平安夢柔話

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管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

杉本苑子の枕草子

2009-09-24 21:01:48 | 図書室2
 今回は古典の現代語訳の本の紹介です。

☆杉本苑子の枕草子(わたしの古典9)
 著者=杉本苑子 発行=集英社

内容(「BOOK」データベースより)
 中宮定子に仕えた清少納言が、後宮の好尚や有り様を記録した『枕草子』は、一人の作家による随想と小説を、一冊にまとめた作品集といっていい。「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎわ…」この冒頭は、あまりにも有名である。にくきもの、心ときめきするもの、見ぐるしきもの等々、清少納言が、その美意識をすみずみにまで生かしきった世界が、いま現代語訳で新たに蘇る。

*この本は初め、「私の古典」シリーズの第9巻として単行本が出版され、その後、集英社文庫から文庫化されましたが、単行本・文庫本ともに現在では絶版のようです。興味を持たれた方、図書館か古書店を当たってみて下さい。
 なお写真は、私が所持している「私の古典」シリーズの単行本です。


 以前に紹介した「円地文子の源氏物語」「阿部光子の更級日記/堤中納言物語」と同じく、私の古典」の中の1冊です。

 私はこの本を20年くらい前に購入しました。そして、折に触れてはぱらぱらとめくって拾い読みし、「枕草子」の世界を少しずつ楽しんでいたのですが、お恥ずかしながら全部読んではいませんでした。今度、最初から最後まで読み通してみたのですが、訳者の主観を交えることなく、清少納言が表現した世界をそのまま再現してくれていて、とてもわかりやすく読みやすい訳だと思いました。

 ただ惜しいことに、この本、全文訳ではありません。面白そうな章段が半分くらい取り上げられているだけです。でも、有名な章段は網羅されているように思えましたので、枕草子ってこういうものなのだ~と、大まかな内容をつかむのには充分な本だと思います。

 特に、歴史小説家の杉本苑子さんらしく、日記的章段と呼ばれる章段の訳に力を入れているような気がしました。
 清少納言が、中宮定子の出産のため、平生昌の邸宅にお供をする話、積善寺供養の話、雪山がいつ消えるか賭をした話などは、一つの物語として楽しく読めました。宮中に出入りする貴族たちの描写の章段も面白いです。私たちは「枕草子」によって、一条天皇御代の宮廷の様子を生き生きと知ることができるのですが、それを杉本さんはそっくりそのまま、この本で伝えてくれています。

 また、「枕草子」には、現代でも通じるようなことがたくさん書いてあると、改めて感心しました。
 特に、「そうそう!」と思ったのは、「うれしきもの」の中にある、「初めて読む物語の一の巻が面白く、続きが読みたいとあこがれていたとき、二の巻が入手できたときの喜び」という文章。よくわかるなあ。そして、そのあとの、「物語が進むに従ってつまらなくなるものもあるけれど」もわかる気がします。千年前の人も現代人と同じ事を考えていたのですね。

 他にも、「そうそう」と思った文章は数え切れないくらいありました。これを機に、ぜひ全文訳のものも読んでみたいと思いました。

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久しぶりのすき焼き

2009-09-20 21:01:12 | えりかの平安な日々 04~09
久しぶりにすき焼きを作りました。

 具は、牛肉、糸こんにゃく、焼き豆腐、しいたけ、白ネギです。たれはみりんとしょうゆと砂糖と水で作りました。暖かくて、味も具にしみていておいしかったです。幸せ~。♪

 子供の頃は、すき焼きのおいしさがわからなくて糸こんにゃくばかり食べていましたが、今では牛肉も豆腐もしいたけも好きです。ネギは少し苦手ですが、何とか食べられます。そんなわけでたくさん食べましたが、やはり余ってしまいました。明日の朝、おかずにしようと思っています。楽しみです。

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昨年の5月31日

2009-09-19 23:00:00 | えりかの平安な日々 04~09
 最近の私の注目のニュースは鳩山内閣の誕生です。政権が交代したこと、問題が山積みなことなどで不安を感じるという声もありますし、その気持ちもわかりますが、記者会見や報道されるニュースなどを見ていると、「今までと何か違うぞ」という感じがして、何となく期待が持てるように思えます。

