平安夢柔話

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百人一首の歌人たちの血縁関係

2017-06-17 19:47:07 | 系譜あれこれ
 もう11年も前のことなのですが、

 百人一首の本を読んでいたら、「百人一首の歌人って、親子とか祖父と孫など、血縁関係がとても多いのでは」と気がつき、手持ちの本やネットで調べたり、掲示板で教えて頂いたりして、、覚え書き的に3本の記事を書きました。
 で、その3本の記事なのですが、以前からアクセス数がとても多くて、、ばらばらに散らばっている項目をいつか、一つにまとめなくてはとずっと気になっていました。そこで今回項目を整理して一つの記事にまとめてみました。

 なお、以前に書いた3本の記事は削除させていただきました。ご了承下さい。

《百人一首の歌人たちの血縁関係》

*以前の記事では、藤原忠平や藤原貞方の子孫を全部書いていましたが、膨大になってややこしくなってしまいますし、「それなら天智天皇もたくさん子孫いるよね」ということになってしまいますので、曾祖父母と曾孫程度の記載にとどめました。
 ただ、例外として、「氏族は違いますが私たち直系です」という小ネタ的なものは少し掲載させていただきましたが。
*異説があるものは*で注記しました。

☆親子

父・天智天皇(1番)と娘・持統天皇(2番)
父・僧正遍昭(12番)と息子・素性法師(21番)
父・陽成天皇(13番)と息子・元良親王(20番)
父・壬生忠岑(30番)と息子・壬生忠見(41番)
父・文屋康秀(22番)と息子・文屋朝康(37番)
父・藤原定方(25番)と息子・藤原朝忠(44番)
ちち・清原元輔(42番)と娘・清少納言(62番)
父・藤原伊尹(45番)と息子・藤原義孝(50番)
父・平兼盛(40番)と娘・赤染衛門(59番)*赤染衛門の父には異説あり。
母・紫式部(57番)と娘・大弐三位(58番)
母・和泉式部(56番)と娘・小式部内侍(60番)
父・藤原公任(55番)と息子・藤原定頼(64番)
父・源経信(71番)と息子・源俊頼(74番)
ちち・源俊頼(74番)と息子・俊恵法師(85番)
父・藤原顕輔(79番)と息子・藤原清輔(84番)
父・藤原忠通(76番)と息子・大僧正慈円(95番)
父・藤原俊成(83番)と息子・藤原定家(97番)
父・後鳥羽天皇(99番)と息子・順徳天皇(100番)

☆祖父母と孫

祖父・藤原忠平(26番)と孫・藤原伊尹(45番)
祖父・清原深養父(36番)と孫・清原元輔(42番)*曾祖父と曾孫という説も
祖父・光孝天皇(15番)と孫・源宗于(28番)
祖父・大中臣能宣(49番)と孫・伊勢大輔(61番)
祖父・藤原伊尹(45番)と孫・藤原道信(52番)
祖母・高階貴子(54番)と孫・藤原道雅(63番)
祖父・源経信(71番)と孫・俊恵法師(85番)
祖父・藤原忠通(76番)と孫・藤原良経(91番)

☆曾祖父母と曾孫

曾祖父・在原業平(17番)と曾孫・藤原敦忠(43番)
 *詳しくはこの記事のラストの方に記載します。
曾祖父・藤原兼輔(27番)と曾孫・紫式部(57番)
曾祖父・三条天皇(68番)と曾孫・大僧正行尊(66ばん)
 行尊は三条天皇の皇子敦明親王の孫)
曾祖母・赤染衛門(59番)と曾孫・大江匡房(73番)
 *匡房の祖父の挙周は赤染衛門の実子ではないという説もあるようです。 
曾祖父・藤原忠平(26番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
                 藤原道信(52番)・藤原公任(55番)
曾祖父・藤原定方(25番)と曾孫・藤原義孝(50番)・藤原実方(51番)・
                 藤原公任(55番) 紫式部(57番)    

☆おじ・おばと甥・姪

おじ・源融(14番)と甥・光孝天皇(15番)
おじ・藤原忠平(26番)と甥・藤原敦忠(43番)
おじ・藤原義孝(50番)と甥・藤原道信(52番)
*2人とも藤原忠平の曾孫でまたいとこ同士ですが、道信の母と義孝は藤原伊尹の子できょうだい、実は2人はおじと甥。
おじ・藤原俊成(83番)と甥・藤原実定(81番)・寂蓮法師(87番)
おじ・崇徳天皇(77番)と姪・式子内親王(89番)
叔母・式子内親王(89番)と甥・後鳥羽天皇(99番)
おじ・大僧正慈円(95番)と甥・藤原良経(91番)

☆兄弟

兄・在原行平(16番)と弟・在原業平(17番)

☆義兄弟・義姉妹(血はつながっていませんがかなり近い関係なので挙げてみました)

在原業平(17番)と藤原敏行(18番)
・この2人の妻は紀有常の娘で姉妹なので、業平と敏行は義兄弟ということになります。
藤原道綱母(53番)と清少納言(62番)
 ・清少納言の姉の夫は、道綱母の兄弟の藤原利能。
藤原良経(91番)と藤原公経(96番)
・この2人の妻は藤原能保の娘で姉妹。そしてこの姉妹、実は源義朝の孫で源頼朝の姪に当たります。
 そこで、
 これは掲示板で咲希さんから教えて頂きましたが
義いとこ
 藤原良経(91番)・藤原公経(96番)と源実朝(93番)
なるほど~。 
藤原公経(96番)と藤原定家(97番)
*公経の姉は定家の妻とのことです。

☆いとこ

僧正遍昭(12番)と源融(14番)
 ・僧正遍昭の父・良岑安世と源融の父・嵯峨天皇は桓武天皇の子で兄弟。
・藤原定方(25番)と藤原兼輔(27番)
 ・定方の父・高藤と兼輔の父・利基の父は藤原良門で兄弟。
・藤原義孝(50番)と藤原公任(55番)
 ・義孝の母・恵子女王と公任の母・厳子女王は代明親王の女で姉妹。
藤原実定(81番)と寂蓮法師(87番)と藤原定家(97番)
 ・実定の母と寂蓮の父(俊海)と、定家の父(俊成)は藤原俊忠の子できょうだい 

(番外)氏族や家名が違っても、私たちは直系です♪

☆在原業平(17番)と藤原敦忠(43番)
 藤原敦忠の母は在原業平の孫。従って2人は上でも挙げたように曾祖父と曾孫の関係です。
☆高階貴子(54番)と後鳥羽天皇(99番)
 後鳥羽天皇の母の藤原殖子は、藤原隆家の子孫。従って、隆家の母である高階貴子とも直系です。
 そしてこの二組の意外な関係ですが。
 一説によると在原業平と恬子内親王(文徳天皇皇女)の間に産まれた子が高階茂範の養子となり、高階師尚として高階家を継いだと言われています。もしこれが事実とすると、在原業平の血統は後鳥羽天皇にまでつながっているというわけです。系譜の面白いところです。

☆藤原道綱母(53番)と藤原良経(91番)
 『百人一首』91番の歌の作者で、鎌倉時代初期に摂政を勤めた藤原良経の父は、日記『玉葉』を著した平安末期~鎌倉初期の関白藤原兼実ですが、母は藤原季行女です。そしてこの季行という人、右大将藤原道綱の子孫なのだそうです。
 つまり、『百人一首』53番目の歌の作者で「蜻蛉日記」の著者である道綱の母ともしっかりつながっているということになります。
 平安時代の女流文学者と、鎌倉時代初期の摂政が直系というのも面白いですよね。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
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紫式部と天皇家・村上源氏

2008-01-19 20:38:07 | 系譜あれこれ
 1月8日にUPした「紫式部の子孫と親戚」中の、「紫式部の血は今でも天皇家に流れていますし、村上源氏をはじめとした貴族たちにも受け継がれています。」という文章に対して、咲希さんから掲示板で質問を頂きました。その回答については掲示板No934で簡単に書かせていただいたのですが、せっかくですのでこちらで一つの記事にまとめることにしました。前回に続いてちょっと複雑なお話ですが、おつきあいいただけますと幸いです。

 前回の記事にも書きましたが、高階為家は紫式部の娘、賢子が産んだ子であるとほぼ推定されています。その為家には為賢・為章などの子供がいました。そのうちの為賢の娘は藤原南家の藤原能兼という人の妻となって範兼をもうけます。範兼の娘が範子と兼子です。では、ここまでを略系図にしてみますね。

紫式部(藤原宣孝室) → 藤原賢子(高階成章室) → 高階為家 → 高階為賢 → 女子(藤原能兼室) → 藤原範兼 →藤原範子・兼子

*なお、一説によると、範兼の母は為賢の子、為時の女という説もあるそうです。つまり、為賢と藤原能兼室の間に「為時」という人物が入るということですよね。どちらにしても、紫式部の子孫であることには違いないのですが…。

 わ~、後鳥羽天皇の乳母として権勢をふるった卿二位藤原兼子さん、実は紫式部の子孫だったんだ~」と感動しました。でも、兼子のことはこちらに置いておいて、本記事で問題となるのは彼女の姉の範子の方なのです。この範子という女性が、紫式部の系譜と天皇家・村上源氏の系譜をつなぐキーポイントとなるのです。では、彼女の生涯を紹介しながらそのあたりをお話ししますね。

