平安夢柔話

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閑院流藤原氏の系譜 第3回

2007-06-22 09:39:23 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」「閑院流藤原氏の系譜 第2回」からお読み下さい。


 今回は、藤原実行・藤原通季・藤原実能と、彼らが祖となった閑院流藤原氏の3つの系統、三条家・西園寺家・徳大寺家についてお話ししたいと思います。

藤原公実

藤原実行・藤原通季・藤原実能

1.藤原実行と三条家

☆藤原実行(1080~1162)

 藤原公実の二男。母は藤原基貞女。

 寛治七年(1093)に叙爵し、天永二年(1111)正月、異母弟通季とともに鳥羽天皇の蔵人頭に輔せられ、永久三年(1115)四月、通季と同時に正四位下参議となりました。続いて保安三年(1122)、権中納言に昇進します。

 大治二年(1127)兄実隆が死去、続いて翌年には十歳年下ながら、当時官位では上位(当時、実行は従三位、通季は正三位)にあった通季が死去したため、実行は閑院流嫡流の地位を占めることとなります。天承元年(1131)権大納言、久安五年(1149)七月右大臣、そして翌六年八月には太政大臣に昇進します。

 歌人としても知られ、しばしば歌合わせを催しています。『金葉』以下の勅撰集に13首が入集しています。

 なお、藤原実定がライバル心を燃やしていた藤原実長は、実行の孫(実行の二男公行の子)に当たります。

☆三条家について

 実行を祖とする藤原氏閑院流の家で、清華家(太政大臣にまで昇ることの出来る家。摂関家に次ぐ家格)の一つです。

○家名の由来
 三条北、高倉東に第宅、三条高倉第があり、実行がこの邸宅を所有していました。「三条」という家名はこの邸宅の名前に由来するものです。
 三条高倉第は実行の一男、公教に伝えられ、さらにその子孫に伝領されていきました。

○末裔と分家
 公教のあとは実房が継ぎ、その後裔からは多くの大臣・納言が輩出されました。後に正親町三条・三条西などの分家にも分かれます。

 そして、三条家のはるか後裔に三条公頼がおり、その娘が武田信玄の正室の三条の方(三条夫人)です。

○三条の方(円光院)(1521?~1570)

 甲斐の守護大名、武田信玄の正室。

 藤原公頼の二女として京都で生まれ、天文五年(1536)、駿河の守護大名今川義元の媒酌で武田晴信(後の信玄)と結婚します。信玄との間に義信、龍宝、黄梅院(北条氏政夫人)などをもうけました。信玄との仲はかなり良好だったようですが、義信は謀反の疑いをかけられて切腹、龍宝は失明、黄梅院は離縁ののちに早逝と不運が続きました。元亀元年(1570)、信玄に先立って病没しました。

 小説やドラマの影響で憎まれ役になることが多い三条の方ですが、乱世をたくましく生き抜いた女性だったといえそうです。信仰が厚く、穏和な性格であったという記録も残っているそうですので、今年の大河ドラマ「風林火山」の三条夫人が案外、実像に近いかもしれませんね。


2.藤原通季と西園寺家

☆藤原通季(1090~1128)

 藤原公実の三男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。藤原実能・待賢門院藤原璋子の同母兄になります。

 承徳二年(1098)に叙爵し、永久三年(1115)正四位下参議、同五年従三位に叙されます。元永元年(1118)、妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権大夫に補され、次いで待賢門院別当に補されました。

 保安三年(1122)権中納言、翌年左衛門督を兼ね、大治三年(1128)正月に正三位に叙されますが、六月病により薨じました。日記『通季卿記』を遺しました。

 彼は璋子の同母兄ということもあり、中宮権大夫になったり、兄の実行より官位が上になったりしていますが、若くして病没してしまいました。もっと長生きしていたら当然、大臣に昇進していたでしょうし、実行ではなく通季が閑院流の嫡流になっていたかもしれません。

☆西園寺家について

 藤原通季を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 通季の曾孫である公経が、山城国葛野郡の北山の地に営んだ寺院、西園寺に由来します。この土地は後に足利義満に譲られ金閣寺となりました。西園寺は、現在は京都市上京区寺町に所在しています。

