平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

班子女王 ~宇多天皇の母

2006-07-29 16:53:50 | 小説風歴史人物伝
 私は宇多天皇(867~931 在位887~897)という天皇が大好きです。一度臣籍に下って源姓を賜ったものの、思いがけず帝位につき、天皇時代は時の権力者藤原基経と対決し、菅原道真などの反藤原勢力を重く用いました。しかし突然退位して上皇となり、やがて出家……。晩年は政治とは無関係の風流人生を送ったと伝えられています。天皇時代は政治に熱中し、退位してからは遊興三昧…。そのギャップがすごい。そのあたりのことはいずれ、こちらの歴史人物伝で詳しく書いてみたいなと思っています。

 さて今回の人物伝では、その宇多天皇の母、班子女王を取り上げてみることにしました。そして、いつもとは試行を変え、班子女王ご自身にご自分の人生について語っていただく…というスタイルで書いてみました。

*当ブログの歴史記事全体に言えることなのですが、特にこの項に関しましては学術的な根拠や正確性については保証できません。「推論や妄想が入りまくりでも許せる。」という方だけお読み下さい。


宇多天皇の母、班子女王が語る「我が人生」

 私が時康親王さまと巡り会ったのは、十七、八くらいの時だったわ。時の帝、文徳邸の弟君だと聞いていたけれど、第一印象は「何かさえない方」という感じだったの。それはそうでしょう。文徳帝の母君は権力者藤原冬嗣さまの姫君の順子さま…。それに比べると時康親王さまの母君は藤原総継さまという、うだつの上がらない貴族の娘…。同じ兄弟でも月とすっぽんですものね。

 でも、親王さまは私のことが気に入ったらしく、しきりに文を下さるので、私も結婚を決意したわけなのよね。

 そして私たち、結構馬が合って、可愛い子供達が次々と産まれたわ。男4人、女4人の合計8人…。何よりもわが夫は優しくて誠実で、私のことを大切にして下さったのよね。

 夫や子供達と一緒に過ごす時間はもちろん幸せだったけれど、私が一番好きなのはやっぱり買い物と物詣で。七条の東の市や西の市で買い物をしていると時間を忘れたわ。だって市には、目を見張るほど珍しい物がたくさんあるのですもの。その珍しい物が自分の物になる瞬間って、たまらないのよね。
 清水寺にもしょっちゅう出かけていたの。ああ、あの頃は楽しかったわ~。私もまだ若かったし。

 そんな生活が一変したのは元慶8年のあの日…。その時の帝、陽成帝が内裏で殺人事変をおこし、関白藤原基経どのによって退位させられてしまったのよね。
 陽成帝はまだ若くて子供もなく、皇太子も定まっていなかったので、次の帝を誰にするか、公卿たちが会議で議論した結果、何と、何と、わが夫、時康親王さまが次の帝に決まったの。帝位なんて絶対回ってこないと思っていた55歳のわが夫が帝ですって!?最初この知らせを聞いたときは何が何だかわからなくてぼーっとしてしまったわ。

 でも冷静になって考えてみると、このことは基経どのが敷くんだ大芝居……ということがわかってきたの。
 実は我が夫と基経どのはいとこ同士…。お二人の母は、あのうだつの上がらなかった藤原総継様の娘で姉妹なのよね。
 そのようなわけで基経どのとわが夫は昔から仲が良かったの。基経どのはしょっちゅう、我が家に出入りしていたし…。
 でも私、どうも基経どののことが好きになれなかったのよね。理由はよくわからないけれど、何か虫が好かないというか…。それに、何を考えているかよくわからない、得体の知れないところがあるのよね。もしかすると基経どのは、おとなしいわが夫が帝なら、自分の思い通りに政治を動かせるかもしれない。そしてわが夫が邪魔になったらさっさと譲位させる気でいるのかも…。

 夫が踐祚することが決まったとき、私はこう言ってやったの。
「これは基経どのが仕掛けたわなかもしれないわ。あなたのお友達のことを悪く言って申し訳ないけれど、基経どのには気をつけて。」
 するとわが夫は、
「なーに、基経とはいとこ同士。それに昔なじみで気心の知れている仲。何とかなるさ。」
 夫にこう言われると、「それもそうだわ~」と思って安心してしまうのよね。このあたりが、私の脳天気な所なんだけど…。

 でもわが夫も用心深いところがあったのよね。自分の皇子をすべて、臣籍に降下させてしまったの。実はわが夫は、私以外にも何人かの奥さんがいたのよね。その一人が基経どのの娘だったのだけど、彼女にはまだ子供がいなかったの。そこで、基経どのの血を引いていない皇子を皇太子に立てることを避けるために、皇子をすべて臣籍に降下させたのだけど、私は「そこまでしなくても良いのに」と思ったわ。

 さて、夫の踐祚に伴い、私は従三位に叙され、「女御」と呼ばれることになったんだけど、宮中の暮らしは退屈でへきへきしたわ。買い物にも物詣でにも自由に行けないし…。そこで私、買い物のリストを作って気を紛らわせていたの。

 そうこうしているうちに、わが夫が、「御室に寺を建てる」と言い出したのよね。そこで、私は夫に連れられて寺が建つという候補地を見に御室に出かけたの。自然が豊かで静かなところだったわ。「ここにお寺が建ったら素敵!」と思った。それに、御室行きは、宮中暮らしに退屈さを感じていた私のいい気分転換だったわ。このお寺がのちに「仁和寺」と呼ばれることになるのよね。

 ところが夫は、踐祚してわずか3年、仁和寺の完成を見ずにあっけなく亡くなってしまったの…。そして、夫の皇太子は定まっていなかった。
 そこで基経どのがかつぎ出したのが、私が夫との間にもうけたわが子、定省だったのよね。