 藤原範子(?~1200)は、早く父を亡くし、叔父に当たる範季に養育されました。そしてまず、平時子(平清盛室)の異父弟に当たる能円と結婚し、在子という娘をもうけます。

 ところが親平家派の能円は、寿永二年(1183)七月、平家都落ちに同行して範子のもとを去ってしまいます。しかし、都に残された範子のもとに一人の男性が現れます。その男性こそ、村上源氏の源通親でした。

 範子は通親との間に通光・定通・通方といった子供たちをもうけます。さらに、能円との間にもうけた在子は通親の養女となって後鳥羽天皇の後宮に入り、皇子をもうけます。この皇子こそ、後鳥羽天皇のあとを受け手帝位についた土御門天皇です。通親はこうして天皇の外戚となり、内大臣として権勢をふるいました。範子も内大臣の妻として、また後鳥羽天皇の乳母として「刑部卿三位」と呼ばれ平穏な生活を送っていたと思われます。ただ、早く亡くなってしまったのが惜しまれますが…。

 話が少し横道にそれてしまいましたが、土御門天皇の系譜は、後嵯峨天皇→後深草天皇を通して、今の天皇家に受け継がれています。

一方、範子が通親との間にもうけた子供たちの子孫は、久我家・土御門家・中院家といった分家に分かれ、範子の血は村上源氏の中に受け継がれました。つまり紫式部の血は、範子を通して、天皇家と村上源氏にしっかり受け継がれているのです。すごいですよね。

 では、範子から天皇家・村上源氏に至るまでを略系図にしてみますね。

☆藤原範子 → 在子(承明門院) → 土御門天皇 → 後嵯峨天皇 → 後深草天皇 …… 今上天皇

☆藤原範子 → 通光・定通・通方

☆通光(太政大臣) …… 久我家・六条家・中院家

☆定通(内大臣) …… 土御門家

☆通方(大納言) …… 三条家・北畠家

 ところで、範子・兼子姉妹を養育した彼女たちの叔父、範季は、平清盛の姪、平教子(平教盛女)を妻にしたり、源範頼の養父になったりして、源平と深く関わりを持った人物です。彼の母親は兄の範兼と同じなので、彼もまた、紫式部の子孫ということになります。新しい発見です。

 そして、範季が平教子との間にもうけた重子は、後鳥羽天皇の後宮に入って順徳天皇をもうけました。つまり、土御門天皇の異母弟に当たる順徳天皇も、紫式部の子孫というわけです。

 では、こちらも略系図にしてみますね。

紫式部 →賢子 → 為家 …… 藤原範季(範兼の弟) → 藤原重子 → 順徳天皇

☆参考文献
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「紫式部伝」 角田文衞 法蔵館

 なお、この記事を書くにあたって、咲希さんからも色々教えていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

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紫式部の子孫と親戚

2008-01-08 14:06:18 | 系譜あれこれ
 昨年11月に購入した、角田文衞先生の「紫式部伝 ーその生涯と源氏物語」1ヶ月ほど前から読み始めています。専門書なので少し難しい箇所もありますが、面白いです。まだ半分くらいまでしか読んでいないので読了までには時間がかかりそうですが、読み終わりましたら「図書室1」で紹介したいと思っています。

 さて、この「紫式部伝」には、紫式部の子孫や親戚について、興味深い記述がありました。そこで「平安時代史事典」でも詳しく調べてみた結果、何と源氏や平氏、北条氏とつながっていることがわかったのです。今回はそのことについて少し書いてみたいと思います。

 紫式部の子供は、のちに後冷泉天皇の乳母となって「大弐三位」と呼ばれた藤原賢子一人ですが、「紫式部伝」によると、賢子には3人の子供が確認できるのだそうです。
 すなわち、藤原兼隆との間に女子が一人、この娘は醍醐源氏の源良宗との間に源知房をもうけます。中右記に、「源知房は大弐三位の孫」という記述があるので、これはまず間違いないです。

 一方、賢子はのちに高階成章と再婚し、男女一人ずつの子をもうけたそうです。娘の方は歌人として有名な大弐の母、息子の方は高階為家です。(なお、以前私が書いた「大弐三位藤原賢子」では、歌人大弐の母は記述していません。)

 このうち、高階為家に関してですが、彼が賢子の息子であるという確かな史料は残念ながら確認できないのだそうです。しかし、為家は後冷泉朝になってから出世のスピードが速くなっているので、後冷泉天皇の乳母子だと考えられることや、為家の「為」の字が曾祖父の為時からとられているのではないかということ、その他色々な理由から、彼は賢子の子と見て差し支えないのではないかということでした。私もそう考えたいと思います。

 そして、為家が賢子の息子だった…ということが事実だとすると、彼の子孫は思いがけないところにつながっているのです。つまり、紫式部の血は今でも天皇家に流れていますし、村上源氏をはじめとした貴族たちにも受け継がれています。
 何よりも一番びっくりしたのは、平重盛やその息子の維盛・資盛も紫式部の子孫だということでした。

 為家には為賢・為章という息子と、二人の娘がいたようです。このうちの一人の娘が源家実との間に息子をもうけます。この男子はおじに当たる高階為章の養子となって高階基章と名乗りました。
 そして、基章の娘が平清盛の妻となり重盛をもうけました。文章だけではわかりにくいと思いますので略系図で示してみますね。

藤原為時→紫式部 → 藤原賢子(大弐三位・高階盛章室) → 高階為家 →女子(源家実室) → 高階基章 → 女子(平清盛室) →平重盛 → 平維盛・資盛

というようにしっかりつながっています。すごーい!

 ところで、これで驚いてはいけません。紫式部のおばの子孫は、何と源氏や北条氏とつながっているのです。

 紫式部の父、藤原為時には、為頼・為長の他、二人の姉妹が確認できるのだそうです。そのうちの一人の姉妹は、桓武平氏の平維将の妻となりました。二人の間には娘が二人おり、紫式部と「姉君」「中の君」と呼び合っていたのはこのうちの妹娘だったようです。

 さて、この他にも維将には維時という息子がいました。そして、「平安時代史事典」によると、この維時の母も藤原雅正の女、つまり紫式部と親しかった娘と同母ではないか?とのことでした。これが事実とすると、紫式部と平維時はいとこ同士ということになります。

 ところでこの維時は道長に取り入る一方、武門として東国にも勢力を伸ばしていきます。そして、維時の子、直方は清和源氏の源頼義を婿とし、鎌倉の所領を譲ることとなります。頼義と直方女との間に生まれたのが源義家です。つまり、義家や彼の子孫である頼朝や義経は、紫式部のいとこの子孫ということになるのです。
 さらに、のちに鎌倉幕府の執権となる北条氏は直方の子孫を称していますので、これが本当だとすると、この血統は北条時政・義時・政子へもつながっていることになります。
 では、こちらも略系図にしてみますね。

☆藤原雅正 → 女子(平維将室・為時の姉妹・紫式部のおば) →平維時

☆平維時(紫式部のいとこ) →平直方 →女子(源頼義室) → 源義家 …… 源頼朝・義経

☆平維時(紫式部のいとこ) → 直方 …… 北条時政 →北条義時・政子

 もちろん、為家が賢子の子であるという確かな資料が出てこない限り、この事が100%正しいとは確認できませんし、「平安時代史事典」によると高階基章は出自不詳となっていました。維時の母が紫式部のおばという事実も確証はありません。また、北条氏が直方の子孫だという説も異論があるようです。何しろ遠い昔の話ですから、特に女性の系譜に関してははっきりしないことも多いようです。

 それでも、重盛が紫式部の子孫であり、頼朝や政子が紫式部の親戚とつながっているという話は夢があってわくわくします。

☆参考文献
 「紫式部伝 ーその生涯と源氏物語」 角田文衞 法蔵館
 「平安時代史事典 CD-ROM版」 角田文衞監修 角川学芸出版

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閑院流藤原氏の系譜 第3回

2007-06-22 09:39:23 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」「閑院流藤原氏の系譜 第2回」からお読み下さい。


 今回は、藤原実行・藤原通季・藤原実能と、彼らが祖となった閑院流藤原氏の3つの系統、三条家・西園寺家・徳大寺家についてお話ししたいと思います。

藤原公実

藤原実行・藤原通季・藤原実能

1.藤原実行と三条家

☆藤原実行(1080~1162)

 藤原公実の二男。母は藤原基貞女。

 寛治七年(1093)に叙爵し、天永二年(1111)正月、異母弟通季とともに鳥羽天皇の蔵人頭に輔せられ、永久三年(1115)四月、通季と同時に正四位下参議となりました。続いて保安三年(1122)、権中納言に昇進します。

 大治二年(1127)兄実隆が死去、続いて翌年には十歳年下ながら、当時官位では上位(当時、実行は従三位、通季は正三位)にあった通季が死去したため、実行は閑院流嫡流の地位を占めることとなります。天承元年(1131)権大納言、久安五年(1149)七月右大臣、そして翌六年八月には太政大臣に昇進します。

