平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

最近のエリカ

2006-11-29 09:31:19 | 猫のお部屋
 久しぶりに、我が家の小さな(?)エリカの登場です。

 本日の写真は、エリカが、テレビから流れてくる音楽に合わせてポーズをとり、手足を動かしているところを撮影したものです。でも、動画ではないので、手足を動かしている姿をお目にかけることはできませんが…。手足が微妙に曲がっていて何とも言えないですね。なお、後ろに写っているのはだんなさんのパソコンです。

 では、最近のエリカの様子を…。

☆最近のお気に入りの場所

 押し入れの上の段のダンボールの中です。押し入れの前には3段組のかごが置いてあるのですが、エリカはまず、かごの一番上に飛び乗り、そこから押し入れの上の段に飛び移ります。そして、さっとダンボールの中に入ってしまいます。
 猫の飼い方を書いた本で読んだことがあるのですが、猫はすっぽりと隠れることができる場所をとても好むのだそうです。押し入れのダンボールの中など、その最たるものだと思います。しかも、エリカの隠れているダンボールはかなり大きいので、それほど窮屈ではなさそうですし…。エリカにとっては、「いい場所見つけたニャン!」という感じなのでしょうね。

☆最近こっていること

 古新聞で爪をとぐことです。エリカにとっては良いストレス発散方法のようです。まあ、畳や絨毯で爪をとがれるよりはずっと良いです。

☆とっても甘えん坊です。

 寒くなったせいか、私たちに体をすり寄せてくることが多くなってきました。

 だんなさんには「抱いて、抱いて」としょっちゅう言っています。そして、抱いてもらうと喜んで、のどをゴロゴロさせています。
 そして、しばらくなりをひそめていた、「私のパソコンのキーボードに飛び乗る」という行動が再発しました。「だって、キーボードに飛び乗るとママが抱いてくれるもん!」という声が聞こえてきそうですが…。
 そうなんです、キーボードに飛び乗られてパソコンをめちゃくちゃにされては大変なので、私はさっとエリカを抱き取るのです。するとエリカは喜んで、私の膝の上でじっとしています。やっぱり甘えん坊ですね。そんなエリカをなでていると私も幸せです。

藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ

2006-11-26 09:59:13 | 歴史人物伝
 私がこの女性のことを初めて知ったのは今から20年ほど前、永井路子さんの「この世をば」を読んだときでした。とにかく強烈なイメージでした。「みやびでなよやかな印象を持っていた平安時代にこんな強い女性がいたんだ~」とびっくりし、同時に何となく嬉しくもありました。
 今回の人物伝では、そんな女性、藤原詮子を紹介したいと思います。

 では、彼女のプロフィールからどうぞ。

☆藤原詮子 (962~1001)
 父・藤原兼家 母・藤原時姫(藤原中正女)。同母兄に道隆と道兼、同母姉に超子(冷泉天皇女御・三条天皇母)、同母弟に道長がいました。

 彼女の子供時代についてはわかりません。ただ、彼女の後年の行動から、どんな子供だったかを推察することはできると思います。

 詮子の姉の超子は、天元五年(982)正月、庚申待ちの明け方に若くして急死してしまいます。そのようなことから、何となくはかないイメージを受けます。
 それに対して詮子は、なかなかきかん気でおてんばな姫さまだったのではないでしょうか。道兼は詮子の1歳上の兄ですが、彼女は年の近い兄にライバル心を燃やし、口げんかをすることもあったかもしれません。

 そんな詮子は、17歳の時に人生の転機を迎えました。
 天元元年(978)八月、詮子は円融天皇の後宮に入内します。同年十一月に女御となり、「梅壺女御」と呼ばれました。
 当時、円融天皇の後宮には、藤原兼通女の(女皇)子、藤原頼忠女の遵子がいましたが、天皇にはまだ皇子が生まれていませんでした。負けず嫌いの詮子は、「私が絶対に帝の第一皇子を生んでやる」と思っていたことは充分考えられます。しかしそれは彼女の負けず嫌いの性格のためだけではなく、自分が帝の第一皇子を生むことによって父兼家を天皇の外戚にし、我が家に運を開かせるという強い信念もあったのではないかと思います。

 その強い決心と信念を貫いた詮子は、天元三年(980)六月一日、里邸の東三条第にて、円融天皇の第一皇子を出産します。
「皇子のご誕生ですよ。」と告げられた詮子は何を思ったのでしょうか。「私は他の女御たちに勝った。これでわが父も運が開ける。」と思ったことでしょう。兼家の喜ぶ顔も目に浮かんできそうです。

 皇子はその年の八月に親王宣下され、「懐仁」と名付けられました。
 しかし詮子は内裏には戻らず、東三条第に居続けたようです。というのは、その年の十一月に内裏が消失しているのですが(当ブログの「尊子内親王」の項を参照して下さい)、詮子が内裏から避難したという記録がないようなのです。しかも円融天皇と他の妃たちとの贈答歌は残っているようですが、詮子との贈答歌は一種もないようなのですよね。
 こうしてみると詮子は、懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられますが、もし詮子が立后していたら、その後の彼女の人生も変わっていたかもしれません。

