平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

カテゴリ欄に「歴史雑記帳」を新設しました

2006-06-28 09:47:08 | お知らせ・ブログ更新情報
 カテゴリに「歴史雑記帳」を新設し、「えりかの徒然なるままに」の中の歴史関係の記事をそちらに移動しました。

 元々、「えりかの徒然なるままに」は「雑記」というタイトルで、どのカテゴリに入れて良いか迷うような記事を集めたカテゴリでした。その通り、色々なジャンルの記事が混じり合っていました。しかし最近では、「功名が辻」の感想や歴史占いといった、歴史関係の記事をUPすることがとても多くなっていましたので、それらの記事は「歴史雑記帳」として独立させることにした次第です。

 カテゴリ欄の「歴史雑記帳」をクリックすると、「功名が辻」等の歴史ドラマの感想や歴史占いの結果、更には歴史にまつわるちょっとした話、「平安時代好きに50の質問」に対する私の回答を一括表示しますのでよろしければ御覧になってみて下さい。(本日 2006年6月28日現在、全18記事)

 記事の4分の3が「歴史雑記帳」に移動してしまった「えりかの徒然なるままに」には、えりかの地元ネタや歴史以外の興味のあること、その他、私のとっておきの話を書いていきます。近々(と言っても来週になると思いますが)、地元ネタの記事を1本書く予定でいます。

☆「管理人ご挨拶 最初に必ずお読み下さい」中の「このブログの内容について」の方にも、近日中に「歴史雑記帳」についての説明を加筆する予定です。しばらくお待ち下さいませ。


○今後の予定について
 掲示板No1430にも書きましたが、8月中旬に行われる予定の同窓会の幹事になってしまい、引き続きオフが忙しい日々が続きそうです。ブログの更新は週に2回を目標にやっていきたいと思っていますが、もしかすると週に1回……、というときもあるかもしれません。いずれにしてもゆっくりの更新になると思います。取りあえず今週末に「図書室1」を更新する予定でいます。

 そして、ここを御覧になって下さっている皆様の暖かい励ましにはいつも勇気づけられています。皆様の暖かい支えがあってこのブログを続けていけるのだと、とても感謝しております。本当にありがとうございます。今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます。


最近のエリカ

2006-06-26 09:16:40 | 猫のお部屋
 エリカの背中に大きな毛玉が二つもできてしまったのニャン。毛玉の中に虫がたくさん入ってきてかゆくて気持ち悪かったのニャン。大好きなころころ転がるお遊びも背中の毛玉がじゃまでできないのニャン…。

 そうしたらパパが毛玉をほぐしてくれたのニャン。そのあと毛を少し切ってブラシをかけてくれたのニャン。毛をほぐしたときと切ったときは痛かったのニャン。でもエリカは我慢したのニャン。
 毛を切ってもらったあとはなぜか少し元気がなくなってしまったのニャン。でも、1日寝たら元気になったのニャン!!ころころ転がるお遊びもできるようになったのニャン。嬉しいニャン!!

 ……とエリカが言っていますように、最近、エリカはちょっと大変な思いをしてしまったのでした。背中に突然毛玉ができてしまい、その中にのみが入り込んでしまったのです。もしかすると先にのみがエリカの背中の毛の中に入り込んで、その結果毛玉ができてしまったのかもしれませんが…。エリカの背中をなでてあげても、毛並みにいつものようなつやがなかったので心配でした。そこで毛玉をほぐし、毛を少し切ってあげることにしたのでした。
 その結果、エリカは元のようなつやつやした毛並みを取り戻すことができました。一安心です。やっぱりお手入れはしっかりやってあげないといけないですね。


 ところで…、2005年4月9日の記事「ワンと鳴く猫」(この記事の下の方にリンクが貼ってあります)でも書きましたが、エリカはとても声の表情の豊かな猫です。「ニャー」とかわいい声で鳴いたと思ったらいきなり「ギャー!」と大きな声を出してみたり、おなかがすいたときは「アー」とかすれた声を出すなど、時と場合によって鳴き方を変えてみたり、「ワン」とか「ウーン」のような猫にしては珍しい鳴き方をしてみたりと、本当に面白いです。

 そしてエリカは最近、また新しい鳴き方を覚えたようです。それは「ウン」と「エン」です。「ウーン」と鳴くことはよくありましたが、「ウン」は聞いたことがなかったのでびっくりしました。「エン」はその「ウン」が変形した鳴き方なのでしょうね。

 実はずっと昔、私の実家でも猫を何匹か飼っていたことがありました。でもどの猫も「ニャーぉ」と鳴くだけでしたので、これほど声の表情の豊かな猫はエリカが初めてです。エリカちゃん、これからも色々な鳴き方をして私たちを楽しませてね。

