平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第39回&大江広元

2005-10-06 10:47:06 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第39回の感想です。

 オープニングの出演者紹介のテロップの中に平盛国の名前があるのを観て、なぜか妙になつかしくなってしまいました。
 盛国というと、ドラマの中では常磐御前を尋問したりするなど、かなりあくの強いおじさんに描かれていましたよね。しかし、清盛が亡くなったあとは全く登場していません。自分の邸で清盛が亡くなったあとは、盛国本人も消えてしまったようですよね。
 しかし盛国は、消えてしまったのでも亡くなってしまったのでもありません。彼は寿永二年に平家一門と共に都落ちしています。そして壇ノ浦合戦後、源氏方の捕虜となりました。その後鎌倉に送られますが、自ら食を断って文治二年(1186)に世を去っています。
 私個人としては、壇ノ浦合戦後の盛国のすさまじい生き様にもぜひスポットを当てて欲しかったです。

 盛国の話はこのくらいにして、今週の感想に移りますね。

☆ 頼朝に命乞いをする宗盛。
 元々総大将は荷が重すぎた宗盛です。おまけに生き残ってしまって、鎌倉に護送されてきて……、本人は辛かったと思います。しかし、頼朝に命乞いをする姿を見ると、どうしても格好良い知盛や重衡と比較してしまいます。そして「やっぱり宗盛は情けない!」と思ってしまいました。でも、息子の清宗は頼朝に対してしっかり受け答えをするなど、結構しっかりしていましたよね。なので清宗のことはちょっと見直しました。

☆ 義経に意見する弁慶
 「どうしてもっと早く、義経に意見してあげなかったの?」と思わずつっこんでしまいました。「大姫様には会っても良かったのではないか。」と今頃言ったって遅いのですよね。
 そして、どうしても義経を大姫・義高事件と結びつけたがる脚本にも疑問を感じました。義経が政子の申し出を受けず、大姫とも会わないなら、この話は意味がなかったのではないでしょうか。

☆回想シーンが長すぎます
 義経が書き送った腰越状ですが、自分の名前を「左衛門少尉源義経」と書くところがそもそも問題だと思います。「左衛門少尉」は義経が頼朝の許可なく任官した官職です。この官職を書状に書くということそのものが、頼朝に反抗していると映るのではないでしょうか。だってこの官職は後白河法皇から授かったものであり、その意味で見ると義経は、鎌倉の家来と言うより、法皇の家来という様に皆には思われると思うのですが…。果たしてどうなのでしょうね?旦那さんは『俺が頼朝であったら、「左衛門少尉」の部分を見たところで書状を破り、義経追討の命令を側近に伝えるな』と言っていました。
 それにしてもそのあとに続いた長ーい回想シーン、「これって手抜きじゃないの!」と思ってしまいました。
 そして回想シーンを観る限りでは、義経より頼朝の方がずっと苦労をしているように思えました。義経は7歳まで母と一緒にいましたし、清盛という父親代わりの人もいました。鞍馬寺でも大切にされ、奥州に下ってからは秀衡にも大切にされています。両親との縁は薄かったかもしれませんけれど、結構恵まれていたのではないでしょうか?
 それに比べると頼朝は、20年間も一人で流人生活を送っていたのです。しかも源氏の嫡流であったため、北条を初め関東諸侯からかなり監視されていて、本当に安心できる時はなかったのだろうなと、彼の心の重圧の強さに哀れを感じてしまいます。しかも頼朝は平治の乱の敗戦を肌で体験しているのです。平治の乱当時赤ん坊で戦の記憶のない義経よりもずっと悔しい思いをしていたはずです。

 このような色々な出来事を考えると、頼朝と義経の決定的な断絶は時間の問題という感じがします。

 ところで、前回私は「腰越状の宛名は大江広元」と書きました。ドラマでも、「大江殿宛」になっていたのでほっとしました。
 しかし本来は、当時の広元は大江姓ではなく中原姓を名乗っていたはずです。

