大河ドラマ「義経」第29回の感想です。
今週の見どころは法皇さまと常磐御前だったと思います。
法皇さまは義経を翻弄し、常磐御前は命をかけて義経をいさめたという感じがしました。では、今週はその当たりから書かせていただきます。
法皇さまと知康と丹後局、相変わらず謀略を巡らしていましたね。やっぱりこの3人が集まると怖いです。頼朝と義経の兄弟仲を裂いて、源氏の力を弱体化させようとは、悪知恵が働きますよね。
それとは知らず、知康や丹後局の高圧的な態度に屈するように任官してしまった義経です。この時義経は何としてでも任官を断り、すぐに、任官の話があったことを頼朝に報告すべきなのですよね。本来は…。
でも、義経はその場で任官を承諾してしまいました…。やはり義経には、「蒲の兄上が官位をもらったのに、一ノ谷で手柄をあげた自分が何ももらえないなんてあんまりだ。」という考えが多少なりともあったと思うのですよね。それと、京育ちなだけに朝廷の権威というものへの、恐れと憧れにも似たこだわりがあったのでしょうね。
それにしても、「御曹司は法皇の家来ではなく鎌倉殿の家来ですぞ。」と義経をいさめる郎党が誰一人いないのが、やはり今回もとても気になりました。
鎌倉から送られてくる正室の河越の姫についても、「静殿を大切にするのはかまわないが、河越の姫は鎌倉殿から下される大切な正室なのだから、丁重にあつかうように。」とさとす者も、誰一人いません。
今回の放送を観ていて、頼朝の考え方や武士というものを理解している郎党がいなかったことは、義経にとってはとても大きな不幸だったのだなと、改めて思いました。
そして、そんな義経を唯一いさめたのが常磐御前でした。「もう会いに来てはなりません。」と言っていたのに、病気を押して夜陰に紛れて義経に会いに来るとは、やっぱり母親の愛情なのですね。きっと、義経のことが心配でたまらなかったのでしょうね。
でも、「世の中のことを見定めよ。法皇さまのことも、頼朝のことも……」という常磐御前の遺言は、義経の心にどこまで通じたのか疑問です。と言うのは、このあと義経は常磐御前が心配したとおりの道を歩んでしまったのですから…。
ところで今回の放送で、常磐御前はこの直後に亡くなってしまいましたが、少し早すぎると思いました。現在ドラマであつかわれている時期は元暦元年(1184)です。義経を土御門殿の誘いに乗せないために病気の身を呈した……、というようにしたくてあそこで常磐御前を死なせてしまったのでしょうが、実は彼女はその二年後の文治二年(1186)までの生存が確認できるのです。
「吾妻鏡」によると、常磐は文治二年六月に義経の行方を尋問されるために鎌倉方に捕らえられたと記述されています。
これは、かなり信用できる記事だと思われます。それなのに元暦元年のこの時期に常磐御前を死なせてしまうというのは、果たしてどうなのでしょうか?
いつもは、「お前は史実史実とドラマにつっこみを入れすぎだ。」と私をたしなめるうちのだんなさんも、「母として最後に義経への遺言を残し、身を呈して義経を守ったという形にしたかったのだろうけれど、この時期に常磐を死なせるなんてことはしてはいけない。フィクションをドラマの展開上入れるのは仕方ないけれども、このように主人公にとって重要な人物の生死に関して、あまりにも明らかな虚構を入れることは絶対に許されない!」と憤慨していました。
私個人としてもここでは常磐御前を死なせないで、稲森いずみさん演じる常磐御前が義経の行方を尋問された時に、「知りません!」と毅然として応えるというシーンを、出来ることなら観てみたかったです。
さて、平家の方に目を向けると、維盛入水のことにちらっと触れていましたよね。
でも、維盛が戦線から離脱するところはカットされていたと思うのですけれど…。確か維盛のこの前の登場シーンは、三草山で弟の資盛が敗北して屋島に逃げたという知らせを聞き、「弟の不始末はそれがしが取り返します。」と言っていたシーンだと思うのです。なので経子が「維盛が熊野で入水しました。」と言ったときは一瞬びっくりしてしまいました。
それに、そのあと経子が言っていた「紀州に上陸しようとしたが上陸できず、そのまま入水した。」と言う言葉。何かもっともらしく聞こえますが、これは「平家物語」に描かれている、『維盛入水』の経緯とはほど遠いですよね。この経子のせりふ、何を根拠にしたのか首を傾げてしまいます。
