大河ドラマ「義経」第18回の感想です。
今回の見どころはやっぱり渡さんの清盛だと思いました。夢が破れ、無念の死を迎えなければならなかった清盛を熱演していましたよね。
実際にも渡さんは体調が悪く、酸素マスクをつけて演技をしたこともあったとか…。
まさに命をかけた熱演とも言えますね。
清盛の遺言や、その頃の後白河院との関係については言いたいことがたくさんあるのですが、それらについてはこの文章の後半に書くことにします。その前に、今回の義経くんについて一言、書かせていただきますね。
清盛が病気になったこと、さらに清盛が亡くなったことを頼朝から聞いたときの義経くん、ものすごく悲しそうな顔をしていましたよね。「頼朝や政子をはじめ、北条家の人たち、御家人達が見ている前でこんな顔をして大丈夫なのかしら…」と私はとても心配でした。だんなさんにいたっては、「こんな表情をするから頼朝に不信感を与えるんだ。そもそも、秀衡の所から、彼の配下の佐藤兄弟を部下として連れてきたことからして、頼朝の不審を買っているというのに!」と言って、私の隣で義経くんの態度にとても憤慨していました。
確かに清盛は、彼らにとっては敵ですよね。こんな悲しそうな顔をしていたら、「ああ、義経どのはやっぱり平家に未練があるのだな。」とみんなから思われてしまいます…。義経は、「源氏の一員として平家と戦います。」というようなことを頼朝に言っていましたけれど、信用されるはずがありませんよね。悲しいことですけれど…。
とにかく義経はあまりにも正直すぎます。そこが彼の良い所なのかもしれませんが、腹に一物もっているような頼朝や北条家の皆様とは、相容れぬものがあるのかもしれません。この点も旦那さんに言わせると、「義経は都で貴族ぼけしてしまったのだ。」と、かなり手厳しい評価でした。
あと、私が気になったのは手古奈の今後です。「京に付いたら吉次を訪ねよ。」というのは、もちろん義経主従の誰かに言われたことなのでしょうけれど、就職口を探してもらっているようですね。先日ネットサーフィンをしている途中で仕入れた情報によると、手古奈は時子の侍女になるとか…。もし時子の侍女になるとするとこれからも出番が多いかもしれませんね。平家のみなさまと一緒に都落ちをするのかもしれませんし、うまく口実を作って鎌倉に舞い戻るのかも…。そうなると、これからの彼女の運命からは目が離せないですし、何となく不思議なものを感じます。
さて最初にも述べましたが、今回のテーマは清盛の死でしたよね。
清盛の死は治承五年閏二月四日ですが、その約2ヶ月前の一月十四日に、彼の娘婿でもある高倉上皇が崩御されています。予想はしていましたが、ドラマではしっかり無視されていました。そして、この高倉天皇の病気と崩御が、後白河院と平家の仲を決定的に裂くものだったのであったろうと、私は思っているのですが…。
清盛と後白河院の仲が険悪になり始めるのは、やはり建春門院滋子が亡くなったあとからだと思います。その後、鹿ヶ谷事件、治承のクーデター、福原遷都など色々なことがあり、二人の仲は悪くなる一方だったのではないでしょうか。しかし、後白河院の皇子であり、清盛の娘婿である高倉上皇の存在のおかげで、決定的に対立してしまうまでには行かなかったのかもしれません。
しかし治承四年暮れに高倉天皇が重態に陥ると、清盛と院の間はもうどうにもならなくなってきます。そこで提案されたのが、高倉上皇の中宮であった徳子を、上皇が崩御された後に後白河院の後宮に入れるという話でした。多分、このことを提案したのは策士の時忠でしょう。
しかし徳子は、「私はそんなの絶対いや!!」と断固として拒んだといいます。
そこで、その代わりとして清盛と厳島神社の巫女との間に生まれた娘を院の後宮に入れたのですが、それによって二人の険悪な仲が解消されたという話は聞きません。
やがて高倉上皇は崩御され、清盛は突然の熱病にかかったわけですが、実は福原から京に戻ってのち清盛の発病までに、このようなことが起こっていたのです。
今回のドラマでは、これらのことをすべてカットしていました。こうした院と清盛の対立や周りの人たちの緊迫した雰囲気などについて触れていたら、もっと面白いドラマになったと思うのですが、残念です。
院と清盛の対立についての話はこのくらいにして、清盛の遺言について少し書いてみますね。