 歌人としても知られ、しばしば歌合わせを催しています。『金葉』以下の勅撰集に13首が入集しています。

 なお、藤原実定がライバル心を燃やしていた藤原実長は、実行の孫(実行の二男公行の子)に当たります。

☆三条家について

 実行を祖とする藤原氏閑院流の家で、清華家(太政大臣にまで昇ることの出来る家。摂関家に次ぐ家格)の一つです。

○家名の由来
 三条北、高倉東に第宅、三条高倉第があり、実行がこの邸宅を所有していました。「三条」という家名はこの邸宅の名前に由来するものです。
 三条高倉第は実行の一男、公教に伝えられ、さらにその子孫に伝領されていきました。

○末裔と分家
 公教のあとは実房が継ぎ、その後裔からは多くの大臣・納言が輩出されました。後に正親町三条・三条西などの分家にも分かれます。

 そして、三条家のはるか後裔に三条公頼がおり、その娘が武田信玄の正室の三条の方(三条夫人)です。

○三条の方(円光院)(1521?~1570)

 甲斐の守護大名、武田信玄の正室。

 藤原公頼の二女として京都で生まれ、天文五年(1536)、駿河の守護大名今川義元の媒酌で武田晴信(後の信玄)と結婚します。信玄との間に義信、龍宝、黄梅院(北条氏政夫人)などをもうけました。信玄との仲はかなり良好だったようですが、義信は謀反の疑いをかけられて切腹、龍宝は失明、黄梅院は離縁ののちに早逝と不運が続きました。元亀元年(1570)、信玄に先立って病没しました。

 小説やドラマの影響で憎まれ役になることが多い三条の方ですが、乱世をたくましく生き抜いた女性だったといえそうです。信仰が厚く、穏和な性格であったという記録も残っているそうですので、今年の大河ドラマ「風林火山」の三条夫人が案外、実像に近いかもしれませんね。


2.藤原通季と西園寺家

☆藤原通季(1090~1128)

 藤原公実の三男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。藤原実能・待賢門院藤原璋子の同母兄になります。

 承徳二年(1098)に叙爵し、永久三年(1115)正四位下参議、同五年従三位に叙されます。元永元年(1118)、妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権大夫に補され、次いで待賢門院別当に補されました。

 保安三年(1122)権中納言、翌年左衛門督を兼ね、大治三年(1128)正月に正三位に叙されますが、六月病により薨じました。日記『通季卿記』を遺しました。

 彼は璋子の同母兄ということもあり、中宮権大夫になったり、兄の実行より官位が上になったりしていますが、若くして病没してしまいました。もっと長生きしていたら当然、大臣に昇進していたでしょうし、実行ではなく通季が閑院流の嫡流になっていたかもしれません。

☆西園寺家について

 藤原通季を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 通季の曾孫である公経が、山城国葛野郡の北山の地に営んだ寺院、西園寺に由来します。この土地は後に足利義満に譲られ金閣寺となりました。西園寺は、現在は京都市上京区寺町に所在しています。

 余談ながら、2007年3月に当ブログで紹介した小説「新とはずがたり」のラストの方に西園寺実兼の北山の別荘「西園寺」が登場しますが、ここが現在の金閣寺のある場所です。私は金閣寺を訪れると、足利義満のことではなく、「新とはずがたり」の西園寺の別荘が舞台になっている各場面を思い出してしまいます。

○末裔と分家
 百人一首の96番目の歌「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」の作者、西園寺公経は前述した通り、通季の曾孫に当たります。
 公経は頼朝の姪(藤原能保と、頼朝の姉との間に生まれた女)を妻にしていた関係で鎌倉幕府との縁が強く、そのため朝廷からにらまれ、承久の変の際、息子の実氏とともに幽閉されてしまいます。しかし承久の変は鎌倉幕府方の勝利に終わり、公経は幕府の信頼を得て関東申次に任じられ、西園寺家は代々、この役職を世襲することとなります。なお、「とはずがたり」に登場する実兼は実氏の孫に当たります。

 また、後深草・亀山両天皇の母(女吉)子、後深草天皇中宮の公子姉妹は実氏の娘になります。このように西園寺家は、幕府だけでなく、朝廷との関係も強めていったようです。後に大宮・洞院・正親町・室町などの分家が分かれました。


3.藤原実能と徳大寺家

☆藤原実能(1096~1157)

 藤原公実の四男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。前述の藤原通季は同母兄、待賢門院璋子は同母妹。

 長治元年(1104)に叙爵し、元永元年(1118)、同母妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、次いで待賢門院別当に補されます。
 保安二年(1121)従三位参議、その後権中納言に進み、長承二年(1133)に摂関家の藤原頼長を娘幸子の婿として勢力の伸張を図ります。待賢門院の同母兄であることと同時に、摂関家の姻戚となったことも、彼の昇進に有利に働いたと思われます。それを裏付けるように彼は、保延二年(1136)に正二位権大納言に進み、大納言を経て久安六年(1150)には内大臣となりました。

 しかし、久寿二年(1155)六月、幸子が逝去すると頼長から離れて鳥羽上皇・美福門院に接近し、東宮傅に補されます。この頃、頼長は鳥羽上皇の信頼を失い、世間からの評判も悪くなり、失脚も時間の問題…という状態でしたので、実能にとっては、「このまま頼長についていたら自分の身が危ない。」と感じていたのかもしれません。娘に先立たれたことは悲しく思いながら、頼長から離れる良い機会…とほっとしていた気持ちもあったのでしょうね。

 そのようなわけで、翌年七月に起こった保元の乱では後白河天皇方につき、九月左大臣に任じられ、「徳大寺左大臣」と称されました。次いで保元二年(1157)正月従一位に叙されますが、七月病を得て出家し、九月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨じました。法名真理。日記『実能記』を遺しました。

 歌人としても有名で、在俗時代の西行が家人として仕え、出家後も永く親交を結んでいたようです。(『山家集』等)

 実能を調べてみて思ったのですが、何か、兄弟の中で一番世渡り上手だという印象を受けました。

☆徳大寺家について

 藤原実能を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 閑院流の祖、公季の子である実成は、衣笠山の南西麓(現在、このあたりは竜安寺となっています)に山荘を構え、ここに寺院を営み、これを徳大寺と呼んでいたようです。この山荘と寺院は、公成、公実を経て実能に伝領され、そのため彼の家系は、「徳大寺」と呼ばれるようになります。

○末裔
 実能には前述した幸子のほか、育子・公能といった子供達がいます。

 このうち育子は、二条天皇の後宮に入内し中宮となりました。

 また、公能は正二位右大臣にまで昇進し、その子には後白河天皇中宮の忻子、跡徳大寺左大臣と呼ばれた実定、「二代の后」と呼ばれた多子がいます。また、実能・公能・実定は三代続けて歌人として有名です。

 こうして徳大寺家は、摂関家に次ぐ清華家として多くの大臣・納言を輩出し、他の閑院流の家、三条家や西園寺家とともに明治維新まで続きました。

        ー閑院流藤原氏の系譜 終わり


☆この項を書くに当たって、主に「平安時代史事典 CD-ROM版」を参考にしましたが、三条の方の項に関しましては、『図解 山本勘助と武田一族の興亡(童門冬二著・PHP研究所)』円光院ホームページ様等を参考にしました。

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閑院流藤原氏の系譜 第2回

2007-06-16 13:02:25 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」からお読み下さい。

 今回は、公成の子供たちからその孫の代まで、つまり、閑院流藤原氏が天皇の外戚となっていく様子を、主な人物たちの経歴とともにお話ししたいと思います。


藤原公成

藤原実季・藤原茂子

 では、公成の子供たちのうち、上の二人について見てみます。

☆藤原実季(1035~1091)

 藤原公成男。母は藤原定佐女。

 永承元年(1046)に叙爵し、延久元年(1069)蔵人頭、同四年参議となり、以後、正二位大納言まで昇りました。この間、後の堀河天皇の春宮大夫を勤めていたことがありますが、このことは閑院流の繁栄を考える上で注目していいと思います。

 嘉承二年(1107)、女苡子(後述)に皇太后が追贈された折、実季にも正一位太政大臣が追贈されました。

☆藤原茂子(?~1062)

 藤原公成女。母は藤原知光女(『春記』による)。

 藤原公成の女として滋野井第に生まれました。後におば(公成の姉)の夫、藤原能信の猶子となり、永承元年(1146)十二月、春宮尊仁親王(後の後三条天皇)に入内しました。
 茂子と尊仁親王の仲は大変むつまじく、二人の間には貞仁親王・聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王が生まれました。しかし茂子は、尊仁親王が踐祚するのを見ずに亡くなってしまいます。

 茂子が亡くなってから6年後に尊仁親王は後三条天皇として踐祚したのですが、後三条天皇の春宮として立てられたのは、茂子が生んだ貞仁親王です。もし、後三条天皇の異母兄、後冷泉天皇と、摂関を務めた頼通・教通の娘たちとの間に皇子が誕生していたら、貞仁親王が春宮になることはなかったと思われます。その点、貞仁親王は大変な幸運の星の下に生まれたと言えそうです。