それから、『維盛入水』については、真偽のほどははっきりわからないようなのですよね。これに関しては色々な説があるようです。では、今回はその当たりを少し書かせていただきますね。
まず、『平家物語』に描かれている『維盛入水』の経緯について簡単にお話しします。
平家一門と共に都落ちした維盛ですが、都に残してきた妻子のことが気になってなりませんでした。「もう一度妻子に会いたい!」という思いが募った維盛は、一ノ谷の合戦で平家が大敗したあと、突然屋島から逃げてしまうのです。
そして維盛は紀州に上陸し、そこから高野山に登りました。最初は上洛して妻子に合おうと思っていたようですが、重衡のように生け捕りにされるのは嫌だと考えて上洛を断念したようです。高野山では、昔なじみの滝口入道(斉藤時頼)と再会、彼の手によって出家することとなります。その後那智の沖に向かい、極楽往生を願って入水したのでした。
しかし、『平家物語』に描かれている維盛の物語は、どうもきれいすぎて真実からはほど遠いような気がするのです。そこで色々調べてみると、彼の入水については先にも書いたように色々な説があり、正確には真偽のほどがわからないようなのです。
では次に、維盛の戦線離脱後についての説を二つほど紹介させていただきます。
まず一つ目です。維盛は高野山に潜伏していたものの命の危険を感じて上洛し、後白河法皇を頼ることとなります。
後白河法皇も維盛に同情し、「何とか命を助けてあげたい。」と思って鎌倉の頼朝にうかがいをたてました。頼朝から、「ひとまず鎌倉に身柄を送るように。」という返事が来たため、維盛は鎌倉に向かうこととなります。しかし維盛は鎌倉に向かう道中で食を断ち、相模国湯下宿で世を去ってしまいました。
維盛は敵の手に渡されると思い込み、人生に絶望してしまったのでしょうか。
もう一つの説ですが……。藤原兼実の日記『玉葉』の二月十九日の条に、「維盛は船三十数艘を率いて屋島から南海を指して去った。」という記述があります。
つまり、維盛は単独で戦線を離脱したのではなく、多くの部下を連れて南海に逃げていったというのです。当時の情報通の兼実の日記に記載されていることですので、かなり信憑性がありそうです。
では、南海とはどこなのでしょうか?色々な本で調べてみると、やはり熊野のことらしいのです。実はこの時期の熊野はどちらかというと平家寄りでした。そして維盛は、どうやら熊野の湯浅党にかくまってもらっていたらしいのです。もしかすると世の中に再び出る時期をじっと待っていたのかもしれませんね…。
しかし、そのあと維盛が上洛し、鎌倉に向かう途中に亡くなったのか、あるいは『平家物語』に描かれているように高野山に登って出家し、そのあと入水してしまったのか……。真相は不明のようです。
私の考えでは、その後維盛は上洛し、鎌倉に送られる途中で亡くなったと思うのですが…。
そして維盛は、心にかけていた妻子とはついに再会できないまま亡くなったのではないかと思います。
維盛は言うまでもなく重盛の長男、つまり平清盛の嫡孫に当たります。本来なら平家の棟梁になってもおかしくない人物なのですが、清盛亡き後平家の棟梁になったのは、彼の叔父の宗盛でした。そしてその陰で強い発言力を持っていたのが宗盛の母、時子ではなかったかと私は思っているのです。
しかし、維盛の父の重盛は時子の実子ではありません。母親を通してのつながりが強かったこの時代、維盛をはじめとする重盛の息子達は、いわば平家の反主流派のような立場になってしまったのだと思います。急に決まったと思われる平家の都落ちに対しても、彼らは多少なりとも不満に思っていたかもしれません。
実は、重盛の息子六人のうち四人は、何らかの形で戦線を離脱しているのです。
維盛(重盛の長男)に関しては前に長々と述べてきたとおりです。
資盛(重盛の次男)は、『平家物語』によると壇ノ浦で入水したことになっていますが、維盛と共に船で南海に去った……という説があります。つまり、本当に壇ノ浦で入水したかどうかははっきりしていません。
清経(重盛の三男)は一ノ谷合戦に先立つ寿永二年(1183)、豊前の柳ヶ浦で入水自殺をしています。
忠房(重盛の六男)は、屋島の合戦直後に戦線離脱します。その後紀州に潜伏していましたが、頼朝の「小松殿重盛の息子は命を助ける。」という偽りの誘いに乗り鎌倉に下向。都への帰途、頼朝の命により斬首されています。
