崇徳天皇の対立が後に保元の乱の要因ともなりました。

 一方、白河の晩年の寵姫に祇園女御という女性がいました。女御と言っても正式な女御ではなく、あまりにも寵愛が深かったのでそのようにあだ名されただけで、彼女の氏や出自は不明です。
 そして白河は祇園女御の妹も寵愛していました。しかし妹の方は後に平忠盛の妻となります。その、時彼女は白河の子を身ごもっていて、生まれた子が清盛だと噂されました。清盛の昇進の異常な早さは白河のご落胤だからであるという説もあります。永井路子さんの小説「絵巻」では、忠盛がこの噂をうまく利用して清盛を出世させたと描かれていました。

 つまり、崇徳天皇と清盛という、日本史に重要な位置を占める二人の人物は白河の子だと当時から噂されていたのです。しかし今となっては、二人が白河の子かそうでないか、真偽のほどはわかりません。どちらにしても、白河天皇という人物の影響の大きさが伝わってくる話だと思います。


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嬉しいこと 心配なこと

2009-02-19 11:25:11 | えりかの平安な日々 04~09
 1週間ぶりの更新ですが今回も日記です。

 まず今回も、「系譜から見た平安時代の天皇」の新しい記事、「第72代 白河天皇」の進行状況から。昨夜、下書きがほぼ終わりました。でも、今朝読み直したところ、、まだ手を入れたいところや調べたいところもあり、完成まではもう少し時間がかかりそうです。今週中にUPしたいと思っていたのですが、ちょっと無理かもしれません。来週頭くらいになりそうです。すみません。

 さて、久しぶりに私の近況を書きますね。

 最近、デビュー当時からファンの竹内まりやさんの3枚組のベストアルバム「Expressions」をやっと買うことができました。
 リマスタリングされていて音が良くなっているから昔のアルバムを持っている人(それがまさに私なのですが)でも買って損はないと思うというレビューをamazonで見たのですが、その通り、買って全然損ではなかったです。今までCD化されていなかった昔の曲のシングルバージョンや、新曲も入っていて感激。やっぱり私は竹内さんの曲が好きなのだと実感しました。ただ今のBGMももちろん、「Expressions」の1枚目のCDです。

 しかし…、そのような嬉しいことと同時に心配なことも。

 2月13日の夜、掲示板に「明日は1年半ぶりに胃の内視鏡検査を受けてきます」と書きましたが、その翌日にいつもの病院で検査を受けてきました。
 それで、今回も1年半前と同じく鼻からの胃カメラを受けたのですが、ちょっと苦しかったです。というのは私は花粉症持ちで、1週間前から鼻がむずむずしていたからでした。でもこの日は珍しく鼻がむずむずしなかったので大丈夫…と思っていたのですが、ちょっと甘かったようです。

 まず、鼻への麻酔で苦しくなりました。検査で管を通すときもなかなか通らなくて、3回もやり直しましたし。かなり無理をして通したせいか、検査の間中息が苦しかったです。

その上に…、先生が、「あ、きれいに映っていますね」と言ったと思ったら突然、「胃の出口の近くに炎症がありますね。」と言ったのでびっくり。え、炎症ってどういうこと?私、1年半前と違って自覚症状ないんだけど。そのうちに先生が看護師さんと何か言っているのが聞こえ、「組織を取りますのでちょっとおなかが膨らむような感じがしますので…」と言うではありませんか。え、私って何か悪い病気なの?

