
『パンタレオン大尉と女たち』 M.バルガス=リョサ ☆☆☆☆☆
リョサの旧作を再読。この本はどうも現在絶版のようだ。エンターテインメントとして読んでも十分に面白い傑作だと思うが、なんでだろう。
わりと初期の作品で、順番としては『緑の家』の次である。それまでのシリアスな作風を転換し、かなりコミカルになっている。はっきり言って笑える。訳者あとがきからの情報によれば、最初はやはり従来と同じシリアス路線だったが、書き直すたびにだんだんコミカルになっていったという。ただしリョサは基本的にリアリズムの作家であるので、たとえばマルケスのような途方もないラブレー的ユーモアとは違う。これはシチュエーション・コメディである。
話は簡単で、1950年頃、ペルー軍はアマゾン奥地の辺境で兵士たちによる性犯罪の多さに頭を抱えていた。罰則をいくら増やしてもダメ。こうなったら止むを得ないということで、マジメな軍人パンタレオン・パントハ大尉に従軍慰安婦部隊の組織を命じる。しかし軍の内部に反対も多く、ことは極秘裏に行われねばならず、パンタレオン大尉は民間人のふりをしなければならない。気が進まないパンタレオン大尉だったが、命令とあれば仕方がない。覚悟を決め、持ち前の緻密さと組織力を発揮してこの「婦人巡察奉仕機関」を立ち上げ、運用の効率化と目標達成に向かって全力を尽くす。ところがパンタレオン大尉の有能さは軍のお偉方ですら予想しなかった結果をもたらす。兵隊たちは「奉仕機関」に夢中になり、賞賛し、あらゆる部隊から更なるサービスを求める声が殺到し、しまいには将校たちや民間人たちからもサービス拡張の懇願が届く。一方で軍の僧侶は激怒し、ラジオ番組は反対キャンペーンを展開する。こうして極秘であったはずの「奉仕機関」はパンティーランドの名称で誰知らぬものない一大享楽組織に成長、非難と賛辞の喧々諤々を巻き起こしていくのであった…。
本書はその叙述法にまず特徴がある。これまでリョサが『緑の家』や『都会と犬ども』でも使っていた、異なる時間・空間・人物の会話を改行だけで混在させる手法、あれがさらに徹底した形で活用されている。冒頭いきなりこれである。読者はパンタレオン大尉が奥さんに起こされ、朝食を食べ、軍の幹部に呼び出され、新しい命令を受け、という流れを途切れのない奔流のような会話文の中で知らされる。時間と空間をぽんぽん飛ばしていく非常にスピーディーな叙述法で、小説ならではの表現手段だと思う。リョサはこれを完全に自家薬籠中のものにしていて、快感だ。
それからもう一つが報告書、書簡、新聞記事等の引用。パンタレオン大尉による状況説明、訪問を受けた部隊のリアクション、賛辞、非難などはすべてこれで表現される。ここで肝心なのが、「奉仕機関」の到着の模様、それを見て興奮する兵士たち、「婦人巡察官」つまり慰安婦の誰が人気が高かったとか、それをめぐって兵士が喧嘩したとか、そういう一部始終が生真面目な報告書文体で記述され、それによってさらにコミカルな効果を上げているということである。もちろん、「うちにも早く婦人巡察官をよこせ」という要求を、しかつめらしい依頼文書で送ってきたりするのも笑える。
本書は大体この二つの叙述法で構成されており、いわゆる普通の小説で使われる「語り」はほとんど出てこない。パンタレオン大尉の夢の場面でちょっと使われている程度だ。
それにしても、パンタレオン大尉のオーガナイザーとしての能力は大したもので、彼が奉仕機関を立ち上げ、改善してゆくやり方は、いわゆるエンタープライズ・アーキテクチャのお手本ともいえると思うが、どうだろうか。企業の管理職やプロジェクト・マネージャは参考になるんじゃないか。いやマジで。もちろんその手法を慰安婦組織に適用するというのがまたおかしいのだが、大尉は必要な人員数、回数、効率などをはじき出すために徹底したリサーチを行う。兵士たちにアンケート調査を行い、自分自身の性行為をストップウォッチで計ったりする。そこから必要な「婦人巡察官」の人数を計算し、交通手段や巡察の回数などを明確に定めていく。彼の効率化への情熱はもはや執念というべきもので、たとえば待ち時間の兵士にエロ小説を配布して、巡察官のサービス効率を上げたりするのである。
という具合に気楽に笑いながら読んでいると、後半、婦人巡察官の一人が殺されるという事件が起き、ドタバタ的ながらも悲壮な展開になる。パンタレオン大尉はマジメで冗談の通じない地味な男として描かれているが、小説を読んでいるうちに誰もが彼の人間性に魅了されてしまうだろう。死んだ慰安婦の葬儀に正規の軍服を着て出席し、毅然として敬意と感謝に溢れる悼辞を捧げる彼の姿は高潔で、とても感動的だ。奉仕機関やパンタレオン大尉を利用するだけ利用して、軍とのつながりはなかったことにしようとするお偉方や、金をせびりに来るジャーナリストなどろくでもない奴ばかりなので、特にそう思う。そういう意味で本書は『都会と犬たち』のように、大義名分ばかりご立派な軍隊組織への、痛烈な批判の書でもあるのだった。
ところで本書ではパンティーランドの話と平行して、チリの辺境で熱狂的な支持を集める宗教家のエピソードが語られる。これは最初から最後までたえまなく言及され、もう一つのプロットとして非常に重要な扱いをされているが、ストーリーの上でパンタレオン大尉とは直接絡んでこない。ただそのせいで小説世界が重層的になり、またパンタレオン大尉のエピソードと微妙に響きあうことによって、この作品に一種黙示録的な深みをもたらしていると思う。