 後三条天皇の退位後、貞仁親王は白河天皇として踐祚、閑院流藤原氏はついに、天皇の外戚となったわけです。そのようなことから、白河天皇の母の茂子は重要な人物だということができると思います。

 なお、茂子は永井路子さんの藤原能信を主人公にした小説『望みしは何ぞ』に登場しています。その中で茂子は、何事にも物怖じしない、明るくさばさばした女性に描かれています。もちろんこれは永井さんの創作だと思いますが、案外、茂子の実像に近いように思えます。そんな彼女の性格が、白河天皇にも受け継がれているのではないでしょうか。



藤原公実・藤原苡子

 では次に、藤原実季の子供達について見てみます。

☆藤原公実(1053~1107)

 藤原実季男。母は藤原経平女。

 後三条天皇踐祚とともに累進し、後三条・白河天皇の宮廷で時めいた人です。閑院流藤原氏が天皇の外戚になったおかげで恩恵を受けたと言えそうです。

 承暦四年(1180)参議となり、最終的には正二位権大納言に昇進しました。妻は従二位藤原光子、彼女は堀河・鳥羽両院の乳母です。このあたりも、公実が宮廷で実力を持つための大きな助力になったのでしょうね。

 歌人としても知られ、残欠本ですが家集に『公実集』があり、『後拾遺』以下の勅撰集に入集。藤原通俊・藤原顕季ら歌人たちとも親しかったため、公実自身も歌人として成長していったようです。
 堀河朝になると藤原基俊・源俊頼を庇護するなど、歌壇のパトロン的存在でもありました。 

<藤原公実について追記>
 公実について、咲希さんより掲示板No656にて情報を頂きました。咲希さん、ありがとうございます。(^_^)

 鳥羽天皇が踐祚したとき、公実は、摂関家の当主忠実の若年なるを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張します。しかし、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話があるそうです。 

 この源俊明という人は醍醐源氏で、白河上皇の側近として重く用いられていた人でした。もし彼がいなかったら、閑院流が摂関家になっていたかもしれません。その点、摂関家にとっては俊明は大恩人だったと言えそうです。

☆藤原苡子(1076~1103)

 藤原実季女。母は藤原経平女。

 承徳二年(1098)十月、堀河天皇の許に入内します。苡子は白河上皇(堀河天皇の父)のいとこに当たり(苡子の父、実季と、白河天皇の母、茂子はきょうだい)、入内については白河上皇が沙汰したと伝えられます。

 その年の十二月に女御となり、間もなく懐妊しますが、翌年四月に流産します。
 康和四年(1102)八月、再び懐妊した苡子は着帯の儀を行い、翌五年正月十六日に皇子(後の鳥羽天皇)を出産しますが、二十五日ににわかに病んで卒します。嘉承二年(1107)、皇太后が追贈されました。

 鳥羽天皇の即位により、閑院流藤原氏と天皇家はさらに強い血縁関係で結ばれたことになります。



藤原実隆・藤原実行・藤原通季・藤原実能・藤原季成・藤原璋子・源有仁室・藤原経実室

 上で挙げたのは藤原公実の子供たちです。

 このうち、実行が三条家の祖、通季が西園寺家の祖、実能が徳大寺家の祖となります。そのため、以上3人については次回に記述することにし、残りの人物について書いてみることにします。

☆藤原実隆(1079~1127)

 藤原公実一男。母は藤原基貞女。藤原実行は同母弟。

 応徳二年(1085)に叙爵。春宮(宗仁親王、のちの鳥羽天皇)権亮、白河院別当等を歴任します。嘉承元年(1106)蔵人頭となり、天永二年(1111)、参議に任じられ、最終的には正三位中納言にまで昇進しました。大治二年(1127)、飲水病(糖尿病)にて薨去。子には参議公隆・興福寺別当覚珍らがいます。

☆藤原季成(1102~1165)

 藤原公実男。母は藤原通家女。

 天永三年(1112)に叙爵。長承三年(1134)蔵人頭に補され、保延二年(1136)参議に任ぜられ、後に権大納言に至り、加賀守を勤めたことがあったため加賀大納言と呼ばれました。和琴や書に秀でていたと伝えられます。

 なお、彼の娘には後白河天皇の寵愛を得て「高倉三位」と称された成子がいます。彼女が後白河天皇との間にもうけた子として、守覚法親王、以仁王、亮子内親王(殷富門院)、式子内親王らがいます。つまり季成は、これら歴史に名前を残した皇子皇女らの外祖父ということになります。

☆藤原璋子(1101~1145)

 藤原公実女。母は藤原光子(堀河・鳥羽両天皇乳母)

 幼い頃、祇園女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で育てられました。
 15歳頃から、白河法皇とのただならぬ仲が噂されますが、永久五年(1117)、17歳の時に鳥羽天皇に入内、女御から中宮に立てられます。

 元永二年(1119)、第一皇子顕仁親王を生みますが、(「顕仁親王は白河法皇の子供だ」と噂されました。顕仁親王は5歳で踐祚、崇徳天皇となります。崇徳天皇踐祚には、白河法皇の力が働いていたと言われます。

その後、璋子は禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(のちの後白河天皇)・本仁親王(のちの覚性法親王)の6人の子女をもうけます。天治元年(1124)、女院号「待賢門院」が授けられます。この頃はまだ、鳥羽上皇とも仲むつまじかったようですし、何よりも白河法皇の強い庇護がありました。

 しかし、大治四年(1129)の白河法皇の崩御とともに、璋子の人生も暗転します。さらに長承三年(1134)、藤原得子(後の美福門院)が入内すると、鳥羽上皇の寵愛は得子に移り、璋子はすっかり目立たない存在となってしまいます。璋子は双丘の東麓に法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなったようです。

 康治元年(1142)、落飾。久安元年(1145)八月二十二日、兄の藤原実行の三条第(三条南、高倉東)において鳥羽法皇臨御のもとに崩じ、法金剛院の北に接した五位山の花園西陵に葬られました。

 璋子は波乱に富んだ生涯を送ったと言えますが、崇徳・後白河両天皇の母となり、閑院流藤原氏の更なる発展の基礎を作った女性とも言えそうです。晩年は仏教に帰依することが多かったようですが、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。

*璋子についてはこちらの記事も参考になさってみて下さい。

☆璋子以外の娘たち

 璋子以外の公実の娘として、源有仁(輔仁親王男)の妻となった女性、、藤原経実(藤原師実男)の妻となった女性などがいます。

 このうち経実室は、経実との間に経宗、懿子をもうけました。懿子は、おばの夫である源有仁の猶子となり、後白河天皇の後宮に入って二条天皇をもうけました。

☆次回は、公実の他の3人の子供たちと、彼らが祖となったそれぞれの家(三条家・西園寺家・徳大寺家)について紹介することにします。現在放映中のNHK大河ドラマ「風林火山」にも登場しているあの方も出てきますので、お楽しみに。

☆第3回に続く


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『望みしは何ぞ』 永井路子 中央公論新社


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閑院流藤原氏の系譜 第1回

2007-06-07 11:55:27 | 系譜あれこれ
 今年の4月にUPした「藤原多子」「藤原実定」を調べてみて、お二人が属する閑院流藤原氏に興味が出てきました。この一族は魅力的な人が多いですし、天皇の外戚にもなっている重要な一族、その後は3つの系統に分かれ、それぞれ有名な方々を多数輩出しています。

 そこで、閑院流藤原氏の系譜を3回に分けて紹介することにしました。今回、第1回は閑院流の祖、公季から彼の孫の代までを取り上げます。例によってややこしい話ですが、お付き合いいただけますと幸いです。

 では、閑院流の祖、藤原公季から話を始めさせていただきますね。

☆藤原公季(957~1029)

 藤原師輔の十一男。母は醍醐天皇皇女康子内親王。伊尹・兼通・兼家・高光・為光の異母弟ということになります。

 公季は生まれて間もなく、母を失い、4歳で父を失います。そこで、姉の安子(村上天皇皇后)に養われ、親王たちと同じように内裏で育てられたと伝えられています。ただ、お食事をなさる御台だけは親王たちより低いものを使っていたとか。
 内裏で育ったため、彼は、「自分は高貴な生まれだ。」という自負があったようで、妻も皇族、有明親王(醍醐天皇皇子)の女です。

 康保四年(967)に叙爵し、永観元年(982)に参議、長徳元年(995)に大納言となり、その後、道長政権下で内大臣を長く勤めました。最終的には太政大臣となっています。居住していた邸宅にちなみ閑院と号し、その後裔が「閑院流」と呼ばれることとなるのです。

 この閑院第は、二条大路南、西洞院大路西に所在し、もと左大臣藤原冬嗣第で、巨勢金岡が水石を配した名所であり、これを公季が伝領したと伝えられます。(『拾芥抄』中)。
 公季は、孫に当たる実成女が当時の大納言藤原能信(道長男)と結婚した際、この第宅を能信に譲り、彼自身は息子の実成の第に移っています。藤原実資はこのことに関し、太政大臣たる者が旧居を捨て、小宅に移るのは後代の謗りを忘れたものとする深覚(公季の同母兄)の非難に同調し、たとえ譲るにしても同居し、一生閑院を去るべきではないと日記に書き遺しています。意地悪評論家の実資さんらしい意見ですね。