*「ワンと鳴く猫」の中で、エリカは本来の猫語である「ニャー」と鳴かなくなってしまったので、現在「ニャー」を仕込んでいる…、と書きましたが、おかげさまで「ニャー」ともしっかり鳴くようになりました。良かったです。


☆カテゴリ欄の「猫のお部屋」をクリックすると関連記事を一括表示します。エリカに関する記事と写真が中心ですが、ここを御覧の皆様が送って下さった猫ちゃんや私が近所で出会った猫の写真もあります。よろしければ御覧になってみて下さいね。

2005年4月9日の記事「ワンと鳴く猫」をすぐに御覧になりたい方は、ここをクリックして下さい。

日本歴史占い

2006-06-23 17:17:04 | 歴史雑記帳
 「きらめきの刹那」「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」の手鞠さんが、またまた面白い占いを紹介して下さいました。手鞠さん、どうもありがとうございます♪

 今回の占いは「日本歴史占い」です。性別と、生年月日を西暦で入力し、日本史上の人物を判定するという占いなのですが、私えりかの結果は以下のようになりました。


 あなたは素晴らしい潜在能力の持ち主です。とりわけ第六感が発達している感性豊かな女性。なので、仕事もできる、酒もいける、涙もろいわりに豪快。卑弥呼も幼い頃から霊感が強く、洞察力に優れ、戦争、疫病、飢饉など国の一大事は、すべて彼女の言葉にゆだねられていました。ふだんは大胆ですが、弱点を突かれるともろいので、ヒステリーになりやすい面も。

 と言うわけで、私は卑弥呼だそうです。卑弥呼というと奥に引っ込んで占いばかりしているおばあさん……というイメージがあるのですが…。それ以外は謎が多くてあまり印象がないです。

 それで私の性格判断なのですが、「仕事もできて酒も行ける」というのは当たっていませんね。「働いているより家で家事をやっている方が好き…」という理由で仕事をやめてしまった前歴があるえりかです。(苦笑)アルコールにもとても弱いです。

 ただ、第六感が優れているというのは当たっているかもしれません。
 例えば、本人や周囲からは全く話を聞いていないのに、「誰と誰が現在交際している」というのが手に取るようにわかってしまう所が私にはあります。「○○さん、結婚するんだって。」という話を聞くと、「その相手は××さんね」と私が言い、「なぜ知ってるの?」と不思議がられた…ということも何回もありました。

 また最近では、東北地方の某所で起こった小一男児殺害事件の犯人が、事件が起こる1ヶ月前に事故死した近所の女児の母親ではないかと、かなり以前から気がついていました。実際彼女が犯人だったわけですが…。
 
 それと「ヒステリーになりやすい」というところも当たっています。


■頭脳・知識
ズバ抜けた情報消化能力の持ち主。どんな情報も神がかり的に消化してしまう。意味不明、支離滅裂であってもそれなりに。とりわけ第六感が発達していて、直観が鋭い。

 え~!私は情報消化能力など全くないのですが…。


■センス
チャレンジとリベンジを繰り返す。小さな幸せに満足できず、いつも何かに立ち向かっている感じ。他人にふりかかる困難も不幸も、自分の人生として噛み締めてしまうから、いつも“ドラマチック”な人。

 私は小さな幸せで満足するタイプだと思うのですが…。今の生活環境が満足なものであれば、その環境を絶対変えたくない!というのが正直なところです。
 でも、他人に降りかかる不幸と困難を自分の人生として受け入れてしまうところは確かにあります。


■感情
情が厚く、頼られると丸ごと引き受けてしまう姉御肌タイプ。一人で何でも抱え込むので、ストレスがたまりやすく、落ち込みが激しい。豪快に見えて、実は繊細。人知れず、プレッシャーと戦うことも。

 一人で何でも抱え込むのでストレスがたまりやすく、落ち込みも激しいというところだけは当たっています。


■外見・言葉
けれんみのなさ、気風の良さ、大胆さは男まさり。なにごともキッチリこなすしっかり者で、何かに打ち込む姿が好感をもたれる。意志の強さが全身から漂っていて、不思議な存在感をアピール。

 え~、これも当たってないです。「しっかり者」などと言われたことなどないのではないかと思います。


■行動
人一倍責任感が強く、努力家。コレと決めたら、寝食を忘れて没頭するタイプ。脇目もふらずひたむきに打ち込んでしまうため、たまにレールが外れていても気がつかないことがある。

 「これと決めたら寝食を忘れて没頭する」というところは当たっているかもしれません。ブログの作成や歴史研究などをやっているとつい夢中になり、時間を忘れてしまうこともしばしばです。


