平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

駿府城史跡発掘現場を見に行ってきました 後編

2019-11-03 09:40:11 | 静岡大好き
 駿府城史跡発掘現場を見に行ってきました 前編

の続きです。

 豊臣流天守台跡の隣には、徳川流天守台跡が置いてありました。こちらもパチリ。記事の一番上に写真を載せてあります。豊臣流天守台に比べると色が地味ですよね。
 少し歩くと、豊臣流石垣と徳川流石垣が一緒に置いてある場所が。でもこの時、雨がかなり強くなっていたので、写真は断念しました。
 このように、豊臣流と徳川流の天守台と石垣が同じ場所で一度に見られるのは、全国で静岡だけだそうです。

 少し話が前後しますが、発掘現場を見る前に、本丸跡に建っている家康公の銅像と、家康公お手植えミカンの木も見てきました。こちらも今回は写真に撮らなかったのですが、4年前の駿府城史跡散歩の記事に写真を載せてあります。
 で今回、銅像とミカンの木の前でHさんがお話しされていたこと。
 家康の死因について。たいの天ぷらを食べ過ぎて亡くなったという拙があるが、最近の研究によると胃ガンだったとのことです。あらあらいきなり現代病ですね。
 で想いました。たいの天ぷらというのは、今川義元の馬に乗れなかったという逸話と同じく、江戸時代の講談がもとだったのかなと。このような逸話はとても面白いのですが、やっぱり真実を知りたいです。

 ついでに駿府城天守台についても少し。
駿府城の天守台は江戸城よりも大きい。家康さん、「大御所の方が将軍より偉いんだぞ」と主張したかったのでしょうか。

☆江戸城の天守台
 地表からの高さ11メートル。東西41メートル。南北45メートル。
☆駿府城の天守台
 地表からの高さ12メートル。東西61メートル。南北68メートル
 12メートルというと、3、4階建ての建物ぐらいの高さですよね。更に一角が60メートル以上とは!確かに、発掘現場は想ったよりずっと広々していました。その天守台の上に、5層7階の天守閣が建っていたのです。すごい。
 そんなわけで、天守閣を復元できたら静岡にたくさん、観光客を呼べるとのこと。
 でも、復元には400億えんぐらいかかるそうです。その上、設計図が出てきていないので、正確には復元出来ないとか。やはり、復元は難しそう、想像するしかなさそうですね。

 次に、所々に残っている当時の石垣を見て、触らせてもらいました。
 家康は西国の大名に命じて駿府城を築城させたそうです。そして、大名たちは、「俺が作ったんだぞ」と、家紋などの痕跡を石垣に残したそうで。私が触った石垣には丸い印が刻んでありました。

 こうして、雨の中の発掘現場見学は無事に終了。歴史上の人物たちの痕跡に触れるのは楽しいです。

 最後になりましたが、私に付き添って下さった支援センターの職員さんには、誘導だけでなく、写真撮影のお手伝い、撮影中に傘を差し掛けて頂いたりなど、たくさんお世話になってしまいました。どうもありがとうございました。
 そして、このような企画を計画して下さった静岡県視覚障害者支援センターの皆様に感謝です。
 だんなさんがいなくなってから、史跡巡りの機会が激減してしまいましたが、このようなイベントに参加できることを嬉しく思います。史跡巡りイベント、またぜひ参加したいです。

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駿府城史跡発掘現場を見に行ってきました 前編

2019-10-28 09:27:00 | 静岡大好き
 先日、視覚障害者情報支援センターのイベントで、家康公の天守台の下から秀吉公の天守台が出てきたことで話題になった駿府城遺跡発掘現場を見てきました。久しぶりに本以外で歴史に触れることが出来た有意義で楽しいひとときだったので、私の備忘録のためにもとレポートさせていただきます。
*写真を2枚載せる関係で2回連載になります。

 この日の天気予報は雨、しかも大雨ということで、どうしようかかなり迷いました。でも朝の天気予報を見たら午後の方が降水確率が低かったので、天気は回復してくるのね、それなら大丈夫と、お出かけを決行することにしました。

 静岡駅ビルでランチを食べてから、バスで静岡県総合社会福祉会館、通称シズウエルへ。バス停からシズウエルに向かって歩いていたら雨は全然降っていなくて、これなら発掘現場見学も大丈夫だよねと安心しました。

