平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

近況つれづれ

2006-12-26 09:15:29 | えりかの平安な日々 04~09
 久しぶりに想うまま気の向くままの日記を書きます。

1.あれから4年

 先日、ブログ開設2周年を迎えたのですが、この12月24日で、私がネットの歴史サイトの世界に入って4年になります。

 2002年12月24日、私は歴史サイトの掲示板に初めて書き込みをしました。当ブログのリンク集からもリンクさせていただいている「藤の花咲く都 ~平安京~」というサイトです。
 初書き込みの時はものすごく緊張していてどきどきしていたことを思い出します。たった十行くらいの文章を書くのに、30分もかかってしまいましたから…。そして、管理人の夢ノ介さんからレスを頂いたのが翌日の夜でした。とってもあたたかい歓迎のレスで、嬉しくてすぐに返信してしまいました。

 こうしてネットでの書き込みにやみつきになり、あちらこちらの歴史サイトに出入りするようになり、色々な方とお知り合いになることができました。そのうち、掲示板への書き込みだけでは満足しきれなくなり、2年前にこのブログを開設したのでした。その出発点はやはり、4年前の初めての書き込みです。あの時思い切って書き込みをしなかったら、今の私はなかったのですから…。

 これからも、ネットで歴史や古典などの趣味を通じてたくさんの方とお知り合いになり、色々なことを教えていただくのを楽しみにしています。皆様、よろしくお願いします。


2.新しい携帯電話機

 10日ほど前、電話番号とメールアドレスはそのままで携帯電話の機種変更をしました。そしてこの新しい携帯電話、すごいのです。

 この前の携帯電話では携帯対応になっていないインターネットのホームページの閲覧ができ、画面の文字をすべて音声にして読んでくれたので、「すご~い」と思いました。そして今度の携帯電話は、更にそれに加えて、メール作成時や掲示板への書き込みの際、ひらがなを漢字に変換するときにパソコン同様、漢字の説明をしてくれるのですよ。これで私も、携帯電話でのメール作成や掲示板への書き込みが楽にできるようになりました。何しろ私の目は、携帯の画面を3分見ていると痛くてたまらなくなってしまうので。携帯電話ってどんどん進歩していますね。

 これで、外出先からでも携帯電話でインターネットを見ることも、掲示板への書き込みもできます。嬉しいですね~。ただ、パケット代には気をつけなくては…。


3.マイブーム chemistry 「ALL THE BEST」  

 約3年ぶりに、J-POPのCDを買いました。考えてみると、音楽CD自体を買うのも、昨年7月に購入した東儀秀樹さんの「幻奏譜」以来なのですよね。

 chemistry(ケミストリー)は、5年前にデビューした男性二人のデュオグループで、私はデビュー当時から結構好きでした。実はファーストアルバムも持っていたりします。

 ところが私は、インターネットにはまってしまった4年前から、J-POPをほとんど聴かなくなってしまっていました。特に、最近の音楽にはとってもうとくなり、年末の歌番組を観て、「今年はこんな歌が流行ったんだ~」「この曲、なかなか良いわ~」と思う程度でした。その中でもchemistryは、「良い曲歌ってるなあ」と思うことが多かったです。

 それでこのCD「「ALL THE BEST」を買うことになったきっかけですが、先月の終わりにNHKのBSで、彼らのライブが放映されていたのを観たことでした。とにかく「良かった」です。二人のハーモニーもとてもきれいで素敵でした。一度彼らのライブに行ってみたいとも思いました。「新しいCDが欲しい」と思ったことももちろんです。
 そして数日後、彼らが民放の歌番組に出ているところを偶然観たのでした。その番組内でベストアルバムが出たことを知って嬉しくなり(ベストアルバムなら、年末の歌番組を観て良いなと思った彼らの曲はほとんど収録されているはずですから)、早速インターネットでチェックしてみました。本体価格3600円でちょっとお値段が高いなと思ったら何と2枚組。それならすごくお得なお値段です。その2日後、ちょうど静岡に行く用事があったので、そのついでにCDショップに行って購入してきました。そしてすっかり気に入ってしまったというわけです。

 最近、私のCD・MDラジカセには、2枚組のうちのどちらか1枚が必ず入っています。曲も良いし、歌もうまいし…、ほとんど毎日聴いていやされています。


4.今後の更新予定

 主婦にとっては、1年で一番忙しい1週間に突入しました。とにかくやることはいっぱいあります。大掃除、片づけ、お正月の買い物、正月料理作りといろいろあって頭が混乱しそうです。ただ、年賀状を書き終えたので少しほっとしていますが。

