平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

大河ドラマ「義経」第42回&またまた無視されてしまった人物が…

2005-10-29 00:29:08 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第42回の感想です。

 平家のみなさまがいなくなってしまったので私自身、何となく気が抜けてしまったような所があります。それに今回も、義経をはじめとする登場人物の目だった活躍がありませんでしたので、どのように感想を書いて良いかわからなくなってしまっています。
 ただ、今回も大きなつっこみ所がありましたし、私の考えからすると、当然登場させるべき人物が無視されてもいます。それらは後で述べることとして、まずドラマの感想を少し書いてみますね。

 頼朝とは別の道を歩くと決めた義経くんですが、相変わらず暗いですね。もっとも、頼朝との仲が断絶してしまったばかりか、思いがけず自分の所領まで取り上げられてしまって収入もなくなったのですから(そんなことあたりまえでしょ!)、確かに暗くなるのは当然でしょうけれど……。明るくて颯爽として格好良い義経は、もう観られないのでしょうか…。

 大地震でだんなさんを亡くしたうつぼが再登場しましたね。私は、うつぼはこのまま義経の邸で暮らすことになるのかなと思ってしまいましたが、商人になるために吉次の弟子になるようですね。何か、彼女の存在意義って何なのかわからなくなってきます。

 頼朝に義経討伐をそそのかす政子には、やっぱり違和感を感じてしまいます。義経に面会を断られた腹いせなのかもしれませんが、ここまで政子を悪女に描く必要があるのでしょうか?と言うより、ここまで来ても頼朝はまだ義経への「情」を捨てきれないようですね。「だから政子に主導権を握られるのよ!」と思わずつっこみたくなります。
けれどだんなさんの考えは私と全く逆でした。「頼朝が義経と組めば源氏一族がよみがえってしまう。そうなるとやっと天下への道が見えてきた北条一族にとって大きな憂いになるのは目に見えている。だから今回の政子は悪役どころか、北条一族にとってはヒーロー(正義の味方?)になるのではないかな。」と言うのがだんなさんの弁でした。

  ……と言うように、私にとっては今回も何となく批判的な感想になってしまいました。次回(第43回)は、何とか好意的な感想を書ける内容であることを期待したいです。


 さて、今回の最も大きなつっこみ所は、鎌倉から義経の監視役として送られてきた人物が「梶原景時」だったということです。史実では景時ではなく、息子の景季が送られてきたのですよね。
 しかし、このドラマでの景季は義経に心酔し切っているというキャラクターでした。なのでやっぱり監視役にはできなかったのでしょう。
 このドラマの中では、景季は結局、宇治川の先陣争い、重衡生け捕りばかりか、義経尋問の場面までカットされてしまったことになります。義経に心酔し切っていても「やるときにはやる!……」という気骨のある景季を観てみたかっただけに残念です。

 その景季(ドラマでは景時になっていましたが)が、義経の許に送り込まれてきた理由についてですが、ただの監視役というだけではなく、他にも大きな目的が二つあったと言われています。しかしドラマではこれらをすべてカットしています。

 では、そのことについて少しお話しさせていただきますね。

 一つは、義経がなかなか実行しようとしない平時忠の流罪を実行させるためでした。

 平時忠……。清盛の妻時子の同母兄弟に当たる人物です。
 彼は、同じ平氏と言っても清盛の高望流平氏(桓武天皇の曾孫高望王の子孫)とは別の、高棟流平氏(桓武天皇の孫高棟王の子孫。なお、高望王は高棟王の甥に当たる)になります。なので彼には、「自分は公家平氏だ。」という考えが強くあったと考えられます。
 壇ノ浦で平家が敗れたときも、「今日敗れたのは武家平氏、私には関係ない。」と思ったらしく、入水する気は全くなかったようです。そのため彼は鎌倉方の捕虜となり、都に戻ってきたのでした。

 しかしその際、時忠は義経に機密文書を押収されていたのでした。もし、この機密文書が頼朝の目に触れていたら、時忠は間違いなく斬首される……というような重大なものだったらしいのです。
 そこで時忠は、先妻との間にもうけた娘を義経の許に差し出したのでした。この娘は容姿も性格も大変優れた娘だったらしく、義経も妻にすることを承知します。
 そして、情にほだされやすい性格(今回のドラマの義経像もそんな感じですよね)であった義経は、時忠の娘を妻にすると同時に機密文書を時忠に返してしまいます。文書を返してもらった時忠は、そのままその文書を焼き捨てたと言われています。
 また時忠は、「神鏡が無事に都に戻った功績は自分にあるから、鎌倉にそのことを取りなしてくれ。」と義経に頼んでいたようです。

