平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

女人源氏物語

2005-05-30 09:01:17 | 図書室2
 本日は久しぶりに本の紹介をしたいと思います。

 瀬戸内寂聴著 『女人源氏物語』

 私がこの本と出会ったのは約15年ほど前です。題名の通り、『源氏物語』に登場する女君やおつきの侍女たちが語るという、全く新しいスタイルの『源氏物語』です。
購入してきてから、あっという間に全5巻を読んでしまいました。

 この本の良いところは、とにかくわかりやすくて入りやすい所です。この本を読む前に私は円地文子さん訳と与謝野晶子さん訳の『源氏物語』を読んでいたのですが、登場人物の性格や行動などいまいちわかっていなかったところがありました。そんな私でしたが、瀬戸内さんの『女人源氏物語』を読んで、今までぼんやりとしていた部分がはっきり見えたという気がしました。

 例えば藤壺の宮がその良い例です。
 藤壺の宮という人は、原文や現代語訳を読んでもなかなか人物像がつかめない人です。唯一、光源氏と二人で六条御息所の娘(後の秋好中宮)の入内について密談する場面で、「やり手でしたたかな女性なんだな」というイメージを受ける程度でしかなかったのでした。

 しかし彼女は、光源氏の父桐壺院の女御でありながら物語の最初の方で光源氏と密通し彼の子供を身ごもってしまいます。その皇子は桐壺院の皇子として育てられ、その皇子がやがて帝位につく。その後、光源氏と藤壺の宮はそのことに一生苦しむこととなる。さらに光源氏は晩年、降嫁してきた若い女三の宮を柏木という若い男性に密通され、二人の間に生まれた子供を自分の子として抱かなければならなくなったという因果応報が、『源氏物語』の大きなテーマの一つです。なので、藤壺の宮は重要な登場人物なのですが、物語を読んでいると非常に影が薄く感じられます。
おそらく紫式部は、物語の中でも大変身分が高い藤壺の宮(彼女は先帝の皇女で、後に桐壺院の中宮となります。)という女性に配慮し、わざと影を薄くして描いたのでしょう。
なお、光源氏と藤壺の宮の出会いを綴った「かがやく日の宮」という失われた巻があったという説もあるようですが、詳しいことはわからないというのが現状です。

 それはともかくとして、『女人源氏物語』には藤壺の宮の侍女、弁の君の口を通して彼女と光源氏の出会いや心の動きがかなり具体的に描かれています。特に、光源氏が元服して左大臣の娘葵の上と結婚したとき藤壺の宮は、「葵の上さまは私より一つ年下だけなのね。」ということを言ったという記述があります。ここを読んだとき、「そうなんだ!藤壺の宮は葵の上をかなり意識していたのだ」と、まるで目からウロコが落ちるような気がしました。 
 このように、この『女人源氏物語』は「なるほど!」というエピソードが満載です。現代語訳だけでは『源氏物語』があまりよくわからなかったという方には絶対お薦めの本です。

☆単行本
①女人源氏物語 上〔新装愛蔵版〕 瀬戸内 寂聴 著
1999/06 2,940 小学館
②女人源氏物語 下〔新装愛蔵版〕 瀬戸内 寂聴 著
1999/06 2,940 小学館

☆文庫本
①女人源氏物語 1 瀬戸内 寂聴 著
1992 480 集英社
②女人源氏物語 2 瀬戸内 寂聴 著
1992 480 集英社
③女人源氏物語 3 瀬戸内 寂聴 著
1992 460 集英社
④女人源氏物語 4 瀬戸内 寂聴 著
1992 460 集英社
⑤女人源氏物語 5 瀬戸内 寂聴 著
1992 480 集英社

「管理人からのご挨拶」のページに加筆をしました

2005-05-29 00:00:00 | お知らせ・ブログ更新情報
「管理人からのご挨拶」のページの「4.掲示板について」に加筆をしました。

 掲示板に書き込みをする上で気をつけていただきたいことなど、もう少し細かいことや言い足りなかったことをつけ加えました。一度は必ず読んで頂けますよう、よろしくお願いします。

 最近ホームページ巡りをしていると、掲示板に意味のない一言書き込み、宣伝だけの書き込み、あらしのような書き込み、管理人さんが困るだろうなと思われる書き込みが随分見受けられます。被害に遭われた管理人さんには、この場を借りて心よりお見舞い申し上げます。
 私には、そのような書き込みをする方々の気持ちがさっぱりわかりません。掲示板に普通に書き込みをして、みんなの中に入って交流する方がよっぽど楽しいのに、その人たちはどうしてあらしのようなことをするのでしょうか?…。コンピューターウイルスなどもそうですよね。ウイルスなんか作る時間があったら、よほど世の中のためになることをやった方が得だと思います。
最近は世の中、理解に苦しむ行動を取る人がとても多いように思えます。

 とにかく、『掲示板では最低限のルールとマナーを守ること』、『相手に対する思いやりと優しさを忘れないこと』、この二つのことを守っていればそれほど大きな問題は起こらないと思います。
 これからも掲示板で皆様と楽しく交流できることを楽しみにしています。

☆もう一つお知らせ☆
 gooのシステムメンテナンスのため、下記の時間はgooのブログの閲覧、記事の投稿、コメント、トラックバックができなくなります。ご了承下さいませ。

 6月2日(木) 午前1時~午前9時

 gooのブログは、一時は不具合が多かったのですが、スタッフの皆様の努力のおかげで、最近はサーバーがダウンすることもほとんどなく、快適に利用できるようになりました。本当にありがたいです。今回のメンテナンスによって、更に利用しやすくなることを期待しています。


丸くなっているエリカ

2005-05-28 15:14:30 | 猫のお部屋
 ふわくわした感触、指先から伝わってくる暖かいぬくもり…
なでているとやっぱり幸せ。他のものはそんなにも見えないのに、エリカのことは見えてしまうのはどういうわけなのかしら。もしかして、見えないお母さんが子供の様子はよくわかるというのはこういう事なのかしら……と思ってしまいます。私にとっては、エリカは子供と一緒ですものね。