 ちなみに、私が男性だったとしたら、「聖徳太子」なのだそうです。
 
 根拠のない自信と威圧感で、周囲に大物と思われています。その影響力は大きく、話術の天才です。聖徳太子もその才能を生かし、20歳で天皇の政治を助ける摂政(日本初)に任命されます。仕事人間で、弱音は吐きません。争いや対立が苦手で、結果よりもプロセスを重視。みんなの個性や意見を受け入れる広い心を持ち、結果、聖徳太子は、家柄に関係なく能力のある人材を登用する『冠位十二階』を制定しました。

 聖徳太子は好きな人物なので、この結果は嬉しかったです。

 確かに卑弥呼も聖徳太子も「謎の人物」「不思議な人物」という感じがします。頭が良さそうなところと勘が鋭そうなところなど、二人は似ているところがありますよね。

 さて、今回の占いを終えた感想ですが…、私に関してですがこの判定はあまり当たっていないような気がしました。
 でも、私の生年月日を入れて占いをやると、「頭が良くて仕事ができて行動的」「常に新しいことにチャレンジする」という、今回のような結果が出ることがとても多いのです。ということは、これが私の潜在的な性格なのかもしれませんね。


☆関連リンク
きらめきの刹那
徒然独白 ~手鞠のつぶやき
日本歴史占いのページ





京都1泊旅行2006年春 もくじ

2006-06-19 08:53:27 | 旅の記録
 こちらは、「京都1泊旅行2006年春(2006年4月6日・7日)」のもくじのページです。

 各項目をクリックするとその記事に直接ジャンプできます。旅行記第1回の記事を読む→ブラウザの「もどる」でこのページにもどる→第2回の記事を読む…というように、旅行記を順番に読むこともできます。

 また、「日帰り京都旅行2005年夏(2005年8月23日)」のもくじのページにもジャンプできます。ぜひご利用下さい。

 1.出発
 2.風俗博物館
 3.満開の桜
 4.十二単体験
 5.壺装束で神社参拝
 6.袿姿でもう1枚
 7.夕食、そして今夜のお泊まりの宿へ
 8.真夜中の出来事

 9.旅行2日目の朝
10.京都御所
11.紫式部の墓
12.おせんべい屋「宗禅」さんと猫のチビ太くん
13.雲林院
14.千本閻魔堂
15.帰り&追記

☆「日帰り京都旅行2005年夏(2005年8月23日)」のもくじのページへ

帰り&追記 ~京都1泊旅行2006年春15

2006-06-16 08:52:14 | 旅の記録
 京都駅に着いたときはもう4時近くになっていました。私たちが乗る新幹線は4時39分の上りのこだまなので、そろそろ駅に入らなくてはなりません。
 そこで、京都駅前で里江さんとお別れしました。里江さん、2日間御一緒できて嬉しかったです。どうもありがとうございました。またいつか、京都を御一緒しましょうね。

 ホテルに荷物を取りに行ったあと、すぐに駅の改札に入りました。駅の中の店に寄り、いつものように京漬け物2種類と夕食用のお弁当を購入。ついでに新幹線の中で食べるようにと、チーズの入ったちくわも買いました。

 そして、無事に新幹線に乗り、座席に腰を下ろしたとたん、どっと疲れが出たような気がしました。とにかく2日間、動きっぱなしでしたので…。
 でも、風俗博物館、下鴨神社、そして今日の史跡巡り……、私にとっては新しい発見の連続でとても有意義な旅でした。二日間私の趣味につき合ってくれただんなさんにも感謝。夜中に大ハプニングがあったけれど、大事に至らなくて本当に良かった…と改めて思いました。。今度はいつになるかわかりませんが、またきっと京都に来ますね。それまで待っていて下さいね。

 京都~掛川は所要時間約2時間です。そこでゆっくり寝ていこうと思ったのですが、なぜかおなかがすいていたので駅で買ったちくわを食べることにしました。幸いすぐに車内販売が回ってきたので、ジュースを1本買いました。だんなさんもコーヒーを1本買ってご機嫌です。

 ジュースを飲みながらちくわを食べているとき、私は、この車両の右側の3人がけの席がすべて空いていることに気がつきました。何となく不自然です…。「もしかすると団体さんがどっと乗ってくるのでは…」と思ったのが的中し、米原駅で50人くらいの団体さんが乗ってきました。たちまち右側の3人がけの席はいっぱいになってしまいました。
 しかも団体さんの話している言葉は日本語のように聞こえますが、なぜか意味がわからないのです。つまり韓国語だったのでした。「韓国語というのは日本語と語源が一緒なので、少し難解な津軽弁や薩摩弁を習得する3倍くらいの根気があれば習得できる」というようなことを、司馬遼太郎さんが「街道をゆく」という本の中で書いていたのを思い出しました。語源が一緒なので、韓国語というのは一瞬、日本語のように聞こえてしまうのですよね。