 天元五年三月、、円融天皇が皇后に選んだのは詮子ではなく遵子だったのでした。兼通女の(女皇)子はこの3年前に世を去っており、詮子のあとに入内したもう1人の女御尊子内親王はしっかりした後ろ盾がないため、円融天皇も立后を考えなかったようです。

 皇后になることができなかった詮子は「悔しい!帝の皇子を生んでいるのはこの私なのに…」と思ったことでしょう。しかも、遵子が皇后として意気揚々と参内する途中、その行列が東三条第の横を通ったとき、参内の伴をしていた遵子の弟の公任が
「こちらの女御さまはいつ后になるのでしょうね。」
と言ったものですから、詮子の悔しさは言葉では言い表せないものだったと思われます。父兼家も円融天皇に対し、不快をあらわにしたと言われています。

 上で私は、「詮子は懐仁親王を生んだ時点で円融天皇から離れたとも考えられる」と書きましたが、少なくても天元五年の正月頃までは、自分の進むべき道をどうするか迷っていたところがあったと思います。
「内裏も再興されたし、そろそろ懐仁を連れて帝のもとに戻っても良い」
と、詮子は考えていたのかもしれませんが、自分が后になれないことを知った時点で、完全に円融天皇から離れたのではないかと思います。
「私は藤原氏側の人間として、父のため、兄弟のため、息子懐仁のために生きよう。」
と、詮子は決心したのではないでしょうか。

 その二年後、円融天皇は皇太子の師貞親王に譲位をします。つまり花山天皇です。そして、花山天皇の皇太子には詮子の生んだ懐仁親王が立てられます。円融天皇が譲位し、懐仁親王を皇太子にした理由の一つには、兼家や詮子の不快を和らげようとしたためだとも言われています。
 ともあれ、詮子は一応、皇太子の母となったわけです。しかし、花山天皇はまだ若く、いつ譲位するかわかりません。
 ただ、花山天皇は外戚の力が非情に弱い天皇でした。そこで兼家は、謀略を持って花山天皇を退位させます。
 つまり、寵愛していた女御に先立たれて気落ちした花山天皇につけ込んだのです。五位蔵人として天皇に使えていた兼家の息子道兼は、「一緒に出家しましょう」と言って天皇をだまし、内裏から連れ出してしまいます。そして天皇の出家を見届けると、さっさと逃げ出してしまいます。天皇が「だまされた」ということに気がついたときはもう、三種の神器は懐仁親王のもとに移っていました。

 こうして寛和二年(986)六月、懐仁親王は踐祚します。つまり一条天皇です。詮子は天皇の母として皇太后に立てられることとなりました。

 この花山天皇退位事件に詮子が関わっていたかどうかはわかりませんが、この謀略の計画を事前に明かされていたことは間違いないと思います。そして謀略が成功したことを聞いたとき、詮子の頭に浮かんだことは「私は勝った!遵子にも、円融上皇にも…」ということだったのではないでしょうか。

 かくして詮子は、絶大な力を持つこととなります。つまり、詮子は、天皇の祖父として摂政となった兼家の片腕役だったと考えて良いと思います。それだけ、彼女は強い政治力の持ち主でした。このように外祖父・母后・天皇の3人がそろっているときにこそ、摂関政治は絶大な効果を発揮していたのでした。

 永祚二年(990)七月、その兼家が世を去ります。兼家の跡を継いだのは詮子の兄の道隆。あるじを失っても詮子ファミリーは外戚として絶大な力を持ち続けました。
 翌正暦二年(991)九月、詮子は落飾します。しかし、世を捨てたわけでは決してありません。詮子はその時に「東三条院」という院号を授かり、上皇並みの待遇となったのでした。そして、この「東三条院」がその後、何十人もの后や内親王に授けられることになる女院号の始まりでした。詮子の発言力はますます強くなっていったことは言うまでもありません。

 その発言力が最も発揮されたのが、長徳元年(995)五月の道長政権誕生の時だったのではないかと思います。

 長徳元年は激動の年でした。まず、以前から病気であった関白道隆が四月に世を去ります。その直後、西の方からやってきた伝染病が京で流行し始め、公卿・殿上人が次々と死んでいきました。道隆のあとを継いだ道兼も、関白に任じられて十日あまりで世を去ってしまいます。

 そこで次期関白の候補となったのは、道隆の嫡男で内大臣の伊周(22歳)と、道隆や道兼・詮子の弟で権大納言の道長(30歳)の二人でした。
 詮子が押したのは自分のお気に入りの弟の道長でした。しかし、一条天皇は首を縦にふりませんでした。
 というのは、当時一条天皇の後宮には、故道隆の娘、中宮定子がただ一人の后としてときめいており、天皇はこの定子を大変愛しておられました。そこで天皇は、父親を失ったばかりの定子の頼もしい後ろ盾として、伊周に関白になってもらおう…と密かに決心していたようなのです。