 参加者は20人ぐらいだったでしょうか。発掘現場を見に行く前に、集会室にて、駿府ウェイブのガイドボランティアのHさんの駿府城についてのお話を拝聴しました。
 実は駿府ウェイブのHさんのお話を拝聴するのは、4年前の5月に続いて2回目になります。その時もとてもわかりやすいお話でしたが、今回も今まで私が知らなかったことや駿府城についての新発見の話題もたくさんお話しして下さいました。今回の史跡見学のレジュメも参考にしながら、印象に残ったことを書いてみたいと思います。

 なお、4年前の5月の史跡レポートはこちらにまとめてあります

☆どうして家康公の天守台の下から秀吉公の天守台が出てきたのか
 家康は最初、浜松城を本拠にしていたが、三河・遠江・駿河と共に甲斐・信濃も領することになったため、浜松では西に寄りすぎていると考え、天正十四年(1586)に駿府に移った。そして3年後に駿府城完成。
 ところが翌天正18年(1590)、家康は秀吉の命令で江戸に移ることになる。そのあとに駿府に入城したのが秀吉の家臣、中村一氏だった。
 一氏は家康の作った駿府城を破壊し、豊臣流の天守台を作った。今回の発掘で出てきたのはこの時の天守台跡。
 慶長八年(1600)、家康は関ヶ原合戦に勝利し、3年後に江戸に幕府を開く。
 その2年後、将軍職を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府に移った。そして慶弔十二年(1607)十月、駿府城本丸が完成。その際、家康は一氏の作った駿府城を破壊したと想われる。

 つまり、駿府城を巡って、家康公と秀吉公が張り合っていたのですね。
少し余談ですが、中村一氏は、2006年の大河ドラマ「巧妙が辻」に、主人公の山内一豊の同僚で仲の良い友人として登場していました。関ヶ原合戦の時、家康に味方することを決心し、病気を押して家康の所に挨拶に行くシーンは強烈で、今でも覚えています。
 では、話を戻しますね。

しかしその年の十二月、火災により本丸は消失。
翌年から再建工事が始まり、慶長十五年(1610)に天守閣が完成。
その25年後の 寛永十二年(1635)、火災により天守閣焼失。その後、駿府城の天守閣は再建されることはなかったそうです。

☆もしかすると今回の発掘で、今川館の痕跡が出てくるかも?
 戦国時代の駿河の守護大名の今川氏も、現在の駿府城公園周辺に館があったと推定されているそうです。
 今川氏で最も有名なのは、桶狭間合戦で敗れた今川義元だと想われますが、お歯黒をつけていたとか、馬に乗れなかったとか、あまり評判が良くないようです。しかしそれらの逸話は江戸時代の講談がもとになっているもので、史実とは考えにくい。義元は駿河・遠江の守護大名として善政を行った立派な武将だった。そのことをもっと知って頂きたい。
 そうですよね、私、うなずきながらこの話を聞いていました。実はわたしも当ブログのこちらと、こちらで今川関連の記事を少し書きましたが、地元民として義元さんの実像をもっと知って欲しいし、もっと知りたいです。

☆駿府城跡は明治時代に陸軍に献上された。そして戦後の昭和二十四年に静岡市がお金を出して国から買い取ったのだそうです。静岡人は人がいい。これにはくすっと笑ってしまいましたが。

 さて、そんな興味深いお話をうかがったあと、いよいよ発掘現場に向けて出発しました。
 シズウエルと駿府城公園は目と鼻の先なので、雨が降っていなければ楽に行けるのですが、外に出てみると雨が。え~っ、天気予報では午後の方が降水確率低かったのに~。
 実は4年前も天気予報は雨だったのですが、史跡見学の時は降っていなかったのですよね。なので今回も大丈夫だと思っていたのですが。「晴れ女の私でも雨を吹き飛ばせなかった」と想うとショックです。

 そんなわけで、センターの職員さんに誘導して頂いて傘を差して駿府城公園へ。北御門から公園の中に入り、家康公の銅像やお手植えのみかんの木のまえを通って無事に発掘現場に到着しました。
 発掘現場は遠くからのぞき込むようになっているのかなと想ったのですが、柵はあるもののすぐ間近から見ることが出来ました。最初に見たのは中村一氏が作った豊臣流天守台跡。せっかくなのでパチリ。私はよく見えなかったのですが、金色のかわらも混じっているようで。秀吉はやっぱり派手好みなのですね。
 そんなわけでこの記事の一番上に、豊臣流天守台跡の写真を載せてあります。

