アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家

2011-02-02 22:09:00 | 
『アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家』 エルサ・モランテ/ナタリア・ギンズブルグ   ☆☆☆☆☆

 以前『禁じられた恋の島』という古い本について書いたが、今回池澤夏樹の世界文学全集で出た『アルトゥーロの島』は同じ小説である。絶版になっているのが納得いかない傑作だったので、こうして新訳で全集に収録されたのは実に喜ばしい。タイトルもメロドラマがかった『禁じられた恋の島』ではなく、原題に忠実な『アルトゥーロの島』になっている。

 もう一つの『モンテ・フェルモの丘の家』は初読で、ナタリア・ギンズブルグという女流作家の書いたものを読むのがそもそも初めてだったが、名前だけはずっと前から知っていて、それはギンズブルクを翻訳した須賀敦子さんがアントニオ・タブッキの日本における紹介者でもあるからである。この須賀さんが格別な愛着を持ったらしいイタリアの作家ということでなんとなく気になっていたのだが、今回ようやく読むことができた。案の定、期待を上回る素晴らしい小説だった。

 それにしても『マイトレイ/軽蔑』の時も思ったが、今回カップリングされている二作も見事に対照的で、その対比の妙によってそれぞれがますます面白く感じられるようになっている。これは意図的なんだろうな。

 『アルトゥーロの島』は久しぶりに読んだが、やはりこの濃密なロマンの香りが良い。神話的だ。小説と書いてロマンと読む、そういう感覚がぴったりくる物語。ナポリ近くの小さな島、異邦人が残した古い館、そこで孤独に育つ少年、専制君主めいた不在がちの父親、そしてある日そこへやってきたまだ若い継母…。ロマンがあり、ノスタルジーがあり、エキゾチズムがあり、愛憎と憧れ、そして幻滅がある。回想形式の情緒あふれる語りの中で、強烈な個性を持った少数の登場人物たちが激しい葛藤を繰り広げる。

 こういう回想形式の小説というのはフィルターを一枚通して見ているような感覚があり、歳月に隔てられているというこの「遠い」感じがなんともいえない懐かしいような、切ないような情感をもたらす。さくっと読める現代のミステリなどではなかなか味わえない醍醐味だ。

 今回再読して印象的だったのは、アルトゥーロが父親に対して抱いている絶対的な崇拝感情である。少年の世界観を決定するのはやはり父親なのだなあ。この小説が実に神話的なのは、やはりこの父親の存在が大きい。彼は美しくも残酷で、世間のルールを超越し、まさに神のように振舞う。そして小説のメイン・プロットであるアルトゥーロの、自分といくつも歳が変わらない継母ヌンツィアタへの思慕、嫉妬ゆえの残酷な振る舞い。ヌンツィアタはとても素朴で、まだ純情と言ってもいい少女なので、専制君主的な夫と無愛想なアルトゥーロだけしかいない屋敷での暮らしに適応しようと努力する姿がとても痛々しく、いじらしい。ただアルトゥーロとヌンツィアタが惹かれあうのはいいが、ヌンツの気持ちは最後までもっと曖昧なままにしておいても良かったかな、と思った。ちょっとメロドラマティックになっている。まあそれもこの小説の味なのだが。

 さて、濃密に浪漫的で神話的で激情的な『アルトゥーロの島』に対し、『モンテ・フェルモの丘の家』は実に現代的でスマート、そして軽やかでエレガントな小説である。

 全篇が書簡によって構成されている。一対一の書簡のやり取りではなく、多対多である。かつて「モンテ・フェルモの家」に集って幸福な日々を分かち合った友人たちと、その家族の構成員たちが登場人物。昔不倫の仲だったジュゼッペとルクレツィアが軸になっていて、話はジュゼッペがイタリアを去り、アメリカの兄のところで暮らそうと決意するところから始まる。書簡のやりとりはジュゼッペとルクレツィアの間、またルクレツィアの夫のピエロ、友人のエジストやセリーヌ、そしてジュゼッペの息子で一人暮らしをしているアルベリーコ、などの人々の間で交わされる。一定のプロットがあるわけではなく、彼らがお互いを求め合ったり批判しあったり、あちこちで恋をしたり別れたり、子供が生まれたり、事故にあったり病気になったりという様々な出来事がごちゃごちゃと語られる。これを解説で中山エツコ氏はポリフォニーと呼んでいるが、確かにあちこちで展開する複数のエピソード同士が響きあい、エコーを起こしながら、うつろいやすくデリケートな全体のムードを作り出していく様子は、ポリフォニックと呼ぶにふさわしいと思う。

 こう書くと、なんだかあまり面白い小説じゃなさそうだと思うかも知れないが、実はかなり面白い。色んなことが次々と起きるということもあるが、何よりも書簡形式を利用した語りの断片化、非連続化によって、物語の大胆かつ巧みなエディットが可能となっているからである。どういうことかというと、すべてはある時点で誰かが誰かに宛てて書いた手紙の羅列なわけだから、律儀に筋を追って行く必要がない。手紙と手紙の間は時間をすっ飛ばして構わない。ある事件について書かれた手紙の中で、事件そのものはもう知っている前提で周辺的なことばかり書いていい。「電話で話した通り」といって説明を省いていい。書き手が関心を持っていること以外は大雑把でいい。逆に関心あることはやたら緻密に書きこんでいい。などなど。大体において、エピソードの劇的な部分はあっさり説明して(あるいは省いて)、周辺的な、たとえば部屋の様子とか、ある人物の印象とか、服装とか、そういうプロットに直接関係ないけれどもポエティック、というディテールを丁寧に描写してある。そしてそういう部分がこの小説の雰囲気を作って行くのだが、この手法が実に自在で、軽やかで、この小説に素晴らしいエレガンスを与えている。須賀さんの訳もいつものように品があり、ソフトフォーカス映像のような美しい曖昧さを湛えていて、心地よい。

 また詩的で美しいばかりでなく、意外とユーモラスだ。ニヤニヤできる部分が多々あるだけでなく、思わず吹き出してしまったところさえある。複数の人物の視点で語られることで、すれ違いや意見の相違がユーモアを醸し出すのである。また、以前言っていたことと全然違うことを後の手紙で書いていたり、登場人物が唖然とする行動を取ったりもする。淡々としていながら、かなり懐が深い、一筋縄ではいかない小説だ。この作家の他の作品も読んでみたくなった。


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