 そんな天皇の心中に感づいた詮子は非常手段に出ることになります。何と、夜中に天皇の寝所に押しかけていったのでした。
「道兼どのに関白の宣旨を下したのに、道長どのに下さないなんてかわいそうではないの。」
「伊周どのはまだ若くて頼りにはなりません。道長どのこそ、頼りになる御方です。」
と涙ながらに訴え、とうとう天皇に、「道長に内覧の宣旨を下す」ことを承知させます。内覧…と言っても、実質的には関白とほとんど変わりませんので、詮子はここでも自分の信念を貫き通したことになります。

 詮子はどうして、道長政権にこだわったのでしょうか?
 「兄弟の中で一番仲の良い、お気に入りの弟に政権を取らせてあげたい」という姉としての気持ち、「息子が大切に思っている嫁の定子に対する嫉妬新」などももちろんあったでしょうが、それとは別な気持ちが詮子にはありました。
 詮子は、伊周や定子ではなく、彼らの母の実家、高階一族を嫌っていたのではないでしょうか。
 実は、関白となった道隆は、妻貴子の実家である高階一族の人々を大変優遇しているのです。貴子の父、高階成忠を従二位に叙したり、貴子の兄弟たちの官位を上げたりしています。元々受領階級である高階一族を、詮子は一段低く見ているところがありました。もし伊周が関白になったら、母方の親戚である彼らの発言力はぐっと強くなります。そのような事になるのは絶対に嫌…と、詮子は思ったのでしょう。
「伊周が関白になったら、権力があちらに移ってしまうかもしれない。それなら、藤原摂関家と帝を守ることができるのは私と道長どのだけ…」
と考えた詮子は、何が何でも天皇を説得しなければ…という、強い信念があったと思われます。彼女はこの時、藤原摂関家の強い女あるじぶりを発揮したとも言えそうです。

 さて、その後の詮子ですが……、残念ながら彼女は、その後間もない頃から次第に健康を損ねるようになります。
 翌長徳二年(996)三月、病により院号及び年官年爵を辞しています。。長保元年(999)八月、慈徳寺の落慶供養を行ったり、また、洛北長谷の地に解脱寺を建立したりしています。次第に健康を損ねていった詮子は、急速に仏教に帰依するようになったことがうかがえます。

 長保三年(1001)十月、道長は自邸の土御門第にて、詮子の四十の賀を催しました。道長の詮子に対する長年の感謝の気持ちの表れだと思われます。
 その約半月後、詮子は石山寺詣でをしています。この時期までは、まだ、外出できるほどの病状だったと思います。「藤原摂関家の女あるじとして、私はまだ倒れるわけにはいかない」という強い気力もあったかもしれませんが…。

 しかし、その年の閏十二月十六日、詮子は病の重きにより、法橋覚運を戒師として出家。翌日東三条院別当である藤原行成第に渡り、二十二日に崩御しました。まだ早すぎる40歳でした。最晩年には、長保二年に誕生と引き替えに母后定子を亡くした(女美)子内親王を引き取って慈しんでいたと言われています。

 こうして彼女の生涯を眺めてみると、まさしく実家のため、父のため、弟のために全力投球で生き抜いた人生だったという感じがします。更に、「思ったことは必ずやり遂げる」という強い意志を持って生きていたような気がします。
 また、彼女の強い政治力は、院政期の美服門院や丹後局、鎌倉時代の北条政子などにも通じる者があるような気がします。もう少し注目されてもよい女性だと思います。

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「人物叢書 一条天皇」 倉本一宏 吉川弘文館
 「大鏡 全現代語訳」 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫
 

源頼朝の世界

2006-11-20 09:29:08 | 図書室1
 先日、「図書室3」のカテゴリで紹介した「北条政子」を読んで、頼朝や政子とその周辺人物、東国武士団についてもちょっと興味が出てきたので、同じ永井路子さんの著書であるこの本を読んでみました。面白かったのでこちらで紹介いたします。

☆源頼朝の世界
 著者・永井路子 発行・中央公論新社 中公文庫 価格・680円

本の内容紹介
 東国武士団の棟梁源頼朝を変革の時代の中に描く。ー平氏による貴族政権に立ち向かってついに壊滅させ、はなやかに歴史の表舞台におどりでた頼朝と、北条政子や東国武者らをめぐる権謀術数うずまく激烈な抗争のドラマ。

☆もくじ

源頼朝を巡る人びと
 源 頼朝
 北条政子
 頼家と実朝
 比企尼と阿波局
 北条義時

逞しき東国武者
 三浦一族
 伊豆の軍団
 荒野のつわものたち

西国の権謀家たち
 後白河法皇
 源 通親
 後鳥羽院と藤原定家

あとがき/解説


 この本は、鎌倉幕府の創設者である源頼朝と、彼を巡る多くの人々の生の軌跡を紹介したものです。

 永井路子さんの歴史エッセー全般に言えることなのですが、この本もその例にもれず、人物が生き生きしていてとても身近に感じられ、かつ斬新でわかりやすいです。

 源頼朝は、「この人のためなら何かしてあげたい」と思わせる雰囲気を持っており、それが彼の運の良さにつながった…という永井さんの頼朝論は面白かったです。
 また、彼を取り巻く東国武士団、特に、鎌倉幕府の主導権を巡って北条氏に70年にわたる戦いを挑んだ三浦一族に興味を引かれました。

