平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

系譜から見た平安時代の天皇 トップページ

2014-09-15 15:13:32 | 系譜から見た平安時代の天皇
 このページは、「系譜から見た平安時代の天皇」のトップページです。凡例やもくじなどが書かれています。もくじの各項目をクリックすると各ページに直接ジャンプできますのでご利用下さい。

☆「系譜から見た平安時代の天皇」について

 「系譜から見た平安時代の天皇」は、文字通り、桓武天皇から後鳥羽天皇までの天皇を取り上げ、それぞれの天皇の祖父母・父母・おじ・おば・いとこ・おい・めい・兄弟姉妹・后妃や子供たち・末裔たちを紹介してみようという企画です。ご覧下さる皆様に少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


☆「系譜から見た平安時代の天皇」 凡例

1.タイトルとして天皇の名前を表示し、生没年・在位期間・父母の名前・簡単な略歴・父方の親族・母方の親族・兄弟姉妹・おい・めい・后妃と子供たち・末裔の順に記載してあります。

2.おじ・おば・いとこ・おい・めい・兄弟姉妹・后妃と子供たちがあまりにも多い場合は、私の独断と偏見で主要人物のみを掲載しました。特に親王・内親王に関しては、参考文献にも挙げました「日本史小百科 天皇(児玉幸多編・東京堂出版)」内の天皇家系図に掲載されている人物を中心に、私が特に注目している親王や内親王も若干補充して掲載してある程度ですので、詳しく知りたい方は「尊卑分脈」などの系図類をご参照下さい。

3.兄弟姉妹に関しましては、同母の兄弟姉妹の名前の前に○、異母の兄弟姉妹の名前の前に*をつけました。
(例)
 円融天皇の場合
兄弟
 ○冷泉天皇 *具平親王 ○為平親王


<もくじ>

第50代 桓武天皇
 737~806 在位781~806

第51代 平城天皇
 774~824 在位806~809

第52代 嵯峨天皇
 786~842 在位809~823

第53代 淳和天皇
 786~840 在位823~833

第54代 仁明天皇
 810~850 在位833~850

第55代 文徳天皇
 827~858 在位850~858

第56代 清和天皇
 850~880 在位858~876

第57代 陽成天皇
 868~949 在位876~884

第58代 光孝天皇
 830~887 在位884~887

第59代 宇多天皇
 867~931 在位887~897

第60代 醍醐天皇
 885~930 在位897~930

第61代 朱雀天皇
 923~952 在位930~946

第62代 村上天皇
 926~967 在位946-967

第63代 冷泉天皇
 950~1011 在位967~969

第64代 円融天皇
 959~991 在位969~984

第65代 花山天皇
 968~1008 在位984~986

第66代 一条天皇
 980~1011 在位986~1011

第67代 三条天皇
 976~1017 在位1011~1016

第68代 後一条天皇
 1008~1036 在位1016~1036

第69代 後朱雀天皇
 1009~1045 在位1036~1045

第70代 後冷泉天皇
 1025~1068 在位1045~1068

第71代 後三条天皇
 1034~1073 在位1068~1072

第72代 白河天皇
 1053~1129 在位1072~1086

第73代 堀河天皇
 1079~1107 在位1086~1107

第74代 鳥羽天皇
 1103~1156 在位1107~1123

第75代 崇徳天皇
 1119~1164 在位1123~1141

第76代 近衛天皇
 1139~1155 在位1141~1155)

第77代 後白河天皇
 1127~1192 在位1155~1158

第78代 二条天皇
 1143~1165 在位1158~1165

第79代 六条天皇
 1164~1176 在位1165~1168

第80代 高倉天皇
 1161~1181 在位1168~1180

第81代 安徳天皇
 1178~1185 在位1180~1185

第82代 後鳥羽天皇
 1180~1239 在位1183~1198


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『日本史小百科 天皇』 児玉幸多編 東京堂出版
 『歴代天皇と后妃たち』 横尾 豊 柏書房 
 『歴代天皇総覧 ー皇位はどう継承されたか』 笠原英彦 中央公論新社・中公新書

☆トップページに戻る
 

第50代 桓武天皇

2014-09-15 14:59:43 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  737~806
☆在位期間 781~806

☆両親
 父・光仁天皇 母・高野新笠

☆略歴

 光仁天皇(白壁王)の皇子。母は渡来系の血を引く高野新笠。名は山部。

天平九年(737)
 白壁王の子として誕生。当時天皇は天武系の聖武天皇であり、天智天皇の孫である白壁王は皇位から最も遠い一親王であった。

天平宝字八年(764)
 従五位下に叙せられ、官途の道を歩み始める。

宝亀元年(770)
 称徳天皇が崩御すると父、白壁王が天皇に選ばれ践祚(光仁天皇)。白壁王が天皇に選ばれた理由として、聖武天皇の皇女、井上内親王を妃にしており、他戸王をもうけていたことなどが考えられる。山部は親王となり四品に叙される。翌年中務卿に任じられる。

宝亀三年(773)
 皇太子となっていた異母弟、他戸親王が廃される。母井上内親王も皇后位を廃される。その後2人とも幽閉され、2年後に獄死する。

宝亀四年(774)
 皇太子に立てられる。内臣藤原良継の女を妃にしていたことなどが理由か?

天応元年(781)
 父、光仁天皇の譲位により践祚。弟の早良親王が皇太子に立てられる。

延暦元年(782)
 氷上川継の乱を鎮定する。

延暦三年(784)
 長岡京造営開始。

 しかし翌年、造長岡京使の藤原種継が暗殺され、その後、首謀者として皇太子早良親王が逮捕される。親王は無実を訴え、淡路島に配流の途中に亡くなり、新皇太子として皇子安殿親王(母は藤原良継女乙牟漏)が立てられる。

 しかしこの頃より、桓武天皇の周囲の人々(皇后藤原乙牟漏、夫人藤原旅子、母高野新笠、安殿親王妃藤原帯子など)が次々と世を去る。天皇は次第に、井上内親王や早良親王の怨霊のせいではないかとおびえるようになる。

 更に洪水の被害なども重なり、長岡京造営は中止となり、新しい都造営に着手する。

延暦十三年(794)
 平安京遷都。

延暦十九年(800)
 早良親王に崇道天皇の称号を与え、廃后されていた井上内親王の皇后位を復活させる。

延暦二十五年(806)
 3月17日(15日説も)崩御。柏原山陵に葬る。

 桓武天皇の業績としては平安京遷都の他、坂上田村麻呂による蝦夷征伐、財政再建、地方政治の粛正、平城仏教の俗化を抑え、近江に梵釈寺を建て、最澄らを保護したこと、『続日本紀』『延暦交替式』等、史書・法典の整備などが挙げられます。皇位から最も遠い一親王だっただけに、天皇になることで政治や文化の保護に夢中になってしまったのでしょうか。
 しかしその反面、怨霊におびえたり、一度決行した長岡京遷都を断念したりなど、「普通の人」という一面もあるような気がします。


☆父方の親族

 祖父・志貴皇子(天智天皇皇子) 祖母・紀橡姫(紀諸人女)

主なおじ

 湯原王 壱志王 榎井王

主なおば

 難波女王 

主ないとこ

 壱志濃王 尾張女王*父は湯原王 
 神王*父は榎井王

☆母方の親族

 祖父・和乙継 祖母・土師氏


☆主な兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟、*は異母兄弟
 ○早良親王 *他戸親王

主な姉妹
 ○能登内親王 *酒人内親王


☆主な后妃と皇子・皇女

藤原乙牟漏(藤原良継女) → 安殿親王(平城天皇) 神野親王(嵯峨天皇 高志内親王(淳和天皇妃)

藤原旅子(藤原百川女) → 大伴親王(淳和天皇

藤原吉子(藤原是公女) →伊予親王

酒人内親王(光仁天皇皇女) →朝原内親王(伊勢斎王 平城天皇妃)

多治比真宗(多治比長野女) → 葛原親王 賀陽親王

藤原小屎(藤原鷲取女) →万多親王

坂上全子(坂上苅田麻呂女) →高津内親王(嵯峨天皇妃)

