大河ドラマ「義経」第7回の最後の方で描かれていた乱闘騒ぎですが、第8回の感想で書いたようにどうやらドラマの創作だったようです。
ドラマの中でのこの乱闘騒ぎは、平重盛の子息・維盛と資盛が、「三位さま」と呼ばれる公卿と争ったことになっていました。でも、承安元年にこのような事件が起こったという記録が全くないため、私も「三位さま」と重盛の子息たちの事件は、ドラマの創作だと思っています。
でも、もし仮に承安元年にこのような事件が起こっていたとしたら、「三位さま」とはいったい誰なのか、私なりに考察してみることにしました。NHKは「三位さま」を架空の人物として描いたのかもしれませんので、考察することにどれほどの意味があるかわかりませんし、学術的にもほとんど意味がないのだろうとは思いますが…。
私の妄想と思っておつき合い頂ければ嬉しいです。
では、最初に「三位さま」に当てはまりそうな人の条件を考えてみますね。
第1の条件は、ドラマの中で「基房殿の息がかかっている」と述べられていたことから、『摂政藤原基房に近い人物』ということが考えられると思います。
第2の条件は、『平家にいい感情を持っていなかった人』ということになるでしょうか。後に平家討伐の陰謀に加わる人などは、この条件に当てはまりそうです。
そこで、「公卿補任 第一編」で、承安元年当時の正三位、あるいは従三位の公卿を調べてみたところ、「これは怪しい」と思われる人物が三人見つかりました。
では、その三人について簡単に述べてみますね。
藤原成親 正三位 権中納言 左衛門督 検非違使別当 34歳
藤原家成の子。後白河上皇側近の公卿。のちに鹿ヶ谷事件の中心人物となり、事件の後に備前に配流。配所で斬首されました。
藤原兼雅 正三位 権中納言 24歳
藤原忠雅の子。兼雅の姉妹は摂政(後に関白)藤原基房の正室です。つまり、兼雅と基房は義兄弟ということになります。
藤原兼房 正三位 左近衛中将 19歳
藤原忠通の四男。摂政藤原基房の異母弟に当たります。
さて、この三人の中で誰がより怪しいかを考えた場合、後に平家討伐の陰謀に加わることになる成親が、一番怪しいと考えた方が本来は、最も自然かもしれません。
でも、実は成親は重盛一家とは親しい間柄なのです。
というのは、重盛の妻は成親の妹なのです。また、重盛の子息の維盛の妻は成親の娘です。
「平家物語」では、鹿ヶ谷事件のあと重盛は成親の助命を清盛に進言していますが、これには上で挙げたような事情があったからだと思われます。
成親は、清盛にはあまりいい感情を持っていなかったかもしれませんが、以上に挙げた理由から、重盛の子息たちと乱闘騒ぎを起こすことは、ちょっと考えにくいです。
では、兼雅はどうでしょう?
ドラマでは、「三位さま」は基房の息がかかった公卿ということになっていました。ということは、基房の義兄弟であった兼雅は、その条件に当てはまりますよね。そして、基房とは公私ともに親しかったようにも思えます。
でも、彼にも当該「三位さま」だと推断するには、おおきな難点があるのです。
なんと、兼雅の妻は清盛の娘なのです。なので、基房にも近かったけれど、それに勝るとも劣らぬほどに、平家にも近かったと言えることができると思います。治承三年11月、清盛はクーデターを起こし、多数の公卿、殿上人の官位を剥奪しました。その頃、兼雅は権中納言兼春宮大夫でした。その頃の春宮(皇太子)は清盛の孫、言仁親王(後の安徳天皇)です。兼雅は基房の義兄弟という理由から春宮大夫は解官されますが、権中納言はそのままで、失脚することはありませんでした。このこと一つ取っても、清盛からは娘婿として、ある程度大切にされていたことがわかると思います。なので、やはり平家の公達と路上で騒ぎを起こすことは、考えにくいと思われます。
それでは藤原兼房はどうでしょうか?