☆後編へ続く。

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登呂遺跡巡り その3

2018-11-12 11:46:50 | 静岡大好き
登呂遺跡巡り その1
登呂遺跡巡り その2

の続きです。

 時間は前後しますが、田んぼと神殿を見に行く前にミュージアムショップでお買い物。
 「その1」でも書きましたが、私は20年前にこちらで古代の住居と土器の模型を買ったのですが、どちらも引っ越しで無くなってしまいました。なので出来たらそういうものが欲しいなと。
 それで、ボランティアの方に探して頂くことに。でもなかなか見つからなくてお手数をおかけしてしまいました。
 でも、ありました。古代の住居のキーホルダーが。そして土器の模型も見つけて頂きました。ありがとうございます。
 ただ、20年前に買った住居の模型はかなり大きかったです。今回はキーホルダーだから小さいですが、かわいらしくてかなり気に入りました。
 土器の模型も20年前に買ったものは赤くてとてもきれいだったのですが、今回の土器は色も地味でごつごつしていました。でもこちらの方が手作り感満載で、当時の土器に近いような気がします。
 そんなわけで古代の住居と土器を並べて写真を撮ってみました。うん、色々と妄想できそうです。

 さて、雷が鳴ったのでびっくりして博物館に戻った私たち。しばらく博物館の方とお話しさせて頂きました。
 博物館の方が、
「この際なので何か質問があったらどうぞ」
とおっしゃって。うーん、急に言われても…と思ったとき、卑弥呼のことを尋ねられた方がいらしたのでした。
 そこで博物館の方が卑弥呼と登呂遺跡の関係について、とても興味深いお話をして下さいました。

 まず、卑弥呼は西暦170年頃から248年頃まで生きていた人だということ。
 しかし、登呂遺跡にあった村は卑弥呼が30歳ぐらいの時によそに移り、無くなってしまったのだそうです。 
 ちなみに登呂遺跡にあった村は西暦0年頃から200年頃まで栄えていたとか。
 ということは一見、卑弥呼と登呂遺跡は何も関係ないように思えるのですが。

 実は、登呂遺跡から出土した物と似たような物が、近畿地方のあちらこちらの遺跡で見つかっているのだそうです。つまり交流があったのではないかと。
 で、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説もあることから、邪馬台国は近畿にあったと仮定しての話ですが。
 卑弥呼というのは個人名ではなく、代々世襲されている称号であるという説があるそうです。つまり、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の前にも、、卑弥呼が何人もいたかもしれないと言うことで。。
 実は、卑弥呼がやっていた「鬼道」の占いと似たような占いが、こちら登呂でも行われていたという形跡があるんですって。
 つまり、登呂に卑弥呼の弟子がいたのかもしれないと。わあすごい。

 私はだんなさんの影響で、邪馬台国は九州にあったと思っているのですが、実際、近畿説もあるのですから。それに、遺跡からの出土品によって、近畿説がやや有力になっているとも聞きます。そうなるとひょっとしてひょっとして。
 とにかく、古代史は面白いですね。もっと色々知りたいと思いました。

 こうして3時半過ぎに博物館を出てバス停へ。幸い、雨は降っていませんでした。このように駆け足での登呂遺跡巡りでしたが、とっても楽しかったです。
 何より、だんなさんがいなくなってから、史跡巡りがなかなか出来ない私ですが。以前にも駿府城公園の歴史散策を企画して下さいましたが、今回もこのようなイベントを企画して下さった静岡県視覚障害者情報支援センターさんに大感謝です。ありがとうございました。
 またこのような機会があったらぜひ参加してみたいです。

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登呂遺跡巡り その2

2018-11-11 16:11:17 | 静岡大好き
 登呂遺跡巡り その1

の続きです。

 2階は天井が低く、中腰にならないと歩けません。古代の人たちはこんな所に住んでいたのでしょうか。

 2階の展示品で心惹かれたのはこれ、上の写真の琴です。
 視力が弱いので写真からも何弦の琴なのかはっきり認識できないし、記憶もあやふやなのですが、多分七弦だったのでは。「源氏物語」の末摘花が七弦の琴を愛用していましたよね。「源氏物語」の時代は七弦の琴はすでに過去のものになっていた→末摘花は古風な姫という設定だったような。
 そんなわけで、末摘花の気持ちになって琴に触ってみました。

 そうそう、こちら登呂遺跡からは、2000年前の琴が出土しているのだそうです。出土した琴は日本最古の琴と認定されているそうで。2000年前にも琴が愛用されていたなんて、びっくりです。その頃の人はどのような音楽を奏でていたのでしょう。興味津々。