坂上春子(坂上田村麻呂女) → 葛井親王

橘 常子(橘嶋田麻呂女) →大宅内親王(平城天皇妃)

藤原河子(藤原大継女) →仲野親王

藤原東子(藤原種継女) →甘南備内親王

藤原南子(藤原乙叡女) → 伊都内親王(平城天皇皇子阿保親王妃)

百済永継(元・藤原内麻呂の妻) → 良岑安世

百済王明信(元・藤原継縄の妻)


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 桓武天皇の崩御後は皇太子安殿親王が皇位を継承(平城天皇)。
 しかし平城天皇は3年後に退位、皇太弟神野親王が践祚します。(嵯峨天皇)。その皇太子には高丘親王(平城天皇の皇子)が立てられました。

 しかし4年後、薬子の変によって高丘親王は廃され、大伴親王が皇太弟に立てられました(後の淳和天皇)。

 このようにして桓武天皇の皇子たちが順々に即位したあと、最終的には嵯峨天皇の子孫たちが皇位を継承していくこととなります。

・葛原親王の子孫たち

 桓武天皇が多治比真宗との間にもうけた葛原親王の子、高棟王は平姓を賜って臣籍降下し、最終的には都で大納言にまで昇進しました。その子孫は桓武平氏高棟流と言われ、公卿になったり、有能な実務官人を輩出して中級貴族になって活躍しています。
 平安中期、一条天皇側近として活躍した惟仲、その弟で藤原定子(一条天皇中宮、のち皇后)の出産の時、自分の邸宅を提供した生昌、平清盛の妻時子、その弟で清盛の側近として活躍した時忠、その妹で後白河天皇中宮の滋子などがこの系統です。

一方、高棟の兄弟の高見王の子、高望王は寛平元年(889)、臣籍降下して平姓を賜り、上総介として東国に下向。そのまま土着しました。高望の子孫が桓武平氏高望流です。
 なお、高見王に関しては尊卑分脈に名前があるだけで経歴などは一切わからない謎の人物なので実在を疑う説があり、高望王は葛原親王の子ではないかという説もあることをつけ加えておきます。このあたり、ちょっとミステリアスですね。

 高望には多くの子があり、そのうち良将の子が将門です。
 また、国香の子が後に伊勢平氏と言われる系統で、院政期に活躍する正盛、忠盛、清盛らを輩出しました。

 参考までに、葛原親王と同じく多治比真宗を母とする賀陽親王の子孫の中にも、平姓を賜っている人物がいることもつけ加えておきます。

・仲野親王の子孫

 桓武天皇が藤原河子との間にもうけた仲野親王の子、茂世は平姓を賜って臣籍降下しました。その子が好風、好風の子が「平中物語」の主人公として知られる貞文です。

 また、仲野親王の女には伊勢斎王となった宣子女王と、宇多天皇の母、班子女王がいます。

・良岑安世の子孫

 桓武天皇が百済永継との間にもうけた安世は臣籍降下して良岑姓を賜り、最終的には大納言にまで昇進しました。
 なお、永継は初め、藤原北家の内麻呂の妻となり、真夏、冬嗣らをもうけました。つまり安世は冬嗣たちとは異父兄弟の関係になります。冬嗣はのちに藤原摂関家となる家の祖です。

 その安世の子の一人に「百人一首」12番の歌の作者、僧正遍昭がおり、遍昭の子が「百人一首」21番の歌の作者、素性法師です。


系譜から見た平安時代の天皇 トップページへ
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ


第81代 安徳天皇

2014-04-13 16:14:04 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1178~1185
☆在位期間 1180~1185

☆両親
 父・高倉天皇 母・平 徳子(建礼門院)

☆略歴

 名は言仁。高倉天皇の第一皇子。

 治承二年(1178)十二月十五日、生後一か月で立太子、一年三か月後の同四年二月二十一日には父の跡を承けて帝位につきました。天皇は平清盛待望の外孫で、平家一門の期待を一身に受けての即位でした。

 しかしその頃より半平家運動が起こっており、即位して3年後の寿永二年(1183)七月、源義仲が軍を率いて入京する直前、平家一門とともに三種の神器を奉じて都落ち、文治元年(1185)三月二十四日、長門国壇ノ浦にて一門とともに入水しました。享年8歳。御陵は山口県下関市の阿弥陀寺陵。

 なお、後述しますが祖父の後白河上皇は、安徳天皇が都を去ったあと新しい天皇を立てました。(後鳥羽天皇)そのため、安徳天皇崩御までの期間は2人の天皇が並立していたことになります。

 何か、平家の栄華と滅亡のために生まれてきたような天皇さんですね。知名度はあるのに経歴がたったのこれだけなのか~という感じです。。
 後世、安徳天皇を気の毒に思った人も多かったらしく、壇ノ浦で入水したのは替え玉で、安徳天皇は密かに生きていた…という伝説もあるようですが。残念ながら確かな根拠はないようです。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・後白河天皇 祖母・平滋子(建春門院

主なおじ

  守仁親王(二条天皇) 守覚法親王 以仁王 静恵法親王

☆主なおば

 亮子内親王(慇富門院) 式子内親王(賀茂斎王) 観子内親王(宣耀門院)

☆主ないとこ

 順仁親王(六条天皇)*父は二条天皇
 北陸宮*父は以仁王


☆母方の親族

祖父母

 祖父・平 清盛 祖母・平 時子

主なおじ

 平 重盛 平 基盛 平 宗盛 平 知盛 平 重衡

主なおば
 藤原基実室 藤原基通室 藤原兼雅室 藤原隆房室 藤原信隆室

主ないとこ

 平 維盛 平 資盛 平 清経 平 有盛 平 師盛 平 忠房*父は平 重盛
 平 知章*父は平知盛
 藤原忠経 藤原家経*以上、母は藤原兼雅室 
 藤原隆衡*母は藤原隆房室(当ブログ内の「平清盛の子孫」参照)
 藤原隆清*母は藤原信隆室


☆兄弟姉妹と甥・姪

・主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟
 *守貞親王 *惟明親王 *尊成親王(後鳥羽天皇)

・主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *潔子内親王(伊勢斎王) *範子内親王(坊門院) *功子内親王(伊勢斎王)

・主な甥と姪

 茂仁王(後堀河天皇) 邦子内親王(安嘉門院)*父は守貞親王
 為仁親王(土御門天皇) 守成親王(順徳天皇)*父は後鳥羽天皇

☆主な后妃と皇子・皇女

 なし

☆末裔たち

 安徳天皇は8歳で壇ノ浦の海に入水してしまったのでもちろん、子孫はいません。

 そこで、その後の皇位継承、特に後鳥羽天皇が選ばれた経過について、当ブログのこちらの記事から転載させていただきます。

 安徳天皇が平家や三種の神器と共に西国に去った後、後白河法皇はまず天皇と神器を平家から取り戻すことを考えたようです。そこで、平時忠(清盛の妻時子の弟)に使いを送り、その旨を申し渡しました。しかし時忠の返事は「都が平定されてからでないと、帝も神器も還御できない。」というものだったため、法皇は安徳天皇の廃位を決定したのでした。

 安徳天皇のすぐ下の弟である二の宮守貞親王は、安徳天皇の皇太子として平家が西国に連れ去っていました。そこで、残った三の宮と四の宮から後嗣を決定することとなったのですが、その時横やりを入れた人物がいました。このことはドラマでも取り上げられていましたよね。そうです、義仲が「以仁王の遺児の北陸宮を天皇に。」と言い出したのです。
 そこで陰陽師に占わせたところ、第一位が四の宮、第二位が三の宮、第三位が北陸宮ということになったようです。しかし、この結果は義仲にとっては面白くないものでした。
 このように後嗣問題でもめているとき、「ぜひ四の宮を!!… 私の夢にお告げがあったのですから…。」と言った女性がいました。言うまでもなく丹後局(後白河法皇の晩年の寵姫)でした。