 本日の写真は、丸くなっているエリカです。子猫の頃、よくエリカはテーブルの上やコピー機の上といった、ちょっと高いところでこんな格好をしていました。最近は、四肢を伸ばして体を一杯に伸ばしてのびのびとしているときが多いので、こんな格好をするのは珍しいのですけれど…。だんなさんもそう思ったらしく、丸くなっているエリカを見て急いでシャッターを押したようです。

 ところで、子猫の頃は高いところが大好きだったエリカですが、最近は年を取ったせいかあまり高いところに登ることができなくなってしまい、ちょっと可哀想です。それでも、何か踏み台になるものを見つけるとそれに昇り、高いところ、例えばタンスの上などに飛び移ろうとはしています。そして運良く飛び移ることができると喜んで「ニャー」と鳴きます。
 ところが、いざ下に飛び降りようとすると、これがなかなかできないようなのです。ある時などは、「ニャー!ニャー!」とタンスの上で必死な声を出していたので、つい可哀想になった私は手を伸ばしてエリカを抱き上げ、下に降ろしてあげました。このように、やっぱり甘やかしてしまう私です。

大河ドラマ「義経」第20回&源行家

2005-05-26 20:47:42 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第20回の感想です。

 最後の方に出てきた大姫ちゃんと義高くんがかわいかったですよね♪
2人の子供らしさと無邪気さが、うまく描かれていてほほえましかったです。それだけに、これから二人を襲う悲劇のことを考えると切なくなってしまいました…。

 そして、二人の相手をしているときの義経、何かすごく生き生きしているように思えたのですが…。鬼一法眼から教わったと思われる天狗のまねをしているときなどにそれを感じました。大姫と義高が喜んで、「叔父上は天狗のようじゃ!」と言ったのも当然ですよね。
 でもつっこませていただきますけれど、当時の風潮で考えると、子守と言う役は頼朝の下っ端の郎党や政子の侍女が勤めるのが一般的だと思います。どうして大切な弟に命じるのでしょうか?…。頼朝は、「自分の弟であろうと九郎は御家人としてあつかう。」という考えだったでしょうけれど、それにも常識というものがあると思います。いくら何でもこんな役目をさせるのはいきすぎですし、「史実としてこんなことは無かったのでは?」と、私は思うのですが……。本当のところはどうなのでしょうか。
それに、義経と義高の間に妙な信頼関係ができたら、かえって危険なのではないでしょうか。なので実際は頼朝は、義経と義高を接触させないようにしていたのではないかと思います。

 さて平家に目を向けると、相変わらずひがみっぽい宗盛さん、何とかならないのかなと思います。棟梁というのはもっとでんと構えていなければならないのに、すぐ大きな声を出して怒ったり、自分の考えを押しつけたりしていますよね。清盛なら絶対こんな事はしないのに……とつい思ってしまいます。平家の行く末がとても心配です…。
 ところで、今回出てきた「頼盛殿への融和対策」についてですが、確かにその頃頼盛には、平家一門とは一線を画すような所があったようです。
 頼盛はドラマでも触れられていましたが、平治の乱の時に頼朝の命乞いをした池禅尼の息子に当たります。そのような理由から、「池禅尼が差し出がましい口出しをしなければ頼朝は殺されていたはずだ。つまり頼朝が東国で謀反を起こすこともなかったのだ。」という考えは、宗盛をはじめとする平家一門の誰もが持っていたと思うのです。それで頼盛も、「自分は一門からつまはじきにされている。」と感じる部分もあったとは思います。事実、頼盛は以仁王と源頼政の挙兵に関わったと思われる八条院子内親王の所に、出入りしていた形跡があるのです。
 そのようなわけで、頼盛の娘と宗盛の息子の清宗を結婚させ、頼盛を一門にしっかり取り込まなくては……という融和対策は必要だったと思います。しかし頼盛はこの後、平家一門と全く別行動をすることになるのです。つまり都落ちをしなかったばかりか、頼朝に客人として鎌倉に招かれ、一時東国に下ったりしています。
 でもドラマを観ていると、頼盛が一門から浮き上がっていたことに今まで全く触れられていないため、宗盛・知盛そして時子とのやりとりに緊迫感が感じられませんでした。頼盛と平家一門の微妙な関係が、何かとても唐突なことのように感じられてしまったのは私だけでしょうか。
 例えば後白河院と頼盛が密談している場面なんかが出てきていたら、もっと面白いドラマになっていたと思うのです。後白河院が「そなたには私がついている。頼朝には私が取りなしをしてやる。そなたの母は頼朝の命を助けた池禅尼だから、頼朝はそなたに目をかけてくれるはずだ。」と、頼盛にささやきます。そのため、頼盛も平家一門とは別行動しようとその時決心する…。そのようなシーンをドラマで入れてくれたならば、もっとわかりやすくなったのではないだろうかと思います。もちろん、後白河院と頼盛の密談が実際あったかどうかはわかりませんけれど…。でも同じ虚構でも、弁慶の恋物語やうつぼや五足についてあれほどの時間を割くなら、こちらの方がよほど重要事項だと思うのです。

 さて、今回なぜか私が一番印象に残った人物は行家叔父さんでした。頼朝に相手にされなかった彼は義仲の所に転がり込んだのですね。
 しかも、「都に上ればそなたは源氏の棟梁だ。」と義仲をそそのかしていましたね。元々、平家を倒して都に上ることしか考えていない義仲には、行家叔父さんの言葉は火に油を注ぐようなものだったと思います。
 そして、行家叔父さんは「わしは都の貴族に顔が利く。」という大きなことを言っていましたよね。でも、「本当に顔が利いていたならば、義仲と後白河院・貴族たちの間に入って、義仲の立場が有利になるようにもっとうまくやっていたのではないですか?行家さん。」と、つっこみたくなってしまいました。

 と言うわけで、今回はその行家叔父さんについて少し書いてみます。

 源行家(?~1186)
 源為義の十男。母は熊野別当長快の娘。
 彼の生年は不明ですが為義の八男為朝が1139年頃の出生であること、保元の乱には若年のために出陣していないことから考えて、1144年前後くらいの出生ではないかと私は思っています。つまり、1147年生まれの頼朝とはあまり年齢差がないのです。なお、行家は後に改名した名前で、元服したとき名乗ったのは「義盛」という名前でした。