 それで、管が外れたとき、真っ先にこのことを先生に尋ねました。すると先生は、「慢性胃炎の所見だからそれほど心配ないと思いますよ。でも、一応組織を検査に出しますね」と言いました。と言うわけで、見事に検査に引っかかってしまった私です。

 そのようなわけで今月27日に検査の結果を聞きに行きます。大丈夫だと思っていても、結果を聞くまでは心配です。何か、ここ2、3日、何となく胃の痛むような感覚が…。でも、友人の中に、やはり胃カメラで炎症が見つかって慢性胃炎だと言われ、組織を取って検査したところ何でもなかった…という人もいたので大丈夫かなと思ったりしています。とにかくあまり悪い方へは考えないようにして、病院に行くまでの1週間、楽しく過ごそうと思っています。

 ところで、慢性胃炎についてちょっと調べたのですが、初期の慢性胃炎は特に自覚症状はないそうです。なのでたとえ慢性胃炎だったとしても、他の胃の病気だったとしても、早期発見には違いないわけで、かえって見つけてもらえて良かったのかもしれませんよね。そのように前向きに考えようと思います。

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今年の7月22日

2009-02-12 15:15:37 | えりかの平安な日々 04~09
 タイトルの話題に行く前に、掲示板でも予告した系譜から見た平安時代の天皇の新しい記事、「第72代 白河天皇」の下書きの進行状況から、書かせて頂きますね。

 現在、「父方の親族」「母方の親族」「兄弟姉妹とおい・めい」「主な后妃と皇子・皇女」に加え、「略歴」の部分の下書きもほぼ終わりました。

 でも、「略歴」には手間取りました。

 実は、醍醐天皇から後三条天皇までの天皇は、冷泉天皇を除き、長生きした天皇でも四十代で亡くなってしまっているのです。つまり、ほとんどの天皇は三十代までしか生きていないのですよね。
 こうなった原因の一つが、度重なる近親結婚のため血が濃くなったからだと私は思っているのですが、白河天皇は母が閑院流藤原氏という、天皇家との血縁が遠い家の出身なので血が薄くなったせいか、77歳まで生きているのです。当然、書くことも多くなります。しかも彼は院政を始めた重要な天皇なのですよね。なので「平安時代史事典」の彼についての項目もとても長いです。それをまとめるのはなかなか大変でした。

 それでもようやく、「末裔たち」を残すのみとなりました。白河天皇からは源氏が出ていないので、「末裔たち」では当初、その後の皇位継承について書くだけでいい…と思っていたのですが、他にも書きたいことが出てきてしまい、まだもう少し時間がかかりそうです。それでも何とか来週中にUPできるように頑張りますね。

 さて、前置きが長くなってしまいました。タイトルの話題に移ります。

 ご存じの方も多いと思いますが、今年の7月22日の午前中、日本で日食が見られます。しかも鹿児島県の奄美地方では皆既日食になるそうなので、静岡でも太陽がかなり欠けるのでは…と思い、ちょっと調べてみました。

 その結果、福岡で約九割、京都で約八割、東京でも75%くらい欠けることがわかりました。静岡でどのくらい欠けるかははっきり調べられなかったのですが、多分八割近く、欠けるのではないかと思いました。そのことをだんなさんに話したところ、「そのくらい欠けるならかなり暗くなるのでは」と言っていました。

 私は今まで、部分日食を2回、見たことがあります。そのうち1回は沖縄で金環食になったときなのですが、静岡でも半分近く、太陽が隠れました。そして、ちょっと薄暗くなったのを覚えています。今年7月の日食ではもっと暗くなるわけで、これは楽しみです。その日の空を携帯のカメラで撮影して、こちらの日記に載せようかなと思ったり…。

 ちなみに日食で太陽が隠れると、温度が下がったり、動物が夜と勘違いして騒ぎ出したり、空に星が見えたりするそうです。真昼にそんな現象が起こるなんて幻想的ですね。できれば皆既日食の起こる奄美地方に行くことができたら一番いいのでしょうけれど、遠くて無理なので、自宅にいて太陽が八割欠けるのを体験するだけで満足しようと思っています。動物が騒ぎ出すというと、エリカも面白い反応をするかもしれませんね。
 ただ一つの心配は、この時期は雨が多いこと。7月22日はどうか天気が良くなりますように。

