5月16日の午後、静岡県視覚障害者情報支援センターさん主催の、駿府城公園史跡探訪のイベントに参加してきました。久しぶりに生の歴史に触れられて楽しい時間を過ごさせていただいたので、こちらでレポートしてみますね。
参加者は約30名、大多数が私より年上かも?という顔ぶれでした。グループで参加されている方が多かったですが私は一人での参加。
まず、駿府城のすぐ近くにある静岡県総合社会福祉会館シズウエルの5階の集会室に集合し、史跡ガイドボランティア「駿府ウェイブ」のHさんの駿府城や徳川家康(1542~1616)についてのお話を拝聴。
私の一番好きな時代は平安時代ですが、戦国時代も大好きですし、徳川家康は地元ゆかりの人物なのでとても興味があります。なのでHさんのお話、興味深く聞かせていただきました。その中から印象に残った事をいくつか書いてみますね。
☆家康公は駿府城を2回、築城した。
家康公は駿河、遠江、三河の国主だったので浜松を拠点にしていたが、本能寺の変の後に甲斐国も治めるようになった。そのため浜松では西に寄りすぎているということで、天正十三年(1585)に本拠を駿府(今の静岡市)に移して駿府城を築いた。
その後家康は江戸に移り、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任じられて幕府を開いたが、2年で将軍色を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府に隠居した。その際、駿府城を大規模に修復した。
☆家康公は幼少時代、今川の人質として苦労したというのは間違い。
今川義元は家康を大事に養育した。家康の学問の師は太原雪斎という、妙心寺で修行した博識な高僧。家康公は雪斎からあらゆる学問を学んだ。
しかし義元は、実の子氏真には雪斎を学問の師としていない。
うん、確かに…。Hさんもおっしゃっていましたが、小さいときの悪い思い出や苦しい思い出ばかりの地に晩年になって戻るっていうことはあまりないのでは?家康公は駿府にはかなりいい印象を持っていたのではないかと思います。
☆家康の没年75歳は数え年で、満年齢では73歳と4ヶ月。
そうそう、家康公は12月生まれでした。
ちなみに私もこちらで、歴史上の人物の年齢はすべて数え年で書いています。でも、中には家康公のように12月生まれの人もいると思うので、このあたりはちょっと考え直すか、凡例に「年齢は数え年」としっかり書いておくべきなのかも。
更に、
今まで私は、駿府城は外堀と内堀の二重構造だと思っていたのですが、内堀の内側にもう一つお堀があったのだそうです。
そして、一番内側のお堀に囲まれた部分が本丸(天守閣や本丸御殿があった)、その外側が二ノ丸、そして、現在の内堀と外堀に囲まれた部分が三ノ丸だったのだそうです。
ということは。
こちらでも何度か書いていますが、私は1995年1月から1997年9月まで、駿府城跡の外堀のすぐ内側にあった住宅地に住んでいました。そのあたりは三ノ丸だったのですね。
あの頃よく、「私の家はお城の中、外堀のすぐ内側」などと言っていましたが、これからは、「私は駿府城の三ノ丸跡に住んでいました」とストレートに言うことが出来そうで嬉しいです。
…と1時間ほど家康公や駿府城についてのお話しを聞いたあと、引き続きHさんのガイドでいよいよ駿府城の史跡探訪に出発です。私は慣れていない所は一人では全く歩けないので、誘導のボランティアさんをつけていただきました。感謝です。そんなわけで、ボランティアさんと楽しくおしゃべりしながら散策できました。
この日の天気予報、週間予報でも直前の予報でも雨、なので史跡探訪は出来ないのでは…とほぼあきらめていました。でも、天気予報は見事に外れ。雨は午前中で上がってしまったようです。
そんなわけで、シズウエルのすぐ近く、北御門から内堀にかかっている橋を渡って二ノ丸跡に入りました。ここでは石垣を見たり触ったりしました。
ちなみにこの石垣は当時のもの。石垣に使われた石は駿府の近くの山から持ってきたものだそうです。石は船に乗せて運ぶことも多かったそうですが、運んでいる途中に船から落ちた石は落城につながるということで拾わなかったとか。
で、見た感じはやっぱり「時代を感じる」ということ。
中には、石垣を作った人の紋章が掘られているものも。私が触った石は丸い形の紋が掘られていました。そして、コケが生えていてちょっとぬるぬるしていました。
こうして歩いて本丸跡へ。
まず、駿府城天守閣があった場所に行ってみました。
実は、駿府城公園には天守閣はありません。駿府城天守閣はものすごく大きかった(江戸城や名古屋城よりも)だそうで、木造で復元すると400億円くらいかかるそうです。
ただ、現在の名古屋城や大阪城のように鉄筋コンクリートで復元すればかなり安くすむとか。実際、鉄筋コンクリートで天守閣を造れば静岡にたくさんお客さんを呼べるという声もあるそうです。