 余談ながら、2007年3月に当ブログで紹介した小説「新とはずがたり」のラストの方に西園寺実兼の北山の別荘「西園寺」が登場しますが、ここが現在の金閣寺のある場所です。私は金閣寺を訪れると、足利義満のことではなく、「新とはずがたり」の西園寺の別荘が舞台になっている各場面を思い出してしまいます。

○末裔と分家
 百人一首の96番目の歌「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」の作者、西園寺公経は前述した通り、通季の曾孫に当たります。
 公経は頼朝の姪(藤原能保と、頼朝の姉との間に生まれた女)を妻にしていた関係で鎌倉幕府との縁が強く、そのため朝廷からにらまれ、承久の変の際、息子の実氏とともに幽閉されてしまいます。しかし承久の変は鎌倉幕府方の勝利に終わり、公経は幕府の信頼を得て関東申次に任じられ、西園寺家は代々、この役職を世襲することとなります。なお、「とはずがたり」に登場する実兼は実氏の孫に当たります。

 また、後深草・亀山両天皇の母(女吉)子、後深草天皇中宮の公子姉妹は実氏の娘になります。このように西園寺家は、幕府だけでなく、朝廷との関係も強めていったようです。後に大宮・洞院・正親町・室町などの分家が分かれました。


3.藤原実能と徳大寺家

☆藤原実能(1096~1157)

 藤原公実の四男。母は藤原隆方女の光子(堀河・鳥羽両天皇の乳母)。前述の藤原通季は同母兄、待賢門院璋子は同母妹。

 長治元年(1104)に叙爵し、元永元年(1118)、同母妹璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮、次いで待賢門院別当に補されます。
 保安二年(1121)従三位参議、その後権中納言に進み、長承二年(1133)に摂関家の藤原頼長を娘幸子の婿として勢力の伸張を図ります。待賢門院の同母兄であることと同時に、摂関家の姻戚となったことも、彼の昇進に有利に働いたと思われます。それを裏付けるように彼は、保延二年(1136)に正二位権大納言に進み、大納言を経て久安六年(1150)には内大臣となりました。

 しかし、久寿二年(1155)六月、幸子が逝去すると頼長から離れて鳥羽上皇・美福門院に接近し、東宮傅に補されます。この頃、頼長は鳥羽上皇の信頼を失い、世間からの評判も悪くなり、失脚も時間の問題…という状態でしたので、実能にとっては、「このまま頼長についていたら自分の身が危ない。」と感じていたのかもしれません。娘に先立たれたことは悲しく思いながら、頼長から離れる良い機会…とほっとしていた気持ちもあったのでしょうね。

 そのようなわけで、翌年七月に起こった保元の乱では後白河天皇方につき、九月左大臣に任じられ、「徳大寺左大臣」と称されました。次いで保元二年(1157)正月従一位に叙されますが、七月病を得て出家し、九月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨じました。法名真理。日記『実能記』を遺しました。

 歌人としても有名で、在俗時代の西行が家人として仕え、出家後も永く親交を結んでいたようです。(『山家集』等)

 実能を調べてみて思ったのですが、何か、兄弟の中で一番世渡り上手だという印象を受けました。

☆徳大寺家について

 藤原実能を祖とする閑院流藤原氏の家で、清華家の一つ。

○家名の由来
 閑院流の祖、公季の子である実成は、衣笠山の南西麓(現在、このあたりは竜安寺となっています)に山荘を構え、ここに寺院を営み、これを徳大寺と呼んでいたようです。この山荘と寺院は、公成、公実を経て実能に伝領され、そのため彼の家系は、「徳大寺」と呼ばれるようになります。

○末裔
 実能には前述した幸子のほか、育子・公能といった子供達がいます。

 このうち育子は、二条天皇の後宮に入内し中宮となりました。

 また、公能は正二位右大臣にまで昇進し、その子には後白河天皇中宮の忻子、跡徳大寺左大臣と呼ばれた実定、「二代の后」と呼ばれた多子がいます。また、実能・公能・実定は三代続けて歌人として有名です。

 こうして徳大寺家は、摂関家に次ぐ清華家として多くの大臣・納言を輩出し、他の閑院流の家、三条家や西園寺家とともに明治維新まで続きました。

        ー閑院流藤原氏の系譜 終わり


☆この項を書くに当たって、主に「平安時代史事典 CD-ROM版」を参考にしましたが、三条の方の項に関しましては、『図解 山本勘助と武田一族の興亡(童門冬二著・PHP研究所)』円光院ホームページ様等を参考にしました。