 丹後局の夢の中において、四の宮がまるで行幸をするように、松の枝を杖にして歩いていた……というのです。そこで法皇は四の宮を後嗣に決定したと言われています。
またこんな話もあります。法皇が三の宮と四の宮に対面したとき、三の宮は恥ずかしがってむずがっていたのに対し、四の宮はなつかしそうに法皇を見つめ「おじいさま」と言ったといいます。法皇は「なんてかわいい子じゃ。」と言い、そばで見ていた丹後局も大いに喜び、「この子は帝王の相がおありです。」と言ったというようです。

 以上に挙げた話は色々誇張はあるでしょうが、丹後局が後嗣決定に関与していたことは、ほぼ間違いないような気がします。
なお、念のために書いておきますが、この時即位した四の宮は、後年承久の乱を起こすこととなる後鳥羽天皇その人です。
*リンク先の記事は昔、書いた物なので、今読むと「大河ドラマに対してこんなうるさいことやつっこみをたくさん書いて…」という感じでちょっと恥ずかしいのですが。

 さて、 後鳥羽天皇が退位したあとはその皇子土御門天皇、順徳天皇、さらに順徳天皇の皇子仲恭天皇が即位しますが、承久の乱によって朝廷方が幕府方に破れたため後鳥羽・順徳天皇系の仲恭天皇は廃されました。

 その後、安徳天皇とともに都落ちした異母弟、守貞親王の皇子後堀河天皇が即位し、その皇子四条天皇が皇位を継承するのですが、四条天皇の急死により、土御門天皇の皇子後嵯峨天皇が即位、皇位は再び後鳥羽天皇系に戻り、現在に至っています。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ


第55代 文徳天皇

2013-11-04 09:30:17 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  827~858
☆在位期間 850~858

☆両親
 父・仁明天皇 母・藤原順子

☆略歴

 名は道康。仁明天皇の第一皇子。

 承和九年(842)二月、仁寿殿において元服。同年、承和の変により皇太子恒貞親王が廃されるとそれに伴い、八月立太子。

 嘉祥三年(850)四月、仁明天皇の崩御に伴い即位する

 文徳天皇の即位によって皇太子に立てられたのは、藤原良房女明子所生の生後間もない第四皇子、惟仁親王でした。天皇は紀静子所生の第一皇子惟喬親王を愛し、皇太子に立てたいと願っていましたが、権力者良房の勢力に押され、惟仁親王を立体視せざるを得なかったと伝えられています。
 良房は後年、外孫惟仁親王の即位(せいわてんのう)により、人身初の太政大臣となり、権勢を振るうこととなります。
 このように天皇は、良房によって敷かれたレールの上を歩いて行かざるを得なかった感が強いです。歴代藤原氏の人物の中でも政治力はトップクラスだった良房と同時代に生きていたことが、文徳天皇にとっては不運だったとしか言えないような気がします。

 天安二年(858)八月、三二歳で崩御。山城国葛野郡田邑郷真原岳の田邑陵(現在の京都市右京区太秦)に葬られました。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・嵯峨天皇 祖母・橘嘉智子

主なおじ

 源信 源融 源定 源常 源弘 源生

おもなおば

 正子内親王(淳和天皇皇后) 有智子内親王(初代賀茂斎王) 
 仁子内親王(伊勢斎王) 源潔姫(藤原良房室) 源全姫

主ないとこ

 源昇 源淡*以上、父は源融)
 源唱*父は源定
 恒貞親王*母は正子内親王


☆母方の親族

祖父母

 祖父・藤原冬嗣 祖母・藤原美都子

主なおじ

 藤原長良 藤原良房 藤原良相 藤原良門

主ないとこ
 藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経
 藤原高子(清和天皇女御)藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)*以上、父は藤原長良
 藤原明子(文徳天皇女御・染殿后)*父は藤原良房
 藤原常行 藤原多可幾子(文徳天皇女御) 藤原多美子(清和天皇女御)*以上、父は藤原良相
 藤原利基 藤原高藤*以上、父は藤原良門


☆兄弟姉妹と甥・姪

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟

 *時康親王(光孝天皇 *宗康親王 *人康親王 *本康親王
 *常康親王 *源多 *源光

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *新子内親王 *久子内親王(伊勢斎王) *時子内親王(賀茂斎王) 

主な甥と姪

 定省親王(宇多天皇) 是忠親王 是貞親王 綏子内親王 為子内親王 源国紀 源済子 源和子*以上、父は光孝天皇

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王

 元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原明子(藤原良房女) → 惟仁親王(清和天皇) 儀子内親王

 藤原古子(藤原冬嗣女)

 藤原多可幾子(藤原良相女)

 紀 静子(紀 名虎女 → 惟喬親王・惟条親王・恬子内親王(伊勢斎王)・述子内親王・珍子内親王、

 滋野岑子(滋野貞雄女) → 源 本有・源 載有・源 淵子

 伴氏 → 源能有


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 略歴でも触れたように、文徳天皇崩御後は藤原明子所生の惟仁親王が践祚し、清和天皇となりました。清和天皇のあとはその皇子貞明親王(陽成天皇)が皇位を継承しますが、陽成天皇は藤原基経(良房の甥で養子)の不興を買って退位させられます。
 陽成天皇の皇太子は定まっていなかったため、公卿たちの協議の結果、文徳天皇の異母弟に当たる道康親王が践祚しました。(光孝天皇)。皇位は光孝天皇の子孫へと受け継がれていくこととなります。

・惟喬親王

 文徳天皇が皇太子に立てることを望んでいた惟喬親王とはどのような人だったのか、「平安時代史事典」をもとにまとめてみました。

惟喬親王(844~897

 文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎女静子

 天安元(857) 元服。四品に叙される。
天安二(858) 大宰帥。
 貞観五(863)二月 弾正尹。常陸太守・上野太守を兼任。
 貞観十四(872)七月、藤原良房薨去の直前、病気を理由として急に出家し、山城国愛宕郡小野に隠棲した。

 文徳天皇は晩年、惟仁を辞めさせて惟喬を皇太子に立てようとし、左大臣源信に諫められ、止められたこともあったそうです。あきらめきれなかったのでしょうか。

 惟喬親王はその後失意のうちに風流の道に生き、渚の院で在原業平、紀有常らと桜狩りをした様子は、「伊勢物語」82・83段に描かれています。

 なお、新能の子には歌人として知られる兼覧王がいます。

・源能有の娘たち

 文徳天皇が伴氏の女性との間にもうけ、後年、右大臣にまで昇進した源能有の娘たちの系譜がなかなか面白いので紹介しておきます。

 娘の一人、昭子は藤原忠平の妻となり、師輔をもうけました。
 師輔の子が兼家であり、その子が道隆や道長であることを考えると、文徳天皇の血がこんな所に!とびっくりしました。

 また別の娘は貞純親王の妻となり、源経基をもうけています。
 異説はありますが、経基の子が満仲、その子孫から日本史で活躍する義家や頼朝、義経などが出ています。これも系図の不思議なところです。(清和天皇の系譜のページの「末裔たち」、及び陽成天皇の系譜のページの「末裔たち」参照)

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ
 

第58代 光孝天皇

2013-08-27 10:35:50 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  830~887
☆在位期間 884~887

☆両親
 父・仁明天皇 母・藤原沢子

☆略歴

 名は時康。仁明天皇の第三皇子。

 承和十二年(845)元服。嘉祥元年(848)、常陸太守となり、以後、中務卿、大宰帥を歴任、貞観十八年(876)式部卿に任じられ、元慶六年(882)一品となりました。

 このように皇位とは縁のない一親王としての道を歩んでいたのですが、元慶八年(884)、陽成天皇が藤原基経の不興を買って退位させられると、公卿たちの会議によって天皇に選ばれ55歳で践祚しました。
 時康親王が天皇に選ばれた理由については、権力者藤原基経にとっては母方のいとこであり親しかったこと、性格が穏和で政治には無関心であったこと、皇統も仁明天皇の皇子で申し分ないことなどが挙げられます。

 天皇の在位は約3年間と短かったものの、服御の絹綿を省減して経費の節約を図り、赴任しない国守や貢調違期の国司等を戒飭して地方官の粛清を行ったことなどが挙げられます。