 頼朝と東国武士団を結ぶパイプ役として、乳母の比企尼の存在があったというのも興味深いです。つまり彼女の養子が比企能員、娘婿が河越重頼と安達盛長であり、彼らは流人時代から頼朝に奉仕していたようなのです。河越重頼は娘が義経に嫁いだ関係で失脚してしまいますが、比企能員と安達盛長はのちに、鎌倉幕府の重要人物になるのですよね。比企尼の存在がどんなに大きかったかがわかるというものです。今まで私は、東国武士団に関してはあまり関心を持っていなかったのですが、なかなか魅力的で面白い人が多いなととても新鮮に感じました。永井さんも本文中で述べていますが、新しい時代を作っていくのはこういう人たちなのだな…と強く感じました。

 それと同時に、私が以前から関心を持っている京の朝廷側の人たちについても触れられていて嬉しかったです。
 激動の時代の中で右往左往していたような所がある後白河法皇、権力に対しては常に積極的な源通親…。特に、「通親は鎌倉幕府を倒そうという野望を持っていたのかもしれないが、彼の本質は朝廷や貴族の権威という古い体質であり、新しい時代の担い手にはならなかったのではないか。」という永井さんの見解はなるほどと思いました。
 藤原定家と後鳥羽院との息詰まるような人間ドラマも面白かったです。

 この本を読んで思ったことは、「鎌倉幕府は最初から北条氏が権力を握っていたわけではない。」「京の朝廷を抜きにして、初期の鎌倉幕府は語れない。」の二点です。つまり初期の鎌倉幕府は、京と鎌倉の多くの人が関わり合い、絡み合って成り立っていたということでしょうか。この本でぜひ、そんな魅力的な人たちのいきざまを堪能してみて下さい。

「平安時代史事典」が届きました♪

2006-11-15 10:08:43 | 読書日記
 待ちに待った「平安時代史事典 CD-ROM版」が昨日ようやく手元に届きました。嬉しいです~。

 そこで早速使ってみました。
 使った感想ですが……、結論から言うと、今の段階では、私一人で使うのはかなり難しいです…。というのは、マウスを使わないとCD-ROMの操作ができないので、画面を見ることで目にものすごく負担がかかる私にとってはかなり大変なのですよね…。

 それと、これはある程度予想していたことなのですが、検索した内容をそのまま音声ソフトで読ませることは無理でした。ただ、画面の印刷はできるようです。それから、これが大変ありがたいことなのですが、内容をテキストファイル化してダウンロードができました。テキストファイルなら確実に音声ソフトが使えますし、文字も一字一字確認ができるので助かります。

 そこで早速、今後ブログ記事で取り上げたい人物や、その周辺人物を30人ほど検索し、フロッピーディスクにダウンロードしてそれを音声で読ませてみました。その結果思ったことは、とにかくすごいの一言です。今まで私の知らなかったことがたくさん書いてあり、「これは記事を書く上で参考にできる」と思いわくわくしました。

 例えば、「宇田天皇」の項には、彼がやったこととして、「皇太后高子を廃し、その所生の陽成上皇の復辟と貞保親王の登位を封じた。」ということが書いてあったのです。藤原高子が皇太后の称号を奪われた理由は、東光寺の僧善祐と密通したから…だと私は思っていたのですが、その裏には陽成上皇の復位やその弟の立太子を阻止する目的があったとは知りませんでした。そして、高子の皇太后廃位に宇田天皇が大きく関わっていたとは…これも驚きです。

 ちなみに「藤原高子」の項を見てみたところ、高子が皇太后の称号を奪われたのは、善祐との密通の噂が経ってから7年後だったそうです。これでは密通が廃位の原因とは考えられませんよね。宇田天皇が、高子ー陽成上皇ラインにどんなに警戒していたかがわかるというものです。

 余談ながら、「藤原高子」という名前を持つ女性がもう1人見つかったのも面白かったです。上で挙げた藤原高子は「ふじわらのたかいこ」と読むのですが、もう1人の藤原高子は素直に「ふじわらのたかこ」と読むのだそうです。そして「ふじわらのたかこ」の方は三条天皇中宮の藤原妍子(道長の次女)の乳母だった人だそうです。こんな人がいたなんて今まで全く知りませんでした。

 このように「平安時代史事典」は知識の宝庫です。なので、人物だけでなく、文学や有職故実や建築の分野も検索して、知識を増やして行けたら良いなと思っています。マウスでのクリックも、どこをクリックしたらよいかがわかればもしかすると一人で使えるようになるかもしれません。でも、今はまだ慣れていないので、しばらくはだんなさんに手伝ってもらいながら、データをダウンロードしていきたいと思っています。


平安妖異伝

2006-11-13 10:10:29 | 図書室3
 今回は、おもに平安時代中期の平安京と、平安宮内裏を舞台にした小説を紹介します。

☆平安妖異伝
 著者・平岩弓枝 税込み価格・540円 発行・新潮社 新潮文庫

☆本の内容紹介
あらゆる楽器に通じ異国の血を引く少年楽士・秦真比呂が、若き日の藤原道長と、平安京を騒がせる物の怪たちに挑む。桜の古木を篳篥の音で慰め、巨大な象太鼓に秘められた不思議を解明し、八面六臂の大活躍。都に妖気が漂うとき、清々しい管絃の音とともに二人の姿が現れる…謎の死を遂げた義兄の家人の後を追って、道長も見慣れぬ黒い邸に誘いこまれた…。怪しの物語十編。