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最近こっていること

2007-06-19 16:03:27 | えりかの平安な日々 04~09
 3週間ほど前、我が家ではミキサーを購入しました。そのミキサー、フル回転しています。もっと早く購入すれば良かったです。

 特に私がこっているのはミックスジュース作り。リンゴ1個の皮をむき、四つ割にして芯を取ったものと、バナナ2本の皮をむいて適当に切ったものをミキサーに入れます。そして、牛乳と水を材料がかぶるかかぶらないかという程度に入れます。牛乳と水はだいたい4対6の割合にしています。私は牛乳が多い方が好きなのですが、だんなさんに言わせると、「牛乳が多すぎるとジュースっぽくなくて気持ち悪い」とのこと。そこでこのくらいの割合に落ち着きました。

 そのあとミキサーのふたをしてスイッチオン。濃厚なミックスジュースのできあがりです。甘くておいしいですよ。(^_^)/上の写真はそのミックスジュースです。蛍光灯の光の関係でちょっと黒っぽくなってしまいましたが、実際はもっと薄い紫色です。

 ところで、ミキサーを使って、トマトソースのスパゲッティも2回ほど作ってみました。

 まず、トマト5個(大きいものなら3~4個でいいと思います)を四つ割りにしてへたを取り、皮と種を取らないでそのままミキサーにかけます。トマトをミキサーにかけるとピンク色になるのです。これにはちょっとびっくりしました。
 出来上がったピンク色のトマト液を鍋に移し、弱火で20分ほど煮込みます。このとき、ふたをしない方が、スパゲッティとのからみが良いようです。
 トマト液は煮込んでいるうちにだんだん赤くなってきます。不思議不思議。赤くなったトマト液に塩・こしょう少々をふりかけて味をととのえ、トマトソースの出来上がりです。

 トマト液を煮込んでいる間に、スパゲッティの用意をします。まず、具を炒めておきます。私はなす、ピーマン、鶏肉などを入れます。そのあと、スパゲッティ二人分をゆでてざるにあげます。

 そして、トマトソースにスパゲッティと炒めた具をからみあわせて出来上がり。ちょっと手間がかかるし、鍋もたくさん使うので洗い物が大変ですが、缶詰のトマトを使うよりずっとおいしいです。

 今度は、ミキサーを使ってポタージュスープを作ってみようかなと計画中です。いつになるかわかりませんが、またこちらで報告しますね。

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閑院流藤原氏の系譜 第2回

2007-06-16 13:02:25 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」からお読み下さい。

 今回は、公成の子供たちからその孫の代まで、つまり、閑院流藤原氏が天皇の外戚となっていく様子を、主な人物たちの経歴とともにお話ししたいと思います。


藤原公成

藤原実季・藤原茂子

 では、公成の子供たちのうち、上の二人について見てみます。

☆藤原実季(1035~1091)

 藤原公成男。母は藤原定佐女。

 永承元年(1046)に叙爵し、延久元年(1069)蔵人頭、同四年参議となり、以後、正二位大納言まで昇りました。この間、後の堀河天皇の春宮大夫を勤めていたことがありますが、このことは閑院流の繁栄を考える上で注目していいと思います。

 嘉承二年(1107)、女苡子(後述)に皇太后が追贈された折、実季にも正一位太政大臣が追贈されました。

☆藤原茂子(?~1062)

 藤原公成女。母は藤原知光女(『春記』による)。

 藤原公成の女として滋野井第に生まれました。後におば(公成の姉)の夫、藤原能信の猶子となり、永承元年(1146)十二月、春宮尊仁親王(後の後三条天皇)に入内しました。
 茂子と尊仁親王の仲は大変むつまじく、二人の間には貞仁親王・聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王が生まれました。しかし茂子は、尊仁親王が踐祚するのを見ずに亡くなってしまいます。

