平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

今年もありがとうございました

2009-12-30 22:13:50 | えりかの平安な日々 04~09
 早いもので、2009年もあと1日となりました。ちょっと早いですが、2009年の総決算を…。

 今年、一番嬉しかった事は、何と言っても長年の念願だった斎宮に行けたことです。楽しく充実した1日を過ごすことが出来ました。現在、その時の旅行記「斎王に逢う旅」を旅の記録で連載中ですが、前半部分だけでも何とか今年中にUP出来てほっとしています。後半は1月10日頃からの再開となると思いますので、またよろしくお願いします。

 その他にも、松本侑子さんのサイン本プレゼントに当選したり、ネット上での素敵な再会があったりと、楽しいことがたくさんありました。

 それと、今年はamazonからたくさん本を買ったなあ。12冊も買ってしまった月もありましたし。でも、買った本のうち、3分の1はまだ未読のままだったりします。
 それでも、読んでみたかった本、「若草物語」シリーズ全4巻や、「青い城」や、ダイジェスト版でしたが「うつほ物語」などを読むことが出来て嬉しかったです。

 でも、私の個人的の今年の最大のヒットは「光源氏になった皇子たち」です。源高明や章明親王・済子女王など、今までほとんど歴史小説に登場したことのない人物を主人公に、彼ら彼女らを生き生きと描いたこの小説、とても面白く、興味深かったです。また近いうちに再読したいですね。そして何より、著者の西穂梓さんが拙掲示板にいらして下さって、本当に嬉しかったです。改めまして、その節はありがとうございました。

 こうして色々あった2009年ですが、何より感謝したい事は、私もだんなさんも友人たちも、そして猫のエリカも、大きな病気や怪我をせず、元気で過ごせたことだと思っています。

 こちらをご覧の皆様、今年も1年間、「平安夢柔話」をご覧下さいましてありがとうございました。相変わらずゆっくりの更新になると思いますが、来年もどうぞよろしくお願いいたします。どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 それから最後にお知らせです。

 この「えりかの平安な日々」のカテゴリですが、記事が150近くになってしまいましたので、来年から新カテゴリとしてURL変更をしようと思っています。このページは「えりかの平安な日々 04~09」として残しておきますね。詳しくは新年になりましたらトップページで発表する予定です。

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伊勢物語 ー狩の使と斎宮 ~斎王に逢う旅5

2009-12-29 09:47:41 | 旅の記録
*斎宮歴史博物館は、平成21年12月から平成22年3月まで耐震補強工事のため臨時休館されるそうです。詳しくは、斎宮歴史博物館のホームページでご確認下さいませ。

 斎宮歴史博物館の常設展示を一通り見たあと、博物館内の喫茶室で昼食を採りました。朝、あれだけたくさん食べたのに、おなかはぺこぺこ。どういうわけなのでしょうね~。

 それでも、このあと、特別展をゆっくり見たいと思い、なるべく簡単に早く食べられそうなミックスサンドイッチを注文。たまごサンドと野菜サンドが4つずつ盛りつけられていました。辛子がきいていてとてもおいしかったです。
 だんなさんはビーフピラフを注文しました。牛肉の入ったピラフにサラダがついていました。少しもらってしまいましたが、こちらもとてもおいしかったです。ごちそうさまでした。(^^)

 こうして30分くらいで昼食をすませ、いよいよ特別展「伊勢物語 ー狩の使と斎宮」が行われている特別展示室に向かいます。

 この「伊勢物語 ー狩の使と斎宮」は、平成21年10月17日から11月23日まで開かれていた展覧会です。詳しくはこちらのページをご覧下さいませ。早く言えば「伊勢物語」69段を、様々な展示品で解説した展覧会…と言えそうです。私はこの段のモデルとされる在原業平と恬子内親王にとても興味があるので楽しみです。

 実は、昼食の前、私たちは「伊勢物語69段を体感できるディスプレイ」を見て、予習をしていました。ボタンを押すと、伊勢物語69段がドラマ形式で見られます。また、画面上の人物に触れると、その人物が自己紹介をしてくれました。楽しかったです。

 では、展覧会をレポートする前に、「伊勢物語」69段の内容を紹介しましょう。

 昔、ある男が狩の使として伊勢にやってきました。ちなみに狩の使とは、朝廷の用に供する鳥や獣を調達する勅使で、同時に諸国の情勢を視察するという役目です。

 さて、その頃に天皇の名代として伊勢に下向していた斎王は、「今度の勅使は大切な方だから、いつもの勅使よりも手厚くもてなすようにと親から言われていたので、それはそれは親切に男をもてなします。