 では今週は、そのあたりと大江(中原)広元の業績について書かせていただきたいと思います。

☆大江広元 (1148~1225)
 広元の出自に関しては3つの説があるようです。

 1.大江匡房の孫大江維光の実子で、後に中原広季の養子になったという説。
 2.中原広季の四男で、後に大江維光と父子契約をしたという説。
 3.後白河院側近の藤原光能を父に、大江維光の姉妹を母に誕生し、母の再婚相手で  あった中原広季の養子となったという説。

 これに関して、人物叢書「大江広元」 (上杉和彦著 吉川弘文館)によると、広元の父が藤原光能という説については、広元が生まれた時光能が17歳であったことから考えにくいとされています。そうなると父は大江維光か中原広季のいずれかということになりますが、建保四年(1216)六月、広元が大江姓への改姓を朝廷に求めるために提出した申文に、「大江維光とは父子」とか、「中原広季に養育の恩をこうむった」という文章があることから、実父は大江維光と考える方が自然のようです。
 そのようなわけで広元は、建保四年閏六月に大江姓への改姓が認可されるまではずっと「中原広元」と名乗っていたのです。腰越状を彼に宛てて送った義経も、彼を重用していた頼朝も、彼のことは「中原広元」と認識していたのではないでしょうか。
 なお中原氏は明経道(経書を学ぶ学問)と明法道(法律を学ぶ学問)の家ですが、広元は初めは明経得業生でした。鎌倉下向後の建久二年(1191)には明法博士に任じられています。大江氏の家学である紀伝道(漢文や漢詩を学ぶ学問)ではなく、中原氏の家学である明経道や明法道の道を歩んでいたところは、彼が中原氏の一員であったことを象徴しているように思えます。

 では、この広元とはどのような人だったのでしょうか?

 彼は最初は京の朝廷に出仕していました。先にも書いたように明経得業生出身で縫殿允から権少外記に任じられ、その後少外記に転じています。
 寿永三年=元暦元年(1184)頃、鎌倉の頼朝に招かれて下向します。彼の養父中原広季が、頼朝と親しかったために鎌倉に招かれたとも言われています。
 広元は鎌倉幕府内で公文所別当、政所別当を勤め、幕府の行政実務を行いました。文治元年(1185)には守護、地頭を全国に置くことを提案しています。
 頼朝の死後は北条政子や北条義時に協力して、比企能員・平賀朝雅・和田義盛などの謀反の鎮圧に協力しています。
 承久三年(1221)に後鳥羽上皇が兵を挙げると、諸将に反対して即刻上洛を主張。その結果、幕府を勝利に導いています。
 二代執権北条義時の死後、その子泰時を直ちに三代執権に任じたのも広元です。北条家による執権政治の確立、鎌倉幕府の基礎作りにおいて彼の果たした役割は非常に大きかったと言えそうです。

 以上、広元の業績をざっと書いてみましたが、彼は一貫して鎌倉幕府のため、頼朝のため、そして北条家のために人生を捧げたと言えそうです。都出身の貴族でありながらこれほど鎌倉幕府に身を捧げた彼の心中はどのようなものだったのでしょうか。おそらく彼は情よりも理を重んじる人だったのではないでしょうか。
 ドラマでの広元は、「義経を鎌倉に入れてはなりません。」と頼朝に進言していましたよね。実務的で冷徹な人物というイメージを受けましたが、この描き方はかなり実像に近いのではないかと思いました。

 さて来週は、いよいよ頼朝と義経の亀裂が決定的になるようです。普段からうじうじ悩んでいる義経がますます暗くなるような気がしますよね。これからいったいどうなることやら…。
 ところで、重衡の処刑と輔子との涙の別れの場面の放映はもう少し先のようです。格好良い重衡を拝める楽しみを先にとっておくことができるのは嬉しい限りです。
  

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