今回は最近、再読した平安小説を紹介します。
☆紫式部の娘 賢子
著者=田中阿里子 発行=徳間書店・徳間文庫
内容(「BOOK」データベースより)
源氏物語の完成に向けて苦慮し、藤原道長の強引な求愛に懊悩する紫式部。一方、式部の娘賢子は母の厳しい教育を受け、侍女らにかしずかれて成人するが、友人も少なく孤独の身であった。後見もいない賢子の将来を思いやり、母娘ともども皇太后彰子の許へ出仕するようになる。やがて、和泉式部、赤染衛門らとの交際が始まり、さらに、貴紳顕官の子弟たちの誘惑が待っていた…。長篇歴史小説。
1986年に、「猪名の笹原風邪吹けば」というタイトルで講談社から単行本で発行され、1992年に徳間書店から文庫化された本です。
初読は1988年、旧タイトルの単行本で読みました。とても面白かったので2回ほど再読し、いつかこちらで紹介してみたいとずっと思っていました。今回、10年ぶりぐらいに読んだのですがやっぱりおもしろかったので、紹介させていただきます。
今回は文庫の方で読んだので、記事タイトルも「紫式部の娘 賢子」としました。。
なお、25年以上前に出た本なのですでに絶版です。でも、amazonで中古本が出品されているようですし、図書館には置いてあると思いますので、興味を持たれた方はそちらで探してみて下さい。
タイトル通り、紫式部と藤原宣孝との間に生まれた娘、藤原賢子の生涯を描いた小説です。
十代半ばで皇太后彰子の許に出仕、何人かの公達と恋をして藤原兼隆との間に娘を出産、同じ頃に誕生した親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となります。40歳近くになって、後に大宰大弐となる高階成章と結婚、天王の乳母として従三位に叙せられ、「大弐三位」と称せられた賢子の生涯を、当時の宮廷社会の歴史を背景に、様々な人物と関わらせながら描いています。
で、私は以前、賢子の人物伝をこちらの記事に書いたので、彼女についての詳しいことは書きませんが、今回、再読してみて「これは著者の田中阿里子さんの創作なのでは」と思われることや印象深かったことを以下に記述します。
☆里下がりし「源氏物語」を執筆中の紫式部を道長が訪ねる場面がある。紫式部にとって道長は憎らしくも愛しい人。
☆具平親王が身分の低い女性との間にもうけ、紫式部のいとこの伊祐の養子となった頼成が小説の初めの方でちらっと登場する。頼成は賢子の幼なじみという設定。
☆兼隆、成章意外で賢子が関わる公達は藤原定頼、藤原公信、藤原頼宗など。
特に頼宗は賢子が長い間思いを寄せた愛しい人。
以下、著者の創作と思われるので、ネタバレです。
賢子は幼い頃、賀茂祭で1人の公達に心惹かれるのですが、その公達が頼宗。
一方それとは知らず頼宗は、出仕前の賢子に文を送るが、母と乳母の判断でその文は隠され、賢子は長いこと、その事実を知らずにいた。
その後、賢子は兼隆との間に娘をもうけるが離別という紆余曲折を経て、2人は恋人同士に。しかし数年後、親仁親王の嫉妬を気にする頼宗は賢子との別れを決意し、賢子は成章の妻になることに。
☆こちらもすごいネタバレですが。
成章は賢子と結婚後、任地の阿波で現地の身分の低い女性との間に娘をもうける。その娘は成長してから成章と一緒に上京し、賢子の身の周りの世話をする小間使いとなる。
成章と死別後、賢子は宮中に上がるとき、娘を自分の世話をさせる女嬬として伴っていたが、たまたま娘を残して里下がりしている間に、娘は後冷泉天皇に召され妊娠する。
その後、娘は男児を出産し、そのまま亡くなってしまう。娘が成章の子だということも、男児が後冷泉天皇の落としだねということも伏せられ、賢子が成章との間にもうけた為家の養子になる。つまり表向きは賢子の孫として養育されるというわけです。。
このことに関して著者は小説の末尾で、帝のご落胤を為家の養子にしたというのは噂であって確証はない」と書かれていましたが、このようなことが絶対になかったという確証もないような気がします。