 それと、今度閣僚になられた方の中に、昨年の5月31日に講演を拝聴し、そのあと、ほんの少しですがお話をさせて頂いた方がいらっしゃるのです。本日はそんなお話を…。

閣僚が決まると、総理大臣が本人に連絡しますよね。それに伴い、呼び出された新閣僚は車で総理官邸に向かう、そして、官邸前で黒塗りの車が止まり、新閣僚が降りてくる、今までの自民党政権でもよく目にした光景です。今回も例に漏れず、そんな光景が報道されました。
 しかし今回、指名された閣僚の中に一人だけ、歩いて官邸に向かった方がいらっしゃるのをご存じでしょうか。そうです、その方、長妻昭厚生労働大臣こそ、私がお会いしたことがある方なのです。

 長妻昭さんというと、「消えた年金」の問題などで国会で鋭い追求をし、「ミスター年金」と呼ばれていた方で、テレビの討論番組にもよく出演されていましたので、私も以前から何となく親しみを持っていましたし、歯切れの良い発言は好感を持っていました。なので、私の住んでいる町に講演に見えられるという情報を仕入れたとき、「行ってみたい」と思ったのです。何しろ田舎の小さな町ですから、テレビでよく拝見する有名人が来ることもめったにないので、こんなチャンスを逃したらもったいないとも思いました。そうです、私はただのミーハーです…。

 そんなわけで、だんなさんも行ってみたいと言ったので、それならだんなさんの両親も誘って、4人で出かけることになりました。
 会場は私の家から歩いて15分くらいの所にある650人ほどが入ることが出来るホールです。しかし、当日は雨になってしまったので、高齢の両親にも配慮し、タクシーで会場に向かうことにしました。

 それで、開演の1時間近く前に行ったのにもかかわらず、会場の席は半分ほど人で埋まっていてびっくりしました。民主党の後援会の役員の方の他、私のようなミーハーな一般市民も多いのかも…と思いました。
 両親は会場の真ん中へんの席に座りましたが、だんなさんが、「前の方が少しあいている」と言ったので、私とだんなさんはせっかくなので前から6列目くらいの席に座りました。

 そしていよいよ開演。私は視力が弱くて顔はよく見えませんので、「わ~、テレビと同じ声をしてる」と感激。お話も良かったです。消えた年金のこと、後期高齢者医療制度の問題点、税金の無駄遣いのことなどを熱く語って下さいました。1時間があっという間でした。

 さて、講演が終わってホールから出ようと思ったのですが、人がいっぱいだったので、「ゆっくり出ればいいよね」ということで、しばらく座席に座っていました。そして、人が少なくなったのを見計らってホールから出てロビーへ…。そうしたら、何と、長妻さんがロビーにいらっしゃるではありませんか。
 やはりちょっとためらいましたが、だんなさんと一緒に近寄ってみました。そうしたら、握手をして下さったのです。有名な方と握手をするなんてめったにないので嬉しかったです。握手をしながらほんの少し、お話もさせて頂きましたが、舞い上がっていたので何を話したのか覚えていません。と言うわけで、何か幸せな気分で帰途につきました。今となってもいい思い出です。

 後日、地元選出の衆議院議員の津川祥吾さん(その頃は時期衆議院候補でしたが)のホームページを拝見したところ、650人入れるホールに座りきれないほどの方にお越し頂いた。」というようなことが書いてありました。どうやら立ち見も出ていたようです。ミーハーな一般市民、やっぱり多いようですが、それと同時に、今の政治に不安と怒りを感じていらっしゃる方も多いのだな…と、ちょっと考えさせられました。

 そんなわけで、長妻さんの厚生労働大臣就任はとても嬉しかったです。長妻大臣には、ぜひ日本を良くしてもらいたい、私も障害を持っているので、障害者でも安心して暮らせる世の中を作って欲しいと強く思います。頑張って欲しいです。

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第51代 平城天皇

2009-09-16 21:11:07 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  774~824
☆在位期間 806~809

☆両親
 父・桓武天皇 母・藤原乙牟漏(藤原良継女)