 時間もあまりなかったので、琴を見たあとは下に降りて皆さんと一緒に火起こし体験へ。
 2000年前は摩擦で火を起こしていたので、体験しても火を起こせるのは10人に1人ぐらいなのだそうです。そこで私たちは、江戸時代後期の火起こしを体験することに。竈のような所で、棒のようなものを上下させて火を起こします。
 こちらも、火をつけられる人は3人に1人ぐらいで。私もやってみましたが、力加減がうまく行かなかったようで、結局、火を起こせませんでした。でも、体験できたのは良かったです。
 ちなみに、火打ち石が使われるようになったのは飛鳥・奈良時代ぐらいからなのだそうです。そして戦国時代ぐらいにマッチのようなものが使われ始めたとか。
 ということは、「源氏物語」の時代は火打ち石だったのね。ひとつ覚えました。

 火起こし体験のあとはミュージアムショップへ。写真添付の関係でどのような物を買ったかは次回に書きます。時間は前後しますが、遺跡見学の方を先に。

 外に出ると田んぼが広がっていてびっくり。こちらでは古代の米、赤米を作っているとか。私も2008年に京都で創作平安王朝料理を頂いたときに、赤米の湯漬けを食べたことがあります。とてもおいしかったです。秋の日帰り京都旅行こちらのページに少し書いてあります。 
 実は午前中から見学するコースなら赤米を食べられるのですが、今回は午後からだったので残念でした。

 田んぼを見ながら歩いていくと、古代の建物に行き着きました。触ってみると私の身長ぐらい(150センチ強)の柱の上に建物が建っています。これが高床式の神殿とのこと。まるで、卑弥呼が占いをやっている神殿のような気がしました。
 そうそう、だんなさんは古代史が大好きで、邪馬台国や卑弥呼に関する本をたくさん持っていました。調べたことを書き付けたりもしていたのですが。そんなだんな三のメモの中に、邪馬台国の候補地の一つとして静岡が上がっていたのを思い出しました。多分、こちら登呂遺跡のことだと思うのですが。でも、だんなさんも言っていましたが、その可能性は限りなく低いような気がします。

 こうして見学していたら突然、大きな雷が鳴ってびっくり。
 じつはこの日の天気予報、午後からにわか雨と雷雨と言っていたのです。で、雨が降ってきたら大変と、博物館に戻ることに。

 次回が最終回ですが、ミュージアムショップで買った物と、博物館の方からうかがった興味深いお話しのことを書きます。

第3回へ続く

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登呂遺跡巡り その1

2018-11-11 11:15:17 | 静岡大好き
 10月20日、静岡県視覚障害者情報支援センターのイベント、登呂遺跡見学に参加してきました。
 全体の写真や建物の写真は残念ながら撮れなかったのですが、部分的な写真を2枚と、ミュージアムショップで買ったお土産の写真を1枚、撮ることが出来ました。記事の頭にしか写真を載せられないので、その関係で全3回になります。ご了承下さい。

 さて、当日は午後1時頃のバスでJR静岡駅を出発。約10分ほどで登呂遺跡入り口に到着しました。
 参加者は支援センターの職員さんやボランティアを含めて30人近くの大所帯。バス停から坂道を上がって博物館に到着。
 博物館のベンチに腰を下ろすと、古代の服が配られました。上からかぶるタイプの服で、ベストみたいな感じです。色も地味で、後世の十二単に比べると天と地の差。
 でも考えてみたら、これは庶民の服だと思うので仕方がありませんよね。
 そんなわけで私も、着ていたTシャツの上から古代の服を着て、古代人になったつもりで体験コーナーに出発。

 体験コーナーは、バーチャルで田植えや稲刈りが出来るコーナーがありました。私は田植えを体験。
 稲の模型を穴にはめていって田植えをしている気分に。上の写真は模型の稲を植えた?ところです。稲の模型がかわいらしくて胸がキュン。

 そのあと、古代のげたをはいて、ぬかるみのようになっている所を歩いてみました。
 古代のげたはものすごく幅が広い板に、足をくぐらせる縄がついているシンプルな物。でも、こんなに幅が広い必要あるのかしら?と思ってそのことを博物館の方に質問したら、
「このくらい幅が広くないと、ぬかるみを歩いたときに沈んでしまうんですよ」
とのこと。なるほど。
 そんなわけで早速体験。幅が広いので、がに股で歩かないと反対側の足にはいたげたを踏んでしまいます。それにぬかるみ(実際はクッションが入ったゴムの上だったのですが)はとても歩きにくくて、とにかく力がいります。私は古代では生きていけないかも。