 実は定省は、基経どのの姉妹で子供のいない藤原淑子どのの猶子になっていたの。そこで基経どのは、「定省どのなら自分の思い通りに動かせる。」とでも思ったのでしょうね。

 でも、一度臣籍に下った者が皇太子になって踐祚するなんて前代未聞。なので基経どののこのやり方にはかなり異論があったみたい。「源定省が帝だなんて絶対に認めない。」という声もあったようね。
 おまけに「阿衡事件」というのも起こって…。女の私には、男君の書く難しい漢文のことはよくわからないけれど(私はやっぱり草子や和歌の方が好き!)定省から基経どのに出された詔の文書の中に「阿衡」という言葉があり、それが基経どのを怒らせる原因になったみたいなのよね。「阿衡」というのは高貴だけど実権は何もないという意味らしいわ。

 そんなこともあって定省はすっかり気落ちしてしまい、私の所に来て「帝をやめたい」と言ってきたの。「出家したい。」とも言ったわ。やはりこういう相談をするのは養母の淑子どのより実母の私の方が良かったのでしょうね。
 元々定省は頭が良くて利発な子なのだけれど、少々気が弱いところがあって…。それでいてなかなか自由奔放、熱しやすくて冷めやすい、そして脳天気でおっちょこちょいなところもある(これは私に似たのかも)という、複雑な性格なのよね。
 私、定省にこう言ってやったわ。
「しっかりしなさい!あなたは高貴な生まれなのよ。基経どのなんてただの臣下じゃないの。皇族の血なんて一滴も受けていやしない。それに比べるとあなたは父方も母方も皇族…。(私だって桓武の帝のれっきとした孫なのだから)基経どのが何を言おうと、気にすることなんてないわ。それから、30歳になるまで出家はしないでちょうだい。」
 それを聞いたとたん定省は、
「それもそうだな。もうしばらくは帝をやめないよ。」と言って納得してしまうあたり、やっぱり脳天気なのよね…。結局その時は、定省は位を降りなかったわ。

 そして間もなく、基経どのは亡くなったの。頭の上の重石が取れた定省は突然元気になり、政治に夢中になり出したわ。後世この時期のことを「寛平の治」と言っているみたいね。
 とにかく藤原氏の力がこれ以上強大にならないよう、菅原道真どののような反藤原勢力を重く用いていたみたいね。

 ところが、定省は踐祚してから10年経ったある日、「位を皇太子敦仁に譲る。」と私に言ってきたの。敦仁は定省と藤原胤子どのの間に産まれた皇子で、私の孫に当たるわけなのよね。
「敦仁も一人前になってきたから、そろそろ位を譲っても大丈夫だ。私は上皇となり、陰から敦仁を助けようかと思う。」
 確かに…、敦仁は定省に比べて気性が強く、帝王に向いているような気がしたわ。定省も早くからそれを見抜いていたのね、きっと。この頃はもう、阿衡事件の頃とは状況が違っていたのよね。なので私もその時は反対しなかったの。

上皇になった定省だけど、反藤原政策は続けていたみたい。故基経どのの息子達は、自分たちの姉妹の穏子どのを敦仁の妃にしようと画策していたようだけど、「そうはさせじ」と、定省は同母姉妹(つまり私の子)の為子を敦仁の妃に送り込んだこともその一つね。もっとも、為子に「敦仁と結婚するように」と説得したのは私なんだけど…。

 そう言えば私はその頃、親戚の子のために一肌脱いだのよね。私の甥の息子、平貞文…、後世の人は「平中」とか言っているみたいだけど、色好みとか、遊び好きとか言われているけれど、できの悪い子は私にとっては可愛いのよね。その貞文、一時官位を剥奪されてしまったの。理由は色々あるようだけど、どうやら基経どのの長男時平どのと恋敵になってしまったことが大きな理由だったみたいね。それで私、貞文の復官を定省と敦仁に懇願したの。二人とも私の願いを受けざるを得なかったみたい。私は今生の祖母、上皇の母ですもの。そのくらいの力はあります。

 聞くところによると敦仁は最近、その時平どのを重く用いているとか…。敦仁にとっては、年を取って説教くさい道真どのより、若くてきびきびした時平どのの方が気が合うみたい。やっぱり藤原氏の力は侮れないかも…。私は時平どのよりも弟君の忠平どのの方が明るくて誠実そうで好きなのだけど。忠平どのが大臣・関白になればこの国の政治ももっと良くなるような気がするのよね。それに比べると時平どのは何を考えているかわからない。自分の権力欲のためなら何でもやってしまいそうな気がする。うーん、これからの敦仁のことはちょっと心配。

 でもこれだけは言えそう。藤原氏は何があっても臣下。皇族の誰を帝にするかを決めたり、その帝を退位させたりすることはできても、絶対にこの国の帝そのものにはなることができないのよ。
 帝位などとうてい望めなかったわが夫、時康親王さまが踐祚したことは思いがけない出来事だったけれど、私の役目は親王さまの子を生み、皇族を反映させることだったのかもしれないわ。そしてこれからの歴代の帝には私と親王さまの血が脈々と受け継がれていく。千年後もずっと…。それだけは確かなことだわ。

------------------------------------

☆班子女王プロフィール
 生没年 833?~900 光孝天皇の女御 後に皇太后
 父・仲野親王(桓武天皇の皇子) 母・当麻氏
 若い頃に仁明天皇第三皇子時康親王に嫁し、四男四女をもうける。
 元慶八年(884)、時康親王が踐祚して光孝天皇となったことに伴い女御となる。
 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。臣籍に下って源姓を賜っていた息子定省が皇族に復帰して踐祚。つまり宇多天皇である。宇多天皇踐祚に伴い皇太后となる。
 寛平九年(897) 宇多天皇退位。皇子敦仁が醍醐天皇として踐祚。
 班子女王は天皇の母・祖母として特別待遇を受け、平穏な晩年を送ったものと思われる。