 このように、義経と時忠は手を結んでいた(義経は手を結ぶつもりはなかったかもしれませんが)ために、頼朝の不信感を買っていたことは言うまでもありません。そして、能登配流という処罰が決まっていた時忠が出発を延ばしていたことも、また頼朝の不信感を買う原因となっていたのでしょうね。

 このように義経と時忠の間には様々なエピソードがあったと思うのですが、ドラマではこれらをすべてカットしています。私個人としては、義経の妻となった時忠の娘もぜひ登場させて欲しかったのですが…。う~ん、このドラマはまた、義経と関わりを持った人物を無視してしまいました。本当に残念です。

 さて、二つ目の目的……、それは義経に源行家討伐を命じることでした。

 実はその頃、行家と頼朝は義経と頼朝以上に対立していたようなのです。かつて行家が頼朝を見限り義仲の許に走ってしまったことも大きな原因ですが、義仲や平家が敗れた後も、彼は頼朝の意に反するような行動をとっていたようです。そして義経も、この行家と同調するような素振りを見せていたようなのですよね。

 結局義経は、頼朝からの命令である「時忠を早く流罪にするように」にも、「行家を討伐するように」にも、煮え切らない態度を示したようです。そのため景季は「義経には謀反の気配あり。」と判断したと思われます。

 ところで今回のドラマ、久しぶりにその行家叔父さんが出てきましたね。一貫して「頼朝憎し」を貫き、あくまでも反頼朝同盟を作ろうとする行家。うじうじ悩んでいる頼朝や義経に比べてすがすがしいものを感じてしまったのは私だけでしょうか。「うんうん、そうだ。俺には全く行家の態度に誠意とか清潔感は感じず、それどころかジトーッとした感じたくもない嫌悪感しか感じなかったぞ。」と、隣でだんなさんが騒いでいます。

 さて、鎌倉から土佐房が派遣されてくるのは来週のようですね。そして来週は本当に久しぶりに立ち回りシーンがあるとか…。たのしみです。
 また、 義経はいよいよ行家叔父さんと手を結ぶことになるのでしょうか?
 批判をしつつも、来週もしっかり観ようと思っています。
 

復活します♪

2005-10-28 23:59:59 | えりかの平安な日々 04~09
 みなさま、お久しぶりです。えりかです。
 結局10日近くも更新をお休みしてしまいました。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。
 でも、そのおかげで十分休養をとることができましたし、これからのこのブログの方向性についても考えることができました。とにかく、ブログを閉鎖することは全く考えていませんので、これからもみなさまに支えていただきながら続けていきたいと思っております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

 では、近況など、思ったことを徒然なるままに書かせていただきますね。

1.今回の風邪

 私の風邪のパターンなのですが、
 ①喉が痛くなる → ②咳と熱が出始める → ③体がだるくなり、何もする気がなくなる → ④熱が下がり、喉の痛みが消える → ⑤咳が少しずつおさまっていく
 というところです。現在は⑤にさしかかった当たりです。やっと普段の生活ができるようになりました。

 学生時代は風邪をひいても喉の痛みと咳だけで、熱が出ることなどはほとんどなかったです。なので特に高校・専門学校時代は風邪で学校を休んだことはほとんどありませんでした。(せいぜい2~3日くらいかな?)

 しかし、30歳を過ぎたあたりから風邪をひくと熱が出るようになりました。熱が出ると何もする気が起こらなくなりますので、とにかく風邪をひかないように注意するようになったのですが、やはり1年に1回はひいてしまうようです。

 とにかく気温の変動の差が激しい今日この頃です。ここを御覧のみなさまも、どうか風邪にはお気をつけて、健康で楽しく毎日を送られますことをお祈りしています。


2.楽しみ楽しみ♪

 『源氏物語と京都 六條院に出かけよう(監修・五島邦治 編集・風俗博物館)』
、『海渡る風と光 生きていた平家盛(橋本和子)』の2冊を書店に注文しました。

 前者は今年の夏に京都文化博物館で開かれた風俗博物館出張展示の内容をまとめた本です。この展示は私も8月23日に観に行き、堪能させていただきました。
 その他にもこの本には、平安時代の風俗や平安文学に関する情報が満載のようです。早く手にとって読んでみたいです。

 後者は、平忠盛と池禅尼の間に生まれた平家盛とその周辺を描いた小説のようです。池禅尼の息子というと平頼盛が有名ですが、彼の兄である家盛は早く亡くなってしまったためあまり注目されていないようです。でも、私は何となく家盛に興味を持っていました。なので、こちらも届くのが楽しみです。