彼は上にも書いたように、摂政藤原基房の異母弟に当たります。つまり、摂関家の立派な公達なのですよね。母が違うと言っても、基房には目をかけてもらっていたことは十分考えられると思います。それだけではなく、平家には決して良い感情を持っていなかったと推察できそうです。
でも、彼にも多少難点はあるのです。彼の同母兄は藤原兼実です。兼実は、平家とも兄の基房とも距離を持ち、独自の道を歩いていた人です。母を同じくする兄弟のつながりがより強かったこの時代、兼房は、同母兄の兼実と親しく、基房とは少し距離があったとも考えられるのです。
ところで、当時の貴族たちは本名で呼ばれることはめったになく、官職名などで呼ばれていたことが多かったと考えられると思います。特に、大臣、大納言、中納言、参議にまで昇進している現任公卿は、ほとんど官職名で呼ばれていたと考えられます。
つまり、権中納言にまで昇進している成親と兼雅は、「三位さま」と位階で呼ばれることはまずないと考えた方がいいと思われます。成親は多分、「左衛門督さま」、兼雅は「権中納言さま」などと呼ばれていたのではないかと思われます。
以上のことから、成親と兼雅は「三位さま」の対象から除外されると思います。
では、非参議三位の方々はどうでしょうか?
参考までに、ドラマでの乱闘騒ぎがあったと思われる承安元年秋の、非参議三位の公卿たちを挙げてみますね。
1.藤原俊盛 正三位 太皇太后宮権大夫
2.藤原兼房 正三位 左近衛中将
3.藤原俊成 正三位 皇后宮大夫 右京大夫 備前権守
4.藤原成範 正三位 左兵衛督
5.藤原朝方 正三位 皇后宮権大夫
6.藤原実家 正三位 右近衛中将 但馬権守
7.藤原永範 従三位 宮内卿 式部大輔
8.藤原信隆 従三位 大宰大弐
9.藤原重家 従三位 備中権守
10.平経盛 従三位 太皇太后宮亮 讃岐権守
11.平信範 従三位 (前蔵人頭権右中弁)
12.大中臣親隆 従三位 祭主 神祇権大副
現任公卿が「三位さま」と呼ばれる可能性がないとすると、以上の12人の非参議三位の方々の中に、「三位さま」と呼ばれていた方がいるのではないかと思われます。
しかし非参議三位の方々も、一般的には、官職名で呼ばれることが多かったと考えられます。例えば、歌人として有名な藤原俊成は「皇后宮大夫さま」。
後に後鳥羽天皇の生母となる藤原殖子の父・藤原信隆は、「大弐さま」でしょうか。
純粋に「三位さま」と呼ばれていそうなのは散位の平信範ですが、彼は清盛の妻・時子や平時忠の叔父に当たります。なので、平家の公達と騒ぎを起こすなどということは、普通に考えれば絶対にあり得ないと思われます。
そのようなわけで、ドラマの中の事件での「三位さま」は、はっきり特定できないというのが、素直な解答なのでしょうね。
ただし、上に挙げたこれら非参議三位の人物達の中にも、平家の公達と乱闘騒ぎを起こしそうな人はいると思うのです。つまりドラマの中での「三位さま」に、限りなく近い人と言うことでしょうか。
そうです。その人物こそ、初めの方でも挙げた『左近衛中将藤原兼房』です。
では、兼房が「三位さま」に限りなく近い理由を、いくつか挙げてみますね。
1.藤原基房の異母弟ということで、基房に近い人物であること。基房とは異母兄弟と言っても、摂関家の一員であるため、基房には目をかけてもらっていたことも十分考えられる。
2.平家との親しい関係(血縁関係や姻戚関係)が認められないこと。
3.賢房の官職は左近衛中将なので、普通は「三位中将さま」と呼ばれていたと考えられること。しかし、これはあくまでも私の説であるが時と場合によっては「三位さま」と略して呼ばれることもあったのではないか?