 茂子が亡くなってから6年後に尊仁親王は後三条天皇として踐祚したのですが、後三条天皇の春宮として立てられたのは、茂子が生んだ貞仁親王です。もし、後三条天皇の異母兄、後冷泉天皇と、摂関を務めた頼通・教通の娘たちとの間に皇子が誕生していたら、貞仁親王が春宮になることはなかったと思われます。その点、貞仁親王は大変な幸運の星の下に生まれたと言えそうです。

 後三条天皇の退位後、貞仁親王は白河天皇として踐祚、閑院流藤原氏はついに、天皇の外戚となったわけです。そのようなことから、白河天皇の母の茂子は重要な人物だということができると思います。

 なお、茂子は永井路子さんの藤原能信を主人公にした小説『望みしは何ぞ』に登場しています。その中で茂子は、何事にも物怖じしない、明るくさばさばした女性に描かれています。もちろんこれは永井さんの創作だと思いますが、案外、茂子の実像に近いように思えます。そんな彼女の性格が、白河天皇にも受け継がれているのではないでしょうか。



藤原公実・藤原苡子

 では次に、藤原実季の子供達について見てみます。

☆藤原公実(1053~1107)

 藤原実季男。母は藤原経平女。

 後三条天皇踐祚とともに累進し、後三条・白河天皇の宮廷で時めいた人です。閑院流藤原氏が天皇の外戚になったおかげで恩恵を受けたと言えそうです。

 承暦四年(1180)参議となり、最終的には正二位権大納言に昇進しました。妻は従二位藤原光子、彼女は堀河・鳥羽両院の乳母です。このあたりも、公実が宮廷で実力を持つための大きな助力になったのでしょうね。

 歌人としても知られ、残欠本ですが家集に『公実集』があり、『後拾遺』以下の勅撰集に入集。藤原通俊・藤原顕季ら歌人たちとも親しかったため、公実自身も歌人として成長していったようです。
 堀河朝になると藤原基俊・源俊頼を庇護するなど、歌壇のパトロン的存在でもありました。 

<藤原公実について追記>
 公実について、咲希さんより掲示板No656にて情報を頂きました。咲希さん、ありがとうございます。(^_^)

 鳥羽天皇が踐祚したとき、公実は、摂関家の当主忠実の若年なるを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張します。しかし、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話があるそうです。 

 この源俊明という人は醍醐源氏で、白河上皇の側近として重く用いられていた人でした。もし彼がいなかったら、閑院流が摂関家になっていたかもしれません。その点、摂関家にとっては俊明は大恩人だったと言えそうです。

☆藤原苡子(1076~1103)

 藤原実季女。母は藤原経平女。

 承徳二年(1098)十月、堀河天皇の許に入内します。苡子は白河上皇(堀河天皇の父)のいとこに当たり(苡子の父、実季と、白河天皇の母、茂子はきょうだい)、入内については白河上皇が沙汰したと伝えられます。

 その年の十二月に女御となり、間もなく懐妊しますが、翌年四月に流産します。
 康和四年(1102)八月、再び懐妊した苡子は着帯の儀を行い、翌五年正月十六日に皇子(後の鳥羽天皇)を出産しますが、二十五日ににわかに病んで卒します。嘉承二年(1107)、皇太后が追贈されました。

 鳥羽天皇の即位により、閑院流藤原氏と天皇家はさらに強い血縁関係で結ばれたことになります。



藤原実隆・藤原実行・藤原通季・藤原実能・藤原季成・藤原璋子・源有仁室・藤原経実室

 上で挙げたのは藤原公実の子供たちです。

 このうち、実行が三条家の祖、通季が西園寺家の祖、実能が徳大寺家の祖となります。そのため、以上3人については次回に記述することにし、残りの人物について書いてみることにします。

☆藤原実隆(1079~1127)

 藤原公実一男。母は藤原基貞女。藤原実行は同母弟。

 応徳二年(1085)に叙爵。春宮(宗仁親王、のちの鳥羽天皇)権亮、白河院別当等を歴任します。嘉承元年(1106)蔵人頭となり、天永二年(1111)、参議に任じられ、最終的には正三位中納言にまで昇進しました。大治二年(1127)、飲水病(糖尿病)にて薨去。子には参議公隆・興福寺別当覚珍らがいます。

☆藤原季成(1102~1165)