リョサの旧作を再読。この本はどうも現在絶版のようだ。エンターテインメントとして読んでも十分に面白い傑作だと思うが、なんでだろう。
わりと初期の作品で、順番としては『緑の家』の次である。それまでのシリアスな作風を転換し、かなりコミカルになっている。はっきり言って笑える。訳者あとがきからの情報によれば、最初はやはり従来と同じシリアス路線だったが、書き直すたびにだんだんコミカルになっていったという。ただしリョサは基本的にリアリズムの作家であるので、たとえばマルケスのような途方もないラブレー的ユーモアとは違う。これはシチュエーション・コメディである。
話は簡単で、1950年頃、ペルー軍はアマゾン奥地の辺境で兵士たちによる性犯罪の多さに頭を抱えていた。罰則をいくら増やしてもダメ。こうなったら止むを得ないということで、マジメな軍人パンタレオン・パントハ大尉に従軍慰安婦部隊の組織を命じる。しかし軍の内部に反対も多く、ことは極秘裏に行われねばならず、パンタレオン大尉は民間人のふりをしなければならない。気が進まないパンタレオン大尉だったが、命令とあれば仕方がない。覚悟を決め、持ち前の緻密さと組織力を発揮してこの「婦人巡察奉仕機関」を立ち上げ、運用の効率化と目標達成に向かって全力を尽くす。ところがパンタレオン大尉の有能さは軍のお偉方ですら予想しなかった結果をもたらす。兵隊たちは「奉仕機関」に夢中になり、賞賛し、あらゆる部隊から更なるサービスを求める声が殺到し、しまいには将校たちや民間人たちからもサービス拡張の懇願が届く。一方で軍の僧侶は激怒し、ラジオ番組は反対キャンペーンを展開する。こうして極秘であったはずの「奉仕機関」はパンティーランドの名称で誰知らぬものない一大享楽組織に成長、非難と賛辞の喧々諤々を巻き起こしていくのであった…。
本書はその叙述法にまず特徴がある。これまでリョサが『緑の家』や『都会と犬ども』でも使っていた、異なる時間・空間・人物の会話を改行だけで混在させる手法、あれがさらに徹底した形で活用されている。冒頭いきなりこれである。読者はパンタレオン大尉が奥さんに起こされ、朝食を食べ、軍の幹部に呼び出され、新しい命令を受け、という流れを途切れのない奔流のような会話文の中で知らされる。時間と空間をぽんぽん飛ばしていく非常にスピーディーな叙述法で、小説ならではの表現手段だと思う。リョサはこれを完全に自家薬籠中のものにしていて、快感だ。
それからもう一つが報告書、書簡、新聞記事等の引用。パンタレオン大尉による状況説明、訪問を受けた部隊のリアクション、賛辞、非難などはすべてこれで表現される。ここで肝心なのが、「奉仕機関」の到着の模様、それを見て興奮する兵士たち、「婦人巡察官」つまり慰安婦の誰が人気が高かったとか、それをめぐって兵士が喧嘩したとか、そういう一部始終が生真面目な報告書文体で記述され、それによってさらにコミカルな効果を上げているということである。もちろん、「うちにも早く婦人巡察官をよこせ」という要求を、しかつめらしい依頼文書で送ってきたりするのも笑える。
本書は大体この二つの叙述法で構成されており、いわゆる普通の小説で使われる「語り」はほとんど出てこない。パンタレオン大尉の夢の場面でちょっと使われている程度だ。
それにしても、パンタレオン大尉のオーガナイザーとしての能力は大したもので、彼が奉仕機関を立ち上げ、改善してゆくやり方は、いわゆるエンタープライズ・アーキテクチャのお手本ともいえると思うが、どうだろうか。企業の管理職やプロジェクト・マネージャは参考になるんじゃないか。いやマジで。もちろんその手法を慰安婦組織に適用するというのがまたおかしいのだが、大尉は必要な人員数、回数、効率などをはじき出すために徹底したリサーチを行う。兵士たちにアンケート調査を行い、自分自身の性行為をストップウォッチで計ったりする。そこから必要な「婦人巡察官」の人数を計算し、交通手段や巡察の回数などを明確に定めていく。彼の効率化への情熱はもはや執念というべきもので、たとえば待ち時間の兵士にエロ小説を配布して、巡察官のサービス効率を上げたりするのである。
という具合に気楽に笑いながら読んでいると、後半、婦人巡察官の一人が殺されるという事件が起き、ドタバタ的ながらも悲壮な展開になる。パンタレオン大尉はマジメで冗談の通じない地味な男として描かれているが、小説を読んでいるうちに誰もが彼の人間性に魅了されてしまうだろう。死んだ慰安婦の葬儀に正規の軍服を着て出席し、毅然として敬意と感謝に溢れる悼辞を捧げる彼の姿は高潔で、とても感動的だ。奉仕機関やパンタレオン大尉を利用するだけ利用して、軍とのつながりはなかったことにしようとするお偉方や、金をせびりに来るジャーナリストなどろくでもない奴ばかりなので、特にそう思う。そういう意味で本書は『都会と犬たち』のように、大義名分ばかりご立派な軍隊組織への、痛烈な批判の書でもあるのだった。
ところで本書ではパンティーランドの話と平行して、チリの辺境で熱狂的な支持を集める宗教家のエピソードが語られる。これは最初から最後までたえまなく言及され、もう一つのプロットとして非常に重要な扱いをされているが、ストーリーの上でパンタレオン大尉とは直接絡んでこない。ただそのせいで小説世界が重層的になり、またパンタレオン大尉のエピソードと微妙に響きあうことによって、この作品に一種黙示録的な深みをもたらしていると思う。
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