 こうしてもてなしているうちに、お互いを好ましく思ったのでしょうか。2日目の夜、男から斎王に、「ぜひ逢いたい」と手紙が来ます。女も喜んで、夜中にみなが寝静まったあと、女童一人を前に立たせて、男の部屋に忍んでいきます。でも、ほとんど言葉を交わさないうちに時間が経ち、女は自分の部屋に帰っていきました。そして、夜が明けた頃、女から男の許にこんな歌が届きます。

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか
「私がそちらに忍んでいった昨夜の出来事は夢なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか?」

 男はひどく泣いて、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひ定めよ
「昨夜のことが夢だったのか、現実だったのかは、今夜また逢って確かめればよい。」

と返事をし、狩に出かけていきました。

 ところがその夜、伊勢守で斎宮寮の長官を兼ねた物が、狩の使が来ていると聞いて一晩中主演を催したので、男は女のことが気になっているものの、逢いに行くことが出来ませんでした。男は夜が明けると尾張国に旅立たなければならなかったので、それこそ血の涙を流して残念がります。

 この場面、食事の前に見たディスプレイで、伊勢守が、「しめしめ、狩の使にごまをすっておけば出世できるかもしれない」と心の中でつぶやいていたのが面白かったです。確かにこれは伊勢守の本震だったかも?でも、男にとっては気になっている女のことで頭がいっぱい、従って迷惑な主演だったのでしょうね。

 さて、夜が明ける頃、女から男のもとに別れの杯の皿と一緒に上の句だけの歌が届けられました。

かち人の 渡れどぬれぬ えにしあれば
「かち人(徒歩で行く日と)が渡る浅瀬のように、あなたとの縁は浅い縁だったのね。」

 男はその句の下に

また逢坂の 関は越えなむ
「いつか逢坂の関をこえてまたきっと逢おう。」

 こうして男は尾張国に発っていきました。…というのが、「伊勢物語」69段のだいたいのあらすじです。

 ところが、この段には実はつけ足しがあるのです。つまり、「斎王というのは清和天皇御代の斎王、恬子内親王で、業平と親しかった惟喬親王の妹である。」さらに、「高階師尚は実は業平と斎王の子である」ということまで書いてある本もあります。つまり、恬子内親王は密かに業平との間に子を産んでいた…というのですよね。

 そこで、この「伊勢物語」69段は事実か虚構かについて、私も興味があり、そのことについて書かれた論文やエッセーをいくつか読んでいるのですが、読めば読むほどわからなくなっていました。今回の特別展「伊勢物語 ー狩の使と斎宮」はそのことについて色々な展示品で開設されているというので、E先生の説明を拝聴させていただきながら観賞しました。
 69段が事実か虚構かについては、平安時代中期から問題になっていたようです。そして鎌倉・室町時代になると、伊勢物語の解説書が書かれるようになり、色々議論されるようになります。そこで、「伊勢物語」の解説書の写本をいくつか見せていただきました。
 その中には、69段は事実だ」と書いてあるものもあれば、「業平が清和天皇御代に狩の使として伊勢に下ったという記録がないので虚構だ」と書いたものもあるとか。

 更に、斎王が女童を先に立てて、業平の許に忍んでいく場面を描いた絵を鑑賞。実は、この絵に描かれた女童は、三十六歌仙の一人、歌人の伊勢の幼き日の姿であるという説まであるそうです。
 と言うのは、先にも挙げた男の返し歌「かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひ定めよ」の下の句が、「古今集」では「夢うつつとは 世人定めよ」になっていることから、「世人(よひと)」と言うのは伊勢の幼名である。そして後年、伊勢は業平と恬子内親王の恋愛の話を含めて「伊勢物語」を書いた」というのですよね。ただ、伊勢の生年は877年頃、恬子内親王は876年に斎王を退下しているので、年齢的に無理があるようですが…。(平安時代史事典による。)本当に、69段は色々な解釈が出来るのですね。

 結局、私の中では、69段は虚構の可能性の方が強いかな?と思いながら、結論は出ませんでした。
 でも、これだけは確かなこと、E先生もおっしゃっていらしたのですが、狩の使が斎王と密かに恋愛した場所は片田舎ではなく、500人の男女が生活していた斎宮だった、つまり、人目の多い場所だったということです。そんなことを考えて69段を読んでみると、また違ったイメージがわいてきそうです。