このことが描かれるのは小説の終わり近くになってからですが、初めの方での頼成の登場は、後冷泉天皇のご落胤を為家の養子にすることへの伏線だったのですね。
同時に、当時は父が天王や親王であっても、母親の身分が低ければ臣下の養子になるか出家するしか道がなかったわけで(上で書いた成章の妾腹の娘もそうですが、身分の低い母親から生まれた子への差別は臣下でも一緒ですよね)、少し哀れにも思えます。
なお私は、賢子の人物伝でこの小説のことをちらっと紹介し、賢子の生んだ娘は兼隆の子とも公信との子とも取れるような書き方をしていたと書きましたが、今回再読してみたところ、著者は兼隆の子と考えていたのではないかという気がしました。私も兼隆の子と思っているのでほっとしました。
それはともかくこの小説、300ページくらいでそれほど長くないのですが、50年余りの時代が描かれているため登場人物が膨大です。その点、ちょっと混乱するかもしれませんが、主要登場人物の性格の書き分けがはっきりしています。
おとなしく誠実だけど少し優柔不断な頼宗、豪快でユーモアのある成章などはその典型、だと思うのですが、紫式部と賢子の性格や人生観の違いの書き分けも顕著だと思いました。
そんな2人の違いを表しているせりふは、紫式部が「人は40になったら死ぬ準備をしなければならないのよ」と言っていたのに対し、40歳で成章との子を出産したこともあるのでしょうけれど、40歳になった賢子は、「私はこの子が40になるまで生きるわ」と言ったことでしょうか。
早く両親と死に別れ、宮中で辛い目に遭いながらも自分の力で人生を切り開き、乳母として後冷泉天皇に信頼され、思いがけない運命も受け入れて前向きに生きようとする賢子からはたくさん、元気を頂けたような気がしました。
また、賢子が宮廷で生きた時代は藤原頼通が関白だった時代とほぼ重なります。道長が築いた栄華が次第に衰退し、院政期に向かっていく時代についても詳しく知りたいと、この小説を読みながら思いました。
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☆紫式部の娘 賢子
著者=田中阿里子 発行=徳間書店・徳間文庫
内容(「BOOK」データベースより)
源氏物語の完成に向けて苦慮し、藤原道長の強引な求愛に懊悩する紫式部。一方、式部の娘賢子は母の厳しい教育を受け、侍女らにかしずかれて成人するが、友人も少なく孤独の身であった。後見もいない賢子の将来を思いやり、母娘ともども皇太后彰子の許へ出仕するようになる。やがて、和泉式部、赤染衛門らとの交際が始まり、さらに、貴紳顕官の子弟たちの誘惑が待っていた…。長篇歴史小説。
1986年に、「猪名の笹原風邪吹けば」というタイトルで講談社から単行本で発行され、1992年に徳間書店から文庫化された本です。
初読は1988年、旧タイトルの単行本で読みました。とても面白かったので2回ほど再読し、いつかこちらで紹介してみたいとずっと思っていました。今回、10年ぶりぐらいに読んだのですがやっぱりおもしろかったので、紹介させていただきます。
今回は文庫の方で読んだので、記事タイトルも「紫式部の娘 賢子」としました。。
なお、25年以上前に出た本なのですでに絶版です。でも、amazonで中古本が出品されているようですし、図書館には置いてあると思いますので、興味を持たれた方はそちらで探してみて下さい。
タイトル通り、紫式部と藤原宣孝との間に生まれた娘、藤原賢子の生涯を描いた小説です。
十代半ばで皇太后彰子の許に出仕、何人かの公達と恋をして藤原兼隆との間に娘を出産、同じ頃に誕生した親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となります。40歳近くになって、後に大宰大弐となる高階成章と結婚、天王の乳母として従三位に叙せられ、「大弐三位」と称せられた賢子の生涯を、当時の宮廷社会の歴史を背景に、様々な人物と関わらせながら描いています。
で、私は以前、賢子の人物伝をこちらの記事に書いたので、彼女についての詳しいことは書きませんが、今回、再読してみて「これは著者の田中阿里子さんの創作なのでは」と思われることや印象深かったことを以下に記述します。