 さて、義盛は平治の乱に兄の義朝軍の一員として参加しますが、義朝軍は惨敗してしまいます。義朝は息子の朝長・頼朝を連れて東国に敗送しますが、義盛は戦いが終わるか終わらないかのうちに密かに戦場から逃げだし、母の里である熊野に落ち延びます。そして、二十年間熊野に隠れていたと言われています。と言うより、熊野でかくまってもらっていたと言った方がいいかもしれません。
 
 治承四年(1180)4月、義盛は突然源頼政に召し出され、「全国の源氏は平家追討のために立ち上がるように。」という、以仁王の令旨を各地の源氏に伝える重要な役目を仰せつかうこととなりました。その時に八条院蔵人に補されると同時に、名前も「行家」と改名しています。

 翌年自ら尾張、三河の兵を率いて美濃墨俣河畔で平知盛・重衡らの軍と戦って大敗します。その後頼朝を頼りましたが処遇に不満を抱いて離反し、義仲を頼って身を寄せました。

 寿永二年(1183)七月、義仲と共に入京した行家は院の昇殿を許され、従五位下に叙されて備前守に任じられました。しかし、入京してしばらくすると行家は義仲と不和になります。おそらく、都の貴族たちに評判の悪く、後白河院とも不和になっていく義仲を見て、「義仲と組んでいるのは不利だ。」と判断したのだろうと思います。
彼は反義仲の兵を河内・和泉で挙げることとなるのですが、結局それは義仲追討のために上洛してきた義経・範頼軍、つまり頼朝を助けることとなったのでした。
 またそれ以前に、播磨で平重衡と戦って大敗もしています。どうも行家は戦に関しては全く才覚がなかったようです。

 そして平家滅亡後は、頼朝と不和になった義経と結ぶこととなります。兄に義絶され、ほとんど孤立状態になってしまった義経にとっては、行家と結ぶことでしか生きる道がなかったのだと思います。しかし行家にとって大きかったのは、後白河院から義経に出された頼朝追討の院宣だったと思われます。「義経と組めば院が後押ししてくれる。」とでも思っていたのかもしれませんね。
 しかし、頼朝討伐のために船出をした義経と行家でしたが、嵐にあって船が難破してしまいます。そして行家は義経とはぐれ、和泉国に逃れ、そこで潜伏することとなります。しかし文治二年、頼朝方に見つけだされ斬首されました。最後は和泉国の民家に隠れているところを、地元民によって頼朝方に密告されたのだとも言われています。

 こうして行家の生涯を見てみると、どうも人を頼ってばかりで一貫性がないように思えます。乱世のこの時代、力のない者はこのように強い者に頼ることでしか生きられなかったかもしれませんが、逃げ回ったあげくに最後には見つけだされて斬首されるというのも、かなり哀れで空しい人生だなと私には感じられました。

 これから「義経」には、行家はかなり重要な役どころで出演すると思いますが、今後どのような悪あがきをするかかなり期待です。そして19回の放送では行家の甘い誘いに乗らなかった義経が、なぜ彼と手を組むことになるのか、そのあたりをどう描くのかも楽しみにしていようと思います。

 さて来週は、政子の義経いじめが顕著化してくるようですね。優しく従順な性格として描かれている義経は、これにたいしてどのような態度を見せるのでしょうか?……私としては、政子をあまり悪役に描いて欲しくないのですけれど…。何か、回を重ねるごとに嫌な女に見えてきてしまい、とても残念に思えます。
 また、いよいよ、あの有名な義仲と維盛の戦い、倶利伽羅峠の戦いが描かれるようですね。この戦いにより、平家の都落ちが決定的になるのですよね……。
平家の都落ちはとても哀しいシーンですけれど、どのように描かれるのか楽しみです。

我が町について、ちょっと考えたこと

2005-05-23 18:09:25 | えりかの徒然なるままに
 本日は、久しぶりの地元ネタです。

 私の住んでいる静岡県島田市は、今月5日に大井川を挟んだ対岸の榛原郡金谷町と合併し、人口10万弱の新しい市になりました。島田市は更に合併を続けて、将来的には駿河湾に臨む港町を加えての大井川流域市を目指しているようです。
 そして、合併すると当然行われるのが市長選挙と市議会議員選挙ですが、この二つの選挙が昨日告示され、1週間の選挙戦に突入しました。今日も1日中選挙応援の車が我が家の近所にも来ていてにぎやかでした。

 私の家は、駅から歩いて十数分、つまり町中に近いところなのですが、実はかなり不便なところです。と言うのは、島田市の中心部は現在区画整理の真っ最中なので、住宅はかなりの個数が移転し、更に商店も店を閉めていたり、移転してしまったりで、とにかく日用品を買うことのできる店が非常に少ないのです。また、ここ10年の間に市街地にあったたった2店の大型スーパーが2店とも撤退してしまいました。なので、商店街と言っても名ばかりで、歩いている人もまばらで、まるで西部劇のゴーストタウンのようです。
 そのようなわけで、合併してもこの町が今後どのくらい発展するかわかりませんが、選ばれた市長さんや市議会議員の皆様には頑張っていただきたいです。私たち市民は、少しでも住みよい町になるように願っているのですから…。

 これは私の期待ですが、区画整理が完成すれば、また新しい多くの商店もできるでしょうから違ってくると思います。そして来年から町の顔と言うべきJR島田駅の改修工事もはじまるようです。
 また、島田駅から南東に約10㎞ほど行った牧ノ原台地には静岡空港もできるようです。そうなると、島田駅から直通のバスなども開通するのでしょうし、もう少し町も発展するかもしれません。