藤原実成・藤原義子

 公季は有明親王女との間に実成・義子などをもうけています。では次に、彼らについて見てみましょう。

☆藤原実成(975~1044)

 藤原公季男。

 永延二年(988)、叙爵し、寛弘五年(1008)に参議となり、最終的には中納言になっています。
彼に関するエピソードとしては、大宰権帥在任中の長元九年(1036)三月、大宰府において曲水宴の折、安楽寺僧と闘乱事件を起こし、寺訴により翌長暦元年推問使が派遣され、除名されたことでしょうか。結構血の気が多い人だったのかもしれませんが、当時の寺社勢力の強大さを痛感させられる事件でもあります。しかし、翌年には本位に復しているようです。

☆藤原義子(974~1053)

 藤原公季女。

 長徳二年(996)七月、一条天皇に入内、翌月女御となり、「弘徽殿女御)と呼ばれました。その後、位も従三位、さらに従二位と進みますが、定子や彰子の陰に隠れ、天皇の寵愛も薄く、修正子供を宿すことはありませんでした。



藤原公成・藤原実成女(藤原能信室)

 では次に、実成の子供である上の二人を見てみることにします。

☆藤原公成(999~1043)

 藤原実成の一男。母は藤原陳政女。

 寛弘八年(1011、叙爵し、万寿三年(1026)に参議となり、最終的には権中納言となりました。長和四年(1015)に藤原知光女と結婚、知光の滋野井第に住んだので、当時の官職にちなみ「滋野井の頭中将」「滋野井の別当」と呼ばれました。また、小式部内侍の恋人としても知られています。

 公成は祖父の公季に大変可愛がられ、彼の養子となっています。おじいちゃんの孫に対
する可愛がりようには様々な話が伝えられています。

 公季は、参内するときにはいつも、公成を車に乗せて連れて行ったと言われています。

 また、治安二年(1022)、法成寺無量寿院金堂供養に行啓する東宮(敦良親王、のちの後朱雀天皇)と公成を同車させ、道すがら、「どうか公成にお目をかけて下さい。お目をかけて下さい。」と何度も言ったそうです。敦良親王は、「祖父が孫を思う心根はほほえましかったが、同じ事を何度も言うのでおかしかったよ。」とおっしゃったそうです。(『大鏡』)

 さらに、公季は、公成の蔵人頭任命を道長に断られながら、重ねて陳情したこともあったようです。公季の祖父ばかぶりが伝わってくる話ですね。

☆藤原実成女

 藤原能信(藤原道長男 母は源高明女明子)の妻となった女性です。二人は祖父の公季から閑院第を譲られます。二人の間には子がなかったため、公成の娘の茂子を養女としました。茂子は長じて後朱雀天皇皇子の尊仁親王と結ばれ、何人かの子に恵まれました。

 茂子については次回に詳しく記述することになると思いますが、彼女こそ、閑院流藤原氏に大きな転機をもたらすこととなる女性なのです。次回は、閑院流藤原氏が天皇の外戚となって繁栄していく様子をお話ししたいと思っています。

第2回に続く


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社学術文庫


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藤原高光とその子孫たち

2007-03-08 01:26:31 | 系譜あれこれ
 今回は、以前「こちら」の記事で少し紹介したことのある藤原為光の同母兄に当たる藤原高光と、その子孫のお話です。この高光、ちょっと異色の人生を歩んだ人でもあり、子孫も思いがけないところとつながっていますので、私なりにまとめてみることにしました。

 では最初に、藤原高光の生涯について紹介しますね。

☆藤原高光(939~994)
 右大臣藤原師輔の八男。母は雅子内親王(醍醐天皇皇女)。同母弟妹に為光、天台座主尋禅、源高明室となった愛宮、異母兄弟姉妹に伊尹・兼通・兼家・公季・村上天皇皇后の安子などがいます。

 高光は、童名を「まちおさ君」といい、父師輔に大変可愛がられたと伝えられています。(『栄花物語』)。

 天暦九年(955)に叙爵。侍従、左衛門佐、右近衛少将、備後権介等を歴任します。また、文才・歌才に優れ、村上天皇を感嘆させたり、天徳内裏歌合わせに出詠したりしています。

 このように順調に出世していたのですが、高光は応和元年(961)十二月に突然、出家をしてしまいます。(出家当時の官位は従五位上右近衛少将)
 彼の出家の原因については、その前年に、かわいがってくれた父師輔が薨去したためであるとか、藤原氏の政治姿勢、特に長兄伊尹のふるまいに飽き足らなかったなど、色々諸説があるようですが、はっきりした理由はよくわかりません。しかし高光は、紅葉が散るのが哀しいといった歌を詠むなど、早くから世の無常を感じ、出家願望もあったようです。

 高光は比叡山横川において出家をし、法名を「如覚」と号したのですが、翌年多武峯に移ります。これは、世俗化した叡山を離れ、俗化されていない天台の新天地を求めてのことであり、しかも、祖廟が祀られる地であったとの理由によると考えられます。彼が本気になって仏教を極めようとした意気込みが感じられます。彼は多武峯にて厳しい修行を行い、承暦五年に世を去りました。

 高光は歌人としても知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。家集に「高光集」もあり、『拾遺』以下の勅撰集に二十数首入集しています。

 ところで、高光について書かれたものに「多武峯少将物語」があるのですが、これは、出家をして比叡山に入った彼が多武峯に移るまでと、その周囲の人たちの心情を綴ったものです。
 高光は、叔父である藤原師氏の女、つまりいとこに当たる女性を妻にしていました。師氏は、他の兄弟(実頼・師輔・師尹)と違ってあまり政治的な野心がなく、従って娘を入内させるのではなく、「気心の知れた高光殿と幸せな人生を送って欲しい」と願い、愛娘と高光を結婚させたのかもしれません。しかし、高光の出家でその願いは打ち砕かれてしまったのですが…。

 「多武峯少将物語」によると、高光が出家したことによって妻が嘆き悲しみ、「私も出家したい」と思うものの、高光殿と同じ山に入れるわけではないので泣く泣く断念する様子や、高光と妻の長歌の贈答なども綴られています。
 また、二人の間には、当時2、3歳くらいのかわいい盛りの娘もいました。高光と妻の贈答歌には、幼い娘を思いやる心情も綴られています。
 このように、「私が出家をしてしまったら、一人残されたこの子はどうなるのかしら?」と思ったことも、妻が出家を断念した理由だったのかもしれません。

 それでは、この高光の娘はその後どうなったのでしょうか?

 彼女は長じて村上天皇の皇子、昭平親王と結婚します。

 昭平親王(954~1013)村上天皇第九皇子。母は左大臣藤原在衡女。
 彼は天徳四年(960)、七歳の時に臣籍に降下し、源姓を賜ります。しかし、右兵衛督を勤めていた貞元二年(977)、左大臣源兼明(醍醐天皇皇子)とともに親王に復帰するのです。親王復帰というと一見優遇措置に見えますが、ある程度出世した右兵衛督から実権のない四品の親王へ……、これは官界追放に等しいものでした。
 昭平親王と高光女がいつ結婚したかは不明ですが、多分、彼が親王に復帰する以前のことだったのではないかと思います。
 その後、昭平親王は常陸太守を勤めるのですが、永観二年(984)に三井寺に入って出家をしてしまいます。そして、彼が出家したとき、高光女はまだ二十代半ばであり彼女の手許には娘が一人残されました。まるで、かつての母と全く同じ運命を歩むことになってしまった事実を、高光女はどのように受け止めていたのでしょうか。

 こうなってみると、昭平親王と高光女の間に生まれた娘のことも気になります。

 この娘はその後、どういう事情かは定かではないのですが藤原道兼の養女となり、承暦元年(990)十二月二十五日に藤原公任と結婚することとなるのです。(『小右記』)

 藤原公任(966~1041) 父は関白太政大臣藤原頼忠、母は代明親王女厳子女王。四納言の一人。有能で多才な官人でした。歌人・歌学者としても有名です。

 昭平親王女は、公任との間に藤原定頼(995~1045)・後に藤原道長の子息教通室となる女・他、数人の子をもうけました。

 つまり、今まで長々と述べてきた系譜を簡単に書きますと、
高光→高光女(昭平親王の妻)→昭平親王女(藤原公任の妻)→定頼 となります。
 そうです、和泉式部の娘小式部の「大江山」の歌でやりこめられてしまった歌人の定頼さん、高光さんの曾孫だったのですね。このようなところが、女系の系譜の面白いところです。。
 定頼は父の公任さんから和歌の才能を受け継いだと思っていたのですが、母方の高光さんを通じてもしっかり、歌才のDNAを受け継いでいるわけです。実際、昭平親王女も歌の才があったらしく、勅撰集に四首入集しているそうです。

 一方、藤原教通に嫁いだ定頼の娘は、教通との間に信長(後の太政大臣)・歓子(後冷泉天皇皇后 小野皇太后)・生子(後朱雀天皇女御)といった子女をもうけています。これら教通の子供たちも、高光の子孫というわけです。