ドラマの中で、熱病にかかった清盛は、「今後のことは宗盛に任せる。」と言っていましたが、これはある程度史実のようです。そのことを後白河院に伝えたこと、後白河院に足元を見られて無視されたことも、藤原兼実の日記『玉葉』に書かれているようです。怒った清盛は「このあとの天下のことはすべて宗盛が号令する。」と再び言ってのけたのだそうです。このあたり、清盛の不屈の精神を感じます。でも、何とも頼りない宗盛に天下と平家の行く末を任せざるを得なかった清盛は、やっぱり心残りだっただろうなと私は思います。
一方、ドラマの中で時子が捏造した「わしの供養はいらぬ。それよりも伊豆の頼朝の首をはねて墓前に供えるように。」という遺言ですが、この遺言の出典は『平家物語』からのものです。
『平家物語』巻六、「入道死去」の段に載っているこの話を要約します。
治承四年閏二月二日、時子の、「いよいよ頼りなくなってまいりました。何か言いたいことがございましたら、今のうちに…」という問いかけに、清盛自身は、「わしが死んでも供養はいらぬ。伊豆の頼朝の首を墓前に供えてくれ。」と言ったというものでした。本文はそのあと、「罪深きこと」というような表現で結ばれています。
しかし私には、水がお湯になって蒸発してしまうほどの高熱にうなされていた清盛が、亡くなる2日前にこのような遺言をするのはちょっと考えにくいという気がしてならないのです。そうなるとこの遺言は、やはり誰かの捏造だったのか、或いは都の人たちの噂から出てきた話なのかもしれません。清盛は、「源氏と和平してはならぬ。」とかねてから言っていたようなので、それに尾ひれがついてこのような話になったとも考えられます。
今回のドラマでこの遺言を時子の捏造としたのは、「これから平家一門の中心になっていくのは時子だ。」ということを、視聴者に印象づけるという意味がこめられていたのかなと思いました。確かにあのせりふを言っているときの時子さん、まるで尼将軍のようでしたものね。これからの苛酷な運命を時子がどのように乗り越えていくのか、そのあたりをこのドラマでどう描くのか、楽しみでもあり不安でもあります。
どうもこのドラマでは、政子と巴と千鳥が同じような感じの女性に描かれているというように、女性の描き方がパターン化していますから…。
さて、来週はいよいよ範頼が登場するようですね。範頼がどのようなキャラクターに描かれるのか、頼朝が彼をどのように迎えるのか楽しみです。
来週もつっこみを入れながら必ず見ます。
今回の見どころはやっぱり渡さんの清盛だと思いました。夢が破れ、無念の死を迎えなければならなかった清盛を熱演していましたよね。
実際にも渡さんは体調が悪く、酸素マスクをつけて演技をしたこともあったとか…。
まさに命をかけた熱演とも言えますね。
清盛の遺言や、その頃の後白河院との関係については言いたいことがたくさんあるのですが、それらについてはこの文章の後半に書くことにします。その前に、今回の義経くんについて一言、書かせていただきますね。
清盛が病気になったこと、さらに清盛が亡くなったことを頼朝から聞いたときの義経くん、ものすごく悲しそうな顔をしていましたよね。「頼朝や政子をはじめ、北条家の人たち、御家人達が見ている前でこんな顔をして大丈夫なのかしら…」と私はとても心配でした。だんなさんにいたっては、「こんな表情をするから頼朝に不信感を与えるんだ。そもそも、秀衡の所から、彼の配下の佐藤兄弟を部下として連れてきたことからして、頼朝の不審を買っているというのに!」と言って、私の隣で義経くんの態度にとても憤慨していました。
確かに清盛は、彼らにとっては敵ですよね。こんな悲しそうな顔をしていたら、「ああ、義経どのはやっぱり平家に未練があるのだな。」とみんなから思われてしまいます…。義経は、「源氏の一員として平家と戦います。」というようなことを頼朝に言っていましたけれど、信用されるはずがありませんよね。悲しいことですけれど…。
とにかく義経はあまりにも正直すぎます。そこが彼の良い所なのかもしれませんが、腹に一物もっているような頼朝や北条家の皆様とは、相容れぬものがあるのかもしれません。この点も旦那さんに言わせると、「義経は都で貴族ぼけしてしまったのだ。」と、かなり手厳しい評価でした。
あと、私が気になったのは手古奈の今後です。「京に付いたら吉次を訪ねよ。」というのは、もちろん義経主従の誰かに言われたことなのでしょうけれど、就職口を探してもらっているようですね。先日ネットサーフィンをしている途中で仕入れた情報によると、手古奈は時子の侍女になるとか…。もし時子の侍女になるとするとこれからも出番が多いかもしれませんね。平家のみなさまと一緒に都落ちをするのかもしれませんし、うまく口実を作って鎌倉に舞い戻るのかも…。そうなると、これからの彼女の運命からは目が離せないですし、何となく不思議なものを感じます。