 仁和三年(887)八月崩御。五十八歳。後田邑陵に葬られました。

 私は、百人一首15番目の光孝天皇の歌、「君がため 春の野に出て 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が大好きです。これは天皇がまだ若かった頃に詠んだ歌だそうですが、彼の他人を思いやる優しい気持ちと穏やかな性格がよく表現されていると思います。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・嵯峨天皇 祖母・橘嘉智子

主なおじ

 源信 源融 源定 源常 源弘 源生

おもなおば

 正子内親王(淳和天皇皇后) 有智子内親王(初代賀茂斎王) 
 仁子内親王(伊勢斎王) 源潔姫(藤原良房室) 源全姫

主ないとこ

 源昇 源淡*以上、父は源融)
 源唱*父は源定
 恒世親王 恒貞親王*以上、母は正子内親王

☆母方の親族

 祖父母

 祖父・藤原総継(藤原魚名の孫) 母・藤原数子

主なおば

 藤原乙春

主ないとこ
 藤原基経 藤原高子(清和后 陽成母)*以上、母は藤原乙春

☆兄弟姉妹と甥・姪

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟

 *道康親王(文徳天皇) ○宗康親王 ○人康親王 *本康親王
 *常康親王 *源多 *源光

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 ○新子内親王 *久子内親王(伊勢斎王) *時子内親王(賀茂斎王) 

主な甥と姪

 惟仁親王(清和天皇) 惟喬親王 惟条親王 
 惟彦親王 源能有 恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王)
  晏子内親王(伊勢斎王)*以上、父は文徳天皇

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王

 元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 班子女王(仲野親王女) → 是忠親王 是貞親王 源 定省=定省親王(宇多天皇) 忠子内親王 簡子内親王 綏子内親王(陽成天皇妃) 為子内親王(醍醐天皇妃)

藤原佳美子(藤原基経女)

 平 好風邪女

 藤原山蔭女

*以下、光孝天皇には多数の女御・更衣がおり、多くの皇子皇女をもうけています。しかしながら、皇子皇女たちそれぞれの生母についてははっきりわかっていません。

 なお、班子女王所生以外の皇子皇女たちの中で私が注目しているのは、清和天皇女御の源済子、醍醐天皇女御の源和子、「↓の「末裔たち」の項で取り上げる源国紀などです。


☆末裔たち

・その後の皇位継承について

 光孝天皇のあとは、班子女王との間にもうけた源定め省が親王に復し践祚しました。これが宇多天皇です。宇多天皇譲位後は皇子の醍醐天皇が継ぎ、皇位はこの系統が代々受け継いでいくことになります。

源国紀の子孫たち

 源国紀は光孝天皇の皇子として生を受けましたが、母は不詳だそうです。後に臣籍降下して源姓を賜りました。特に目立った業績はないようですが、彼の子孫がとても興味深いので、紹介することにします。

源 公忠
 国紀の子。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀両天皇の蔵人,近江守などを経て従四位下,右大弁に至る。宮廷歌人として活躍した。 

源 信明
 公忠の子。父と同じく三十六歌仙の一人。若狭・陸奥などの国守を歴任。従四位下に至る。

・ここでちょっと寄り道、源 信明の娘たち

 信明は歌人中務(宇多天皇皇子敦慶親王と歌人伊勢の間の女)との間に井殿をもうけました。井殿も両親のDNAを受け継いだのか歌人として知られています。藤原伊尹との間に光昭をもうけました。

 信明は他の妻との間にも娘がいたようです。

 その一人が源明子。彼女は藤原説孝の妻となり、また宮中にも仕えて「源典侍」と呼ばれました。
 ここで、ピンと来た方もいらっしゃると思います。彼女こそ「源氏物語」で光源氏と関係を持った色好みの老女として描かれている源典侍のモデルとなった女性です。
また明子の夫、藤原説孝は紫式部の夫、宣孝の兄に当たります。つまり紫式部は義兄の妻をモデルに、源典侍のお笑いキャラを書いたわけで、式部が明子にかなりのライバル意識を持っていたことが伺えます。実際、明子はやり手の女官だったようです。

源 国盛
 話を国紀の男系に一端戻します。

 信明は男子も多かったようですが、そのうちの一人が源国盛です。国盛は道長の家人をつとめました。「今昔物語」には、道長の乳母子だったと記述されています。彼にも、紫式部とちょっと関係のあるエピソードがあるので、紹介したいと思います。

 十世紀末、若狭国に宋の商人が漂着し、しきりに貿易を求めてくるという事件が起こります。時の権力者、藤原道長は、若狭は窓口ではないという理由で、宋人たちを隣国の越前に移します。

 しかし困ったことに、彼らと言葉が通じない。そこで淡路守に内定していた藤原為時を急遽越前守に変更します。為時は学者で、宋の言葉にも通じていたというのが理由です。そしてこの為時こそ、紫式部の父ですよね。

 ところで、この時に最初に越前守に内定していたのが、誰であろう、この源国盛だったのです。越前は大国、淡路は下国でしたので、越前守に任じられた為時は嬉しかったと思いますが、逆に下国の淡路の国司になってしまった国盛の心中はどうだったのでしょうか…。

*このあとは、国盛女の系統のお話しをします。これがまた、思いがけないところとつながっているのです。

源 国盛女
 歌人として知られる。他にも、琴・琵琶にも優れていたそうです。宇多源氏の源道方の妻となり、経信を生みました。

 この経信こそ、「百人一首」71番目の歌の作者です。(宇多天皇の系譜のページ参照)

 色々寄り道をしてしまったのでちょっとわかりにくいと思います。源国紀から源経信までの流れを図にしてみますね。

 国紀→公忠→信明→国盛→国盛女(源道方の妻)→経信

 系図って本当に面白いです。

是忠親王の子孫

 ところで、光孝天皇が班子女王との間にもうけた是忠親王の子孫にも、百人一首の歌人がいます。

 是忠親王の子の一人には、「百人一首」28番の歌の作者で三十六歌仙の一人でもある源宗于がいます。

 また、親王の子孫には「百人一首」40番の歌の作者、平兼盛もいます(宗于の子孫ではない)。
 そして、兼盛の妻は子供を身ごもったまま兼盛と離別し、赤染時用と再婚したとも言われていますよね。そして生まれた子が59番の歌の作者、赤染衛門と言われています。もしこれが事実なら、赤染衛門も是忠親王の子孫ということになります。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ


第57代 陽成天皇

2013-06-15 19:40:07 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  868~949
☆在位期間 876~884

☆両親
 父・清和天皇 母・藤原高子(藤原長良女・藤原良房養女)

☆略歴

 名は貞明。清和天皇の第一皇子。

貞観十年(868)十二月、染殿において誕生。翌年二月立太子。同十八年十一月、九歳で践祚。翌元慶元年(八七七)正月、豊楽殿において即位。おじの藤原基経が事実上、政務を執り行った。
 同三年読書始(『御註孝経』)。同六年元服。加冠は太政大臣藤原基経が、理髪は大納言源多がそれぞれ奉仕した。

 元慶八年(884)、十七歳で退位。
 退位の理由については、乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねるなど乱行が多く藤原基経の不興を買ったためだとも言われているが、真相は不明。

 譲位後は陽成院を後院とする。歌合を主催するなど、和歌に対する素養も深く、「つくばねの峰よりおつるみなの河恋ぞつもりて淵となりける」は『百人一首』13番目の歌として有名。
 天暦三年(949)九月二十日、病により出家。同二十九日、冷泉院において崩御。神楽岡東陵(現在、京都市左京区浄土寺に所在)に葬られる。

 十七歳で譲位して約60年間、上皇として過ごした陽成さん、若い頃は源融の別荘を襲うなど乱行も多かったようですが、次第に落ち着いて、天皇家や摂関家との融和を計っていったようです。でも、どのような心情で上皇としての生活を送っていたのか、気になるところです。


☆父方の親族

祖父母

 祖父・文徳天皇 祖母・藤原明子

主なおじ

 惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 源能有

主なおば
 恬子内親王(伊勢斎王) 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王) 