 さて、こうして高光の血を公任の子供たちに伝えた昭平親王女の晩年ですが…。
 彼女がいつ亡くなったかについてははっきりしないのですが、晩年は子供たちの何人かに先立たれ、尼になってしまったようです。万寿三年(1026)、夫の公任が解脱寺にて出家していますので、彼女もそれに殉じたのかもしれません。
 彼女は多分、先立たれた子供たちや、不遇だった父、若くして夫に出家されてしまった母や祖母、そして、右近衛少将という将来を保証されている身分を捨てて多武峯に入ってしまった祖父の菩提を弔うことも日課にしていたのでしょう。出家後の彼女が心安らかであったことを祈りたいです。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『王朝千年記  ー王朝日誌九九〇年代』 槙野廣造 思文閣出版

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藤原魚名とその子孫たち

2006-10-26 14:38:34 | 系譜あれこれ
 当ブログの「系譜あれこれ」に収められている記事を通して拝見して下さった方がもしいらっしゃいましたら、ある一人の人物の名前があちらこちらの記事に書かれていることに気づいて下さるかもしれません。

 その人の名は藤原魚名……。「藤原魚名流」とか、「奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫」という言葉が、私の書いた記事のあちらこちらに出てきます。
 今回はその藤原魚名と、彼の数多くの子孫のうち、比較的知名度のある有名な方を何人かピックアップして紹介したいと思います。


 まず、藤原魚名とはいったいどのような人なのか、簡単に紹介させていただきます。

☆藤原魚名 (721?~783)

 藤原北家の祖、房前の五男。
 天平二十年(748)に叙爵し、神護景雲二年(768)に参議に任じられました。その後、光仁天皇の信任を得て順調に出世し、天応元年(781)には左大臣に任じられます。
 このように順調に出世し、平穏な人生を全うすると思われましたが、頼りにしていた光仁天皇が崩御すると、思わぬ運命が彼を待ち受けていました。

 延暦元年(782)、氷上川継の乱が勃発します。川継は天武天皇の孫塩焼王と、聖武天皇の皇女不破内親王との間に生まれた男子です。つまり父方・母方ともに天武天皇の血を引いていたわけです。皇統は天武系から、天智系の光仁天皇を経てその皇子である桓武天皇に移っていましたが、川継はそんな中、帝位をねらって謀反を企てたのでした。
 しかし、このことは未然に露見し、事件に関与した多くの公卿、殿上人が流罪になります。そして魚名も、事件に連座して左大臣を罷免され、大宰府に流されることとなります。

 魚名は大宰府に赴く途中、摂津国で病気になってしまいます。かなり重病だったらしく、摂津国から動くことができなくなったようです。欲延暦二年、入京を許されるのですが、帰郷することなく摂津国で薨じました。

 左大臣にまで出世したものの、最後には氷上川継の乱に連座して流罪…。奈良の都に帰ることなく病死してしまうとは、ご本人にとってもさぞ無念だったと思われます。


 魚名ご自身についてはこれくらいにして、子孫の話に移りますね。まず、当ブログの今までの記事に出てきた方々をざっと紹介させていただきます。

☆藤原隆房
 平清盛の娘婿。当ブログの「平清盛の子孫」を参照して下さい。

☆藤原総継
 魚名の三男末茂の子。藤原基経と光孝天皇の外祖父。「源博雅と源雅信 藤原基経と光孝天皇」「班子女王 ~宇多天皇の母」を参照して下さい。

☆藤原鮮子(藤原連永の女)
 醍醐天皇更衣。代明親王の母。「代明親王の子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原山蔭
 清和天皇側近の公卿。藤原定方の舅。「藤原定方とその子孫たち」を参照して下さい。

☆藤原在衡
 村上・冷泉・円融天皇御代の公卿。「誕生日♪」(私の誕生日に歴史上で何が起こったかを書いています。)を参照して下さい。

 さて、藤原魚名の子孫には、有名な方々がまだたくさんいます。では、そのうちの何人かを紹介しますね。


☆藤原時姫 (?~980)

 摂津守藤原中正の女。藤原兼家の妻となり、道隆、道兼、道長、超子(冷泉女御・三条母)、詮子(円融女御・一条母)をもうけました。兼家の別の妻であった道綱母が著した「蜻蛉日記」にも、作者との車争いや、和歌の贈答など、時々顔を出していますよね。
 時姫は上で紹介した藤原山蔭の直系の子孫なので、れっきとした魚名流の女性です。道長さんの母である彼女が魚名流だと知ったときはわくわくしました。その上、彼女を通して道長の子供たち、中関白家の人々、一条天皇や三条天皇にも魚名の血が流れているということになります。系譜の面白いところです。


☆美福門院(藤原得子) (1117~1160)

 魚名の三男、末茂の子孫である藤原長実の女。
 長承三年(1134)頃、鳥羽上皇に入内。大変美しい女性だったため上皇の寵愛を一身に受け、保延五年(1139)に躰仁親王を出産します。躰仁親王は近衛天皇として踐祚し、彼女も大きな発言力を持つこととなります。
 近衛天皇崩御後は、藤原忠通と組んで、崇徳上皇、藤原頼長と対立。これが保元の乱の一因となりました。その後も、守仁親王(保元三年に踐祚して二条天皇)の養母として、朝廷内で発言力を持ち続けました。陰謀渦巻く貴族社会をしたたかに生き抜いた強い女性というイメージを受けます。


☆藤原成親 (1138~1177)

 魚名の三男、末茂の子孫である家成の子。
 平治の乱の際、叛乱に関与したとして解官されたり、平滋子の生んだ親王(のちの高倉天皇)を皇太子にしようとして流罪になったりと、若い頃はかなり苦労したようです。帰京後は後白河院側近として中将、蔵人頭、権中納言、権大納言と出世をしていきましたが、比叡山といざこざを起こして一時解官されたりもしています。

 安元三年(1177)、成親は、息子の成経、俊寛僧津、平康頼、西光らと平家妥当を計画(鹿ヶ谷事件)して捕らえられました。事件には後白河院も関わっていたと言われています。しかし事は未然に露見し、成親も捕らえられてしまいます。
 清盛は成親をすぐに処刑しようとしたのですが、妹婿の重盛の助命嘆願によって備前に配流されることとなります。しかし最後にはその地で斬首されました。野心家だったようですが、何か解官と流罪に明け暮れた人生という感じがします。末路も哀れですよね。

 なお、先に触れた藤原隆房は、成親の甥に当たります。隆房の子孫は四条家となり、鎌倉時代以降も京の貴族社会で活躍しています。


☆藤原秀郷 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。下野国の住人。9世紀末~10世紀半ばの人と言われています。近江三上山のむかで退治の伝説で有名です。天慶三年(940)に平将門を討ち、その功によって従四位下に叙され下野守に任じられています。これらのエピソードから、大変勇猛な武将だったことが想像されます。

 なお、彼の子孫からは鎌倉御家人の小山氏、平泉に栄華を築いた奥州藤原氏、戦国大名の大友氏など、多くの氏族を出しています。また、平安末期に活躍した歌人、西行法師も秀郷の子孫です。


☆藤原利仁 (生没年未詳)

 平安時代中期の武将。9世紀後半~10世紀前半の人と言われています。
 最初、藤原基経に仕え、のちに敦賀の豪族、有仁の婿となり、越前国に住みました。「今昔物語集」にあるいもがゆの話(五位の官人にいもがゆを食べさせる話)に、越前国の裕福な長者として登場しています。


 以上のように、魚名の子孫は、中央はもちろん、全国各地にも拡大し、日本史上の色々なところで活躍しています。左大臣にまで昇進しながら最後には不遇だった魚名の子孫がこれだけ繁栄する…、歴史の面白いところですね。

 また、秀郷の系統からは波多野・後藤・尾藤・伊藤・佐藤・首藤・山内・近藤・武藤・大友・田村・小山・結城・大田など、利仁の系統からは斎藤・加藤・富樫・林・豊田・後藤・吉原など、多くの苗字が派生しました。
 そこで最後に余談ですが…、実は私の旧姓も、秀郷流の苗字なのです。以前、「こちら」で紹介したことがあるのですが、私の実家には真偽はともかく、信濃の豪族高遠家の一族で、武田信玄に追われて駿河に逃げてきた…という伝説があります。
 自分が諏訪ご寮人や武田勝頼の親戚(高遠家は諏訪家の分家と言われています)と考えるのも夢がありますが、魚名や秀郷の子孫であり、上で紹介した多くの有名な方々とつながっているかもしれないと考えるともっと夢が膨らみます。

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藤原定方とその子孫たち

2006-10-11 10:34:38 | 系譜あれこれ
 2006年8月30日にUPした「代明親王の子孫たち(この記事の一番下にリンクを貼っておきます)を書いているとき、藤原定方の家と代明親王の家・紫式部の家が密接に結びついていることを知り、大変驚きました。
 そこで今回は、藤原定方とその子孫たちについてまとめてみることにしました。こちらも代明親王の子孫同様、有名な方が出てきますので、ご覧いただけますと嬉しく思います。

