平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

結婚記念日のお食事

2007-04-29 19:30:01 | えりかの平安な日々 04~09
 今日は、私とだんなさんの結婚記念日です。20年前の今日、私たちは式を挙げました。あれから20年も経ったなんて信じられないです。なお、私たちの結婚の経緯については「こちらの記事」をご覧下さい。

 考えてみると、この20年間、色々なことがあったなあ。
 最初の数年は私も働いていたので、家事と仕事で忙しかったです。でも、その頃から歴史に興味を持ち始めていたので、本も夢中になって読んでいました。
 12年前、だんなさんが教職に就いたことによって静岡市内に引っ越したのを機に仕事を辞めたのですが、その頃から視力が落ち始めたことで新しい土地で苦労したりしました。でも、あの頃はのんきで楽しかったです。

 そして5年前、だんなさんが病気で倒れて仕事を辞めざるを得なくなったときはどうなるかと思いました。でも、それを乗り越えたから今があるわけで、20年間一緒にいられて良かったです。これからも色々あるかもしれないし、けんかもするかもしれないけれど、仲良くやっていきたいなと思っています。

 さて、上の写真は今夜の夕食のとろろ汁です。山芋をすり下ろし、さばの似たものと煮汁を加えてすり鉢ですりました。さばは私が煮たのですが、山芋はだんなさんがすり下ろしてくれました。出来上がったとろろ汁を暖かいご飯にかけていただきました。おいしかったです。(^_^)


 ところで、食べ物の話ばかりで恐縮なのですが、 昨日の夜、結婚20年を記念して、1日早いお祝いをしてきました。例によって近所のいつもの洋食屋さんのディナーを食べてきたのです。すごくおいしかったので、メニューをこちらで紹介しますね。ただ、写真を撮り忘れてしまったので文章だけでの紹介となります。すみません…。

☆たことわかめのサラダ ごまドレッシング
 たこ、わかめ、レタス、きゅうりなどをごまドレッシングであえたサラダ。たこやわかめが野菜にマッチしておいしかったです。ドレッシングも美味でした。

 サラダを食べているときに白ワインが運ばれてきました。そこで、二人で乾杯。

☆えびのマヨネーズ炒め
 文字通り、えびや白菜をマヨネーズ仕立てのソースで焼いたもの。だんなさんはえびが苦手なので、えびはほとんど私がもらってしまいました。

☆ソーセージのレタス巻き コンソメスープ仕立て
 ソーセージをレタスやほうれん草で巻き、コンソメスープで煮込んだもののようです。だんなさんはソーセージが好きなので大喜び。私はソーセージはちょっと苦手なのですが、こちらのお料理はおいしく食べられました。それにしても私たちって、本当に好きな物が違うのですよね~。

 この「ソーセージのレタス巻き」を食べているとき、だんなさんが、「フライドポテトが食べたい」と言ったので、コースにはなかったのですが追加注文をしました。

☆牛肉の四川にんにく辛子炒め
 牛肉、ピーマン、たけのこ、キャベツなどを辛子にんにくソースで炒めたもの。ほんのりと辛くておいしかったです。牛肉も柔らかくて美味でした。

 こちらの料理とほぼ同時にフライドポテトが運ばれてきました。スパイスがきいており、揚げ加減もちょうど良くておいしかったです(^^)

☆ビーフンのねぎ塩焼き
 ビーフンとねぎと肉が入っていました。さっぱりとしておいしかったです。たくさん食べておなか一杯になっていたのですが、細いビーフンは軽くて、すんなりとおなかの中に入っていきました。

☆デザート 自家製ソフトクリーム
 ソフトクリームにチョコレートがかけてあるものが器に入っていました。ほどよい甘さでおいしかったです。(^_^)

 このように、サラダあり、焼き物あり、煮込みありとバラエティーに富んでいました。野菜もたくさん入っていたのでバランスも良さそうです。満足です♪
 今度は、7月のだんなさんの誕生日にまた、ディナーを食べに行きたいです。

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藤原実定 ~激動の時代を生き抜いた風流人

2007-04-25 12:19:06 | 歴史人物伝
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞのこれる 」

 「百人一首」の81番目の歌です。情景がぱっと浮かんでくるような風流な歌ですよね。歌の意味は、「ほととぎすの鳴き声がしたのでそちらの方を見てみましたが、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月がはかなく輝いていました。」ということでしょうか。

 ほととぎすは夏の訪れを告げる鳥、そして有明の月は明け方にはかなく輝く月…。つまり、この歌が詠まれたのは初夏の明け方ということになります。一瞬の間鳴いていたほととぎすと、はかない有明の月のコントラストが胸に迫ってきます。そして、明け方というと夜を一緒に過ごした恋人が別れる時刻、この歌からはそんな切なさも伝わってくるような気がします。

 このような風流でありながら、ちょっと切ない歌を詠んだ後徳大寺左大臣、藤原実定という人はいったいどのような人だったのでしょうか?