3.お詫び

 私は気が向いたとき、過去にUPした自分のブログの記事を読み返し、間違いなどを見つけたときはすぐ修正する……というようなことをよくしています。

 10月20日夜、「義経」41回の感想をUPしたあと、私は何気なく過去の記事を読んでいました。そして、9月29日にUPした「義経」38回の感想の記事を読んでいたとき、「一般的にはそれほど気にすることではないと思いますが、貴族社会の歴史を研究している者としては恥ずかしい間違いをしてしまっていたこと」に気づきました。
 それは、この記事で紹介した平頼盛の経歴を記した部分なのですが、「従三位に叙されました。」とすべきなのに「従三位に任じられました。」と書いてあったのです。本来は三位などの位階は「叙される」ものであり、「任じられる」ものでは無いとされているとわたしは聞いていました。
なぜこのような初歩的な間違いをしたのか、見直しの時点でどうしてこの間違いに気がつかなかったのか……、「こんな間違いをするなんて、私って馬鹿~!」という感じでした。そして、どうしてこんな間違いをしたのか未だにわかりませんが、「従三位に任じられました」はその場ですぐ、「従三位に叙されました」に修正させていただきました。

 もし、従三位や正二位などの位階が任じられるものだと誤解された方がいらっしゃいましたら大変申し訳ないことです。上記でも触れたように、すでに10月20日夜に修正してありますが、この場を借りてお詫び申し上げます。


4.これからの予定について

 「義経」42回の感想はすでに書き終えていますので、間もなくUPできると思います。
 また、長い間放ってある京都旅行記ですが、こちらも近日中には再開したいと思っています。あと3回くらいですので、何としても完結させたいです。こちらもまた御覧頂けますと嬉しいです。
 このように、しばらくは「義経」と「京都旅行記」が中心になると思います。
それから、たまには我が家の猫が画面に登場すると思いますので、宜しければ観てやって下さい。

 なお「義経」はあと7回ほどで放送が終了するようですので、そのあとは本の紹介と平安時代の人物紹介をしていきたいと思っています。とにかく、やりたいことはいっぱいあります。
これからも楽しみながら記事を書いていけたらいいなと思っていますので、応援よろしくお願いします。
   

大河ドラマ「義経」第41回&重衡・宗盛の処刑

2005-10-20 20:16:22 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第41回の感想です。

 今週は重衡と宗盛の処刑の場面が描かれたため、平家ファンの私にとってはかなりおいしい回でした。観ていて感動的な場面もあり、胸をしめつけられるような場面もありましたが。
 しかし、ストーリー面でも歴史的な面でもつっこみ所が満載でした。例えば、重衡の処刑と宗盛の処刑は順番が逆ですし…(実際は重衡の処刑の方が二日ほどあとのようです)。

では、ドラマに沿って重衡の処刑から書かせていただきますね。

 南都の僧兵に詰問されても言い訳一つしない重衡は、立派でほれぼれしました。そして、輔子との壮絶な別れもなかなか感動的でした。「そなたは生きよ。あとを追ってはならぬ。」という重衡の言葉には、輔子への強い愛情を感じました。

 しかし……、この感動的でもある場面には、あり得ない設定が多すぎたように思えます。だいたい処刑場に乱入なんかできるのでしょうか?南都の僧兵は、最後だからといって重衡と輔子を会わせるほど、甘くはなかったのではないでしょうか。
 それに輔子ってドラマの中ではすでに出家していたはずだと思いますが?そして彼女はその場面では建礼門院に仕えていたのではなかったでしょうか?それなのに、今回は女房姿で重衡を探し回っていましたよね。実際、輔子が出家をするのは重衡の死後なので、製作スタッフもそのことに気がついて急遽輔子を女房姿に戻したのかもしれませんが…。このあたりも、脚本や制作のつじつまが合っていませんよね。

 「平家物語」によると、確かに輔子と重衡は処刑前に最後の別れをしたということになっています。そのあたりを少し書かせていただきますね。

 壇ノ浦にて輔子は、時子や安徳天皇の後を追って入水しようとするのですが、袴のすそを矢で射抜かれて動けなくなってしまいます。そのまま鎌倉方の捕虜となり、都に戻ってきたのでした。
 その後輔子は、日野に住む姉の許に身を寄せることになります。一ノ谷で捕らえられた重衡が鎌倉に送られ、その後南都の僧兵達の要求によって南都に護送されるようだという話は聞いていたものの、重衡が現在どこにいるかもわからず、ただ泣くよりほかはありませんでした。
 一方重衡は、醍醐街道を南都へ向かって護送されていたのですが、その途中で日野を通ったとき、この近くに輔子がいるらしいということを聞き、護衛の武士達に向かって、「妻と最後の別れをさせて下さいませ。」と頼みます。武士達もそれを許可したため、重衡は輔子の住む家を訪ねることになるのです。つまり「平家物語」では、ドラマとは逆に重衡が輔子を訪ねた……というように描かれています。