 紹介文にもありますように、二十代半ば頃の藤原道長が主人公です。そしてこの本は、道長が、超能力を持ち、あらゆる楽器を弾きこなす謎の少年、秦真比呂とともに、都で起こる怪事件を解決していく…という連作小説集です。
 二人の前に現れる化け物も、動物の化け物であったり植物の化け物であったり、はたまた人間の化け物であったりします。そして、十編の物語一つ一つに、それぞれ雅楽器が登場し、事件を解決していく鍵となっています。

 物語を読んでの感想ですが、何と言っても道長が格好良かったです。化け物を叱りつけたり、自ら化け物退治をすることもあります。なので、道長が好きな方には絶対にお薦めです。

 また、物語には平安中期の有名人がたくさん登場するので、平安好きにとってはたまらないです。
 道長の妻の倫子や明子、倫子の父の源雅信はもちろん、兄の道隆、その娘の定子中宮、定子の母の高階貴子なども登場します。それと、わくわくしたのが後に「四納言」と呼ばれる藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の登場でした。道隆が大酒飲みで、藤原朝光、藤原済時と飲み友達であったことも史実通りに描かれていますし、3人が牛車の中で酔っぱらって寝てしまう場面はユーモラスでした。

 この連作小説集はフィクションという色の濃い作品ですが、歴史事項も時々出てきます。永祚二年(990)の藤原兼家の薨去もその一例です。が、何と言ってもこの小説集では、安和二年(969)に起こった源高明の失脚事件、安和の変がキーワードになっている小説が3編収められていて興味深いです。上の方で引用した本の紹介文の中の「義兄」というのは、道長の妻明子の兄、源俊賢、つまり高明の忘れ形見のことです。
 さらに、その安和の変の首謀者の一人は藤原兼家と言われています。つまり道長の父です。そして、道長が源高明にまつわる事件を解決していくというのも、何か因縁というか、不思議なものを感じました。そのあたりも、この小説がよくできている…と、感じる一つです。

 この小説集は、ファンタジー時代小説という色の濃い作品だと思いますが、それと同時に推理小説のような一面もあると思います。つまり道長が探偵で、真比呂が助手という感じでしょうか。ストーリーが変化に富んでいて面白く、どんどん物語の世界に引き込まれていきます。情景描写も美しく、みやびな雅楽が聞こえてくるような不思議な気分になることもできます。それと同時に、各話のラストでは、「人間にとって本当に大切なものは何か?」「本当の幸福とは?」ということをふと考えさせられる…といったしんみりした部分も持ち合わせています。
 その意味で、特に平安好きでなくても、小説として充分楽しめる作品だと思いました。
興味を持たれた方はぜひ手に取ってみて下さい。
 

尊子内親王 ~「火の宮」と呼ばれた皇女

2006-11-09 00:17:55 | 歴史人物伝
 今までの人物伝では、わりと幸運な人生を送ったと思われる人々を紹介してきましたが、今回は悲運の内親王を紹介したいと思います。
 彼女はごく幼いときに賀茂の斎院となり、のちに入内もしていますが、次々と肉親に先立たれ、そのため後ろ盾もなく、ついには出家をしてしまい、若くしてこの世を去ります。しかし、その生き方には何か一本筋が通ったものを感じましたので、ここに紹介させていただきたいと思います。

 では彼女、尊子内親王の生涯を年代を追って紹介しますね。

☆康保三年(966) 1歳
 誕生。父・冷泉天皇。母・藤原懐子(藤原伊尹女)。
*同じ年に、のちに摂政太政大臣となって栄華を極めることとなる藤原道長も誕生しています。

☆康保四年(967) 2歳。
 父、冷泉天皇が踐祚したことによって内親王宣下される。

☆安和元年(968) 3歳
 賀茂の斎院に卜定される。
*同母弟師貞親王(後の花山天皇)がこの年に誕生しています

☆安和二年(969) 4歳。
 父、冷泉天皇退位。円融天皇踐祚。皇太子には尊子内親王の同母弟師貞親王が立てられる。安和の変により、左大臣源高明が失脚。

☆天禄三年(972) 7歳
 2月3日、外祖父藤原伊尹が斎院御所において、内親王のために子日(ねのひ)の遊びを催した際、清原元輔が斎院御所の松と内親王をたたえる歌を詠んでいます。幼い内親王にとって、こういった華やかな遊びの宴は心ときめくものだったと思われます。

 しかしその年の十一月、伊尹は49歳で薨じます。かわいがってくれた祖父の死は、内親王にとっては悲しい出来事だったことでしょう。

☆天延元年(973) 8歳
 十二月、斎院御庁の建物が焼失。

☆天延二年(974) 9歳。
 母方のおじ、挙賢と義孝が流行病により同日に死去。二人は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮中の人気者で、大変な美男子だったと伝えられています。二人が同日に卒したことについては、藤原朝成の怨霊のせいではないかと噂されました。