 彼は、先日UPした藤原多子の兄に当たる人です。それではまず、プロフィールから書いてみますね。

☆藤原実定(1139~1191)
 父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
 
 父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。

 そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。

 長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130~1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。

 実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。

 さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れずで要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。

 こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。

 しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。

 こうして彼の生涯を見てみると、乱世を要領よく生き抜き、最終的には左大臣という朝廷の実力者にのし上がったと言えそうです。世捨て人のような生活をしていた妹の多子にとっては頼もしいお兄さんだったであろうことが想像されます。『平家物語』巻五『月見』の項では、新都福原から京に戻り、多子のもとを訪れた実定が、多子や女房たちと月見をしながら昔語りをする様子が描かれていますが、多子が兄の訪れを喜んでいる様子が伝わってきます。

 ただ、よくわからないのは彼の性格や実像です。

 彼については説話文学に様々な逸話が描かれていますが、どうも権力者にこびたり昇進運動に躍起になったりするといったあまり良くないイメージがあります。実際彼は、平清盛の盟友で、大富豪として知られた藤原邦綱の婿になろうとして清盛に制止され、世の中の失笑を買ったようです。でも、考えてみるとこの時代は激動の時代、古い秩序が壊れ、新しい芽が吹き出して来るという時代でした。そんな時代だからこそ、権力者にある程度こびることは必要なことだったかもしれません。
 実は実定は、不遇なおじの俊成に皇太后宮大夫を譲るなどの優しい面もありました。また、和歌、今様、管絃など各種の文化に優れ、俊成・定家親子だけでなく、西行、源頼政、待宵の小侍従など階級を問わず、交際範囲も広かったようです。なかなか面倒見の良いところもあったのかもしれませんね。

 ところで、実定が40歳を過ぎた頃になると、あれほどの栄華を極めた平家は没落し、源氏に追われて西海に滅び去っていきました。壇ノ浦で救われ、京に戻って落飾された建礼門院平ら徳子(高倉天皇中宮・安徳天皇母)を後白河院が大原に訪ねたのは文治二年(1186)の春のことでした。実定もその際、院に供奉して大原を訪れました。墨染めの衣姿の女院と対面し、実定も哀れに思ったのでしょうか。彼は庵室の柱に次のような歌を書きました。

 いにしへは 月にたとへし 君なれど その光なき 深山辺の里
 
 「昔はまるで月の光のように輝いていましたのに、今ではその面影もございません。こんな山里でこのようなお姿を拝見しようとは夢にも思いませんでした。」という意味でしょうか。世の移り変わりの早さを女院の姿と重ね合わせた歌とも言えそうです。

 実定が「百人一首」にとられているほととぎすと有明の月の歌を詠んだのは、50歳頃のことなのだそうです。激動の時代を生き抜いてきた彼の人生を、はかないほととぎすの鳴き声と有明の月に重ね合わせたのでしょうか。彼は要領の良い政治家である前に、自然と文化を愛する風流人だったような気がします。

☆参考文献
 『平安時代史事典』 角田文衞 監修 角川学芸出版
 『平家物語を知る事典』 日下力 鈴木彰 出口久徳 東京堂出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫

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トップ画像のこと&言い訳

2007-04-19 16:18:57 | えりかの平安な日々 04~09
 二日前にトップページの画像を更新しましたが、記事の更新は1週間ぶりです。でも、歴史記事ではなく日記です…。

 そのトップページ画像なのですが、先週の土曜日に、隣町のパソコンショップに行く途中で見つけたつつじの花です。この日はよく晴れた良い天気で、とても暖かい日でした。でも、「つつじは5月の花なのに早すぎる~」と思いましたが…。
 それでも花はとってもきれいだったので、携帯電話のカメラで写真を撮りました。その写真をトップに載せてみました。

 ところで、先週の土曜日はとても暖かかったのに、ここ2、3日は寒いですね。まるで季節が逆戻りしてしまったようです。昨日は、静岡市に住んでいる友人の家に行ってきたのですが、冬用のハーフコートを着ていきました。それでもちょうど良かったです。真夏日になったと思ったら冬に逆戻りだなんて、やっぱり今年は天候がおかしい…。体調には気をつけなくては。

 さて、この先は言い訳です。

 現在、先日UPした藤原多子のお兄様、藤原実定についての記事を準備中です。ただ、掲示板No575にも書いたのですが、実定さんの実像がなかなかつかめなくて手間取っています。ついでに彼の経歴を書くのにも手間取っています。当初は、金曜日までに下書きを書き終え、週末にUPしようと思っていたのですがどうやら無理そうです。

 その上、今週末はちょっと忙しくなりそうなのです。

 実は私の20年間使っていた洋服だんすが壊れてしまったため(引き出しの部分がゆがんでしまい、うまく開けられなくなってしまったのです)、新しいたんすを購入しました。
 そのタンスが日曜日に届くので、その前に部屋の模様替えをしなくてはなりません。新しいたんすは今までのものより一回り大きいので、荷物を色々入れ替えないと部屋に入りそうもないのです。たんすが届いたあとも、洋服を整理したり入れ替えたりしなくてはなりませんし。そのため、今週末はあまりパソコンの前に座ることができないと思います。

 そのようなわけですので、実定さんの記事は来週以降までお待ちいただけますと嬉しいです。
 まだまだ紹介したい人物や系譜、本はたくさんあるのですが、あせらずにゆっくりやっていきたいと思います。とにかく、「サイトやブログを長く続ける秘訣はマイペースが一番」と自分に言い聞かせ、これからも気楽に行きます。
   