 あ、登呂遺跡のことをちょっと書いておきますね。 

 登呂遺跡は、静岡市南部にある弥生時代後期の遺跡です。

*以下、静岡市ホームページこちらのページより引用 ーー

昭和18年の軍需工場建設の際、多量の木製品や土器片が出土したため、同年第一次の発掘調査が行なわれました。戦後間もない昭和22年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての学際的発掘調査が行なわれました。発掘調査により東西に長い自然堤防上に、12軒の家、2棟の倉庫、井戸、森林の跡や、南側には水田の広がりが見つかりました。遺跡からは、壺・甕などの土器、石器の狩猟漁撈具、木製の農耕具・機織具・日常生活用具、青銅製装身具など、多種多様な生活に関する道具が出土しています。
 現在、遺跡内には、復元住居や復元倉庫、赤米など米づくりを行っている復元水田が広がっています。遺跡に隣接して「静岡市立登呂博物館」があり、1階は参加体験型展示、2階は登呂遺跡の考古資料の展示がなされています。
 平成11年度より5カ年計画で再度発掘調査が始まり、毎年夏~秋に調査が実施されました。この再発掘調査の成果をもとに平成18年度から登呂遺跡の再整備工事を行い、平成24年度リニューアル・オープンしました。
              ーー引用終了。

 私は小学校の時に社会科見学で初めて、こちらを訪れました。竪穴式住居しか記憶に残っていないのですが。確か、体験コーナーなどは、その頃はなかったのでは。
 そして20年ほど前、だんなさんと一緒に来たことが。でもこの時も、ミュージアムショップしか行っていないと思います。その時、土器と古代の住居の模型を買いました。でもどちらも引っ越しで無くなってしまい、なので、ショップでのお買い物も楽しみ。((o(^-^)o))

 さて、そんなわけで体験コーナーをあとにし、2階に上がってみることにしました。2階には何があるのでしょうか。楽しみです。

第2回へ続く

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家康公と駿府城に思いをはせて ~駿府城歴史探訪

2015-05-28 13:04:32 | 静岡大好き
 5月16日の午後、静岡県視覚障害者情報支援センターさん主催の、駿府城公園史跡探訪のイベントに参加してきました。久しぶりに生の歴史に触れられて楽しい時間を過ごさせていただいたので、こちらでレポートしてみますね。

 参加者は約30名、大多数が私より年上かも?という顔ぶれでした。グループで参加されている方が多かったですが私は一人での参加。

 まず、駿府城のすぐ近くにある静岡県総合社会福祉会館シズウエルの5階の集会室に集合し、史跡ガイドボランティア「駿府ウェイブ」のHさんの駿府城や徳川家康(1542~1616)についてのお話を拝聴。

 私の一番好きな時代は平安時代ですが、戦国時代も大好きですし、徳川家康は地元ゆかりの人物なのでとても興味があります。なのでHさんのお話、興味深く聞かせていただきました。その中から印象に残った事をいくつか書いてみますね。

☆家康公は駿府城を2回、築城した。
 家康公は駿河、遠江、三河の国主だったので浜松を拠点にしていたが、本能寺の変の後に甲斐国も治めるようになった。そのため浜松では西に寄りすぎているということで、天正十三年(1585)に本拠を駿府(今の静岡市)に移して駿府城を築いた。

 その後家康は江戸に移り、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任じられて幕府を開いたが、2年で将軍色を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府に隠居した。その際、駿府城を大規模に修復した。

☆家康公は幼少時代、今川の人質として苦労したというのは間違い。
 今川義元は家康を大事に養育した。家康の学問の師は太原雪斎という、妙心寺で修行した博識な高僧。家康公は雪斎からあらゆる学問を学んだ。
 しかし義元は、実の子氏真には雪斎を学問の師としていない。

 うん、確かに…。Hさんもおっしゃっていましたが、小さいときの悪い思い出や苦しい思い出ばかりの地に晩年になって戻るっていうことはあまりないのでは?家康公は駿府にはかなりいい印象を持っていたのではないかと思います。

☆家康の没年75歳は数え年で、満年齢では73歳と4ヶ月。
 そうそう、家康公は12月生まれでした。
 ちなみに私もこちらで、歴史上の人物の年齢はすべて数え年で書いています。でも、中には家康公のように12月生まれの人もいると思うので、このあたりはちょっと考え直すか、凡例に「年齢は数え年」としっかり書いておくべきなのかも。