☆付記
 私の中での班子女王は、「明るくて社交的でユーモラスな性格の人物」です。それで、彼女のそんな明るいキャラクターを表に出したくて、あえてこのような形にさせていただきました。
 なのでこの項は私の推察や妄想がかなり入っています。
 そこで、自分が感じている班子女王のイメージと違う」と思われた方もたくさんいらっしゃるかもしれません。辛口な反応も来そうでちょっと怖いです(ドキドキ)。
 そのようなわけでこの項は、小説を読むような軽い気持ちで読んで頂けましたら幸いです。

☆トップページに戻る
 

藤原兼輔 by葉つき みかんさん

2006-07-25 16:38:28 | 美術館
 画像の右側が少し切れて表示されていますので、全体を見るにはこちらをクリックして下さい。

 2006年6月7日に、葉つき みかんさんのサイト様「月桜」にて、ニアミスキリ番40001番を踏ませていただきました。その時のキリ番プレゼントに頂いたのが、上の「藤原兼輔」のイラストです。
 このイラストは、百人一首27番目の兼輔の作とされる歌「みかの原 わきて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ」をイメージして描いて下さいました。

このイラストを一目見てまず思ったことは、「わ~、兼輔さん、いい男♪」でした。烏帽子も装束も、時代考証に基づいて丁寧に描き込まれていますし、和歌の雰囲気もしっかりイラストに表現されています。とにかく「素晴らしい!」の一言です。葉つき みかんさん、素敵なイラストを本当にどうもありがとうございました。

 ついでに藤原兼輔とはどのような人物なのか、簡単に記しておきます。

☆藤原兼輔 (877~933)
 三十六歌仙の一人。藤原利基の子。左大臣藤原冬嗣の曾孫に当たります。いとこには三条右大臣藤原定方がおり、大変親しい交際があったと伝えられています。「源氏物語」の作者紫式部は兼輔の曾孫に当たります。

 兼輔は醍醐天皇の側近として朝廷に仕え、最終的には従三位中納言にまで出世しています。そして、邸宅が鴨川の堤にあったので、「堤中納言」と呼ばれていました。

 また、彼は紀貫之ら「古今集」の編者たちとも、身分を越えた親しい交際がありました。どうやら兼輔は、権力欲はあまりなく、政治よりも和歌や学問を愛するところがあったようです。そんな彼の気質は、古今集の編者達と気があったのだと思います。

 さらに、兼輔はなかなか色好みで、女を泣かせたこともありました。でもそれと同時に誠実な面もあり、単なる浮気者で軽薄な貴公子ではなかったようです。何か光源氏に似ていると思いませんか?
 もしかすると曾孫の紫式部は、祖母の定方女や父の為時、伯父の為頼からそのような兼輔の話を聞き、光源氏に曾祖父の面影を重ね合わせていたのかもしれませんね。

*このイラストの著作権は葉つき みかんさんにあります。無断転載は絶対にしないで下さい。

☆葉つき みかんさんのサイト「月桜」はこちら

☆トップページに戻る

パソコンのトラブル その他

2006-07-23 14:11:49 | えりかの平安な日々 04~09
 一昨日の夕方、私はパソコンの音声ソフトを使用して本を読んでいました。でも、何かおかしい…。音声がとぎれとぎれなのです。そのうち、突然音声が止まり、画面が消えてしまいました。
 それでも、パソコン自体は起動していましたので、リセットをしてみたのです。ところが、全然立ち上がってこないのです…。「ついにパソコンが壊れてしまったのか…」と、目の前が真っ暗になりました。

 でも、だめもとでもう一度リセットボタンを押してみると、今度はゆっくりと立ち上がってきました。立ち上がりが遅いということはウイルスに感染した恐れもあるので、念のためにだんなさんに診てもらうことにしました。ちょうどだんなさんが家にいて本当に良かった…。

 だんなさんに診てもらったところ、何と、ウイルス対策ソフトのデータが壊れていたのでした…。そう言えば、その前日に添付ファイル付でタイトルも外国語という、怪しげなメールを受け取ったあと、一時的にパソコンが凍り付いてしまったことを思い出しました。多分、そのメールはウイルスメールで、そのためにウイルス対策ソフトのデータが破壊されてしまったのかもしれません。ウイルスって恐ろしいですね…。

 そこで改めてウイルス対策ソフトをインストールし、ウイルスチェックをしてみたところ、「ウイルスは発見されませんでした」というメッセージが出たので一安心。
 そして、ウイルス対策ソフトもしっかり起動していることも確認しました。だんなさんの話では、「どうやら前にインストールしたウイルス対策ソフトは、しっかり起動していなかったようだな。だからウイルスメールにやられてしまったのだと思う。今度インストールしたウイルス対策ソフトはしっかり起動しているから安心だ。」とのこと。
 そしてその日の夜中、だんなさんに頼んでファイルの整理(分断しているファイルを一つにつなげる作業)もしてもらいました。私のパソコンはファイルがかなり多いので、5時間くらいかかってしまいましたが、無事に終了。再び快適にパソコンを使うことができるようになりました。

 ただ、私のパソコンは旧式(性能はいいのですが、ウインドーは98でMEです。)なので、いつどうなるかわかりません。一応、予備のノートパソコンはあるのですが、キーボードの操作が今使用しているパソコンと全く違うので文章を書くのが難しいため、今はインターネットにつないでいません。予備のノートパソコンは、今のところ専ら本を読むためのパソコンになっています。でも、ノートパソコンのキーボード操作にもだんだん慣れていく必要があるのかもしれません。
 取りあえず、今使用している旧式パソコンが使いやすいので、壊れるまで使ってみようと思っているえりかなのでした。