 それにしても、「お国が違うとこんなにも違うのか…」と、ちょっとびっくりしました。話し声は大きいし、子供は走り回っているし…。何よりも驚いたのは、男の人たちが大騒ぎしていることでした。日本人の男の人が新幹線の中で大騒ぎをする…という光景を私は今までほとんど見たことがありませんので…。

 そのようなわけで、おやつを食べ終わった私たちは座席を倒して目をつぶってはみたのですが、あまりよく眠ることができませんでした。

 団体さんが降りたのは浜松駅でした。あたりは急に静かになり、ついつい眠りに襲われそうになりましたが、私たちが降りる掛川駅は次なのです。眠らないようにと一生懸命に目を開けていました。

 帰宅したのは7時半を少し過ぎた頃でした。早速、京都駅で買ったお弁当を食べることにしました。
 私のお弁当は、中が12個の枠で仕切られており、4種類の味のご飯と8種類のおかずが入っています。ご飯は炊き込みご飯やちらし寿司など、おかずは野菜の煮物、てんぷら、焼き魚、高野豆腐などです。おいしかったです。だんなさんのお弁当はとり飯弁当でした。少しもらったのですが、こちらもおいしかったです。このように、帰宅してまでも京都の味を楽しめたことを幸せに思いました。

 荷物の片づけや何やらで、就寝したのは結局12時でした。
 こうして、ハプニングもあったけれど楽しかった、私たちの京都1泊旅行は終わったのでした。


(追記)
 翌日は、朝ご飯を食べるために一度起きたものの、9時過ぎに横になり、そのまま午後2時までぐっすり寝てしまいました。何しろ、出かける前の日は3時間、ホテルでも4時間ちょっとしか眠ることができなかったのですから、よほど疲れていたのでしょうね。

 そして、夕方には私の携帯電話の充電機を買うためにドコモショップに行って来ました。幸い私の使っている機種の充電機は在庫があったので、すぐに買うことができました。しかもポイントがたまっていたので、何と100円で手に入ったのです。ラッキーでした。

 家に帰って携帯電話の充電をし始めたときはほっとしました。何しろ電池が切れる寸前でしたので…。

 それにしても、昨年の日帰り京都旅行の時は支払いを忘れたために電話を止められ、今回は充電機を壊してしまったため、旅行中にあまり電話を仕えず……。今度京都に行く前には、携帯電話の取り扱いには十分注意しなくてはいけませんね。
 そんなことを考えながら、充電の終わった携帯電話で掲示板チェックをする私がいました。

 写真は、京都御所で購入した「愛子内親王殿下のお印とキティちゃんのキーホルダー」です。やっぱりかわいい♪

        ー 京都1泊旅行2006年春 おわり ー

千本閻魔堂 ~京都1泊旅行2006年春14

2006-06-12 16:59:47 | 旅の記録
 タクシーは北大路通を西に向かっています。

 右側には大徳寺が、左側には船岡山が見えます。6年前の夏に、暑い仲このあたりを歩き回ったことを昨日のように思い出しました。

 タクシーはやがて千本通を左に折れました。そして、しばらく行ったところで止まりました。

 私たちはタクシーを降り、千本通を歩いて横断しました。

 この千本通りは、平安京が栄えていた頃は「朱雀大路」という名称で、平安京のメインストリートでした。その道幅は80メートルだったそうです。そして、朱雀大路から東が「左京」、西が「右京」と呼ばれていました。

 現在の千本通の道幅は約10メートルと言ったところでしょうか。「千本通は狭い」という話をうかがっていましたので、思ったより広いなとは感じましたが、平安時代当時の面影はありません。

 千本通を横断したところに、小野篁が建立したと伝えられている「千本閻魔堂」がありました。

 小野篁(802~852)は、平安時代初期の官人です。学問に造詣が深かった篁は、三十代半ばで遣唐副使に任じられました。

 ところが、遣唐大使の藤原常嗣が乗るはずだった船が破損していることが発覚、「破損した船に乗るなんてとんでもない!」と考えた常嗣は、篁が乗るはずだったもう一つの船と乗船を交換して欲しいと朝廷に訴えたのです。朝廷ではこれを許したため篁は激怒し、仮病を使って乗船を拒否します。そのため篁は嵯峨上皇の怒りを買い、承和六年(838)に官位を剥奪され、隠岐に流されることとなります。

 篁は、隠岐に流されていく船に乗るとき、一首の歌を詠みました。この歌が百人一首の11番目の歌、「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟」です。
 篁はこれより2年後に許されて帰京、最終的には従三位参議にまで昇進しました。