 この他にも、色々な絵や写本が展示されていましたが、一番心引かれたのは、業平が二条の后藤原高子を背負って逃げる場面を描いた絵でした。
 これは、「伊勢物語」の第6段を描いたもの、業平らしい男が、清和天皇に入内する前の高子を背負って逃げたものの、雷雨になったので女を土蔵に隠し、刀を持って見張っていたのに、女は鬼に食べられてしまう…という話です。実際は鬼に食べられたのではなく、兄である基経や国経に高子を奪い返されたというのが真相のようですが、この話も事実か虚構かで議論が分かれそうですね。

 とにかく「伊勢物語」は謎だらけです。でも、色々な解釈が出来て夢がありますよね。この「伊勢物語 ー狩の使と斎宮」を見て、「伊勢物語」をもう一度じっくり読んでみたくなりました。

☆ブログ内の関連記事
 伊勢物語 謎多き古典を読む


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開設5周年のご挨拶

2009-12-21 06:24:18 | お知らせ・ブログ更新情報
 本日、12月21日を持ちまして、当ブログ「平安夢柔話」は開設5周年を迎えることが出来ました。これも、いつもご覧下さっていらっしゃる皆様のおかげです。ありがとうございます。

 特に、掲示板で暖かいコメントを下さる常連の皆様には感謝しています。いつもとても励みになります。ありがとうございます。

 それにしても、見切り発車でブログを開設して、5年も続いてしまったとは…。ここまで続けてこられたのは、上でも書きましたように、ご覧下さる皆様の暖かい励ましと、ブログを通してたくさんの素敵なお仲間と巡り会えたこと、私は歴史が好きという強い気持ちがあったおかげだと思っています。
 実は、ブログを開設した当時、私が出入りしていたサイト様の多くが、開設4~5年くらいだったのです。なので、「出来たら5年は続けたいなあ」と密かに思っていたのですが、その目標を達成することが出来ました。

 ついでに当ブログが今のような形になるまでの歴史をちょっと書いておきますと、

2004年12月21日
 「えりかの平安な日々」としてブログを開設。

2005年2月下旬
 「メール送信フォーム「えりかへのお便り」を設置。

2005年3月28日
 ブログのコメント機能を切り、掲示板「えりかの談話室(初代)」を設置。

2006年2月4日
 ブログのタイトルを「平安夢柔話」と変更。

2006年7月7日
 新掲示板「えりかの談話室(現在の掲示板)」を設置。

2006年9月下旬
 リンク集を設置。

2006年12月13日
 トップページを設置。

2008年10月6日
 「図書室記事索引」をUP。

 という風な感じで今のような形になりました。これからも、出来るだけ見やすく、記事を探しやすいよう、これからも試行錯誤していこうと思っています。

 開設当時は、「とにかく記事を増やさなければ」という思いで、週に4回くらい、頑張って更新していたのですが、最近はすっかり週一更新になってしまっています。頻繁にご覧下さっていらっしゃるかたがいましたら、なかなか更新できなくてすみません。
 でも、まだまだこちらでやりたいことはたくさんありますので、これからもマイペースでゆっくりと楽しみながら更新していこうと思っています。ブログの閉鎖などは全く考えていませんので、これからもどうかおつき合いの程をよろしくお願いいたします。

 現在、「斎王に逢う旅」の5回目の下書きを執筆中です。出来れば年内にUPしたいと思っていますが、何しろ年末で忙しいので、ここはマイペースでやっていきますね。年が明けましたら、「斎王に逢う旅」の続きや、図書室や系譜から見た平安時代の天皇の新しい記事も少しずつ書いていきたいと思います。

 では、繰り返しになりますが、今後とも「平安夢柔話」をどうぞよろしくお願いいたします。

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斎宮歴史博物館の展示品 ~斎王に逢う旅4

2009-12-14 11:31:42 | 旅の記録
*斎宮歴史博物館は、平成21年12月から平成22年3月まで耐震補強工事のため臨時休館されるそうです。詳しくは、斎宮歴史博物館のホームページでご確認下さいませ。


 「斎王群行」の映像を見たあと、私たちは斎宮歴史博物館の中の展示品を色々と見て回りました。そこで今回は、展示品を6点、写真つきで紹介したいと思います。

*斎宮歴史博物館の展示品は、フラッシュなしなら撮影OKです。

 では一つ目、扇です。


  