 「平家物語」では、二人の別れが哀切きわまりない文章で描かれています。重衡が形見にと髪の毛を引きちぎって輔子に渡したり、「後世ではまた巡り会える」と言ったりするところは。今回のドラマと一緒です。また「平家物語」では、重衡の身なりがみすぼらしいことに同情した輔子が、新しい装束を彼に差し入れるのですが、最後まで重衡を気遣う輔子の姿には、同じ女性として切なさを感じます。とにかくこの場面は何度読んでも哀しくなってしまいます。
重衡が処刑された後、輔子は彼の遺体を引き取って供養し、間もなく出家をしました。そして、大原の寂光院に入っていた建礼門院に仕えることになるのです。

 ドラマでの重衡と輔子の別れ、重衡の壮絶な最期はそれなりに感動的でした。でも、刑場に乱入といったあり得ない設定をされてしまったため、やや興ざめしてしまったところがあります。やはり「平家物語」通り、重衡と輔子は日野で哀切な別れをする……という描き方でも十分感動的だったと思うのですが、いかがでしょう?


 では、宗盛処刑に移りますね。

 都に近づいても処刑されなかった宗盛が思わず洩らした、「ひょっとして命が助かるかもしれない。もし可能なら出家をして一門の菩提を弔いたい。」というせりふは、生きることに執着した彼らしい一言だと思いました。そう思ったのも無理はないかもしれません。
ところが、「私もそのようになるよう、法皇さまに取りなしをしよう。」と言う義経。私は「そんなことできるわけないじゃないの。甘い、甘い!」と思わずつっこんでしまいました。宗盛は平家の総大将です。つまり、彼を処刑することは以前から法皇、頼朝、義経の間で暗黙の了解のようになっていたのではないでしょうか。
 結局宗盛は処刑されてしまうのですが、最後はかなりいさぎよかったですね。だけでなく、息子の清宗を思う気持ちが哀れで切なかったです。「清宗だけは助けてやって下され。」と義経に頼み込む宗盛と、「父上、そんなことを言ったら義経殿を困らせるだけじゃ。」と逆に父親をいさめる清宗…。何か胸がしめつけられるような感じがしました。平家伝来の鎧を維盛から取り上げて喜んでいたり、壇ノ浦では泳ぎ回っていたりと、とかく笑い者の親子でしたけれども、最後には見せてくれましたよね。宗盛も清宗も、彼らなりに精一杯生きていたのだなとつくづく感じました。
 そしてこの場面を観て、勝利者のはずなのに義経の方が哀れに見えてしまったのは私だけだったでしょうか?

 ところで、宗盛親子が斬られたあと、「これで平家の血は完全に断絶した。」というおとくばあさんのナレーションが入りましたけれど、これは正確ではありません。

 小松殿重盛の長男維盛の子、六代はまだ生きています。この年(文治元年)、六代も斬られそうになるのですが、『文覚上人の助命嘆願運動』によって彼は命を助けられることになります。六代は清盛のれっきとした曾孫ですから、「平家の男系の血が宗盛親子が斬られることによって断絶した」ということには、絶対にならないのです。

 また、平家の女系の血は今でも受け継がれています。清盛の娘の一人が藤原隆房に嫁いでいるのですが、彼女の曾孫は後嵯峨天皇の中宮となった藤原(女吉)子です。そして、(女吉)子は、後嵯峨天皇との間に後深草・亀山の二天皇をもうけました。今上天皇は後深草天皇の子孫ですから、平家の血は断絶したどころか、現在の天皇家にしっかり受け継がれているのです。詳しくは、2005年1月10日の記事「平清盛の子孫」をご参照下さい。

 さて来週は、義経は郎党に宣言した通り、いよいよ頼朝とは別の道を歩き始めるようです。でも、頼りにならないお笑い系の家来が10人ほどしかいないのに大丈夫なのでしょうか?
どうやら土佐房が義経討伐のために鎌倉から派遣されてくるようなので楽しみだったりします。
 そして義経は法皇より伊予守に任じられるようです。この任官は、法皇、丹後局、平知康の陰謀なのでしょうね、きっと。でも、相変わらず義経はそのことには全く気がついていないよう……。
平家の人たちはドラマからはいなくなってしまいましたが、来週もしっかり観ようと思っています。
    

風邪をひいてしまいました…

2005-10-19 20:04:36 | えりかの平安な日々 04~09
 10月の半ばを過ぎ、やっと涼しくなってきましたね。でも、1日の寒暖の差が激しくて健康管理が大変です。また、日によっても気温の差がありますよね。

 一昨日の午後、スーパーで買い物をしていたとき、突然鼻がむずむずして寒気を覚えました。喉もかすかに痛んだので、「これはまずい!」と思い、家に帰ってからすぐに風邪薬を飲みました。しかし、時はすでに遅く……、私の風邪はかなり進行していたようです…。