でもこれでは、重要文化財にはならないし、鉄筋コンクリートの建物は持ちが良くないとか。それより何より、やはり、当時の様子を伝えるには木造建築でなくては…という声も根強いそうで、天守閣跡には未だに何も建っていません。私も駿府城天守閣が復元されたら見てみたいし建物に入ってみたいなあと思いますが、どちらが良いのかよくわからないです。
天守閣跡の次は本丸御殿跡へ。
天守閣に人が住んでいたのは戦国時代まで。従って隠居した家康公が普段住んでいたのは本丸御殿だそうです。こちらには、家康公の銅像と家康公お手植えのミカンの木があります。
銅像とミカンの木については以前、こちらのページで紹介したことがありました。
*リンク先のページは「駿府公園」となっていますが、2年くらい前に「駿府城公園」という名前に変わったのだそうです。
せっかくですので、その時の写真を再掲します。(2009年3月撮影)


家康公お手植えのミカンについて、Hさんの解説によると
毎年、12月5日前後に収穫される。
400年前から品種改良されていないミカンなので、家康公の生きていた時代のミカンの味を堪能できる。粒は小さく、意外と甘い
だいたい1万個くらい収穫できる。
とのこと。わあ、一度食べてみたい~。
次に行ったのは二ノ丸水路跡。
当時、本丸と二ノ丸の間にあったお堀。現在はほとんど残っていないのですが、その痕跡を伝えているのがこちら。橋の上から写真に撮ってみました。

そして次に訪れたのが東御門とそれに続く辰巳櫓。入館料200円を払ってまず、東御門の中に入ります。
こちらは20年ほど前に木造建築で復元されたもの。私は復元されたばかりの頃、一度訪れたことがあるのですが、中がどうなっていたのか、なぜか記憶があまりないのですよね。
まず出迎えてくれたのが家康公の銅像。晩年の家康公がモデルのようです。
ここでも、Hさんが家康公について熱く語って下さいました。今では連絡が取れなくなってしまった家康公好きの某様にお聞かせしたい…という内容でした。
家康公は日本史上、最も優れた政治家。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、日本と朝鮮の関係は最悪になったのですが、家康公はそれを修復しようとして一生懸命だったこと。確かに家康は秀吉のあとを受けて朝鮮に兵を出そうと考えたこともなかったですものね。海外進出よりもまず、内政ということだったのでしょうね。
当時の駿府城天守閣の大きな模型も展示してありました。五層の天守閣、中は7階建てになっていたとか。視力の弱い私にも、その立派さが何となくわかりました。どうせなら、家康公歿後400年を記念して小さな模型を作って売り出して欲しいなあ…と思ってしまいました。
その他、当時の駿府の地図、ひな人形、お茶壷道中など、色々な物が展示されていましたが、一番びっくりしたのは大きな銅製しゃちほこ。
このしゃちほこは、屋根からお堀に落ちてしまったものが発掘され、こちらに展示されているのだそうです。駿府城の天守閣や建物は長い時間の間に失われてしまいましたが、このしゃちほこは当時のもの。見つけてもらえてほんとに良かったね。
展示を見ながらHさんの郷土愛あふれる解説を拝聴しました。駿府は当時、人口十万の大都会だったこと。しかし、家康公の歿後、江戸へ流入してしまったこと。その結果、「駿河台」「など、駿府がもとになった地名が江戸の町名として名づけられたこと。うーん、本家はこちらだったのね。
東御門を一通り見たあと、階段を上がって辰巳櫓へ。
東御門のことはほとんど記憶がなかったのですが、こちらは見覚えがある~と思いました。
こちらも櫓というよりは、一つの建物という感じで広くて立派なもの。使われている木も立派。「ああ、2年ちょっとの間だったけれど、こんなすごいお城の中に住めたことはほんとに幸せなことだったんだなあ」と実感しました。
こうして楽しく、有意義だった駿府城歴史探訪が終わりました。
近くに住んでいたこともあって当時、このあたりを頻繁に歩き回っていたのですが、解説つきで歩くと色々な発見があって楽しかったです。そして、とてもなつかしかったです。
更には、家康公と駿府城のすごさについて再認識できた時間でもありました。
最後になりましたが。
この歴史探訪を企画して下さった静岡県視覚障害者情報支援センターのDさん、興味深いお話をたくさん聞かせて下さったHさん、親切に誘導して頂、お話相手になって下さった誘導ボランティアのKさん、楽しい時間を共有した参加された皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