4.十九歳という血気盛んな年齢であること。
以上のことから私は、ドラマの中での「三位さま」は、藤原兼房の可能性が強いと考えました。 こうして、判断材料の少ない今回の架空事件から色々考察するのは、案外に難しいことでしたが、なかなか楽しい時間を持つことも出来ました。。
なお、藤原兼房は後に太政大臣にまで昇り詰めています。
☆大河ドラマ「義経」第9回の感想は木曜日頃までにUPしたいと思っています。もうしばらくお待ち下さいませ。
ドラマの中でのこの乱闘騒ぎは、平重盛の子息・維盛と資盛が、「三位さま」と呼ばれる公卿と争ったことになっていました。でも、承安元年にこのような事件が起こったという記録が全くないため、私も「三位さま」と重盛の子息たちの事件は、ドラマの創作だと思っています。
でも、もし仮に承安元年にこのような事件が起こっていたとしたら、「三位さま」とはいったい誰なのか、私なりに考察してみることにしました。NHKは「三位さま」を架空の人物として描いたのかもしれませんので、考察することにどれほどの意味があるかわかりませんし、学術的にもほとんど意味がないのだろうとは思いますが…。
私の妄想と思っておつき合い頂ければ嬉しいです。
では、最初に「三位さま」に当てはまりそうな人の条件を考えてみますね。
第1の条件は、ドラマの中で「基房殿の息がかかっている」と述べられていたことから、『摂政藤原基房に近い人物』ということが考えられると思います。
第2の条件は、『平家にいい感情を持っていなかった人』ということになるでしょうか。後に平家討伐の陰謀に加わる人などは、この条件に当てはまりそうです。
そこで、「公卿補任 第一編」で、承安元年当時の正三位、あるいは従三位の公卿を調べてみたところ、「これは怪しい」と思われる人物が三人見つかりました。
では、その三人について簡単に述べてみますね。
藤原成親 正三位 権中納言 左衛門督 検非違使別当 34歳
藤原家成の子。後白河上皇側近の公卿。のちに鹿ヶ谷事件の中心人物となり、事件の後に備前に配流。配所で斬首されました。
藤原兼雅 正三位 権中納言 24歳
藤原忠雅の子。兼雅の姉妹は摂政(後に関白)藤原基房の正室です。つまり、兼雅と基房は義兄弟ということになります。
藤原兼房 正三位 左近衛中将 19歳
藤原忠通の四男。摂政藤原基房の異母弟に当たります。
さて、この三人の中で誰がより怪しいかを考えた場合、後に平家討伐の陰謀に加わることになる成親が、一番怪しいと考えた方が本来は、最も自然かもしれません。
でも、実は成親は重盛一家とは親しい間柄なのです。
というのは、重盛の妻は成親の妹なのです。また、重盛の子息の維盛の妻は成親の娘です。
「平家物語」では、鹿ヶ谷事件のあと重盛は成親の助命を清盛に進言していますが、これには上で挙げたような事情があったからだと思われます。
成親は、清盛にはあまりいい感情を持っていなかったかもしれませんが、以上に挙げた理由から、重盛の子息たちと乱闘騒ぎを起こすことは、ちょっと考えにくいです。
では、兼雅はどうでしょう?
ドラマでは、「三位さま」は基房の息がかかった公卿ということになっていました。ということは、基房の義兄弟であった兼雅は、その条件に当てはまりますよね。そして、基房とは公私ともに親しかったようにも思えます。
でも、彼にも当該「三位さま」だと推断するには、おおきな難点があるのです。
なんと、兼雅の妻は清盛の娘なのです。なので、基房にも近かったけれど、それに勝るとも劣らぬほどに、平家にも近かったと言えることができると思います。治承三年11月、清盛はクーデターを起こし、多数の公卿、殿上人の官位を剥奪しました。その頃、兼雅は権中納言兼春宮大夫でした。その頃の春宮(皇太子)は清盛の孫、言仁親王(後の安徳天皇)です。兼雅は基房の義兄弟という理由から春宮大夫は解官されますが、権中納言はそのままで、失脚することはありませんでした。このこと一つ取っても、清盛からは娘婿として、ある程度大切にされていたことがわかると思います。なので、やはり平家の公達と路上で騒ぎを起こすことは、考えにくいと思われます。
それでは藤原兼房はどうでしょうか?