 藤原公実男。母は藤原通家女。

 天永三年(1112)に叙爵。長承三年(1134)蔵人頭に補され、保延二年(1136)参議に任ぜられ、後に権大納言に至り、加賀守を勤めたことがあったため加賀大納言と呼ばれました。和琴や書に秀でていたと伝えられます。

 なお、彼の娘には後白河天皇の寵愛を得て「高倉三位」と称された成子がいます。彼女が後白河天皇との間にもうけた子として、守覚法親王、以仁王、亮子内親王(殷富門院)、式子内親王らがいます。つまり季成は、これら歴史に名前を残した皇子皇女らの外祖父ということになります。

☆藤原璋子(1101~1145)

 藤原公実女。母は藤原光子(堀河・鳥羽両天皇乳母)

 幼い頃、祇園女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で育てられました。
 15歳頃から、白河法皇とのただならぬ仲が噂されますが、永久五年(1117)、17歳の時に鳥羽天皇に入内、女御から中宮に立てられます。

 元永二年(1119)、第一皇子顕仁親王を生みますが、(「顕仁親王は白河法皇の子供だ」と噂されました。顕仁親王は5歳で踐祚、崇徳天皇となります。崇徳天皇踐祚には、白河法皇の力が働いていたと言われます。

その後、璋子は禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(のちの後白河天皇)・本仁親王(のちの覚性法親王)の6人の子女をもうけます。天治元年(1124)、女院号「待賢門院」が授けられます。この頃はまだ、鳥羽上皇とも仲むつまじかったようですし、何よりも白河法皇の強い庇護がありました。

 しかし、大治四年(1129)の白河法皇の崩御とともに、璋子の人生も暗転します。さらに長承三年(1134)、藤原得子(後の美福門院)が入内すると、鳥羽上皇の寵愛は得子に移り、璋子はすっかり目立たない存在となってしまいます。璋子は双丘の東麓に法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなったようです。

 康治元年(1142)、落飾。久安元年(1145)八月二十二日、兄の藤原実行の三条第(三条南、高倉東)において鳥羽法皇臨御のもとに崩じ、法金剛院の北に接した五位山の花園西陵に葬られました。

 璋子は波乱に富んだ生涯を送ったと言えますが、崇徳・後白河両天皇の母となり、閑院流藤原氏の更なる発展の基礎を作った女性とも言えそうです。晩年は仏教に帰依することが多かったようですが、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。

*璋子についてはこちらの記事も参考になさってみて下さい。

☆璋子以外の娘たち

 璋子以外の公実の娘として、源有仁(輔仁親王男)の妻となった女性、、藤原経実(藤原師実男)の妻となった女性などがいます。

 このうち経実室は、経実との間に経宗、懿子をもうけました。懿子は、おばの夫である源有仁の猶子となり、後白河天皇の後宮に入って二条天皇をもうけました。

☆次回は、公実の他の3人の子供たちと、彼らが祖となったそれぞれの家(三条家・西園寺家・徳大寺家)について紹介することにします。現在放映中のNHK大河ドラマ「風林火山」にも登場しているあの方も出てきますので、お楽しみに。

☆第3回に続く


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『望みしは何ぞ』 永井路子 中央公論新社


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閑院流藤原氏の系譜 第1回

2007-06-07 11:55:27 | 系譜あれこれ
 今年の4月にUPした「藤原多子」「藤原実定」を調べてみて、お二人が属する閑院流藤原氏に興味が出てきました。この一族は魅力的な人が多いですし、天皇の外戚にもなっている重要な一族、その後は3つの系統に分かれ、それぞれ有名な方々を多数輩出しています。

 そこで、閑院流藤原氏の系譜を3回に分けて紹介することにしました。今回、第1回は閑院流の祖、公季から彼の孫の代までを取り上げます。例によってややこしい話ですが、お付き合いいただけますと幸いです。

 では、閑院流の祖、藤原公季から話を始めさせていただきますね。

☆藤原公季(957~1029)

 藤原師輔の十一男。母は醍醐天皇皇女康子内親王。伊尹・兼通・兼家・高光・為光の異母弟ということになります。

 公季は生まれて間もなく、母を失い、4歳で父を失います。そこで、姉の安子(村上天皇皇后)に養われ、親王たちと同じように内裏で育てられたと伝えられています。ただ、お食事をなさる御台だけは親王たちより低いものを使っていたとか。
 内裏で育ったため、彼は、「自分は高貴な生まれだ。」という自負があったようで、妻も皇族、有明親王(醍醐天皇皇子)の女です。