○その他の最近のできごと
☆1週間くらい前、またまた持病の頭痛が出てしまいました。今回は特に痛みがひどく、とにかく何もやる気が起こらない…。そこで横になって寝ていたのですが、「どうしてこんなにたくさん寝られるのかしら?」という感じでした。あ、現在ではすっかり良くなりましたので心配なさらないで下さいね。

☆同窓会の出欠席を尋ねる往復はがきを2週間ほど前に発送したのですが、現在ちらほらと返事が返ってきています。でも、やっぱり欠席が多い…。特に、いつも必ず出席をしてくれるNさんとS君、それとTさん夫婦が欠席なのが痛い。私たちの年代って、ちょうど仕事と家庭と子育てで忙しい時期なのですよね。仕方がないのかなあ。

☆最近各地にオープンしている「業務スーパー」というところに、本日初めて行ってきました。
 話には聞いていましたが、とにかく値段が安い。わかめ一袋が何と60円!普通のスーパーだと300円はします。そして、小さなエリカも私たちも大好きなかつおの削り節の大きなパック(普通のスーパーなら500円はします)が、270円で売られていました。もちろん買いましたよ♪

 そして、冷凍食品が充実しています。買いすぎないように気をつけながらも結局、カニピラフ、エビピラフ、酢豚の3食入りの詰め合わせ、焼きおにぎり、かきのグラタン、冷凍里芋を買ってしまいました。現在、我が家の冷凍庫はこれらの冷凍食品でいっぱいになっています。先日のように、冷蔵庫の電源が抜けているのに丸1日気がつかなかった…ということのないようにしなくては。
  

お知らせいろいろ

2006-07-22 13:33:58 | お知らせ・ブログ更新情報
 最近「お知らせ・ブログ更新情報」関連の記事が大変多いですが、本日もお知らせが4つほどあります。目を通して頂けますと嬉しいです。

○gooのサーバーメンテナンスのお知らせです。
 gooさんのサーバーメンテナンスのため、下記の時間、当ブログ「平安夢柔話」の閲覧ができなくなります。ご了承下さいませ。

2006年7月24日(月) 午前1時~午前11時30分

 実は、gooさんのサーバーメンテナンスはここ半年くらいの間にも何度かありましたが、メンテナンス時間が短かったり深夜だったり…ということがほとんどでしたので、特にこちらではお知らせをしませんでした。しかし今回はメンテナンス時間が長い上、朝~お昼前というちょっと影響のある時間帯だと思われますので、お知らせをさせていただきます。

 なお、掲示板「えりかの談話室」につきましては、gooとは全く別のサーバーを利用していますので、閲覧と書き込みは可能です。


○過去の「お知らせ・ブログ更新情報」の記事のうちのいくつかを削除させていただきました。


○「ブログ・参加同盟一覧」よりリンクさせていただいておりました「枕草子同盟」閉鎖に伴い、リンクをはずさせていただきました。


○近々、新カテゴリを設置します。
 「月桜」の葉つき みかんさんより、キリ番プレゼントとして素敵なイラストを頂きました。葉つきみかんさん、ありがとうございました♪
 そのため、近日中に「美術館」というカテゴリを新設し、イラストを飾らせていただく予定です。とっても素敵なイラストですので、皆様、楽しみにしていて下さいね。

 なお、今年1月にUPした、里江さんから頂いた子猫ちゃんの写真も、「猫のお部屋」から「美術館」へ移動させていただく予定でいます。

小さな子供さんを守るために、町で取り組んでいること

2006-07-19 09:36:01 | えりかの徒然なるままに
 本日は、久しぶりの時事ネタ&地元ネタです。
 
 最近、小さな子供さんが犠牲になる痛ましい事件がとても多いですよね。このような事件が報道されるたび、心が痛みます。

 そして特に、下校途中で子供が襲われたというような事件が報道されたときの、小さなお子さまをお持ちの親御さんのご心配なお気持ちは計り知れないものがあると思います。私が小学生の頃、同じクラスに、一人で下校するのを怖がり、1級上のお姉さんの授業が終わるまで学校で待っていた男の子がいました。その男の子を見て、「一人で帰れないなんて男のくせに情けない…」とからかったこともありましたが、今では低学年の子が上級生のお兄さんやお姉さんの授業が終わるまで学校で待っているのが当たり前なのだそうです。それだけ、小さな子供さんが一人で下校するということが危険な世の中になってしまったというわけです。嫌な世の中ですよね…。

 そんな小さな子供さんを犯罪から守るために、私の住んでいる静岡県島田市では色々取り組んでいることがあるようです。今日はそんなお話を…。

 まず、島田市の小学生は、街で大人に会うと知らない人にでも「こんにちは。」と挨拶をします。私もだんなさんと一緒に街を歩いているとき、「こんにちは」と小学生から挨拶をされたことが何度もあります。
 どうやら島田市内の小学校では、「街で誰かにあったときは、知らない人にでも挨拶をしましょう。」と指導しているようです。確かに「こんにちは」と子供さんから挨拶をされたら、たとえ悪いことをしようとしている大人でも躊躇してしまうし、何よりも挨拶は人の心を和ませます。「知らない人にあったら逃げましょう。」という指導も、自分の身を守るための手段として納得できる部分はありますが、これでは子供さん達の心に他人に対する不信感を植えつけてしまうような気もします。なので「挨拶をしましょう。」という指導はとても良いことだと感じます。