主ないとこ

 源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃  )*以上 父は源能有
 直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王


☆母方の親族

祖父母

 祖父・藤原長良 母・藤原乙春(藤原総継女)

主なおじ

 藤原基経 藤原国経 藤原遠経 藤原高経 藤原清経

☆主なおば

 藤原淑子(藤原氏宗室) 藤原有子(高棟王室)

主ないとこ

 藤原時平 藤原仲平 藤原忠平 藤原温子(宇多天皇女御) 藤原佳珠子(清和天皇女御) 藤原佳美子(光孝天皇女御) 藤原穏子(醍醐天皇皇后)*父は藤原基経
 藤原良範(藤原純友の父)*父は藤原遠経)
 藤原惟岳(藤原倫寧の父=蜻蛉日記作者の祖父)*父は藤原高経
 藤原元名(紫式部の母の曾祖父)*父は藤原清経


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 ○貞保親王 *貞辰親王 *貞固親王 *貞数親王
 *貞信親王 *貞頼親王 *貞純親王 *貞元親王

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 ○敦子内親王 *識子内親王(伊勢斎王) *包子内親王

主な甥と姪
 源経基*父は貞純親王(異説があるので後述します。)
 源兼忠 源兼信(父は貞元親王)

☆主な后妃と皇子・皇女

 綏子内親王(光孝天皇皇女)

 紀君(紀氏) → 源清蔭

 藤原遠長女 → 元良親王 元平親王

 姉子女王 → 元長親王 元利親王 長子内親王 厳子内親王

 佐伯氏 → 源 清遠

 伴氏 → 源 清鑒


☆末裔たち

○その後の皇位継承について

 陽成天皇は上でも書きましたように、17歳で譲位しました。そのあとを継いだのは陽成天皇の曾祖父に当たる仁明天皇の第三皇子、時康親王でした。これが光孝天皇です。
 光孝天皇のあとは、その皇子である宇多天皇が皇位につきました。
 そのため陽成天皇の子孫は、皇位につくことはありませんでした。陽成天皇の皇子たちは臣籍に下った者、一親王として生涯を送った者など様々ですが、中でも元良親王は恋多き親王、「百人一首」20番目の歌の作者としても有名です。

○清和源氏は実は陽成源氏?

 清和天皇の「末裔たち」でも少し触れましたが、清和天皇の皇子貞純親王の子、源経基は実は、陽成天皇皇子の元平親王の子という説があるのです。

 経基が貞純親王の子であるということは、南北朝時代に編纂された「尊卑分脈」に記述されているものなのですが、実は貞純親王の没年、経基とその子、源満仲の生年には大きな矛盾があるそうです。

 「尊卑分脈」によると、経基の生年は921年、しかし、その父であるはずの貞純親王の没年は916年、子である満仲の生年は912年と記述されています。つまり、父は経基が生まれる数年前に世を去り、子供は本人より早く生まれたことになってしまうのです。

 この矛盾を解決するものとして、近代に編纂され、同じ清和源氏説を採用している「系図纂要」があります。こちらによると、経基の生年は寛平年間とのこと。しかしこの説に従うと、一世源氏でしかも文徳天皇皇子源能有の女を母とする経基が、50歳くらいになるまで叙爵されず、武蔵介で据え置かれていたことになり、どう考えても不自然です。そもそも「系図纂要」は信憑性にも乏しいとのこと。

 そこでいよいよ清和源氏は実は陽成源氏だったという話に移ります。

 この説には、河内源氏の祖となった源頼信が八幡大菩薩に対する帰依を告白した文書に、自分の祖先についての記述が書かれていることが根拠になっているそうです。この文書には、頼信の祖父、源経基の父は貞純親王ではなく元平親王、そしてその父は陽成天皇、そこから清和天皇につながっているとあるのだそうです。

 ではどうして系図を改変したのか?
 それは、陽成天皇が藤原基経によって退位させられた不名誉な天皇だから、そして、ライバルの桓武平氏の祖、桓武天皇は平安遷都を成し遂げた英明な帝だから、こちらも不名誉な陽成天皇ではなく、その父である清和天皇が祖というように、系図を改変しようという、源頼朝の考えだったようです。

 そこで私なりに少し調べてみたのですが、元平親王の同母兄、元良親王の生年は890年なので、弟である元平親王の生年はおそらく895年前後ということになると思います。すると、「尊卑分脈」によると921年生まれとされる経基との矛盾はなくなるわけですよね。
 しかし、これでも満仲との矛盾は解決しないし、仮に「系図纂要」に記述されているように経基が寛平年間の生まれとすると、父である元平親王とほぼ同世代になってしまいます。

 いずれのことから私にも、源経基が清和天皇の孫なのか、陽成天皇の孫なのか、判断がつかないです。

 ただ以前、twitterでフォロアーさんと、「満仲や頼光は暴れん坊だから、おとなしそうな清和天皇より、暴れん坊の陽成天皇の子孫だと考えた方がふさわしいよね」というようなことを話したことがあります。それに、清和天皇が実は陽成源氏だったとしても、清和天皇の血を引いていることには変わりないわけですし、それほど気にしなくていい問題なのかもしれません。タイムスリップをして貞純親王、元平親王、源経基のDNA鑑定をするという、夢のまた夢のような話が実現しない限り、この問題は永遠に謎のままなのかもしれませんよね。

(以上、参考「源満仲・頼光 元木泰雄著 ミネルヴァ書房)

○元平親王の子孫がこんな所に…

 さらにそれとは別に、元平親王の血統はもう一つ、思いがけないところとつながっていました。

 元平親王には、昭子女王という娘がいました。この昭子女王は長じて藤原兼通の室となり、(女皇)子と顕光を生みました。

 (女皇)子は円融天皇に入内し、皇后となりました。
 顕光は村上天皇の皇女、盛子内親王との間に重家元子、延子をもうけました。つまり権力欲は強かったけれどちょっとおっちょこちょいの顕光さんは陽成天皇の曾孫ということになります。系譜の面白いところですね。

☆陽成天皇に関するお薦めの本
 陽成院 ー乱行の帝 山下道代著 新典社


☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ


第56代 清和天皇

2013-05-11 19:24:27 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  850~880
☆在位期間 858~876

☆両親
 ちち・文徳天皇 母・藤原明子(藤原良房女)

☆略歴

 名は惟仁。文徳天皇の第四皇子。

 嘉承三年(850)、三月誕生。同年十一月、皇太子に立てられる。文徳天皇は第一皇子惟喬親王の立太子を望んでいたが、惟仁の外祖父である藤原良房に遠慮し、惟仁を皇太子に立てたと言われています。

 天安二年(858)、文徳天皇の崩御により九歳で即位。幼少の天皇に替わり、外祖父良房が政治を執り行った。

 貞観八年(866)、春に良房の染殿第にて盛大な観桜の饗宴が催される。天皇は釣殿から魚釣りを、東門からは農夫の耕田光景を観覧し、終日楽しんだ。
 この十日後、応天門炎上事件が起き、大納言伴善男が犯人として捕らえられ、伊豆国に流罪となる。この事件の後、良房は正式に摂政となるが、これが初の人臣摂政であり、藤原氏の摂関独占の基礎を作った。

 元慶元年(876)、二七歳で突如退位、太上天皇となる。

元慶三年(879)、出家。法諱は素真。山中にて厳しい仏道修行を行った。翌年の十二月四日に粟田山荘の円覚寺にて三十一歳で崩御。御陵は京都市右京区嵯峨の水尾山陵。

 清和天皇の後宮には、二十数人の后妃がおり、多くの皇子皇女が生まれました。これは天皇を後宮に引きつけることによって政治から遠ざけようという、良房の政策であったとも言われています。
 そのため鬱屈した思いがあったのでしょうか。晩年は仏道一筋に生きたようです。少しでも心が救われていたことを願いたいです。


☆父方の親族

 祖父・仁明天皇 祖母・藤原順子(藤原冬嗣女)