☆天延三年(975) 10歳
 母、藤原懐子が薨じます。内親王は母の喪によって斎院を退下します。次々と訪れる肉親の死を、幼い内親王はどのような気持ちで受け止めていたのでしょうか…。

*余談ですが、尊子内親王の後任は、のちに「大斎院」と呼ばれることとなる選子内親王(村上天皇皇女)です。

☆天元元年(978) 13歳
 四品に叙される。

☆天元二年(979) 14歳。
 円融天皇の皇后であった(女皇)子(藤原兼通女)が崩御。尊子内親王は、皇后の死を悼み、円融天皇に歌を送りました。

内親王の歌
 亀の上の 山をたづねし 人よりも 空に恋いふらむ 君をこそ思へ

円融天皇の返歌
 たづぬべき 方だにもなき 別れには 心をいづち やらぬとぞ思ふ

 幼いときに多くの肉親に先立たれた内親王は、天皇の哀しみが自分の哀しみのように思えたのかもしれません。

☆天元三年(980) 15歳
 前年の歌の贈答が縁になったかどうかははっきりわかりませんが、10月、円融天皇の薦めで入内し、「麗景殿の女御」と呼ばれることとなります。しかしその翌月、内裏が焼失してしまいます。先に斎院御庁が消失したこととも重なり、世間から「火の宮」とあだ名されることとなります。

☆天元四年(981)
 十月、内裏復興。

☆天元五年(982) 17歳
 正月、参内。承香殿に入り、「承香殿の女御」と呼ばれることになります。二品に昇叙。

 4月、頼りにしていたおじの藤原光昭が世を去ります。
 この光昭という人、父はもちろん藤原伊尹です。母は一般的には不詳とされていますが、一説によると歌人の井殿(光孝源氏の源信明と中務の間の娘)と言われています。中務は歌人伊勢と敦慶親王(宇多天皇皇子)の間の娘なので、もしこれが事実なら、光昭は伊勢の曾孫ということになります。「中務集」の詞書きによると、中務は井殿・光昭母子のほか、尊子内親王の女房と推定される「宮の君」という女性とも同居しており、そのことが尊子内親王と光昭との関係を深くしていた要因ではなかったかと思われます。

 尊子内親王は、祖父伊尹を始め、母方の多くの有力な肉親に先立たれており、父の冷泉天皇は狂気のため全く頼りになりませんでしたので、上で述べたようなことからも、おじの光昭は最も頼りにできる人物でした。その光昭を失った哀しみは計り知れないものがあったと推察されます。

 光昭の死後間もなく、内親王は誰にも知らさず、自ら髪を切って内裏を退出しました。つまり有髪の尼となって出家したということになります。当時の高貴な女性の出家は頭を丸坊主にするのではなく、肩のあたりで切りそろえる…というのが習わしだったようです。

☆永観二年(984) 19歳
 冷泉・円融両帝に仕えた漢学者の源為憲が、絵入りの仏教説話集「三宝絵」を著し、尊子内親王に寄進しました。仏に仕える毎日を送る中、この本を見ることにより、内親王はどんなに心を慰められたことでしょうか。

*この年、円融天皇退位。同母弟師貞親王が花山天皇として踐祚しています。

☆寛和元年(985) 20歳
 四月、受戒。それまでは有髪の尼だったと思われますが、この時に髪を全部切り、正式に出家したものと思われます。多分彼女はこれ以前から病におかされており、快癒を願って受戒したのではないかと思います。しかしその甲斐なく、翌5月に世を去りました。享年二十。少しも心乱れず、安らかな最期であったと伝えられています。

 「池亭記」を著した慶滋保胤は、尊子内親王の四十九日のための願文を書きました。
 その中で保胤は、、「出家というものは老年で寡婦であるか、病弱で両親のない者がするものであるが、内親王は先帝の女御、今上帝の姉宮という貴い身分で出家をしてしまった。これは仏の化身に違いない。」と述べています。


 尊子内親王は、「いみじう美しげに光るやう」(『栄花物語』)と言われるほどの美しい姫宮でした。また、源為憲が心をこめて仏教説話集を送ったこと、慶滋保胤が彼女をたたえる願文を書いていることなどから、誰からも好かれる清らかで優しい心の持ち主だったと思われます。

 しかし、藤原伊尹の子や孫の多くが出家をしたり、若くして世を去っている例にもれず、彼女も若くして亡くなってしまいます。せっかく入内したものの内裏が焼け、「火の宮」と呼ばれ、やがて出家してしまう…、一見すると運命にもてあそばれた悲劇の内親王のようにも見えますが、ただ一つ言えることは、彼女は自分の意志で、生きるべき道を選び取ったということです。