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藤原多子 ~「二代の后」と呼ばれた不運の女性

2007-04-12 16:13:40 | 歴史人物伝
 3ヶ月ほど前にUPした「(女朱)子内親王」について調べているとき、「それでは(女朱)子内親王と入れ替わるようにして二条天皇の後宮に入った藤原多子(ふじわらのまさるこ)の立場はどうだったのだろうか」と、改めて興味を持ちました。そこで、「二代の后」と呼ばれた藤原多子について、調べてみることにしました。


 では、はじめに彼女のプロフィールからどうぞ。

☆藤原多子(1140~1201)
 父・藤原公能(閑院流藤原氏)
 母・藤原豪子(藤原俊忠の女)
 同母兄には、百人一首の歌人としても知られる後徳大寺左大臣藤原実定がいます。さらに、やはり百人一首の歌人である藤原俊成は母方のおじに当たります。

 多子は幼い頃より父方のおば幸子の夫、藤原頼長(1120~1156)の養女となっていました。頼長は美しいこの姪を早くから后候補と考えていたようですが、多子が11歳の時にそれを実行します。

 これより先、久安四年(1148)、多子は従三位に叙せられ、久安六年(1150)正月、近衛天皇(1139~1155) 在位1141~1155)に入内し、やがて皇后に立てられます。しかし、そのことが歴史に波紋をもたらすことになるのです。

 多子の養父藤原頼長は、関白を務めた藤原忠実の男です。頼長には藤原忠通(1097~1064)という兄があったのですが、忠実はこのときすでに隠居し、関白と氏の長者は忠通に譲っていました。
 ところが忠実は、頼長の学識と才能を愛し、「摂関家の権威復興のためにこの子に摂関を譲りたい」と考えていたようなのです。これには忠通は面白くありません。そこで忠通は頼長に対抗する一つの手段として、同じ久安六年に美福門院の養女となっていた藤原呈子を自分の養女とし、近衛天皇に入内させ、中宮に冊立したのでした。このことや、これからお話しすることなどにより、兄弟の仲はますます険悪になったことは言うまでもありません。(ちなみに多子入内当時の頼長の官位は従一位左大臣)

 多子の入内が終わると、忠実は忠通に「関白を辞し、頼長に譲るように」と命じたのですが、もちろん忠通はこれには応じませんでした。激怒した忠実は、忠通の藤原氏の氏の長者を取り上げ、頼長を氏の長者とします。
 さらに翌七年正月、忠実の奏請によって頼長は内覧の宣旨を被ります。普通、摂関・氏の長者・内覧はセットになっており、一人の人物が任じられていたのですが、忠実はこれを強引に二つに分け、摂関は忠通に、氏の長者と内覧は頼長に…というようにしたわけです。

 こうした不穏な情勢の中にあって忠通は、陰湿な策謀をめぐらして忠実・頼長父子の失勢を図ることとなります。仁平元年(1151)六月、近衛天皇の里内裏の四条東洞院殿は焼亡し、天皇は小六条殿に遷幸したのですが、これも十月には炎上してしまいます。ともに不審火によるものでしたが、これにより近衛天皇は忠通の近衛殿を御所とするようになります。
 近衛殿が御所では、頼長の養女である多子は天皇に近づくことすらできませんでした。これは、結果的には皇后多子を天皇より遠ざける忠通の陰謀であったと考えられます。ようやく愛情が芽生え始めたと思われる天皇と多子は、政治の力によって引き裂かれてしまったのでした。

 さらに困ったことに、頼長は人の言うことには決して耳を貸さないところがあり、次第に人望を失っていきました。そのあたりも忠通にいいように利用されたようです。頼長は次第に、当時院政を行っていた鳥羽上皇の信任も失っていきます。

 久寿二年(1155)、元々体の弱かった近衛天皇が世を去ります。わずか17歳の若さでした。天皇が崩御したとき、多子はどんな思いだったのでしょうか。

 ところが、多子は悲しんでいる暇はありませんでした。「天皇が崩御したのは、忠実・頼長による呪詛のためだ!」という噂が広まったのです。この噂は、忠通が意図的に流したものと言われています。しかし、近衛天皇の両親、鳥羽上皇と美福門院は噂を信じて激怒し、頼長は失脚してしまいます。
 そして翌保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御すると勃発したのが保元の乱でした。この乱は朝廷内の勢力争いの他、忠通と頼長の兄弟争いにも因を発していたことは言うまでもありません。その結果頼長は破れ、あえない最期を遂げてしまいます。

 夫の死に続く養父の死…。まだ17歳の多子にはあまりにも重い現実でした。彼女は近衛天皇の崩御後は里第の近衛河原に隠居していたのですが、この年の十月に皇太后、保元三年には太皇太后に進みます。しかし、彼女の心は晴れることはなかったのではないかと思います。
 このように、まだ二十歳になるかならないかの年で、彼女は世間から離れ、目立たないようにひっそりと生活するようになります。しかし、彼女の美貌の噂はまだ、世の中の評判となっていました。そしてそのことが、彼女を思わぬ運命に引き寄せることとなるのです。

 保元三年(1158)、近衛天皇の後を受けて即位していた後白河天皇(近衛天皇の異母兄)が退位し、その皇子守仁親王が二条天皇(1143~1165 在位1158~1165)として踐祚します。この二条天皇が、先々帝の皇后だった多子の美貌の噂を聞き、「ぜひわが後宮に…」と言ってきたのでした。

