平安夢柔話

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勝手に考察? 百人一緒の紫式部はなぜ桃色の袿を着ているのか

2014-03-03 19:48:12 | 歴史雑記帳
 本日はちょっと考察&妄想をしてみました。

 もう2ヶ月以上前のことなのですが、平安時代好きの友人と電話でお話をしているとき、百人一緒の紫式部はどうして桃色の袿を着ているのか?という話になりました。

 百人一緒というのは京都の時雨殿で売られている高さ2センチほどの百人一首の歌人たちの人形で、私は紫式部を含めて6体持っています。


       


 それで私が思いついたこと。

ももといふ 名もあるものを 時のまに 散る桜にも 思ひおとさじ

歌の意味。
 ももの名は百年(ももとせ)にも通じるだろう。百年添い遂げよう。うつろいやすい桜より軽んじたり、私はしないよ。(山本淳子著「私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り」より引用。

 この歌は、紫式部の夫、藤原宣孝が紫式部に向けて詠んだ歌です。この歌から、紫式部の幼名は「もも」と言ったのではないか?と考証されている研究者もいらっしゃるそうです。
 なので紫式部は桃色の袿を着ているのかなと、私は勝手に思ったのでした。
なお、友人の話によると、かさねの色目の「桃」も表が淡紅で裏が萌黄なので、紫式部の人形が着ている袿も桃かさねなのでは?ということでした。
 いずれにしても、紫式部の幼名が「もも」だったらかわいらしくて素敵♪と思いました。

 ところで、私が所持している百人一緒6体のうち、3体が姫なのですが、紫式部以外のお二人、清少納言と大弐三位藤原賢子はいわゆる十二単姿で裳もしっかりつけているのです。
 他の2人が十二単姿なのに、どうして紫式部は略装の袿姿なのか、こちらも勝手に考察してみました。そこで思いついたのは、歌が詠まれた時期によるのではということです。

大弐三位

       

清少納言

       

 清少納言の後ろ姿

      

*あまりうまく撮れていなくてすみません。

 百人一首に採られた紫式部の歌

 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな

 この歌は紫式部が娘時代に、久しぶりに会った女友達に向けて詠まれたものです。
 つまりこの歌を詠んだ時期の紫式部は、中級貴族ながら姫さまとしてかしずかれていたわけです。
 平安時代は、姫さまは普段は袿などの略装で、おつきの女房は十二単などの正装を着ていました。十二単のことを「女房装束」というのはこういうところから来ています。

 それに対して清少納言の

 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

は清少納言が定子中宮に女房として仕えていた時期に宮中にて、藤原行成に向けて詠まれた歌ですし。大弐三位の

 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

は詠んだ時期、誰に向けて詠まれたものなのかは不明ながら、大弐三位は少女の頃から女房として宮仕えし、その後、後冷泉天皇の乳母となって出世したことから宮仕えの時期に詠まれたのは確実だと思います。

 もちろん、百人一緒は専門の先生がしっかり監修なさっていると思われるので、私の考察は勘違いかもしれませんが、こうしてちょっと妄想してみるのもいいかなと思って書いてみました。

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