☆略歴

 諱は安殿親王。桓武天皇の第一皇子。

 延暦五年(786)、早良親王の廃太子ののち、皇太子となり、同七年に元服。しかしこの頃、安殿は重病にかかります。これは、廃太子早良親王や、それ以前、父の桓武天皇がまだ皇太子になる前、山部親王と呼ばれていた時代に廃太子となった多戸親王や、その母井上皇后の怨霊の仕業だと噂されました。そこで桓武天皇はこれらの人物の名誉を回復させ、特に早良親王には「崇道天皇」の称号を送り、安殿親王の健康もようやく回復したようです。

 大同元年(806)、桓武天皇の崩御を受けて即位。同母弟神野親王を皇太弟としました。
 天皇は、官司の統廃合による行財政の改革、観察使の設置による地方政治の充実などに努めました。しかし、次第に健康を損ねるようになり、大同四年(809)四月に神野親王に譲位し(嵯峨天皇)、上皇となりました。

 その後、寵姫藤原薬子・側近の仲成の兄妹は平城上皇の重祚を謀ります。そして、上皇とともに平城京に宮殿を新造し、ここに遷都を図ろうとして翌大同五年九月挙兵(薬子の変)、結局失敗し、仲成は捕らえられて殺され、薬子は自害、上皇は出家します。

 出家した上皇はその後も平城宮に住み、弘仁十二年(821)、空海から灌頂を受けました。そして天長元年(824)崩御、享年五十一歳。

 天皇在位中はなかなか良い政治を行ったようですが、健康を損なったため退位、その後、側近の暴走によって戦いに敗れて出家…。才能はあったようですが不運の天皇という印象を受けます。


☆父方の親族

祖父・光仁天皇 祖母・高野新笠

主なおじ

 多戸親王 早良親王

主なおば

 酒人内親王


☆母方の親族

祖父・藤原良継 祖母・阿倍古美奈

主なおば

 藤原諸姉(藤原百川室) 女(藤原永手室) 女(藤原鷲取室)

主ないとこ

 藤原旅子(母は藤原諸姉 桓武天皇妃 淳和天皇母)


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○神野親王(嵯峨天皇) *大伴親王(淳和天皇) *伊予親王 *葛原親王 *賀陽親王 *万多親王 *仲野親王 *良岑安世

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○高志内親王(淳和天皇妃) *高津内親王(嵯峨天皇妃 *朝原内親王(平城天皇妃) *大宅内親王(平城天皇妃) *伊都内親王(阿保親王妃)
*甘南備内親王 *布勢内親王

主な甥・姪

 仁明天皇・源 融・源 信 正子内親王(淳和天皇皇后)・有智子内親王(初代賀茂斎院)・源 潔姫(藤原良房室) (以上、父は嵯峨天皇)
 恒世親王・恒貞親王・氏子内親王 (以上、父は淳和天皇)
 高棟王・高見王(高望王の父) (以上、父は葛原親王)
 平 茂世(平 貞文の祖父)・班子女王(光孝天皇妃 宇多天皇母)(以上、父は仲野親王)
 僧正遍昭(父は良岑安世)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原帯子(藤原百川女)

 朝原内親王(桓武天皇皇女)

 大宅内親王(桓武天皇皇女)

 藤原薬子(藤原種継女・元藤原縄主室)

 藤原縄主女(母は藤原薬子)*実は、この女性が東宮時代の安殿親王に入内してきたのですが、安殿は彼女に付き添ってきた母、藤原薬子を気に入ってしまい、薬子を寵姫にしたと言われています。

 伊勢継子(伊勢老人女) → 高岳親王 大原内親王

 葛井藤子(葛井道依女) → 阿保親王


☆末裔たち

 平城天皇退位のあとは、弟の神野親王が即位、嵯峨天皇となりました。嵯峨天皇の皇太子には、平城天皇の皇子、高岳親王が立てられましたが、薬子の変で廃太子となってしまいました。その代わりに皇太子に立てられたのが、平城天皇の異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)です。そのようなわけで、平城天皇の子孫は皇位につくことはありませんでした。