 これを聞いて多子はどう思ったのでしょう?「平家物語」によると、多子は全く気が進まず、最初は断ったようです。
 しかし二条天皇はあきらめませんでした。「妃として後宮に入内するように」と宣旨を下したのです。宣旨が下ったからには従うよりほかはありません。
 そこで多子の実父の公能は、多子に入内するようにと説得します。公能にとっては、「もし多子が帝の寵愛を受けて皇子でも生めば、この私は帝の外祖父になれるかもしれない」と野心満々だったのでしょう。そこで多子は、しぶしぶ入内を承知します。

 天皇の皇后だった女性がもう一度入内する…、これは前代未聞のことでした。入内を承知したものの、多子は全く気が進まず、それどころか恥ずかしくてたまりませんでした。「ああ、故近衛院が崩御されたとき、私もあとを追うか、出家してしまえば良かった…」と哀しく思ったようです。 時に永暦元年(1160)正月のことでした。

 この多子の入内は、二条天皇の後宮や、父後白河上皇との関係に波紋をもたらすこととなります。
  
 実はこれ以前から、二条天皇と後白河上皇の親子の仲はあまりうまく行っていませんでした。二人は天皇親政か、院政かをめぐって対立していたのです。
 しかも二条天皇は強い性格の持ち主で、思ったことは何でもやり遂げるというところがありました。多子を入内させたこともその一つの表れですが、実はこれには、皇后である(女朱)子内親王を遠ざけようという思わくもあったようなのです。

 拙掲示板No436でいつきのじじいさんから教えていただいたことなのですが(いつきのじじいさん、ありがとうございました)、最近の研究によると(女朱)子内親王は後白河上皇の同母姉、上西門院統子内親王の養子になっており、二条天皇と(女朱)子内親王の婚姻は後白河の権威を強めるために行われたようなのです。同母の兄弟姉妹の結びつきが強かったこの時代、上西門院のバックにいるのは言うまでもなく後白河上皇です。つまり、(女朱)子内親王は後白河上皇派の人であったことが考えられます。
 後年、(女朱)子内親王の死を聞いた後白河上皇は、「そんなに悪かったならなぜ早く知らせてくれなかったのだ。病気と聞いていればお見舞いに行ったのに」と残念がっています。つまり後白河上皇は、折に触れて(女朱)子内親王に気を遣っていたことがうかがえます。

 それらのことを考えると、二条天皇は後白河上皇派の(女朱)子内親王をうとんじており、それに対抗すべく多子に求婚したのでは…という想像もできると思います。それはともかく、多子の入内によって(女朱)子内親王は心身の健康を損ね、やがて二条天皇の許を去っていきました。そして多子を入内させたことにより、後白河上皇が激怒し、父子の仲はますます険悪になったことも十分に考えられます。

 本人には何も責任がないのに、なぜか周りの人に波紋をもたらす……、多子はそんな女性だったようです。彼女は「二代の后」とあだ名され、そのことで周りから陰口を言われたこともあったでしょうし、自分が後宮に入ったことで不幸になってしまった人たちのことにも気がついていたかもしれません。でもどうすることもできませんでした。そこであるいは、自分の美貌を呪ったかもしれません。彼女もまた、運命にもてあそばれた不運の女性と言えそうです。

 二条天皇の後宮には后妃が多く、従って多子も決して幸福ではなかったようです。そして永万二年(1165)、二条天皇は23歳の若さで崩御します。
 再び一人になった多子は近衛河原に戻り、今度こそ意を決して落飾します。

 多子は建仁元年(1201)十二月に62歳で世を去るのですが、彼女の晩年については史料は何も語っていません。わずかに「平家物語」巻五「月見」の項で消息が知られる程度です。

 福原に都移りした治承四年(1180)、藤原実定はある日、京の旧都に戻り、妹の多子のいる近衛河原を訪れます。そして、多子や女房たちと一晩、しみじみと昔語りをしたのでした。
 その時多子は兄とどんな話をしたのでしょうか?近衛天皇とのはかない思い出だったのか、保元の乱前後の悲しみの日々の思い出だったのか、はたまた「二代の后」と呼ばれた二条天皇の後宮の思い出だったのか…、今では知るすべもありませんが、私はこの場面の多子を思い浮かべるとき、何か安らいだ表情が目に浮かぶのです。
 妖艶な美貌の持ち主で、書・絵・琴・琵琶の名手として知られた彼女は、落飾して初めて、心の平安を得られたのではないか…、そんな気がします。

 (女朱)子内親王は「高松院」、藤原呈子は「九条院」という女院号を授かり、優遇措置を受けていたのですが、多子にはなぜか女院号が授けられることはついにありませんでした。でも彼女は案外、「私は女院号なんていりませんのよ。」とほくそ笑んでいたのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『歴代皇后総覧 歴史と旅特別増刊 秋田書店
 『平家物語 ー日本古典文庫13』 中山義秀訳 河出書房新社

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エリカは狩猟が好きだった?