重盛の息子のうち、確実に最後まで平家と運命を共にしたのは、一ノ谷で戦死した師盛(重盛の五男)と、壇ノ浦合戦の時に一門と共に入水をした有盛(重盛の四男)の二人だけです。
このように、重盛の息子達は複雑な立場に置かれており、たとえ戦線離脱をした者も数奇な運命を辿らざるを得なかったと言えそうです。
維盛の入水は史実かどうかはわかりませんが、『平家物語』に描かれている彼の入水シーンをドラマで取り上げるのは、私にとっては大歓迎でした。しかし、ドラマではそんな維盛の立場の微妙さや戦線離脱に至る経緯についてを一切触れていないため、彼の法衣姿での入水のシーンも何か唐突で違和感があるのですよね。「南無阿弥陀仏」と何回も念仏を唱えながら入水する維盛の姿は映像的にはきれいだっただけに、そのことがとても残念でした。
さて来週は、法皇さまが泣き脅し作戦に出るようですね。義経はその作戦に乗せられてしまうのでしょうか。
一ノ谷ではかなり勇ましい武士に描かれていた義経も、再び元の甘ちゃんに戻ってしまったような感があります。今回常磐御前が、「あの子は弱いところと強いところを合わせ持っている。」というようなことを言っていましたが、うちのだんなさんは「このドラマではその内にある弱い面があまりにも強調されている。これでは今までの義経の英雄としてのイメージが完全に壊されてしまう。」と言っていました。
私も義経さんは、もっと明るくて自由奔放な人物だと思うのです。法皇に翻弄されるというのはある意味史実なのでしっかり描いてもらいたいですけれど、彼の明るくて強い面をもっと表に出して欲しいものです。
今週の見どころは法皇さまと常磐御前だったと思います。
法皇さまは義経を翻弄し、常磐御前は命をかけて義経をいさめたという感じがしました。では、今週はその当たりから書かせていただきます。
法皇さまと知康と丹後局、相変わらず謀略を巡らしていましたね。やっぱりこの3人が集まると怖いです。頼朝と義経の兄弟仲を裂いて、源氏の力を弱体化させようとは、悪知恵が働きますよね。
それとは知らず、知康や丹後局の高圧的な態度に屈するように任官してしまった義経です。この時義経は何としてでも任官を断り、すぐに、任官の話があったことを頼朝に報告すべきなのですよね。本来は…。
でも、義経はその場で任官を承諾してしまいました…。やはり義経には、「蒲の兄上が官位をもらったのに、一ノ谷で手柄をあげた自分が何ももらえないなんてあんまりだ。」という考えが多少なりともあったと思うのですよね。それと、京育ちなだけに朝廷の権威というものへの、恐れと憧れにも似たこだわりがあったのでしょうね。
それにしても、「御曹司は法皇の家来ではなく鎌倉殿の家来ですぞ。」と義経をいさめる郎党が誰一人いないのが、やはり今回もとても気になりました。
鎌倉から送られてくる正室の河越の姫についても、「静殿を大切にするのはかまわないが、河越の姫は鎌倉殿から下される大切な正室なのだから、丁重にあつかうように。」とさとす者も、誰一人いません。
今回の放送を観ていて、頼朝の考え方や武士というものを理解している郎党がいなかったことは、義経にとってはとても大きな不幸だったのだなと、改めて思いました。
そして、そんな義経を唯一いさめたのが常磐御前でした。「もう会いに来てはなりません。」と言っていたのに、病気を押して夜陰に紛れて義経に会いに来るとは、やっぱり母親の愛情なのですね。きっと、義経のことが心配でたまらなかったのでしょうね。
でも、「世の中のことを見定めよ。法皇さまのことも、頼朝のことも……」という常磐御前の遺言は、義経の心にどこまで通じたのか疑問です。と言うのは、このあと義経は常磐御前が心配したとおりの道を歩んでしまったのですから…。
ところで今回の放送で、常磐御前はこの直後に亡くなってしまいましたが、少し早すぎると思いました。現在ドラマであつかわれている時期は元暦元年(1184)です。義経を土御門殿の誘いに乗せないために病気の身を呈した……、というようにしたくてあそこで常磐御前を死なせてしまったのでしょうが、実は彼女はその二年後の文治二年(1186)までの生存が確認できるのです。
「吾妻鏡」によると、常磐は文治二年六月に義経の行方を尋問されるために鎌倉方に捕らえられたと記述されています。
これは、かなり信用できる記事だと思われます。それなのに元暦元年のこの時期に常磐御前を死なせてしまうというのは、果たしてどうなのでしょうか?