 さらに島田市では最近、子供さんを守るためのもう一つの取り組みが始まりました。

 それは、ゴミ収集を終えたゴミ収集車が、子供達の下校時間に合わせて、市内をパトロールすることになったことです。島田市には15台ほどのゴミ収集車があるそうですが、それぞれが各学区をパトロールして、不審者はいないか、子供達が危険な目に遭っていないかをパトロールしています。こうして街ぐるみで子供を守る取り組み、素晴らしいと思います。店も少ないし良い病院もあまりないし……と、この町に対して不満を抱くことが多い私ですが、こうした取り組みをしていることを知って嬉しくなりましたし、何となくほっとしました。

 とにかく、小さな子供さんが犠牲になる事件が世の中からなくなることを祈るばかりです。

百人一首 ー古典の旅8

2006-07-15 12:17:46 | 図書室2
 15年ほど前、講談社より「古典の旅」という全12巻のシリーズが刊行されました。このシリーズは、女性作家11人が古典の舞台を旅して綴るという企画で、読みやすい文章と豊富な写真で古典の世界を色々な角度から楽しむことができるシリーズでした。ご参考までにラインナップと著者を列挙しますね。

 1.万葉集(大庭みな子)
 2.伊勢物語/土佐日記(津島佑子)
 3.枕草子(田中澄江)
 4.源氏物語(瀬戸内寂聴)
 5.更級日記(杉本苑子)
 6.今昔物語(安西篤子)
 7.平家物語(永井路子)
 8.百人一首(竹西寛子)
 9.とはずがたり(富岡多恵子)
10.好色五人女/堀川波鼓(岩橋邦恵)
11.おくのほそ路(田辺聖子)
12.東海道中膝栗毛(田辺聖子)

 このシリーズは刊行されてから5年ほど経った頃に文庫化され、題名も「万葉集を旅しよう」「源氏物語を旅しよう」という風に改題されました。しかし現在では単行本、文庫本供に絶版のようです。これだけ豪華な著者とラインナップなのに…と思うと残念です。

 さて、今から紹介しますのはこのシリーズ第8巻の「百人一首(竹西寛子)」です。

 最近私は百人一首にはまっています。歴史好きの私は元々、百人一首の歌人たちに興味があったのですが、最近では歌そのものにも興味が出てきました。色々な解釈ができるし、和歌から作者の息づかいが伝わってくるような気がします。本当に奥が深いですね、和歌って…。
 さらに、今年の4月に京都に旅行したこともあり、京都やその周辺をあつかった紀行文を読みたくなりました。そして、「百人一首」と「京都周辺の紀行文」という、現在の私が興味のあることを合わせた本がまさに、「古典の旅」シリーズの「百人一首」だったわけです。この本を読むのは刊行当時以来2回目なのですが、当時はこの本で紹介されている場所にはほとんど行ったことがありませんでした。なので今回の方がずっと楽しく読むことができました。

 では、この本の目次を紹介しますね。

嵯峨野・小倉山/京都御所/上賀茂神社・下鴨神社/比叡山/宇治山・宇治川/
三笠山/天の香具山/竜田川・三室山/初瀬/吉野の里・吉野山/
逢坂の関・逢坂山/大江山・天の橋立・由良/住ノ江・高師の浜/難波潟・高砂/須磨・淡路島・松穂の裏/田子の浦・富士/末の松山・松島/隠岐
あとがき
解説 季節美と情念とことば
百人一首一覧

 この本では、百人一首の歌が詠まれた場所や歌に出てくる場所を著者の竹西寛子さんが訪ねて回り、その土地の様子や、歌が詠まれた背景を紹介しています。「百人一首」のすべての歌が網羅されているわけではありませんが、「土地や歌枕から和歌を鑑賞する」という、また違った角度から百人一首を楽しむことができる本です。

私は 久しぶりにこの本を本棚から取りだし、まず目次を見てわくわくしました。「京都御所」「下鴨神社」といった今年4月の旅行で訪ねた所、嵯峨野や宇治、松島といったかつて行ったことがある所などが紹介されていました。しかも写真が豊富なので、本を読みながら旅行をしている気分になることができました。

 また、冒頭で百人一首百首の歌を選んだ藤原定家の山荘のあった嵯峨野を、ラストでその定家と深い関わりがあった後鳥羽上皇が、承久の変の後に流された隠岐を紹介していて興味深く感じました。
 この本で紹介されている土地も、地元の田子の浦と富士は別として、京都と松島にしか行ったことのない私です。今度はぜひ飛鳥や天の橋立、できれば隠岐にも行ってみたいと想いを新たにしました。

☆この「古典の旅」シリーズは他にも何冊か所有していますので、折に触れて紹介していきたいと思っています。

☆最初の方でも書きましたが、この本はすでに絶版となっています。興味を持たれた方は図書館か古書店で探してみて下さい。

「はじめに ー管理人からのご挨拶ー」に加筆 その他

2006-07-11 13:10:46 | お知らせ・ブログ更新情報
 カテゴリの「管理人ご挨拶 最初に必ずお読み下さい」内の「はじめに ー管理人からのご挨拶ー」のページに加筆をしました。

 加筆をした箇所は主に、「1.このぶろぐについて」「3.ブログを開設したきっかけ」「4.掲示板について」「5.メールについて」の部分です。
 特に「掲示板について」につきましては、新掲示板を設置したために色々加筆や訂正をしましたので、どなた様も必ずお読み下さいますよう、よろしくお願いします。

 最近はネット犯罪等も多いと聞いていますので、色々細かいことを書いてしまいましたが、私はこちらにいらっしゃって下さっている皆様の良識を信じています。これからもマナーを守って楽しく交流していきましょう。


☆今後の更新予定
 現在「図書室2」と「えりかの徒然なるままに」の更新記事を準備中です。どちらの記事もすでに下書きがほぼできあがっていますので、遅くとも今週末~来週初めくらいに順次UPしていきます。