 私は、以前に十二単を着装したとき、扇を使わせていただきました。現代の扇子よりもずっと重く、大きいです。顔もすっぽりと隠すことが出来ます。


 次は蹴鞠の鞠と靴です。


  


 蹴鞠の鞠は、風俗博物館さんの出張展示でも実物を見せていただいたことがありますが、とても柔らかいです。これなら蹴っても痛くなさそうです。


 斎王の人形です。


  


 白い装束がとても神聖なイメージを受けます。彼女は映像に出てきた良子内親王?、それともこれから特別展で拝見する恬子内親王?、それとも徽子女王かしら。わくわくしますね。


 武官の装束です。


  


 手には長いやりを持っていて格好良いです。良子内親王をお守りした資房さんも、こういった装束を着ていたのでしょうね。


 斎王の乗る輿、葱花輦です。


  


 かなり大きくて高い乗り物です。天井には玉ねぎのような丸い飾りがあります。


 そしてラストは、斎宮跡から出土した羊の形をした硯です。


  


 この硯が、斎宮で実際に使われていたと思うとわくわくしますね。


 その他、写真は撮らなかったのですが、私の印象に残った展示品をいくつか紹介します。

☆斎宮跡から出土した土師器と須恵器が多数展示されていました。
 土師器も須恵器も、古墳時代から平安時代頃まで使用されていた土器です。
 実は私、お恥ずかしながら土師器と須恵器の違いがよくわかっていませんでした。早く言えば色の違い、赤褐色色の土器が土師器、青い土器が須恵器ということです。納得。それにしても、出土した土器の多さにびっくりしました。

☆斎王年表。斎王に卜定された内親王または女王のお名前が年代順に記載されていました。
 平安時代初期までは、ほとんど、、その時の天皇の皇女が斎王となっていたのですが、九世紀後半頃からは清和天皇御代の恬子内親王や、醍醐天皇御代の柔子内親王のように天皇の姉妹が卜定されるようになり、次第に天皇から血縁が遠い女王が卜定されるようになります。一条天皇御代の斎王、恭子女王は天皇のいとこですし、後一条天皇御代の(女専)子女王は、天皇から見ると父親のいとこと、かなり血縁が遠いです。(女専)子女王が神がかってしまった原因は、こんな所にもあるのかな…なんて思いました。

 この他、斎王群行の道筋がたどれる地図など、斎王に関する展示も充実。感激しました。

 ☆でも、一番感激したのは、徽子女王の家集、「斎宮女御集」の写本です。黄ばんではいましたが、徽子女王さまにお会いできたような気持ちになりました。(^^)

 この他にも色々な物が展示されていましたが、どれも素晴らしかったです。良い物を見ることが出来てとても嬉しかったです。


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最近購入した本&今読んでいる本

2009-12-08 21:40:43 | 読書日記
 久しぶりにamazonでお買い物。

 「伊勢斎宮の歴史と文化」 榎村寛之 塙書房
 「平家の群像 ー物語から史実へ」 高橋昌明 岩波新書
 「謎の旅人 曽良」 村松友次 大修館書店

の3冊を先週末に注文、昨日、手元に届きました。本が入っている箱を開けるとき、更に、買ったばかりの本を開くときはわくわくします。(^^)

 このうち、「謎の旅人 曽良」は、「奥の細道」の旅で松尾芭蕉に随行した曽良の人物評伝です。以前に読んだことがあり、最近、もう一度読みたいと思って家の1階にある書庫を探してみたのですが、何度探しても見つからないので、思い切って買うことにしました。
 私にとって、「奥の細道」は、芭蕉が仙台や金沢のような外様藩の領地に長く滞在していることや、病気療養のために山中温泉で芭蕉と別れた曽良がなぜか、大垣で芭蕉を出迎えているところなど、謎だらけの古典です。この本を読む前に、「奥の細道」も読み返してみなくては。

☆現在、読んでいる本

 「斎宮女御徽子女王 ー歌と生涯」 山中智恵子 大和書房

 私が最も興味のある斎王、徽子女王の人物評伝。彼女の歌や、当時の時代背景をもとに、その生涯に迫っています。当時の史料や彼女の歌が原文のまま引用されていますが、現代語訳はほとんどついていないので難解な箇所もありますが、「徽子女王についてもっともっと知りたい」という強い気持ちがあるせいか、わりとすらすらと読めています。
 現在、娘の規子内親王の斎王卜定の手前あたりです。いよいよ徽子女王の二度目の伊勢下向の場面が近づいてきました。楽しみです。