 ところで、その空港についてですが、この前島田駅前を歩いていたら、「静岡空港を『マウントフジエアポート』と命名するように運動しましょう」という看板が出ていました。でも、ちょっとピント来ないですね…。と言うのは、同じ静岡県でもこのあたりは富士山から80㎞少しと、かなり離れているのです。富士山の麓に空港を創るとしたら「マウントフジエアポート」でもOKだと思うのですが、今回できる空港は「静岡空港」でいいのではないかと思います。それとも、空港のできる土地の地名を採って「牧ノ原空港」とか…。
牧ノ原大地はお茶所静岡県の中でも有数なお茶の産地であり、全国的にも有名なところですから。

 それに、日本国内なのにどうして、「マウントフジエアポート」と言った横文字の名前をつけたがるのでしょうか?先般全国ニュースにも流れて評判になった、愛知県に開港した「セントレア空港」もそうですが…。
そう言えば、セントレア空港の南側にあるいくつかの町を町村合併させて「南セントレア市」を創ろうとしたのですけれど、住民投票で却下された……ということもありましたよね。もし、今度できる空港が「マウントフジエアポート」という名称になり、私の住んでいる町が「北マウントフジ市」になったりしたら、私は嫌ですね。
先にも書いたように、何でも西洋のまねをして横文字にしてしまうのは反対です。もっと日本古来の美しい地名を大切にしてほしいものです。
 私は歴史好きが高じて「駿河」とか「遠江」のような旧国名をよく使ってしまうのですが、そのような古い地名も忘れないでもらいたいものです。県都の静岡市は、合併により準制令になったことにより区を創り、駿河区、葵区、清水区という徳川家康を思い出させるような懐かしい区名を採用しました。私個人的には島田市もこれを見習って欲しいものです。


ハンバーグを作りました♪

2005-05-19 20:03:13 | えりかの平安な日々 04~09
 今日、約1年ぶりにハンバーグを手作りしました。
最近は手抜き料理が多かったので、今日はとても充実した気分です。

 と言っても、私のハンバーグ作りは特に工夫も何もありません。ひき肉に、みじん切りをして炒めた玉ねぎ、パン粉と牛乳の混ぜたもの、そして卵を合わせ、調味料を加えてよく練ります。こうしてできたハンバーグの種をフライパンで焼くのですが、最初は両面を強火で焼き、その後ワインを加えてふたをして蒸し焼きにしました。

 つけ合わせはほうれん草のソテーとにんじんのグラッセ(にんじんを砂糖とバターで煮込んだもの)です。彩りも良く、きれいに仕上がりました。肝心のハンバーグも、食べると肉汁がたっぷり出てとてもおいしかったです。パン粉が余ってしまったので、来週にもまたハンバーグを作ろうと思っています。作るより食べるのが楽しみ♪

☆持田新右ヱ門さんのサイト「よろパラ ~文学歴史の10~」と、Msiさんのブログ「HERE,THERE&EVERYWHERE」をブックマークに追加させていただきました。どちらもとても充実した素敵なサイトですので、ぜひ訪れてみて下さいね。

大河ドラマ「義経」第19回&源範頼

2005-05-18 21:30:04 | 2005年大河ドラマ「義経」
大河ドラマ「義経」第19回の感想です。

 秀衡の家来だった佐藤兄弟について、「秀衡の間者ではないか」という噂が立ち、そのことから義経にまでに疑いがかかっているということを聞いた佐藤兄弟が、「お暇をちょうだいしたい」と義経に言ってきましたね。それを聞いた義経はびっくりして頼朝の所に直訴に行きました。
 でも、要所要所に秀衡をかばうような発言をする義経を見ていて私はとても心配になりました。特に、「秀衡さまは自分から他の領地を攻めるような方ではありません。攻められたときは命をかけて戦いますが。」というような言い方をしたのが気になりました。それなら、もし頼朝が秀衡を攻めたらどうなるのでしょう?
 秀衡は、これから東国で新しい国を作ろうとしている頼朝にとっては油断にならない人物です。衝突することだってあり得ます。実際この時点から8年後、頼朝は奥州藤原氏を攻めるのですから…。
 でも、義経は頼朝と奥州藤原氏の微妙な関係を全然わかっていないようですね。義経が秀衡や佐藤兄弟をかばえばかばうほど、頼朝に疑われてしまうと思います。郎党を信じる一途さはわかりますが、ちょっと考えが甘いような気がしました。
 それと、「こういう噂が立っています。ここはいったん佐藤兄弟を奥州に帰しては……」とか、「秀衡のことをあまり良く言うと、かえって頼朝殿に疑われますぞ。」と義経をいさめる家来が誰一人いないのも気になりました。義経主従はとても結束力が固く、見ていてほほえましい部分はありますけれど、家来全員義経のイエスマンだったことや、武士のことがよくわかっていないことなどが逆に悲劇だったようにも思えます。
 ただ、行家の甘い誘いに乗らなかったことはほっとしました。
 それにしても行家叔父さんの行き当たりばったりは相変わらずですね。あれでは平家に敗れるのも当たり前かも…。

 ところで、久しぶりに義仲が出てきましたね。第12回の放送で初めて彼が登場してきたときは、「なかなか風格があるじゃないの。」と思ったのですけれど、今回見ているとやっぱり田舎侍にしか見えません。
 それから、頼朝と義仲の意識の違いを感じました。東国に武士を中心とする国を作ろうと、着々と準備を進めている頼朝と、あくまでも平家を倒し、都に上れば頭領になれるというようにしか考えられない義仲の違いがよく出ていましたね。
 頼朝が平家討伐を弟たちに任せ、自らは鎌倉を離れなかった理由がわかるような気がしました。頼朝の一番の目的は、自分を頂点に御家人達が国を支配するといった、今までとは全く違う社会を作ることであって、平家を討伐することは二の次だったのかもしれませんね。と言う以上に、平家討伐は後白河院と結ぶための口実に過ぎなかったのだと思います。都の口先だけの貴族たちは無視できても、貴族社会第一の実力者である後白河院は無視できませんから。

 ところで、やっと出てきましたね、範頼さん…。今回の放送を観た限りでは、可もなく不可もなく、あまり特徴のない人物に思えました。でも、義経は、範頼と共に平家と戦うのですから、これから範頼はドラマ中で重要な役割を果たすのだと思います。
 では今回は、源範頼について少し書かせていただきます。