 更に、「歴史人物伝」を更新すべく、平安時代のある天皇の母について調べています。こちらはまだ調査中の段階なのでもうしばらく時間がかかると思います。頑張ります。


☆近況
 同窓会の事務がようやく一段落したと思ったら、今度は出かける用事が多くなり、忙しい日々を送っています。本日も午前中、用事で静岡まで行ってきました。でも元気で頑張っていますので心配なさらないで下さいね。

 そんな中、「舞え舞え蝸牛 新・落窪物語(田辺聖子著)」という本を読んでいます。これは、「継子いじめ」がテーマの平安時代の古典「落窪物語」を小説化したもので、私は今回この本を読むのは2回目なのですが、とっても面白いです。でもここ4~5日は掲示板設置や同窓会の事務の仕事、外出する用字で、5分の2ほど読んだところで中断しています。早く再開しなくては…。この本につきましても機会がございましたらこちらで詳しく紹介したいと思っています。


はじめに ー管理人からのご挨拶ー

新掲示板設置のお知らせ

2006-07-07 00:12:18 | お知らせ・ブログ更新情報
 当ブログの掲示板「えりかの談話室」にいつも書き込んで下さいまして本当にありがとうございます。皆様の書き込みにはとても励まされております。

 そしてこのたび、より使いやすく、快適に利用して頂けますよう、掲示板を新しいものに変更することにしました。ブックマーク欄の一番上の「えりかの談話室」をクリックしてお入り下さいませ。一応、この記事の一番下にもリンクを貼っておきますね。

 この新掲示板には、今までにない新しい機能もありますのでそのあたりを説明させていただきます。

☆投稿者による記事の編集ができます。
 今までは、パスワードを入れても記事削除しかできませんでしたが、新掲示板では記事の編集もできるようになりました。誤字などを修正するときに便利です。

☆過去ログを保存できるようになりました
 掲示板の記事保存数は100記事ですが、それを越えると過去ログに移動します。(今までは保存記事数を越えると古いものから削除されていました。)キーワード検索もできるようなので、よろしければご利用になってみて下さい。

☆携帯電話対応になっています。
 掲示板内の「携帯電話URL取得画面へ」をクリックしてご自分の携帯電話メールアドレスを記入すると、この掲示板の携帯電話URLがメールで送られてきます。そのURLをクリックすると携帯電話からの閲覧と投稿が可能となります。
 なお、携帯電話に表示されている画面の下の方、「ホームページへ」をクリックすると「平安夢柔話」本体に飛ぶことができます。画面には新着5記事のタイトルが表示されます。

☆カウンターを設置しました。
 掲示板の右上にアクセスカウンターが表示されています。当ブログにはカウンターがありませんので、掲示板にて下2けた00か、全けたぞろ目を踏まれた方はご報告して頂けますと嬉しいです。

 その他、現在は設定してありませんが、画像の添付などの機能もあるようです。あらしたいさくも今までよりずっと充実しているようなので、そのあたりも徐々に設定していきます。皆様がより使いやすく、居心地の良い掲示板を目指して頑張って参ります。今後ともよろしくお願いいたします。

☆旧掲示板に関しましては、閲覧用に来月末まで残しておく予定です。ご了承下さい。
 
☆新掲示板「えりかの談話室」はこちら

(女専)子女王 ~神がかりした斎宮

2006-07-06 12:36:58 | 歴史人物伝
 平安時代の女性というと、やはり紫式部、清少納言、和泉式部などの女流文学者たちが有名だと思います。しかし、たとえ知名度はなくても彼女たちに負けないくらい、劇的な
生涯を送った女性がたくさんいます。

 今から紹介する(女専)子(せんし)女王もそんな劇的な生涯を送った女性の一人だと思います。
 とは言うものの、私は彼女について2年ほど前まではほとんど知りませんでした。しかし彼女は斎宮だった時に有名な事件を起こし、斎宮退下後にもまた、思いがけない人生が待っていたのでした。そのことを知り、私は彼女に大変興味を持ちました。

 では、彼女の生涯について、書かせていただきたいと思います。

☆(女専)子女王(1005~1081)
 父は村上天皇の皇子具平親王 母は為平親王の女。同母の姉に藤原頼通室の隆姫女王、一条天皇と藤原定子の間に生まれた敦康親王の室となった女性、弟には村上源氏の祖となった源師房がいます。また、異母兄弟には紫式部のいとこ藤原伊祐の養子になった藤原頼成がいます。

 寛弘六年(1009)、(女専)子5歳の時、父の具平親王が世を去ります。具平親王は漢詩、管絃、学問などに造詣が深く、人柄も大変優れた人物でした。幼くして父を失ったことは彼女にとっては大きな不幸だったと思われます。

 長和五年(1016)、三条天皇が退位し、故一条天皇と藤原彰子との間に生まれた敦成親王が後一条天皇として踐祚します。
 そして当時、御世代わりとともに卜定されるのが伊勢の斎宮でした。斎宮というのは、天皇に代わって伊勢神宮の神に奉仕する未婚の内親王または女王のことで、奉仕する期間は原則として天皇の御世一代の間…ということになっていました。
 そして後一条天皇御代の斎宮に、(女専)子女王が選ばれたのでした。(女専)子女王は、斎宮に卜定されてから1年余りを初斎院で過ごし、その後1年を野宮にて潔斎を受け、寛仁二年(1018)秋に伊勢に出発することとなります。