さて最初にも述べましたが、今回のテーマは清盛の死でしたよね。
清盛の死は治承五年閏二月四日ですが、その約2ヶ月前の一月十四日に、彼の娘婿でもある高倉上皇が崩御されています。予想はしていましたが、ドラマではしっかり無視されていました。そして、この高倉天皇の病気と崩御が、後白河院と平家の仲を決定的に裂くものだったのであったろうと、私は思っているのですが…。
清盛と後白河院の仲が険悪になり始めるのは、やはり建春門院滋子が亡くなったあとからだと思います。その後、鹿ヶ谷事件、治承のクーデター、福原遷都など色々なことがあり、二人の仲は悪くなる一方だったのではないでしょうか。しかし、後白河院の皇子であり、清盛の娘婿である高倉上皇の存在のおかげで、決定的に対立してしまうまでには行かなかったのかもしれません。
しかし治承四年暮れに高倉天皇が重態に陥ると、清盛と院の間はもうどうにもならなくなってきます。そこで提案されたのが、高倉上皇の中宮であった徳子を、上皇が崩御された後に後白河院の後宮に入れるという話でした。多分、このことを提案したのは策士の時忠でしょう。
しかし徳子は、「私はそんなの絶対いや!!」と断固として拒んだといいます。
そこで、その代わりとして清盛と厳島神社の巫女との間に生まれた娘を院の後宮に入れたのですが、それによって二人の険悪な仲が解消されたという話は聞きません。
やがて高倉上皇は崩御され、清盛は突然の熱病にかかったわけですが、実は福原から京に戻ってのち清盛の発病までに、このようなことが起こっていたのです。
今回のドラマでは、これらのことをすべてカットしていました。こうした院と清盛の対立や周りの人たちの緊迫した雰囲気などについて触れていたら、もっと面白いドラマになったと思うのですが、残念です。
院と清盛の対立についての話はこのくらいにして、清盛の遺言について少し書いてみますね。
ドラマの中で、熱病にかかった清盛は、「今後のことは宗盛に任せる。」と言っていましたが、これはある程度史実のようです。そのことを後白河院に伝えたこと、後白河院に足元を見られて無視されたことも、藤原兼実の日記『玉葉』に書かれているようです。怒った清盛は「このあとの天下のことはすべて宗盛が号令する。」と再び言ってのけたのだそうです。このあたり、清盛の不屈の精神を感じます。でも、何とも頼りない宗盛に天下と平家の行く末を任せざるを得なかった清盛は、やっぱり心残りだっただろうなと私は思います。
一方、ドラマの中で時子が捏造した「わしの供養はいらぬ。それよりも伊豆の頼朝の首をはねて墓前に供えるように。」という遺言ですが、この遺言の出典は『平家物語』からのものです。
『平家物語』巻六、「入道死去」の段に載っているこの話を要約します。
治承四年閏二月二日、時子の、「いよいよ頼りなくなってまいりました。何か言いたいことがございましたら、今のうちに…」という問いかけに、清盛自身は、「わしが死んでも供養はいらぬ。伊豆の頼朝の首を墓前に供えてくれ。」と言ったというものでした。本文はそのあと、「罪深きこと」というような表現で結ばれています。
しかし私には、水がお湯になって蒸発してしまうほどの高熱にうなされていた清盛が、亡くなる2日前にこのような遺言をするのはちょっと考えにくいという気がしてならないのです。そうなるとこの遺言は、やはり誰かの捏造だったのか、或いは都の人たちの噂から出てきた話なのかもしれません。清盛は、「源氏と和平してはならぬ。」とかねてから言っていたようなので、それに尾ひれがついてこのような話になったとも考えられます。
今回のドラマでこの遺言を時子の捏造としたのは、「これから平家一門の中心になっていくのは時子だ。」ということを、視聴者に印象づけるという意味がこめられていたのかなと思いました。確かにあのせりふを言っているときの時子さん、まるで尼将軍のようでしたものね。これからの苛酷な運命を時子がどのように乗り越えていくのか、そのあたりをこのドラマでどう描くのか、楽しみでもあり不安でもあります。
どうもこのドラマでは、政子と巴と千鳥が同じような感じの女性に描かれているというように、女性の描き方がパターン化していますから…。
さて、来週はいよいよ範頼が登場するようですね。範頼がどのようなキャラクターに描かれるのか、頼朝が彼をどのように迎えるのか楽しみです。
来週もつっこみを入れながら必ず見ます。