2007-04-06 09:52:26 | 猫のお部屋
「エリカちゃん、ママの所においで。」
「いや!パパの足下がいいニャン!」

 …というわけで、久しぶりに我が家の小さなエリカの登場です。写真は、だんなさんの足下で甘えているところです。だんなさんのはいているスリッパに体をすり寄せています。目がくりくりしていてかわいいです~。(^^)

 なお、だんなさんは最近、転職をしたため忙しく、写真のUPを手伝ってもらえる時間がとれません。そのため本日も、わたしでも簡単にUPできる携帯電話からの写真です。小さくてすみません。
 それと、エリカは決して、私に甘えるのをいつも嫌がっているわけではありません。私の所にすり寄ってくることももちろんあります。要するに気まぐれなのです。

 さて、このあとはエリカに関するあれこれを書いてみますね。

 私とだんなさんは、平成7年の正月から約2年半、静岡市の駿府城跡の外堀の内側にあった県の職員住宅に住んでいました。その住宅は、築45年くらいのものすごく古い住宅でした。ただ、内側はそれほど汚れておらず、何よりも周りが静かでしたので、それほど不快感を感じずに生活していました。

 ところが、引っ越してから2ヶ月程たったある日から、お風呂場に置いてあった石けんが次々となくなるようになったのです。はじめは、「おかしいなあ、確かここに置いてあったはずなのに…。私の勘違いだったのかしら?」と思ったのですが、このことが何度も何度も続くとさすがの私も「もしかして泥棒でも…」と心配になり、だんなさんに相談してみたのでした。

 するとだんなさんの言うことには、「それはきっとネズミだ」だったのです。その時はじめて私は、「ネズミは石けんを食べる」という事実を知りました。そこでお風呂場に石けんを置いておくときは、必ずケースの中に入れ、ふたをするようにしよう…と思ったのですが、ついつい忘れてしまい、またネズミに食べられてしまうということもよくありました。こうして、引っ越してから半年間の間に、石けんが何個なくなったことか…。

 ところが、その年の夏にエリカが我が家にもらわれてきてから、石けんがなくなることが全くなくなったのでした。それでやっぱり、犯人はネズミだったのだということを実感しました。多分、猫のにおいがするので、ネズミ達はお風呂場に入ってこなくなったのでしょうね。

 ところで、当時のエリカ、まだ本当に小さくてかわいい顔をしていたのに、どうしてどうして、狩猟をすることも多かったです。よく縁の下にもぐっていましたが、多分獲物を追いかけ回して遊んでいたのだと思います。それで、獲物を捕ってきて私たちに見せに来たこともあります。

 ある時、私が居間でぼーっとしていると、突然、「チュウチュウ」という変な声が聞こえたのでふと横を見ると、エリカがネズミを転がして遊んでいるではありませんか。びっくりしました。
 こういう時は猫を怒るのではなく、ほめてあげなくてはいけない。猫は自分の捕った物を飼い主に見せに来たのだから…ということが猫の飼い方の本に書いてありましたので、最初、私もエリカの頭をなでてあげました。そして、エリカに気がつかれないようにそっとネズミを紙で包み、ふたの閉まるゴミ箱に捨てました。
 また、ムカデを捕まえてきたことも何度かあります。と言うように、エリカはこの家に住んでいたとき、結構狩猟を楽しんでいたようです。

 ところが、次に引っ越した家は縁の下に入ることができませんでしたので、エリカははえやかを時々追いかけ回して遊ぶ程度になりました。時にはクモを捕まえたりもしていましたが、狩猟をすることはめっきり少なくなってしまいました。そして今の家でも、エリカはほとんど狩猟をしません。その点ではすっかりおとなしくなってしまいました。

 ところが最近、隣にある母屋のお風呂場で珍現象が起こっているのです。つまり、石けんが次々となくなっているのです。私もだんなさんも母屋のお風呂を使わせてもらっているのですが、最初私は、石けんが排水溝に流れてしまったのではと思ったのでした。しかし、次々と石けんがなくなっていくので、「もしかするとネズミでは…」と思い始めています。エリカは母屋に時々遊びには行きますが、お風呂場の戸はいつも閉まっているので入ったことはないと思うのですよね。つまり、お風呂場は猫のにおいがしないわけです。

 と言うわけで、一度エリカをお風呂場に連れて行ってみようかなと思っている今日この頃です。でも当のエリカ、「私はもう狩猟はしないのよ」という顔をして甘えています。もしお風呂場でネズミと遭遇したら、エリカはどんな態度を取るのでしょうか。狩猟本能が目覚めるか、それとも何もせずにぼーっとしているか…。それはエリカ次第なのですが…。

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優勝!

2007-04-03 17:10:57 | えりかの平安な日々 04~09
 よろしければ昨日の日記もご覧下さいませ。

 タイトルの通り、常葉菊川、やりました!!6対5で勝って優勝です!(^^)

 決勝戦に出られただけでも嬉しいのに、優勝だなんて、まだ信じられません。昨日も書きましたが、25年間高校野球ファンをやっていて、地元の高校が優勝したのははじめてなのですから…。高校野球ファンをやっていて本当に良かったです。

 でも、決して安心して見ていられる試合ではありませんでした。決勝戦に出てきただけあって、相手の大垣日大も素晴らしいチームで、終始押され気味でした。特に、6回に1点入れられて3対5になったときは、「ちょっと無理かもしれない」とも一瞬思いました。それに、常葉菊川は今までは表の攻撃を取っていて、出来るだけ早く自分たちのペースに…という感じだったのに、今日の決勝戦は表の攻撃が取れなかったのですよね。多分、じゃんけんに負けて裏の攻撃になってしまったのでしょうけれど…。その結果大垣日大に先行され、リズムを崩してしまったのかなと思ったり…。