 皇位から遠ざけられたためか、平城天皇の二人の皇子、高岳親王と阿保親王は、それぞれ波乱に富んだ人生を送ることとなります。では、彼らの生涯と、その子孫たちについて述べてみたいと思います。

○高岳親王

 延暦18年(799)頃、安殿親王(のちの平城天皇)と、伊勢継子との間に生まれました。

 大同四年(809)4月、父、平城天皇が退位し、その弟の神野親王が嵯峨天皇として即位したため、皇太子に立てられました。高岳親王は大変聡明だったため、平城上皇の強い意向で皇太子に立てられたと言われています。しかし、翌大同五年=弘仁元年九月、薬子の変が勃発。平城上皇側は敗れ、高岳親王は廃太子となってしまいました。

 弘仁十三年(822)、四品に叙されますが間もなく出家し、東大寺(一説には東寺)に入ります。法名を真忠といい、のち真如と改めました。そして、初め道詮に就いて三論を学び、のち空海に就いて密教を学びました。

 斉衡二年(855)五月、東大寺大仏の頭部が落下するという事故が起こります。親王は修理東大寺大仏司検校に任ぜられ、前後七年間にわたってその修理事業を監督。貞観三年(861)三月にその功を終えます。

 貞観四年(862)、入唐の勅許を得て太宰府を出発し、唐に向かうこととなります。 貞観六年、洛陽を経て長安に入り、青竜寺の法全から両部の法を受けました。
 更に天竺への渡行を志し、翌貞観七年正月、三人の従者とともに広州を出発し、海路天竺へ向かいます。その後、一行の消息は不明になったようですが、親王は同じ貞観七年(864)、羅越国(マレー半島南端)で客死したことが後になって伝えられました。

 高岳親王が唐や天竺に向かった真の理由は今になってはわかりませんが、やはり仏教の発祥の地を見てみたかったのかもしれませんね。中途で挫折してしまったことはさぞ無念だっただろうなと拝察されます。

なお、高岳親王は出家する以前に、善淵・安貞の2人のこをもうけていますが、親王出家後に「在原」の姓を賜って臣籍に下りました。

○阿保親王

 延暦十一年(792)、安殿親王(のちの平城天皇)と、葛井藤子との間に生まれました。

 大同五年=弘仁元年(810)、薬子の変で父平城上皇が失脚したためにそれに連座し、太宰府に流され、天長元年(824)、父の崩御によって帰京を許されました。
 その後、天長十年(833)、三品に叙され、治部卿、宮内卿、兵部卿、弾正尹、上野・上総各太守等を歴任しました。

 承和九年(842)七月、春宮坊帯刀伴健岑の謀叛を太皇太后橘嘉智子に密告し、承和の変の発端をつくったと言われます。同年十月薨去、一品を追贈されました。

 高岳親王が仏教一筋に生きたのに対して、阿保親王はあくまでも親王としての出世にこだわったように思えます。父平城天皇の無念を晴らしたかったのでしょうか。

・阿保親王の子孫たち

〈在原氏〉

 天長三年(826)、阿保親王の上表により、彼の子、行平・守平・仲平・業平王が「在原」の姓を賜って臣籍に下りました。(なお、上で書いた高岳親王の子供たちが在原姓を賜ったのはこれより以前のことだそうです。)彼らが臣籍に降下した理由は、薬子の変で失脚した平城上皇系の皇子たちを皇位から遠ざけるためだったと言われています。

 このうち在原行平(818~893)は、文徳朝に須磨に流されたこともあったようですが次第に出世、清和天皇の側近となり、最終的には正三位中納言に昇りました。その娘は清和天皇に入内し貞数親王を産みました。

 阿保親王が、妃である伊都内親王との間にもうけた在原業平(825~880)は六歌仙の一人、平安時代を代表する歌人です。そして、「伊勢物語」の主人公に模擬せられている人物です。

 業平には、棟梁・滋春といった子供がありました。このうち棟梁の娘は大納言藤原国経の室となりますが、のちに左大臣藤原時平の室となり敦忠を産みました。このあたりの経過については、「今昔物語」巻二十二ノ八に、国経宅を訪れた甥の左大臣時平に若い妻(在原棟梁女)を引き出物として奪われた話が掲載されています。敦忠は歌人として知られています。曾祖父業平のDNAを受け継いだのでしょうか。