今度駿府城の史跡探訪をすることがあったら、今回行けなかった西側にある門や未申櫓にも生きたいなあ。まだまだ見どころはたくさんあるような気がします。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページへ
参加者は約30名、大多数が私より年上かも?という顔ぶれでした。グループで参加されている方が多かったですが私は一人での参加。
まず、駿府城のすぐ近くにある静岡県総合社会福祉会館シズウエルの5階の集会室に集合し、史跡ガイドボランティア「駿府ウェイブ」のHさんの駿府城や徳川家康(1542~1616)についてのお話を拝聴。
私の一番好きな時代は平安時代ですが、戦国時代も大好きですし、徳川家康は地元ゆかりの人物なのでとても興味があります。なのでHさんのお話、興味深く聞かせていただきました。その中から印象に残った事をいくつか書いてみますね。
☆家康公は駿府城を2回、築城した。
家康公は駿河、遠江、三河の国主だったので浜松を拠点にしていたが、本能寺の変の後に甲斐国も治めるようになった。そのため浜松では西に寄りすぎているということで、天正十三年(1585)に本拠を駿府(今の静岡市)に移して駿府城を築いた。
その後家康は江戸に移り、慶長八年(1603)に征夷大将軍に任じられて幕府を開いたが、2年で将軍色を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府に隠居した。その際、駿府城を大規模に修復した。
☆家康公は幼少時代、今川の人質として苦労したというのは間違い。
今川義元は家康を大事に養育した。家康の学問の師は太原雪斎という、妙心寺で修行した博識な高僧。家康公は雪斎からあらゆる学問を学んだ。
しかし義元は、実の子氏真には雪斎を学問の師としていない。
うん、確かに…。Hさんもおっしゃっていましたが、小さいときの悪い思い出や苦しい思い出ばかりの地に晩年になって戻るっていうことはあまりないのでは?家康公は駿府にはかなりいい印象を持っていたのではないかと思います。
☆家康の没年75歳は数え年で、満年齢では73歳と4ヶ月。
そうそう、家康公は12月生まれでした。
ちなみに私もこちらで、歴史上の人物の年齢はすべて数え年で書いています。でも、中には家康公のように12月生まれの人もいると思うので、このあたりはちょっと考え直すか、凡例に「年齢は数え年」としっかり書いておくべきなのかも。
更に、
今まで私は、駿府城は外堀と内堀の二重構造だと思っていたのですが、内堀の内側にもう一つお堀があったのだそうです。
そして、一番内側のお堀に囲まれた部分が本丸(天守閣や本丸御殿があった)、その外側が二ノ丸、そして、現在の内堀と外堀に囲まれた部分が三ノ丸だったのだそうです。
ということは。
こちらでも何度か書いていますが、私は1995年1月から1997年9月まで、駿府城跡の外堀のすぐ内側にあった住宅地に住んでいました。そのあたりは三ノ丸だったのですね。
あの頃よく、「私の家はお城の中、外堀のすぐ内側」などと言っていましたが、これからは、「私は駿府城の三ノ丸跡に住んでいました」とストレートに言うことが出来そうで嬉しいです。
…と1時間ほど家康公や駿府城についてのお話しを聞いたあと、引き続きHさんのガイドでいよいよ駿府城の史跡探訪に出発です。私は慣れていない所は一人では全く歩けないので、誘導のボランティアさんをつけていただきました。感謝です。そんなわけで、ボランティアさんと楽しくおしゃべりしながら散策できました。
この日の天気予報、週間予報でも直前の予報でも雨、なので史跡探訪は出来ないのでは…とほぼあきらめていました。でも、天気予報は見事に外れ。雨は午前中で上がってしまったようです。
そんなわけで、シズウエルのすぐ近く、北御門から内堀にかかっている橋を渡って二ノ丸跡に入りました。ここでは石垣を見たり触ったりしました。
ちなみにこの石垣は当時のもの。石垣に使われた石は駿府の近くの山から持ってきたものだそうです。石は船に乗せて運ぶことも多かったそうですが、運んでいる途中に船から落ちた石は落城につながるということで拾わなかったとか。
で、見た感じはやっぱり「時代を感じる」ということ。
中には、石垣を作った人の紋章が掘られているものも。私が触った石は丸い形の紋が掘られていました。そして、コケが生えていてちょっとぬるぬるしていました。
こうして歩いて本丸跡へ。
まず、駿府城天守閣があった場所に行ってみました。
実は、駿府城公園には天守閣はありません。駿府城天守閣はものすごく大きかった(江戸城や名古屋城よりも)だそうで、木造で復元すると400億円くらいかかるそうです。
ただ、現在の名古屋城や大阪城のように鉄筋コンクリートで復元すればかなり安くすむとか。実際、鉄筋コンクリートで天守閣を造れば静岡にたくさんお客さんを呼べるという声もあるそうです。