 十代の半ばという多感な年頃であった(女専)子女王はどのような気持ちで伊勢に下っていったのでしょうか。今度京に戻ってくるのは後一条天皇が退位または崩御したとき、あるいは(女専)子女王の近親者の不幸によって喪に服すときのどちらかです。彼女が親しい人たちと引き離されて伊勢に赴かなければならないことを哀しんでいたのか、それとも未知の土地に行くことで心躍らせていたのか、彼女の心中は今となっては想像するしかありません。しかし、彼女が後年、起こすことになる事件のことを考えると、やはり不安な気持ちの方が強かったかもしれません。

 万寿二年(1025)の秋、彼女は女性の成人式である裳着を執り行います。20歳を過ぎてからの裳着はちょっと遅いような気がしますが、やはり斎宮という特別な立場であったことから裳着の時期も遅れてしまったのでしょうか。
その裳着の儀式の勅使として京からやってきたのが源資通(宇多源氏)という人でした。彼は「更級日記」の中で作者菅原孝標女と春秋の歌を取り交わしている公達であろうと推定される人物でもあります。「更級日記」には、資通と推定される公達が孝標女に向かって、万寿二年に斎宮の御裳着の勅使として伊勢に下った(このことが、この公達が源資通であろうと推定される根拠になっているようです。)ことを語る場面もあります。
 いずれにしても(女専)子女王にとって、京からの勅使を招いての自分の裳着は、人生のビッグイベントだったと思われます。

 さて、斎宮に卜定されて十余年、いつ終わるともしれない神に仕える日々を、彼女はどのような思いで送っていたのでしょう。天皇に代わって神に奉仕することに誇りを感じていながらも、彼女は悶々とした日々を送っていたのではないでしょうか。そしてその彼女の悶々とした気持ちが爆発する日がやってきます。

 長元四年(1031)六月十七日、暴風雨の伊勢神宮にて、(女専)子女王は突然神がかってしまったのでした。
 彼女が絶叫を始めたのは、太玉櫛を神宮に捧げるという大切な儀式の直前でした。「我は神宮別宮の荒祭宮である。」と叫び、斎宮寮の頭である藤原相通とその妻が勝手にのりとを作り、内宮外宮の御座所と称して連日連夜神楽を行い、狂乱している事などの不正を糾弾したのでした。
 またその当時、「天皇家は百代で滅びる。」という思想がありました。長元四年当時、天皇家はすでに六十数代を数えていました。なので(女専)子女王は「天皇家は下り坂じゃ!」とも言ったとか…。

 その後(女専)子女王は、「歴代の斎宮には罪がない。特に我は優れた斎宮である!」と叫んで浴びるほど酒を飲み、祭主大中臣輔親(百人一首61番の歌の作者伊勢大輔の父)と歌の贈答までやってのけたのだそうです。
 とにかく彼女は心神喪失状態でしたので、周りの人たちもどうすることもできず、ただ呆気にとられてながめているだけ……という感じだったのだと思います。

 この事件のことは早々に、使いによって京の朝廷に知らされたものと思われます。「斎宮が神がかりをして託宣を行うなど前代未聞…」と、京の朝廷ではかなりの騒ぎになったようです。
 そこで関白藤原頼通は公卿を集めてこの事件に対する詮議を行いました。その結果、藤原相通とその妻は供に流罪と決定されます。しかし(女専)子女王には何のおとがめもありませんでした。

 この事件は、その後の斎宮制度に少なからず影響を与えました。まず、斎宮の役所である斎宮寮の権力が衰退します。その代わり斎宮本人が重視されるようになったようです。また、平安中期の斎宮は、三条天皇皇女の当子内親王などの例外はあるものの、天皇の二世、三世の「女王」が多く、斎宮制度も衰退の一途をたどっていたのですが、その後は内親王が卜定されることが多くなり(次の後朱雀天皇御代の斎宮は、後朱雀天皇皇女良子内親王)、斎宮制度も復活をとげることとなります。やはり女王よりも内親王の方が権威は上…ということでしょうか。

 話を(女専)子女王に戻します。
 (女専)子女王にとっては、斎宮という神に仕える自分の立場を誇らしく思いながら、同時に自分がただの飾り物にすぎないことが辛くてたまらなかったのかもしれません。そこで斎宮寮の頭である藤原相通の不正を糾弾し、自分の立場を主張したのでしょう。しかし、鬱屈したその気持ちを「神がかり」「託宣」という形でしか主張できなかった彼女の心中を考えると痛ましく思えます。
 (女専)子女王はその後5年間、何もなかったように斎宮として伊勢で過ごし、長元九年(1036)の後一条天皇崩御と供に斎宮の任を解かれて帰京します。彼女はすでに32歳になっていました。

彼女が帰京後しばらく、どこに住んでいたかについては不明です。そして普通なら彼女も、斎宮を退下した多くの内親王や女王のように独身を通し、忘れられた存在になっていったかもしれません。しかし、最初の方で触れたように、彼女には思いがけない後半生が待っていたのでした。

 斎宮を退下して15年ほど経った永承六年(1051)頃、(女専)子女王が結婚……。その相手は関白頼通の同母弟、つまり藤原教通その人でした。
 教通は(女専)子女王と結婚する前に二人の正室を迎えていましたが、不幸にも次々と先立たれていたのでした。そこで(女専)子女王が3人目の正室として教通と結婚したわけです。

 では、どうして(女専)子女王が教通と結ばれることになったのでしょうか?