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斎王群行 ~斎王に逢う旅3

2009-12-03 14:04:50 | 旅の記録
*斎宮歴史博物館は、平成21年12月から平成22年3月まで耐震補強工事のため臨時休館されるそうです。詳しくは、斎宮歴史博物館のホームページでご確認下さいませ。


 斎宮歴史博物館の映像展示室では、「斎王群行」「斎宮を歩く」「今よみがえる幻の宮」の3本の映像が大きなスクリーンで定期的に上映されています。どれも良さそうで、とても見たかったのですが、今回は時間もあまりないので、「斎王群行」のみを見ることにしました。

 この「斎王群行」は、藤原資房の日記「春記」をもとに、後朱雀天皇御代の斎王、良子(ながこ)内親王の発遣の儀から伊勢への到着までを中心に描いた映像です。最前列に座り、視覚障害者用の音声解説端末を貸していただいて観賞しました。

 まず、大きなスクリーンに伊勢の海が映し出されました。視力の弱い私にも、波のしぶきが何となく見え、迫力があります。期待を抱かせるオープニングでした。

 さて、この映像の主人公、良子内親王は、長元二年(1029)に後朱雀天皇の第一皇女として誕生しました。(母は三条天皇の皇女、禎子内親王
 父、後朱雀天皇の践祚により、長元九年(1036)十一月斎宮に卜定され、長暦元年(1037)四月初斎院(大膳職)入り、同年九月野宮入り、翌長暦二年(1038)九月伊勢へ群行しました。この時、良子内親王は十歳でした。

 上でも書きましたが、この映像は十歳の斎王、良子内親王の発遣の儀から、斎宮到着、更に年月が流れ、十七歳になった良子内親王が描かれています。

 長暦二年(1038)九月、いよいよ伊勢に下向することになった良子内親王は桂川で禊を受け、内裏にて発遣の儀に臨みます。良子内親王は父、後朱雀天皇より前髪に「別れの御櫛」をさしていただき、「みやこのかたにおもむきたまふな」と天皇から声をかけられます。その後、彼女は内裏を退出していくのですが、この時、斎王は決してふり返ってはならない決まりになっていました。
 儀式の最中、後朱雀天皇がとても寂しそうだったのが印象的でした。良子内親王が再び都に帰ってくることが出来るのは天皇の譲位、近親者の不幸、本人の病気によって斎王を退下するときです。もしかしたら永遠の別れになるかもしれないのですよね…。

 さて、内裏を退出した良子内親王は、葱花輦と呼ばれる輿に乗り、女官や役人約五百人と共にそのまま伊勢に下向することとなります。「斎王群行」の始まりです。
 伊勢までは五泊六日の旅です。この間に宿泊する五箇所の宿泊所を「頓宮」と呼んでいました。まず宿泊するのが近江の勢多の頓宮。ここで良子内親王は乳母に「別れの御櫛」を外してもらいます。櫛は箱にしっかりと収められます。

 このようにして斎王は甲賀・垂水・鈴鹿・壱志の頓宮を経て斎宮に向かうのですが、映像ではこの間の出来事を、「春記」の著者、藤原資房の語りで語られていきます。

 資房は良子内親王の野宮を管理する野宮別当だったのですが、群行に従う義務はなかったのだそうです。ただ、父の資平が長奉送使(斎王を伊勢に送っていく勅使)だったことに加え、彼が良子の父、後朱雀天皇の側近だったこともあり、親友の娘を見送るような感覚で群行に従ったのでしょう。そこで、資房についても少し解説しておきます。

 藤原資房は寛弘四年(1007)、藤原資平の子として誕生しました。資平は「小右記」を著した藤原実資の甥に当たり、実資の養子になった人物です。つまり資房は実資の孫に当たるわけです。
 学識豊かで有能だった実資の流れを受け、資房もかなり有能だったらしく、後朱雀天皇御代、関白藤原頼通のもとで蔵人頭として勤めました。しかし、天喜五年(1057)正月二十四日、正三位春宮権大夫参議で父に先立ち五十一歳で薨じます。
 体があまり丈夫ではなかったようですが、後朱雀天皇によく仕え、腰痛がひどかった天皇の世話も女房たちに替わってよくやっていたようです。それでも関白に無視されていると思いこんだり、岳父の再婚、それに続く死によって援助が受けられなくなり、生活に困窮するようなこともあり、そのことを日記で訴えています。どうも神経質で几帳面な性格だったようですね。