 それと、エリカが押し入れの2階の箱の中に入ったきり、出てこないのも不気味でした。

 そんなもやもやを吹き飛ばすかのような8回裏の逆転劇は見事でした。逆転した瞬間、涙が出てきましたよ…。試合が終わったときは優勝したのが信じられず、しばらくぼーっとしてしまいました。何度も書くようですが、とにかく嬉しいです。

 考えてみると、常葉菊川が今まで戦ってきた相手はすべて、優勝候補か甲子園の常連校なのですよね。特に、今大会No1ピッチャーと言われた仙台育英の佐藤投手に勝ち、今大会NO1バッターと言われた大阪桐蔭の中田選手を押さえて勝ち上がったのですからたいしたものです。試合のあと、今大会の常葉菊川の戦いぶりをまとめたVTRが流れていましたが、1試合ごとに違った選手が活躍している、つまり典型的な全員野球のチームなのですよね。何かとてもさわやかなイメージを受けました。

 それと、先にも書きましたが、決勝戦の相手の大垣日大も素晴らしいチームだったと思います。こちらも全員野球のチームという印象を受けました。守備で選ばれたチームなのに、バッティングもすごい。また、敗れてしまった選手たちを拍手で暖かく迎え入れていた坂口監督もすごい。さすが、東邦高校を率いて何度も甲子園に出場しただけのことはあります。素晴らしい監督さんだと思いました。

 このように、決勝戦にふさわしいいい試合だったと思います。常葉菊川の選手の皆様、優勝おめでとう!そして、夢を本当にありがとう~!

 昨日・今日と興奮気味で、こちらをご覧の皆様はさぞ驚かれていることと思います。読んで下さった皆様、お騒がせしました。とはいうものの、今日は興奮が冷めそうもありません。もう少し余韻に浸りたいと思っています。

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☆祝☆・常葉菊川決勝進出

2007-04-02 18:27:09 | えりかの平安な日々 04~09
 本日2回目の更新になりますが、こんな事はめったにないので書いてしまいますね

 こちらの記事にも書きましたが、私は高校野球が昔から大好きです。そしてこれもその時に書いたのですが、全国各地に応援している高校はあるのですが、やはり地元を第一に応援してしまいます。

 さて現在、甲子園球場にて春の選抜高校野球大会が行われています。そして今大会の地元の代表は常葉学園菊川高校……。2回目の出場なので、他の地域の皆様にはほとんどなじみがないと思います。

 実は私も、常葉菊川にはほとんど期待していませんでした。1回戦の相手が仙台育英高校だと聞いたときにとっさに思ったことは「ああ、勝てない。」でしたので…。

 ところが常葉菊川は2対1で1回戦を突破してしまいました。そして2回戦で10対0で今治西高校に快勝したとき、「意外と強いかもしれない。」と思ったのです。僅少差の試合で粘り勝ちできると思えばこのような快勝もできる、つながりのある打線と二人の安定したピッチャーを持っていることが強いなと思いました。

 その後も常葉菊川は好打者中田選手を要する大阪桐蔭高校に勝ち、本日熊本工業高校にも勝って決勝に進出してしまいました。25年間高校野球ファンをやっていて、地元の高校が決勝に進出したのは初めてです。本当に嬉しいです~。(^^)25年間、高校野球ファンをやっていて良かった。(^^)

 実は私が中学1年の春休み、地元の浜松商業高校が選抜で優勝しているのですが、その時は私はまだ、野球に全く興味がなかったのですよね。そうそう、その浜松商業が優勝したときのキャプテンが、常葉菊川の監督さんのようで、これは何か運がある…と思ってしまいます。

 それと、常葉菊川のある菊川市(旧・小笠郡菊川町)は、我が家の小さなエリカが生まれたところなのですよね。エリカの元の飼い主さんは菊川の方なのです。

 それでエリカも、生まれてから2ヶ月間は菊川で暮らしていたのですよね。そのせいかどうかわからないのですが、準々決勝の大阪桐蔭戦の時、9回が始まったときに突然押し入れから出てきてニャーニャー鳴き始めたのです。そして試合が終了したときも嬉しそうに鳴きながら部屋中を飛び回っていました。そして今日も、9回表に逆転したとき、嬉しそうに鳴いていました。エリカは菊川のことは覚えていないと思うのですが、何か感じるものがあるのでしょうか。

 さて、明日はいよいよ決勝戦。決勝戦の相手が同じ東海ブロックの大垣日大高校だというのも嬉しいです。常葉菊川の選手の皆様、明日は思いっきり力を出し切って、いい試合をして下さいね。25年間待っていた思いを込めて、私も精一杯応援します。

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小式部内侍 ~和泉式部の娘

2007-04-02 10:34:48 | 歴史人物伝
 和泉式部というと、冷泉天皇の皇子、為尊親王や敦道親王を恋人にし、多くの情熱的な恋の歌を詠んだことで知られる平安中期の女流歌人です。