 実は具平親王の子供達は教通の兄頼通と深い縁で結ばれていました。長女隆姫女王は頼通の正室ですし、次女であるその妹と敦康親王との間に産まれた女児は頼通の養子となり、「藤原(女原)子」と名乗って後朱雀天皇の許に入内することとなります。また、嫡男の源師房も頼通の養子となり、一時はその後継者と見なされていたこともありました。

 上の方で私は、「斎宮退下後の(女専)子女王がどこに住んでいたかは不明」と書きましたが、以上述べてきたようなことから斎宮退下後の(女専)子女王も、頼通の庇護の許に置かれていたと考えられるような気がします。そして、頼通・隆姫女王夫婦のお声がかりで教通と結ばれたのではないでしょうか。
 教通は後年、頼通の後を受けて関白となった人物ですから、(女専)子女王は最後には関白夫人となったわけです。    彼女が幸せであったかどうかは史料が残っていないので推察するしかありませんが、教通が亡くなったときに彼女が大変悲しんだ……という話も伝わっているようです。なので二人は仲の良い夫婦で、幸せな日々を送っていたのではないかと……、そうあって欲しいと、私は思っています。

 幼い頃に斎宮に卜定されて伊勢に下り、悶々とした日々の中で斎宮託宣事件を起こし、斎宮退下後に結婚して関白夫人に。なかなかドラマティックな人生を送った(女専)子女王。彼女がどんな女性だったかは想像するしかありませんが、自分の考えや意志をしっかり持った、なかなか頼もしい女性だったように思えます。


(付記1)ちょっと余談
 (女専)子女王が神がかりして託宣を行った長元四年六月十七日の伊勢神宮は、本文でもちょっと触れましたが暴風雨が吹き荒れていたそうです。この長元四年六月十七日を現在の暦であるグレゴリオ暦に返還すると、1031年7月15日になるそうです。と言うことは台風が来ても不思議ではない季節ですよね。なのでこの日の伊勢は、台風の影響で暴風雨が吹き荒れていたのでは…と、ちょっと妄想してしまいました。

(付記2)斎宮について
 天皇に代わって賀茂神社あるいは伊勢神宮の神に奉仕する内親王または女王については正式には「斎王」と呼ばれていました。しかし、この二つを区別するために便宜上、賀茂神社に奉仕する内親王または女王を「斎院」、伊勢神宮に奉仕する内親王または女王を「斎宮」と呼んでいたようです。そこで、この文章では「斎宮」で通させていただきました。

☆参考文献
 「伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち」 榎村寛之著 塙書房

☆トップページに戻る
 

紫式部伝

2006-07-01 00:25:49 | 図書室1
 今回は、1ヶ月ほど前に読んだ紫式部に関する本を紹介いたします。

☆紫式部伝 源氏物語はいつ、いかにして書かれたか
著者・斎藤正昭 発行・笠間書院
税込価格 ・2,310円


 では、本の内容と目次を紹介いたします。

 従来、顧みられることのなかった勧修寺流・具平親王・帚木三帖をキーワードに、紫式部の生涯を通して浮かびあがった、源氏物語成立の謎に迫る。

[目次]
家系―勧修寺流との繋がり/家族と出生/幼少期から少女期/少女期から青春期/越前下向以前/越前下向/結婚/結婚期/寡居期(上)/寡居期(下)帚木三帖の誕生/初出仕/「桐壺」巻の誕生/土御門邸行啓/御冊子作り/玉鬘十帖の誕生/晩期/「若菜上」巻以降の『源氏物語』/没後


 この本は、紫式部の生涯を、「紫式部日記」や「紫式部集」などを参考にしながら、著者独自の見解によってまとめられたものです。研究書という色の濃い本ですが、一般の読者も対象にしているとのことです。そのためか、「紫式部日記」や「紫式部集」などの古典の原文が多数引用されていますが、それぞれ現代語訳と解説がついているので、とてもわかりやすいです。

 紫式部の生涯だけでなく、彼女の家系、周囲の人々についてのエピソードも書かれており、大変興味深く感じました。

 またこの本では、本の紹介文にもあるように「源氏物語」の成立過程についてにも触れられていました。そこで、成立過程について書かれていることを簡単に列挙してみますね。

☆紫式部は少女時代、具平親王の許で宮仕えをしていた。

☆帚木三帖『帚木』『空蝉』『夕顔』は寡居期に書かれた。そして、この三帖における光源氏のモデルは具平親王である。『帚木』『空蝉』の光源氏と伊予介・紀伊守るの関係は、具平親王と為時・為頼の主従関係を連想させられる。また、『夕顔』における夕顔怪死事件は、具平親王の愛妾であった雑仕女の怪死事件と状況が似ている。

☆『蓬生』『関屋』と『玉鬘十帖』を除く「藤裏葉」までの巻は、一条天皇が土御門に行幸した寛弘五年十一月までに成立した。そのうちのラストの二帖『梅枝』と『藤裏葉』は、敦成親王誕生から一条天皇の土御門殿行幸の頃に書かれたのではないか。

☆『玉鬘十帖』は、寛弘七年の道長の次女妍子の春宮入内のために献上する目的で書かれたのではないか。

☆『若菜上』以降は、その後4年間の間に執筆された。しかし、紫式部が一番最後に執筆したのは『夢浮橋』ではなく『竹河』である。

 「源氏物語」五十四帖がどのような順序で書かれたかについては諸説あり、当時の文献が新しく発見されない限りは推測の域を出ないものかもしれません。それでも私はなぜか「源氏物語」の成立過程には興味があります。紫式部という女性に心ひかれると同時に、「源氏物語」をリアルタイムで読んでいた千年前の人たちと同じ順序で読んでみたい…という欲求があるせいなのかもしれませんが…。この本に書かれた「源氏物語」の成立過程についても、諸説あるうちの一つなのかもしれませんが、私にとっては「なるほど…」と新しい発見の連続でした。

 この「紫式部伝」を読んで、「源氏物語」や紫式部にさらに興味が出てきました。「源氏物語」や「紫式部日記」、3年ほど前に読んだ紫式部の伝記「人物叢書 紫式部(今井源衛 吉川弘文館)」もまた読み返してみたいです。