 今年中に、「歴史人物伝(鳥羽天皇皇女の妹子内親王を取り上げる予定でした)と、「歴史雑記帳」をもう一度更新しようと思っていたのですが、どうやら無理そうです。来年まで、気長にお待ち下さいませ。

  それと、歴史記事や図書室の詳しい目次に関しても、ほとんど作業が進んでいません。こちらも気長にお待ちいただけますと嬉しいです。
 また、トップページを作ったことにより、「管理人ご挨拶」のページも一部書き直そうと思っていますが、こちらは家事の合間にちょこちょこできそうなので、何とか今年中に仕上げようと思っています。年末は色々忙しくてなかなか更新できませんが、今後ともよろしくお願いします。年の瀬で何かとあわただしい次期ですが、皆様もお元気でお過ごし下さいませ。

☆トップページに戻る
 

2周年ご挨拶&2周年記念エリカお持ち帰り企画

2006-12-21 00:19:11 | お知らせ・ブログ更新情報
 当ブログ「平安夢柔話」は、本日12月21日を持ちまして2周年を迎えることができました。これも、いつもご覧下さる皆様、応援して下さる皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 おかげさまで当ブログは、1日に50ほどのアクセスがあり、本当にありがたいなあと思っています。gooさんのブログはカウンターがないため、総アクセス数はわかりませんが、1日平均50弱としても、30000アクセスは超えているのではないかなと思います。これだけ多くの方々にご覧頂けて、私は幸せ者です。

  人に見せる文章、特に歴史関連の記事を書くことは本当に難しく、何度もくじけそうになりながらも、皆様に支えて頂きながら2年も続けてこられたのだな…と、感慨深くもあります。
 これからも、つたないブログですけれど、少しでも皆様に楽しんで頂けますよう、そして、私自身が楽しめるよう、精一杯頑張っていきたいと思っています。更新頻度はあまり多いとは言えませんが、マイペースで続けていきますので、これからも「平安夢柔話」をよろしくお願いします。


 さて、今年も記念企画を……と思ったのですが、昨年のようなプレゼントを用意することができませんでした。

 そこで、親ばかだと思われるでしょうが(もう思われてるって)、「2周年記念エリカお持ち帰り企画」を行いたいと思います。今まで「猫のお部屋」にUPしたエリカの写真の中から、私とだんなさんが選んだ2枚と、新しく撮った写真を1枚、合計3枚をフリー配布とさせて頂きたいと思います。

 今からお見せする3枚の写真、「かわいい♪」と思われた方、どなた様もご自由にお持ち帰り下さいませ。どれか1枚でもかまいませんし、全部持ち帰って頂いてもかまいません。サイトやブログに載せて下さるというありがたい方がもしいらっしゃいましたら、とても嬉しいです。その際は、掲示板メールでお知らせ下さいね。


 では、最初の1枚です。



 この写真は、2005年5月15日にUPした写真です。箱座りで背伸びをしています。顔がはっきりしているので選んでみました。

 では、2枚目です。



 今年の8月24日にUPした写真です。嬉しいことに、この写真を気に入って下さった方が多かったのでフリー配布にすることにしました。ころっと仰向けになっているところが何とも言えずかわいいです。

 では、最後の1枚です。



 今回のために撮影した写真です。実はこれ、私がエリカを抱いている写真なのです。でも、私の顔は写っていません。私の膝に乗っているので、エリカが小さくかわいく見えますね。


 今後もこのような、節目での記念企画をいろいろやってみたいと思っています。3周年の時には、昨年のようなプレゼント企画ができると良いなあ。掲示板5000番を踏まれた方に人物伝のリクエストを頂く…というのも良いなあ…と考えたりしてもいます。具体化しましたらお知らせしますね。

 では、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

☆トップページに戻る
  

道長の冒険

2006-12-18 09:10:09 | 図書室3
 今回は、2006年11月13日に紹介した「平安妖異伝」の続編として書かれたこの本を紹介します。


☆道長の冒険 平安妖異伝
 著者=平岩弓枝 発行=新潮社・新潮文庫 税込み価格=460円

本の内容紹介
 平安京に異変が起きた。ものみな凍りつき、春が来ない。頼みの楽士・真比呂は、根の国の主・無明王に連れ去られたままだ。愛すべき虎猫の化身・寅麿を従え、青鹿毛の名馬に跨り、名笛・小水龍を携えて、若き藤原道長は海を渡る―京の民を救うため。物の怪どもと戦うため。途中雷神の子らや赤目の美猫・紅眼児が加わり、妖魔との死闘は続く。大好評『平安妖異伝』に続く痛快長編。