 系譜を書く前に、まず藤原定方とはどんな人なのか、簡単に書いておきます。

☆藤原定方 (873~932)
父・藤原高藤(左大臣冬嗣の孫) 母・宮道列子(宮道弥益の女) 醍醐天皇の母、藤原胤子は彼の同母姉です。

 彼は醍醐天皇の側近・外戚として右大臣にまで出世し、三条に邸宅があったので「三条右大臣」と呼ばれました。
 それと同時に、藤原兼輔とともに紀貫之ら「古今集」の編者たちのパトロンのような人でもありました。兼輔や貫之を自分の邸宅に泊め、歌の贈答もしたことがあったようです。有能な政治家であると同時に、和歌や文化を愛する風流な面も持ち合わせていた貴族だったと思われます。


 では、彼の子孫たちの話に移りますね。

 彼は、藤原山蔭女ほか、多くの女性にたくさんの子供を産ませたようです。しかし、山蔭女の所生以外の子供たちについてはほとんど記録がなく、従ってあまりしっかりと調べることができませんでした。その中でも2人の娘については、1人は配偶者の素性と子供たち、もう1人も配偶者の素性がわかりましたので、まず紹介させていただきますね。

 まず一人目です。

 彼女は、定方と親しかった藤原兼輔(堤中納言)の妻となり、藤原雅正(紫式部の祖父)、藤原清正、藤原庶正、藤原桑子(醍醐天皇更衣)などの子女をもうけています。

 もう1人の女子は、上で挙げた兼輔と定方女の子の一人、藤原庶正の妻となっています。この結婚を仲介したのは多分、兼輔・定方女(庶正室の姉か?)夫婦だったのでしょうね。

 では次に、藤原山蔭女所生の子供たちと、その子孫たちについてまとめてみます。

 藤原山蔭は、奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫で、清和天皇の側近として中納言にまで昇進した人物です。そこで山蔭女は多分、定方の正室として遇されていたと考えられます。
 彼女は定方との間に、朝忠、朝成、朝頼、そして四人の女子をもうけました。ではこの7人の子女について1人1人見ていきますね。

☆藤原朝忠 (910~966) 中納言

 朝忠は歌人として知られ、三十六歌仙の1人にも選ばれています。和歌を詠むことが好きなのは父親譲りだったのでしょうか。また、笙や笛を演奏することも得意だったそうです。

 彼の子女としては、藤原理兼、藤原穆子、女子(源重信室)が知られています。

 このうち藤原穆子の血統が、平安時代の超有名人の家と結びついているので、少し書かせていただきますね。

 穆子は敦実親王(宇多天皇皇子)の子で、のちに左大臣に昇進する源雅信の妻となり、2人の女子をもうけました。

 このうちの1人が、藤原道長の妻となる倫子です。倫子は道長との間に、頼通、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条・後朱雀母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇が東宮の時の妃 後冷泉母)の6人の子女をもうけました。すなわち、倫子が道長との間にもうけた6人の子供たちは、定方の玄孫ということになります。
 つまり穆子の血統は、道長の御堂関白家、さらに天皇家につながっていくのです。すごいですよね~。

 一方、穆子のもう1人の娘は、道長の異母兄で「蜻蛉日記」の著者の息子さん、つまり藤原道綱の妻となっています。


☆藤原朝成 (917~974) 中納言
 
 朝成は、様々な逸話のある人物です。肥満大食で、やせるために医師が湯漬け、水漬けをすすめたが、量が多くて効果がなかったとか。多分、食べ過ぎから糖尿病になったか、太りすぎて心臓病になって亡くなったのではないかと、私は思います。

 また、彼には、藤原伊尹と蔵人頭を争って破れたため、伊尹を恨み「伊尹の子孫は根絶やし滅ぼしてやる!」と執念を燃やしたという話でも知られています。
 しかしこの話は年代的に合わないようです。

 朝成と伊尹は同じ天慶四年(941)に昇殿を許され、同じ天暦九年(955)に蔵人頭になっています。その後、朝成の方が早く参議に任じられるなど、しばらくはどちらかというと朝成の方が昇進が早かったようです。しかし、次第に伊尹の方が昇進速度が速くなり、彼が摂政太政大臣に任じられた天禄二年(971)、朝成はまだ中納言でした。朝成は、七つも年下の伊尹に官位を追い越され、大変悔しい想いをしていたことが想像できます。

 そして実際、伊尹の子供たちのほとんどが若死に、または出家をしてしまいます。これは、朝成の怨霊のしわざだと噂されたようです。さらに、伊尹の孫に当たる花山天皇が若くして出家をしてしまったのも、朝成の怨霊のしわざだと言われています。そのため、伊尹の子孫たちは朝成の邸跡には絶対に近づかなかったそうです。

 こんな話が伝わるくらいですから、朝成と伊尹は実際、仲が悪かったのかもしれませんね。

 そんな朝成の子供たちですが、藤原惟賢、藤原脩子、藤原宣孝室となった女子が知られています。このうち藤原宣孝(後述)と結婚した女子の子に、藤原隆佐がいます。藤原賢子(大弐三位)の異母兄に当たる方ということになりますね。


☆藤原朝頼 (生没年未詳) 左兵衞督

 山蔭女所生の3人の男子のうち、朝頼が一番官位が低いのですが、実は「藤原氏勧修寺流」として後世まで家系が続くのは彼の子孫なのです。

 朝頼の子に為輔がおり、為輔の子が惟孝、説孝、宣孝です。
 このうち、宣孝の妻の1人が紫式部で、2人の間に産まれたのが賢子(大弐三位)です。また、妻の1人には前述した藤原朝成女もいます。
 しかし、後世まで続くのは、宣孝が別の妻との間にもうけた隆光の血統です。この血統からは、白河天皇の側近として有名な藤原為房など、院政期に活躍した公卿が多く出ています。源平時代に日記「吉記」を著した藤原経房は、為房の曾孫に当たります。


☆女子(代明親王室) (生没年未詳)

 醍醐天皇皇子代明親王との間に、重光、保光、延光(?)(以上3人の男子は臣籍に下って源姓を賜ります)、荘子女王(村上天皇女御)、厳子女王(藤原頼忠室)、恵子女王(藤原伊尹室)をもうけます。詳しくは当ブログ内の「代明親王の子孫たち」をご覧下さい。最初の方でも書きましたが、この記事のラストにリンクが貼ってあります。


☆藤原能子(仁善子) (?~964)  醍醐天皇女御 三条御息所 衛門御息所

 能子は、延喜十四年(914)に醍醐天皇に入内し、その後女御となったものの、いつの頃からか天皇の弟の敦慶親王と密通するようになります。それを感づいた天皇は能子をうとんじ、彼女を上御の局に呼びつけておきながら、待ちぼうけを食わせた…ということもしたようです。敦慶親王は延長八年(930)に薨じ、天皇もその年に崩御します。
 その後、能子のもとには、醍醐天皇の別の弟、敦実親王が通ってきていたようです。そして、敦実親王との仲が途絶えると、今度は藤原実頼(藤原忠平の子で、小野宮流藤原氏の祖)が通ってくるようになります。

 「大和物語」には、能子は天皇の崩御後に実頼の妻となって頼忠を産んだ…と、記述されているようです。しかし、頼忠の生年は延長二年(924)で、醍醐天皇崩御の6年前なので、計算が合いません。能子が実頼の室になったのは間違いないようですが、頼忠の母に関しては「公卿補任」の記述の通り、藤原時平女と考えた方が自然のようです。


☆女子(藤原師尹室) (生没年未詳)
 
 彼女は藤原忠平の子師尹(藤原実頼の弟で小一条流藤原氏の祖)と結婚し、定時、済時、芳子などをもうけます。

 このうち、定時の子が歌人として有名な藤原実方です。清少納言の恋人の1人としても知られた人物ですよね。

 済時は、源延光(代明親王の子)の女との間に通任、、(女成)子(三条天皇皇后)などをもうけました。

 芳子は村上天皇に入内して「宣耀殿女御」と呼ばれ、昌平親王と永平親王をもうけています。髪が長くて大変美しい女性だったので、村上天皇の寵愛をを最も強く受けたようです。「枕草子」に記載されている、「古今集」の歌を全部暗唱できたというエピソードでも有名です。


☆女子(藤原雅正室) (生没年未詳)

 生没年は未詳ですが、かなり長寿だったと伝えられています。
 彼女は、雅正との間に為頼、為長、為時をもうけます。そして、為時の娘が紫式部です。

 また、紫式部の弟(一説には兄とも)の惟規の子孫には、平清盛の盟友として有名な藤原邦綱(大納言典侍の父)がいます。


 こうして定方の子孫をざっと見てみましたが、代明親王の子孫同様、色々な所とつながっていますし、有名人も多いです。
 しかも、藤原頼通以降の摂関家の人々と、後一条天皇以降の天皇は、すべて定方の子孫なのですよね。
 さらに、定方の子孫は勧修寺流や小一条流、世尊寺流の藤原氏、村上源氏につながっていることを考えると、院政期~源平時代に活躍した方々の中には、定方の子孫は意外に多かったのではないでしょうか。


「代明親王の子孫たち」はこちら

 

代明親王の子孫たち

2006-08-30 09:56:23 | 系譜あれこれ
 醍醐天皇の皇子に、中務卿代明親王(904~937)という方がいらっしゃいます。ちなみに親王の母は醍醐天皇更衣藤原鮮子(藤原氏魚名流)です。