 また、一説には、業平は斎宮恬子内親王(文徳天皇皇女)と密通して子をもうけたとも言われています。その子は高階茂範の養子となって高階師尚と名乗り、高階家を継ぎました。これが事実だとすると、高階貴子を母とする中関白家の伊周・定子・隆家兄弟、「欲の大弐」と言われた高階成章、成章の玄孫である丹後局高階栄子なども業平の子孫ということになります。

〈大江氏〉

 もとは土師氏でしたが、桓武天皇の時に大枝氏に改め、貞観八年(866)十月十五日、参議大枝音人、散位氏雄らが上表して大枝を大江と改めるよう願い出て許されました。

 この大江音人(811~877)という人物は、阿保親王の子とも孫とも言われていて、出自がはっきりしないようです。私の個人的な考えとしては、彼の811年という出生年から見て、阿保親王の子供ではないかと思うのですが…。音人の母が阿保親王の侍女なので、彼女は阿保親王が太宰府に流される直前に音人を身ごもり、音人は出生後間もなく大枝家に養子に出されたのではないかと思います。あくまでも私の妄想です。

 音人は儒学者として有名ですが、彼の子、子の公幹・玉淵・千里(『句題和歌』作者)・千古はみな詩歌に優れた人物です。子孫からは一条天皇御代の大学者匡衡、その曾孫で漢学者としても知られる匡房がいます。匡房の子孫は、のち、文章道を受け継ぐ北大路家と、源頼朝の側近となって鎌倉に下った広元の子孫の武家政治家系に分かれました。広元のはるか後の子孫には、戦国大名の毛利元就がいます。


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今年の夏

2009-09-11 22:18:48 | えりかの平安な日々 04~09
 皆様、お久しぶりです。

 掲示板で、「近況報告の日記を書きます」と書いてから、10日くらいが経ってしまいました。実は、最近なかなか文章が思いつかなくて、書けないで鋳たのです。なので、思い切ってブログをお休みしてしまいました。もちろん、「系譜から見た平安時代の天皇」の記事をはじめ、平安関連の記事の下書きも全く進んでいません。すみません…。

 さて、最近、朝晩が涼しくなりましたよね。昼間はまだ暑いですが、季節は確実に秋に向かっています。朝晩と昼間の気温の差が激しいので、風邪をひかないようにしないといけませんよね。

 では、色々あったこの夏の出来事を簡単に書いてみますね。

 松本侑子さんのサイン本当選という嬉しい出来事から始まった今年の夏ですが、その直後、掲示板でも書きましたように体調を崩してしまいました。この時は詳しいことは書きませんでしたが、実は私、膀胱炎だったのです。
 私は、まだ小学校に上がるか上がらないかというときに一度かかったことがあり、その時に病院にかかって完全に治したので、ずっと膀胱炎とは縁がありませんでした。ただ、7年前に神経性の膀胱炎の症状が出たことはあるのですが、1ヶ月ほどで自然に治ってしまいました。なので、今回は本当にびっくりしました。

 初めに「おかしい」と思ったのは6月の中頃なのですが、今回も神経性だと思い、あまり気にしませんでした。ところが、7月の中頃に出血をしてしまったのです。しかも、おなかにはひどい違和感がありました。ちょうど出血をした次の日が1ヶ月に一度の病院診察の日だったので、診察してもらうことにしたのでした。やはり思った通り膀胱炎で、抗生物質を処方して頂きました。

 その結果、おなかのひどい違和感はだいぶ良くなったのですが、出血は3日ほど止まりませんでした。お手洗いには1時間おきくらいに行きたくなるし、結構大変でしたが、この時に多分、悪い物が体外に出ていったのでしょうね。ちょうど同窓会の時がこんな状態で、同室の方々には迷惑をかけてしまったのですが…。それでも、体調はだいぶ回復してきていたので、同窓会を楽しむことが出来て良かったです。