 「斎王群行」の映像の中でも、そんな資房の性格がよく表現されていたように思えました。鈴鹿の頓宮には何の用意もされていなかった上、伊勢守は愚痴をこぼすばかり。資房はかなり憤っていました。また、橋を渡ったり山越えをしたりするとき、こぎ手がふらつき、斎王の乗った葱花輦が揺れてしまうこともあったようですが、「この中におられる斎王さまはどのような気持ちでおられるのであろうか」と気遣う場面もありました。

 このように色々ハプニングはありましたが、斎王の行列はようやく斎宮に到着します。ところが、到着した当日は日が悪く、斎宮に入るのを1日延ばさなくてはならなくなります。最後の最後まで色々あった旅だったようですね。

 さて、この映像もいよいよクライマックス、斎宮寮に入った良子内親王が資平や資房たちにむかい、「大儀であった」とお声をかける場面がありました。りんとしたすがすがしい声で、見ている私もはっとしました。良子内親王は伊勢に下向する途中に色々なことを経験し、「父に替わり、斎王として立派に役目を果たそう」という自覚が芽生えていたのだと思います。歴代斎王もこんな風にして、斎王としての自覚が芽生えていたのでしょうね。

 そしていよいよラストシーン、17歳になった良子内親王が歌を詠む場面です。
 伊勢に下って7年、寛徳二年(1045)、後朱雀天皇が病気のため退位したという知らせが都から届きます。これによって良子内親王は斎王を退下します。やがて天皇は崩御されました。別れの御櫛をさしてもらったあの日が、永遠の別れになってしまったのでした…。

 このように18分というわりと短い映像でしたが、ちゃんとストーリーになっていましたし、とても充実した良い映像だと思いました。良子ちゃん役の女の子がかわいらしかったですし。

 ところで、こうして良子内親王は斎宮を離れ、都に戻ったのですが、その後、彼女はどのような人生を送ったのでしょうか?

 帰宅後、そのあたりが気になって調べてみたのですが、残念ながらあまり記録がないようで、承暦元年(1077)八月、疱瘡により薨去したことくらいしかわかりませんでした。結婚もしなかったようなので、彼女は多分、母の禎子内親王と一緒に住んでいたのではないでしょうか。
 母が藤原氏ではないため摂関家からうとまれ、東宮累代の宝物である「壺切剣」も渡されなかった兄、尊仁親王(後の後三条天皇)を気遣う母の良き相談相手にもなっていたように思えます。母や弟妹から愛され、信頼された心穏やかな後半生であったことを祈りたいと思います。

☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『伊勢斎宮と斎王 祈りをささげた皇女たち』 榎村寛之 塙書房

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トップページの画像の撮影秘話

2009-12-01 11:03:17 | えりかの平安な日々 04~09
 久しぶりに、トップページの画像を変更しました。ネット友達からプレゼントしていただいた「お伊勢さんキティ」の携帯ストラップです。かわいいし素敵♪プレゼントして下さった方、本当にありがとうございました。(^^)

 ところで、この新しいトップページ写真の撮影秘話を少し…。

 この写真のバック、少し柔らかい感じがしませんか?実は、キティちゃんのストラップを我が家の愛猫、エリカの額に乗せて撮ったものなのです。

 私は視力の関係でうまく写真が撮れないので、だんなさんにお願いすることが多く、今回のキティちゃんもだんなさんにお願いして撮ってもらうことにしました。
 だんなさんは、写真を撮る場所を色々探していたのですが、「いい場所がある」と言って、布団の上で横になっていたエリカの所に行ったのです。エリカの額は茶色で、毛がふさふさしているので、「ここなら柔らかい感じがしていいかもしれない」と思ったのでしょうね。

 そこで、エリカの額を少し傾け、その上にキティちゃんのストラップを置きました。エリカは「何が始まるのかしら?」と思ったらしく、目をきょろきょろさせていましたが、撮影の間、ずっと動かないでいてくれました。エリカちゃん、ありがとう。本当に偉い猫ちゃんです。今度はエリカの写真をきれいに撮ってあげるからね。

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