いつもは、「お前は史実史実とドラマにつっこみを入れすぎだ。」と私をたしなめるうちのだんなさんも、「母として最後に義経への遺言を残し、身を呈して義経を守ったという形にしたかったのだろうけれど、この時期に常磐を死なせるなんてことはしてはいけない。フィクションをドラマの展開上入れるのは仕方ないけれども、このように主人公にとって重要な人物の生死に関して、あまりにも明らかな虚構を入れることは絶対に許されない!」と憤慨していました。
私個人としてもここでは常磐御前を死なせないで、稲森いずみさん演じる常磐御前が義経の行方を尋問された時に、「知りません!」と毅然として応えるというシーンを、出来ることなら観てみたかったです。
さて、平家の方に目を向けると、維盛入水のことにちらっと触れていましたよね。
でも、維盛が戦線から離脱するところはカットされていたと思うのですけれど…。確か維盛のこの前の登場シーンは、三草山で弟の資盛が敗北して屋島に逃げたという知らせを聞き、「弟の不始末はそれがしが取り返します。」と言っていたシーンだと思うのです。なので経子が「維盛が熊野で入水しました。」と言ったときは一瞬びっくりしてしまいました。
それに、そのあと経子が言っていた「紀州に上陸しようとしたが上陸できず、そのまま入水した。」と言う言葉。何かもっともらしく聞こえますが、これは「平家物語」に描かれている、『維盛入水』の経緯とはほど遠いですよね。この経子のせりふ、何を根拠にしたのか首を傾げてしまいます。
それから、『維盛入水』については、真偽のほどははっきりわからないようなのですよね。これに関しては色々な説があるようです。では、今回はその当たりを少し書かせていただきますね。
まず、『平家物語』に描かれている『維盛入水』の経緯について簡単にお話しします。
平家一門と共に都落ちした維盛ですが、都に残してきた妻子のことが気になってなりませんでした。「もう一度妻子に会いたい!」という思いが募った維盛は、一ノ谷の合戦で平家が大敗したあと、突然屋島から逃げてしまうのです。
そして維盛は紀州に上陸し、そこから高野山に登りました。最初は上洛して妻子に合おうと思っていたようですが、重衡のように生け捕りにされるのは嫌だと考えて上洛を断念したようです。高野山では、昔なじみの滝口入道(斉藤時頼)と再会、彼の手によって出家することとなります。その後那智の沖に向かい、極楽往生を願って入水したのでした。
しかし、『平家物語』に描かれている維盛の物語は、どうもきれいすぎて真実からはほど遠いような気がするのです。そこで色々調べてみると、彼の入水については先にも書いたように色々な説があり、正確には真偽のほどがわからないようなのです。
では次に、維盛の戦線離脱後についての説を二つほど紹介させていただきます。
まず一つ目です。維盛は高野山に潜伏していたものの命の危険を感じて上洛し、後白河法皇を頼ることとなります。
後白河法皇も維盛に同情し、「何とか命を助けてあげたい。」と思って鎌倉の頼朝にうかがいをたてました。頼朝から、「ひとまず鎌倉に身柄を送るように。」という返事が来たため、維盛は鎌倉に向かうこととなります。しかし維盛は鎌倉に向かう道中で食を断ち、相模国湯下宿で世を去ってしまいました。
維盛は敵の手に渡されると思い込み、人生に絶望してしまったのでしょうか。
もう一つの説ですが……。藤原兼実の日記『玉葉』の二月十九日の条に、「維盛は船三十数艘を率いて屋島から南海を指して去った。」という記述があります。
つまり、維盛は単独で戦線を離脱したのではなく、多くの部下を連れて南海に逃げていったというのです。当時の情報通の兼実の日記に記載されていることですので、かなり信憑性がありそうです。