でもこれでは、重要文化財にはならないし、鉄筋コンクリートの建物は持ちが良くないとか。それより何より、やはり、当時の様子を伝えるには木造建築でなくては…という声も根強いそうで、天守閣跡には未だに何も建っていません。私も駿府城天守閣が復元されたら見てみたいし建物に入ってみたいなあと思いますが、どちらが良いのかよくわからないです。
天守閣跡の次は本丸御殿跡へ。
天守閣に人が住んでいたのは戦国時代まで。従って隠居した家康公が普段住んでいたのは本丸御殿だそうです。こちらには、家康公の銅像と家康公お手植えのミカンの木があります。
銅像とミカンの木については以前、こちらのページで紹介したことがありました。
*リンク先のページは「駿府公園」となっていますが、2年くらい前に「駿府城公園」という名前に変わったのだそうです。
せっかくですので、その時の写真を再掲します。(2009年3月撮影)


家康公お手植えのミカンについて、Hさんの解説によると
毎年、12月5日前後に収穫される。
400年前から品種改良されていないミカンなので、家康公の生きていた時代のミカンの味を堪能できる。粒は小さく、意外と甘い
だいたい1万個くらい収穫できる。
とのこと。わあ、一度食べてみたい~。
次に行ったのは二ノ丸水路跡。
当時、本丸と二ノ丸の間にあったお堀。現在はほとんど残っていないのですが、その痕跡を伝えているのがこちら。橋の上から写真に撮ってみました。

そして次に訪れたのが東御門とそれに続く辰巳櫓。入館料200円を払ってまず、東御門の中に入ります。
こちらは20年ほど前に木造建築で復元されたもの。私は復元されたばかりの頃、一度訪れたことがあるのですが、中がどうなっていたのか、なぜか記憶があまりないのですよね。
まず出迎えてくれたのが家康公の銅像。晩年の家康公がモデルのようです。
ここでも、Hさんが家康公について熱く語って下さいました。今では連絡が取れなくなってしまった家康公好きの某様にお聞かせしたい…という内容でした。
家康公は日本史上、最も優れた政治家。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、日本と朝鮮の関係は最悪になったのですが、家康公はそれを修復しようとして一生懸命だったこと。確かに家康は秀吉のあとを受けて朝鮮に兵を出そうと考えたこともなかったですものね。海外進出よりもまず、内政ということだったのでしょうね。
当時の駿府城天守閣の大きな模型も展示してありました。五層の天守閣、中は7階建てになっていたとか。視力の弱い私にも、その立派さが何となくわかりました。どうせなら、家康公歿後400年を記念して小さな模型を作って売り出して欲しいなあ…と思ってしまいました。
その他、当時の駿府の地図、ひな人形、お茶壷道中など、色々な物が展示されていましたが、一番びっくりしたのは大きな銅製しゃちほこ。
このしゃちほこは、屋根からお堀に落ちてしまったものが発掘され、こちらに展示されているのだそうです。駿府城の天守閣や建物は長い時間の間に失われてしまいましたが、このしゃちほこは当時のもの。見つけてもらえてほんとに良かったね。
展示を見ながらHさんの郷土愛あふれる解説を拝聴しました。駿府は当時、人口十万の大都会だったこと。しかし、家康公の歿後、江戸へ流入してしまったこと。その結果、「駿河台」「など、駿府がもとになった地名が江戸の町名として名づけられたこと。うーん、本家はこちらだったのね。
東御門を一通り見たあと、階段を上がって辰巳櫓へ。
東御門のことはほとんど記憶がなかったのですが、こちらは見覚えがある~と思いました。
こちらも櫓というよりは、一つの建物という感じで広くて立派なもの。使われている木も立派。「ああ、2年ちょっとの間だったけれど、こんなすごいお城の中に住めたことはほんとに幸せなことだったんだなあ」と実感しました。
こうして楽しく、有意義だった駿府城歴史探訪が終わりました。
近くに住んでいたこともあって当時、このあたりを頻繁に歩き回っていたのですが、解説つきで歩くと色々な発見があって楽しかったです。そして、とてもなつかしかったです。
更には、家康公と駿府城のすごさについて再認識できた時間でもありました。
最後になりましたが。
この歴史探訪を企画して下さった静岡県視覚障害者情報支援センターのDさん、興味深いお話をたくさん聞かせて下さったHさん、親切に誘導して頂、お話相手になって下さった誘導ボランティアのKさん、楽しい時間を共有した参加された皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
今度駿府城の史跡探訪をすることがあったら、今回行けなかった西側にある門や未申櫓にも生きたいなあ。まだまだ見どころはたくさんあるような気がします。
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