主なおじ

 時康親王(光孝天皇) 宗康親王 人康親王 本康親王
  常康親王 源多 源光

主なおば

 久子内親王(伊勢斎王) 時子内親王(賀茂斎王) 新子内親王

主ないとこ
是忠親王 是貞親王 源定省(後の宇多天皇) 源国紀 為子内親王(醍醐天皇妃) 綏子内親王(陽成天皇妃) 源和子(醍醐天皇女御) 源済子(清和天皇女御) 繁子内親王(伊勢斎王) *以上、父は光孝天皇

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 *以上、父は人康親王

 元子女王(伊勢斎王 *父は本康親王)


☆母方の親族

 祖父・藤原良房 祖母・源潔姫(嵯峨天皇皇女)

☆兄弟姉妹と甥、姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *惟喬親王 *惟条親王 *惟彦親王 *源能有

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)
 *恬子内親王(伊勢斎王) *掲子内親王(伊勢斎王) *晏子内親王(伊勢斎王) 

主な甥と姪

 源厳子(清和天皇女御) 源昭子(藤原忠平室) 女子(貞純親王妃  )*以上 父は源能有
 直子女王(賀茂斎院) *父は惟彦親王

☆主な后妃と皇子・皇女

・藤原高子(藤原長良女) → 貞明親王(陽成天皇) 貞輔親王 敦子内親王

・藤原佳珠子(藤原基経女) → 貞辰親王

藤原多美子(藤原良相女)

 嘉子女王

 兼ね子女王

 源 厳子(源 能有女)

 源 貞子

 源 済子(光孝天皇皇女)

 平 寛子

 在原文子(在原行平女 → 貞数親王 包子内親王

 藤原良近女 → 貞平親王 識子内親王(伊勢斎王)

 藤原諸藤女 → 貞真親王

 藤原真宗女 → 貞頼親王

 佐伯子房女 → 源 長鑒 源 長頼

 橘 休蔭女 → 貞固親王

 藤原仲統女 → 貞元親王

 棟貞王女 → 貞純親王


☆末裔たち

 清和天皇が退位したあとは、藤原高子との間にもうけた貞明親王が即位します。これが陽成天皇です。
 しかし陽成天皇は、良房のあとを嗣いだ基経と対立することが多く、十七歳で退位させられてしまいます。そのあとを嗣いだのは清和天皇の叔父に当たる光孝天皇です。なので清和天皇の子孫はその後、皇位につくことはありませんでした。

清和源氏貞純親王流

 清和天皇が棟貞王女との間にもうけた貞純親王は、源能有女との間に経基王をもうけました。この経基が臣籍降下して「源経基」と名乗ることとなります。経基は諸国の国司を歴任し、平将門の乱や藤原純友の乱の鎮定に当たったりもしました。

 経基の子が満仲で、彼は摂関家に使え、武蔵、摂津、越後などの受領を歴任、摂津の多田盆地に所領を持ち、武士団を経営しました。

 満仲の子が、頼光、頼親、、頼信です。
・頼光

 摂津源氏の祖。大江山の酒呑童子退治で有名。藤原道長に仕えた。彼の子孫には源平時代に活躍した源頼政、源行綱などがいる。*当ブログ内の「こちら」と「こちら」の記事参照。

・頼親

 大和守となり、大和国で勢力を拡大、大和源氏の祖となった。

・頼信

 河内源氏の祖。平忠常の乱を平定したことで有名。
 頼信の子が頼義で、その後、この系統は義家→義親→為義→義朝→頼朝へと続く。また、室町幕府を開くことになる足利氏や、新田氏、武田氏もこの系統。つまり頼信の子孫は日本史上に大きな足跡を残したことになります。

     (以上、参考・歴史読本2012年5月号 新人物往来社発行)

*なお、経基は陽成天皇の孫であるという説もあります。詳しくは陽成天皇の系譜のページで記述する予定です。

清和源氏貞元親王流

 清和天皇が藤原仲統女との間にもうけた貞元親王には、源氏姓を賜った兼忠、兼信などの子供たちがいました。

 兼信は陸奥守となり、任期が終わったのち土着したと言われています。この兼信の子が「百人一首」48番目の歌の作者、源重之です。
 重之は、兼信の兄で参議となっていた兼忠の養子とされ、冷泉天皇に仕えたのち、左馬介や相模権守などを歴任、その後、陸奥守となった藤原実方に同行したりなど、東北から九州まで全国を巡りました。三十六歌仙の一人でもあります。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
トップページへ


第59代 宇多天皇

2013-02-24 19:35:54 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  867~931
☆在位期間 887~897

☆両親

 父・ 光孝天皇 母・班子女王

☆略歴

 当ブログ内のこちらのページより転送しました。

 光孝天皇の第七皇子。名は定省。かなり早い時期に、尚侍藤原淑子(藤原長良女・基経妹)の融子となる。

 元慶年間(877~885) 元服。侍従に任じられ、陽成天皇に使えた。

 元慶八年(884) 父、時康親王、関白藤原基経の推挙によって即位(光孝天皇)。定省、他の光孝天皇の皇子皇女とともに臣籍に降下し、源姓を賜る。

 仁和三年(887) 光孝天皇崩御。定め省、養母の淑子の尽力もあり、急遽即位。宇多天皇となる。一度臣籍に降下した物が即位するという初めての例となった。
 宇多天皇の治世は、阿衡事件という紛争もあったが、紛争の決着後は摂関家との融和を計った。また、先例にとらわれず様々な改革を執り行った。(清涼殿を天皇の常御殿に定めたり、賀茂臨時祭を始めたり、遣唐使の派遣を停止したりしたことなど。)

 寛平三年(991) 関白藤原基経が薨ずると、摂関を置かずに自ら政治を執り行った。その後、菅原道真を重く用いた。なお、道真は宇多天皇の引き立てで右大臣にまで昇進するが、天皇の退位後、昌泰四年(901)に太宰府に左遷された。

 寛平九年(897) 第一皇子敦仁親王に譲位(醍醐天皇)。

 昌泰二年(899) 十月、権大僧都益信を戒師として落飾。同じ年、念誦堂としての八角堂(円堂)を仁和寺内に建立した。

 延喜四年(904) 仁和寺の南西に御所を営み、常時の御在所とした。
 こうして宇多上皇は、仁和寺を御所としたが、他にも朱雀院、河原院、亭子院、宇多院などにも住んだ。後宮には多くの女性を侍らせ(歌人の伊勢や、藤原時平女の褒子など)、歌会や饗宴を催したりして、優雅な生活を楽しんだ。また各地の名所・仏閣に御幸したりした。その一方、醍醐天皇の治世への監視も怠らなかったようである。

 承平元年(931)七月十九日 仁和寺御室で崩御。遺骸は仁和寺奥の池尾山で荼毘に付され、のち大内山陵に改葬された。

 天皇在位中は政治に没頭し、退位してからは遊興三昧、なかなか興味深い生き方をなさった天皇さんだと思います。宇多さんを政治から遠ざけた(醍醐天皇への監視を怠らなかったと言っても、生活の中心はやはり遊興だったと思うので)原因は何だったのでしょうか。やはり、菅原道真の左遷を止められなかった自責の念があったのだと個人的には思います。


☆父方の親族

祖父・仁明天皇 祖母・藤原沢子(藤原総継女)

主なおじ

 道康親王(文徳天皇) 宗康親王 人康親王 本康親王
  常康親王 源多 源光

主なおば

 久子内親王(伊勢斎王) 時子内親王(賀茂斎王) 新子内親王

主ないとこ

 惟仁親王(清和天皇) 惟喬親王 惟条親王 惟彦親王 恬子内親王(伊勢斎王) 
 掲子内親王(伊勢斎王) 晏子内親王(伊勢斎王) 源能有
  (以上、 父は文徳天皇)

 操子女王(藤原基経室 時平・忠平らの母) 源興元 (以上、父は人康親王)

 元子女王(伊勢斎王 父は本康親王)


☆母方の親族

 祖父・仲野親王(桓武天皇皇子) 祖母・当麻氏

おじ

 平茂世 輔世王 季世王 房世王 秀世王 当世王 基世王
 潔世王 実世王 十世王 在世王 康世王 則世王 惟世王

おば

 宜子女王(伊勢斎王)