では、南海とはどこなのでしょうか?色々な本で調べてみると、やはり熊野のことらしいのです。実はこの時期の熊野はどちらかというと平家寄りでした。そして維盛は、どうやら熊野の湯浅党にかくまってもらっていたらしいのです。もしかすると世の中に再び出る時期をじっと待っていたのかもしれませんね…。
しかし、そのあと維盛が上洛し、鎌倉に向かう途中に亡くなったのか、あるいは『平家物語』に描かれているように高野山に登って出家し、そのあと入水してしまったのか……。真相は不明のようです。
私の考えでは、その後維盛は上洛し、鎌倉に送られる途中で亡くなったと思うのですが…。
そして維盛は、心にかけていた妻子とはついに再会できないまま亡くなったのではないかと思います。
維盛は言うまでもなく重盛の長男、つまり平清盛の嫡孫に当たります。本来なら平家の棟梁になってもおかしくない人物なのですが、清盛亡き後平家の棟梁になったのは、彼の叔父の宗盛でした。そしてその陰で強い発言力を持っていたのが宗盛の母、時子ではなかったかと私は思っているのです。
しかし、維盛の父の重盛は時子の実子ではありません。母親を通してのつながりが強かったこの時代、維盛をはじめとする重盛の息子達は、いわば平家の反主流派のような立場になってしまったのだと思います。急に決まったと思われる平家の都落ちに対しても、彼らは多少なりとも不満に思っていたかもしれません。
実は、重盛の息子六人のうち四人は、何らかの形で戦線を離脱しているのです。
維盛(重盛の長男)に関しては前に長々と述べてきたとおりです。
資盛(重盛の次男)は、『平家物語』によると壇ノ浦で入水したことになっていますが、維盛と共に船で南海に去った……という説があります。つまり、本当に壇ノ浦で入水したかどうかははっきりしていません。
清経(重盛の三男)は一ノ谷合戦に先立つ寿永二年(1183)、豊前の柳ヶ浦で入水自殺をしています。
忠房(重盛の六男)は、屋島の合戦直後に戦線離脱します。その後紀州に潜伏していましたが、頼朝の「小松殿重盛の息子は命を助ける。」という偽りの誘いに乗り鎌倉に下向。都への帰途、頼朝の命により斬首されています。
重盛の息子のうち、確実に最後まで平家と運命を共にしたのは、一ノ谷で戦死した師盛(重盛の五男)と、壇ノ浦合戦の時に一門と共に入水をした有盛(重盛の四男)の二人だけです。
このように、重盛の息子達は複雑な立場に置かれており、たとえ戦線離脱をした者も数奇な運命を辿らざるを得なかったと言えそうです。
維盛の入水は史実かどうかはわかりませんが、『平家物語』に描かれている彼の入水シーンをドラマで取り上げるのは、私にとっては大歓迎でした。しかし、ドラマではそんな維盛の立場の微妙さや戦線離脱に至る経緯についてを一切触れていないため、彼の法衣姿での入水のシーンも何か唐突で違和感があるのですよね。「南無阿弥陀仏」と何回も念仏を唱えながら入水する維盛の姿は映像的にはきれいだっただけに、そのことがとても残念でした。
さて来週は、法皇さまが泣き脅し作戦に出るようですね。義経はその作戦に乗せられてしまうのでしょうか。
一ノ谷ではかなり勇ましい武士に描かれていた義経も、再び元の甘ちゃんに戻ってしまったような感があります。今回常磐御前が、「あの子は弱いところと強いところを合わせ持っている。」というようなことを言っていましたが、うちのだんなさんは「このドラマではその内にある弱い面があまりにも強調されている。これでは今までの義経の英雄としてのイメージが完全に壊されてしまう。」と言っていました。
私も義経さんは、もっと明るくて自由奔放な人物だと思うのです。法皇に翻弄されるというのはある意味史実なのでしっかり描いてもらいたいですけれど、彼の明るくて強い面をもっと表に出して欲しいものです。