 上でも書きましたように、「平安妖異伝」の続編として書かれた長編小説です。

 秦真比呂から「しばらくお目にかかれないかもしれません」と別れを告げられてから約1年…。道長は真比呂のことがずっと気になっていました。折しも都では寒さが厳しく、鴨川の水まで凍ってしまうという状態でした。

 そんなある日、道長のもとに寅猫の化身、寅麿という真比呂の従者が現れます。「真比呂殿が根の国の主、無明王によって閉じこめられているので助けて欲しい。」という寅麿の願いを聞き入れ、道長は即座に都を出発…、海を渡ることとなります。
 途中、様々な不思議な体験や危険な目に遭いながら、道長と寅麿は根の国に近づいていきます。果たして真比呂は無事に救出できるのか?そして、無明王を無謀な行動に走らせた原因は?無明王と真比呂の知られざる関係とは?更に、京の都にも迫り来る危険…。前編同様、ミステリータッチのファンタジー小説です。

 この本を読んだ感想は、やはり前編と同じく、「道長が格好良い」ということです。彼は正義感が強く、勇気のある若者に描かれています。狩衣を着て笛を持っている、颯爽とした道長の姿が目に浮かぶようでわくわくします。
 従者の寅麿もとても魅力的です。ところどころに猫のような行動を取るところがユーモラス(猫好きにとってはここがたまらないです)ですし、何よりも道長や真比呂に対して献身的なところが素敵です。
 また、根の国への旅の途中には様々な人々、動物や植物、神様が登場します。彼らが道長主従に協力する姿には心が暖まります。

 そして、この小説でもキーワードは雅楽なので、雅楽のCDが無性に聴きたくなってしまいました。ただ、「このシリーズもこれで終わりなのかな?」と思わせるラストはちょっと寂しくもありましたが…。
 2匹の猫が道長の目の前から去っていくラストシーンは、なぜかいつまでも心に残りました。あの2匹はその後夫婦になったのでは…などと想像したりもしました。

 このように、肩の力を抜いて気楽に読める本ですが、物語を読み終わると、「愛とは?」「人間とは?」など、色々なことを考えさせられてしんみりした気持ちにもなります。

 この本の主人公は平安時代に活躍した藤原道長ですが、完全なフィクションなので、特に平安好きでなくても充分楽しめる小説だと思います。情景描写が変化に富んでいるので退屈さを感じません。ぜひ、前編の「平安妖異伝」と併せてお楽しみ下さい。

☆トップページに戻る
   

大河「功名が辻」最終回の感想と総まとめ

2006-12-16 10:52:51 | 歴史雑記帳
 遅ればせながら、大河ドラマ「功名が辻」の最終回の感想と、総まとめを書きたいと思います。

 が、そちらを書く前に、私が大河感想をさぼっていた間の約10回分の放送の感想を少し…。(ちなみに、私が前回書いた感想はこちら

 六平太の描き方は原作より良いなと思いました。原作の六平太は、関ヶ原合戦後すぐに、千代の前から姿を消してしまいます。旅に出たのか、毛利に戻ったのか…、その後は行方知れずです。つまり、物語にもその後いっさい登場しません。

 でもドラマでは、しっかり重要人物を演じてくれました。自害をする場面を観て、「このドラマの真の主役は六平太だったのでは…」と思いましたよ。「千代が好きだった」という最後のせりふも少しも違和感ありませんでしたし。

 ところで、一豊に、「相撲興業にかこつけて一両具足の長をおびき出し、全員皆殺しにする。」という策を授けた人物について、原作では「ある家臣」としてあるだけで、具体的な名前は挙げられていません。というと原作でも、六平太は千代の前から一時姿を消したが、一豊に願っていつの間にか山内家の家臣となり、この策を一豊に授けたとも取れるわけです。多分、脚本家の大石さんもそのように解釈されたのではないかと思います。