彼は上にも書いたように、摂政藤原基房の異母弟に当たります。つまり、摂関家の立派な公達なのですよね。母が違うと言っても、基房には目をかけてもらっていたことは十分考えられると思います。それだけではなく、平家には決して良い感情を持っていなかったと推察できそうです。
でも、彼にも多少難点はあるのです。彼の同母兄は藤原兼実です。兼実は、平家とも兄の基房とも距離を持ち、独自の道を歩いていた人です。母を同じくする兄弟のつながりがより強かったこの時代、兼房は、同母兄の兼実と親しく、基房とは少し距離があったとも考えられるのです。
ところで、当時の貴族たちは本名で呼ばれることはめったになく、官職名などで呼ばれていたことが多かったと考えられると思います。特に、大臣、大納言、中納言、参議にまで昇進している現任公卿は、ほとんど官職名で呼ばれていたと考えられます。
つまり、権中納言にまで昇進している成親と兼雅は、「三位さま」と位階で呼ばれることはまずないと考えた方がいいと思われます。成親は多分、「左衛門督さま」、兼雅は「権中納言さま」などと呼ばれていたのではないかと思われます。
以上のことから、成親と兼雅は「三位さま」の対象から除外されると思います。
では、非参議三位の方々はどうでしょうか?
参考までに、ドラマでの乱闘騒ぎがあったと思われる承安元年秋の、非参議三位の公卿たちを挙げてみますね。
1.藤原俊盛 正三位 太皇太后宮権大夫
2.藤原兼房 正三位 左近衛中将
3.藤原俊成 正三位 皇后宮大夫 右京大夫 備前権守
4.藤原成範 正三位 左兵衛督
5.藤原朝方 正三位 皇后宮権大夫
6.藤原実家 正三位 右近衛中将 但馬権守
7.藤原永範 従三位 宮内卿 式部大輔
8.藤原信隆 従三位 大宰大弐
9.藤原重家 従三位 備中権守
10.平経盛 従三位 太皇太后宮亮 讃岐権守
11.平信範 従三位 (前蔵人頭権右中弁)
12.大中臣親隆 従三位 祭主 神祇権大副
現任公卿が「三位さま」と呼ばれる可能性がないとすると、以上の12人の非参議三位の方々の中に、「三位さま」と呼ばれていた方がいるのではないかと思われます。
しかし非参議三位の方々も、一般的には、官職名で呼ばれることが多かったと考えられます。例えば、歌人として有名な藤原俊成は「皇后宮大夫さま」。
後に後鳥羽天皇の生母となる藤原殖子の父・藤原信隆は、「大弐さま」でしょうか。
純粋に「三位さま」と呼ばれていそうなのは散位の平信範ですが、彼は清盛の妻・時子や平時忠の叔父に当たります。なので、平家の公達と騒ぎを起こすなどということは、普通に考えれば絶対にあり得ないと思われます。
そのようなわけで、ドラマの中の事件での「三位さま」は、はっきり特定できないというのが、素直な解答なのでしょうね。
ただし、上に挙げたこれら非参議三位の人物達の中にも、平家の公達と乱闘騒ぎを起こしそうな人はいると思うのです。つまりドラマの中での「三位さま」に、限りなく近い人と言うことでしょうか。
そうです。その人物こそ、初めの方でも挙げた『左近衛中将藤原兼房』です。
では、兼房が「三位さま」に限りなく近い理由を、いくつか挙げてみますね。
1.藤原基房の異母弟ということで、基房に近い人物であること。基房とは異母兄弟と言っても、摂関家の一員であるため、基房には目をかけてもらっていたことも十分考えられる。
2.平家との親しい関係(血縁関係や姻戚関係)が認められないこと。
3.賢房の官職は左近衛中将なので、普通は「三位中将さま」と呼ばれていたと考えられること。しかし、これはあくまでも私の説であるが時と場合によっては「三位さま」と略して呼ばれることもあったのではないか?
4.十九歳という血気盛んな年齢であること。
以上のことから私は、ドラマの中での「三位さま」は、藤原兼房の可能性が強いと考えました。 こうして、判断材料の少ない今回の架空事件から色々考察するのは、案外に難しいことでしたが、なかなか楽しい時間を持つことも出来ました。。
なお、藤原兼房は後に太政大臣にまで昇り詰めています。
☆大河ドラマ「義経」第9回の感想は木曜日頃までにUPしたいと思っています。もうしばらくお待ち下さいませ。
「三位殿」はとうとうドラマ内では明かされずじまいでしたものね。私も興味を持って探しかけたのですが、つい面倒で、途中で投げ出してしまいました(笑)。
書き込みは初めてですが、これまでも何度か寄らせていただいていました。今後もどうぞよろしく!