 余談ながら3年後の2012年5月21日には日本の太平洋岸一帯で金環食が見られるそうです。まだずっと先の話ですが、こちらも楽しみです。

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田辺聖子さんの「新源氏物語」

2009-02-08 09:29:20 | 読書日記
 以前、こちらの記事で紹介したことがありますが、現在、再読中の本です。

 再読しようとしたきっかけはもちろん、「源氏物語」の現代語訳を通読したいという気持ちがあったからです。それで、どなたの訳で読むか迷ったのですが、ちょうど、まだ未読の田辺さんの源氏物語の宇治十帖の部分「霧ふかき宇治の恋」を読んでみたいと思っていたところでしたので、「それならついでに田辺さんの正編の部分「新源氏物語」も読んでしまおう」と思い、2週間くらい前から読み始めました。現在、「新源氏物語」の中巻を読み終わり、今日から下巻を読み始めます。

 では、今まで読んだ部分までの感想を少し書きますね。

 以前の紹介記事にも書きましたが、やっぱり読みやすいです。私が今まで読んだ「源氏物語」の中では一番わかりやすいかも。
 ただ、賛否両論あるかもしれませんが、読んでいると作者による書き加えが目立ちます。まあ、そこがわかりやすいところかもしれませんが。

 昨日、「真木柱」の巻を読みました。前に読んだのが8年前なので記憶がなかったのですが、「新源氏物語」では、弁のおもとと鬚黒の大将の会話から始まっているのですね。つまり、鬚黒の大将が玉鬘への手引きを弁のおもとに頼んでいるところも描かれているのです。弁のおもとも、「鬚黒の大将は東宮のおじなので、玉鬘と結ばれれば政略的にも源氏の大臣は損をしないわ」と判断し、引き受けてしまう…といった感じです。そのあと、紹介記事でも触れた鬚黒の大将と玉鬘の逢瀬が描かれます。確かに、原典のようにいきなり、「弁のおもとという女房の手引きにより、鬚黒の大将は玉鬘の寝所に忍んでしまった。」という事実を知らされるよりもわかり
やすいと思いました。

 あと、こちらも記憶がなかったのですが、「空蝉」(新源氏物語では桐壷の巻はカットされています。そして、空蝉の巻にて帚木と空蝉の内容が語られます)を読んでいて、「あれ?雨夜の品定めがない!」と思ったのです。そうしたら次の「夕顔」の巻の冒頭に出てきました。雨夜の品定めでは、頭中将が行方不明になった恋人、夕顔のことを語る部分がありますから、夕顔の印象をより強くするため、このような手法を取ったのでしょうね。このあたりはずいぶん思い切った構成の改変です。これも賛否両論あるかもしれませんね。でも、「これも田辺さん独自の源氏の世界」と思って割り切って読みました。

 …というように、源氏物語の現代語訳というよりも、源氏物語を下敷きにした一つの小説という色も濃い本ですが、平安時代の日常生活や行事、宴の描写も細かいですし、何よりも登場人物の会話が生き生きしています。原文を直訳すると回りくどい言い回しになってしまうような部分もすっきりと訳されていますし、やっぱり田辺さんの訳は好きだなあ…と、改めて思いました。引き続き、田辺さんの「源氏物語」の世界を楽しもうと思っています。

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秋の日帰り京都旅行 もくじ

2009-02-02 12:27:23 | 旅の記録
 このページは、「秋の日帰り京都旅行(2008年10月24日)」のもくじのページです。「旅行記の1回目を読む」→「ブラウザのもどるでこのページにもどる」→「旅行記の第2回目を読む」というように、旅行記を順番に読むことができます。
 また、他の旅行記のもくじへのリンクも貼ってありますので、そちらもご覧になってみて下さい。


1.出発
2.移徙・仏名会
3.御冊子づくり
4.実物大展示室
5.平安神宮
6.創作平安王朝料理その1
7.創作平安王朝料理その2
8.創作平安王朝料理その3
9.帰り



☆日帰り京都旅行2005年夏 もくじ

 2005年8月23日、当時京都文化博物館で開かれていた風俗博物館出張展示を観に行って十二単を体験し、その後、法住寺と三十三間堂を巡ったときの旅行記です。


☆京都1泊旅行2006年春 もくじ

 2006年4月6日・7日の京都1泊旅行の旅行記です。1日目には風俗博物館に行き、そのあと下鴨神社で平安装束を体験しました。2日目は京都御所、紫式部の墓、雲林院などを巡りました。