 それから、原作での一豊は関ヶ原の際、東軍につくか西軍につくかでうじうじ悩んでなんかいません。ドラマでは、千代からの「石田三成の挙兵を知らせる手紙」が届いた時点でやっと、、「家康殿につく」と決心したと描かれていましたけれど、あれだけどちらにつくかで迷っていたら、たちまち家康殿に怪しまれてしまいますよね。実際の一豊は、少なくても大阪を出発した時にもう、「家康殿につく」と心に決めていたのではないでしょうか。

 あとは……、そうそう、黒田如水ファンとしてこれだけは言っておきたいことがあるので書きますね。
 ドラマでは、「関ヶ原合戦後、黒田如水は毛利や島津、長曽我部と組んで大乱を起こそうとしていた!」ということになっていましたが、私はそのことは疑問に思います。

 確かに黒田如水は、関ヶ原合戦のあった慶長五年九月、「家康殿に味方する」という名目で兵を募り、北九州の西軍方の城をいくつも落としています。如水はこの勢いで山陽道を上り、家康と三成が争っている間に天下を取ってしまおうという野望を持っていたことは、ほぼ間違いないと思います。如水は、二人の合戦は1年くらい続く…と見ていたようなのですよね。

 しかし二人の合戦は、如水の予想に反し、1日で終結してしまいます。この知らせを聞いた如水は軍を解散し、もとの隠居に戻っています。つまり、この時点で天下を取ることをあきらめたと思うのです。
 その後如水は上京し、京の黒田家の屋敷で隠居生活を送っていたのですが、屋敷にはなぜか、彼を慕う多くの者が出入りするようになります。「知恵者で名高い如水が京にいる」と聞けば、やはり多くの人が集まってくるのでしょうね。その中には、家康の息子、結城秀康(秀忠の異母兄)もいたと言われています。
 しかし、このことで家康が警戒している…という噂を聞くと、如水はさっさと息子長政の領地である筑前福岡に引き上げてしまうのです。つまり、家康が如水に警戒していたことは間違いないと思うのですが、如水が関ヶ原後も天下に野望を持っていたかどうか…。本心はご本人にしかわかりませんけれど、ドラマに描かれていたように毛利や島津と組んで大乱を起こそうとしていた…というのは、ちょっと疑問ですね。

 さて、最終回の感想に移りますと…。

 淀殿って自害したのではなかったでしょうか?あんな風に刺し殺されるなんてことはあり得ませんよね。どうも今回のドラマの淀殿は秀吉の臨終の時にお市の声色をまねたり家康に向かって暴言を投げつけたりと、極端すぎましたよね。あれだけ淀殿を悪く描く必要があったのか、ちょっと首をかしげてしまいます。せめて最後くらいは、潔く自害させてあげても良かったのでは?

 それはともかく、一豊が千代を背負ってどこかへ行ってしまう、つまり、一豊が千代を迎えに来たというイメージのラストシーンはなかなか良かったのではないかと思います。エンディングで、フォローをしてくれたおかげで、「旅に出た千代は、美濃の地で人知れず亡くなった」と思った人は多分いなかったでしょうし…。夫婦が仲良く手を取り合って戦国乱世を生き抜いたというこのドラマのテーマにふさわしいエンディングだったと思います。

 では、総まとめと行きましょうか。

 今年の「功名が辻」も昨年の「義経」同様、毎週欠かさず観ていました。そして、ドラマとしては今年の方が楽しめたように思えます。
 しかし、史実的に間違ったところもいっぱいありましたし、何よりも不満だったのは、原作をかなり無視していたことです。登場人物の性格を原作に沿って描いてくれたらまだ良かったのですが、一豊のキャラクターは毎回ころころ変わるし、千代はどうも賢夫人に見えないし…。千代と一豊を何が何でも歴史上の有名人たちと関わらせようとするところも不満でした。

 役者さんの演技については満足でした。特に、信長・秀吉・家康がはまり役でしたよね。その中でも秀吉は、「秀吉って本当にこんな人だったのではないかしら」と思わせる演技でした。
 そして、主役の上川さんの一豊もなかなかはまっていて良かったと思います。「どうしたもんかのう」というせりふが、一豊の悪く言えば間抜けで情けない、良く言えば人の良いところをよく表していて忘れられないです。

 と言うわけで、昨年の「義経」のように、心に残ったシーンを挙げてみようと思ったのですが…、残念ながらこれといったシーンが思い浮かばないのです。強いて言えば、最終回の回想シーンにもあった、稲葉山城に籠城していた千代と、一豊が炎の中で愛を交わすシーンが良かったなと思うくらいです。あとは、東軍につくことを決心した中村一氏が病気をおして家康に会いに来るシーンがなぜか強烈でした。こうしてみるとやはり、山内一豊という人物は、歴史の脇役に過ぎないのかもしれません。