 源範頼 (?~1193)
 源義朝の五男(六男とも)。
 母は、遠江国池田宿(現在の静岡県磐田郡豊田町)の遊女。遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)で生まれ育ったので「蒲冠者」と呼ばれました。

 範頼はいつ頃かはっきりしませんが上洛し、藤原範季の養子となり元服します。範頼の「範」は、範季からもらったものと推定されるようです。範頼の母と範季の間に何らかの関係があったという説もあるようですが、はっきりしたことはわからないようです。この範季は、のちに摂政・関白となる藤原兼実の家司で、しかも後白河院の側近だった人物です。その関係から範頼は、頼朝と都の貴族を結ぶパイプ役のようになっていたとも考えられますが、そのことはのちに述べることにします。

 範頼は、頼朝の挙兵を聞くと義経や全成達と同じように、直ちに兄の下にはせ参じたと思われます。そして寿永二年、(1183)、頼朝の代官として軍勢を率いて上洛、翌寿永三年正月に義仲軍を破ります。
 続いて一ノ谷で平家軍を破り、その功により範頼は従五位下に叙され三河守に任じられました。
 四月に元暦と改元されたその年のうちに、範頼は再び平家討伐の軍を率いて山陽道に攻め込みますが、兵糧不足や平家の巻き返しに苦労しました。
そして翌元暦二年=文治元年、範頼は山陽道から九州肥後国に侵出して、平家方だった大宰少弐原田種直を打ちました。これによって平家は海上に孤立せざるを得なくなります。範頼の果たした役割は非常に大きかったと言えます。
なお、『平家物語』に因ると、元暦元年の暮れに範頼は、平家討伐の絶好の機会であったにもかかわらず、高砂で遊女と遊び戯れていてなかなか出発しなかったということになっています。しかし、実はこの時は兵船不足や兵糧不足で出発できなかったようなのです。どうも『平家物語』は義経を有能で優れた武将に描きたかったためなのか、範頼に関してはかなり冷淡に描いています。しかし、上に書いたように一ノ谷でも功を挙げていますし、平家を海上に孤立させるための貢献もしています。子のような功績もあり、決して無能ではなかったと私は思うのですが。

 平家滅亡後、義経が頼朝から義絶されたのを目にした範頼は、何とか頼朝に疑いを抱かせないように慎重に身を処していたと言われています。しかし範頼は、一時藤原兼実の家司である藤原範季の養子になっていたことから、当然頼朝と都の貴族たちを結ぶパイプ役のようになっていたと考えられます。この時期の頼朝は摂政藤原兼実と結んでおり、都の情報その他はほぼ兼実から得ていました。なので、パイプ役の範頼の果たした役割は大きかったようです。
範頼の死後、頼朝と兼実の関係は急激に冷えていきます。この原因として考えられることに、頼朝の娘大姫の後鳥羽天皇後宮への入内問題が大きく関わっていたのは事実だと(兼実の娘は後鳥羽天皇の中宮でしたので、頼朝の娘に入内されては困るのです。)思われます。けれど範頼が死んでしまったこともまた、大きな原因だったと思われます。

 さて、範頼が失脚する原因になったのは、富士山のすそ野の狩り場で頼朝が死んだという噂が鎌倉に流れ、心配をしている政子に向かって「私がついていますからご心配なく。」と範頼が発した一言だったと言われています。
 このことを聞いた頼朝は、「範頼はわしの後釜をねらっている。」と思いこんでしまったのでしょう。でも私は、範頼が平家討伐に活躍したことと、頼朝と都の貴族を結ぶパイプ役になっていたことが、逆に彼の悲劇になったと思えてなりません。先にも書きましたが、彼が決して無能でなかったことが、頼朝の猜疑心を生んでしまったのだと思います。
また、範頼の妻が有力御家人の安達盛長の娘だったことも、頼朝の猜疑心を生んでいた理由のひとつだと思います。しっかり調べてはいませんが、範頼の周りには徐々に御家人達が集まり始めていたのかもしれませんし…。「御家人たちや、範頼が窓口になっている都の貴族たちが彼を担ぎ出し、今に自分に反旗をひるがえすのではないか……」と、頼朝は疑はじめていたのでしょうね。なので、「私がついております。」の一言を利用して範頼を失脚させたのかもしれません。

 失脚した範頼は伊豆国修善寺(現在の静岡県伊豆市)に幽閉され、その地で斬首されました。何か、のちに同じように修善寺に幽閉されて斬首された彼の甥の頼家を連想させられます。

 ところで、エンディングの歴史紀行で墨俣川の合戦についてを説明していましたが、その中で義円のことがちらっと紹介されていましたね。 義円は義経の同母兄ですので、あそこでちらっと紹介するくらいなら、本編のドラマにも義円その人を登場させて欲しかったです。

 さて次回は、義仲の息子義高が人質として鎌倉に来ることが決定するようですね。 と言うことは義仲の上洛も間もなくということでしょうか。来週も楽しみです。

エリカの誕生日♪

2005-05-15 01:44:01 | 猫のお部屋
わ~い!!私、今日で10歳になったのニャン!!

 今日は、我が家の小さなエリカのお誕生日です。と言うわけで、エリカちゃん、お誕生日おめでとう!!☆これからもずっと元気で長生きしてね。

 写真は、約1ヶ月前に撮ったものです。私が初めてエリカと会ったとき、彼女はこんな格好をしていました。この格好のことを「箱座り」というのだそうです。
本当にかわいい♪

 では、今日は私とエリカの出会いを少し、書かせていただきます。

 私とエリカが初めてあったのは、1995年7月24日のことでした。以前こちらに書いたと思いますが、エリカは生後2ヶ月の時に私たちにもらわれてきたのでした。でも、なぜ私たちが猫をもらうことになったかについては、その約2週間前に時間を戻さなければなりません。