「三位さま」、私は、平安時代の貴族社会に興味があるので、大河「義経」に「三位さま」という公卿が出てきたとき、「この人はいったい誰なのだろう?」ととても興味を持ってしまったのです。
幸い、古書店から購入した「公卿補任」が手許にあったため、承安元年当時の公卿のメンバーを調べ、ああでもない、こうでもないと色々考えて記事を書き上げました。ずいぶん回りくどくて長い文章になってしまいましたが、読んで下さってありがとうございました。そして、「三位さま」に興味を持っていた方がいらっしゃってとても嬉しく思いました。これからも、どうぞよろしくお願いします。また遊びに来て下さいね。
追伸・トラックバックどうもありがとうございました。手鞠さんのブログにも、後ほどおじゃまさせていただきます。では、では。
とても楽しく拝見させていただきました!
こういうのを調べている時ってほんとに楽しいですよね~。
アップするご苦労もおありかと思いますが、これからもバシバシこのような考察楽しみにしております!
こうして拝見させていただくと、逆に「あぁやっぱり平家の世なんだなぁこの頃は」って思ったりしました。大河ドラマでは、ほとんど中央と切り放して平家の権勢がちっとも見えてこないのですが、こうしてみるととても良く解りますね~。
エリカちゃんの写真も拝見いたしました!
写真を拝見させていただくと、えりかさんからうかがっているやんちゃな感じがしないほどしゃんとしていますね~。それともえりかさんが写真を選んでらっしゃるのかな?
ではでは、また参りますね!
失礼いたします~。
ドラマでは貴族たちがほとんど登場しませんが、平家と貴族社会はつながっていたと思うのですよね。例えば、平家があのような栄華を築くことができた一因は、摂関家の力が衰退したかだとも考えられると思います。また、平家と摂関家、その他の藤原氏の貴族たちとの姻戚関係も重要だと思うのですよね。そのあたりを、ドラマでももっとスポットを当てて欲しいです。
エリカの写真も見て下さってありがとうございました。エリカは、カメラを向けるとすましてしまうのです。今度は、もう少し表情の豊かな写真を捜してUPしますね。では、では。
三位さまに関する丁寧なご考察、拝見しました。
三位さま=藤原兼房。
納得です!!
毎度のことですが、読みやすくわかりやすい丁寧な文章を書かれるえりかさん、UPするまでの労力を思いますと頭が下がります。
大河ドラマは義経に焦点を当てたものなので、その他の人物の心意を想像するという面白さもありますよね。
ありがとうございました。
そして、いつもおほめのお言葉をありがとうございます!!なぎさんにほめていただき、1週間近くかかって「ああでもない、こうでもない」と色々文章を書き直した甲斐がありました。
兼房さんは、「自分は摂関家の息子だ。平家ごときが何た!!」という考えがきっとあったと思うのです。もしかすると、前年の殿下騎合事件のリベンジだと思ったのかもしれませんね。なぎさんのおっしゃるとおり、「義経」では義経以外、特に貴族たちについてあまり描かれていない分、こうして色々想像してみるのも楽しいです。これからも、このような妄想気味のことを書いていくと思いますが、よろしければまた見て下さいね。
改めてこちらの紹介を含めた記事を投稿しまして、再度、TBさせていただきました。なお、先のTBが削除可能でしたら、そのように対処していただけますと幸いです。
それでは、第9回の感想も楽しみにしております。
新しいページ、早速拝見させていただきました。私のページを紹介していただきまして本当にありがとうございます。新しいページの方にも、トラックバックを送らせていただきました。
なお、本日の朝、そちらに送らせていただいたトラックバックに関しては、こちらからは削除できないのです。申し訳ありません。
それから、こちらの方に送っていただいたトラックバックですが、二つとも私にとっては大切なトラックバックですので、このままにしておきますね。では、では、今後ともよろしくお願いします。
なお、当方にいただいていました先のTBも、そのままにしておくことにしました。それでは、こちらこそ、今度とも、どうぞよろしくお願いします。
こちらこそ、お気を使わせてしまったようで申し訳ありません。これにこりず、またトラックバックやコメントを頂けますと、大変嬉しく思います。
「義経」第9回の感想ですが、ちょっと調べものをしていたので遅くなってしまいましたが、今日から書き始めようと思っています。明日、遅くても明後日にはUPしますので、よろしければご覧下さいね。