 ところで、エンディングで妙心寺の大通院が紹介されていましたよね。
 私は、千代と一豊のお墓が妙心寺にあることを初めて原作を読んだ当時(平成五年頃)から知っていました。そこで、平成12年にようやく妙心寺に行き、千代と一豊のお墓参りをしようと思ったのですが、大通院は普段は公開されていないことを現地にて知り、がっかりしたものです。
 エンディングの二人のお墓の映像を見て、「大通院が特別公開されたら、ぜひお墓参りに行きたい」と思った私、やっぱりこの夫婦が好きなのだなと思いました。色々不満はあったけれど、二人の生涯を小説化した「功名が辻」を、1年間映像で観ることができたことは幸せです。そして、私も千代のように、だんなさんを支えて行けたらいいなと…、これはあくまでも希望ですけれどね。

 原作ももう一度読み返してみたいなと思っています。

トップページに戻る
 

内親王ものがたり

2006-12-10 09:26:14 | 図書室1
 今回は、「尊子内親王」「選子内親王」を書く上でお世話になったこの本を紹介します。

☆内親王ものがたり
 著者・岩佐美代子 発行・岩波書店 税込み価格・3045円

☆本の内容紹介
 選ばれた最愛の姫君にして、最高貴の女性―内親王。神に捧げられ、和歌や物語と深いかかわりをもった内親王たちを軸にして、千二百年の歴史を描く。運命を甘受しつつも、けなげに美しく生きた人々の面影をうかびあがらせる。

[目次]
1 激動の斎宮
 一 斎宮とは
 二 二上山を仰ぐ斎宮―大伯内親王
 三 竜になった皇后―井上内親王
 四 夢かうつつかー恬子内親王
 五 黄金のおしどりー雅子内親王 

2 文雅の斎院
 一 斎院とは
 二 幽貞の漢詩人―有智子内親王
 三 絵本を見る尼姫宮―尊子内親王
 四 貫禄の大斎院ー選子内親王
 五 神垣の朝顔ー(示某)子内親王

3 政治と愛のはざまに
 一 院政期以後の内親王達
 二 ただ四の宮を―篤子内親王
 三 大器「春宮姉」―子内親王
 四 我のみ知りてー式子内親王
 五 心の底よ思はれずなれー南北朝期の内親王
 六 御いやさまの降嫁ー親子内親王

終章 


 この本は、伊勢斎宮、賀茂斎院として神に仕えた内親王たちを中心に、飛鳥時代から幕末に至るまでの皇室の歴史と、文学史を綴ったものです。

 取り上げられている内親王も、謀反の罪を着せられて殺された弟、大津皇子を想う哀切な歌を詠んだことで知られる大伯内親王、斎宮退下後に白壁王の妃となり、その白壁王が思いがけず光仁天皇となったことで皇后に立てられるものの、謀反の罪を着せられて廃后され、非業の最期を遂げる井上内親王、在原業平との秘められた恋で知られる恬子内親王、相思相愛の恋人と引き離されて斎宮に卜定され、斎宮退下後は別の男性の妻にならざるを得なかった雅子内親王、激動の時代の中で、数々の情熱的な恋の歌を詠んだ式子内親王、公武合体の名のもと、京から江戸の将軍家に降嫁した親子内親王など、バラエティーに富んでいます。一般的にはあまり知られていない南北朝期の内親王にも触れられているところも嬉しいです。また、彼女たちの著作や、関わった文学作品なども紹介されています。

 この本を読んで思ったことは、著者である岩佐美代子先生の、内親王一人一人に対する敬意と暖かい愛情が感じられたことです。
 神に仕えたり、政略結婚をさせられた内親王を、ただ可哀想…ととらえるのではなく、彼女たちが与えられたそれぞれの運命を受け入れ、精一杯生きていたのだなということが、この本を読むことでしみじみと理解できると思います。そしてそこには、彼女たちを見守る人たちの姿もかいま見られ、心が温まります。

 この本で取り上げられている内親王たちの喜びや悲しみは、現代に生きる私たちとも通じるものがあるような気がしました。歴史というものは遠い世界のものではなく、現代ともしっかりつながっているような気がします。そんな彼女たちの生涯を、この本でしみじみと味わってみて下さい。お薦めです。