 そして、同窓会から帰って2日後、再び病院で検査してもらったところ、出血は治まっていました。でも、おなかにまだ多少の違和感があったので、更に抗生物質をもう4日分、処方してもらいました。そのあとは漢方薬を飲むように言われ、そちらも処方してもらいました。

 こうして膀胱炎は一件落着。ところが、今度は私のパソコンが置いてある机の近くのエアコンが、壊れてしまったのでした。一応、隣の部屋にもう一代、エアコンがあるので、そちらをつけておけば一応、暑さはしのげるのですが、すぐ近くのエアコンがないのはとても不自由でした。しかも、ちょうどエアコンが壊れた頃から本格的な暑さがやって来たので、隣の部屋のエアコンだけでは部屋が涼しくならず、文章を書いていても本を読んでいても、暑くて頭がぼーっとしてしまうという状態でした。

 それで、まだ2年しか使っていないエアコンなので修理をしてもらおうと思い、業者を家に呼ぶことにしたのですが、業者がやってきたのはエアコンが壊れてから1週間後。しかも、修理代が3万円もかかるというので、だんなさんと相談して新しいものを買うことにしたのでした。でも、買ったのはいいものの取り付けまではさらに1週間、待たされました。そして、エアコンの取り付けの日を3日後に控えた8月11日の朝、大きな地震が来たのでした。

 今回の地震は、私が今までに経験した中では一番大きな揺れだったと思います。それでも、食器戸棚からガラスのコップが落ちて割れたくらいですんだのは、不幸中の幸いでした。電気もガスも水道も止まらなかったので、その日はいつもと同じような生活を送ることもできましたし。ただ、ものすごく暑い日でした。近隣の町では、電気や水道が止まったところもあったので、この暑さでは大変だろうなあと思ったものでした。
 また、たくさんの方々からメールや掲示板でお見舞いをいただき、皆様とのつながりに感謝することもできました。その節は本当にありがとうございました。

 地震の日から3日後、予定通り、新しいエアコンが入りました。再び快適に読書やインターネットが出来るようになって感謝。

 そして、18日には衆議院議員の選挙が公示され、世の中が騒がしくなりました。私の住んでいるところは一応、市の中心地なので、ほとんど毎日、候補者の選挙カーが回ってきました。ただ、私の選挙区の立候補者は3人でしたので、市議会議員の選挙に比べればずっと静かでした。

 ところで、私は今回初めて、候補者の出陣式に出席させて頂きました。私とだんなさんは、2003年にこちらに引っ越してきてからずっと、こちらの選挙区のある候補者を応援しているのですが、今回はたまたま、我が家のすぐ近所で出陣式が行われたので、行ってみようということになったのです。
 その候補者は、前回の選挙で落選してしまったのですが、「今回は絶対に小選挙区で勝ち抜く」という意気込みが伝わってきて、いい出陣式だったと思います。
 そして、私たちが応援していた候補者は見事に、小選挙区で当選することが出来ました。なので選挙のあった30日の夜はだんなさんとリンゴ入りのカクテルで祝杯を挙げました。カクテルもおつまみもおいしかったです。

*今回の総選挙については色々コメントしたいこともあるのですが、こればかりは色々な考えがあると思いますし、色々な意見があって当然だと思います。なので、個人的なコメントは控えますが、当選した方々には、少しでも私たちの生活が良くなるよう、頑張って頂きたいと思います。
 それと、自民党政権が半世紀も続いたのですから、急に変えるのはやはり無理だと思うのですよね。なので、あまり結果をあせらず、新内閣の政策を見守っていきたいと思っています。

 さて、昨日までは夜もエアコンをつけていたのですが、今夜はエアコンなしでも大丈夫です。外では虫が鳴いています。色々あった今年の夏もようやく終わろうとしています。私もそろそろ、ブログの更新記事を書かなくては。掲示板でも何回も書いていますが、系譜から見た平安時代の天皇の「平城天皇」の下書きを今度こそ再開しようと思います。相変わらずゆっくりマイペースの更新になると思いますが、これからもよろしくお願いします。