以上が篁の簡単な略歴ですが、その他、彼には様々な伝説や逸話があります。異母妹と恋をした話、嵯峨上皇より「子子子子子子 子子子子子子(子が12個)と書いて何と読むか」と尋ねられ、「ねこの子の子ねこ、ししの子の子しし」と即座に答えたという話……。
 そして最も有名なのは、この世と地獄を自由に行き来していた……という逸話ではないでしょうか。つまり篁は昼間は京の朝廷に仕え、夜は地獄で閻魔大王に仕えていた…というのです。
 この「千本閻魔堂」の名前は、そんな篁にまつわる伝説に由来するものなのでしょうね。

 境内に入ってまず目に入ったのは、何と紫式部の供養塔でした。上の写真はその「紫式部供養塔」です。
 この供養塔は室町時代に造られたもののようですが、お墓は隣同士、しかも篁のお寺に紫式部の供養塔…。二人の縁に不思議なものを感じてしまいました。「二人は生きた時代も違うし、血縁関係も何もないのにどうして……?」という私の疑問に対して、穴瀬さんがこんな事をおっしゃって下さいました。

 「源氏物語」でえそらごとをたくさん書いた紫式部は「罪深き者」として地獄に堕ちます。その紫式部を、閻魔大王に仕えていた小野篁が救った…というのです。
 これはなかなか面白い話ですし、納得という感じがします。それに、紫式部が小野篁によって救われたという話は、何となくほっとさせられる話でもあります。

 千本閻魔堂になぜ紫式部の供養塔があるかについてはこうして答えが出ましたが、なぜ二人のお墓が隣同士なのかという問いには疑問が残りました。「紫式部のお墓の位置はあの場所でほぼ確定されているけれど、小野篁の墓の方は伝説なのでは…」とも考えました。

 しかしこのことに関しても、先日(2006年6月7日)の拙掲示板No1390の琴音さんの書き込み、

「個人的には、紫式部へのお祈りを捧げるのに相応しい場所はこの墓所以外には有り得ない!(神社の遥拝所のような性格のもの)と考えておりますけれどね。 (^-^)」

及びNo1391の手鞠さんの書き込み

「こういうものはそこに本物遺骨が埋まっているかどうかなんて、実のところあまり関係ないような気がします。(中略) 要は故人への祈りを捧げるのに相応しい場所かどうか、その一点に限るのではないかと…。

によって納得しました。琴音さん、手鞠さん、どうもありがとうございます。
 人々が祈りを捧げる場所、つまり遥拝所として、紫式部と小野篁のお墓は「あの場所でなくてはいけない」のですよね。

 ともあれ、二人ともまだまだ謎が多い人物だと思いますので、これからも色々探索してみたいです。

 本堂には閻魔大王の木像がありました。うーん、やっぱり怖い…。
 この閻魔大王に仕えていたという小野篁とは、いったいどんな人だったのでしょうか。どうやら彼は一本気で正義感が強く、包容力のあった人のようです。ただ、ちょっと変わり者で、人々から敬遠されるような所もあったようですが…。でも私の印象は、「きっと頭が良くて格好良くて素敵な人だったのだろうな」です。

 本堂でお賽銭を入れようとしたのですが、なぜかなかなかうまく行きませんでした。「私は閻魔大王と篁さんに嫌われているのでは…」と思って少々あせりましたが、3回目にようやくお賽銭を入れることができて一安心です。


 千本閻魔堂前のバス停にて、穴瀬さんとお別れしました。私の知らなかった京都の隠れた史跡を案内していただき、とても楽しく、有意義な時間を過ごすことができました。本当にありがとうございました。穴瀬さんとは、またいつかきっと史跡巡りを御一緒したいです。

 私たち夫婦と里江さんはバスに乗り、京都駅に向かいます。

雲林院 ~京都1泊旅行2006年春13

2006-06-10 00:14:48 | 旅の記録
 宗禅さんから少し北に行ったところに「若宮八幡宮」という小さな神社があったのでちらっと立ち寄りました。
 この場所には、源頼光の邸宅があったという伝説があるそうです。しかし、頼光の邸宅は一条大路(今の一条通)の南、堀川小路(今の堀川通)の東の左京北辺二坊五町にあったようなので、こちらの方はあくまでも伝説だと思いますが…。
 ただ、西陣界隈には首途八幡宮(義経が金売吉次とともに奥州平泉に向かったときの出発点と言われています)や義経誕生の地など、、源氏に関する伝承を伝える史跡がとても多いのだそうです。伝説の中には何らかの史実が隠されているとも考えられますから、このあたりは源氏の本拠地だったのかもしれませんね。

 若宮八幡宮をあとにし、私たちは近所のうどん屋さんで昼食をとることにしました。私が注文したのは西京みその煮込みうどんです。うどんの中にみその味がしみこんでいてとってもおいしかったです。ただ、とても熱かったので、猫舌の私は食べるのに時間がかかってしまいましたが…。おかずとして山芋のせん切りも注文しました。こちらもさっぱりとしていておいしかったです。