 彼女には、最初の夫、橘道貞との間に娘が一人ありました。そしてその娘も、母に劣らず恋人も多く、その事績は説話文学にもなっています。その生涯もなかなか波乱に富んでいますし、彼女自身もとても魅力的な人だと思います。今回の人物伝では、和泉式部の娘、小式部内侍にスポットを当ててみることにします。

 小式部内侍(以下は小式部と記します)の両親、橘道貞と和泉式部が結婚したのは、長徳二年(996)頃のことでした。小式部は、その翌年、長徳三年(997)頃の出生であると推定されます。

 しかし、母の和泉式部は長保二年(1000)頃から冷泉天皇皇子の為尊親王と恋仲になります。為尊親王はその2年後に世を去るのですが、親王の一周忌の頃から、その弟の敦道親王と恋仲になることとなります。「和泉式部日記」は、敦道親王との出会いから、親王の邸に引き取られるまでのことを綴ったもので、二人の大胆な恋の様子が贈答歌とともに描かれています。

 こうして和泉式部は敦道親王の召人のようになってしまったため、橘道貞とは当然のように離別ということになりました。小式部はそんな両親の間で子供時代を過ごしたわけです。

 なお、和泉式部と橘道貞の不和の原因については、和泉式部が為尊親王や敦道親王と恋仲になったからであるという理由ももちろんありますが、他にも理由があるようなのです。

実は和泉式部の父、大江雅致は、冷泉天皇の皇后、昌子内親王に仕えており、道貞はその部下でもありました。つまり和泉式部も道貞も、元々は冷泉天皇系の人だったのです。しかし道貞が和泉守に任じられ(和泉式部の名前は、和泉守という夫の官職にちなんでいるようです)、昌子内親王が崩御した長保元年頃より、彼は道長側にしきりに接近し、冷泉天皇系の人脈から離れていきました。
 道貞は、昌子内親王の七十七日の法事について藤原道長に指示を受けています。(『小右記』)
 また、道長の一男頼通は病気療養のために道貞の家に渡ったこともあるようです。(『御堂関白記』寛弘元年(1004)二月には、頼通が春日祭に立つ時に、道長の枇杷第に来て色々と世話をしています。
 このように、道貞は道長の家司のようになっていった、つまり冷泉天皇系の人脈に属していた道貞が道長側、すなわち円融天皇系(道長の婿、一条天皇は円融天皇の皇子)の人脈に接近するようになったことが、和泉式部との不和の原因の一つとも考えられるようです。

 話を和泉式部の方に戻しますと、寛弘四年(1007)、敦道親王が世を去ります。その際、和泉式部は数多くの悲痛な挽歌を詠んでいます。その歌の数々からは、和泉式部の敦道親王への深い愛情が感じられます。

 敦道親王に先立たれて途方にくれた和泉式部は、一時は出家しようと思ったようですが、権力者藤原道長にすすめられ、寛弘六年(1009)、一条天皇中宮で、道長の娘の彰子の宮廷に出仕します。彰子の宮廷には、紫式部赤染衛門といった才女が多く仕えており、華やかなサロンのようになっていました。そのため道長は娘の宮廷をさらに華やかにすべく、当時すでに歌人として世に知られていた和泉式部にも目をつけていたようです。
 そして、娘の小式部も母とともに彰子の許に出仕したのでした。彼女は当時13歳くらいであったと推定されます。なお、「小式部」という女房名は、「和泉式部の娘」という意味もあったのでしょう。彼女が彰子への出仕以前に誰とどこに住んでいたかは不明ですが、この女房名から母和泉式部との親密さを感じます。たとえ離れて暮らしていたとしても、和泉式部はいつも、娘のことを気にかけていたのだと思います。

 さて、母とともに彰子中宮の女房となった小式部は、才能に優れ、また頭も良かったために彰子に気に入られ、掌侍(内侍)に任じられ、「小式部内侍」と呼ばれるようになります。また、貴公子たちからも人気があり、様々な男性を恋人に持ちました。それだけ小式部は魅力的な女性だったのでしょうね。

 では、小式部の恋人だったと言われている男性たちを紹介しましょう。


☆藤原頼宗(993~1065)

 藤原道長と源明子の間に生まれた息子。
 どうやら、小式部が最初に関係を持ったのはこの頼宗のようです。しかし、二人の仲は長続きしませんでした。

☆藤原教通(996~1075)

 藤原道長と源倫子の間に生まれた息子。頼宗の異母弟に当たります。

 教通は、一条天皇崩御後皇太后となった彰子の皇太后宮権大夫であり、その関係で彰子つきの小式部と親しくなったと考えられます。小式部も教通にひかれていき、頼宗とは疎遠になったようです。小式部にふられてしまった頼宗は大変悔しがったようですが…。

 ある時、教通がひどい病気になり、やっと回復したのち、小式部に向かって
「なぜ私の家にお見舞いに来なかったのか?」と問いかけたとき、小式部は

 死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか いきてとふべき 身にしあらねば

という歌を詠みました。「私はあなたの病気のことを死ぬような思いで心配していましたのよ。そんな気持ちでしたので、辛くてたまらず、とてもお見舞いに行くことができませんでした。」という意味でしょうか。教通はかわいさのあまり思わず小式部をかき抱き、局に入って懐抱したということです。

 長和五年(1016)、小式部は教通との間に男の子を生みました。後に「木幡権僧正」と称された静円(1016~1074)です。彼は歌人としても知られています。母や祖母の才能を受け継いだのでしょうか。


