アブソリュート・エゴ・レビュー

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スイミング・プール

2005-07-23 12:28:09 | 映画
『スイミング・プール』 フランソワ・オゾン監督   ☆☆☆

 DVDにて鑑賞。ネットの書き込みとか見てなんとなく予備知識があったので、虚心には見れなかったが、それでも最後であっけにとられた。意味が分からないラストである。観客をミステリーの渦に突き落としたまま映画は終わっていく。しかしそれだけでなく、美しい南仏の映像、サニエの美しい裸体、シャーロット・ランブリングの演技など、色々と魅せる要素をこの映画は持っている。決してどんでん返しメインの映画ではない。

 以下、ネタばれあり。
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 最初、自分の仕事に飽き飽きして欝になっている作家が登場し、編集者から南仏の別荘を勧められてそこに行くあたり、ゆったりした繊細な映像と雰囲気でなかなか引き込まれる。そして編集者の娘ジュリーが現れ、静謐さが破られて人間ドラマが始まる。初老のサラのジュリーへの嫉妬、その険のこもった視線、これが前面に出てくる。このまま二人の衝突がエスカレートして行くのかと思ったら、なんか急に仲良くなったり、サラがジュリーのノートを盗み見たり、逆にジュリーがサラの原稿を盗み見たり、ジュリーが連れてきたフランクがサラの方にひかれてジュリーが嫉妬したり、どうも散漫な展開になってくる。そのあげくに殺人が起きて急にミステリになる。そして最後、編集者の本物の娘ジュリアが現れ、わかわからなくなったところで一切の説明抜きに終わる。
 
 後半のプロットが散漫に感じられ、私としては観ていてテンションが下がっていった。ジュリーのノートとか、母親の話とか、ラストに向けての伏線でもあるのだろうが、なんか中途半端にちょっとずつ出してる感じで面白くない。
 そういう意味では、あのまま二人で殺人を隠蔽したまま終わってしまったら単なるB級ミステリだが、あのラストで物語すべてを謎の霧の中にぶちこんでしまったことで、映画としては救われたと言える。謎めいた神秘的な映画になった。意味が分からなくてもいいのである、なぜなら人生とは、人間とは謎である、というメタファーが常に残されているのだから。

 しかし、あえて謎解きにトライしてみる。まあそれもこの映画の楽しみの一つだろう。ただ一度しか観ていないし、そのために何度の観返すような面倒くさいことはしたくないので、思いつきレベルである。

 まずすぐに思いつくのは、あの女は母親、つまり編集者の妻の幽霊なのだ、という解釈である。妻は交通事故で死んでいる。ジュリーは腹に傷があり、最後にサラが傷のことを聞くと、事故だったと答える。これはそうとしか考えられないではないか。だから最後にサラに渡した原稿は自分のものなのである。
 しかし、なんで娘のふりして出てこなければいかんのか良く分からないし、腹の傷以外にそれらしき伏線が見当たらない。途中でジュリーが取り乱してサラを母親と間違えるシーンがあるが、あれの説明もつかない。大体何のために出てきたのか分からない。自分の夫である編集者にあらためて自分の書いた小説を読ませるためか? なんか変だ。

 次に、ジュリーはサラの小説中のキャラクターであり、映画の途中ジュリーの登場から退場まではサラの小説だという解釈がある。ネットを見るとどうやらこれが最もポピュラーな解釈らしい。そして最後にサラが見せるのがその小説なのである。
 その小説とはどういう小説か考えてみると、作家が別荘にいて、そこに若い娘が乱入してきて、乱交を繰り広げ、作家は嫉妬し、やがて理解しあい、娘は殺人を犯し、二人でそれを隠蔽してお別れする、というストーリーになる。サラはずっとあの別荘に一人でいて、こういう小説を書いていた、ということだ。
 まあ話が通じないことはない。父親やマルセルは現実と小説の中の両方に存在すると考えるのである。しかしそうすると、その小説の中で色んな謎がおきざりにされていることになる。あの腹の傷は一体何なのか、とか、マルセルの娘に母親のジュリーの母のことを聞いた時なぜおびえたのか、とかそういうことである。大体、最後のジュリーが母親のものだといってサラに渡した小説には何の意味があるのだ。

 それから、最後のシーンで、サラにジュリア(本物の娘)が手を振っているシーンがある。そこから思いつくのが、実は別荘にやってきたのは本当はジュリアの方だったという解釈である。わりと不細工な娘なのだが、それをサラが妄想の中で美しいジュリーに置き換えていた、ということである。そうすると、なぜ美しいジュリーがわりと不細工な男ばかり連れてくるのかとか、フランクがサラの方に惹かれて、若くてきれいなジュリーに冷たくしたのかとかいった疑問は説明がつく。そんな置き換えがなぜ起きたのかというと、若さに対するサラの嫉妬心の顕れ、と解釈する。
 しかしこれはやっぱり変だ。最後にジュリアが出版社に現れた時の二人はどう見ても初対面である。

 まあ色々考えると、やっぱりジュリーは小説内存在だと考えるのがわりとしっくりくると思う。しかし、それでもどうも説明しきれない部分はある。まあそういう部分はわざと説明を拒否しているか、単に破綻しているのかのどちらかなのだろう。監督だって全部説明できるとは限らない。

 てなことを考えていると、もう一回観ようかと思い始める。それが狙いかも知れない。

 いずれにしろ、この映画が妄想の映像化であることには違いないわけだが、プールサイドに目を閉じて横たわる女(ジュリーだったりサラだったり)、その横に立って見下ろす男、という映像の繰り返しがその妄想性を表現していて秀逸だった。それから鏡の中のサラの姿がなかなか印象的なポイントで使われていて、シンボリックな効果をもたらしていた。

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