 昼食後に向かった先は北大路通沿いにある雲林院です。

 雲林院のあった場所は、元々淳和天皇の離宮でした。淳和天皇はたびたびこの離宮に行幸されたようです。淳和天皇が崩御されたあと、跡を継いで踐祚した仁明天皇に伝えられ、さらには仁明天皇の第七皇子常康親王に伝えられました。
 親王が出家された後、僧正遍昭を招いて寺とされ、「雲林院」と称することとなります。
 なお、「源氏物語」の「賢木」の巻には、光源氏がこの雲林院に参籠をする場面が出てきます。

 雲林院はこぢんまりとしたお寺でした。平安時代には広大なお寺でしたが次第に規模が小さくなり、今では狭い境内を残すのみとなっています。

 境内に入ってまず目に入ったのは僧正遍昭の歌碑です。上に写真を載せてみました。

 僧正遍昭(816~890)は、百人一首12番目の歌「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」などの歌で知られる平安初期の歌人です。なお、百人一首に撮られたこの歌は、遍昭が出家するずっと以前の歌で、五節の舞姫の舞いを見て詠まれたものだそうです。

 僧正遍昭は、俗名を良岑宗貞といって、桓武天皇の孫に当たる人物です。(父親は、桓武天皇の皇子で臣籍に降下した大納言良岑安世。)
 宗貞は、美男であったために宮廷の人気者でした。そして、仁明天皇の寵愛を受けた貴公子でもありました。しかし、嘉祥三年(850)に仁明天皇が崩御すると、その葬送の礼の直後、彼の姿は宮廷から消えてしまいます。彼は仁明天皇の後を追って出家をしてしまったのでした。
 その後彼は円仁に師事して厳しい修行を積み、そのおかげで僧正にまで出世しました。

 雲林院の境内には、このお寺についてを記した碑もありました。それには、上で述べたように常康親王が出家後に僧正遍昭を招いてここを寺としたということが書いてあります。常康親王は仁明天皇の寵愛を受けた皇子であり、出家前の僧正遍昭は仁明天皇の寵臣でした。二人は仁明天皇を通じて以前から親交があったのかもしれませんし、色々心通じるものがあったのかもしれませんね。
 また、遍昭は時康親王(後に踐祚して光孝天皇)とも親交があったようです。時康親王もまた、仁明天皇の皇子でした。遍昭にとって仁明天皇がどんなに大きな存在だったかがわかるような気がします。

 雲林院についてを記した碑には、雲林院は「大鏡」の舞台となったというようなことも書かれていました。この文章を穴瀬さんが読んで下さったとき、私は「あっ、そうだった!」と手を打ってしまいました。すっかり忘れていたっけ…。
 雲林院という名前はどこかで聞いたことがある……、と思っていたのですが、ここは古典「大鏡」の冒頭部分の舞台となった所なのですよね。雲林院にて、大宅世継と夏山茂樹という、昔なじみらしい190歳近い二人の翁が巡り会い、菩提講に集まっている人たちに向かって文徳天皇御代から後一条天皇御代までの昔語りをする…というスタイルで書かれたのが「大鏡」です。

 うっそうと茂った境内の木陰から、今にも二人の翁が登場して来るような気がしました。そして、菩提講に集まっているたくさんの人たち……、昔語りをする二人の翁の声……、一瞬その光景が見えたような気がしました。

 雲林院をあとにし、北大路通と大宮通が交わるあたりにてタクシーに乗り込みました。次は小野篁が建立した千本閻魔堂に向かいます。

おせんべい屋「宗禅」さんと猫のチビ太くん ~京都1泊旅行2006年春12

2006-06-05 08:56:04 | 旅の記録
 紫式部の墓をあとにした私たちは堀川通を少し南に下がり、4、5メートルほどの道幅の通りを右に折れました。この通りは、西にまっすぐ行くと金閣寺に、東にまっすぐ行くと下鴨神社に行き着くのだそうです。すごーい!

 この「下鴨神社から金閣寺へ通じる道」を西に行くこと約5分、やはり同じような道幅の通りに出ました。そこを右に折れてすぐの所におせんべい屋「宗禅」さんがありました。

 昨年の7月1日に私は、穴瀬さんのサイト「隣のおばちゃん 成逸女性会」にてキリ番10000番をゲットさせていただきました。その時のキリ番プレゼントに頂いたのが宗禅さんのおせんべいです。とってもおいしいおせんべいだったので、「京都の西陣を訪れたときはぜひ立ち寄ってみたい」と思っていました。そのことを穴瀬さんにお話ししたところ、「宗禅さんはうちのすぐ近所だから、史跡巡りの途中に寄りましょう。」とおっしゃって下さいました。感謝です。