☆藤原範永(生没年未詳)

 尾張守藤原仲清の男。
 長和五年(1016)、蔵人に任じられて昇殿を許されているので、その頃から小式部と親しくなったのかもしれません。また、後にいくつかの歌合わせに出詠するなど、歌人としても有名な人なので、小式部とは和歌を通じての友人で、それが恋愛に発展したとも考えられると思います。

 小式部は範永との間に女の子を生んだと言われていますが、これは根拠がなく、疑問だということです。小式部と範永が恋仲であったことは事実かもしれませんが、多分一時的な短い間のことで、彼が他の女性との間に生んだ娘の母が、いつの間にか小式部だと間違って伝えられたのではないでしょうか。
 ちなみにこの娘は、後に白河院女御(能長女の道子か)に仕えて尾張と呼ばれました。


☆藤原定頼(995~1045)

 小式部が定頼と関係を持ったかどうかはよくわかりません。定頼と小式部、または小式部の娘との間に子供がいたという説もあるようですが、詳細については調べられませんでした。すみません。

 しかし、定頼と小式部との間にはあまりにも有名なエピソードがありますし、そのエピソードからも、二人はかなり親しかったのではないかな…と思いましたので、定頼にも小式部の恋人の一人として登場していただくことにしました。

 では、その有名なエピソードについて紹介しましょう。

 母の和泉式部から歌の才能と美貌をあますことなく受けついた小式部ですが、当時、「小式部の歌はみんな和泉式部が代作しているらしい。」という噂が流れていました。

 その和泉式部は、彰子に出仕したのちに道長の家司、藤原保昌と再婚していました。寛仁四年(1020)、保昌が丹後守に任じられると、和泉式部も夫とともに丹後に同行します。

 そんなとき、京では歌合わせがあり、小式部も歌人の一人に加えられていました。そこで藤原定頼は小式部に向かい、
「もう歌はおできになりましたか?丹後からの使者はもう戻ってきていますか?さぞ心細いことでしょうね。」
と、小式部をからかいました。その時小式部が定頼への返事のかわりに詠んだのが「百人一首」にもとられているこの歌です。

 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

「丹後は遠すぎてまだ行ったことがございません。大江山、いく野の道、天の橋立、あまりにも遠すぎて、私はまだ母の文も見ていませんの。」という意味、つまり、「丹後になんて使者は送っていませんよ!!」と、小式部は言いたかったのでしょう。小式部にすっかりやりこめられてしまった定頼は、返歌もせずにこそこそと逃げていったといいます。

 このエピソードからは、小式部の才気があふれているような気がします。そして、しっかりした気性の持ち主であったこともうかがえます。
 また、小式部と定頼の親密さを感じてしまうのは私だけでしょうか。好きな女性をからかって楽しんでいる定頼と、そのユーモアをしっかりと受け止めている小式部…。何かほほえましいです。

*定頼については、当ブログ内の「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さいませ。定頼の系譜が書いてあります。


☆藤原公成(999~1043)

 藤原実成の一男。祖父である藤原公季の養子となった人物です。最終的には権中納言にまで出世しました。余談ながら、娘には白河天皇の母茂子(小式部の書生ではありません)がいます。この一家はそのため、天皇の外戚として繁栄することになるのですが、公成はそれよりもずっと前に世を去ってしまいましたので、自分の家が繁栄した姿を見ることはできませんでした。

 そんな公成は若き日、小式部の恋人の一人でした。二人がいつ親しくなったかはよくわかりませんが、教通があまりにも出世(教通は治安元年=1021年に内大臣に任じられています)してしまったために小式部と疎遠になり、そんな彼女の寂しい心を慰めたのが公成だったのでは…と、想像してしまいます。

 ところが小式部は、万寿二年(1025)、公成との間に男子を生み、そのまま帰らぬ人となってしまいました。まだ28、9歳の若さでした。

 娘の死を嘆き悲しんだ和泉式部は哀切な挽歌を詠みました。

 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさりけり 子はまさるらむ

 小式部の子供、つまり和泉式部にとっては孫を抱いて詠んだ歌です。「娘は親の私やこの小さな子供を残して逝ってしまった。あの子は、私とこの幼い子と、どちらが気がかりだったのかしら?きっとこの子に違いないわ。だって私も、親が死んだときよりも我が子に先立たれた今の方がずっと悲しいんですもの」という意味です。

 小式部は上でも書きましたように、母から歌の才能と美貌をあますことなく受け継ぎ、才気もあり、気性のしっかりした女性でした。そして、誰からも愛される明るい性格の持ち主だったのだろうなと思います。恋人たちの顔ぶれを見てもとても華やかです。

 しかし、和泉式部の小式部に寄せる哀切な挽歌を読むと、幼い子供たちを残して死ななければならなかった小式部がどんな思いであったのかを考えさせられ、とても哀しい気持ちになります。多くの男性を愛し、愛された小式部の人生は一見華やかに見えますが、母和泉式部以上に波乱に富んだものだったのかもしれません。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CDーROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『百人一首 100人の歌人』 歴史読本特別増刊 新人物往来社
 『田辺聖子の小倉百人一首』 田辺聖子 角川文庫
 『人物叢書 和泉式部』 山中 裕 吉川弘文館

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