 それは、1995年7月10日頃だったと思います。その頃、だんなさんは県立高校の教員をしており、私たちは駿府城外堀の内にあった教員住宅に住んでいました。
 その日、だんなさんが通勤の途中で、生後2,3ヶ月くらいの子猫を拾ってきたのでした。というのは、静岡市民会館前の広場でこの猫を真ん中にして、小学生の女の子達が困っていたのだそうです。その猫は全く動かず、うずくまっていたとのことでした。なのでだんなさんが、「いいよ、僕が何とかしてあげるからね。」と言って、その猫を背広の内懐に入れて家に引き返して来たというわけです。(おかげでその日は遅刻しそうになって、タクシーで学校に行くことになりました)
 本当にその猫は体が冷たく、ぐったりしていました。鳴き声も「ミュー」とかすかに声を出すだけでした。それで私とだんなさんは、体を温めたり食べ物をあげたりさすったりして、何とか元気にしてあげようとしたのです。そうしたかいもあってか、一時的に少し元気になったのですが、食べ物はほとんど食べませんでした。
ティナと名付けたその猫は、拾ってきて2日後に再びぐったりしてしまいました。
 そこで、私たちはタクシーを呼んで、運転手さんの連れていってくれた動物病院に、ティナを連れて行ったのです。
子猫を見た受け付けの看護婦さんが驚いてすぐに診察室に入れてくれ、すぐに診察してもらいました。医師からは「このまますぐに猫を入院させるように。」と言われました。そして、「とても危険な状態です。1日か2日ほどしか持たないかもしれませんが、覚悟だけはしていて下さい。」とも言われました。
 次の日に病院に行って診察室に入って、少し元気そうになった猫に「ティナ」と呼んでみました。私たちの声を聞いたティナは顔を上げ、私たちの方を見るとよろよろしながら立ち上がって、甘えるような仕草をしたり、点滴のチュウブをかんだりしました。私たちはそんなティナを見て、「何とかなるかもしれないよね。」と少しだけでしたが希望を持ったのです。

 ところがそれから3、4日経った日、私たちは病院でこう言われたのです。
「この猫はいわゆる白血病で、もう助かりません。高額な薬を使うので1日1万円近い治療費もかかりますが、どうしますか?…」
覚悟はしていたもののその瞬間はかなりのショックでした。出会って1週間だけど、情が移ってしまっていたのでしょうね。「ティナ」という可愛い名前もつけていましたし…。それで私たちは、病院の先生に「いくらお金がかかってもかまいません。途中で治療を打ちきらないでください。最後まで面倒を見たい。」と言ったのです。
 すると、今までうずくまっていたティナが突然起きあがって「ニャー」と鳴いて、私たちの所によろけながら歩いてきたのでした。ティナはきっと、私たちのことがわかったのだと思います。この時のティナに、今まで一度も感じたことのない何とも言えない愛しいような、哀しいような、激しい愛情が湧いてきました。
 そして次の日、外出から帰ってきた私たちは、留守番電話から流れてきた「ティナちゃんがなくなりました。」というメッセージを聞きました。病院からの連絡でした。

 ティナが亡くなってしまった! 言葉がなかったです…。

 今、当時のことを思い出すと、もう少しティナと一緒にいてあげたかったなと思います。ティナはおそらく、生まれてすぐに捨てられ、野良猫や野良犬にかまれたり引っかかれたりして病気を移されてしまったのだと思います。何も出来ない小さな体で雨に降られたり、食べ物もなく、寂しい毎日を送ってきたのだと思います。それを考えると私もだんなさんもティナが哀れで、今でも涙があふれてしまいます。
悲しんでいる私たちは医師から、「あなた方に出会えて、暖かい愛情を受けながら治療が受けられて、最後は幸せだったと思いますよ。」と言われました。
そう信じたいです。最後の10日ほどは私たちの愛情を受け、安心して天国に行ったのかもしれないな、と。それだけは幸せだったかも……と、信じたいです。

 ティナが死んでしまったことに、だんなさんはかなりショックだったようです。とにかくティナを拾ってきたのは彼ですから…。それから、「食べ物を無理やり食べさせようとしてティナを怒ってしまい、可哀想なことをした。」とも言っていました。
 そこでだんなさんは「ティなの替わりに猫が欲しい。ティナにしてあげられなかったことをその猫にたくさんしてあげたい。」と言い出したのです。私は大反対しました。「私は猫の世話をする自信はないし、また死んでしまったら可哀想だから。」と言ったのですけれど、うちのだんなさんはかまわずに猫探しを始めてしまいました。

 ちょうどその頃、だんなさんの同僚の先生の家で子猫が3匹生まれていました。そのうち2匹が男の子、1匹が女の子とのことでした。だんなさんがその同僚に「猫を捜している。」という事をはなしたところ、「女の子はすぐに子供を生んでしまうのでいらないのでもらって欲しい。」と言われたとのことで、あっという間に話が決まってしまいました。ティナは女の子でしたので、女の子がもらえるというのはちょうど良かったのです。

 そして1995年7月24日、すでに夏休みになっていたその日、だんなさんは有給休暇を取っていたのですが、その同僚の先生が車で猫を連れて来るというので、私も一緒に猫を引き取りに学校に行くことになりました。実はその日まで、私は猫を飼うことに全く気が進まなかったのですが…。
でも、箱座りをしているその猫を見たとたん、「かわいい!!」と声をあげてしまいました。そんな風に思ったこともどういうわけなのか、未だによくわかりません。
本当に小さくて白いきれいな猫で、目はくりくりしているし、かわいい声で「ニャー」と鳴くし……。一目見て「この猫はエリカだ。」と突然思ったのも不思議です。とにかく私は、この猫に魔法をかけられてしまったようでした。

 ちなみにエリカの誕生日に関しては元の飼い主さんに聞いたところに寄ると、「5月の中頃に生まれたのだけど、はっきりした誕生日はわからない。」ということでした。そこで5月の中頃=15日と、私たちは勝手に決めました。【5・1・5」でわかりやすいですしね。