 現在も喉が痛く、咳も出てかなり苦しいです。今日は早く寝ようと思っています。みなさまも、風邪にはどうかお気をつけ下さいませ。

 なお、今週の大河ドラマの感想はすでに下書きを書き終えていますので、明日にはUPできると思います。

☆bluecatさんのブログ「蒼き猫の言霊日記」をブックマークに追加させていただきました。リンクを許可して下さいましたbluecatさん、ありがとうございます。
 bluecatさんと私は偶然同じ県に住んでいます。そして、同じ「平家物語」好き、さらに同じく能登殿教経や重衡をこよなく愛しています。大河ドラマの感想はもちろん、日常のことや世相のことも書かれています。特に、最近結婚式を挙げられた妹さんのために作られたウェディングベアーは必見です。ぜひ訪れてみて下さいね。

☆もう一つお知らせです。
 10月24日(月)、メール送信フォームのサーバーのメンテナンスのため、午前5時から午前6時までの間、メール送信フォームが表示されなくなります。あまり影響のない時間帯ですが、一応お知らせしておきます。

大河ドラマ「義経」第40回&腰越状に対する様々な反応

2005-10-16 00:40:44 | 2005年大河ドラマ「義経」
 もう40回なのですね。と言うことは、約5分の4が終了したことになります。速いです。

 さて、今週は腰越状だけで終わってしまったような感がありますよね。そのようなわけで、歴史的なつっこみもあまりありませんので、感想を簡単に記したいと思います。

☆腰越状を受け取った大江広元の反応
 びっくりしたような顔をしていましたよね。ちょっと意外でした。もっと事務的な態度をとると思っていたので…。
 でも、腰越状を頼朝ではなく政子の所に持っていくとは……、このドラマの政子は、幕府内でものすごい権力を持っていたのですね。きっと…


☆腰越状を受け取った政子の反応
 「この書状は、頼朝殿には見せない方がいい。」って…。何か、義経に対面を断られた事への腹いせのような気がして、正直あまり感じが良くなかったです。
 あとで政子は、「頼朝殿と九郎殿が手を握ったら、巨大な源氏政権ができてしまう。そうなったら北条氏にとっては都合が悪い。」と言っていました。確かに実際の政子にはそのような考えが多少あったかもしれませんね。しかし、何かその発言が、とってつけたように聞こえてしまったのは私だけでしょうか。このドラマでは、政子をものすごい悪役に仕立てたいのでしょうけれど、果たしてそこまでする必要があるのか疑問です。

 それと、この時期の政子って、幕府内でそんなに力があったのでしょうか?
私の考えでは、政子が幕府内で力を持ちはじめるのは頼朝の死後だと思うのですけれど…。そして、本格的に「尼将軍」として権力を握るのは、承久の変の後ではなかったかと思いますが、いかがでしょうか。


☆腰越状を見るか見ないかで迷っている頼朝
 今回の放送で一番見応えがあったのは、中井貴一さんの演じる頼朝です。

 広元に向かって「九郎は書状にどのようなことを書いてきたのかな。」とさりげなく聞く頼朝。その頼朝に書状を差し出す広元…。広元はずっと書状を持ち歩いていたのでしょうか。ともあれ、書状が頼朝の手に渡ったのを見て何となくほっとしてしまった私です。

 しかし頼朝は、書状を見るかどうかでものすごく迷っていましたよね。義経を思う「情」と、鎌倉幕府全体を考える「理」が彼の心の中で戦っていたのでしょうね。
 しかし頼朝はついに義経からの書状を読んでしまいます。そして、情と理の狭間でさらに悩むことになるのです。「読まねば良かった。」という彼の一言がそれを十分に表していましたよね。結局頼朝は、幕府の道理を重視したのでしょうね、「九郎には会わぬ!。」と決断するのですが…。そんな頼朝の苦悩が、こちらにもひしひしと伝わってくるようで切なかったです。

 しかし……、実際の頼朝がそこまで義経に対する「情」を持っていたかどうか、はなはだ疑問です。
 源氏という一族は、親子兄弟で争いを繰り返した一族です。源義朝と源義賢もそうですし、その二人の父親の源為義も兄弟で争っています。そんな一門の歴史をよく知っていたはずの頼朝が、30歳を過ぎてから初めて会った異母弟の義経に、果たして義経の感じていたような強い情を感じたでしょうか?たとえ初めは情を感じていたとしても、義経が頼朝の許可なく任官してしまった時点で、さらに腰越状の冒頭における「左衛門少尉源義経」という文面を見た時点で、頼朝は義経を切り捨てたのではないかと思います。