 更に、

 今まで私は、駿府城は外堀と内堀の二重構造だと思っていたのですが、内堀の内側にもう一つお堀があったのだそうです。
 そして、一番内側のお堀に囲まれた部分が本丸(天守閣や本丸御殿があった)、その外側が二ノ丸、そして、現在の内堀と外堀に囲まれた部分が三ノ丸だったのだそうです。

 ということは。

 こちらでも何度か書いていますが、私は1995年1月から1997年9月まで、駿府城跡の外堀のすぐ内側にあった住宅地に住んでいました。そのあたりは三ノ丸だったのですね。
 あの頃よく、「私の家はお城の中、外堀のすぐ内側」などと言っていましたが、これからは、「私は駿府城の三ノ丸跡に住んでいました」とストレートに言うことが出来そうで嬉しいです。

 …と1時間ほど家康公や駿府城についてのお話しを聞いたあと、引き続きHさんのガイドでいよいよ駿府城の史跡探訪に出発です。私は慣れていない所は一人では全く歩けないので、誘導のボランティアさんをつけていただきました。感謝です。そんなわけで、ボランティアさんと楽しくおしゃべりしながら散策できました。

この日の天気予報、週間予報でも直前の予報でも雨、なので史跡探訪は出来ないのでは…とほぼあきらめていました。でも、天気予報は見事に外れ。雨は午前中で上がってしまったようです。

 そんなわけで、シズウエルのすぐ近く、北御門から内堀にかかっている橋を渡って二ノ丸跡に入りました。ここでは石垣を見たり触ったりしました。

 ちなみにこの石垣は当時のもの。石垣に使われた石は駿府の近くの山から持ってきたものだそうです。石は船に乗せて運ぶことも多かったそうですが、運んでいる途中に船から落ちた石は落城につながるということで拾わなかったとか。

 で、見た感じはやっぱり「時代を感じる」ということ。
 中には、石垣を作った人の紋章が掘られているものも。私が触った石は丸い形の紋が掘られていました。そして、コケが生えていてちょっとぬるぬるしていました。

 こうして歩いて本丸跡へ。

 まず、駿府城天守閣があった場所に行ってみました。

 実は、駿府城公園には天守閣はありません。駿府城天守閣はものすごく大きかった(江戸城や名古屋城よりも)だそうで、木造で復元すると400億円くらいかかるそうです。
 ただ、現在の名古屋城や大阪城のように鉄筋コンクリートで復元すればかなり安くすむとか。実際、鉄筋コンクリートで天守閣を造れば静岡にたくさんお客さんを呼べるという声もあるそうです。
 でもこれでは、重要文化財にはならないし、鉄筋コンクリートの建物は持ちが良くないとか。それより何より、やはり、当時の様子を伝えるには木造建築でなくては…という声も根強いそうで、天守閣跡には未だに何も建っていません。私も駿府城天守閣が復元されたら見てみたいし建物に入ってみたいなあと思いますが、どちらが良いのかよくわからないです。

 天守閣跡の次は本丸御殿跡へ。

 天守閣に人が住んでいたのは戦国時代まで。従って隠居した家康公が普段住んでいたのは本丸御殿だそうです。こちらには、家康公の銅像と家康公お手植えのミカンの木があります。

 銅像とミカンの木については以前、こちらのページで紹介したことがありました。
*リンク先のページは「駿府公園」となっていますが、2年くらい前に「駿府城公園」という名前に変わったのだそうです。

 せっかくですので、その時の写真を再掲します。(2009年3月撮影)

  


  


 家康公お手植えのミカンについて、Hさんの解説によると

 毎年、12月5日前後に収穫される。
 400年前から品種改良されていないミカンなので、家康公の生きていた時代のミカンの味を堪能できる。粒は小さく、意外と甘い
 だいたい1万個くらい収穫できる。

とのこと。わあ、一度食べてみたい~。

 次に行ったのは二ノ丸水路跡。
 当時、本丸と二ノ丸の間にあったお堀。現在はほとんど残っていないのですが、その痕跡を伝えているのがこちら。橋の上から写真に撮ってみました。

       

 そして次に訪れたのが東御門とそれに続く辰巳櫓。入館料200円を払ってまず、東御門の中に入ります。

 こちらは20年ほど前に木造建築で復元されたもの。私は復元されたばかりの頃、一度訪れたことがあるのですが、中がどうなっていたのか、なぜか記憶があまりないのですよね。