 生没年をご覧頂いておわかりのように、彼は三十代でこの世を去ってしまいます。目立った活躍もしていません。
 しかし彼の子孫からは、歴史の表舞台で活躍した有名な方々がたくさん出ているのです。今回はそんな代明親王の子孫たちを紹介したいと思います。
 さらに、彼の家計は、実はある有名な方の家計ともつながっているのです。そのことについてはこの記事の最後に書きますね。

代明親王は、妻・藤原定方女との間に、重光、保光、延光(以上の3人の男児は、臣籍に下って源姓を賜りました)、荘子女王、厳子女王、恵子女王の6人の子女をもうけています。
 では、その6人の子女を紹介し、それぞれの子孫たちについてまとめてみます。


☆源 重光(923?~998) 権大納言
 息子・源明理 娘・藤原伊周室

 まず、藤原伊周室についてみてみますね。
 彼女は、藤原伊周との間に道雅をもうけます。
 この道雅は、三条天皇皇女で斎宮であった当子内親王との悲恋で知られる貴公子です。道雅は、内親王との恋に破れたあとは「荒三位」と呼ばれていた時期もありましたが、晩年には性格も行動も落ち着き、立派な人物になったようです。

 一方、源明理の方ですが、最初は出世コースを順調に歩んでいたようですが、長徳二年(996)四月、長徳の変によって中関白家の伊周・隆家が失脚すると、左少将であった彼も伊周の妻の兄弟ということで連座し、殿上の簡を削られてしまいます。その後は出世コースから外れ、左京大夫となり、最終的には受領になったようです。名前も「長経」と解明しました。


☆源 保光 (924~995) 中納言
 娘・藤原義孝室

 保光は桃園に邸宅があったので「桃園中納言」と呼ばれていました。

 彼の娘の許には藤原義孝という貴公子が通ってくるようになります。そして、この二人との間に生まれたのが能書家として有名な藤原行成です。行成は祖父補光から桃園の邸宅を相続し、邸宅内に寺(世尊寺)を建立しました。
 また、行成は、上で紹介した明理と大変親しかったと伝えられています。


☆源 延光 (927~976) 権大納言
娘・藤原済時室

 延光にも娘がおり、彼女は小一条流藤原氏の藤原済時と結婚します。そして、藤原相任、藤原通任、藤原(女成)子などの子女をもうけます。
 そのうち藤原(女成)子は、三条天皇の皇后となり、敦明親王(小一条院)、当子内親王などをもうけます。
 そうなのです、恋人同士であった道雅と当子内親王は母方の親戚だったのですよね。このことは、今回代明親王の子孫たちを調べていて初めて気がつきました。

*延光に関しては、母不詳と書いた史料もあります。


☆荘子女王 (930~1008)
息子・具平親王 娘・楽子内親王

 荘子女王は村上天皇に入内し、「麗景殿女御」と呼ばれました。

 彼女は村上天皇との間に具平親王と楽子内親王をもうけます。

 具平親王は詩歌や学問に優れ、人柄も大変立派な人物であったと伝えられています。彼の子女としては、藤原頼通の養子となり、村上源氏の祖ともなった源師房、紫式部のいとこ藤原伊祐の養子となった藤原頼成、藤原頼通の正室隆姫女王、一条天皇の皇子敦康親王の室となった女性、後一条天皇御代の斎宮で、のちに藤原教通室となった(女専)子女王が知られています。

*(女専)子女王に関しましては、当ブログの2006年7月6日の記事「(女専)子女王 ~神がかりした斎宮」をご覧下さい。この記事の一番下にリンクを貼っておきます。

 一方、楽子内親王は、村上天皇御代の斎宮として伊勢に下向しています。


☆厳子女王 (生没年不詳)
息子・藤原公任 娘・藤原遵子

 厳子女王は関白藤原頼忠(小野宮流藤原氏)の妻となり、藤原公任(歌人として有名)と藤原遵子(円融天皇皇后)をもうけます。

*公任さんは何と言っても父親が関白。正真正銘の高貴な生まれだったわけですが、母親も皇族の血を引く女性だったのですね。もし、姉の遵子さんが円融天皇との間に皇子をもうけていたら、その皇子が天皇となり、公任さんが関白になっていたかもしれません。妄想がふくらみます。


☆恵子女王 (?~992)
息子・藤原親賢 藤原惟賢 藤原挙兼 藤原義孝 藤原義懐 娘・藤原懐子

 恵子女王に関しては定方女の書生ではないという説もありますが、私は色々な状況から考えて彼女も定方女の書生ではないかと思っています。あくまでも推測ですが…。

 彼女は藤原師輔の長子で、摂政太政大臣となった藤原伊尹と結婚します。そして、伊尹との間に親賢、惟賢、挙賢、義孝、義懐、懐子らの子女をもうけました。

 しかし、これらの子供たちはいずれも若死にあるいは出家をしてしまいます。
 親賢と惟賢に関しては記録がないため、かなり早く亡くなっていることが推察できます。挙賢と義孝は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮廷の人気者でしたが、同じ日に流行病で世を去ってしまいました。冷泉天皇に入内した懐子も、天皇との間に師貞親王(後の花山天皇)をもうけますが、やはり若くして世を去っています。

 ただ一人残った義懐は、花山天皇の外戚、側近として権中納言にまで出世をします。しかし花山天皇は、自分の孫の懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を待ち望む藤原兼家の謀略によって退位、出家をさせられてしまいます。そして義懐も、花山天皇に殉じて出家をしてしまいました。
 こうして残された母の恵子女王の悲嘆を思うと、切ない気持ちになってきます。

 ところで、恵子女王の項を読んですでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、恵子女王の子の一人「義孝」…。そうです、恵子女王の兄弟の源 保光の娘の婿となった義孝その人です。つまり、義孝と保光女はいとこ同士で結婚したことになります。もしかするとこの二人は幼なじみだったのかもしれません。そして、二人の間に生まれたのが前述したように藤原行成です。

 こうして、代明親王の子孫たちを眺めてみると、錚々たるメンバーであることがおわかりいただけると思います。そして、それらの人々がみんな親戚であることも興味深いです。

 しかし、これで驚いてはいけません。代明親王ファミリーは、この記事の最初の方でも触れましたが、平安時代の超有名人の家と血縁関係があるのです。最後にこのことについてお話ししますね。


 代明親王の妻はこの記事の最初の方でも触れましたが藤原定方女です。彼女の母は藤原山蔭女で、定方は山蔭女との間に代明親王室のほか、藤原朝忠、藤原朝成、その他に数人の女子ももうけています。

 しかし、代明親王室は親王に先立って世を去ってしまいました。そこで親王は、子供たちを引き連れて妻の実家に身を寄せることとなります。そこで、亡き妻の同母妹に当たる女性に恋をしたのでした。
 親王はこの女性との結婚を望んだのですが、藤原師尹というライバルが出現してしまうのです。そしてこの女性は師尹の方に心引かれ、のちに彼と結婚することとなるのですが…。そして、彼女が師尹との間にもうけたのが、代明親王の息子の一人、延光の娘婿となる済時です。

 …と、ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、失恋をした代明親王は子供たちを妻の実家に残して本邸に戻り、やがて世を去ってしまいます。
 両親を亡くした代明親王の子供たちは、そのまま母の実家である定方邸にて養育されたことが考えられます。そして、子供たちの養育には母の兄弟姉妹も当たっていたと考えられます。
 特に、母の同母妹たちの果たした役割は大きかったように思えます。そしてその中には、のちに藤原雅正という貴族と結婚する同母妹がいました。

 ここで、「あ、そうか!!」とお気づきになられる方も多いと思います。彼女が藤原雅正との間にもうけたのが為頼、為長、為時兄弟です。そして、為時の娘が紫式部ですよね。
 つまり、代明親王の子供たちと為頼、為長、為時はいとこ同士ということになります。このように、代明親王ファミリーは紫式部の家と血縁だったのです。

 ついでに、紫式部の曾祖父で「堤中納言」と呼ばれていた藤原兼輔、その兼輔の妻で雅正の母であった女性も定方の娘だったそうです。ただこちらの定方女の母は山蔭女ではないようです。多分、代明親王室や雅正室とは年の離れた異母姉だったと思いますが…。こうしてみると、代明親王室の実家の定方の家と紫式部の家は二重の縁で結ばれていたのですね。

 代明親王ファミリーのうち、特に、紫式部の家と深い関わりを持ったのが荘子女王と具平親王でした。具平親王と為頼、為時は主従関係を結んでおり、私的にも学問を通じて親しい交流があったと伝えられています。また、具平親王が身分の低い女性との間にもうけた男児を、為頼の息子の伊祐が養子にしていますが、これもこの二つの家族が親しい関係にあった証拠ではないでしょうか。

 代明親王の血は、具平親王の曾孫で堀河天皇の生母となった賢子(彼女は藤原師実の養女となり、白川天皇に入内しました)を通じて現在の天皇家にも受け継がれています。こうしてみると歴史は現代にしっかりつながっているのだなと、深い感慨を覚えずにはいられません。

(女専)子女王 ~神がかりした斎宮