 でも、史実を頭の中でわかっていても、中井さん演じる頼朝には感情移入してしまいました。その原因は多分、情にもろい頼朝が新鮮に思えたということと、中井さんの演技力のすごさからなのでしょうね。


☆今回の義経くん
 今回の義経は、ひたすら頼朝からの返事を待っているだけでほとんど活躍しませんでしたよね。そして、相変わらず暗かったです。
 
 義経はなぜ自分が頼朝と会ってもらえないのか、最後まで全くわからなかったようですね。もちろん、頼朝が情と理の狭間で苦悩していることなど知るよしもないことでしょう。再び都に護送されることになった宗盛が言った、「我々は何のために鎌倉に来たのであろう。」という一言は、そのまま義経の心中を表しているように思えました。


 さて来週はいよいよ、宗盛と重衡が斬られてしまうのですよね…。つまり、平家の人たちが完全にいなくなってしまうわけです。平家ファンとしてはとても寂しいです…。私自身、このままドラマへの興味が薄れてしまわないだろうか?と、心配です。
 けれども、義経はあれほど嫌っていた行家となぜ手を結ぶことになるのか?、静が義経を慕う歌を歌いながら舞いを舞ったときの頼朝と政子の反応など、見どころはまだあるような気がしますので、少し期待したいです。
 今回のように感想だけということもあるかもしれませんが、今後とも読んで下さいますと嬉しいです。


だんなさんの就職

2005-10-08 17:47:54 | えりかの平安な日々 04~09
 私の視力の障害と同じく、これまで公にしていませんでしたが、私のだんなさんも病気を抱えています。でも、きちんと治療をしていれば普通の生活をして生きていけますし、日常生活にもそれほど大きな支障はありません。
 ただ3年前に病気のため、それまで勤めていた医療関係の県立学校の教員を病気療養のために退職しました。そのため、現在住んでいるだんなさんの実家の隣の家(15年ほど前、1階は治療室に2、階は住居にしようとだんなさんが建てた小さな家)に引っ越してきたわけです。鍼灸師の資格を持っているだんなさんは、体の調子の良い時に近所の人たちの治療は少ししていたものの、専ら病気療養に専念していました。

 その結果、最近は体の調子もわりと良くなったため、再び医療関係の私立の専門学校(前に勤めていた学校とは別の学校です)の教員として、就職することになりました。今週から週3日、勤めに行っています。私も昨日、だんなさんと一緒に学校に行ってきたのですが、設備も整っており、何よりも職員の皆様が感じの良い方ばかりで安心しました。生徒さんも人なつっこい方が多いようです。ただ、、教員の3割くらいが大学の医学部教員なのには驚いてしまいましたが…。

 そのようなわけで、これからはだんなさんのお給料が入ってきますので家計の方も助かりますし、何より教師という仕事はやり甲斐があって張り合いができるのではないかと思っています。それに週3日なら体の方も楽ではないかと思います。とにかく体には十分気をつけて無理をせず、頑張って欲しいです。しかし、来年度からは夜間部の授業と、リハビリテーション医学や経営学などの科目がさらに担当になるかもしれないので、あまり無理して欲しくないなと少し心配です。

 ところで白状してしまいますけれど、今までブログに写真つきの記事のUPをしていたのはだんなさんです。写真つきの記事は目を使わなければならないため、私一人ではどうしてもできないのですよね…。
 そして社会科教員の資格も持っているので、ブログの文章の校正をしていたのもだんなさんです。それと同時に字の間違いや文法上のおかしな所などをチェックしてもらっていました。今まで約135記事をUPしていますが、だんなさんにチェックしてもらわないでUPした記事は3記事くらいではないかと思います。ただしだんなさんの得意分野は2~5世紀の日本古代史なので、人物名や細かな歴史事項のチェックは私がやっていました。
 「だんなさんが就職したら記事をチェックしてもらえなくなってしまう。どうしよう…」と思っていたのですが、週3日の勤務ならそれほど負担にはならないようなので、引き続き写真つきの記事のUPと投稿記事の校正役をしてもらえそうです。そのようなわけでだんなさん、これからも苦労をかけるけれどよろしくね。そして、いつもありがとう。
 

大河ドラマ「義経」第39回&大江広元

2005-10-06 10:47:06 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第39回の感想です。

 オープニングの出演者紹介のテロップの中に平盛国の名前があるのを観て、なぜか妙になつかしくなってしまいました。
 盛国というと、ドラマの中では常磐御前を尋問したりするなど、かなりあくの強いおじさんに描かれていましたよね。しかし、清盛が亡くなったあとは全く登場していません。自分の邸で清盛が亡くなったあとは、盛国本人も消えてしまったようですよね。
 しかし盛国は、消えてしまったのでも亡くなってしまったのでもありません。彼は寿永二年に平家一門と共に都落ちしています。そして壇ノ浦合戦後、源氏方の捕虜となりました。その後鎌倉に送られますが、自ら食を断って文治二年(1186)に世を去っています。
 私個人としては、壇ノ浦合戦後の盛国のすさまじい生き様にもぜひスポットを当てて欲しかったです。