 そして本日、エリカはめでたく10歳の誕生日を迎えることができました。
猫の10歳というと、人間で言うと50代半ばといった所ですが、幸い病気もなく、食欲旺盛で元気です。とにかく、ほんの2、3ヶ月しか生きられなかったティナの分まで1日でも長く元気で長生きして欲しいです。私たちと一緒にいて欲しいです。
だんなさんは「エリカなんて嫌いだ」と言いながら、エリカが「ギャー」と鳴いて近寄ってくると、膝に乗せて背中をなでながら、ニコニコして嬉しそうにしています。

今日は、エリカの大好物のマグロの缶詰や静岡特産の釜揚げしらすを出して、誕生日のお祝いしてあげようと思っています。
「ハッピー バースデー エリカ!!」

平安時代の女流作家たちの血縁・姻戚関係

2005-05-13 10:06:07 | 系譜あれこれ
 今回は、『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』「更級日記」の作者たちの血縁関係と姻戚関係のお話しです。ちょっと複雑な話になってしまうかもしれませんが、おつき合い頂けると嬉しいです。

 まず『蜻蛉日記』の作者は『更級日記』の作者の伯母に当たります。
『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母は、藤原倫寧という人の娘です。そして、「更級日記」の作者の母は、道綱の母の妹に当たるのです。
 これについては、『蜻蛉日記』の終わりの方に、「父の所で出産のことがあり」という記事が出てきます。この前年に一条の大殿(藤原伊尹)が亡くなったという記事があることから、この出産のあった年は天延元年(973)と推定されます。
 この頃、道綱の母は37、8歳になっています。父の倫寧もかなりの年齢だったと思うのですが、奥様に子供が産まれたのですね…。これって、今の私に突然妹ができるようなものなので、道綱の母もきっと驚いたことでしょう。
 それはともかくとして、この時に産まれた子供が、のちに菅原孝標の妻となり、寛弘五年(1008)に『更級日記』の作者を産むことになるのです。ただ、道綱の母は長徳元年(995)に亡くなっていますので、二人は会うことはなかったのですが…。でも、『更級日記』には明らかに『蜻蛉日記』を意識して書かれた部分があります。物詣でや夢のお告げの記事が多いことなどがそうではないでしょうか。

 さて、『蜻蛉日記』は家族に関する記事が多いことにも目を引きます。その一つに、母の一周忌が済んだあと、姉が国司となった夫と共に遠国に旅立つ記事があります。
 この姉と道綱の母は大変仲が良く、しかも道綱の母は姉をとても頼りにしていたようです。なので、姉が遠国に行ってしまうことは、道綱の母にとっては痛手だったことでしょう。

 ところで、この姉の夫は藤原為雅といい、藤原文範という人の子息です。そして、為雅の兄弟に為信という人がいますが、何とこの方は紫式部の母方の祖父に当たります。つまり、道綱の母の姉は紫式部の大叔母になるわけなのですよね。これは思いがけない発見でした。
 確かに『源氏物語』の六条御息所と葵の上の車争いは、『蜻蛉日記』の道綱の母と時姫の車争いを連想させられます。また、この二つの作品は「女の嫉妬」とか、「女の生き方」など、共通のテーマを持っているような気がするのです。しかも姻戚に当たることから、紫式部はかなり早い時期に『蜻蛉日記』を読んでいたように思えます。紫式部は、『源氏物語』を書くとき、かなり『蜻蛉日記』を意識していたのではないでしょうか。
 ちなみに道綱の母も紫式部の母方も、藤原長良(藤原冬嗣の子息)の子孫なのでお互いに遠い親戚ということにもなります。

 道綱の母と紫式部が姻戚であり遠い親戚だったということは驚きでしたが、実はもう一人、道綱の母と姻戚だった女流作家がいます。
 道綱の母には多くの兄弟姉妹があったようです。先に挙げた為雅の妻もそうですが、歌人として有名な藤原長能もその一人です。彼は、後に大江匡房が著した『続本朝往生伝』の中の「一条天皇御代の優れた人物たち」の「和歌」の部分に名前が載っています。
このように、藤原倫寧の家系は、歌や文学の才能に優れた人が多かったようです。
 そのような兄弟姉妹の一人に、藤原利能という人がいます。そして、この方の妻は清原元輔の娘です。つまり、清少納言の姉に当たります。と言うことは……、道綱の母と清少納言は義理の姉妹になるわけなのですよね。これも驚きでした。清少納言もまた当然『蜻蛉日記』を読んでいたと考えられます。確かに、私小説的な部分を持っているところは、この二つの作品は似ているかもしれません。

 この頃の貴族社会は近親結婚も多く、どこかでつながっていると言えばそれまでなのですが、『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』『更級日記』の作者同士がこうして血縁・姻戚だったというのは面白いなと思いました。
 ついでに、まだつながっている女流作家はいないかと調べてみたのですが、和泉式部や赤染衛門には、彼女たち4人につながる血縁・姻戚関係を見つけることができませんでした。でも、赤染め衛門と和泉式部は紫式部の同僚ですから(二人とも一条天皇中宮彰子の女房)、つながっていると言えばつながっているのですが…。

 このように血縁、姻戚関係のある女性たちが、お互いの作品を読み、色々影響し合って優れた物語や日記を書いていたのですよね。特に、『蜻蛉日記』がのちの物語や日記に及ぼした影響は大きいように思えます。そんなことを考えると興味が尽きないです。

大河ドラマ「義経」第18回&清盛の遺言

2005-05-11 10:24:57 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第18回の感想です。

 今回の見どころはやっぱり渡さんの清盛だと思いました。夢が破れ、無念の死を迎えなければならなかった清盛を熱演していましたよね。
実際にも渡さんは体調が悪く、酸素マスクをつけて演技をしたこともあったとか…。
まさに命をかけた熱演とも言えますね。
 清盛の遺言や、その頃の後白河院との関係については言いたいことがたくさんあるのですが、それらについてはこの文章の後半に書くことにします。その前に、今回の義経くんについて一言、書かせていただきますね。