 円融天皇は尊子内親王に愛情を注いでいたようですが、彼の後宮には、藤原遵子(藤原頼忠女)、藤原詮子(藤原兼家女)といった女御がいました。二人とも、実家の後ろ盾がしっかりした女御です。その上、内親王が出家した頃の円融天皇は、遵子を立后させるという内意を頼忠に伝えておきながら、第一皇子懐仁親王を産んだ詮子にはばかり、なかなかそれを実行できないでいるという状態でした。こんな風に、円融天皇の後宮では、二人の女御の激しい権力闘争が渦巻いていたのです。

 そんな中、しっかりした後ろ盾のない内親王は、後宮で孤独を感じざるを得なかったのではないかと思います。そしてその折々に思い出すのが、幼い頃に過ごした斎院御所だったのではないでしょうか。神に仕える清らかな日々をなつかしく思い出していたのかもしれません。そこで、光昭という頼りにしていたおじの死をきっかけに、自分の意志で髪を下ろし、仏に仕える道を選んだのではないでしょうか。最初の方でも書きましたが、何か一本筋が通った強いものを感じます。

 彼女の生涯は大変短いものでしたが、特に出家後の彼女が安らかな気持ちで、充実した日々を過ごしたことを祈りたいです。

☆参考文献
 内親王ものがたり 岩佐美代子 岩波書店
 中務 三十六歌仙の女性 稲賀敬二 新典社
 

野菜炒め

2006-11-06 20:27:44 | えりかの平安な日々 04~09
 本日の写真は、今夜の夕食のおかず「野菜炒め」です。実はこれ、私とだんなさんの合作なんですよ~。

 まず、私が下ごしらえをしました。

 なす1本を薄切り、ピーマン1個をせん切り、にんじん1本をいちょう切り、玉ねぎ半分を薄切りにしました。そして、キャベツ4分の1個をせん切りにし、水にしばらく浸してぱりっとさせました。豚のこまぎれ100グラムも用意しました。

 お料理の方はだんなさんがやってくれました。我が家では、料理はたいてい私がやっていますが、野菜炒めと、ハムに小麦粉と卵を漬けて焼く料理(名前がわかりません、すみません)、炒めご飯は彼の方が上手です。なのでこの3つの料理はお任せしています。

 まず最初になす、ピーマン、にんじん、玉ねぎを炒め、次に肉を入れ、最後にキャベツを入れるそうです。味付けは、塩、こしょう、味の素、ブラックペッパー、しょうゆだそうです。炒め加減と味付けのバランスが難しくて、私はどうしてもうまく作れないのですよね…。

 今夜の夕食は、私たちの合作の野菜炒めと、ミョウガと油揚げのみそ汁とご飯(こちらは私が作りました)でした。みんな、あたたかくておいしかったです。


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北条政子

2006-11-04 00:26:59 | 図書室3
 十数年前に古本屋で購入した歴史小説を、最近になってやっと読みました。今回ここで紹介させていただきますね。

☆北条政子
ちょしゃ・永井路子
・永井路子歴史小説全集9 価格・3,873円 中央公論新社
・文春文庫版 価格・770円 文藝春秋

 なお、上の写真は私が所持している、昭和53年に講談社より発行された単行本ですが、こちらは絶版となっております。上記に挙げた2種類のみが現在でも入手可能のようです。

☆本の内容紹介
伊豆の豪族北条時政の娘に生まれ、流人源頼朝に逢い恋をした政子。やがて夫は平家への反旗を翻す。歴史の激流にもまれつつ乱世を生きた女の人生の哀歓を描く歴史長篇。

 タイトルや紹介文でもおわかりのように、源頼朝の妻、北条政子を主人公にした小説です。

 物語は、治承元年(1177)、政子21歳の年から始まります。
 十代で結婚することの多い当時としては行き遅れてしまった政子が、源頼朝の家臣安達盛長の仲立ちで頼朝と相思相愛の仲になります。そして政子はある日、父時政の反対を押し切って北条館を抜け出し、頼朝の許に走ります。しかしその逃避行が、政子の波瀾万丈の人生の幕開けでもあったのでした。

 波乱の幕開けは、頼朝が平家討伐の兵を挙げたことでした。やがて石橋山合戦で頼朝は行方不明となり、政子は身をもだえるほど心配します。しかし、その中で少しずつ強くなっていく自分を感じる政子なのでした。
 幸いなことに頼朝は生きており、やがて本拠を相模の鎌倉に移します。しかし政子の心は安まることがありません。頼朝の浮気、いいなずけ木曽義高を頼朝に殺されたことによって政子をも拒絶するようになってしまった娘の大姫…。そのたびに政子は自分を責め、悩み続けます。そんな中でも歴史は平家滅亡、それに続く頼朝と義経の不和、義経の死、頼朝の征夷大将軍就任、頼朝のもう1人の弟範頼の死と、着実に動いていきます。

 政子の苦悩はその後も続きます。大姫の死、最愛の夫頼朝の死、そして大姫の妹三幡の死と運命は彼女を痛めつけます。
 しかし、頼朝の死後、政子は否が応でも自分の足で歩き始めざるを得なくなります。その手始めは、頼朝のあとを継いで征夷大将軍となった頼家が、理不尽な理由で安達館を攻めようとしたとき、それを体を張って泊めたことでした。
 その後、政子は父時政や弟義時らと組んで、頼家のバックで権力を握ろうとしている比企一族を滅ぼします。しかしその結果、頼家もを追放せざるを得なくなります。やがて頼家は北条氏の刺客によって殺害されます。「これで良かったのか…」とまたも悩み苦しむ政子なのでした。