選子内親王 ~華やかな文化サロンの女主人

2006-12-06 09:59:45 | 歴史人物伝
 2006年11月9日に紹介した「尊子内親王」に引き続き、今回も賀茂斎院に卜定された内親王のお話です。彼女は何と57年にわたって斎院を勤め、文化的にも政治的にも大きな影響を与えました。その生き方もなかなか見事です。

 では彼女、選子内親王の生涯を年代を追ってみていきましょう。

☆応和四年=康保元年(964) 1歳

 四月二十四日、誕生。父は村上天皇、母は藤原安子(藤原師輔女)。同母兄に後の冷泉天皇、後の円融天皇がいました。

 しかし、誕生のわずか五日後、母の安子が崩御します。彼女を身ごもっているときからつわりに苦しみ、次第に衰弱し、無事に出産したものの間もなく世を去ってしまったのでした。このように、彼女の人生は、最初から波瀾含みでした。

 この年の八月、内親王宣下されます。


☆康保四年(967) 4歳

 父、村上天皇が崩御します。幼くして両親を亡くしてしまった選子内親王は、母方のおじである兼通の堀川殿に引き取られ、兼通やその娘(女皇)子によって養育されたものと考えられます。


☆天延三年(975) 12歳

 賀茂斎院に卜定される。母の喪によって退下した尊子内親王(冷泉天皇皇女)の後任。


☆貞元二年(977) 14歳

 紫野の斎院御所に入る。

 これより円融、花山、一条、三条、後一条の五代、五十七年間にわたって斎院として奉仕することとなります。斎院御所に入った選子内親王は、まさか自分がこんなに長きにわたって斎院を勤めることになろうとは、夢にも思わなかったと思われます。

 この年、斎宮に卜定された娘の規子内親王(村上天皇皇女)に付き従って伊勢に赴いた徽子女王と、歌の贈答をしています。

内親王の歌
秋霧の たちて行くらん 梅雨けさに 心をつけて 思ひやるかな

徽子女王の返し歌
よそながら たつ秋霧に いかなれや 野辺に袂は わかれぬものを

徽子女王は選子内親王を育ててくれた(女皇)子と親しかったので、彼女にとっては親戚の優しいおばのように思えたのかもしれませんし、何よりも、かつては、現在の自分と同じく神に仕える身であったことに、親近感を感じていたのでしょう。


☆長徳五年=長保元年(999) 36歳

 正月、一条天皇の中宮定子のもとに文を送る。

 一条天皇の寵愛を一身に受けながら、次第に道長によって圧迫されていく定子への励ましだったのでしょうか。いずれにしても、選子サロンと定子サロンとの交流がうかがえるエピソードだと思います。


☆寛弘7年(1010) 47歳

 四月、賀茂歳の折、一条大路の桟敷にて斎院の行列を見物していた藤原道長は、前を通りかかった選子内親王の車に向かい、外孫に当たる二人の皇子(後の後一条天皇と後朱雀天皇)を膝の上に抱き、「これはいか」と問いかけました。すると内親王は、さっと紅の扇を出してサインを送り、通り過ぎたといいます。権力者道長の問いかけにさっと答える…、なかなか政治感覚に優れています。
 その翌日、選子内親王と道長は、お互いに「皇子たちをたたえる」「斎院をたたえる」という意味の歌の贈答もしています。


☆寛弘九年=長和元年(1012) 49歳

 和歌によって菩提を得たいと願い、「発心和歌集」を編む。

 神に仕える斎宮や斎院は、仏教を忌み嫌うところがありましたが、選子内親王は若い頃から仏教に帰依していたようです。「発心和歌集」はそんな彼女の集大成とも言えそうです。


☆(万寿三年(1026) 63歳

 太皇太后藤原彰子(後一条・後朱雀天皇母)が出家。上東門院と称される。

 自分よりずっと若い彰子が出家したことにより、選子内親王もこの頃より出家願望が強くなってきたと思われます。


☆長元四年(1031)68歳

 九月二十二日、老病のためひそかに斎院を退下する。二十八日、叔父深覚を戒師として出家する。

 斎院という肩の荷を下ろし、念願の出家を遂げた選子内親王のほっとした姿が目に浮かんでくるような気がします。


☆長元八年(1035) 72歳

 六月二十二日薨去。

歌人としても知られ、勅撰集に三十七首、「玄々集」に二首選ばれています。。


 選子内親王は五代五十七年にわたって賀茂斎院として奉仕したことから、「大斎院」と呼ばれました。生涯のうちの約4分の3を斎院として神に仕えた彼女にふさわしい称号のように思えます。
 しかも彼女は、その歳月を無為に過ごしていたのではありません。神に仕えると同時に、斎院御所を精一杯明るく、楽しいものにしようと、常に努力をしていたようです。