☆掛川城散歩 もくじ

 2006年9月14日、当時放映されていたNHK大河ドラマ「功名が辻」の舞台ともなった掛川城を訪れたときのミニ旅行記です。

☆日帰り小旅行 三島編 もくじ
 2007年1月16日、当時三島市の佐野美術館で開かれていた「よみがえる源氏物語絵巻 ー平成復元絵巻のすべて」の展示を見に行き、三島大社を参拝したときの旅行記です。

☆晩秋の京都へ もくじ
 2007年11月24日、風俗博物館に行ったあと、枳殻邸(渉成園)で紅葉を堪能し、西陣・斎院御所跡を訪れたときの旅行記です。

☆新緑の京都で装束体験
 2008年5月16日、京都文化博物館にて「源氏物語千年紀展」を鑑賞、その後、十二単を体験し、博物館の周りにある平安邸宅の跡を巡ったときの旅行記です。

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帰り ~秋の日帰り京都旅行9

2009-02-02 12:18:16 | 旅の記録
 創作平安王朝料理を頂いたあとは、だんなさんと合流し、皆様と一緒に京都文化博物館へ行きました。

 ここでは源氏物語展が行われていて、「木版本・源氏物語絵巻」が展示されていました。赤や緑の色鮮やかな絵巻物です。「木版本・源氏物語絵巻」ができるまでの経過もビデオで上映されていました。こうして色々な方が様々な形で「源氏物語」のすばらしさを伝えているのですよね。何か感動しました。

 展示を見終わったあと、皆様とお別れしました。京都文化博物館では、5月の装束体験の時にもカメラマンとしていらして下さった隣のおばちゃんさんともお会いでき、「源氏物語」のお話をすることもできて楽しかったです。みなさま、楽しい時間をありがとうございました。

 さて、私とだんなさんはそのあと京都駅前に戻ってきたのですが、まだ新幹線に乗る時刻まで間があったので、駅前の地下街「ポルタ」で行われていた源氏物語展を見ていくことにしました。さすが千年紀だけあり、この時期の京都はあちらこちらで源氏物語展が行われていたのですよね。京都アスニーやメルパルクでの展示も見てみたかったのですが、時間がなくて断念しました。

 さて、ポルタの源氏物語展、菊人形が素敵でした。幻想的な音楽も流れていて雰囲気も良かったです。

 と言うわけで、新幹線の時刻が迫ってきたので駅の改札に入り、いつものように夕飯用に京料理のお弁当とお土産の漬け物をゲット。新幹線の座席は今朝、換えてもらった16号車の8番です。ちょうど車両の真ん中あたりで快適でした。

 夕飯は新幹線の中で食べようとも思ったのですが、私はお昼に創作平安王朝料理をたくさん食べましたし、だんなさんもおそばをたくさん食べたようなので、二人ともおなかがすいておらず、家に帰ってから食べることにしました。それで、食べ物の写真ばかりで恐縮なのですが、私のお弁当、「幕の内弁当」の写真です。


          


 ご飯はおこわとウナギご飯など何種類か入っており、おかずも天ぷら、煮物、高野豆腐、唐揚げなど盛りだくさんでした。天ぷらはもちろん、塩で頂きました。

 そして、こちらがだんなさんのお弁当、「鶏二段重ね」です。


          


 こちらは、ご飯は1種類ですが、おかずは色々入っていたようです。私のお弁当もそうだったのですが、少しずつ、色々な種類の物が入っていたので、だんなさんも食べていて楽しかったみたいです。

 こうして、見て、食べて、色々な方とふれあった京都への日帰り旅行が終わりました。今度はいつ京都に行けるのかしら。その日を楽しみにしていようと思います。

              ー秋の日帰り京都旅行 終わり ー

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