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盛夏の浜松へ もくじ

2009-09-02 23:37:58 | 旅の記録
 このページは、『盛夏の浜松へ(2009年8月4日)』をまとめて読むことができるページです。「旅行記の第1回を読む」→「ブラウザのもドルでこのページに戻る」→「旅行記の第に回を読む」というように、旅行記を順番に読むことができます。

 また、他の旅行記の目次のページにもリンクを貼ってありますので、ご覧になってみて下さい。

1.プロローグ
2.ホテルでランチ
3.石山寺の美展
4.浜松城天守閣への道
5.浜松城天守閣
6.エピローグ



☆日帰り京都旅行2005年夏 もくじ

 2005年8月23日、当時京都文化博物館で開かれていた風俗博物館出張展示を観に行って十二単を体験し、その後、法住寺と三十三間堂を巡りました。


☆京都1泊旅行2006年春 もくじ

 2006年4月6日・7日の京都1泊旅行の旅行記です。1日目には風俗博物館に行き、そのあと下鴨神社で平安装束を体験しました。2日目は京都御所、紫式部の墓、雲林院などを巡りました。


☆掛川城散歩 もくじ

 2006年9月14日、当時放映されていたNHK大河ドラマ「功名が辻」の舞台ともなった掛川城を訪れました。

☆日帰り小旅行 三島編 もくじ
 2007年1月16日、当時三島市の佐野美術館で開かれていた「よみがえる源氏物語絵巻 ー平成復元絵巻のすべて」の展示を見に行き、三島大社を参拝しました。

☆晩秋の京都へ もくじ
 2007年11月24日、風俗博物館に行ったあと、枳殻邸(渉成園)で紅葉を堪能し、西陣・斎院御所跡を訪れました。

☆新緑の京都で装束体験 もくじ
 2008年5月16日、京都文化博物館にて「源氏物語千年紀展」を鑑賞、その後、十二単を体験し、博物館の周りにある平安邸宅の跡を巡りました。

☆秋の日帰り京都旅行 もくじ
 2008年10月24日、午前中に風俗博物館を堪能し、その後、平安神宮へ、そして、京料理のお店「六盛」さんで創作平安王朝料理をいただき、京都文化博物館やポルタで「源氏物語」関連の展示を見学しました。

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エピローグ ~盛夏の浜松へ6

2009-09-02 23:26:29 | 旅の記録
 浜松城天守閣を出ると、こんなものを見つけました。


   


 「浜松城開城440周年」と書かれた看板です。そう言えば今年は、元亀元年(1570)に浜松城が築城されてからちょうど440年目に当たるのですよね。これからもずっと、この地に浜松城を残していって欲しいと強く思いました。

 さて、帰りは浜松市役所に向かって坂道を降りていくことにしました。整備されている道なので下っていくのが楽です。でも、思ったより急な下り坂で、逆にここを登っていくのもそれなりに大変だっただろうなと思ったりしました。25年前に訪れたときは多分、この坂を登って天守閣に行ったのだと思いますが、その頃は若かったので上り坂が全く苦にならなかったのよね。そう考えると「私も年を取ったのね」とついつい思ってしまいます。

 市役所前からバスに乗って駅へ…。疲れて足が痛かったのですが、せっかく浜松に来たのですから、駅前のデパートでウナギのかば焼きを買っていくことにしました。ウナギはカロリーが高いせいかすぐおなかにたまってしまうので、最近はだんなさんと半分ずつ食べられれば充分です。なので、千円のものを一切れ、買っていきました。

 帰りの電車の中ではついつい眠ってしまいました。でも、乗り越すこともなく、無事に最寄りの駅に到着。電車でゆっくりしたせいか、足の痛みが消えていてありがたかったです。

 ウナギを食べながらテレビのニュースを見ていたところ、本日の浜松の最高気温が33度だったことを知りました。暑いわけだ~。
 でも、おいしい物を食べ、石山寺と源氏物語に触れ、浜松城の天守閣に登り…。充実した楽しい浜松への小旅行でした。これからも、近くで「源氏物語」関連の展示や催し物があったら行ってみたいなあ。そして、近場の史跡散策にもまた行ってみたいです。


                   ー 盛夏の浜松へ 終わり ー

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