 清盛が病気になったこと、さらに清盛が亡くなったことを頼朝から聞いたときの義経くん、ものすごく悲しそうな顔をしていましたよね。「頼朝や政子をはじめ、北条家の人たち、御家人達が見ている前でこんな顔をして大丈夫なのかしら…」と私はとても心配でした。だんなさんにいたっては、「こんな表情をするから頼朝に不信感を与えるんだ。そもそも、秀衡の所から、彼の配下の佐藤兄弟を部下として連れてきたことからして、頼朝の不審を買っているというのに!」と言って、私の隣で義経くんの態度にとても憤慨していました。
 確かに清盛は、彼らにとっては敵ですよね。こんな悲しそうな顔をしていたら、「ああ、義経どのはやっぱり平家に未練があるのだな。」とみんなから思われてしまいます…。義経は、「源氏の一員として平家と戦います。」というようなことを頼朝に言っていましたけれど、信用されるはずがありませんよね。悲しいことですけれど…。
 とにかく義経はあまりにも正直すぎます。そこが彼の良い所なのかもしれませんが、腹に一物もっているような頼朝や北条家の皆様とは、相容れぬものがあるのかもしれません。この点も旦那さんに言わせると、「義経は都で貴族ぼけしてしまったのだ。」と、かなり手厳しい評価でした。

 あと、私が気になったのは手古奈の今後です。「京に付いたら吉次を訪ねよ。」というのは、もちろん義経主従の誰かに言われたことなのでしょうけれど、就職口を探してもらっているようですね。先日ネットサーフィンをしている途中で仕入れた情報によると、手古奈は時子の侍女になるとか…。もし時子の侍女になるとするとこれからも出番が多いかもしれませんね。平家のみなさまと一緒に都落ちをするのかもしれませんし、うまく口実を作って鎌倉に舞い戻るのかも…。そうなると、これからの彼女の運命からは目が離せないですし、何となく不思議なものを感じます。

 さて最初にも述べましたが、今回のテーマは清盛の死でしたよね。
清盛の死は治承五年閏二月四日ですが、その約2ヶ月前の一月十四日に、彼の娘婿でもある高倉上皇が崩御されています。予想はしていましたが、ドラマではしっかり無視されていました。そして、この高倉天皇の病気と崩御が、後白河院と平家の仲を決定的に裂くものだったのであったろうと、私は思っているのですが…。

清盛と後白河院の仲が険悪になり始めるのは、やはり建春門院滋子が亡くなったあとからだと思います。その後、鹿ヶ谷事件、治承のクーデター、福原遷都など色々なことがあり、二人の仲は悪くなる一方だったのではないでしょうか。しかし、後白河院の皇子であり、清盛の娘婿である高倉上皇の存在のおかげで、決定的に対立してしまうまでには行かなかったのかもしれません。
 しかし治承四年暮れに高倉天皇が重態に陥ると、清盛と院の間はもうどうにもならなくなってきます。そこで提案されたのが、高倉上皇の中宮であった徳子を、上皇が崩御された後に後白河院の後宮に入れるという話でした。多分、このことを提案したのは策士の時忠でしょう。
 しかし徳子は、「私はそんなの絶対いや!!」と断固として拒んだといいます。
そこで、その代わりとして清盛と厳島神社の巫女との間に生まれた娘を院の後宮に入れたのですが、それによって二人の険悪な仲が解消されたという話は聞きません。
 やがて高倉上皇は崩御され、清盛は突然の熱病にかかったわけですが、実は福原から京に戻ってのち清盛の発病までに、このようなことが起こっていたのです。
今回のドラマでは、これらのことをすべてカットしていました。こうした院と清盛の対立や周りの人たちの緊迫した雰囲気などについて触れていたら、もっと面白いドラマになったと思うのですが、残念です。

 院と清盛の対立についての話はこのくらいにして、清盛の遺言について少し書いてみますね。

 ドラマの中で、熱病にかかった清盛は、「今後のことは宗盛に任せる。」と言っていましたが、これはある程度史実のようです。そのことを後白河院に伝えたこと、後白河院に足元を見られて無視されたことも、藤原兼実の日記『玉葉』に書かれているようです。怒った清盛は「このあとの天下のことはすべて宗盛が号令する。」と再び言ってのけたのだそうです。このあたり、清盛の不屈の精神を感じます。でも、何とも頼りない宗盛に天下と平家の行く末を任せざるを得なかった清盛は、やっぱり心残りだっただろうなと私は思います。

 一方、ドラマの中で時子が捏造した「わしの供養はいらぬ。それよりも伊豆の頼朝の首をはねて墓前に供えるように。」という遺言ですが、この遺言の出典は『平家物語』からのものです。
 『平家物語』巻六、「入道死去」の段に載っているこの話を要約します。
治承四年閏二月二日、時子の、「いよいよ頼りなくなってまいりました。何か言いたいことがございましたら、今のうちに…」という問いかけに、清盛自身は、「わしが死んでも供養はいらぬ。伊豆の頼朝の首を墓前に供えてくれ。」と言ったというものでした。本文はそのあと、「罪深きこと」というような表現で結ばれています。
 しかし私には、水がお湯になって蒸発してしまうほどの高熱にうなされていた清盛が、亡くなる2日前にこのような遺言をするのはちょっと考えにくいという気がしてならないのです。そうなるとこの遺言は、やはり誰かの捏造だったのか、或いは都の人たちの噂から出てきた話なのかもしれません。清盛は、「源氏と和平してはならぬ。」とかねてから言っていたようなので、それに尾ひれがついてこのような話になったとも考えられます。
 今回のドラマでこの遺言を時子の捏造としたのは、「これから平家一門の中心になっていくのは時子だ。」ということを、視聴者に印象づけるという意味がこめられていたのかなと思いました。確かにあのせりふを言っているときの時子さん、まるで尼将軍のようでしたものね。これからの苛酷な運命を時子がどのように乗り越えていくのか、そのあたりをこのドラマでどう描くのか、楽しみでもあり不安でもあります。
どうもこのドラマでは、政子と巴と千鳥が同じような感じの女性に描かれているというように、女性の描き方がパターン化していますから…。

 さて、来週はいよいよ範頼が登場するようですね。範頼がどのようなキャラクターに描かれるのか、頼朝が彼をどのように迎えるのか楽しみです。
 来週もつっこみを入れながら必ず見ます。