 そんな斎院御所の様子は、二つの家集によって知ることができます。

「大斎院前御集」は、選子内親王が二十代の頃の斎院御所の日常生活を、選子と女房たちの歌のやりとりを中心につづった歌集です。孤絶した閑雅な斎院では歌司・物語司などの擬職掌(長官・次官など)を置き、日常生活や風流を楽しむさまがこの歌集からうかがえます。
 そして、「大斎院御集」には、円熟した五十歳代の頃の選子内親王の歌が収められています。当時の貴族たちとの盛んな交流の様子もうかがえて興味深い歌集のようです。

 また、選子内親王の優雅で機知に富んだ聡明なふるまい、藤原道長一門や後宮との交流は「栄花物語」「大鏡」「枕草子」「古本説話集」といった古典文学にも描かれています。

 つまり、斎院御所は、一条天皇後宮の定子サロンや彰子サロンと並んで、華やかな一大文化サロンを形成していたのでした。

 ところで、選子内親王の、「何か面白い物語はないかねえ」というお声掛かりで、彰子つきの女房であった紫式部が「源氏物語」を書き始めたという話も伝わっています。しかし、紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは宮仕えに出るはるか前のことだと思われますので、この話は誇張があるように思えます。ただ、選子内親王も「源氏物語」の愛読者であっただろうことはほぼ間違いなさそうです。選子内親王サロンでは冊子作りも行っていたようなので、「源氏」の写本や製本もやっていたかもしれませんね。

 紫式部は選子内親王サロンにはライバル意識を持っていたようですが…。弟惟規の恋人であった中将という、選子内親王つきの女房を痛烈に批判しています。(紫式部日記)しかし、これも裏を返せば、紫式部は華やかな選子内親王サロンに密かにあこがれていたのではないかという推察もできると思います。

 そんなサロンの女主人であった選子内親王は、きっと明るく朗らかな性格で、常に物事を前向きに考えるタイプの女性だったように思えます。「一緒にいて楽しい人」だったのでしょうね。
 さらに彼女は、与えられた斎院という使命を素直に受け入れ、その環境で精一杯生きていたという気がします。

 出家後の彼女の生活についてはよくわかりませんが、明るい性格の彼女のことですから、念仏三昧の生活の合間合間に小さな楽しみを見つけたり、周りの女房たちとのおしゃべりを楽しんでいたりしたことが充分考えられます。そして何よりも、念願の出家を果たしたことに満足し、安らかな晩年だったと思われます。

☆参考文献
 「平安時代史事典」 角田文衞監修 角川学芸出版
 「内親王ものがたり」 岩佐美代子 岩波書店


近況&ひとりごと

2006-12-02 11:40:35 | えりかの平安な日々 04~09
 この前のお知らせ記事で、「政権の中枢にいる人を書くのは難しい」と書きましたが、本日は人物伝についてのあれこれのお話を徒然なるままに書きたいと思います。

 私の人物伝、女性が多いですよね。と言うか、ほとんど女性です。なぜ女性が多いかと言いますと、好きな人物に女性が多いこともありますが、一言で言えば書きやすいからです。女性なら、官位を書かなくてもすみますし…。位階の「従」と「正」を書き間違えたり、官職の「右」と「左」、あるいは「権中納言」と「中納言」を間違えたりしそうで結構怖いのですよね。

 それに、男性は政治の中枢にいた人が多いので、当時の政治情勢に触れなければなりません。これがなかなかやっかいなのですよね。とにかく、政治情勢ばかり書いていると、人物のキャラクターをうまく表現できないような気がするのです。単に、私の文章力がないだけかもしれませんが。

 それに対して女性は、一部の女官を除けば官位とは無縁ですし、政権の中枢にいた人も少ないのでわりと簡単に書けます。もちろん、先日の藤原詮子のような政権に近い位置にいる女性は、政治情勢をある程度書かなければなりませんけれど、官職を書かなくても良いだけ楽だったりします。それと、私が女性なので、歴史上の女性たちの気持ちも理解しやすいし、感情移入もしやすいというところもあります。
 なので、今後こちらの人物伝で取り上げようと構想を練り始めている人物が3人いるのですが、いずれも女性です。そのうち一人はすでに下書きができていますので、来週中くらいにはUPできると思います。