 宗禅さんの入り口は、京都の古い町屋風の作りで心が和みました。お店では、色とりどりの手作りおせんべいがたくさん売られています。京都の伝統の味を守り続けているおせんべい屋さん、素晴らしいです。

 まず最初に出して下さったのは昆布茶です。私は昆布茶が大好きなので嬉しかったです。次に、焼きたてのおせんべいを出して下さいました。ほのかにあたたかく、柔らかくておいしかったです。しょうゆ味でしたが、薄すぎず濃すぎずちょうどよい味加減です。
さらに、「祇園の桜あられ」というおせんべいと、おかきを出して下さいました。どちらもおいしかったです。

 そこで私たちは、こちらで何種類かのおせんべいを買うことにしました。ただ、荷物が増えてしまうのでどうしようかなと思ったのですが、すぐに解決しました。お店のご主人が宅急便で送る手配を整えて下さったのです。しかも、京都御所で買ったおみやげ(御所では、お菓子と小冊子、キティちゃんのキーホルダーを買いましたので)も一緒に箱に入れて下さったので本当に助かりました。ありがとうございます。

 上の写真は、下の方に映っているのがお店でも出して下さった「祇園の桜あられ」です。桜の形をしたかわいいおせんべいで、見ているだけでもほほえましくなります。
 上の方に映っているのは朱珍(しゅちん)と言って、七種類の京あられがお皿の上に載っています。高級有明海老・丹波産黒大豆。紀州の梅・天然青海苔・黒ゴマの厳選素材を使用(宗禅さんのホームページより)しているそうです。色々な味が楽しめるおせんべいですが、ユニークなのはお皿も食べることができるところです。このお皿、えびせんべいでできていて、さくさくとして歯触りが良くておいしいです。
 「祇園の桜あられ」「朱珍」、どちらもお薦めのおせんべいです。


 穴瀬さんのお宅は宗禅さんのすぐご近所でしたので、お言葉に甘えてほんの少しおじゃまさせていただきました。穴瀬さん、どうもありがとうございます。

 すると家の中から、「ニャー、ニャー」というかわいい猫ちゃんの声が聞こえるではありませんか!そうなのです、穴瀬さんのお宅にはチビ太くんという13歳の男の子の猫ちゃんがいるのです。この声の主はチビ太くんかも……と思ったらやっぱりそうでした。
 穴瀬さんに抱かれているチビ太くんはとってもかわいらしくて、幸せそうでした。きっと、穴瀬さんご夫婦の暖かい愛情にいっぱい包まれているのでしょうね。なでてみると、つやつやとしていてさわり心地が良かったです。こうしてチビ太くんに会えたことも本当に嬉しかったです。私と同じ猫好きの里江さんも、チビ太くんのかわいらしさに圧倒されてしまったようでした。

 ただ、チビ太くんに関して、私は心配なことが一つありました。昨年、口の中に腫瘍ができてしまったことをうかがっていたからなのです。
 そこで私は、穴瀬さんにそのことを尋ねてみました。すると、何とチビ太くん、腫瘍がいつの間にか消えてしまったのだそうです。良かったね、チビ太くん。これからもずっと元気でいてね。


☆関連リンク
宗禅さんのホームページ
隣のおばちゃん 成逸女性会
おばあちゃんの日々好日
愛しのチビ太(こちらのページでチビ太くんの写真が見られます。)

紫式部の墓 ~京都1泊旅行2006年春11

2006-06-03 00:13:54 | 旅の記録
 紫式部の墓への入り口は、堀川通り沿い、あと300メートル(距離感があまりないので正確ではないかもしれませんが)くらい北に行くと北大路に出る……というあたりにありました。そして、堀川通から小さな路地のようなところを西に入り、10メートルほど歩いたところにお墓があります。

 京都御所とはうって変わり、こちらは私たち4人の貸し切り状態でした。でもここを訪れる人が多いのか、墓とその周辺はきれいに整備されています。穴瀬さんのお話によると、ご近所の方や紫式部顕彰会の協力によって、このお墓が整備され、守られているということです。素晴らしいことですよね。

 私は紫式部のお墓の前にかがみ込み、手を合わせました。その時、「もしかして、昨夜私を起こして下さったのは紫式部さんなのかも…」ということがひらめいたのですよね…。そこで、敬愛する紫式部のお墓にこうしてお参りができたことに深く感謝したのでした。

 紫式部のお墓の隣には、小野篁(802~852)のお墓があります。小野篁は、この世と地獄を行ったり来たりしていたという、不思議な伝説の持ち主で、私はこの方にも大変興味があります。なのでこちらにもしっかり手を合わせてきました。なお、小野篁については、「千本閻魔堂」を訪れたときのことを書くときに詳しく記述させていただきたいと思っています。「千本閻魔堂」はこの旅行記の第14回として記述する予定です。