 盛国の話はこのくらいにして、今週の感想に移りますね。

☆ 頼朝に命乞いをする宗盛。
 元々総大将は荷が重すぎた宗盛です。おまけに生き残ってしまって、鎌倉に護送されてきて……、本人は辛かったと思います。しかし、頼朝に命乞いをする姿を見ると、どうしても格好良い知盛や重衡と比較してしまいます。そして「やっぱり宗盛は情けない!」と思ってしまいました。でも、息子の清宗は頼朝に対してしっかり受け答えをするなど、結構しっかりしていましたよね。なので清宗のことはちょっと見直しました。

☆ 義経に意見する弁慶
 「どうしてもっと早く、義経に意見してあげなかったの?」と思わずつっこんでしまいました。「大姫様には会っても良かったのではないか。」と今頃言ったって遅いのですよね。
 そして、どうしても義経を大姫・義高事件と結びつけたがる脚本にも疑問を感じました。義経が政子の申し出を受けず、大姫とも会わないなら、この話は意味がなかったのではないでしょうか。

☆回想シーンが長すぎます
 義経が書き送った腰越状ですが、自分の名前を「左衛門少尉源義経」と書くところがそもそも問題だと思います。「左衛門少尉」は義経が頼朝の許可なく任官した官職です。この官職を書状に書くということそのものが、頼朝に反抗していると映るのではないでしょうか。だってこの官職は後白河法皇から授かったものであり、その意味で見ると義経は、鎌倉の家来と言うより、法皇の家来という様に皆には思われると思うのですが…。果たしてどうなのでしょうね?旦那さんは『俺が頼朝であったら、「左衛門少尉」の部分を見たところで書状を破り、義経追討の命令を側近に伝えるな』と言っていました。
 それにしてもそのあとに続いた長ーい回想シーン、「これって手抜きじゃないの!」と思ってしまいました。
 そして回想シーンを観る限りでは、義経より頼朝の方がずっと苦労をしているように思えました。義経は7歳まで母と一緒にいましたし、清盛という父親代わりの人もいました。鞍馬寺でも大切にされ、奥州に下ってからは秀衡にも大切にされています。両親との縁は薄かったかもしれませんけれど、結構恵まれていたのではないでしょうか?
 それに比べると頼朝は、20年間も一人で流人生活を送っていたのです。しかも源氏の嫡流であったため、北条を初め関東諸侯からかなり監視されていて、本当に安心できる時はなかったのだろうなと、彼の心の重圧の強さに哀れを感じてしまいます。しかも頼朝は平治の乱の敗戦を肌で体験しているのです。平治の乱当時赤ん坊で戦の記憶のない義経よりもずっと悔しい思いをしていたはずです。

 このような色々な出来事を考えると、頼朝と義経の決定的な断絶は時間の問題という感じがします。

 ところで、前回私は「腰越状の宛名は大江広元」と書きました。ドラマでも、「大江殿宛」になっていたのでほっとしました。
 しかし本来は、当時の広元は大江姓ではなく中原姓を名乗っていたはずです。

 では今週は、そのあたりと大江(中原)広元の業績について書かせていただきたいと思います。

☆大江広元 (1148~1225)
 広元の出自に関しては3つの説があるようです。

 1.大江匡房の孫大江維光の実子で、後に中原広季の養子になったという説。
 2.中原広季の四男で、後に大江維光と父子契約をしたという説。
 3.後白河院側近の藤原光能を父に、大江維光の姉妹を母に誕生し、母の再婚相手で  あった中原広季の養子となったという説。

 これに関して、人物叢書「大江広元」 (上杉和彦著 吉川弘文館)によると、広元の父が藤原光能という説については、広元が生まれた時光能が17歳であったことから考えにくいとされています。そうなると父は大江維光か中原広季のいずれかということになりますが、建保四年(1216)六月、広元が大江姓への改姓を朝廷に求めるために提出した申文に、「大江維光とは父子」とか、「中原広季に養育の恩をこうむった」という文章があることから、実父は大江維光と考える方が自然のようです。
 そのようなわけで広元は、建保四年閏六月に大江姓への改姓が認可されるまではずっと「中原広元」と名乗っていたのです。腰越状を彼に宛てて送った義経も、彼を重用していた頼朝も、彼のことは「中原広元」と認識していたのではないでしょうか。
 なお中原氏は明経道(経書を学ぶ学問)と明法道(法律を学ぶ学問)の家ですが、広元は初めは明経得業生でした。鎌倉下向後の建久二年(1191)には明法博士に任じられています。大江氏の家学である紀伝道(漢文や漢詩を学ぶ学問)ではなく、中原氏の家学である明経道や明法道の道を歩んでいたところは、彼が中原氏の一員であったことを象徴しているように思えます。

 では、この広元とはどのような人だったのでしょうか?