 まず出迎えてくれたのが家康公の銅像。晩年の家康公がモデルのようです。

 ここでも、Hさんが家康公について熱く語って下さいました。今では連絡が取れなくなってしまった家康公好きの某様にお聞かせしたい…という内容でした。
 家康公は日本史上、最も優れた政治家。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、日本と朝鮮の関係は最悪になったのですが、家康公はそれを修復しようとして一生懸命だったこと。確かに家康は秀吉のあとを受けて朝鮮に兵を出そうと考えたこともなかったですものね。海外進出よりもまず、内政ということだったのでしょうね。

 当時の駿府城天守閣の大きな模型も展示してありました。五層の天守閣、中は7階建てになっていたとか。視力の弱い私にも、その立派さが何となくわかりました。どうせなら、家康公歿後400年を記念して小さな模型を作って売り出して欲しいなあ…と思ってしまいました。

 その他、当時の駿府の地図、ひな人形、お茶壷道中など、色々な物が展示されていましたが、一番びっくりしたのは大きな銅製しゃちほこ。
 このしゃちほこは、屋根からお堀に落ちてしまったものが発掘され、こちらに展示されているのだそうです。駿府城の天守閣や建物は長い時間の間に失われてしまいましたが、このしゃちほこは当時のもの。見つけてもらえてほんとに良かったね。
 展示を見ながらHさんの郷土愛あふれる解説を拝聴しました。駿府は当時、人口十万の大都会だったこと。しかし、家康公の歿後、江戸へ流入してしまったこと。その結果、「駿河台」「など、駿府がもとになった地名が江戸の町名として名づけられたこと。うーん、本家はこちらだったのね。

 東御門を一通り見たあと、階段を上がって辰巳櫓へ。
 東御門のことはほとんど記憶がなかったのですが、こちらは見覚えがある~と思いました。
 こちらも櫓というよりは、一つの建物という感じで広くて立派なもの。使われている木も立派。「ああ、2年ちょっとの間だったけれど、こんなすごいお城の中に住めたことはほんとに幸せなことだったんだなあ」と実感しました。

 こうして楽しく、有意義だった駿府城歴史探訪が終わりました。
 近くに住んでいたこともあって当時、このあたりを頻繁に歩き回っていたのですが、解説つきで歩くと色々な発見があって楽しかったです。そして、とてもなつかしかったです。
 更には、家康公と駿府城のすごさについて再認識できた時間でもありました。

 最後になりましたが。

 この歴史探訪を企画して下さった静岡県視覚障害者情報支援センターのDさん、興味深いお話をたくさん聞かせて下さったHさん、親切に誘導して頂、お話相手になって下さった誘導ボランティアのKさん、楽しい時間を共有した参加された皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

 今度駿府城の史跡探訪をすることがあったら、今回行けなかった西側にある門や未申櫓にも生きたいなあ。まだまだ見どころはたくさんあるような気がします。

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駿府城外堀の桜2011

2011-04-09 11:30:18 | 静岡大好き
 今年はなかなか暖かくならず、東日本大震災という大きな災害もあったりして、お花見どころではないという「自粛ムード」もあり、桜の開花のニュースを聞けなくて、少し寂しく思っていました。
 それでも今週になってやっと暖かくなり、「駿府城の桜が満開」というニュースも入ってきましたので、一昨日(4月7日)に静岡に出たついでに写真を撮ってきましたので載せてみます。

 駿府城外堀の桜はほぼ満開でした。中には、もう散りかけている桜の木もあり、地面には花びらがちらほらと落ちていました。

 

 

 

 ピンクの桜の花、とてもきれいです。お天気も良かったので、その点でもラッキーでした。最近、少し暗い気持ちになりがちでしたが、桜を見て元気が出ました。やっぱり、日本人と桜は切っても切れないものなのですね。

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駿府公園の桜

2009-03-29 11:13:21 | 静岡大好き
 昨日3月28日、静岡市にある駿府公園に桜を見に行ってきました。

 駿府公園は、駿府城跡に作られた公園で、天守閣はありませんが、門などはいくつか復元されています。静岡市内に住んでいた頃には時々訪れていたのですが、家を引っ越してからは全く行く機会もなく、今回、約6年ぶりに訪れてみました。久しぶりに歩く公園の中はすっかり整備されていてびっくりしました。

 「駿府公園の桜はほぼ満開」とニュースで報道されていたのですが、ここ2、3日寒かったので、開花がちょっと遅れているようでした。それでも、内堀の近くには満開の桜が咲いていてラッキーでした。

 では、内堀沿いに咲いている桜をご覧下さい。


  


 反対側から。


  


 では、もう一度拡大してみます。


  