 それにしても、どうして紫式部と小野篁のお墓が隣同士にあるのでしょうか。二人は同じ一族ではありませんし、従って血縁関係もありません。実はこの紫式部のお墓、発掘した人は誰もいないので、本当に紫式部の遺骨が埋められているかどうかは確証がないようなのです。ということは、このお墓は伝説では?…と思ったのですが、帰宅して調べてみたところ、「様々な文献を検討した結果、そこに記述されている紫式部のお墓の位置がこの場所だということはほぼ間違いない」」のだそうです。
 というと、小野篁のお墓の方が伝説なのか…。このことに関しても、千本閻魔堂を訪れたとき、穴瀬さんが興味深いお話をして下さいましたので、そちらで書きたいと思っています。

 さて、お墓の向かい側に目を向けると、角田文衞先生の碑文による紫式部顕彰碑があります。私は角田先生の著書は「平安の春」「平家後抄」「承香殿の女御」など何冊かを愛読していますので、こちらを見るのも楽しみでした。

 顕彰碑には、「紫式部顕彰会」という文字が右から左に向かって横書きで書かれています。昔は、横書きの文字は今のように左から右ではなく、右から左に向かって書いたのですよね。なのでこの、「紫式部顕彰会」の文字はとても重々しく感じられました。

 角田先生による碑文は縦書きで書かれていましたが、旧かなづかいと旧漢字を使って書かれている上に、所々が消えかかっていて、ちょっと読みにくそうでした。それでも前半をうちのだんなさん、後半を穴瀬さんが読んで下さいました。

 紫式部は天延元年(973)頃に誕生したこと、本名を香子(たかこ)といったのではないかということ、藤原宣孝と結婚して一女をもうけたが長保三年(1001)に宣孝と死別し、寛弘三年(1006)頃に一条天皇中宮藤原彰子の許に宮仕えに出たこと、「源氏物語」は寛弘六年(1009)頃成立したらしいこと、晩年も引き続き上東門院(彰子)の側近として仕えたことなどが書かれていました。

 興味深かったのは、紫式部の没年が長元四年(1031)となっていたことです。最近ではこの説が有力になっているとのことです。
 私は紫式部の没年は長い間、長和三年(1014)あるいは長和五年(1016)だと思っていました。しかし現在では、藤原実資の日記「小右記」寛仁三年(1019)正月五日の條に、紫式部と推定される女房と実資の会話が記述されていることから、彼女の没年もそれ以降ではないかと思っています。

 紫式部が1031年まで生きていたとすると、娘の賢子が親仁親王の乳母になったということも知っていたことになります。春宮の皇子の乳母になった娘の姿を見て、紫式部はどのように思っていたのでしょうか。出世をした娘を見て安心したのか、それとも春宮の皇子の乳母という仕事は苦労が多いから心配でたまらなかったのでしょうか…。
 国司の任期を終えた父と供に上総から帰ってきた菅原孝標女が、「源氏物語」に夢中になっていることも、もしかすると風の便りで聞いていたかもしれません。
 何よりも、紫式部の晩年が平穏なものであったことを祈らずにはいられませんでした。

 なお、角田先生による紫式部顕彰碑の碑文は、紫式部顕彰会様のホームページで見ることができます。↓にリンクが貼ってありますので、ご興味のある方はぜひ御覧になってみて下さい。

社団法人 紫式部顕彰会ホームページ


かごの中に頭を入れているエリカ

2006-06-01 10:26:39 | 猫のお部屋
 あらあら、エリカが、私たちの洗濯物を入れてあったかごをひっくり返してしまいました。そして、何をするかと思ったら……、倒れたかごの中に自分の頭を入れてしまったのです。かごには洗濯物も入っていましたので、きっと私たちの匂いがしたのでしょうね。そして、その匂いをかいで安心しているみたいです。エリカはよっぽど、私たちの匂いが好きみたいです。

 だんなさんがそれを見て「面白い!」と思ったらしく、急いでシャッターを切ったのが本日の写真です。エリカは時々、こういった思いがけない行動に出るので面白いです。

 さて、最近のエリカですが…、昼間はほとんど寝ています。夜になると元気になり、ニャーニャー鳴きながら部屋の中を歩き回っています。私たちが就寝するとエリカも一応、一緒に寝るのですが、おとなしく寝ているかどうかは怪しいものです。夜中に起きあがって食べ物を食べたり、部屋の中を歩き回ったり、時には母屋に遊びに行ったりもしているようです。どうやらエリカ、「寝ているパパとママを私が守ってあげているのよ。」という気持ちでいるみたいなのですよね。

今日から6月、もうすぐエリカにとっては一番大変な季節がやってきます。とにかく夏ばてから病気になったりしないよう、今年もエリカの健康には気を使ってあげなくては…。今年の夏もエアコンは欠かせないようです。