☆里下がりし「源氏物語」を執筆中の紫式部を道長が訪ねる場面がある。紫式部にとって道長は憎らしくも愛しい人。
☆具平親王が身分の低い女性との間にもうけ、紫式部のいとこの伊祐の養子となった頼成が小説の初めの方でちらっと登場する。頼成は賢子の幼なじみという設定。
☆兼隆、成章意外で賢子が関わる公達は藤原定頼、藤原公信、藤原頼宗など。
特に頼宗は賢子が長い間思いを寄せた愛しい人。
以下、著者の創作と思われるので、ネタバレです。
賢子は幼い頃、賀茂祭で1人の公達に心惹かれるのですが、その公達が頼宗。
一方それとは知らず頼宗は、出仕前の賢子に文を送るが、母と乳母の判断でその文は隠され、賢子は長いこと、その事実を知らずにいた。
その後、賢子は兼隆との間に娘をもうけるが離別という紆余曲折を経て、2人は恋人同士に。しかし数年後、親仁親王の嫉妬を気にする頼宗は賢子との別れを決意し、賢子は成章の妻になることに。
☆こちらもすごいネタバレですが。
成章は賢子と結婚後、任地の阿波で現地の身分の低い女性との間に娘をもうける。その娘は成長してから成章と一緒に上京し、賢子の身の周りの世話をする小間使いとなる。
成章と死別後、賢子は宮中に上がるとき、娘を自分の世話をさせる女嬬として伴っていたが、たまたま娘を残して里下がりしている間に、娘は後冷泉天皇に召され妊娠する。
その後、娘は男児を出産し、そのまま亡くなってしまう。娘が成章の子だということも、男児が後冷泉天皇の落としだねということも伏せられ、賢子が成章との間にもうけた為家の養子になる。つまり表向きは賢子の孫として養育されるというわけです。。
このことに関して著者は小説の末尾で、帝のご落胤を為家の養子にしたというのは噂であって確証はない」と書かれていましたが、このようなことが絶対になかったという確証もないような気がします。
このことが描かれるのは小説の終わり近くになってからですが、初めの方での頼成の登場は、後冷泉天皇のご落胤を為家の養子にすることへの伏線だったのですね。
同時に、当時は父が天王や親王であっても、母親の身分が低ければ臣下の養子になるか出家するしか道がなかったわけで(上で書いた成章の妾腹の娘もそうですが、身分の低い母親から生まれた子への差別は臣下でも一緒ですよね)、少し哀れにも思えます。
なお私は、賢子の人物伝でこの小説のことをちらっと紹介し、賢子の生んだ娘は兼隆の子とも公信との子とも取れるような書き方をしていたと書きましたが、今回再読してみたところ、著者は兼隆の子と考えていたのではないかという気がしました。私も兼隆の子と思っているのでほっとしました。
それはともかくこの小説、300ページくらいでそれほど長くないのですが、50年余りの時代が描かれているため登場人物が膨大です。その点、ちょっと混乱するかもしれませんが、主要登場人物の性格の書き分けがはっきりしています。
おとなしく誠実だけど少し優柔不断な頼宗、豪快でユーモアのある成章などはその典型、だと思うのですが、紫式部と賢子の性格や人生観の違いの書き分けも顕著だと思いました。
そんな2人の違いを表しているせりふは、紫式部が「人は40になったら死ぬ準備をしなければならないのよ」と言っていたのに対し、40歳で成章との子を出産したこともあるのでしょうけれど、40歳になった賢子は、「私はこの子が40になるまで生きるわ」と言ったことでしょうか。
早く両親と死に別れ、宮中で辛い目に遭いながらも自分の力で人生を切り開き、乳母として後冷泉天皇に信頼され、思いがけない運命も受け入れて前向きに生きようとする賢子からはたくさん、元気を頂けたような気がしました。
また、賢子が宮廷で生きた時代は藤原頼通が関白だった時代とほぼ重なります。道長が築いた栄華が次第に衰退し、院政期に向かっていく時代についても詳しく知りたいと、この小説を読みながら思いました。
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