主ないとこ

 平好風(父は平茂世 平貞文の父)


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)

 ○是貞親王 ○是忠親王 *源国紀

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹)

 ○為子内親王(醍醐天皇妃) ○綏子内親王(陽成天皇妃) *源和子(醍醐天皇女御) *繁子内親王(伊勢斎王)

主な甥と姪

 興我王 源 宗于*百人一首28番目の歌の作者(以上、父は是忠親王)

 源 公忠*三十六歌仙の一人(父は源 国紀)

 勧子内親王(母は為子内親王)

 常明親王・式明親王・有明親王・慶子内親王・韶子内親王・斉子内親王(伊勢斎王)
  (以上、母は源和子)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原温子(藤原基経女) → 均子内親王

 藤原胤子(藤原高藤女) → 敦仁親王(醍醐天皇) 敦慶親王 敦固親王 敦実親王 柔子内親王(伊勢斎王)

 橘 義子(橘広相女) → 斉中親王 斉世親王 斉邦親王 君子内親王

 菅原衍子(菅原道真女) → 斤子内親王

 藤原褒子(藤原時平女) → 行明親王 雅明親王 載明親王

 伊勢(藤原継蔭女)*のち、敦慶親王との間に中務をもうける。


☆末裔たち

・その後の皇位継承について
 宇多天皇は、31歳で藤原胤子との間に生まれた敦仁親王に譲位します(後の醍醐天皇)。その後は、醍醐天皇の皇子たち、そして、その子孫に皇位が継承されていきます。

・宇多源氏
 宇多天皇の子や孫の何人かが臣籍降下し、源氏姓を賜りました。そのうち最も栄えたのは敦実親王(醍醐天皇の同母弟)流だと思います。そこで、敦実親王の子孫たちのうち、私が注目している方々を紹介したいと思います。

 敦実親王は有職に詳しく、また音曲を好み、笛・琵琶・和琴等をのちに伝えました。そんな親王の子には、源雅信、源重信、大僧正寛朝・雅慶がいました。

 そのうち、雅信と重信の子孫の何人かを記載してみます。

・源雅信の子孫
 左大臣にまで昇進した源雅信には、藤原朝忠女の穆子との間に時叙、時通、倫子、女子(藤原道綱室)、藤原公忠女との間に時中、藤原元方女との間に扶義、他に女子(致平親王室)などの子女をもうけました。雅信の子や孫には「え、この人も」という方が多いので、ややこしい話になりますが、紹介したいと思います。

源 時中の孫
 大納言にまで昇進した時中の子供の1人に済政がおり、その子供が源資通です。資通さんは、私の過去の記事にも登場していますので、名前を挙げさせていただきました。

 彼は、後一条天皇御代の伊勢斎王となっていた(女専)子女王の裳着の勅使として、伊勢に赴いています。
 また後に、「更級日記」の作者と春秋の歌の贈答をしています。その時の資通の役職は蔵人頭だったそうです。なので、祐子内親王に仕えていた孝標女と会う機会があったのでしょうね。

源 倫子の子供たち
 倫子は摂関家の栄華を極めた藤原道長と結ばれ、頼通、、教通、彰子(一条天皇中宮 後一条天皇後朱雀天皇の母)、妍子(三条天皇中宮)、威子(後一条天皇中宮)、嬉子(後朱雀天皇の東宮の時の妃・後冷泉天皇母)をもうけました。つまり、宇田天皇の血は天皇家に再び戻ってきたわけです。

 なお、倫子の同母妹は道長の異母兄、道綱の室となり、兼経をもうけました。

源 時通の子供たち
 時通は兄弟の時叙と共に若くして出家してしまったようですが、雅通、彰子の女房となった小少将といった子女を残しています。

源 扶義の子供たち
 扶義の子には、日記「左経記」を残した経頼(能書家藤原行成の娘婿)、彰子の女房となった大納言の君などがいます。

*小少将が扶義の女で、大納言の君が時通の女であるという説もあります。

致平親王室
 村上天皇の皇子致平親王の室となった女は、親王との間に成信をもうけました。成信も、若くして出家しています。雅信の子孫には若くして出家した方が多いようです。


・源 重信の子孫たち

 雅信の弟で、左大臣にまで昇進した重信には、致方、相方、道方などの子女がいます。

 そのうち、道方の子に百人一首71番の歌の作者、経信がいます。経信は大納言まで昇進しました。

 更にその子が、百人一首74番の歌の作者、俊頼、そして俊頼の子が百人一首85番の歌の作者、俊恵法師です。百人一首に三代で歌が採られているこの方々が、宇多源氏だと知ったときは驚きました。

 ところで、上の方で敦実親王について、「音曲を好んだ」と書きましたが、子孫の方々には笛や琵琶など、管弦に才能を発揮した方が多いです。雅信、重信をはじめ、時中、資通、経信など…。敦実親王の血を強く受けたのでしょうね。

☆コメントを下さる方は掲示板へお願いします。
系譜から見た平安時代の天皇 目次へ
トップページへ

第78代 二条天皇

2012-02-09 21:02:05 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  1143~1165
☆在位期間 1158~1165

☆両親
 父・後白河天皇 母・藤原懿子

☆略歴

 名は守仁。後に後白河天皇となる雅仁親王の第一皇子として誕生しました。生後間もなく母を失ったため、藤原得子(美福門院)に養育されることとなります。

 久安六年(1150)十二月、北白河殿において着袴。久寿二年(1155)九月二十三日、親王宣下。即日立太子。同十二月、元服。保元三年(1158)八月十一日践祚します。

 永万元年、第二親王順仁(六条天皇)に譲位し、七月二十八日、二条東洞院殿において崩御。陵は京都市北区にある香隆寺陵。

 強い性格だったらしく、天皇による親政を主張し、院政を行おうとする父、後白河上皇と対立しました。そのため、天皇側近の藤原経宗や藤原惟方が流罪になるという事件も起きました。
 ちなみに、経宗は天皇の伯父、惟方は乳母子で、2人は天皇側近として権力を握ろうと画策したと言われています。
 また、この2人は、近衛天皇の后であった藤原多子を入内させたいと願う天皇に協力し、後白河上皇を一時幽閉して、多子の入内を実行したとも言われています。多分、天皇の命で行ったことなのでしょうね。二条天皇の性格の強さが伝わってくる話でもあります。

 また、二条天皇が崩御の直前、位を我が子、順仁親王に譲ったのは、父への最後の抵抗だったかもしれませんね。


☆父方の親族

祖父母
 祖父・鳥羽天皇 祖母・待賢門院藤原璋子(藤原公実女)

主なおじ
 崇徳天皇 近衛天皇 覚姓法親王

主なおば
 統子内親王(上西門院) 子内親王(八条院) (女朱)子内親王(高松院)

主ないとこ
 重仁親王(父は崇徳天皇)
 海恵(母は(女朱)子内親王


☆母方の親族

祖父母
 祖父・藤原経実 祖母・藤原公実女
*藤原経実は、道長の孫師実の子で、藤原公実は閑院流藤原氏の人物。つまり二条天皇の母方は、摂関家と閑院流藤原氏の血を受け継いでいるということになります。閑院流藤原氏についてはこちらの記事からご覧下さい。

☆主なおじ
 藤原経宗 藤原光忠 藤原経定

主ないとこ
 藤原頼実(父は藤原経宗)
*藤原経宗の子孫は、大炊御門家として後世まで続いた。


☆主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *高倉天皇 *守覚方親王 *以仁王

☆主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹) 
 *亮子内親王(殷富門院) *式子内親王 *観子内親王(宣陽門院)

☆主なおい
 安徳天皇 後鳥羽天皇 守貞親王 惟明親王(以上、父は高倉天皇)
 北陸宮(父は以仁王)

☆主なめい
 功子内親王 範子内親王 潔子内親王(父は高倉天皇)


☆后妃と皇子・皇女

 (女朱)子内親王(鳥羽天皇皇女)