 だからといって、私が男性を全く書く気がないかというと、必ずしもそうではないのですよね。そこで、書いてみたい方を少し挙げさせていただきます。

☆藤原隆家
 この方ほど色々妄想できそうな男性もいないと思います。関白道隆の息子として出世が約束されていた彼は、若い頃はずいぶん暴れん坊でした。しかし、花山院襲撃事件に巻き込まれて失脚、流罪になってしまいます。その後許されて都に戻り官界に復帰、中年になってからは誰もが認める立派な公卿になりました。そんな彼の心中に迫ってみたいですね。二度も大宰府に赴任しているところにも興味を引かれます。このあたりも色々妄想できそうですね。

☆源俊房
 村上源氏の源師房の長男。村上源氏は摂関家とも深いつながりがあり、彼も出世を約束されていた貴公子でした。
 ところが、彼は参議の時、前斎院娟子内親王(後朱雀天皇皇女)と密通し、謹慎処分を食らってしまうのですよね…。これは彼にとっては痛かったと思われます。3年後に許され、その後は順調に出世し、ついには左大臣にまで昇り詰めます。
 そのままで行けばめでたし、めでたしだったのでしょうが、輔仁親王を皇太子に押したことから孤立し、「永久元年の落書事件」によって息子が流罪になったことで彼の家は没落…。最後には権力を失って出家してしまいます。まるでジェットコースターのように上がったり下がったりの人生ですよね。彼に関しても色々妄想できそうです。ただ、彼に関する資料が手許にあまりないのが難点ですが…。

☆藤原高光
 藤原師輔の子。摂関家の御曹司として順調に出世していたのに突然出家、多武峯にて厳しい修行をしたことで知られます。出家したときにはまだ右近衛少将だったので、官位をあまり書かなくてもいいかなと思ったり…(苦笑)。彼の人生も興味深いですが、子孫が思いがけないところとつながっているので、「系譜あれこれ」の方で取り上げてもいいかなと思っています。

 …と、これらの方々の人物伝、いつか実現できると良いなあ。取りあえず一番早く実現しそうなのは藤原高光ですね。「平安時代史事典」の他にも、彼について書いた本が手許にあるので、わりと簡単に調べられそうですし、彼の子孫についても色々書けそうです。と言うわけで、近いうちに調査に入ることにします。

 ところで、あまりにも思い入れが強すぎて書けない人…というのもいるのです。そのNo1が、ご挨拶のページの自己紹介で「好きな人物」にも挙げている徽子女王です。

 彼女は重明親王(醍醐天皇皇子)の女ですが、幼いときに斎宮に卜定されて伊勢に下向、斎宮退下後は村上天皇の女御となります。村上天皇との間に規子内親王をもうけますが、39歳で天皇と死別、やがて規子内親王はかつての自分と同じように斎宮に卜定されます。そして徽子女王は、娘に付き従って伊勢に下向するという、前代未聞ともいうべき事をやってのけたのでした。このあたりに彼女の意志の強さが感じられて、私は好きなのですが、彼女の生涯全体も大変ドラマティックに思えます。彼女の心中については色々妄想できそうです。それで、書きたいことがたくさんあってかえって書けない…というのが今の状態です。
 このように徽子女王に関しては、思い入れが強いので、書くならしっかりしたものが書きたいのです。彼女に関する本をもう一度じっくり読み返してみたいですし、できれば伊勢の斎宮跡に立って、彼女のことを偲び、色々感じてみたいです。そんなわけで、彼女の人物伝を書くのはまだまだ先になりそうです。


☆近況  足を怪我してしまいました…
 3日前の午後、駅前のちょっとした段差を踏み外して転んでしまいました。現在、私の住んでいる町の駅は改修工事中でして、思いがけないところに段差ができたりしているのですよね。それで、その段差に気がつかなくて踏み外してしまったのでした…。段差を踏み外すのは久しぶりなので、びっくりしたというのが正直な気持ちです。

 それで、転んだときはあまり痛くなかったのですが、どうやら11年前にねんざしたことのある右足首をひねってしまったようなのです。そのせいで時間が経つにつれて足首が痛くなり、歩くのも大変になってきたので、だんなさんに針と湿布をしてもらいました。
 その結果、現在は痛みも少しずつおさまってきましたが、もうしばらくはおとなしくしていようと思っています。