 さて、上でも書きましたが、駿府公園は駿府城跡に作られた公園です。駿府城は天正十三年(1585)、室町時代の守護大名、今川氏の居館であった今川館のあった場所に、当時の駿府の領主であった徳川家康によって築城されました。
 家康は天正十八年(1590)、豊臣秀吉の令によって関東に国替えとなり、駿府を去りました。そして、秀吉の死後に関ヶ原合戦に勝利して江戸幕府を開き、征夷大将軍に任じられます。

 しかし家康は、慶長十年(1605)、将軍職を息子の秀忠に譲ってしまいます。そしてその二年後、駿府城を修築して移り住み、「大御所」と呼ばれるようになります。

 このように、駿府城は家康によって築城、改築されたお城なので、家康公ゆかりの城と言っていいと思います。そのため、駿府公園の中には家康の銅像が建っています。

 では、久しぶりに家康公とご対面です。


  


 左手に鷹を、右手には刀のようなものを持っていますね。格好良いです。

 更に、銅像の向かいには「家康公お手植えのミカンの木」があります。これは、家康公自らが植えたと伝えられているミカンの木です。今でも秋になるとミカンが収穫され、地元のニュースでその旨が報道されています。どんな味なのか一度食べてみたいです。


  


 金網でしっかり覆われていますね。これからも、おいしいミカンがたくさん収穫されるよう、大切に守られていくことを祈ります。

 ついでに、家康公の銅像の近くにはこのようなものもありました。


  


 「駿府城本丸跡」の石碑です。このようなものがあったなんて、今まで気がつきませんでした。

 このように、きれいな桜と、地元ゆかりの家康公に触れることができた楽しいひとときを過ごすことができて良かったです。


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安倍川餅

2008-12-27 23:16:20 | 静岡大好き
 うたかた びとのsiroさんのブログつぶやきにて、京都の嵐山で安倍川餅を頂いたという話が紹介されているのを見て久しぶりに食べたくなり、静岡に行っただんなさんに買ってきてもらいました。

 安倍川餅というのは、私の地元、静岡の名物の和菓子で、つきたての餅や湯通しして軟らかくした餅に、きな粉や小豆のあんを混ぜたものです。

 安倍川餅の起源にはこんな話が伝わっています。

 江戸時代初期、徳川家康が安倍川(静岡市の西の方を流れている川。なお、安倍川の近くには現在、JRの安倍川駅という駅もあります。)の近くの茶店に立ち寄ったところ、お店の主人が、安倍川上流で取れた砂金を模してお餅にきな粉を混ぜ、「黄金餅」と称して出したのだそうです。餅を食べた家康は、「これはうまい。黄金餅ではどこの名物かわからないので、安倍川餅と名づけてはどうか?」と言ったとか。そこでこのお餅は「安倍川餅」と名づけられたそうです。

 現在では上でも書いたようにきな粉を混ぜた餅と小豆のあんを混ぜた餅が一般的ですが、最近ではわさびじょう油を混ぜた辛いお餅もあるとか。私はまだ食べたことがありませんが、こちらもいつか食べてみたいです。

 写真は、左の黄色く見えるのがきな粉の餅、右の黒く見えるのが小豆のあんの餅です。どちらも柔らかく、甘くておいしかったのですが、私はどちらかというと小豆のあんの方が好きです。まだ一袋残っているので、近いうちに食べたいと思っています。楽しみ♪

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創作菓子「源氏双柿」

2006-10-09 16:53:05 | 静岡大好き
 友人から、沼津にある老舗の菓子店、光来堂」さんから発売されている「源氏双柿」という創作菓子を頂きました。とてもおいしいお菓子でしたし、名前にも引かれましたので、写真に撮ってみました。

 発売元の光来堂さんは、住所から推察したところ、源頼朝と源義経が初めて対面した黄瀬川の近くにあるようです。なのでこの「源氏」というのは源氏物語の源氏ではなく、頼朝や義経の「源氏」だと思われます。

 写真は、左上が表から見たところ、右下が裏から見たところです。表側に清和源氏のシンボル「笹竜胆」の焼き印があります。裏側のデザインは対面石をイメージしたのかもしれません。こってますね。

食べた感じでは、白あんのようなあん(説明書きを見たところ、寒天が入っているようですが)を、小麦粉とバターと卵で作った布地と、ホワイトチョコレートとあめで作った布地ではさんだもののようです。見た感じもかわいく、何よりも甘くてとてもおいしかったです。

「光来堂」さんについて、詳しくはこちらでどうぞ