 藤原多子(藤原公能女)*もと近衛天皇皇后 二代の后と呼ばれた。

 藤原育子(藤原実能女)

 伊岐致遠女 → 順仁親王(後の六条天皇)

 春日局(中原師元女) → (イ善)子内親王

☆末裔たち

 二条天皇は、位を我が子順仁親王(六条天皇)に譲って崩御します。しかし、六条天皇は3年後に退位、平清盛の妻、時子の甥に当たる異母弟、高倉天皇が即位します。
 六条上皇は13歳で崩御し、皇女の(イ善)子内親王は生涯独身でしたので、二条天皇の血統は絶えてしまいました。

 ところで、二条天皇の后妃のうち、(女朱)子内親王と藤原多子については、当ブログの歴史人物伝ですでに紹介しましたので、詳しくは「后妃と皇子・皇女の項からリンクを貼ってあるそれぞれの記事をご覧下さい。

 ここでは、二条天皇の中宮となった藤原育子を紹介したいと思います。

☆藤原育子(1146~1173)

 二条天皇の中宮。父は藤原実能(閑院流藤原氏) 母は源顕俊女(関白藤原忠通家の女房督殿)。母の縁で藤原忠通の養女となります。

 以下、彼女の経歴を列挙します。

 応保元年(1161) 二月十七日入内。従三位に叙され、二十七日には女御となり飛香舎に入る。
 応保二年(1162)、中宮に冊立される
永万元年(1165)、七月二十八日、二条天皇崩御。
 仁安三年(1168)宇治大僧正覚忠を戒師として出家。
 承安元年(一一七一)、御所高松殿が放火にあい、五条中納言藤原邦綱の東山第に移る。
 承安二年(1172)、皇后となる。
 承安三年(1173)八月、崩御。

 育子は順仁親王(六条天皇)の母の身分が低かったため、天皇を自分の養子として養育しました。しかし、二歳で即位した天皇は五歳で退位、そのあと、ほとんど世捨て人のようになってしまった我が子を、どのような思いで眺めていたのでしょうか。

 なお、育子は上でも書きましたように、承安元年の火災のあと、藤原邦綱の東山第に移っていますが、六条上皇はこの東山第で崩御しています。そのためこの時、上皇も育子と一緒に東山第に移ったものと思われます。
 育子は上皇に先立って崩御しますが、最後まで上皇の行く末を気にかけていたと思います。


☆コメントを下さる方は、掲示板へお願いいたします。

「系譜から見た平安時代の天皇」トップへ戻る
「平安夢柔話」トップへ戻る


第53代 淳和天皇

2011-09-17 21:24:18 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  786~840
☆在位期間 823~833

☆両親
 父・桓武天皇 母・藤原旅子

☆略歴

 名は大伴。桓武天皇の第三皇子。

 延暦十七年(798)、元服。
 延暦二十二年(803)、三品に叙せられる。その後、兵部卿、治部卿、中務卿など歴任。
 弘仁元年(810)、薬子の乱で高岳親王(平城天皇皇子)が廃太子されたことにより、嵯峨天皇の皇太弟となる。
 弘仁十四年(823)、即位、嵯峨天皇の皇子正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子とする。
 天長十年(833)、皇太子に譲位。太上天皇となって淳和院に移り、淳和院または西院と称した。
 承和七年(840)、崩御。陵は大原野西嶺上陵。

 淳和天皇の業績としては、「検非違使を独立させ、左右検非違使庁を置く。」「巡察使を諸国に派遣した」「皇室の経済の不足を考え、上総・常陸・上野三国を親王任国とした。」ことなどが挙げられます。皇室や国のことを考え、新しい政策を取り入れていたようですね。

 また、淳和天皇は温雅な人物で、風雅・文物をこよなく愛し、宮廷詩人の代表者でもありました。個性の強い兄たち、平城天皇や嵯峨天皇に比べると一見目立たないように見えますが、政治的にも文化的にも優れた天皇だったと思います。ただ、皇位にはあまり執着していなかったようです。


☆父方の親族

祖父・光仁天皇 祖母・高野新笠

主なおじ

 多戸親王 早良親王

主なおば

 酒人内親王


☆母方の親族

 祖父・藤原百川 祖母・藤原諸姉(藤原良継女)

主なおじ

 藤原緒嗣

主ないとこ

 藤原家緒 藤原春津(以上・父は藤原緒嗣


☆兄弟姉妹と甥・姪

主な兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
*安殿親王(平城天皇) *神野親王(嵯峨天皇) *伊予親王 *葛原親王 *賀陽親王 *万多親王 *仲野親王 *良岑安世

主な姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *高志内親王(淳和天皇妃) *高津内親王(嵯峨天皇妃 *朝原内親王(平城天皇妃) *大宅内親王(平城天皇妃) *伊都内親王(阿保親王妃)
*甘南備内親王 *布勢内親王

主な甥・姪

 高岳親王・阿保親王・大原内親王(以上、父は平城天皇)
 仁明天皇・源 融・源 信 正子内親王(淳和天皇皇后)・有智子内親王(初代賀茂斎院)・源 潔姫(藤原良房室) (以上、父は嵯峨天皇)
 高棟王・高見王(高望王の父) (以上、父は葛原親王)
 平 茂世(平 貞文の祖父)・班子女王(光孝天皇妃 宇多天皇母)(以上、父は仲野親王)
 僧正遍昭(父は良岑安世)


☆主な后妃と皇子・皇女

 正子内親王(嵯峨天皇皇女) → 恒貞親王 恒統親王 基貞親王

 高志内親王(桓武天皇皇女) → 恒世親王 氏子内親王(伊勢斎王)

  橘氏子(橘 永名女)

 永原原姫


☆末裔たち

 淳和天皇の皇子のうち、恒世親王は淳和天皇の皇太子に、恒貞親王は淳和のあとを継いだ仁明天皇の皇太子に立てられましたが、恒世親王はすぐに皇太子を辞退し、二十代半ばの若さで世を去りました。
 また恒貞親王も、淳和天皇の崩御の翌々年に起こった承和の変で廃太子となり、淳和の皇子たちは皇位につくことはありませんでした。皇位は仁明天皇から文徳天皇へと、嵯峨天皇の血統が継いでいくこととなります。

 そこで淳和天皇の末裔たちの項では、承和の変で廃太子となった恒貞親王を「平安時代史事典」をもとに紹介いたします。

○恒貞親王(825~884)

 淳和天皇の第二皇子。母は、嵯峨天皇皇女の正子内親王。

天長十年(833) 仁明天皇の皇太子となる。
承和五年(838) 元服。
承和九年(842) 七月十五日嵯峨上皇の崩御ののちに起こった承和の変により皇太子を廃される。

 その後、淳和院の東の亭に住み、世に亭子親王といわれた。深く仏教に帰依した。

 嘉祥二年(849) 落飾、恒寂と号する。
 貞観十八年(876) 母太皇太后(正子内親王)が嵯峨上皇の故宮を改めて大覚寺となすと同時に初代門跡となる。
 元慶八年九月夜、衣服を浄め仏前に香華を供え、西に向かって結跏趺坐のまま入寂したといわれる。

 なお、同じ元慶八年、陽成天皇が藤原基経によって退位させられたあと、次期天皇の候補の1人にもなっています。性寛雅にして容姿端麗、挙止閑麗といわれました。

 承和の変によって運命を変えられてしまったようにも思えますが、本人は案外、父の淳和天皇に似て皇位に執着はそれほどなく、仏教に帰依する生活に安らぎを感じていたのではないかと思います。また、私の大好きな寺、大覚寺ゆかりの人物でもあるので、何となく親しみを感じます。

☆淳和天皇に関するお薦めのページの紹介

 ヨウダさんのサイト「平安京探偵団」の「こちらのページ
 平安京探偵団の団長先生、山田邦和教授の文章です。
 うちのだんなさんはこの文章を読み、淳和天皇のことが好きになったそうです。淳和天皇の人となりについて熱く語った文章ですので、ぜひご覧になって下さい。


☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
系譜から見た平安時代の天皇の目次へ
トップページへ戻る