 彼は最初は京の朝廷に出仕していました。先にも書いたように明経得業生出身で縫殿允から権少外記に任じられ、その後少外記に転じています。
 寿永三年=元暦元年(1184)頃、鎌倉の頼朝に招かれて下向します。彼の養父中原広季が、頼朝と親しかったために鎌倉に招かれたとも言われています。
 広元は鎌倉幕府内で公文所別当、政所別当を勤め、幕府の行政実務を行いました。文治元年(1185)には守護、地頭を全国に置くことを提案しています。
 頼朝の死後は北条政子や北条義時に協力して、比企能員・平賀朝雅・和田義盛などの謀反の鎮圧に協力しています。
 承久三年(1221)に後鳥羽上皇が兵を挙げると、諸将に反対して即刻上洛を主張。その結果、幕府を勝利に導いています。
 二代執権北条義時の死後、その子泰時を直ちに三代執権に任じたのも広元です。北条家による執権政治の確立、鎌倉幕府の基礎作りにおいて彼の果たした役割は非常に大きかったと言えそうです。

 以上、広元の業績をざっと書いてみましたが、彼は一貫して鎌倉幕府のため、頼朝のため、そして北条家のために人生を捧げたと言えそうです。都出身の貴族でありながらこれほど鎌倉幕府に身を捧げた彼の心中はどのようなものだったのでしょうか。おそらく彼は情よりも理を重んじる人だったのではないでしょうか。
 ドラマでの広元は、「義経を鎌倉に入れてはなりません。」と頼朝に進言していましたよね。実務的で冷徹な人物というイメージを受けましたが、この描き方はかなり実像に近いのではないかと思いました。

 さて来週は、いよいよ頼朝と義経の亀裂が決定的になるようです。普段からうじうじ悩んでいる義経がますます暗くなるような気がしますよね。これからいったいどうなることやら…。
 ところで、重衡の処刑と輔子との涙の別れの場面の放映はもう少し先のようです。格好良い重衡を拝める楽しみを先にとっておくことができるのは嬉しい限りです。
  

日帰り京都旅行2005年夏11 ~法住寺

2005-10-02 12:48:25 | 旅の記録
 後白河院が住んでいた法住寺殿は、永暦元年(1160)に藤原為光(道長の叔父)の法住寺の敷地を利用して造影が始まったそうです。
 その法住寺殿ですが、北は七条坊門小路(正面通)から南は観音堂大路(泉涌寺道)、東は東山の山麓から西は法性寺大路(大和大路)までという広大なものでした。その広大な敷地に邸宅や三十三間堂が建っていたようです。
 後白河院は途中、治承のクーデターによって鳥羽殿に幽閉されたり、福原遷都によって福原に移住したりと困難にあったものの、応保元年(1161)から義仲との法住寺合戦が起こった寿永二年(1183)までは、この豪華絢爛な法住寺殿を御所としていました。

 今回私たちが訪れた法住寺は、その一角にこぢんまりとたたずんでいるお寺です。
今回は時間の都合でお寺の東側にある後白河天皇法住寺陵には行けませんでしたが、今度京都に行く時は出来るだけ行ってみたいと思います。

 法住寺の境内には誰一人も人がいませんでした。「入ってもいいのかな?」と思いながら奥に進んでいくと本堂にたどり着きました。しかし本堂は改修工事中でした。改修工事が終わるのは平成十八年とのこと。残念!!こういう事って、よくあるのですよね。紫式部の邸宅跡に建っている廬山寺を最初に訪れた時も、改修工事中で中に入ることができなかったことを思い出してしまいました。
 ただ、仮の御堂らしい小さな御堂はありました。中には誰かいるらしく、人の話し声が聞こえます。中に入るのははばかられたのですが通路を左側に沿って歩いていくと中央の隣の部屋に、小さな像と灯のともったろうそくの小さな部屋がありました。そこで一本60円のろうそくを買ってお参りしてきました。

 再び境内の庭に戻ると、濡れない程度の小雨が降り始めていました。木々の緑が目に心地よかったです。後白河院もかつて、今私が歩いているところと同じ地面を踏みしめて歩いたことがあったかもしれないなと思うと、何か不思議なものを感じました。

 写真は、そんな法住寺の山門です。

 では、次は三十三間堂に向かいます。