 そこで政子は、三浦義村が養い親になっていた頼家の忘れ形見、公暁に目をかけてやることになります。出家させた公暁を京に勉学に出し、鎌倉に帰郷後は鶴岡八幡宮の別当に就任させます。しかしそのことが大きな悲劇を巻き起こすこととなるのです。

 建保七年(1219)正月二十七日…、頼家のあとを継いで三代将軍となっていた政子の次男実朝は、鶴岡八幡宮にて、右大臣就任の拝賀に望んでいました。しかし儀式が終わった直後、突然賊に襲われて落命します。そして賊は政子が目をかけてやっていた公暁でした…。その公暁のバックにいたのは養い親の三浦義村だったのです。

 私は、「実朝を暗殺した公暁のバックにいたのは、北条氏ではなく三浦氏である」という永井さんの説を、他の本で読んでいてすでに知っていました。なので永井さんが、政子を主人公にしたこの小説で、実朝暗殺事件の背景をどのように描いているか、とても楽しみでした。まだ読んでいない方のために詳細は書きませんが、政子と義村の関わり、公暁と三浦一族の関わり、公暁とその取り巻きの「将軍暗殺までに至るいきさつとその実行」を見事に描いていて、「本当にこれが事実かもしれない!」と納得してしまいました。

 さて、この小説を読んだ感想ですが…、「尼将軍」と言われた権謀実数にたけた政子のイメージとはだいぶ違うという印象を受けました。確かに気性の強い女性ですが、夫や子供のことで悩み苦しむ、普通の女性だなというイメージを受けます。彼女が本格的に鎌倉幕府にたずさわるようになったのも、頼朝の死後のことのように思えました。
 でも、こういった描き方だからこそ、政子という女性をとても身近に感じることができました。彼女は家族に対しても家臣に対しても、とても愛情が細やかです。それでいて愛する人にどんどん先立たれていく…、彼女に襲いかかる運命の残酷さをひしひしと感じずにはいられませんでした。

 ところで、政子や頼朝と言った主役級の人物だけでなく、脇役にも魅力的な人が多いことも、この小説を読む楽しみの一つだと思います。時々語り手のような立場で登場する安達盛長、無口だがやり手の政治家北条義時などはその代表格ですが、私が一番心を引かれたのは北条三郎宗時です。

実は私、この小説を読むまで彼のことをほとんど知りませんでした。彼は北条時政の嫡男で、政子や義時の兄に当たります。石橋山合戦で戦死しているので影が薄いですが、もし長生きしていたら、鎌倉幕府の重要人物になっていたことは間違いないと思います。
 その宗時ですが、この小説では、政子を静かに見守る優しい頼りがいのある兄として登場します。政子の考えていることはすべてお見通し…という不思議なところもあります。それでいて自然と政子の力になってくれるのです。政子が頼朝の許に走るお膳立てをしたのも彼です。「私にもこんなお兄さんがいたらいいなあ。」と、読みながら思いました。なので、「宗時が石橋山で戦死した…」という知らせを聞いた政子の悲しみが胸に迫ってくるような感じがしました。

 このように人物も生き生きしていますし、ストーリーも変化に富んでいます。それと同時に当時の時代背景や歴史事項の説明もふんだんに盛り込まれています。私もこの小説を読みながら、伊豆・鎌倉を中心とした平安末期~鎌倉初期の歴史を楽しみながら勉強できました。その点でもお薦めです。
  

お知らせ&ひとりごと

2006-11-01 08:59:38 | お知らせ・ブログ更新情報
☆いつも、掲示板にたくさんの書き込みをどうもありがとうございます。感謝、感謝です。
 そこでと言ったら何なんですが、現行ログの保存記事数を100記事から200記事に増やしました。それを超えると古い投稿から過去ログに移動します。現行ログ・過去ログともにキーワードで検索もできますのでぜひご利用下さい。

☆現在の掲示板も、発言数が270を超えたため、閲覧用に置いてあった旧掲示板を思い切って削除しました。今までかわいがって下さいまして本当にありがとうございました。

☆とんぼさんのブログ「蜻蛉日記 ートンボニッキー」閉鎖に伴い、リンクを外させていただきました。

☆今後の更新予定
 現在、「図書室3」と「歴史人物伝」の記事を準備中です。

 「図書室3」の方の記事は、下書きがほぼできあがっていますので、近日中にUPする予定です。
 久しぶりの更新となる「歴史人物伝」では、平安時代中期のある内親王を紹介しようと思っていますが、まだ資料集めの段階です。何とか来週中くらいにUPできると良いのですが…。頑張ります。


☆ひとりごと
 今日から11月だというのに、「昼間の日差しの強さはいったい何?」と思ってしまうのは私だけでしょうか。昨日も、長袖の薄手のブラウスとスカート、七分袖のレースのカーディガンという服装で街を歩いていたら、暑くて汗が出てきました。日本は亜熱帯になってしまったようですね。