 康保四年(967)に叙爵し、永観元年(982)に参議、長徳元年(995)に大納言となり、その後、道長政権下で内大臣を長く勤めました。最終的には太政大臣となっています。居住していた邸宅にちなみ閑院と号し、その後裔が「閑院流」と呼ばれることとなるのです。

 この閑院第は、二条大路南、西洞院大路西に所在し、もと左大臣藤原冬嗣第で、巨勢金岡が水石を配した名所であり、これを公季が伝領したと伝えられます。(『拾芥抄』中)。
 公季は、孫に当たる実成女が当時の大納言藤原能信(道長男)と結婚した際、この第宅を能信に譲り、彼自身は息子の実成の第に移っています。藤原実資はこのことに関し、太政大臣たる者が旧居を捨て、小宅に移るのは後代の謗りを忘れたものとする深覚(公季の同母兄)の非難に同調し、たとえ譲るにしても同居し、一生閑院を去るべきではないと日記に書き遺しています。意地悪評論家の実資さんらしい意見ですね。



藤原実成・藤原義子

 公季は有明親王女との間に実成・義子などをもうけています。では次に、彼らについて見てみましょう。

☆藤原実成(975~1044)

 藤原公季男。

 永延二年(988)、叙爵し、寛弘五年(1008)に参議となり、最終的には中納言になっています。
彼に関するエピソードとしては、大宰権帥在任中の長元九年(1036)三月、大宰府において曲水宴の折、安楽寺僧と闘乱事件を起こし、寺訴により翌長暦元年推問使が派遣され、除名されたことでしょうか。結構血の気が多い人だったのかもしれませんが、当時の寺社勢力の強大さを痛感させられる事件でもあります。しかし、翌年には本位に復しているようです。

☆藤原義子(974~1053)

 藤原公季女。

 長徳二年(996)七月、一条天皇に入内、翌月女御となり、「弘徽殿女御)と呼ばれました。その後、位も従三位、さらに従二位と進みますが、定子や彰子の陰に隠れ、天皇の寵愛も薄く、修正子供を宿すことはありませんでした。



藤原公成・藤原実成女(藤原能信室)

 では次に、実成の子供である上の二人を見てみることにします。

☆藤原公成(999~1043)

 藤原実成の一男。母は藤原陳政女。

 寛弘八年(1011、叙爵し、万寿三年(1026)に参議となり、最終的には権中納言となりました。長和四年(1015)に藤原知光女と結婚、知光の滋野井第に住んだので、当時の官職にちなみ「滋野井の頭中将」「滋野井の別当」と呼ばれました。また、小式部内侍の恋人としても知られています。

 公成は祖父の公季に大変可愛がられ、彼の養子となっています。おじいちゃんの孫に対
する可愛がりようには様々な話が伝えられています。

 公季は、参内するときにはいつも、公成を車に乗せて連れて行ったと言われています。

 また、治安二年(1022)、法成寺無量寿院金堂供養に行啓する東宮(敦良親王、のちの後朱雀天皇)と公成を同車させ、道すがら、「どうか公成にお目をかけて下さい。お目をかけて下さい。」と何度も言ったそうです。敦良親王は、「祖父が孫を思う心根はほほえましかったが、同じ事を何度も言うのでおかしかったよ。」とおっしゃったそうです。(『大鏡』)

 さらに、公季は、公成の蔵人頭任命を道長に断られながら、重ねて陳情したこともあったようです。公季の祖父ばかぶりが伝わってくる話ですね。

☆藤原実成女

 藤原能信(藤原道長男 母は源高明女明子)の妻となった女性です。二人は祖父の公季から閑院第を譲られます。二人の間には子がなかったため、公成の娘の茂子を養女としました。茂子は長じて後朱雀天皇皇子の尊仁親王と結ばれ、何人かの子に恵まれました。

 茂子については次回に詳しく記述することになると思いますが、彼女こそ、閑院流藤原氏に大きな転機をもたらすこととなる女性なのです。次回は、閑院流藤原氏が天皇の外戚となって繁栄していく様子をお話ししたいと思っています。

第2回に続く


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社学術文庫


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